舞雪
夢を見ていた
第1話
*
昔、藤篤という、貴族の中でも高い地位を持つ男がいた。藤篤の子は藤道といい、たいそう頭のよい若者だったそうだ。
ある日、彼は珍しく父親に頼み込んだ。
「父上、私は読み終えた書物の内容に、大変驚きました。そこにはなんと書いてあったとお思いですか?〝望みの叶う雪〟というものがあるそうで……、私はそれが欲しゅうてたまりません。何とかお力添えを願いたのです」
息子の申し出に父親は眉根を寄せ、そんな嘘くさい話があるものかと、見るからに機嫌を悪くさせた。しかし藤道は一切気にせず、むしろ諭すよう言った。
「確かに父上のおっしゃられる通り、信憑性に欠ける話でありますが、私が信じる理由はいくらでもあるのです。まず一つは、古き書物に載っていたこと。そして北の地では伝説として、今も尚生きていること。その雪は人を選び、清き心に引き寄せられる、という内容らしいですが」
藤篤がつまらぬ話だと一蹴する前に、藤道は一段と声を張り上げて言葉を紡いだ。
「何よりの大きな理由は、叔父上から聞いたことでもあるからです」
「――何だと」
ここで初めて父は藤道の目に視線を移した。彼の目はしっかりと目前の人物を見据えていた。
藤道の叔父にあたる家定という者は、名の通り自身の家の者たちを大層大切にしていると有名になる程、優しい。だが、厳しさの中に一瞬光る優しさなのだ。よって誤解されることが度々あるようだった。そんな堅物の、――あまりにもこの話から縁の遠そうな――名が出てきたのだ。藤篤が驚くのも無理ないだろう。
「本当か」
「勿論です」
藤道は叔父とあまり仲が良くなかった。兄の子ということで、何度も顔を合わしてくれるのだが、会う度叱られてばかりだった。貧弱な男がいるものか、女のようにかな文字を書くな、外へ出て歌を詠め、と。
しかし、それを藤道は嫌だと思ったことは欠片もなかった。逆に、愛ゆえにだと、嬉しく思っていた。
なぜなら、厳しい一方で藤道の賢さなどを認めている唯一の人物であり、一目置いてくれているのを肌で感じていたからだ。
しばらくしてようやく、藤篤は険しい表情で手を振り、出て行けと合図した。
どんなに馬鹿らしい話でも、無闇に扱うことは出来ないのだ。藤道はそのことをよく心得ていた。
黙ったまま藤道は頭を下げ、襖を開けた。その仕草には、残念そうな素振りが一切見られなかった。どちらかといえば冷静すぎて、優越を感じているのかと思われるほど、落ち着いていた。願い出た者らしからぬ様子だった。
藤道は、思い出したようにふと、口を開けた。
「望みが簡単に叶うことは、滅多にありません。だからこそ、どんな小さな噂でも縋ってみたい、そう思うのは私だけでしょうかね」
外は冬の訪れを知らせる、冷たい風が吹いていた。
(父上は必ず私の言う通りに動く。必ずだ)
冷風が吉報の予兆のように思えて、藤道は愛しげに目を細めた。
**
「これはまあ、どういうことなの?」
少女は目前にある牛車を指差し、近くにいた女たちに問いかけた。
豪華な糸を用いて織られている布を、着こなす牛や、隣にいる俯きがちの従者。どうやら、とある建物の前を選び、わざわざ止まっているようだったが。
その下々の民には馴染みない存在は、歩み行く多くの者たちの視線を、面白いくらいに集めていた。
少女もその内の一人であり、店の使いに帰ってきて、思わず目を丸くした。
「あらあなた、これは牛車よ。ご貴族のお乗り物で、牛がのそりと籠を運び、ご貴族のお足となるのよ」
そう朗らかに答えられると、少女は焦ったように返した。
「姉様違うの。私、牛車は知っているわ。何度も見たことがあるもの。私が聞きたいのはね、どうして貴族の方もいないのに、こんな所にあるのかってことよ、店にはそんなお方、いないはずだけれど?」
周りは飾り気のない、小さな店が少し連なっているだけの場所で、道草の桃色が申し訳程度に咲くばかり。通り道も小石や草が茂っており、貴族の庭とは比べることさえ浅ましい位に違いがあった。誰が好んでこんな所まで来ようか。そんなことをすれば、貴族の人々に笑われてしまうのでは。少女はふとそんなことを思った。
「沙羅、そんなに気になるのなら、少し走って見ておいで。藤殿の橋までよ」
「母様!」
沙羅と呼ばれた少女は振り返り、妖艶で美麗な女を目に留めた。――いつの間に背後に立っていたのだろうか――女は小柄な沙羅とは違い、すっと背の高い女性であった。
この時代、長い髪が主流というのに、彼女だけは耳の辺りでばさり、と切っていた。そのせいか、雅さは感じられなかったが、着物から浮き出る身体の線がとても魅力的であった。その身体は、殿方から貰った高価でぶ厚い着物を纏っている。
薄ら微笑まれ、艶やかな唇が開く。
「早く行っておいで。そこにいる姉様たちだって、抜け出してまで見に行った者もいるから」
「けれども母さま、お店が……」
「いいから」
そう言われて、ずっと押さえつけていた好奇心を解いて、沙羅はすぐ戻ると約束し一目散に走り出した。
姉たちに、はしたないこと。と、たしなめられた気がしたが、いつものことだと考えた。藤殿の屋敷までそう遠くない。
すれ違う同性にも、どこか見下したような目で見られる。異性にさえも、下品な、と睨まれた。しかし、それもいつものことだった。
途中、小石にけつまずいて派手に転んだが、別に高価な着物でも、高い身分でもない。沙羅は適当に砂を掃って、再び駆け出した。
辿り着いた場所は、知っている場所とは違い、大勢の人で混み合っていた。――どうやらその中心に何か置いてあるらしい。沙羅は何度も人混みに入ろ
うとするが、その度に押し返されてしまう。そう焦ることもないか、と自分に言い聞かせて、仕方なく近くにあった岩の上に腰かける。不機嫌な表情のまま近くに流れている川を眺めた。
(もっと大きく生まれたかったわ)
何かと都合の悪い小柄な体は、沙羅にとって最大の悩みといっても、過言ではなかった。沙羅は手入れはしてないが、それなりに艶やかな黒髪を持っており、それを前で二つにまとめて、あまぞぎのような、少し子供らしさを感じさせる髪型をしていた。
時折その髪形のことを指摘されるが、彼女は一番慣れた形だからと言って、受け流すのが常であった。そんなことにいちいち気を留めてられない。
(殿方はあんなに大きいのだもの。殿方ではなくとも、母様や姉様も皆、背丈の高い方ばかり。嫌になってしまう)
わずかにだが、少しずつ人が減ってきたのが分かり、沙羅は焦る気持ちで足を向けた。そこには木で出来た、急いで造った様な看板があり、何か文字が記してあった。
〝中野家第一子息が望みの叶う雪を欲しがっている。手に入れた者は大金といくらかの土地を与える。ただし、清き心のみ得られるという噂である。よって力を借りる礼の代わりに、金銭のない十の者のみ費用を持つ〟
「まあ、そんなことで」
金を使ってしまうの。そう言いかけて寸の所で飲み込んだ。
今の言葉が中野家に仕えるものの耳に入れば、恐ろしいことになる。周りを見渡し、すぐに店主の下へ駆け出す。人はまた減り、増えていった。
「母様、沙羅がただ今戻りましたよ」
「ねえ姉様、これは十の内の牛車なの?ということは選ばれたのね、私たちの店が!そうでしょう?」
髪も息も乱した妹分をたしなめ、髪に手を伸ばした。
「女性がそう走るものではないわ。髪が乱れてる……、もう、なんてはしたないこと」
「……姉様だって走るじゃない。殿方に断られた時」
「走ると追いかけるは違うのよ。追いかけて強く、美しくなるの。母様があんなに美人なのは、たくさん追いかけたからそうですよ」
何となく面白くなくて、沙羅は髪を整える手を退けて、店の中へと入った。そこは独特の匂いが漂っていた。それを不快と思ったことがないのは、皿が
大の本好きであるからだろう。古い紙の匂いと、古い建物の匂いとが混じり合
い、妙に落ち着く空間を醸し出していた。
沙羅が勤めている店は本屋だ。
この時代、本とは、全て人の手が何枚も書き写していたので、とても高価な物とされていた。よって来る客は皆、貴族のような身分の高い人ばかり。――それならば客と、身分の等しい者が相手をするはずだが、店主の意向で身分は統一されていない。沙羅のような出稼ぎの者でも選ばず雇っている。
そのことに文句を言う客は、やはり幾人も居る。しかしその度に、母と呼ばせている店主に追い返されて、二度と店へは入れない。よって、そのことを受け入れた者のみここへ足を運ぶ。
ここには巻物や紙を折りたたんでいる織本など、古い時代から最近のものまで取り扱っている。
店主は前にもあるように女で、店を一つの家と見立てさせていた。なぜかは詳しく分からないが、噂は山ほど存在した。娘をとうの昔亡くしたので、その代わりをずっと探し求めている、などと。どれも嘘臭いもので、沙羅は一切信じていなかった。それよりも、どうして雇って貰っておいてそんなことが口に出来るのか、不思議でならなかった。
店には、売り買いの場である畳の上に店主と、本の整理をしている女が二人いた。沙羅は店内で走らないように姉分に叱られながらも、駆け足で店主へと近寄る。
「母様、ここが選ばれたのはどうしてかしら?」
「――沙羅、このことは多くの人が気にしている。だから、あまり大声で話すことは賢くない。分かるね?」
「ご、ごめんなさい母様」
店主はすっと目を細め、こちらに上がってくるよう手招きした。沙羅は姉達
の羨望の眼差しに、満面な笑みで応えた。
「どうやら、私達は運良く当たりくじを引いたようね。屋敷から近い、金のない者――と称したお方は、かなり失礼な者だと思うけれど。幼い者を順に選んでいるようだ。ここではあなたが一番下なわけだけど……、遅い生まれで良かった。隣にはあなたの一つ上の子がいたの」
「へえ、そうなの。ねえ母様、藤の宮さまはそんなにお金の使い道に、困ってらしてるのかしら?」
姉達が聞き耳を立て、失礼のないように、と鋭い視線を送るが沙羅は構わなかった。なぜなら第二の母である店主は、こういう子供らしい言い方を好んでいたからだ。
(ほら、母様は嬉しそう。子供が好きなのでしょうね)
妖艶に笑う店主は、沙羅の飛びはねた髪を撫でながら、答えた。
「馬鹿ね、金をあそこまでして使うってことは、それほど手に入れたいものがあるということ。普段ならびた一文でもやるのが惜しいのにね」
「お高い方の考えは分からないわ」
呆れ半分に吐き出すと、店主はそっと口元を隠す仕草をした。そしてゆっくりと分かりやすく話して聞かせた。
「私の店で若い者四人が北の地へ行けるそうよ。そこに従者が一名。これで五ね。あなたから順に、一つ上の透子と伊勢、三つ上の蛍が選ばれました。仲良くしなさいね」
分かったなら用意してらっしゃい、と微笑まれて、なぜか寂しい思いが募った。どうしてもここを動きたくない、動く位ならば――と思う程に苦しくなった。なぜかは理解出来ない。ただ、無性にここに留まりたかった。
足を動かさずにいる沙羅を、不思議に思った店主は笑みを崩さぬまま首を傾げた。
行きたくない。そう思っていると遠くで見ていた女が寄ってきた。
男のように長身で、切れ長のすっとした目をした女だった。
「沙羅、もしかしてここを離れたくないのでは?もしや、母様と離れるのが嫌だったりしますか?それならば、誰かに代わってもらえばどうでしょう。皆、羨ましそうにしてましたから、快く引き受けてもらえますよ?」
少し可笑しそうに言う声に、沙羅は迷う素振りを見せた。自分でもなぜこんなにも戸惑っているのか、全く理解できなかった。
女の言葉は、的を射ていた。確かに離れるのは寂しい。しかし何があるというのだ。そんな、子供のような――。
「行きたくないのですか?憧れの北の地へ。夢だったと記憶してましたが」
夢。その言葉に弾き飛ばされたように、――今までの逡巡はどこへやら――、沙羅は自分が戻ってくるのを感じていた。
「伊勢姉様、母様。私行かせて頂きます!」
と声を上げてすぐさま自身の部屋へ駆ける。伊勢の小さなため息が聞えた気がした。
この店で働く者は、必ずここで寝起きしなければいけないのが、ここの規則であった。その分給料は少ないが、それに不満を抱くものは全くいなかった。
沙羅の家庭は非常に金に困っている。出稼ぎに娘をやるほどに、火の車であった。よって娘に持たせる金はなく、下手すれば野原が家となっていた沙羅を、店主は拾ってくれたのだ。そのような子は沙羅だけではなく、多くの者が店主に世話となっている。
『あなたの、第二の家族となっては駄目かしら』
空腹に倒れそうになっていた沙羅を救った言葉は、今でも忘れられないし、忘れるつもりもない。店主には、本当の母と同じ位限りない愛と感謝の念がある。
(他人とは自身を映す鏡だとは、本当ね。母様は優しい。だから皆も優しくなれる)
沙羅は二人に謝罪し、感謝し。二度とこういう迷惑を掛けるまいと心に誓った。
大急ぎで支度するが、店を出たら皆、既に用意済みであった。不思議なことで寂しかった心もどこへ行ったのか、いざ牛車を乗るんだと思えば、頭がそれから離れなくなったのだった。
実に現金だと、呆れた。
**
藤道は多くの御曹司の前で演奏していた。
一月に何度か集会といったものがある。普段なら欠席しているところを、父に有無を言わさず行けと言われてしまった。
名前は忘れたが、ここは名門の一族が住んでいる屋敷であり、歌を詠んだり、音楽を奏でたりして戯れた。まあ、藤道は退屈で仕方がなかったのだが。
どこへ行こうにも、中野藤道の名によって、多くの面倒を被ってしまう。藤の宮と、天皇のように呼ばれる藤道の一族は、どこに居ても注目を浴びてしまう。現に今も、こちらを窺い品定めする視線が外れない。
しばらくして、御曹司の一人がこちらへ歩み寄って来た。藤道はここから立ち去ってやろうか、と思ったが、無意味なことを承知だったので、彼の到着を待った。
