両手をあげたら

夢を見ていた

第1話


人形は、本来動かない。喋りもしない、物も食べない、つまり、動かない。ただ優しい色をした作り物の目で、静かにこちらを見つめるだけである。

しかしこの時代、こう説明するとかなりの確率で嘲笑われ、大馬鹿者扱いされる。現に今もそうだ。嘲笑われるまではいかなくとも、優越の視線を向けてくる。それは何故か。

「最近の『人形』というのは凄い。いいか、まずこの可愛らしい布の集まりに人が乗り込むことが出来る。……いや、車みたいに乗るわけではなく。心はそのまま、体違う――という感じになる。記憶はそのままの状態で。……何故そうする必要があるか?あんた、かなり遅れてるよ」

ため息を吐く男に、問うた少年はあからさまに不機嫌になる。立ち去ろうとした少年を男は慌てて止めに入る。

「あんた、『人形』について他人に訊いても教えてもらえなかったんだろう?私が責任を持って教えるから、ちょっと待ってくれ」

仕方なく少年は続きを聞いた。興味が無いわけではない。

「何故『人形』に人が入るのか。それは子供の相手を任せる為だ。どんなに背伸びをしようと子供は子供。いや、あんたじゃなくて。……忙しい親の代わりになる。ただし仏頂面の親爺に子供がなつくか?香水臭い姉ちゃんと一緒にいたいか?俺はごめんだね!――そこでこいつが出番だ」

鞄から出て来た紙を受け取り、読み進める。内容は男が言うこととほぼ同じだ。気難しい子供の為に、変わりませんか?といったこと。

「生活では少々不便だが、子供の子守りだけで金が稼げる。つまりだ、本を読んでやるだけで、抱き締められるだけで金が貰える。どうだ?今の時代仕事が無い。選ぶなら楽な方がいいだろ?」

「やる」

声変わりしてもまだ高い声を、低くさせながら頷く。すると男は、笑顔の裏に疲れを隠して握手した。そして、早速今日から頑張ってくれ、と手を引かれ嫌々ついて行ったのだった。



 ×


痩せ細い建物の中に入り、清潔な部屋で契約書を書く。空白に文字を入れ、適当に仕上げて渡した。

「早いな」

「それでいくら貰えるんだ?」

「うん、働きに応じて額は変わるんだ。勿論上がるだけじゃないからな」

子供を泣かしたり、親に失礼を働くと契約破棄となり、金は出ない。今のあんたの位置は、0だ。額が高くなるのに比例して数字が大きくなる。0より下もあるからな」

ただし、と付け足された言葉に少年は驚く。

「マイナスは三十までだ。それを越えると強制的に辞めてもらう」

「当然……か?」

「当たり前だろ、面倒を起こされたら誰だって、迷惑に決まってるだろうが」

「確かにそうだ」

しばらくしてやって来た、とある女性に少年は呼ばれた。髪が長く、歩く度にさらさらと揺れた。それを眺めながら、周りの白い壁を視界の端に入れた。殺風景にも程がある、と内心思った。



「着いたわよ」

急に振り返ったので肘が見事にこめかみに入った。背の高い人が何故、底上げされた靴を履くのか理解出来なかった。

「大丈夫?ごめんなさいね」

さあこちらよ、と大して詫びる様子もなく話を進める。純粋に嫌な奴だな、と少年は眉間に皺を寄せる。

進んで行くとたくさんの線や機械が並んでおり、何かの店でもやるのかと考えた。真ん中には椅子が一つ寂しく置いてあった。

「ね、どっちがいい?私的こっちが可愛いと思う」

女性は両手に人形を掴み、目前で揺らした。犬型と魚型。女性は魚を見つめている。

「これ、俺の仮の体になるんだろう?」

「そうよ」

「……じゃあ手がある方にしてくれ」

了解、と女性は少年に渡した。そして椅子に座るよう――人形は椅子の下にある籠に入れるよう指示した。

「ちなみに痛みは人形の姿でも感じるから。大事にしなさいよ、その体」

そう言って何かを押す仕草をした。すると急に辺りの照明が落ちて、機械音が鳴り響く。それに意識を取られていたので、近付く影に気づけなかった。

そして次の瞬間、女性は真正面から腹を刺した。


「え?」

「――はい成功。動けるかしら」

その言葉に従い、動かしてみると二本の指がぱたんと倒れた。広げたり微妙に曲げたりして、自身の姿を見る。

「ああ……」

あの犬人形が体となっていた。顔も布。触った感触もしっかり伝わっている。

「気軽に針で縫うと、普通に痛いからね。あとその体だと代えがきくけど、貴方の心は無理だから。何があってもここに辿り着くこと。本体が待ってるここによ」

「何をしたんだ」

「気絶してもらっただけ。その反動で体を変える仕組み。ちなみに使ったのは指し棒です」

細長い棒を目にして、こんな物でも気絶させることが出来るとは、と感心に似たものを覚える。

「上手く機能していない所とか、ない? 大丈夫?」

「ああ、特にない」

「じゃあお仕事頑張ってね、体はこちらが、責任を持って管理しておくから」

やって来た先ほどの男に抱かれ、複雑な気分のままこの場を後にした。



 ×


「しかし、大きな家だ」

昨日付けられた飾りが音を立てる。黒い小さな足を動かして、窓を覗く。そんな簡単な行動が人形にとって、かなりの重労働となることを少年は学習した。

ここに仕事に来てから三日が経った。仕事内容は、学校以外の時間での遊び相手。人見知りのする子だそうだ。期間は一ヶ月。様子を見て期間を延ばすつもりらしい。

「何か面白いもの、あったか?」

ちなみに同じ境遇の仲間がいる。名前はレジと言うらしいが本名かは謎である。少年が何となく偽名を使ったのは、見ず知らずの誰かに、簡単に名乗りたくなかったからだ。少年は自分の名前に誇りを持っていた。

「つまらん!」

「レジ、声が大きい。静かにしろ」

「――なあマルチ、お前は今どこの位置にいる?」

「0だ。何回目だ」

「はは、俺は2だぜ。しかしあんまり上がらないなあ。俺可愛くない?」

彼はこの仕事を一年は続けていると言う。ただし、小遣い稼ぎの為。本業は別にあるらしい。

「その姿はいいと思うけれど」

「けど何だよ。中身が可愛くないか、分かってるよ!」

自分の問いを自分で答える彼。少年は答えがあるなら訊くな、と思った。

「お、ロンア嬢が帰って来た」

扉が開き、そばかすを鼻に散らす少女が入ってきた。よく見ると、目の辺りが赤くなっていた。

「どうしたんだ!」

レジが驚いて問うと、堪えていたのか泣き始めた。声を上げず、すすり泣く少女は説明する。

「またパパが、帰って来ないの。今日は私の誕生日なのに、貴方たちがいるから大丈夫って……言うの」

黙り込む人形に怒りをぶつける。八つ当たりもいい所だ、と少年は冷めた視線を向ける。

「大丈夫じゃないわよ!人形よ、パパじゃないわ。皆一緒にご飯食べて、ケーキ食べて、お休みって言ってもらうのよ。なのに、パパはちっとも悪いと思ってない、笑ってたもの!」

「……嬢ちゃん」

すすり泣きは、少年が一番嫌な泣き方だった。中途半端に煩いからだ。やるなら静かに涙してほしい。少年は耐えきれなくなり、気づいた時には叫んでいた。

「お前はちゃんと、自分のやってほしいことを伝えたのか?本当に煩い。母親がいるだろう。誕生日なんてこれから何十もある。今日命が消えても、誕生日だけが全てか?違う、父親と一緒にいる毎日が記念日だ」「……お前面白いな」

その評価と真逆な少女は、さらに大声で泣き出し、部屋を出ていった。

しばらくして、担当者だというあの男が迎えに来た。

「……マイナス1だ」

下がるのは簡単なんだな、と思わず呟いた。



 ×


「ね、名前は何がいい?」

「……マルチ」

「え、格好悪いよ!ミディアンにしよう。ミディと呼ぶから」

「答えが出てるなら訊くな!その時間が勿体無い、別にこちらは何でもいい!」



 ×

「人形ごっこよ!貴方うれしいでしょ、王子様!今日の王子様ね。お姫様は……」

「私を使って下さいな」

「じゃあシャルにする。ほら王子様、告白して!」

「あら、照れてるのマルチ君」

「こらシャル。喋らないの。女の子は男の人の告白を待つのものよ!」

「……何も言わないわよ、キュリちゃん」

「――ママ!このお人形壊れちゃった!」



 ×


「――それで。仕事辞めたいのあんた?」

「いや、違うんだ」

「確かにあんたの契約書は、無期限になってるから変更出来ないって言ったが……辞める方法は位置下げしかないけど」

担当者は重い息を吐く。

「これはないよ。どうしたらこんな数字――マイナス29になんかなるんだ?しかもこんな短期間で……。ある意味輝かしい記録だ。反省しろ」

そう、彼は期間の欄で無期限契約を選んでしまったのだ。飛ばして読んだせいである。その点は反省するが、それ以外ならあちら側が完全に悪いと鼻であしらった。

「悪い悪くないじゃ済まないぞ、もう。次やればあんたはお仕舞いだ」

「それでも正しい行いをしたはずだ」

「正しいとかでもないんだって。あんた今ねマイナス29よ!金貰う所か払わないといけないよ!」

すがるような声を聞いて、少年は思わず閉口する。確かに無期限契約について知り、自暴自棄になっていた面はあったが、担当者には関係ない話ではないのか。何故、そんなにも必死なのか理解出来なかった。