確か彼はこの屋敷に住む一族ではなかっただろうか――。
「藤道殿、あなたの奏でる音が聞きたい」
という提案に、賛同の声が多く上がってしまう。
先程から、どんな目で見られようと、自分は下手だから。放っておいて下さいと逃げてきた藤道を、無礼だと思ったのであろう。御曹司らが考えた策略だった。藤道の下手だという言葉に嘘はなかろうと、恥をかかせるつもりなのだ。
「先程やっと詠んでくれた歌も、なかなかのものでしたし……、そんなご自分をご謙遜することはありませんよ」
「いえ……本当に私は良いので、皆様方で楽しんでください」
急に、のこのことやって来た藤道は、邪魔者以外の何者でもないのだ。誰が仲間と認めてやるか、と。そんな雰囲気になるのを、想像出来ない藤道ではなかった。むしろ分かり切っていた。それでも父は行けというのだ。
逃げたくとも、既に牛車も、従者も用意されては捕まえられてしまう。今から逃げても同様である。
藤道は音楽や歌について教育を受けたことは、一切なかった。これは、有り得ないことである。どんなに小さな貴族であっても、息子を立派にするため、たくさんの習い事を強制的にやらせる。どこへ行っても笑われないように。
しかし、藤篤は何もさせなかった。笑ってもらえ、そう本人に告げたこともある。今日だってそう言った。心を鬼にしてまでよく出来た息子を叱り、腕を上げさせた、小鼓親子のような愛ではない。藤篤は、藤道に父の威厳という権力を用いて、貶めたいのだった。自分より聡い息子を、蔑みたい。
父はこういうことにはよく頭が働く。誰がどうすれば、一番苦しいのか。今回の場合はまだまだ軽い方だが、酷い例はいくつもある。
習いもしてない歌。藤道は与えられた時間で、書物に載っていた歌を必死で絞り出して、自己流に変えて発表したのだ。
思いの外、なかなかのものだと評価されたが、その時の藤道は、罵声が飛び交うのではないだろうか、と不安で仕方なかった。
――それなのに、息つく間もなくこう絡まれては、気も滅入ってしまう。何度も繰り返し拒んでいるのに、強引に皆の目前に連れて行かれて、楽器を手渡される。小鼓である。書物には度々出てくる楽器だったが、実物を見たのは、――貴族として生まれているのにも係わらず――初めてだった。よって、使い方も分からない。書物にはどう奏でるのかまでは書いていない。藤道が好んで読むのは、専門の本ではない。物語が主だ。
「私は音楽の才がありません」
「分かっておりますとも。いいから奏でてみせてください」
こうなれば、もうどうすることも出来ない。藤道は心を決め、鼓を持ち上げて、赤ん坊を抱くかのように抱えて革を手の平で叩いた。力が弱かったのだろう、心もとない音が響いた。
隣にいて音を合わせようとしていた者たちが、止まる。藤道はもう一度手を振り上げた。
「ふ、藤道殿……」
申し訳ありませんね、私は何も教育されておりません。
そう言えたら、まだ自分を守れたかもしれないのに。ここで中野家の名を汚すことは出来ない。というよりも、堅く口止めされている。ここには父の従者もいる。告げ口されては、また外出禁止されてしまい、仕置きをされてしまう――。
まあ、時既に名を汚してしまっているのだが。
どっと溢れ出す嘲笑。藤道はすぐにでも立ち去りたい思いを、ぐっと堪えた。
*
「ああ!藤道兄さま、お帰りなさい」
「おや、家介か。ただ今」
鞠を手に持ち、頭を下げた従弟に歩み寄る。庭に誰もいないので、一人で遊んでいたのだろう。駆け寄ってきた。その様子に少し心が慰んだ。
「あれ、お兄さま。どうやらお疲れの様子?」
「ああ……。皆に笑われてしまったよ」
「そういうこともあります。家介――じゃなかった、私も、蹴鞠で失敗したら落ち込んでしまいますが、次の日には忘れてしまいます」
そうやって無邪気に笑う家介に笑い返し、「叔父上はどこにいらっしゃる?」と、問うた。
「父さま――じゃない、父は、藤篤様に呼ばれてどこかへ行ってしまいました!」
そうか。ついに。藤道は内心ほくそえんだ。事が上手く運ぶために、色々と用意しなければいけないかもしれない。
「家介、今まで一人だったんだろう?なら、少し私の所においで。遊ぼう?」
「本当ですか!」
輝く瞳に、藤道は勿論だと頷いてみせる。家介の手を取って、歩いて行った。
*
「家定、お前が藤道に北の話をしたのは、真か?」
わざわざこの確認のために、屋敷へ呼んだことを気づかせないため、家定を久方ぶりに家族で呼んだ。まあ距離はそう遠くないし、家族ぐるみの集まりも多いので、不思議はないだろう。――ただ一人の息子を除いては。藤道は聡いから父の考えも筒抜けだろう。
本来なら、こういうことは戯言だと一蹴するつもりだったが、家定が絡んでくるのなら信憑性はぐんと上がる。それ程冗談の通じない男なのだ。
――何より願いが叶うというのは面白い。時折耳にする話だが、本当なのなら縋りたい。
藤篤の問いにすぐさま答えが返ってくる。
「ああ、そんな話をしたな」
「本当か!」
「どうした、珍しいな。藤道に興味が動いたのか?お前の口からあの子の名が出るとは思わなかった」
「……いや」
話題が息子に移る。面倒だと心中で舌打ちする。
「彼は優秀な方だと思うが、何分足りないものが多すぎる。もっと遊びや歌を親しんでみるべきだと思うぞ。この前久方に見た句はなかなかだった」
自身の息子を褒められていても、藤篤にとっては無に等しかった。少し考え、白き粉について深く追求しようとした時、
「父さま!藤道兄さまがこれをくださいました!」
と小さな足で畳を歩く我が子を、家定は険しい表情を緩めた。
「おお家介、何を貰ったというのだ?」
「着物でございます!」
そう言って身につけた着物を見てもらおうと、大きく手を広げた。緑の落ち着いた色だったが、家介はよく似合っていた。少し丈が短いのか、腕が見えていた。
後ろからついて来た藤道は微笑む。
「私の部屋から、偶然昔の着物が出てきまして。それを家介がいたく気に入ったようでしたので」
「すまんな」
「いえ、そんなこと。……大きくなりましたね、家介は」
そう言って藤道は父を一瞥し、すぐに自身の部屋へと戻っていく。その優雅な仕草に家介は、将来あのような身振りが出来るようになりたいな、と内心思っていた。
一方、その姿を家定は妙だと思っていた。険しい表情に気づいた家介は、父親を見上げる。
「兄さまは素敵です……。頭もすごく賢いんですよ?本もたくさん読んでらして、優しくって。――家介にもあんな兄さまが欲しかったです」
「いいじゃないか、従兄弟なんだから」
家定は呟いて、二児の父であり実の兄でもある存在に目を移した。
しかし、当の藤篤はその鋭い視線にも気づかないほど考え込んでいた。
(これ以上訊くのは妙か……。奴に対して話をした、ということしか聞けてないが、仕方ないか。十分だと思おう。奴の言葉は嘘ではなかろうて。こちらも時間がない)
それから家定たちが帰った後、藤道を呼び出して伝説の詳細を聞いた。
「まず、幼い子の心ではないといけません。女子の方が良いらしいです。丁度……そうですね、成年となった頃くらいの心が遭遇しやすい、とか。必ずそうして下さいね、無駄骨を折るのは嫌ですから」
正直、藤道でさえ、うんざりする程に事細かく訊き出された。そしてそれと同じ位厳しく、真なのかと念を押した。何度も藤道は頷いた。お陰でしばらく首が痛かった。
藤篤は隣に置いていた従者に、その雪を取ってくるよう言いつけた。言い終えた後、誰もいないことを確認してから、私の分だけでよいと命じた。
**
「それで、沙羅はどうして北が憧れの地なんです?」
伊勢に問われ、沙羅は少し照れくさそうに語った。
「私の親はどちらとも、北の生まれで。けれど、暖かい所に住んでみたい、ということでわざわざ引越ししたわけ。だから、私が生まれてから上京するまで、暮らしていた家は南なの。それで雪の話をされても、それは何?食べられるもの?といった感じで。あ、これは勿論、小さい頃の話よ?今はもう分かってるから。……うん、だから本場の雪を見たいと日頃から思っていて」
「あら、それだけの理由?本場じゃないと駄目なの?あそこでも雪は降るじゃない」
沙羅のうっとりした言葉に、呆れた声が返ってきた。沙羅はその物言いが面白くなくて、一瞥してすぐそっぽを向いた。
声の主は一つ年上の透子という、目の大きい美人な女だった。多くの殿方から好かれていると、町で評判である。こういう者たちは、ちやほやされるのに優越を感じ、驕り高ぶる傾向がよくあるのだが、透子は稀に見る例外で、どの殿方にも優しく接していた。しかし、仲が深いものになりかける度に別れては付き合い、別れては――を繰り返していた。
それを沙羅や他の者たちは、少なくとも良くは思っていなかった。しかし、それを問い詰めると、曇らせる顔を見れば色々と複雑なのだろうか、と考えてしまい、何も言えずにいた。
「沙羅、私は良いと思いますよ。私なんてほぼ年の半分以上冬でしたから、雪なんて趣も感じられません。けれど、貴方は違う。素敵なことです」
助け船を出すように口を挟んだ女は、この仲で年上の蛍だった。
「そういうものは大切に、大事にして。常識なんて、出来るだけ持たなくていいの。小さなことでも喜べるようにしておくのよ。――どんなに北の地に近くとも、食料もなく、案内人もいなければ命を落としかねないもの。良い機会を持てたわね」
蛍は微笑んだ。物腰の柔らかい話し方で、沙羅は安心する。はい、と笑い返すと透子はつまらなそうに口を動かした。
「何よお姉様。そりゃあ沙羅の方が、無邪気で可愛らしいわよねえ」
「あら、透子は。……別にそういうわけではないのよ」
「それに蛍姉様は麗しいし。殿方にも人気でしょう」
話が逸れる。皮肉げに発せられる言葉に蛍は、愛しそうに笑ってみせた。
「ふふ、あなたには敵わないわよ」
「そんなこと、微塵も思ってらっしゃらないくせに」
「どうして?」
確かに透子の方が整った顔をしていたが、蛍にはそれ以上のものを持ち合わせていた。それを透子は言っているのだろう。
淡雪のような、繊細な雰囲気はとてもじゃないが、彼女には作れない。そしてもう一つ、蛍は貴族のような長く艶のある黒髪を持っていた。それに見惚れて立ち止まる者も少なくない。
微笑んだまま首を傾げている蛍が、余裕を持った風に思えたのか。透子は人の悪い表情を浮かべて、ゆっくりと口元を裾で隠した。
「ねえ、沙羅は知っていて?蛍姉様は少し前に、色よい縁組の話があったのよ?」
その言葉に皆、驚きを隠せない。元々殿方といるのを苦手としている蛍がまさか縁組とは。
蛍についての話はよく耳にしている。ある時は、急に近付いてきた殿方を川へと突き飛ばして、走り去ったなど。また、視線を何秒かでも合わせただけで、呼吸を止めるほど集中してしまっていたとか。腕が触れ合っただけでも、平手打ちを食らわせたこともあったのだ。
(初心といえばいいのかしらねえ。そんな姉様を妻にだなんて……、殿方も大変だわ)
そんな当の本人は白い肌に薄ら赤を混ぜている。信じられなくて、隣にいた伊勢に尋ねた。
「伊勢姉様はこのこと知っていた?」
「いいえ……、初耳ですね」
「そりゃあそうよ。言ってないもの、私」
俯く蛍に、透子は意地の悪い顔で詰め寄る。
「見慣れぬ殿方が熱心に訪れて、店を覗いては思案顔で帰って行かれましたから。もしかして何かあるのでは、と思ったまでです。文使いもよくいらしてましたし、何より蛍姉様が、普段よりずっと、ぼうっとしてらしているんですもの!あれは女子の顔よ。――二人とも気づかなかったの!他のお姉様方は結構知ってらしたわよ?」
まあでも、と続ける言葉に誰よりも蛍が驚愕する。
「お相手が蛍姉様だとは、私も今知ったけど」
けろり、と言ってのけた透子に、逆に蛍から詰め寄った。えらく興奮した様子で、顔と顔が引っ付きそうな程に近寄る。
「どういう意味?知っていたのではなかったの!」
「あら、私は〝殿方が蛍姉様を見て帰った〟とは言ってませんし、〝蛍姉様がその殿方を慕っている〟とも言っておりませんわ。ちなみに〝他のお姉様方は知っていた〟というのも、姉様が誰か殿方を恋い慕っている、という意味ですから。限定は出来てなかったんです。――けれど。帰ったら皆で楽しい話が出来ますわ!ふふ、上手いように話しておきますからね」
釣られたことにようやく気づいた蛍は、さらに紅潮させて恨めしそうに睨む。
「嫌だわ透子、意地の悪いこと!」
「そんなことありませんわ。隠していた姉様が悪いと思いません?」
「……だって、恥ずかしいもの」
楽しげに笑う透子を見て、沙羅は一番に見抜けなかったことを悔しく思った。
透子は一体いつから気づいていたのだろう。鈍感な沙羅たちを見て嘲笑う、
とまではいかなくとも、馬鹿な奴だと笑っていたのだろうか。未だに、彼女の考え方が読めない。今回の旅も、伊勢や蛍がいたから良かったものの、二人きりだったら、心休まることが無かったろう、と思いを馳せる。
返って来ない答えに、痺れを切らした沙羅は話を進めるべく、問うた。
「で、どうなさったの?お答えは?良いお方だった?」
「……答えはもう、あのお方のものです」
まだ火照っている顔に手をやりながらも、目を伏せて静かに答えた。二度とこのことに他言しないと心に決めたようだった。
あまり人に関与しない伊勢でさえも、少し残念そうにしている。
そんな女達を乗せながら、牛車はゆっくり揺れ動いていた。
皆それぞれに思うところがあるのか黙り込んだ。すだれから見える外の景色を眺めながら、またあの寂しさが流れ込んできて胸を苦しくさせた。
外はまだ雪こそ降っていないが、風が刺す様に冷たく、暗い。遠くの空は鼠色になっていて、どんよりとしている。それが、とても濃い色に思えて。