「あんたはね、俺の初めて引き入れた子なのよ。ほら一番目は何でも可愛いものでしょ?いや、そうなんだって。だからどんなことあっても頑張って続けてほしい」

今一つ頷きかねるが、そういうことだと割り切った。

「――それで、問題児は問題児同士仲がいいはずだから。ちょっと面倒かもしれないけど、頑張ってね。最後の機会、大事にしてよ」

何かあったら連絡していいから。と小型の電話を腕に巻き付けられる。当分どころか一生涯この姿だったら、と思うと恐かった。

「あと、無期限って定年までってことだから。定年は二十五。言ってた?」

初耳だ。少年は思い切り睨みつけてやった。



 ×


「初めまして、マルチだ」

精一杯楽しそうに自己紹介してみたが、相手はあまり笑わなかった。ただ一言、

「よろしく」

とだけ呟いた。子供のくせに気難しい奴、と心中思った。

「これから絵描くから。邪魔しないで」

そう口にするなり少女は紙に向かった。手には鉛筆が握られていた。彫刻でもするかのように力強く描き始める少女に、画家の才能は皆無だな、と笑う。  

人形の体は口が動く。物も食べられるが、栄養を取らなくとも生きられる。どういう仕組みかは全く分からないが、凄いことだけは理解していた。

少女の背を観察するのも飽きたので、籠の寝床から周りを見渡した。人形や桃色の壁など、まさしく女の子の部屋。奥にある広い空間には、ピアノや植物が置かれている。

「あ、私リティカだから」

「――リティでいいか?」

「うん。貴方は?」

「いや、だから……マルチだ」

「違うでしょ、だって自分の名前答えるのにそんなに時間かからないもの」

「……賢いな。俺はキャルウィ・シルクロード」

「格好いいね。キャルって呼ぶから」

そしてまた作業に戻る。キャルは籠から降りて、机の下を覗く。そして飛び降り、着地を誤った。その音に不機嫌そうに振り返ったリティは、助けてあげてと指差した。

「面倒事を増やさないで下さい。眠いんです」

棚から颯爽と降りてきた人形は、口元を歪ませながら言った。何だ、静かにしていたから同業者はいないものだと思った。そうキャルが言うと、ねずみ人形はあからさまに嫌そうな顔をした。

「何だ?」

「早く立って下さい。リティカお嬢様の邪魔をしてはいけない。どうしたかったんです」

「いや、ピアノを見たくて」

 すると大きく息を吸って、怒鳴り始めた。

「間違ってでも音を鳴らしたら、どうするんですか!お邪魔になります、貴方はそういう所まで考えて行動してもらいたい。あれでしょう、噂のマイナスさんでしょう。短期間で底辺まで落ちたあの――」

「貴方、うるさい」

 そう言い捨てて出て行ったリティを、ねずみは呆然として見つめた。そして、力なく倒れ込む。悲しんでいる風に見える。

「あんたのせいだ……今の僕はマイナス十五。……どうしよう、強制退職なんて嫌だ……!」

「契約破棄に行ったのか、リティカは」

「馴れ馴れしいやつめ。僕なんかここに来て半月は経っているのに……、叩かれる回数も一番少なくて――」

「叩く?……俺が知っている奴は皆、半月以上経っていたぞ」

「……あんた、ここがどこか知らないな?そうだろう、ここは――」

 扉が勢いよく開いた。近くにいた二つの人形は宙を舞った。

「少し待ってなさい。もうすぐ迎えに来てくれるから」

 そう言い放ち、少女は椅子に座った。震えだした人形を横目で一瞥し、キャルは自身の小さな部屋へ戻った。囁かれた言葉に、疑問を覚えたからだ。寝転がって考える事をするのは、彼の習慣でもあった。

(地獄ねえ……。この子供が鬼には見えないけどな)

「キャル。この子の言うことは、全部嘘だから」

 そう言った体が震えているのを、彼は静かに見据える。何かをこらえている風に思うのは、何故だろう。


「ご迷惑をおかけしました」

 そう深く謝罪して、彼を連れて帰った。その姿をリティは、憎らしげに睨みつけていた。彼は眠っていたので、それにも気づかなかった。



 ×


「つまらなそうな顔」

「……何?」

「もっと楽しそうにすればいい。王子役じゃないなら、劇に付き合ってやってもいい」

「それこそ、面白くないじゃない」

 植物に水をやるリティは、キャルを一瞥する。体に見合った寝床で彼は、白い天井を見つめていた。いつ自分の顔を見たのか、と問われ、鼻で笑った。

「いつもだ。あんまり笑わない。子供はもっと喜び、遊べ」

「……貴方だって子供でしょう」

「俺は既に成人している。現在十五だ」

ゆっくりと起き上がり、リティと目を合わせる。

「今はこの時しかないぞ。後悔するなよ」

「……遊ぶ子、いないもの」

「じゃあ、親とか俺とか、いるだろう」

 親、その言葉が地雷だったようで、彼女は目くじらを立てて怒鳴った。

「お母さんも、お父さんも忙しいのよ、遊んでくれるはずないわ!貴方は「貴方と一緒に遊びなさい。お父さんたちは貴方の為に頑張るから――。代わりがいるからって、毎日会わないのはどうして?研究室に籠って、会話もないのは一体どうして!――私は笑うのが苦手で笑わないから、皆にからかわれるの。それなのに友達と仲良くしろなんて……!あんなやつ、友達でも何でもないわ!お母さん、私が苦手なの知ってるのに――!」

「よくある話だな。お前はちゃんと自分の思いを告げたのか」

すると辺りが薄暗くなった。ふと見上げるとリティの手がすっと伸びてきた。逃げようとしたが、既に遅く捕えられる。そして片手を頭に持ってきて、思い切り握り締めた。割れるような激しい痛みに、彼は思わず声を上げる。

「何よ……皆と同じ風に言って。貴方なら伝えられるの?お仕事よりも私とお話しようって、言える?今の時代、お金が必要なの!私がご飯食べる為にも、勉強する為にも……」

力が抜けた一瞬を彼は逃さなかった。すぐさま手をはね除け体を起き上がらせ、リティの顔目掛けて渾身の頭突きを見舞いする。短い悲鳴とともに小さな体は床に倒れる。それでも取っ組み合いを続ける二人は、息切れするまで戦った。彼は言った。

「臆病者。本心を口に出来ない弱虫め。俺は後悔しないよう正直にいるぞ。何なら依頼主に今のを伝えにいってやる」

「……え?」

「自ら言葉に出来ない気遣い女が。子供は今の内に目一杯ごねておいて、怒られて、色々感じろ。俺は結果を恐れて行動するやつは嫌いなんだよ」

彼は乱暴に扉を閉めた。気になったリティは後をついて行き、困惑する両親の声を聞いた。何となく居たたまれなくなるが、キャルの必死な言葉に胸が温かくなるのを感じた。彼は、いつか自立する少女にとって、今の時間がどれ程大切なのかを説いた。自分がそうだが、今になっても親との会話は忘れられない。そう口にした。

リティは言葉こそ荒々しいが、彼はやはり素敵な心を持っているのだと思った。扉から聞こえる声に、さらに神経を使って耳を澄ませる。

「別に他愛ないことでいいんだ。――ただ、毎日話した。これだけのことで随分違ってくる。それが楽しいと思うかは彼女次第だが――」

しばらくして、父親の怒鳴り声が聞こえた。偉そうに。お前に言われる筋合いはない、と。リティは咄嗟に扉を勢いよく開け、彼の前で庇うように両手を上げた。

「私が悪かったの!」

飛び込んで来るなり、大声で叫んだ娘に父親は驚くが、落ち着いたのか思い息を吐いた。

「久しぶりにお前が怒った所を見たよ、リティカ。――悔しいが正論だ」

苦笑する父親に、リティは飛び付いた。そして泣きも笑いもせず、ただ抱きついていた。

「……初めて俺は、問題を打開したのかもな」

まあ、俺にとっての問題は目白押しだが。一人呟くキャルは疲労で倒れながらも部屋へと戻り、担当者の到着を待った。



「おかしいな」

しかし何時まで経っても来ない担当者に、少年は苛立ちを覚える。それとも迎えさえなくこのまま捨てられるのか、と不安に思った。さすがにこの姿では、この先生きていけない。親にも会えない。少年は頭を抱えた。

「――その時はいっそのこと死ぬか」

来世では人形なんて物に、決して触れない人生を歩んでもらいたい。そんな風に考えていると、彼はまたもや意識を手放していた。


「ごめんね、キャル。本当に感謝してるよ」



 ×


目を覚ますとリティの顔があった。笑ってはいないが、少し嬉しそうにしている。

「おはよう。夢見た?」

「……いや、覚えてないな。」

「私はお花畑にいる夢だったよ。きっとそうだわ。……起きたら幸せだったもの」

返事を待たずにリティは彼を抱き上げ、机の上に乗せた。そして申し訳なさそうにこちらを見上げる。

「昨日の傷、ほらここ。破っちゃった……ごめんね」

「――本当だ」

 道理で、じわじわとした痛みを感じるわけだ。

「縫ってあげるから。じっとしてね」

針が日光を受けて、輝く。彼は慌てて拒んだ。声も少し上ずっている。

「そんなに嫌がらなくても……」

「違う、俺には感覚がある!つまり痛いのが伝わるんだ。……糊とかないか」

落ち込んでいたリティは、そんなので大丈夫?と訝しむが本人の強い希望により、筆箱から糊を取り出す。

「――そういえば学校は?」

「知らないの?今はお休み。感謝祭があるから」

「感謝祭?」

「何で知らないの?」

呆れた物言いに、キャルが住んでいる所から随分離れていることを説明する。

よって祭りの存在は知らない。そう言うと途端にリティは興味を失ったようで、椅子から立ち上がり菓子を探し出した。

「つまらないお祭り」

それだけ告げて、そこから一日中黙ったままだった。彼はそれ以上の情報を得ることは出来なかった。



 ×


今日になって訊きそびれた質問を口にし、彼はひどく驚愕することとなる。

「俺はいつになったら帰れるんだ?」

「……え、帰っちゃうの?どうして!」

「どうしてって、俺は……」

驚くキャルを余所に、リティは不思議な位焦り始め、何度も首を振り、引き留めた。

「いやよ、行かないで!まだ来たばかりじゃない――、そうよまだ期間が終わってないもの、貴方が勝手に止められるわけないわ!人形屋さんに電話してでも――。……いやだ。キャル、私いやよ。ちゃんと伝えてるでしょう?だから帰らないでよ……お願い、私謝るから」