(ああ、空も寂しいのかしら)
と、考えて息が詰まりそうになりながらも、もっとよく景色を見ようとして体を乗り出した。
すると近くから、かさりと紙の音がした。はっとして沙羅は、足元を見る。落ちていたものを視界に入れるなり、すぐさまそれを懐に仕舞い直した。
「それは何?」
猫みたく目を細めて笑う透子に、沙羅ははしたないが舌を出してみせた。
「本よ、透子姉様が大嫌いなね」
苦いお茶を口にした風に渋い顔をする透子に、人生の無駄遣いよ、と笑いかける。
「本が面白いと感じる人にとっては、それこそ金やお宝みたいに価値があるのよ。馬鹿みたいに金をつぎ込んじゃう位にね」
それを毎日のように、店で目前にしているから想像しやすかっただろう。沙羅は本に載っていた歌を口に出してみた。
「つつめども かくれぬものは 夏虫の 身よりあまれる 思ひなりけり」
「あら、沙羅が恋歌だなんて」
茶化す彼女に沙羅は大いに笑ってみせた。これは物語から引用した和歌で、有名なものなのよ。それを聞くと透子は、顔を真っ赤にさせて他所を向いた。
こういう日もなくては、と沙羅は一人笑った。
*
翌日の昼時に、牛車はようやく目的地へと辿り着いた。
「到着しました」
という牛車引きの声にわずかな暖を惜しむように、じりじりと女たちは動き始めた。すだれを開けて外に出ると、白い固まりしか視界に入って来なかった。沙羅はそれが雪だということに全く気づかなかった。
「何これ」
「雪じゃないの、あなたの憧れ」
「……違う」
懐かしむようにしゃがみ込んだ蛍は、驚いて沙羅を見つめる。
「どうしたの?何が違うの?」
「違う、違う!嘘、待って。雪、雪でしょう?白い、さらさらした雪でしょう――?」
耐えられなくて、思わず膝を着く。嘘だ、こんなものが雪であるはずがない。頭で物が考えられなくなる。蛍の手が彼女の背に触れる。呻くような泣き声に皆、驚きを隠せない。珍しいどころではない。初めて目にした沙羅の弱々しい姿に、誰もが戸惑ってしまった。
心配させまい、と顔を上げ微笑もうとしても、すぐにその顔は崩れてしまう。眉間にぎゅっと皺を寄せ、涙を溢した。必死に口を開けば、言葉にならない音が漏れた。沙羅はそっと瞳を閉じた。
何も目に映したくなかった。手は縋る様に、胸の辺りを握り締めている。
涙が何度か口の中へ流れた。袖で無茶苦茶に拭うが、次々と止まることなく出て来る。それが嫌で嫌で、顔がひりひりと痛むまで拭い続けた。
「どうしたの沙羅、そんなに残念だったの」
幼い子に話しかけるように透子は問うた。それに泣きながらも、頷いてみせる。
「そんなに雪が――?」
「……伊勢、先程から従者さんが呼んでるわ。ここは透子に任せましょう」
二人が遠ざかる足音が聞こえる。俯いている自分に気づいて、沙羅は恥ずかしく思った。顔を上げると透子の、眉を顰めた表情が見えた。
「酷い顔。落ち着くまで泣いておきなさい」
「うん……」
理由はあとで聞いてあげるから。その言葉にさらに恥ずかしく、情けなくなった。久しぶり、と言うよりも生まれてからの二回目の涙では、と思った。それ程、涙と無縁の生活を送っていた。沙羅は決して裕福でなかったが、不幸ではなかった。
息がうまく吸えず、何度もむせる。地面に積もる雪に、透明の水が幾度も落ちる。
「ごめん」
「分かってるから」
「ごめん」
「だからね」
「――私は、分からないから」
どういう意味?と、こちらを覗く透子に首を振った。
「今どうして泣いてるのか、全然分からない。から、謝ってる。説明、出来ないから」
「……呆れた。泣く理由がないのに、泣いてるの?」
「うん。変だね」
本当に可笑しい。何を泣くことがあるのか。自分を、自分の家族を馬鹿にされた訳でも、虐められたわけでもないのに。自分のことが分からなくて、消えてしまいたくなった。
「――でも、それは元々だから仕方ないかな!」
明るく声を上げた透子に、呆然としてしまう。透子はきっと自分のことを面倒な奴だと思っていたはずだ。もしかしたら、嫌だと思っていたかもしれない。それなのに、その慰める姿勢に、また涙が生まれてしまった。
沙羅は感謝した。心の中では、ありがとう、と何度も繰り返した。呻きが混じった感謝の言葉を述べた。
「馬鹿ねえ」
透子はやはり、噂通り優しかった。沙羅の頭を軽くはたいて、早く元気になりなさいよ、と笑ってくれた。
――分かることは一つだけ。雪に心底落胆してしまったのだ。目にしなければ良かったとまで思うほどに、出来の悪い偽物を見た気分だった。
今更ながら後悔し始める自分に、腹が立つやら苦しいやらで沙羅はまた涙を落とす。空から降る冷たいものが、どうしてこれ程心を締めつけるのか。
白を踏む音に、透子は声を掛ける。
「伊勢、従者は何て?」
伊勢の方を見ると、どこか苦しそうな表情をされた。そんなに汚い顔をしているのだろうか。もう一度、拭った。
伊勢は三つ、小さな桶を抱えていた。後ろから、両手で抱き締めるように桶を抱える蛍がやって来た。
「……この桶に雪を詰めろ、と。それも空から降ってるもの限定だそうで。しばらく外にいないとならないらしいですよ。何でもいいから、桶を満杯にしたら帰れるんだとか。――怒らないで下さい、従者さんがそうおっしゃるんですから」
「何考えてるのかしら、金持ちの考えることはおかしいのね!今心の底から思ったわ」
「声が大きいです」
「――全くね、今の私の妹分を見ても、そんなことを口に出来るんだから。あの従者は鬼?私、何回もお願いしたわよ?沙羅だけでも、牛車に帰らせてって。でも、あの人は薄情にも、『命ぜられたことも出来ないのですか?そんなことではこれから生きていけませんよ』と言うの!私たちが代わりになる、って言っても全然聞いてくれない。願いが叶う雪なんて、存在するはずないのに!」
「蛍姉様まで……」
事の発端である沙羅は、申し訳なくて謝った。すると意外なことにも、冷静な位置にいる伊勢が
「そういうのは必要ありません」
と答えた。
「あなたを可愛い妹分だと思うのは、ここにいる私達だけではありません。謝る前に思い切り泣きなさい。暗い表情のあなたを連れて帰れば、私達が怒られますから」
「あらあ、珍しいわね。伊勢がここまで肩持つの」
「珍しい姿ですからね。あなたはすぐ泣きますから」
「失礼ねえ」
沙羅は皆の優しさに、ただただ申し訳なかった。思えば二度とこんな事をするまいと誓ったはずなのに、また迷惑をかけてしまっている。自分の弱さだ。
沙羅は心底苛立って、思わず唇を噛み締める。
(二度と、泣きはしまい。泣きはしない。泣くことは、迷惑なことだから)
また一筋涙が伝った。その雫にさえも苛立って仕方なかった。雪は相も変わらず白くあった。
たまらず沙羅は、その白を思い切り踏みつけてやったのだった。
「どうして若い人でないといけないのかしら」
まだ鼻声の沙羅に、皆それぞれに心配そうな視線を向けるので、普段よりも口角を上げて笑みを作る。すると、安心したのか、皆一斉に答える。
「藤の宮の、第一子息様がおっしゃったそうですよ」
「清い心でなくては、白粉を見極めることはできない、と」
「特に女子がいいのですって。不思議よね、赤ん坊の方が余程清いと思うけれど」
確かに、と頷く女たちに、沙羅は微笑ましくなった。
笑い声を上げようとして、気管に唾が入ってむせた。その動作にさえ、敏感になっている女たちは、背を撫でたり、優しく叩いて落ち着かせた。
「もう大丈夫ですか?ゆっくり息を吸って。――でも、妙だと思いませんか。その雪の伝説が本物なら、内密に……間違っても大っぴらには出ないはずでは?私たちをわざわざ使う理由が理解できない」
「独り占めしたくないのかな?一つでも手に入ればいい、みたいな」
言うと女たちは首を捻った。結局の所、身分の高い者の考えることなど、分かるはずもない。
(自分の思いも分からない私には、尚更、ね)
それならば自分たちの使命を全うするだけだ。沙羅は桶を抱えるようにして立ち、降る雪を入れていこうとした。息が白く吐き出される。もう雪を見ても刺さるような痛みだけで、涙は出てこない。まだ心配しているのか、こちらを盗み見る視線をこれこそ痛い程感じる。その一つ一つに沙羅は飛び切りの笑顔を向けてみせる。まだ頬は引き攣っているが、分からないだろう。
雪の量はかなり多く、あっという間に桶は満杯になった。蛍は何度か引っくり返していたが、皆壁となって地面の雪をかき集めていった。
「どうせ願いが叶うなんて、嘘だから」
透子は悪人のように口を歪める。しかしその姿も、可愛らしいといえばそうだった。
ようやく雪を牛車に置いて、中に入った頃には、もう足の感覚などなく。自然と震える体を寄せ合って暖を取った。
降っている白は、光輝く雪でも、願いが叶う雪でもなかったが。沙羅は雪を集めながら密かに願い続けた。しかし、それによって思い通りになることはなかった。それを蛍だけに告げると彼女は小首を傾げて、
「きちんとした、お願いの仕方があるのかも」
と言った。その理由でも腑に落ちなかった。もしそんな力があるのなら、どんな形の願いであっても、叶えて欲しかった。
沙羅はふと、願いを叶えたがっている存在に思いを馳せる。藤の宮は何を望んでいるのだろうか。少しはまともな考えであればいいのに。
何故かそう思った。
*
太陽が空高くに昇る頃、ようやく目的地に辿り着いた。藤道は珍しく焦る心を無茶苦茶に押さえつけ、ゆっくりと地に足を着けた。
「懐かしいな」
幼少時に植えた苗は今やもう、立派に成長していた。随分前から大きくなっていたのだが、来る度に苗の時の高さを思い浮かべる。――当然だが身長も優に越えている。葉がほとんど散ってしまい、茶色の枝のみが風に揺られていたが、その姿はどこか堂々としていた。けれど、それが見栄を張っているように見えて、少し笑う。
この木を見上げると、どうしても時が経ったことを痛感してしまう。
木の姿をじっくりと堪能してから、伸びをして、久し振りの外の空気を思い切り吸い込む。広大な池、豪華な建物。周りを覆う竹の垣。ここは藤道が幼少の頃に、少しの間だけ暮らしていた場所である。しかし、自分の中では最も思い出深い場所に、藤道は微笑んだ。
普段の落ち着いた表情と、時折見せる幼い表情が逆に入れ替わり、付き添いの者は目を細める。
垣にあった黒い染みを探し出し、彼は楽しそうに指差す。
「これ、この字読めるかい?――ああ、雨などで大分ぼやけてきてるなあ。実はここにね、私の名が書いてあるんだ」
従者は染みを凝視した。言われて初めて分かるような小ささだ。解読しようと顔を寄せる付き人を放って、藤道は場所を転々とする。
(前に来たのはさて、いつだっただろう。――初夏だったかな、新緑が美しかったのを覚えている……)
池を差し示して心底楽しそうに話しかけた。
「あそこ辺りで、私は一度水の中に落ちてしまったのだ。母上は心底心配してくれた。……しかし私は反省もせず走り回り、心配をかけたものだ」
「へえ――」
「勿論、二度と水に入ることはなかったよ。学習したんだ」
口を閉じて、何かを言いたそうにしている従者に尋ねた。すると彼は苦笑して
「実にらしくないお姿だと」
と答えた。藤道は問う。
「――それは今の姿かな、それとも昔?」
「どちらもですよ」
「そうか、私もそろそろ止めないといけないと、思っていた」
落ち込んだ風に言うので、慌てて冗談だと取り繕っても、藤道は遠くを見据えて離さない。その顔には、先程の無邪気さが消えてしまっていた。
「分かるよ、先程の私は実にはしたないね。――それでも、心情を晒すことに恥じてはいけないんだ。私もやっと理解したばかりだけれど」
「……すみません」
「謝ることはないよ、八郎」
そう口にしてから笑みを作った姿が何故か、痛々しく覚えて。苛立たしげに待っていた案内の者でさえ、はっとした表情になる。
八郎と呼ばれた男は、従者になってまだ年も明けていない。が、藤道が酷い、辛い状況にいることは痛い程知っていた。
藤道の横顔を目にして、先程の無礼と変わらない言葉を取り消したい思いで一杯になった。第一に従者の名を覚えてくれる貴族など、初めてだというのに。つい、馴れ馴れしく接してしまったと心底後悔する。
藤道は、父親から外出禁止を命じられている。母親との対面も、母親から強く責められなければ、一生叶うことがなかっただろう。それ程に、徹底して藤道の行動を制限していた。
それなのに、彼は一切、怒りをあらわにせず過ごしている。微塵も見せない。むしろ、それが世の常識とさえ思っていそうであった。このことによって、退屈そうにすることはあっても、塞ぎ込むことも、怒り狂うことも無かった。いつも物静かに、優しげな微笑をたたえている。
それを見た女子は余りのいじらしさに、心を捕まれてしまうのだと聞いた。
母性本能をくすぐられ、守ってあげたくなる、とも言っていた。
よって、彼女らは隠れて、藤道の退屈を紛らわすため、菓子や物を贈ってい
るらしい。それに対して藤道は父の目を盗んで、貰った物以上の礼を返すとか。それを知って、倍の物欲しさに物を贈るのも中にはいるが、ほとんどは好意からだろう。
八郎から見たら、守ってもらいたい男というのは如何なものかと思うが、藤道ならば、それも良いかもしれない。守ってもらうべきだとも思った。
落ち込む従者に、鋭く気づいた藤道は少し困った表情を浮かべた。ここで何かを発言しても、従者の表情が明るくなるとは考えにくい、と。
なので、藤道はお待ちかねの案内人に声をかけた。そしてようやく藤道を呼んだ者へと、足を向けたのだった。
*
案内された場所にも、自然と懐かしみを覚えた。この空間を包み込む香の香りも、昔の記憶を呼び戻した。障子に描かれた山の絵を藤道は食い入るように見つめた。この客間には、母親に内緒で入り込んだ。この山の絵の下にある雲が、お気に入りだったのだ。
「山に登ったことはあるかい?」
未だに落ち込む従者に声をかけた瞬間、勢いよく開いた障子に、返事がかき消されてしまった。
開いた障子から出てきた女性は、急いで走ってきたのか、ひどく呼吸を乱していた。その立っている女性に、座っていた藤道は嬉しそうに顔を上げる。
「母う……」
「藤、道っ!」
有無を言わさぬ速さで、藤道を抱き締めた。母と呼ばれた女性は、既に涙でぐしゃぐしゃな顔なのに、腕の中にいる彼はとても愉快そうに笑い声を上げている。あまりにも異なる二人の表情に、思わず滑稽な舞台でも見ている風な錯覚に陥る。
八郎がぼう、としていると藤道が笑って、母とは違う意味の涙まで流しながらも説明した。
「いつもの事だよ。母上が大げさなだけだ」
そう口にした途端に母の力が強く込められる。苦しそうにしながらもその笑みが消えることはなかった。
すると、追いかけてきた様子の従者が女を叱る。
「明子様!女性がそう走り回るものではありませんよ!」
息も絶え絶えに言った従者に、明子はつまらないと鼻であしらった。
「藤道様が到着してから、あんなに我慢してたんですから……最後まで頑張って下さい!」
「――あら、あなたにそこまで言われるだなんて。心外だわ、辞めてもらおうかしら?」
すっと恐怖の色に染まる従者に、藤道は助け舟を出した。
「……母上、それはあんまりですよ。私は別に気にはしませんが、お祖母様にまた怒られることになったら面倒でしょう?彼女の言葉は正論ですよ」
その一言で明子は従者に、
「冗談よ、馬鹿ねえ」
と、先程の表情を引っ込めて、声をかけてみせるのだった。
離れる腕にどこか悲しい表情をして、藤道は母と向き合う。きらめく黒髪を一束にまとめ、全身から優美さを撒き散らしている風に感じられる女だった。それはどこか藤道の雰囲気と似ていた。
息子の覚悟を決めた――何と言われても動かない誰かに良く似た頑固な――瞳の輝きから、気づかれないようそっと目を逸らし、明子は本題に入る前に世間話を振る。久しぶりに出会えたのに、こんな目をされては、歓喜の念も、幾分か減ってしまう。
「貴方と会えたのは、いつぶりかしら……。駄目ね、最近物忘れがひどいわ。藤道は覚えていて?」
「……五年ほど前では?木の葉が青々と茂る初夏だったと思います」
「そうだったかしらね。――また春になれば花が咲くわ。甘い香りを乗せて」
「それは楽しみです」
間が空く。母は、言葉は全て用意出来ているだろう。ただ、その時を見極めようとしているのだ。藤道は待った。こちらは既に用意出来ている。いつでも、大丈夫だ。たとえ、罵られても。
ようやく母は口を開いた。その声色は同一の人物か疑いたくなるほどに低い声だった。
「今回の騒ぎ、一体どういうことです。願いが叶うとは――実に馬鹿らしい。何よりも貴方らしくない。……この事態は全て貴方の口から出たそうですが本当だというの?」
「ええ。全て私の考えです」
すぐに返ってくる答えに、母は眉を顰めた。
「あの人に……騙されているのでは、なさそうですね」
「父上は何も知りませんよ」
「貴方のことを何一つね」
二人の視線が交わる。ぴん、と張り詰めた空気の中、八郎は呼吸を忘れる程、二人に見入っていた。
何故なら、このようにはっきりと自身の意見を言う彼を、初めて見たからである。いつも事に拘らず、好きにしなさい、と微笑む彼が普段の姿であった。
――だから父親に願い出たことは、屋敷中が困惑するほど、珍しいことだったのだ。女たちは藤道が大きく前進したことに、嬉しいやら寂しいやら、身勝手にも口々に呟いていた。
母は、藤道を見据えた。言葉を紡ぐ。
「竹取の姫のように、そんなわがままを言って。本当にらしくありませんね。……雪に趣があるなどと人を北へやって、雪を取って来いですって?――全く、全く!らしくないわ。あんなにねだるのが上手だった貴方が、そんな風に願い出るものかしら」
言葉の続きを待つ藤道に、母は思ったことを挙げていく。
「まずね、大っぴらにやることが理解できない。……その話が百歩譲って本当であったとして、どうして他人に知らせる必要がある?それを聞いた物好きまでも、使いをやっていると耳にしたわ。……幼い心など、従者の子を使えばいいではないの?――それとも、選ばれた女子の中の子を遠くにやり、事故に合わせて、亡き者にでもしたかったの?」
「違いますよ」
ようやく帰って来た返答に、母は不可解そうにした。
「北を選んだ理由は、母上の言葉にあったように、実に馬鹿らしい理由です。――が、本当の目的は他にあります」
「しかしそれを話すつもりはない、でしょう?」
藤道の笑みに苦しそうな色が混じり始める。母も分かってやっているのだろう、少し辛そうに笑ってみせた。
「どうして、――話せない?」
「……ここで話すことは、ここまでの動きを全て水に流すことになります。ここまでの、貴方と別れた時から、今までの動き――全てを」
すると母の笑みが瞬時に消え失せ、傷ついたように顔を強張らせた。
「だから、話せません。今、ここには私の従者がおります。勿論母上の従者も。つまり誰が聞いて真実を父上に話すか、分からないのです。私も、貴方に伝えられないのは、耐えられないほどに苦しく、身を貫かれるほどに辛い。だから」
「――貴方が、私を思って動いていることは分かりました」
最愛の息子の言葉を遮ってまで発せられた言葉は、もう喋るな、という意が強く込められていた。俯く母に、彼は思わず黙ってしまう。
「私が、何より訊きたいのは……、貴方はまだ、あそこに居なければならないの?ここでその計画とやらを進めては駄目なの?ねえ、ここで一緒に暮らしましょうよ、何もあんな所を選ばなくたって」
きつく握られた手に、藤道は目をやった。
「成功のためには、あそこに居座ることが大事なのです」
「私のことはもういいのよ」
「良くなんてありません。そして、何より貴方のことだけではない話なのです。――これは、中野家全てに関わること。私はその為に動いております。私の存在理由はそれだけなのです」
「そんなことは、あり得ません」
大粒の涙を溢す母に、藤道はどれほど胸を痛め、自分を呪ったことだろう。溢れ出る涙を止めてしまえたらいいのに。考えて、閃いた比喩を用いて母の悲しみを消そうと試みた。出来るだけ楽しそうに努めて話し出す。こちらを見た母の目が、また、赤くなっていた。
「母上、一石二鳥という言葉をご存知で?一つ石を投げてみると偶然にも、二つの利益を手に入れたという意味なんです。私はそれをしてみたい。やっとのことで見つけた石を手に、空に舞う鳥を、出来るなら二羽以上仕留めてみたい。それだけのことですよ」
「……その鳥は、あの人との関係のこと?それとも貴方の両親?」
返ってきた皮肉めいた言葉に、藤道は床に手を着き、頭を下げてみせた。
「母上、私は決して貴方を裏切りません。むしろ、お手をお貸し願いたくて、こちらから文を出しました」
「それは何?」
「――何度もこれ以上ないご厚意を粗末にし、失礼したのにも関わらず、恥を忍んで申し上げます。どうか、……ここに置いてくれはしませんでしょうか」
黙り込む母に藤道は、恥と不安で視線を落としながら言葉を続ける。
「勿論貴方には拒絶する権利がある。私を無礼者だと追い出しても構いません。何をされたって、不思議ではありませんし、覚悟も出来ております。……けれど、けれどどうか……、私を置いて下さい。どんなこともやりますから、どんなことでも、やってみせますから……!」
顔を上げた時に、見えるだろう表情が恐くて、藤道は震えた。それが、拒絶の色であったら。どんなに覚悟していても、恐ろしくてたまらなかった。
母は顔を上げなさい、と言った。それでも、上げられなかった。母にまで拒まれたら、自分はどうなってしまうのだろうと思った。ついに狂うのか。藤道は目を閉じた。もう一度、母は声を掛けた。何度も覚悟を決めて、ようやく体を起こした。
そこには、嘆き悲しんでいたはずの女の、満面の笑みがあった。恐れていた顔色ではないことに安堵するよりも先に、突然の笑みに、思わず気抜けしてしまう。
そんな藤道はお構いなしに、母は藤道の手を取って立ち上がり、再び抱き締めた。じっと息を詰めて見入っていた八郎も、目まぐるしい展開についていけず。既に諦めに入っている。呆然と二人を見つめていた。
「ああ、どれ程この時を待っていたかしら。やっと……、私の望みが叶いました……!ほら、雪なんてなくとも叶ったわ!……だから、貴方の望みも叶います。そんなものに頼らなくてもね」
そう優しく諭すように言われ、藤道は言葉を忘れてしまう。それを目にした母は何度も言い聞かせた。
「大丈夫、貴方は私の自慢の子どもですもの。私はね、貴方がすることに何一つ不安はありません。思い切りやりなさい。ただし、殺生はいけません。分かるわね?――あと、私のことも考える必要ありませんからね」
「……はは、うえ」
「貴方の望みが叶うことを、何よりも望みます」
やはり母には敵わないと藤道は思った。少しだけ微笑んで、それから天井を仰いで、ぽつり、と弱々しく謝罪の言葉を口にした。
それに母は、瞳を閉じて首を振った。何も言わずにいた。そのことで、何かを感じたのか。
「私たちは親子だけれど、そんなひ弱な関係でも、貴方を守りたいと思うの。愚かだと思う?」
藤道は静かに涙を落とした。
*
落ち着いた彼は、瞳に揺るがない覚悟を宿していた。
(私は、母を助ける。――私は、私の使命を果たすのだ)
名残惜しそうに別れる二人に八郎は、彼らの壁をここまで憎むことになるとは、と思った。こんなにも温かい家族を初めて見たし、実のところ羨ましく感じもしたのだ。
去り際、母は藤道を呼び止めた。その声は弾んでいた。
「貴方が変わった理由は誰?」
珍しく直球な問い方に、藤道は驚く。それに母は優しく微笑んでみせたのだった。
「分からないと思った?」
「……さすがです」
藤道は母に近寄り、耳元に囁き、その場を去った。
「母上にしか言いませんよ?」
「ええ」
その顔は可笑しいほどに真っ赤に染まっていた。その必死な様子に、母は微笑んだ。息子だって、こんな顔をするのだ。親が感じれる息子の成長を、少しも寂しいとは思わなかった。ひたすらに、嬉しかった。
「無邪気な女性のお陰です。名は――さら」
***
明子は、藤篤の現在の身分でさえ、優に上を行く天皇の娘であった。しかし、神は何を思ったか知らないが、彼女と藤篤が出会えることとした。
二人は初対面にも関わらず意気投合し、文のやり取りを始める。藤篤はその頃から気難しい者だったが、明子とは心を開いて、接した。
しかし、藤篤の元々の身分は町長の息子であったので、他よりは幾分高い身分であったとしても、天皇の娘とは、まったくもって釣り合わない。
そのやり取りを知った天皇は激怒し、恥晒しとまで蔑まれ、明子を屋敷から追い出した。それだけではこと足りず、親の縁までも切るという始末だった。
無一文となった明子に頼れる者は藤篤だけだった。すぐさま藤篤の元を訪ねた。
そして、その後に夫婦の仲となる。
藤篤が就いた職で彼の手腕が見事に発揮され、二人は上流貴族までのし上ってみせた。今では〝藤の宮〟と庶民から呼ばれるほどに、天皇に遠くない位置にいた。
次第に増えていく力という名の権力、財力。徐々に藤篤は、その果てしない魅力あるそれに溺れていくようになり、二人の仲は裂け、深い溝が出来てしまった。
「貴方は、どうしてそんなものに拘るの?藤道や私を何だと思っているの?家族ではないの?愛してなんてなかったの?」
「お前は、元々が偉い地位に居たから、この素晴らしさに気づかないのだ。別に私はお前を嫌になったわけでもない。ただ、もっと財が得られるのならば、何もしておらぬお前が働いて、もっと裕福になろうと言ってるだけだ。藤道も後にこの家を継ぐのだ。この名に誇りを持って生きて欲しいと思うのは、当然だろう?親として」
「だから、藤道をこき使って金を稼いだの?まだ体がしっかり出来ていないのに……それでなくとも、金を稼ぐなんてこと……しなくて良いのに!今、ここで体に何か異常があったらどうしてくれるの!あの子の将来を考えてっ!たくさんの重たいものを担がせてまで、そんなに金が欲しいの?ならば貴方自身が行けばいいじゃない。――狂ってる。何故、あの子を使うの、狂ってるわ……。二度と、親の心を語らないで」
藤道は五歳の頃、運び屋をさせられた。他にも、たくさんのことをやらされ、働かされた。それも勉学や音楽に励む時間に、である。母はすっかり安心していたのだ。まさか父に連れ出されているとは思いもせずに。
しかし幼い藤道の頭では、利用されていることが分かるはずもなかった。ただ、父親を喜ばせたいばかりに、必死に重いものを運び続けた。五歳児には持てる重さではなくとも、藤篤は大丈夫だと言って運ばせた。
「出来るな?お前は凄い子だからな。簡単だな?」
「も、もちろんです」
「凄いぞ、私は嬉しい。――私を失望させてくれるなよ?最後まで頑張れよ」
「わかっております」
そんな無感情の言葉でも、藤道は嬉しかった。藤篤はここ最近実の息子でさえ、顔を合わせると眉を顰めて、嫌なものを見るようにするのだった。ここで、こんなにも優しい声を掛けて貰えるのなら、藤道は自分から志願してまで、働いていた。
父からもっと褒められたいが為に、担ぎながらも全力で走ったりもした。それもかなり長い時間、駆け回り続けていた。
母が気づいたのは、藤道が足を引きずるように歩き、それを必死で隠すような仕草をよく目にしたからだ。このことは内緒だと念を押されていた藤道は、絶対に話さなかった。
「母様にも言えないことなのねっ?貴方は私にそんな接し方をするのね!」