「どうしたんだ、落ち着け」

リティの手に自身の手を重ねる。潤んだ瞳を向けられ、彼は何も言えなくなる。

「まだ、ここに居て?気が済んだら行っていいから」

彼の布の手を取って、額まで上げ、すがるように握り締めた。掠れた声にキャルはさらに動揺する。思わず逃げたくなったが、とにかく話を逸らしてリティを励ますことにした。

「リティ、遊ぼう。トランプは持ってるか?もし勝てたら良いことを教えてやる」

「本当?居なくならない?」

「勝てたらな、それにも答えてやる」

「――じゃあ待ってて」

机の中をごそつくリティに、彼は安堵の息を漏らす。変化が急過ぎる。だから女は苦手なのだと心中叫んだ。

「絶対勝つから」

すっかり意気込む姿に、苦笑してみせた。

そして意外なことに、リティはトランプが強かったのだ。



 ×


泣かせないこと以外、何も考えていなかったキャルは苦し紛れに明日まで待つように頼んだ。当然約束が違うと機嫌を損ねたが、

「俺はここに居るから」

という一言で彼女は大人しくなった。何十回と嘘ではないのかと詰問口調の確認が入ったが。

翌日、キャルは考えに考え抜いたことを教える。

人は秘密という言葉に神秘的感情さえ感じてしまう。要は二人だけ、を強く示せば満足するだろう。それがキャルの結論だった。


「いいか、リティ。これは二人だけの合図だ」

彼の結論は正しかった。リティは爛々と期待の光を宿す。彼は両手を上げ、リティに視線を移す。

「お前が常に仏頂面――面白くなさそうなのはきっと、子供に似合わないことを難しく考えているからだ」

「貴方と近い年じゃない」

「そこ。だからこそ、この合図。俺かお前が両手をあげる。そうすれば、抱き締めてあげる。抱き締めている時は何も考えてはいけない。友達が毎週からかいに訪れても、両親とあまり会えなくとも、それらによってどんなに心が不安定でも、だ。ただ、お互いの――と言ってもこちらは人形だが――温かみを感じ続けろ」

この提案の意図が掴めないのだろう、リティは呆然としている。それを見て、キャルは一番口にしたくなかったことを言った。

「つまり――これが甘えだ」

「何も考えないことが?」

「それは安心する為だ」

まだ納得しかねているリティに言葉を付け足す。

「俺は布の塊だが、持てる力全てで応えてやる。だからリティも全力で来い。それが人形の存在意義だろう」

そして両手をあげたキャルにリティはしゃがみ込んで抱き締める。最初は優しく、段々力強く。それに応えようと彼は一生懸命に力を入れる。

「他人なんてもっての他。お前のことでも考えるなよ」

リティは黙っていた。徐々にか細く震え始めた体。

「ただの人形に抱きつくなんて、むなしいだけだわ」

「心の拠り所にはなるだろう、虚しくても」

「――貴方も、何も考えないでいて」

二人は無言のまま抱き合った。その後すぐに離れた腕に、キャルは今度こそ退職かと不安になったが、これもまた違った。

「……人形は泣かないものね、ずるい」

「泣いてたのか?嬉しくて?」

「何で訊くの?」

笑ったリティの顔は子供であっても魅力的だった。


「うれしい」



 ×


「服、作ったの」

「そのフリルを着るのは……強制か?」

「別にいいけど」

リティは気に入ったのだろう、二人の合図を暇あれば使用し、暇あればキャルに話かけて来た。

「じゃあ服はいいや、ピアノ弾こう」

「昨日は嫌だと言っただろう」

「今日はいいの。昨日は昨日」

そして両手をあげ、彼を抱き締めて気が済んでから移動する。

ここには同業者がやたらと居る。何故かは知らないが、ここではポイントが早く何より高く上がるらしい。が、リティは人形の群れを目障りそうに蹴散らし、叩き、電話をかけてさよならした。

「あんたどうしたら気に入られるんだよ、現在の位置、マイナス5だぞ。快挙過ぎる」

という担当者からの連絡も、彼は首を傾げるだけだった。こちらの方が知りたい。問いただしても、彼女は意地悪に微笑むだけだ。



「習い事ね、皆からしたら少ないと思うよ。お母さん、私が苦手なものしか習わせないから」

それは自慢なのか。彼が問うと、リティは笑った。すっかりよく笑う子になった。

「違うわ。アピールよ」

「……同じものだろう?」

「誰でもやるわけじゃないの」

自分はピアノの前に座り、キャルは楽譜置きに座らされる。

「楽譜はいいのか?」

「記憶力がいいのよ、私」

そして弾き始める。指が鍵盤を叩き、音が幾重にも重なり、響き合う。途中音を外したが、それを入れてもかなり上手に演奏していた。

布が掠れた拍手を送ると、リティは照れたようにはにかんだ。

「行かないでね、まだ」

唐突にいつもの台詞を発音する。彼女は日に何度も問うて来るのだ。慣れきった言葉に彼もまた馴染みの台詞を返した。

「ここに居る」

何をそんなに心配するのか。彼は両手をあげてやった。リティは喜んでその小さな体に抱きついた。彼女の髪が首に流れ、こそばゆそうに体を揺らした。



 ×


「何だか旨い菓子が食べたい」

「じゃあ、取って来る」

「そうじゃなくて」

 カードを場に出しながら、キャルは首を振る。じゃあ何、と不機嫌に訊いて来る彼女を見据え、言葉を紡ぐ。

「外へ行こう、何でもいいから、食べに」

「……家でも出来るじゃない」

「何を逃げている?」

 核心を突く声に、リティは些か興奮気味に叫ぶ。

「別に何もないわよ、ただ、感謝祭が近いから町は混んでいるし、人込みにのまれて迷子になるかもしれないし――」

「感謝祭か。行ってみたい」

 慌て出した彼女は、必死に止めようと説得する。が、彼には既にお見通しのようで、彼女が嫌がる理由を知っていた。

「俺は依頼主に頼まれた。お前が逃げる理由、友達から逃げる為なのも、既に耳にしている」

「……また笑われるわ」

「笑い返せばいい」

「……あ、貴方はそれを見て笑う?」

「相手を睨み返してやろう」

 ここで逃げてはお前の為にならないぞ。その投げやりな口調に、優しさを感じるのは決してリティだけではないだろう。

彼女は短時間で決意し、そうとなれば色々用意をしよう、と彼を誘った。断る理由は勿論無い。彼は電話し、移動手段を呼んだ。



 ×


 家の外で待っていると、急に担当者が現われた。

「お久しぶり!いや、あんたのお陰で助かってるよ。金も入ってるし。今の位置は知ってるかい?現在なんとプラスの四十だ。素晴らしい」

 どうでもいいから、と催促する彼を面白そうに見つめ、何処からか赤いリボンを取り出した。それを彼の首に巻きつける。

「これで準備万端。リティカお嬢さんはしっかり離さないで」

「それについては心配ありません。練習してますから」

 そう言い終えた瞬間、彼は何かに引っ張られるような心地になり、恐ろしい力で首を絞められた。呻き声を漏らすが、誰も相手にしない。

何故ならしがみ付くだけで精一杯だからだ。何時間もかけて選んだ彼女の服が強い風によって浮き上がる。彼は彼女の腕を思い切り握り締め、離れないようにきつくしがみ付いた。

しばらくして押し返されるように体が斜めを向き、そのまま倒れ込んでいた。担当者は愉快そうに顔を綻ばせる。

「何だこれは!」

 怒鳴る彼を落ち着くようにと肩に手を置く。

「カルちゃん――あの大きな女性が作ったもので、最新式。瞬間移動が可能になったものだよ。赤いリボンって所が可愛いよね。行き先を書いたらもう準備万端。これが帰りのリボンね」

 今度は青色だった。それを乱暴に受け取ると、担当者は帰ろうと首にリボンを巻き始めた。

「待て、金を貸してほしい」

「……給料から引いとくよ、それでいい?」

「勿論だ」

 そう言って金が渡される。それを見つめながらリティは面白くなさそうに、

「お金なら貸してあげるのに」

 と呟いた。あんな男の人から貰うことないのに。そう唇を尖らす彼女に、外へ行こうと促した。

「いいねえ、デートかい」

 そう一人ごちて担当者は帰っていった。



 昼食を済ませた二人は、適当に町を歩いた。どこも忙しそうに人が動き回り、幾度も通行人にぶつかりそうになる。実際そうなった所もあったが。

「気をつけないとね」

 そう漏らすと彼女は腕に力を込めた。先程の男が担当者だということを聞いてから、彼女の目つきは鋭いままだ。

 用意と言っても、主には彼女の服装である。誰が見るかは分からないから、と彼女は店内の鏡の前に突っ立ったまま。服を両手に自分に最も似合うものを探す。その様子をキャルは、女とは大変だな、と観察していた。

「キャル、ちょっと着替えてみる」

店員に勧められ、試着室へと連れて行かれる。それに片手を振ってみせ、移動する。服以外に置いてある装飾品を見定め、その中の一つを選ぶ。そしてそれを近くに居た店員に渡し、金を払う。

「貴方どこに居たの!」

 急いで着替えたリティは酷い形相でこちらへ駆け寄る。あまりの大声に周りの人々は何事か、と視線を移す。ただ事ではない彼女の反応に、キャルはたじろいだ。

「帰ろうとしたの?離れようとしたの!まだ居てって言ったじゃない……!さっきの人と行こうとしたの?私、許さないわよ……ここに居て、私のそばにいて」

 崩れ落ちたリティを、初めて愛しいと思った。彼は鞄から何かを取り出し、手渡した。目が赤くなった彼女は顔を上げ、それを受け取る。

「開けて」

 促され、焦って開けた。そこには、小さな箱があった。箱を開くと目一杯に咲いた髪飾りが入っていた。その色は淡い赤で、彼女が今着ている服と同じ色だった。彼は声を上げて笑った。

「側にいよう。あと、その服が一番似合う」

 嗚咽が漏れる。再び顔を伏せ、涙する彼女に言った。

「泣き虫は、守ってやらないと」

 滑り出た単語に、自身で呆れる。守る。その単語を口に出した人々は、重苦しい責任を背負ったというのに。自分は覚悟することもなく、誓ってしまった。しかしそれに一切の後悔はない。思ったことを伝えただけだ。