「そんな……ちがいます。でも、……言えません」
埒があかない状況に、母は目を潤ませて首を振る息子の足を掴んだ。すると、藤道は絶叫して、離してください、と懇願し始めた。驚いた母はすぐさま手を退けて、そっと触れないように足を見た。
皮膚の色は変色し、違う方の足と比べれば、明らかに大きさが違った。母に掴まれたことがきっかけで、耐え切れなくなったのだろう、ひどい痛みを訴え始めた。
「助けて下さい、たすけて、母様あ!」
その声が、今現在も明子の耳につき、夢に現われて、離れない。
*
「あのお方に、何があったのかしらね」
辛そうに笑う母を見て育った藤道は、自分のせいなのだ、と悔やんだ。どうして、自分は黙っておけなかったのだろう、勝手に治すべきだったのだ。薬草でも見つけるなりして。
父とは、事がばれてしまってからは会うことは出来なかった。
藤道の足は後遺症もなく、完治したことにはしたが、塗りたくられた薬草やらの匂いや固定された布の感覚がこびり付いていて、しばらくは歩き方がたどたどしくあった。
藤篤は、この場所を母に譲り、出て行ったという。後から考えれば、それは藤篤をどうしても思い出させるように仕組んだのだ。藤篤を思い出すことにより、明子は苦しむ。それをよく分かってのことだろう。
明子は藤篤と別れてしばらくして、ここに居ることを不快に思い、金もまた藤圧が置いていったのでそれを使い、自分は彼に騙されていたのだと嘘を吐いて、親戚などに手助けされることによって、自身の家へと帰ることが出来た。譲り受けた土地は売り払った。
母は藤道が勉学に努めることを、快く思っていなかった。よって、教育など一切受けさせなかった。その時代考えられないことを明子はやっていた。慕う者が出来たのならこちらに嫁入りさせて、一緒に暮らせばいい。金はたんまりと存在するのだから。藤道に必要ではないことは、極力させたくなかったと言う。よって、勉学については独学でやることとなり、理解出来ないところは、従者に隠れて尋ねなければならなかった。
母はあの時の失敗から、他人を頼ることが出来ず、自分以外信頼出来ないと藤道を自室に居座らせ、寝かせた。母は、
「そんなにね、勉強なんてしなくて良いの。賢い子にならなくとも良いのよ。貴方は優しい子に育ってくれた。母様はそれだけで十分なのです」
と、微笑んで言った。
……それでも。十分ではないのは、藤道だって理解出来た。藤道の前では強く生きているように見えても一人になれば、辛そうに息を吐く母の後姿を、藤道は知っていたのだ。当然だ。愛していた男が裏切り、息子を傷つけられ、自分をも、傷つけた。
母はまだ、父を愛していた。今も多分どこかで、愛しているのかもしれない。許したいけれど、許せないのだ。自分の存在のせいで。
藤道は自分を守ってくれた母に感謝している。……けれど、もし、一度でも母が守ったことに後悔していたら。どうしたらいいだろう。藤道は命を捨てたくなった。
――高い身分に酔った者がこうまで、おちぶれてしまうのなら、もっと低い、低い身分ならば良かったんだと、屋敷の周りを歩く子供を見る度に羨んだ。
藤道は短時間で、恐ろしい程成長した。伸び盛りというのも手助けしているとしても、その神童ぶりには、周りの大人を驚かせるには十分だった。藤道の噂は屋敷から、貴族へ、そして多くの民にまで行き渡っていった。そして、藤篤の耳にも当然、その音は届いていた。
藤道は得意げに母に問うた。
「母上、私は聡い子になりました。今では多くの者がそれを知っています。嬉しいですか?」
「嬉しいわ」
微笑んで答えてくれた。その笑顔に、藤道は痺れるような歓喜を感じていた。
「だからもう――」
「母上、私、もっと頑張りますね!頑張ります、絶対に。母上は、誇りに思って……くれますか?」
「もう、貴方は既に私の誇りですよ」
しばらくして、藤道宛に文が届いた。父からだった。わざわざ母の目が届かないように文使いをやったのだ。藤道は純粋に喜んだ。そして焦って震える手を使って封を開けた。
内容は簡潔で、自分と一緒に住まないか、といった誘いだった。その、二、三行で終わっている文を見つめ、父の考えが手に取るように分かってしまった。もう、自分は昔の無知な自分ではない。
(父上は、恐れているのだ。私が、復讐でも企てないか、と)
だから身近でそれを阻止したい。そういうことなのだ。決して、実の息子に会いたいわけでもなく。藤道は落胆した。けれど、一瞬だけだった。
(ならばこちらも、利用しよう。今まで練っていたことを、実行する機会がやって来たのだ)
藤道はこのことを嘘を吐かずに、真実だけ述べた。というよりも、述べざるを得なかった。母に嘘など通じないし、嘘を吐くことを心底嫌っていた。
藤篤には既に妻がいた。ならば必要ない、むしろ邪魔にしかならない藤道を、何を思って側に置くのか。貴方を利用しようとしているんだわ、と勿論、母は猛反対し反発した。年も僅かな最愛の息子まで、奪われてなるものかと。
しかし、藤道は何と言われても、自分の意見を貫き続けた。
「母上、私は行きます」
藤道の意思により、藤道は中野の姓を、再び背負うこととなった。
「どうして……!」
荷物を牛車に乗せて、立ち去ろうとする息子に縋り、嘆き狂った母。藤道は一切理由を口にしなかった。ここで口にすれば、失敗する確率がぐん、と上がってしまう。
ただひたすらに、
「このことは、母上のためになりますから」
と言い聞かせることしか、出来なかった。
藤道はそれから、様々な制限により縛られ続けている。外出の禁止や歌を詠んではいけないこと、音楽に親しんではいけないことなどがあり、ともかく藤道の才能を高めることをしてはならないことになっている。
何より厳しく言われ続けているのは、藤篤と新しい妻の子――藤丸との係わりだ。
決して余計な言葉を交わすな。顔を合わせるな、絶対に。この言葉により藤道は義弟と話したことがない。
怨むべき位置にいるはずの藤丸を、藤道は家族として接していた。彼が悪いわけでは決してない。可哀想に巻き込まれただけである。藤丸との会話がないことを、誰よりも悲しく思っているのは、藤道であることを皆は知らない。
**
「兄上、どこに行ってらしたのですか」
しまった、と藤道は後悔する。いつもなら従者が使う廊下を選び、弟の部屋から遠ざかり、部屋へと帰るのに。多くのことが起こりすぎて、すっかり忘れていた。
「大したことなどないよ」
そう言ってあしらおうとしたのに、
「答えになってません」
藤丸が引くことはなかった。
藤丸もまた同じように父から、
「義兄と近づくな」
と、言われているはずなのに、藤丸はお構い無しに声を荒上げる。まだ幼さが残る、義母に良く似た顔に、藤道は苦い表情を向ける。こんな所を目撃され、告げ口をされたりすれば、間違いなく仕置きだろう。義弟も馬鹿ではない。分かっているはずだ。
分かっていてやっているのならば、こちらから去ろう、と足を向けると、藤丸も動きを真似する。
「早く離れなさい」
自分で言って寂しく思うが、慌てる様子が一切ない弟を見て、気が気でない。
「お答えをまだ耳にしてません」
「藤丸」
「兄上の母上ですね?そうでしょう!――話したくないのも、私みたいな憎い者に大切な人を話したくなくて……」
「違うよ」
部屋の戸を開け、そっと藤丸を見る。
「もうすぐ、終わるからね。藤丸が悩んでいることには、消えてもらうから」
「……わ、私を亡き者にしようと――」
「だから違うよ。……ほら、そんなことより土産がある」
袂から小さな包みを取り出す。八郎に買ってきてもらった品だ。藤道は弟の小さい手に握らせて囁いた。
「唐菓子だ。一人の時にお食べ」
「に、兄様」
「うん、まだ兄様にしておいてくれ。急に大人びては寂しい」
無邪気に微笑む藤道を目にして、藤丸は戸惑いながらも笑い返した。不格好な笑みだった。それに対し、さらに笑みを深めた藤道はまるで、小さな子供のようだった。
さあ。早くお帰り、と背中を押す手に、藤丸は反発するよう足に力を込めた。
「兄様、私は貴方を嫌だと思ったことは、ありませんから!」
「ありがとう。嬉しいよ」
「う、嘘だと思ってますね!本当です、貴方みたいに嘘はつきませんから!」
「ようく分かった、だから早くお帰り?」
まだ渋る藤丸を、父上に怒られるのでは?と呟けば、仕方ないとゆっくりではあるが動き始めた。その後ろ姿を見送って、空を仰ぐ。大分あちらに長居していたようで、もう日が暮れようとしていた。
(母上、藤丸。私の家族を取り巻く悪いもの全て、とはいかずとも……私の出来る限りでそれらを無くしてしまおう。それが私の使命。私の愛する人たちの為――)
「時はのちに満ちる」
襖を閉めた音だけが残り、そして消えた。
*
従者は女たちが寝静まった夜の内に、地面に向けて雪の入った桶を引っくり返した。ばさり、とかなり大きな音がした。しかしそのことに、あまり危機感を覚えなかった。目が何度も閉じかけて、意識が飛んで行きかけた。さすがに寝ずに北から戻ってくることは難しいのか、とつらつら思った。
朝、まだ太陽が昇らない、元気のない空を仰いだ。もう帰られる。もう少しだ。
「君に願いたいんだ。頼むよ。彼女らを守ってくれ」
藤道の言葉を頭の中で繰り返す。従者は、首が取れそうなほどに頷いた。藤道はその様子に苦笑してみせた。
「さくら、寒いね。早く帰ろうね。藤道様が待ってるからね」
優しい人だ。それと、可哀想な人だ。わざわざ女の従者を選んだ藤道は、
「守ってくれ。それだけでいいから」
とだけ言った。そんな風に、優しさを誰かに向けられるなんて、自分には出来ない。藤篤の命に従って、藤道の分を捨ててしまった。そうしないと、自分の立場が危うい。そんな自己中心の考え方に対して、やはり罪悪感を感じてしまう。
「次は、誰かの為に、優しさを……ね」
ふと、この方向でいいのか?という疑問が湧き上がった。辺りはまだ暗い。道を見失いがちだが、急いで帰らないと。藤道が待っているのだと、夜であっても一睡もせずに前を向き続けた。
ふと、一瞬光った気がした。何かは分からない。その時に遠くに崖が見えた。危ない!そう思って道を変えようとしても、遅かった。そう思った。
やって来た浮遊感。牛車は気づけば、落下していたのだった。
*
「あ、また」
早く目覚めた女たちは、談笑していた。蛍がふと外を眺めて言った。
「どうしました?」
「また牛車が。昨日もすれ違ったわ。どこのお貴族様かしら」
「噂を聞いた物好きが、北へ出向くと。なるほど。お暇ですね」
「ふふ伊勢、貴方ったら厳しいのね」
「……驚いた、無意識の内でした」
沙羅のことで貴族に対しての考え方が変わった女達は、笑う目にどこか皮肉と嫌悪感を詰め込んでしまっていた。それを知る沙羅は、どことなく苦い表情をするが、自分も確かに貴族については、姉たちと同じ意見である。少し頭が変だ。金の無駄遣いとか。
未だ元気が出ない沙羅を気遣って、皆面白い話をしようと口を動かしていた。
「そういえば透子は、好きな殿方がいるの?」
蛍の声に反応した沙羅を見て、皆心の中で蛍を称える。そして自然と皆の透子への視線が縋る風になった頃、透子はもったいぶるように言った。
「さてねえ、言うのも惜しいわね」
「あら、私は言ったわよ?教えないなんて理不尽ではなくて?」
「どうしましょう」
「とある物語の殿方のように、たくさんの恋をしてきた貴方が選ぶ人は、どんな人なのでしょう……。気になりませんか、沙羅」
わざとらしい言い方だが、沙羅は全く気にせずに、瞳を輝かせて頷いた。
「透子姉様は、本当に好きな方がいるの?」
「ふふ、いるわよ」
「本当!誰?ねえ、私が知ってる方?」
「ようく、知ってるわよ」
横目で考え込む沙羅を見つめる。
「時間あげる。考えてみせて」
「教えてはくれないの?」
「ええ、だってその方が楽しいじゃない」
先程よりも断然楽しそうな沙羅を、女たちは目配せしながら微笑み合う。そして不自然に思われないように、こちらも会話する。
「伊勢はいないの?慕っているお方は」
「今の所はいませんねえ……」
「まあ伊勢よりも格好良い方なんて、滅多にいないものね」
「そうでしょうか、分かりません」
苦笑する伊勢を見上げて、沙羅は問う。
「伊勢姉様は分かってるの?」
「ふふ、知っています」
ということが嘘です。と心の中で追加する。多分透子が好きな方も、きっといないだろう。嘘も方便というからなあ、と伊勢は思っていた。
「そんな!では、蛍姉様も?」
「私は知らないわよ?でもねえ、何となく予想は出来るかな」
「誰?」
笑う蛍は透子を一瞥して、答える。
「――伊勢」
「え?」
沙羅は目を丸くする。何を言っているのか、よく分からない。
「お姉様、伊勢姉様は女の方で……」
「そうでしょう、透子」
答えようと口が開かれた瞬間、牛車が急に揺れ、下へと落下していくような感覚に陥った。
「ひゃっ!」
中にいる女達は辺り構わずぶつかり、前につんのめる形で団子状態となっていた。遠くで牛の悲鳴が聞こえる。時は待ったを与えず、新たに被さってきた雪の重さで潰れた屋根から雪崩が起きた。体の小さい沙羅はすっぽりと雪に埋もれて、息が出来なくなる。他の者たちも首まで雪に埋もれ、必死に息を吸おうとした。
もがく女達に容赦なく下からも、鋭く尖ったような物が突き刺さり、沙羅の右足を掠った。
「ひっ」
広がる痛みにより、さらに呼吸がし辛くなる。沙羅は荒い息をしながら雪を無茶苦茶に掻き分けた。あまりの冷たさに瞬間的に手の感覚が無くなるが、こんな雪に殺されてたまるか、と闇雲に掘った。
すると、背後から押し上げてくれるものがあって、沙羅は何とか空気を吸うことが出来た。
「大丈夫ですか、沙羅」