 周りは拍手し始め、それはすぐに伝わっていき、渦となった。別に劇を演じ切ったわけではない。彼は苛立つが、リティは涙を落としながら、それを髪に留める。

「ありがとう。――すみません、これでお願いします」

 その服装のまま飛び出した彼女は、人のいない所で合図して抱き合った。その瞳は同じように赤くなっていた。キャルは知らずの内に褒めていた。

「リティには、赤がよく映える」

 感謝の言葉、一声。涙、一滴。



 ×


 始まった感謝祭に、二人は早くから行くことになった。それはリティの一言で決まったわけだが、確かにその方が賢かった。何故かと言うと、祭りとは徐々に人が増えていくものだからだ。昼には空いていた場所が、日暮れになると人で埋め尽くされていた。

「これは凄い」

 感心するキャルを抱える、赤に身を包む少女は頷いた。彼の褒め言葉に嘘はなく、彼女はよく似合った。それによって多くの男に声をかけられたのは、迷惑以外の何物でもなかったが。

「感謝祭とは、何に感謝するんだ?」

「人に、神に、地に。世界に」

「大規模だな」

「――あと」

 後ろに押されてバランスを崩したリティの代わりに、キャルが思い切り睨んだ。男の連中だった。それもリティと同い年位の。

「変な格好」

 吐き捨てた言葉に、リティは反応する。

「行こう、リティ」

 今は何より祭りを楽しむべきだ、と彼は場所を移そうとするが、リティは首を振った。

「逃げないよ」

 囁いた彼女は立ち上がり、精一杯の強がりをみせた。下品な笑みを浮かべる連中に、彼女は飛び切りの笑顔を返した。貴方がいるから、彼女は彼だけに聞こえるよう呟く。

「私ね、笑顔を覚えたの。後ね、貴方たちが心底下品なのも、理解したのよ」

 精一杯の挑発に、簡単に乗った男たちは大きく腕を振り上げた。

「悪い奴はね、抱き締めてもらえないんだから!」

 それだけを叫ぶと強がりの威力は消え失せ、瞳を閉じた。キャルは大急ぎで頭突くが、勢いが足りなかった。力を込めた拳が、ぎりぎり彼女の頬を掠った。倒れたリティを目にした彼は無我夢中で、男たちに攻撃する。

「何だこいつ!黙ってじっとしてれば良かったのにな!」

「お前に、リティの楽しみを奪う権利は、何一つ存在しない」

 殴られ、血の味はしないが痛みはこれでもかと感じる。しかし彼女は逃げなかった。恐怖に苛まれながらも、しっかりと前を向いた。ここで彼が逃げることは、全てに背を向けることを意味していた。それに逃避するという考えさえ毛頭なかった。全力でぶつかる彼らは、リティの制止の言葉も耳に出来ず、そのまま店の中へと場を広げていった。そこは人形屋のようで、何とリティの両親がそこにいた。そして、何よりも不可思議だったのは、辺りが恐ろしく静まり返っていることだった。

「お前ら……、何だ?勇者様にでもなりたかったのか?」

 話しかけて来た覆面姿は、声を変える機械でもあるのか、人間とは思えない声をしていた。それも荒々しい、怒っているようだった。しかし、それにも気づかないキャルは構わず殴りかかった。倒れた男から逃げ出し、覆面に叫ぶ。

「誰だ、お前も同類か!」

「キャル、違う!この人たち――」

 何かが飛んで来た、と思った瞬間には彼は意識を失っていた。その一歩手前で状況が読めた。

「こいつら……、デモだ」



 ×


 起きて、と声が聞こえた。周りは妙に騒がしい。それなのに、その声ははっきり聞き取れた。助けて――。意識が戻って来る。心がざわつく。早く目覚めなければ、早く。彼は目を開けた。近くにある、刀。尖った刃が不気味に輝く。

「ああ……」

 分かった俺――、

「死ぬんだ」

 刃が、腹を貫いた。



 ×


 気づけば水の中で、キャルは溺れそうになりながら辺りを蹴った。すると囲っていたガラスが割れ、呼吸が出来るようになる。

「ここは死後の世界じゃないわよ」

 何かを覚悟した瞳に、彼の記憶と結びつき、先程の状況を思い出す。

「どういうことだ……?」

「説明は責任を持ってするから、走りなさい王子。姫君を助けるわよ」

 待った無しに巻かれるリボンに、体が引っ張られる。前はリティが抱か込んでいたからまだ大丈夫だったが、直に来る引力に意識が飛びそうになる。と言うよりも前よりも力強い気がする。



「ほら、走れ!」

 と叫びながらよろめく女性に、彼は説明を促した。

「ああ、私たちね体管理するだけだと、暇になるの。だからその人の行動も観察して改善点を探したりするわけ。だから今までの言動、行動全て筒抜け」

「最悪だな」

「その最悪呼ばわりされた人のお陰で、最短で助けに行けてるのよ」

「何故ついて来る!」

「終末は見届けないとね!」

 奔走する二人は待ち行く人から、不思議そうな視線を受ける。

「あれは、人形のまま行方不明になった子の家族たちがやってるものよ。意識飛ばしてる子なら帰って来られるけど、眠ってたり、起きてたりすると駄目なのよ。改良しなくちゃね。でも、そんなのこちら側の責任ではないのに。……ちなみに、痛みによって気絶した貴方を呼び戻したのは私ね。――世の中便利になると問題が出てくるものだから、大変だわ」