顔が青い伊勢に、沙羅は困惑する。感謝の言葉も忘れて、どうしたの、何があったの、と問い詰めると伊勢は、腕に木が少し刺さったのだと、苦笑混じりに答えた。
「医学については全くの無知ですから、この状況をどうしたらいいのか……分からないんです」
ずっと血が流れ続けているのだろう、掘り出した腕の近くの雪が濃い赤に染まっている。しかしこの量は、伊勢だけの血ではない。
ふと辺りを見渡すと、伊勢の片腕に蛍の頭があった。意識を失っていて、額には汗が張りつかせている。荒い呼吸に時折、苦しそうな呻き声が混じる。
「蛍、姉様……?」
「彼女は腹をやられているみたいで……傷は私より浅そうですが、元々体が丈夫でないし、それにもし無理やり抜いて、変な病に侵されたりしたら私は――」
「透子姉様は?」
「……分からない」
その言葉に沙羅は違う意味で震えが止まらない。二度は泣くものかと唇を噛み締めるが、早くも視界が歪み始める。沙羅は憎しみとたまらない不安を抱えながら辺りを掘り始めた。その手に、ありったけの憎悪を込めて。
「全部……全部こいつのせいで……!」
「沙羅、蛍姉様を頼みます」
はっとする程の優しい囁きに、沙羅は動きを止める。そして驚愕する。
動けないはずの伊勢は、足を前に動かし、歩き出していた。膝まである雪を掻き分けて進む彼女の腕に、視線が吸い付いた。
腕は雪によって見えはしないが、通った後の白に薄ら、鮮明な赤が点々としている。無理をしているのだ。制止させようと、必死について来る沙羅に、伊勢は切迫した顔で詰め寄った。その顔は汗でびっしょりで、眉に深い皺が刻まれていた。歩く度にうごめく痛みの元に、きつく爪を立てていた。それを見て、咄嗟に沙羅はその手を掴んだ。が、力が強くてとてもじゃないが、引き剥がせない。
伊勢は言った。その声があまりにも冷静で、沙羅は驚きの色を顕わにする。
「何をしているのです、聞こえませんでしたか?」
「へ……?」
「蛍姉様を頼みます。――沙羅、ねえ、どうして動かないんですか。貴方が、こんなに……こんなに!聞き分けのない子だと、思わなかった!」
途切れ途切れになる言葉は、痛みが呼吸を邪魔するせいでも、寒さのせいでもないのが、沙羅には分かっていた。
ただ、どんなに嘘であろうとも、初めて受けた棘のような伊勢の言葉に、どうしても唖然としてしまう。気圧され、傷つけられ、沙羅は何も音に出来なかった。目が大きく開き、揺れる。
「――貴方は今、何を優先すべきだと感じる?今、何を考えているの?私はねもう、すぐにもぶっ倒れそうなんですよ……!動ける貴方はしっかりと蛍姉様を守りなさい、お願いよ。……私も、頑張るから」
「いやよ、いかないで」
「沙羅、貴方は小さくとも、きちんとした心を持っているでしょう?大丈夫、まだ生きたいから」
掠れる語尾に、伊勢は情けなくなりながらも、厳しい表情を作ろうとして失敗した。呆れて伊勢は笑ってしまった。その笑顔は、何かを諦めた風でもあった。
「沙羅、蛍姉様の元へ。――そう、蛍姉様を動かさないように、抱え込んで。いいですね、では行きますよ」
そう言い終えるなり、伊勢は思い切り牛車の壁に蹴り込んだ。恐ろしい音が辺りに跳ね返ってきたが、薄らひびが入っただけで、大きな変化はなかった。
「……堅いな、さすが貴族の車」
伊勢は女だが、昔武士の友と体を鍛えたりしていたのだ。よって普通の女とは違い、体力も腕力もあった。しかし今の時代それは恥ずべき、はしたないこと。彼女は普段からおしとやかに生活するよう心がけていた。
何発も蹴りや拳を当て続けていると、ようやく大きなひびが出来た。伊勢は何度も消えそうになる意識を呼び覚まし、渾身の一撃を与えた。
先程よりも鈍く低い音がしたと思った瞬間、雪が開いた穴から雪崩れ落ちていく。それにより傾く牛車に沙羅は、一生懸命蛍を抱え込んだ。動かさないようにしないと、そう思っても上手くいかない。蛍は何度も苦しそうに呻き、叫んだ。
「蛍姉様、ごめんなさい、ごめんなさい!」
牛車が地面に落ちた衝撃により、沙羅は強く背を打ち、外へ出た。どうやら牛車と地面は離れていたらしい。あまりの痛みにしばらく動けずにいたが、ようやく薄く目を開けて、周りを見る。すぐ目前には巨大な木があった。その枝は所々赤く染まっている。そして牛車の残骸が、枝に残っていた。どうやら宙吊りの状態にあったらしい。道理で地面に叩きつけられたわけだ。
「皆は……?」
沙羅は起き上がって、もう一度きちんと周りを見渡す。外は不思議と暖かい気候にあり、牛車に降りかかっていた雪は、みるみる融けていった。
沙羅はそれを優越感の混じった目で見つめて、――はっとする。
「私は、今、何を思っていたの」
この白に何を感じているの。沙羅は強く打った頭を抱えた。何かを思い出しそうになって、必死に止める。言うことを聞かない自身に恐怖さえ感じていた。
「何があったというの、私――私が、北の地に憧れた理由――」
思わず泣きそうになっている自分。沙羅は力無く崩れ落ちた。
「あの方に会っただけじゃない……」
「沙羅」
伊勢の声がしたような気がして、人の姿を探す。そこに、黒い髪が見えて、がむしゃらに這い、近寄った。
ぐったりと倒れたまま起き上がれない伊勢に、声をかける。
「お気をしっかり……!」
すぐに伊勢の近くへしゃがみ込み、持っていた小さな布で傷を塞ぐ。しかし、沙羅もまた医学については無知であったので、ただ包み込んだだけである。震える沙羅の指先を、伊勢は自身の手でしっかりと包み込んだ。
「ごめんね」
「え?伊勢――」
「ごめん、沙羅。貴方の為にはならなかった……!」
「どういう意味……」
遠のく意識を繋ぎながら、伊勢は何度も謝った。虚ろな瞳を沙羅は、どうする術もなく、ただ祈るように手を握り続けた。このまま、伊勢が息を引き取ってしまったら――。考えるだけでおぞましかった。ずっと喋り続けて欲しくて、ひたすらに相槌を打った。
「貴方が北に憧れていたのを知っていたから、戸惑う貴方を丸め込んだ……。けれど、着いた早々絶望した。私が、ね、何も言わなければ良かった。そうなんだよ。そうすれば……、こんなことに巻き込まれなかったんだ」
「そ、そんなこと!だって私は私の意志で――」
「私は、貴方に幸せになってほしい。勿論私の家族は皆、幸せになってほしい。誰か一人でも、不幸になんてならないで。そんな風に思ってる、いつも」
無言になる沙羅に、伊勢は少し視線を上げてただ呟く。細々と動く唇が発する音は弱々しく、小さかった。
「私の本当の母は、貴方たちが呼ぶ母様だ。どうして母様が母と呼ぶように言うのか。どうして部屋を用意するのか。それは全部私のせいなんだよ。
私の父は事故で亡くなった。あれは冬の時だったかな。私はひたすらに寂しかった。母もそうだった。……けれど、新しい父などほしくなかった。大好きな父の代わりなど、誰も務まらない。というよりも、亡くなった者の代わりなど元々いないだろう?……けれど一人っ子だった私は姉妹がほしかった。寂しかったんだ。そのことを、ずっと黙っていた。でも、耐えるに耐え切れなくて、勇気を出して告げると、母はすぐに答えてみせた。
『私はもう、貴方だけの母ではなくなるけれど、それでもいい?』
私は勿論だと頷いた。当時幼い私には家族が増えることだけで頭が一杯だったのだ。
そして母は今の店を建てた。そしてたくさんの女たちを雇い始めた。女だけなのは、母が店内での問題を少なくしようとした為だ。殿方が周りにいれば、恋愛後となど、問題が出てくるだろう?――よって私は家族を、手に入れた」
「姉様……」
「沙羅、私は元々男っ気があった。物事を隠すことは今になってもまだ、苦手だ。私の性格で傷つけられた人はたくさんいる。家族と言ったって、仮の家族だ。謝る前に店から出て行く者だっていた。それは一度じゃない。何度もあったんだ。私は変わる決心をしたんだ。このままではいけないと思った。――大切な家族を大切にするため、態度だろうと言葉遣いだろうと丁寧に、触れるのさえ恐れるほどに優しく接した」
眉根を寄せて、胸の辺りを握り締め、伊勢は眉間をきつく顰め、告げた。
「沙羅、私は間違っていたんだ。幸せになる蛍姉様を、去ってしまう蛍姉様を私が、――な、亡き者にしたんだ……!透子も、生きてないかもしれない……。私が願ったから、白粉に、〝行かないで〟と願ったから――、きっとそうなんだ!」
「え?」
伊勢は怪我のない腕で顔を隠し、嗚咽を漏らした。そしてしきりに、私のせいだと呟いた。
「大事にしたかった、それだけなのに――、沙羅、ごめんなさい。皆、ごめんなさい」
「伊勢姉様、大丈夫よ。それに蛍姉様もまだ生きてるわ、絶対に」
「何が大丈夫なんだ……」
「大丈夫。だってその白粉は、本物ではないもの」
首を力なく振る伊勢の手を、強く握り締めた。
*
伊勢に、待っているようにと言葉をかけて、沙羅はもう一人の姉、蛍を助けに向かった。その後、行方知れずの透子を探す、という考えだ。
抱きかかえて落ちたところに戻ってみるが、しかしその姿は既になくなっていた。有り得ない。沙羅は焦って、伊勢の元へと戻るとここでもまた、伊勢もいなくなっていた。
「どうして!」
叫ぶ沙羅は気が動転していた。だから、何度もこちらを呼ぶ声に、気づかなかった。
「――そこの者、落ち着け。こちらだ」
そう言って現われた人物に沙羅はただならぬ雰囲気をまとって、詰め寄った。
「あなた、誰。私の大切な人たちをどこへやったというの。怪我をしてるのよ。動かしたの。あなたが?血も涙もない鬼だわ」
「だから落ち着け」
案内する、と歩き出した男の後を、沙羅は信用出来ないと睨みつけていた。しかし、男がこちらを振り返って、
「取って食おうとは思わぬ。色気の欠片も無い女なのに」
という言葉に、腹を立てかけたが、事実は事実なので黙っておく。それに何度も言われ慣れているので、冷静であれば、特に何も感じなかっただろう。
沙羅は、やり切れない思いのまま追った。――もし姉たちが酷い扱いを受けていたら、この男の命を奪うところまで気が済まない。その後一生怨み続けてやる。
そこまで考えていると、湯気の上がる泉へついた。湯気?と思って近づくと、地面には手で掘られたような跡が残っている。泉はかなりの大きさで、湯気のお陰で周りを捉えにくい。暖かさに、体の芯が温まっていくのを感じた。
男は説明した。
「長い年月をかけて穴を掘り、そこに外の雪を持ってきて温めた。そして融解させて水を作り出し、泉を作った。なかなかの出来栄えだと思わないか?これは昔に――」
「説明の途中悪いけれど、皆は?」
焦れる沙羅に男はため息混じりにあそこだ、と指差した。指の先を視線で追っていくと、泉の中に入る三人の姿があった。見つからなかった透子もいる。
沙羅は慌てて三人の元へと駆け寄り、声を掛ける。皆顔色が先程よりもすこぶる良く、穏やかな表情をしている。沙羅は一瞬にして力が抜けて、その場に膝をつく。安心した。本当に良かった。
「皆……、透子姉様も……。ご無事で良かった」
いつの間にか隣に来ていた男が、そっと呟く。
「少し寝かせてやれ。直によくなるから、心配いらない」
「この水は特殊なの?雪どけ水だから?」
「いや、雪水はあまり関係ない。我の地方神が生み出した熱によって、治癒力を得たのだ」
地方神、というのを初めて聞いた沙羅は、まずそれについて尋ねた。
「我はこの一角を担う神なのだ」
驚く沙羅は自分の耳を疑った。その様子に男は付け足した。
「嘘ではない。お前が求めて来た雪も、我が作っている」
重ねられた驚愕の言葉に、呆然とするしかなかった。自分たちが求めてやって来た、願いの叶う白粉は、存在したのだ。まさか。おとぎ話だと、沙羅は今の今まで信じていたのに。まさか、そう思い込んでいるだけなのだろうか。そう思って、自分の持っている知識を、男に問うてみた。
「――願いが叶う雪は、自ら光を放つ……のよね?私たちが集めた中には、その力はないわよね?」
「当たりだ。何故分かった?」
「本に書いてあって」
「ほう、その本は余程古い時代に書かれたものだろう……。成る程、書物は凄い力を持っている」
感心する神に、沙羅は他にも色々のことを問おうとした。が、神は少し待つように告げて、どこかへ行ってしまった。
やることが無いので、しばらくこの暖かさに酔いしれることにし、瞳を閉じて体を休めた。
「沙羅?」
目を覚ました透子は名を呼んだ。飛び起きた沙羅は、声が出にくいのだろう透子に近寄った。
「ごめんなさいね」
発音されたのは、またもや謝罪の言葉だった。透子は伊勢と全く同じように、声を絞り出し、話し始めた。
「私ね、すごく悩んでいたの。私には無いものについて、すごく、ね。蛍姉様の人を魅了する雰囲気、鈴音姉様の、相手を寄せ付けないまでの冷徹さ、母様の妖艶さ――。全て私に無いもの。挙げればきりがないわね、伊勢の頼りになるところも、貴方の無邪気さも、私にはないわね。――殿方はね皆こう言うのよ、私には何かが足りないと」
透子は力無く笑った。何もかもに疲れ切った顔だった。
「沙羅も分かるでしょう。私には、感情が無いのよ」
「……え?」
「喜怒哀楽が、無いの。今まで嘘吐いて自分を作ってたわけよ。笑顔も練習して作った」
段々泣き笑いに変わっていき、全てを吐露した。
「無いけど、無いものを埋めたくて、私はたくさんの殿方とお付き合いし、愛を知ろうとした。作った笑顔を貼り付けて、相手の方に愛を告げてみせた。けれどもね、何か足りないのよ。皆にはあるものが、私には欠片も存在しないのよ。喜びも、悲しみも。沸きあがる感情がない。楽しい時に、楽しいと感じられない。――皆どうして笑ったり、泣いたりするのかな。どうして人を愛するのかな。私おかしいでしょう?心の中が……、いつも空っぽなの」
ここで何も口にしなければ、透子の為にならない。だからといって、慰めれば傷つけてしまうだろう。
沙羅は笑った。いつもの笑顔を必死に浮かべて、透子を見据えた。
「おかしいわ、透子姉様。それは妙よ」
「……そ、そうよね、私どうしたら……」
「どうするも、透子姉様はきちんと感じているじゃない」
あんまり唖然とされるので、沙羅は思わず声を上げて笑い出した。
「透子姉様、私を気遣ってくれたじゃない。泣きなさい、って優しくしてくれたじゃない」
「――だ、だからそれは偽物で」
「私の為に怒ってくれたじゃない。これら全部偽物なんかじゃあないわ。他人は欺けても、自分には嘘を吐けないもの」
咳き込む透子に、沙羅は肩に手をやって擦った。
「嫌な物を我慢する、隠す、相手に嘘を吐く。でもね、長い間自分を偽ることなんて出来ないのよ。いつかは自分が出てくる。それに、自分が他人と違って当然じゃない。皆同じだったら、存在する意味さえなくなるわ。
牛車で姉様、凄く楽しそうだった。あれをね、偽物でやることは絶対に無理よ」
表情を崩し始めた透子に、沙羅は優しく微笑んでみせた。
「伊勢姉様は貴方を大事だと言ったわ。私もそう」
「伊勢……、伊勢はね気づいたの。私が嘘つきだって」
「でも決して傷つけたりしなかったでしょう?」
頷いた時、涙も溢れ落ちた。そうよ、伊勢は一緒に笑おうって声を掛けてくれたのよ。透子は普段の上品さではなく、子供のように泣きじゃくった。沙羅はそれを温かい笑みで見つめていた。
――やはり、と沙羅は、伊勢の言葉に首を振った。この旅によってたくさんの悩みを聞き、一緒に何かを考えた。そして人それぞれの悩みを知った。……この時間が無駄なはずがない。
来て良かった、沙羅は心からそう思った。
「私、それなのに願ってしまったの。生きているのが辛いから、このままいなくなりたい……と。巻き込んでしまってごめんなさい……!」
「――大丈夫よ、姉様。あの雪には何も力など無かったから」
「ほ、本当?」
「ええ、勿論。私が透子姉様に嘘吐いたこと、ある?」
「ない」
沙羅は立ち上がった。透子の安らかな笑みを見て。疲れたのだろう、そのまま眠りに落ちた。
もう安心だと、沙羅はやって来た神に近づいた。
*
鈴音は、旅立った妹分を見送ることが出来なかった。鈴音は頼まれごとの為、留守にしていたのだった。店に帰って来ると、仲の良い沙羅の姿を探したのだが、見つからない。仕方がないので、近くに居た、話したことのない者に尋ねると、藤の宮の命により、北の地へと旅立ったと言う。鈴音は珍しく取り乱して、店主の下
へと駆けた。畳の上でじっと本を読む姿に鈴音でも、あまりにも妖艶で見惚れてしまうが、すぐに言葉を紡いだ。
「母様、沙羅を、他の子たちを、どうして北へおやりになったの?」
「どうしてって?その命に背いたら、私たち処刑されてしまうわよ?」
「……だからって、あんな危険なところに?命を失くしに行くようなもの!」
「そういえば、貴方は北の生まれ、だったかしら」
のんびりと答える母に、苛立ちさえ生まれてしまう。
「らしくない……。我が子を大切に思っている、貴方らしくないわ」
「そうね。言われてみればそうかもしれない」
けれど。と微笑んでいた母は、すっと表情を消して、鈴音を見据えた。
「ねえ、鈴。これから貴方の特に可愛がっている妹分が、大変な目に遭う。貴方の大切な〝友人〟の手によって」
「え?」
「今からどこかへ逃げることは出来ないわよ。死ぬことは出来てもね」
「ど、どういう意味……?」
「貴方の心が決まったら、私の所へおいでなさい。迎えに行くわよ」
鈴音は全く意味が理解出来なかった。何よりも、母のこのような表情を見たことが無かった。周りには不自然にも、誰もいなかった。先程声を掛けた者も、気づけばいない。この空間には、母と鈴音のふたりだけだった。
「沙羅は貴方の為に、今から死にかける。貴方は信じていなさい。それが、届くかどうかは分からないけれど」
「母様、きちんと教えて下さい、お願いだから……!」
「いいわよ? けれど、覚悟しなさい。今から話すことは、貴方の過ちを伝えることになるから」
*
鈴音は、藤の宮へ行く途中の橋から、川を覗いていた。願いが叶う雪の看板は既になくなっていた。川の流れは、急くように速く、落ちてしまったらどうなるのだろうと、ふと思った。
沙羅と話していたことを、思い出していた。年の離れた妹分とは、自分でも驚くほどにたくさんのことを伝え、聞いていた。沙羅の話が、特別面白いわけではなかった。ただ、一緒にいることが、すごく救われているように感じたのだ。
「沙羅、私は、弱い」
貴方のように、強くない。そのことが、悔しい。
母はまず、自分の立場から教えてくれた。
「貴方の友人と一緒の、地方神よ。ここの地方を任されている。伊勢の母親でもあるけれど」
鈴音は、伊勢の母親であることを、薄々感じ取っていた。何故なら、ふたりの顔はどことなく似ていたし、母は特別、伊勢に対して優しく接しているように思えたからだ。そこに驚きはない。
「じゃあ……あの人と同じ……?」
「そう。彼の方が私よりも若いけれどね」
驚く鈴音に、手早く事情を説明した。じっくりと話すよりも、手短に話し切って、ひとりで考える時間をあげようとしてくれているようだ。鈴音は感謝したが、あまりの驚愕の事実に、頭がついて行かない。
「貴方が彼に約束したことが、発端になって、彼は神であることをやめようとしている。そして、そのことで沙羅は生死を迷うことになる」
「え……!そ、そんな。どうして?どうして沙羅が選ばれたの?私じゃなくて、どうして――?」
「そりゃあ、貴方との約束の内容のせいでしょう。貴方が巻き込まれては、駄目なのよ」
しばらく黙ってから、鈴音は問うた。
「……絶対に沙羅なの?他に北へ向かった者ではないの」
「鈴に近かった者が選ばれる。沙羅ね」
「私は蛍とだって仲が良い」
「沙羅は、あの中で一番子供だから……。色々な意味でね。彼女は一番成功率が高い。だから彼は、絶対に沙羅を選ぶ。他の地方神もきっとそう。私も、そう」
沙羅には、神を寄せ付ける力があるのか。鈴音は思った。
「貴方が約束したことで、それが彼の使命になった。今回のことが成功すれば、彼は神の名を略奪され、消滅する。止めれば沙羅が命を落とす。――どうする?私は、貴方の答えに従いましょう」
――消滅とは、具体的にどういうことなのだろう。どれ程時間がかかるのだろう。彼と話す時間は存在するのだろうか。
沙羅が、死ぬなんて考えるだけで辛い。彼が消えるなんて、思いたくない。
『二択しかないわよ』
母の言葉は、酷だ。そんなの、選びたくないに決まっている。私はどちらを選ぶんだろう。こういう時、まるで自分の問題ではないような気がしてしまう。日々物事を、客観的に考え過ぎているから、それに慣れてしまっている。
「沙羅、貴方なら、どうしたい……」
**
思い出すのは、いつもふたりで話し合った岩の上の自分。最初ははしたないと言っていたけれど、沙羅の髪が風にふわり、と揺れるのを見ていると、不思議と座りたくなって、それからずっと鈴音の定位置になった。
「ねえ、鈴姉様。――姉様は慕っている殿方がいる?」
「私?残念だけど、そういうのは少し苦手。分からない。私じゃなくて他の子に訊いたら?その方がずっと良いと思うよ」
「もう!鈴姉様だから訊いてるの!……私だって分からない、でもね」
「うん、うん」
「すぐ側にいたいわけじゃないけど、その隣に誰かがいるのは、許せない」
思わず笑ってしまう。沙羅がいたって真面目に話すのだから、余計だ。あまりにも筋が通っていない。それならば、自分が隣にいればいいじゃないか。
「ははっ!それはさすがに勝手過ぎるよ」
「やっぱり?」
沙羅は照れたようにはにかんだ。何となく面白いので、質問してみる。
「どんな方?優しい方?」
「……身分や種族に拘る方」
それに、反応してしまう自分が居た。鈴音が声を発せずにいるのを、気づかない
沙羅は、次々に言葉を足していく。
「すごく字が綺麗で、良い香りがする方。きっと身分が少なくとも私より高い方。
まあ滅多に私より低い人はいないけれど」
「へ、へえ……。でもすごい、身分どうこうに拘られても全然平気なんだ」
鈴音が見ている方向は、話し相手ではない、地面だった。度々外れる視線に、沙
羅は今日こそ問い詰めようと、鈴音に近寄った。
「鈴姉様。私は平気じゃないよ。でもね、平気そうに見せてるとは自分でも思う。
どうしてそう見えるか。――私はどんなことがあっても自分を縛らないから。常識とかで諦めたりしないから。ね、姉様。貴方を縛りつけてるものは何ですか。どうして姉様はいつも、何かから目を逸らすの」
「縛り……?」
「どうして、もっと自分の意思を尊重しないの?本当にやりたいこと、あるんでし
ょう?何で無視出来るの?このままだと――」
「後悔して死んじゃう?」
さすがに不謹慎だと怒られるかな、と一瞬そんな考えが過ったが、沙羅はこちら
を見つめたまま、微笑んでいた。
「あのね、私一度命を失いかけたの」
沙羅は昔を思い出した。沙羅の家は貧しく、身分の低い者として接せられていた。隣には同じ身分の男の子が居たので、よくふたりで遊んでいた。
ある時、顔の赤い、巨大な大人の男がこちらへと近寄ってきた。沙羅は誰だろうと自らも寄っていった。
「沙羅ちゃん!」
遊んでいた男の子が沙羅の腕を取った。そしてそのまま逃げようとした。その男は、身分の低い者を苛めて気分を晴らすという最低な大人だったのだ。
ふたりは走った。結果的にはその男を上手く巻いて、男の子のお陰で助かった。
良かったと安堵した矢先、沙羅は深いと噂の湖に、足を滑らせて落ちてしまったのだ。
「今こうして生きてるから、助かったんだけどね、死ぬのは恐くなかったよ。むしろすごく穏やかだった……。何かから解き放たれた感じ。それから私、自由に生きようって決めた。だから、すごく幼くて、すごく平気。
私が言いたいのはね、死ぬことよりも、もっと恐うことがあるんだ、ってこと。苦しいのも、空腹なのも、自分しか分からないんだよ?だから、しっかりして。自分を縛り付けないで。死ぬのも一度切りだけど、生きるのも一度切りなんだよ?」
鈴音はもう、何も言わなかった。そんな風に立派に生きている沙羅が、羨ましくて仕方がなかった。――沙羅は自分の身分の低さに、絶望したことはあるのだろうか。何故生まれたの、存在理由は、など考えたことなどないのか。
「沙羅みたいに強い人は、誰かを羨ましい、って思ったこと、ないでしょうね」
すると沙羅は、こちらをじっと見据え、答えた。
「そんなことないよ? いつだって、あの方に釣り合う人は、命を奪いたいくらいに羨ましい」
*
死ぬのは恐くない。沙羅が教えてくれたから。何が恐いのか、今やっと輪郭が
見えて来た気分だ。……もしかしたら、そう感じるだけで、何も存在しないのかもしれないけれど。
「母様」
私は、選択しよう。鈴音は笑った。
「沙羅は必ず帰ります」
これが最期の選択だとしても。
*
「このまま手ぶらで帰れば、お前らは処罰を受けるだろう?」
沙羅は声の主を見つめる。確かにそういう流れになっても、全くもっておかしくない。むしろそちらの方が常識的にあっている。牛車は壊れ、今どこにあるのかも分からない。わざわざ集めた雪もきっとここの熱で融けてしまっただろう。
もう一度集めるとしても、その雪が本物でなければ意味がない。今、本物が存在することを知った沙羅は、貴族が暇つぶしに計画したことではないことを痛感し、本気で捜し求めていることを悟った。
失敗しました、では何かしらの罰があるだろう。勝手な話だが、そういう暗黙の掟のような所があるのだ。
決定権は位のお高い者にのみある。民の声を信じるとは考えにくい。嘘を吐いていると思われるやもしれない。
上から漏れた冷風が、沙羅の黒い髪を揺らせた。
「どうしたら、いいの……」
「そこで、だ。お前が舞雪になれ」
「まい、雪?」
そうだ、と頷く神に沙羅はいつものように子供らしく問うた。
「舞を踊る雪なの?楽しそう」
「……そちらの意味ではない」
神は泉を指差した。連れられて視線を向ける沙羅に一から説明した。
「地上とここは、お前たちが落ちてきた穴と繋がっている。あれは上手く塞ぐことが出来ない。だから雪で衝撃を緩め、落ちてもらっている」
「え、そんな!あの木は?あれのせいで私たちは――」
「まあ、あの木は我より前に居る神なのだ。無闇に無くすことなど出来ぬ。よって落ちた人を介抱することが、ここの地方神の使命となっている」
黙っている沙羅には構わず、話を続けた。
「あの穴から雪がちらちらと風により踊る。そしてここまでやって来る。普通ならこの暖かさに耐えきれず融けてしまう。しかし、本当に稀だが、泉に浸かり力を得た雪が舞い上がり、再び白色を持ってして、降ることが出来るものが存在する。舞雪とは舞う、というよりも舞い上がる雪、という意味合いで私は名付けた」
「それが……何?」
「それが望みを叶える力を持っているのだ。作り出しているとは、ちと語弊か」
藤の宮が欲しがっているもの。本当にそんなものが存在するとは。沙羅は前にも言ったように信じてなどいなかった。信憑性がまるで無いからだ。
神は泉を示して、中へ入るように伝える。
「雪の代わりにならばなれるだろう?水に浸かり、力を得ろ」
「私は人よ、雪にはなれない」
「ならば死しても良いと言うのか?お前の大切な者が傷ついても?本気か?それに――そんな危険を伴うわけではないぞ。どちらを選ぶ。選択の時だ。我はどちらでも構わん。地方神の務め、手伝うことはしてやるが」
沙羅は迷う時ではないのも、選ぶべきこともよく理解していた。沙羅は迷い無く
神に頼んだ。
「では今からこれを」
「……どうするの」
「儀式の一つだ」
神はいつの間にか、包み袋を手にしていた。高価そうな質の良さげな紙だった。