 女性は嘆息する。しかしそれに対して余裕が無い彼は、無言のまま、足に力を総動員させて駆ける。

 人込みが出来ている店に二人は立ち止まる。

「助けを呼んどいたの。私らの社長と副社長も捕まってるからね。許されないわよ、彼ら」

 遠くからでは小さな人影しか見えない。苛立つ彼は今にも飛込みそうな勢いである。その腕を女性は握り締めた。

「今は動かない方がいいと思う。出て行けば格好いいけど、誰かが傷つけられる可能性が高い。あの中には大切な人が居るんでしょう?」

 その言葉に一瞬で冷静になった彼は、落ち着いた頭を回転させ、瞳を閉じて考え始める。助ける方法を、ただひたすらに。



 ×


 両親の制止の声は届かない。怒りを抑えることが出来ない彼女はぐったりとした人形を抱え、一心不乱に叫び続ける。

「命を奪うことまで、しなくともいいじゃない!人形のせいで、世の中が悪くなったって言うなら、話し合いで終わらせなさいよ!どうして巻き込むの?どうして傷つけるの……!もう、戻って来なかったら――あなた達のこと一生怨んでやるんだから!絶対許さない、命を何だと思っているの!」

 怒鳴って返って来た答えも耳に出来ず、彼女はただ叫んでいた。咳き込み、言葉が見つからなくても、怒りを憎しみをどうすることも出来ず、叫び続けていた。治まることがないのではないか、と思い始める周囲。しかし彼女の視界に映った人形が、渦巻く感情を全て悲しみに変えた。

「キャルは、死んだの」

 問うわけでもなく呟く彼女に、残酷にも武器が向けられた。

「口を開くな、撃たれたくないなら立ち上がり、手をあげろ」

 涙で視界が歪む彼女は、呆然と見つめて命令通りに動いた。言う事を聞かない足を叱咤し、立ち上がり両手をあげる。

「煩い子供が、お前も同じ所に送ってやる」

 言い終わるかの間に、恐ろしい音が辺りに響き渡る。覆面は勢いよく倒れ、床に突っ伏す。

 彼女は状況を見極める前に抱きすくめられ、両手をあげたまま立ち尽くしている。

「男の、人……」

「二人の合図は、姿形が変わっても健全だろう?」

 彼女は両腕を下げ、キャルの胸に頭を埋め、泣き続けた。それは彼が一番嫌いな泣き方だった。彼は言う。

「煩い、泣き止んでくれ」

「貴方にそんな権利無いわ!」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、苦しそうに笑った。その表情に申し訳無くなって、彼は天井に視線を移した。

「ちゃんと、側に居てくれたね。私、もう貴方を縛ったりはしない。気が済んだから。――今日はね、好きな人に感謝して、大切にする日なんだよ。だから」

「――リティ」

「もう、さよならです」

 最後に思い切り抱き締めて、二人は離れた。周囲は拍手しようとした手を、すっと隠した。


 

 ×


「いやはや、社長から聞いたよ。愛娘を助けたそうじゃないか。よって現在最高のプラス百。おめでとう。今日からここの管理人となって、頑張ってくれ。あんたなら不安はないよ」

「嘘ならやめてくれ、担当者」

「その他所他所しい呼び方も、是非ともやめて頂きたいねえ、あんた」

「いい加減、名前を覚えてもらいたいものだ」

「いや全く。君の言う通りだ」

 キャルは新しく用意された椅子に座り、落ち着かないので窓を覗いた。空は青く、雲の流れは些か速い。風はあまり無く、穏やかな日となっている。



「キャルさん、お客様ですけど、どうします?」

 呼ばれた声に、彼は苦笑を漏らして問うた。

「荷物満載の女性か?」

「何ですか、やっぱり知ってる方ですね。入って貰いますよ」

「――最近、嫌なものを持って来るから、嫌なんだ」

 愚痴る彼を放って置いて、声の主は遠ざかった。

 しばらくすると勢いよく扉が開き、瞬間に荷物を同じく、勢いよく置いた。

 顔は出さずに隠したままで、話が開始される。

「出世おめでとう」

「ありがとう」

「……本当にさよならのつもりで言ったのに、ここに居たら凄く格好悪いわ」

「そうだなあ」

 リティは銃を構え、中へ入った。

「貴方のお誘い、お受けします。お許しは?」

「――許さなかったら、どうする?」

「死にたくないなら、両手をあげて下さい」

 仕方ない、と煩わしそうに両手をあげる。すると、銃弾の代わりに彼女の体が突撃してきた。


 ――両手をあげたら、

「抱き締めてあげる」

 彼女を力一杯抱き締めることが出来るこの体の方が、やはり良いな、と一人思った。














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両手をあげたら 夢を見ていた @orangebbk

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