それを開ける。中には、真っ白な、化粧に用いる白粉のような粉が少し入っていた。
沙羅はじっと、粉をつける神の指を見つめた。その指はそのまま、沙羅の額に
近づいて、触れた。それは、氷のように冷たくて思わず身震いしてしまうが、すぐに体温に馴染んで、特に感じなくなった。
指は額から、両頬、そして顎へ移って行った。沙羅はその様子を目で追っていた。
「それを、満遍なく塗りつけろ」
言われてすぐに、顔を洗うように粉を薄く広げていくと、ほのかに顔が火照った気がした。別段血が通っているわけでも、照れているわけでもない。健康体である。
少し熱を出した時に似ているかもしれない。沙羅はそう考えながら、神に次の指示を促した。
沙羅は懐にあった食料などを外へ置こうとして、止められる。
「身体しか濡れぬぞ」
それでも、もしものことがあっては絶対に嫌なので、黙って物を取り出して地面に置いた。
そして、そのままゆっくりと泉に入り、しゃがみ込んだ。不思議だったのが、これ程に湯気が出ているのに少しも温かく感じなかったことだ。訊くのも癪なので、怪我人しか感じられない温度なのだと決めつけた。――舞雪の代わりとは、そんなに簡単でいいのだろうか。えらく生み出すのが難しいと口にしていたはずだが。腑に落ちないが、反抗しても意味が無いだろう。
すると急に、熱湯のような熱さを感じた。何事かと思った時にはもう、それ以上は考えられなかった。
「いやっ!」
何故なら、水面が割れて沙羅を包み込むように、手を広げて飲み込もうとしたからだ。
反射的に、その場から逃げようとしても、体は命令通りには動いてくれず、その命を持った生き物のような水を受け入れようと、ゆっくりと倒れ込んだ。
ぽちゃん、という水の音が辺りに響いた。
*
『だから言ったのよ、――、やめましょう――』
『でもお前――を――できるか?――鬼め』
『そういうのは――だって、言ったわよ?――』
何の言葉?誰の言葉?沙羅は遠のく意識のまま、ぼんやり眺めているような、浮いているような、夢を見ているような、そんな漠然としない状態で何かを思っていた。何だろう。気だるい。このまま、何も感じずにいたい。
『私は――でも、――あなた』
「何?」
『――雪』
「ゆき?」
目は全く機能しなかったが、こちらに多くの視線が集中しているのを感じた。沙羅は恐怖した。何かを発言しなければと思うのに、意味を持つ言葉でなく弱々しい音しか出なかった。
『へえ。あなたが選ばれたんだ』
『あなた、――を知っている?選ばれた理由も?』
「え、聞こえない……」
『まあ頑張っていきなさい。見守っていますから』
手を思い切り引き込まれた。体は崩れて倒れながら、凄まじい速さで落下していく。止まれ、そう願っても何も起こらない。落ちて、そして急に上がって行った。揺さぶられている。沙羅は遠のく意識の中で、たくさんの声を聞いていた。夢を見ている感覚に近い。何かに近くて、遠い。
『早く、早く帰らないと』
『私の表情を返して、変わり者だなんて嫌よ……』
『もういいでしょ』
『私には、大事な娘がいるんだ』
『帰らないと。……でもこのまま、命を落とすのも、悪くないかも』
『どうか、姉様たちは助かってくれ』
『どうせ誰からも必要とされていないのだから』
様々な声。落胆する声、歓喜する声。低い声、高い声。混じるように脳内に入って、直接語りかけてくる。懐かしい声も、誰かも分からない声も、そして自分の知る声も、聞こえて来た。沙羅は色々なものに飲み込まれて、自分が消えるのを感じた。
見ているはずの物が、暗闇に包まれている。自分の腕も、足も、髪もそれに吸い込まれていく。
消失。何故かこの言葉が、頭に浮かんで消えた。
上下に体が忙しなく浮くので、頭がぐちゃぐちゃになって、もう何も考えられなくなってしまいそうで、それがただ恐かった。
『助けて欲しい?』
「モ、チロン」
『じゃあ、これらの声を全部抱え込んで、進まなきゃ』
「前に?後ろに?」
『はは、人は前後に進むのかい!』
ついに、言葉も分からなくなったのか、私は。沙羅は思った。一瞬、自分の名前を忘れかけて、少しだけ、焦った。
『僕は、人はずっと平行線だと思ってたけど』
昔のことを、気づかない内に思い出していた。身分が低いから、それだけで多くの人に見下され、嫌なことをやらされて、女としても、人としても見てもらえない日々。暴力だって受けたこともある。辛かった。痛いのは、本当に辛かった。
腕が、戻ってきた。何か稲のような蔓のようなものが、巻きついて放してくれない。もしかしたら、これがずっと私を縛ってきたのだろうか。沙羅は右腕を動かしてみた。普段のようにはいかなくとも、蔓から逃れようとしてくれた。
「よいこ」
引っ張れば、耳元で人生を嘆く声がした。怒り狂う声もした。
どうして私だけ。どうして聞こえるのだろう。こんな目に遭うなんて、最悪だわ。
呟けば、口が戻ってきた。徐々に自分の体が戻ってくる。感覚も、ゆっくりと帰ってくる。体に巻きつけられた蔓を千切ろうと、両手に力を入れた。もう、どこへでもいい。ここ以外なら。
『わたしはひとりになるの!』
『死にたくない、死にたくないんだ』
『あの人はどうして、私を選んでくれなかったのかしら、馬鹿だわ、狂ってるのよ』
千切った蔓を掴んで、上へと登っていく。ここから開放されたい。こんな気持ちの悪いところから早く。
「沙羅、頑張りなさい。死ぬのは恐くなくとも、寂しいわね。生きたいでしょう!生にしがみ付きなさい、そうすれば私は――」
眉に皺が寄るのを感じた。胸が締め付けられた。蔓が纏いついているわけでもない。
「――素直に、いられるから」
『うそつき』
沙羅の隣には、昔会った、懐かしい姿があった。
*
「よく、帰って来てくれた」
そう言って何かを包んだ布を渡した。中にあるものが強く輝いているようで、光が漏れている。玉のような形。それが三つあった。
「これは、我が作った舞雪の種だ」
沙羅はそれを聞くと、ゆっくりと抱き込むように抱えた。
「ここから崖を登り、地上に出る。そしてお前の町へ辿り着け。そうすれば、舞雪は完成し、舞雪となったお前は使命を果たせたこととなる。出来るなら送ってやりたい所だが生憎、牛車は無残にも壊れてしまい、牛使いもどこかへ行ってしまった」
それから、神は外へと案内した。沙羅は後を追う。
崖は険しく、外はかなりの温度差で、沙羅は自然と震え始める。
「外へはここを通るか、穴をよじ登るかのどちらかだが、こちらを勧める。まだ、安全だ。……頑張ってくれ、我も一緒に行くからな」
何も答えずに、沙羅は崖に手をかけた。ここの熱により雪が融けたことで、岩はかなり濡れていた。滑りそうになる手足に力を入れ、よじ登っていく。
神が持っていた紐で布の両端を縛って、玉を背負っている。だから、間違っても後ろ向きに落ちることは許されない。
沙羅はぐい、と手を上へ伸ばす。沙羅の意識は、いつもよりもずっと、遠い所にあった。体は勝手に動いている。心は、ずっと奥に存在する。
右足を次の岩へと引っ掛けようとした瞬間、嫌な音がして足場が崩れ、落下する。
この最大の危機に、心はまだ、気づかずにいたのだった。
**
昔、鈴音にこう話したことがある。
『身分違いの恋って、憧れるよね!私もしてみたい……。すごく素敵なんだろうなあ』
その後、文字通り死ぬほど後悔することになった。何が身分違いだ。憧れる?その時の自分は、能無しだったのか。狂っていたのか。
見知った姿に、動揺を隠せずにいる沙羅は、気づけば昔のことを思い返していた。
いつのことだっただろうか。
出会った当時、沙羅は結婚出来る歳となったのにも係わらず、外を出歩いてばかりいたのだった。
この時代、女は人目を避け、男は女の噂を頼りに文を出し、やり取りをしてから出会い、結婚する。という形式を利用するのがほとんどだった。女は待ち、男から近寄る。その形がいかにも、平安の世に合っていると思ったのだろうか。
よって、沙羅は姉たちに窘められてよく、落ち着きが無い、下品だとまで笑われたが、沙羅は全く気にも留めなかった。
なぜなら、結婚して何が楽しいのだろう、とばかり考えていたからだ。自分の自由を奪われるようなものじゃあないのか。――これを口にすれば大目玉を食らうので、決して言わなかったが、ともかく沙羅は結婚する気など毛頭無かった。まず、大人しく待つ、という姿勢が何よりも嫌だったのも理由の一つだ。
(もっと頭が良ければ、昔の人のように天皇様に仕えて、高貴で素晴らしい暮らしが待っていたというのに)
生活が厳しく、他人より早く働きに出た沙羅は、高い身分への憧れを、人一倍感じていた。勉学は何とか親戚に教えてもらったが、とび抜けて賢かったわけでもなかった。
(けれど、貴族の方は嫌よ。何を考えてらしているのか、とんと理解出来ないもの。――ただ少し、自由がほしいだけ。例えば、いつ買われてしまうか、とおどつきながら焦って、書物を読むことが無いように、とか)
沙羅は本が好きだった。店番の始まる前に朝早く起きて、働かない頭を開店させ、内容を叩き込む。そして人気のない店でも、残り火を頼ってまた続きを読む。これが彼女の日課だった。
勿論、読んでいる途中の本が買われることは度々ある。その度に寂しい気持ちになったが、読書を止めることなど一切考えなかった。本は沙羅の唯一の生き甲斐だった。
店に人手が足りない時以外はいつも外出していた。
日当たりの良い、道草の花が穏やかに咲く、広けた場所。地面は緑の畳のようでもあった。少し歩くと湖があって、日光を受け輝く水面はそれは美しかった。玉のようでもあった。
特等席の木に腰掛けると、見慣れない人が湖の近くで座っている。ふとぼんやりと眺めていると、人が湖に何かを放り投げているところを目撃した。
気に入りの場所を汚すとは。沙羅は怒りを顕わに人影の方へと近寄る。
足音に気づいたのだろう、人影は振り返った。
「こんにちは」
花が咲くように笑う男に、沙羅は少なからず脱力してしまう。男の人の笑顔なんて、父の次に初めて見た。表情を表に出すのは、恥とされていたからだ。
「こ、こんにちは。――それよりも、何してるんですか」
「え?」
「今、湖に捨てたでしょ」
苦手な敬語を早々に止め、沙羅はくだけた物言いで相手に詰め寄る。男の人は分からないのか、頭を抱え、考え込んでいる。
「今!何か投げたでしょ!私見てたんだから」
「……ああ、確かに投げたなあ」
「止めてほしいの。ここ、大好きな場所だから。汚してほしくない」
ほのかに香る香の匂いで、彼が身分の高い者だということが分かった。だからと言って、今更言葉遣いを変えるのも面倒なので、知らないふりをした。
男は手元にある紙へ目線をやり、困った風に微笑んだ。
「ごめんね、もうしないよ。……でもね、私も困るんだ」
「どうして」
「この紙束をどうにかして帰らないとね、怒られてしまう」
そう言うので、興味をそそられた沙羅は紙を覗き込む。その動きに男は咄嗟に両手を使って隠す。先程の言葉はさも見てくれ、と意味しているはずだろう、と沙羅は顔を顰める。
「見せてよ、いいじゃない」
「――誰にも言わないでくれる?」
「どうしてそんなこと気にするの?勿論よ」
おずおずと手を退ける彼に、じれったくなった沙羅は、手を掴んで無理やり退けた。そこにはこれでもかと詰め込まれた文字が、並んでいた。どの字も男の人が書く字よりも美しく。事実、沙羅よりも美しかった。
「まあ!綺麗な字。女の私よりも美しい字をお書きになるのね」
「そ、そんなことない。――ひらがななんて男が書いていて……女々しいとは思わないかい」
「駄目なの?ひらがな。私いいと思うけど」
沙羅が言ってのけると、男は唖然とした。目を大きく開き、じっと見つめてくる。
「文字の種類とか、そんなのが貴方にとってそんなに、大事?」
「……素直なんだね、君」
「自分に嘘吐いて生きたくないから」
「素敵だ」
強い春風が吹いた。水面が揺れて、男の短い髪が揺れた。沙羅は顔が妙に熱くなるのを感じた。こんな風な品の無い口振りを、今までどの殿方も許してくれなかった。今度はこちらが呆然とする番だった。
「そんなの、初めて言われた」
「ふふ、素敵だよ」
沙羅は赤い顔を隠すために首を振って、ふと紙に視線をやった。
しばらく話をしてから、機会を窺っていた沙羅は願い出た。
「これ、私が貰ってもいいかしら」
「いるの?処分してくれるならこちらから願いたいけど」
「欲しいの、いいでしょう?捨てる位ならください」
渋る彼に沙羅は微笑んで、
「その代わり名前を教えてあげる。沙羅よ。高い木の名前から貰ったわけ」
「さら」
彼はどこか照れたように筆を持ち、紙を取った。そしてそこに何かの文字を書いた。流れる手つきについ見惚れてしまう。
「私は名乗れないんだ、ごめんよ。けれど今日のことは一生忘れはしないだろう。……もう、別れないと」
「もう、会えないの?」
「二度と会えないよ。私は貴方を守れないから」
立ち上がった彼は、何かを書いた紙を沙羅に渡した。
「さら、私も素直でいられるだろうか」
「どうして、いられないと思うの……」
「――ありがとう、貴方はきっと、魅力的な女性になる」
そう言い残して去っていった。紙には達筆な字で沙羅の名前が書いてあった。
その二年後、沙羅が店番をしている時に一冊の本が手渡された。その本は沙羅の一番気に入った本で、人目につかないように、ぎっと本棚の奥へ押し込んでいた。ついに探されてしまった。仕方ない、本との出会いは一期一会。きっと、二度と会えないのだろうな、と気落ちするのを隠して、金額を告げた。しかし、相手は静かに首を振るだけだった。
「どういう事です?」
訝しんでいると袂に本を入れられた。人肌よりも少し低い本の温度に、あっと驚いていると、人は走り去っていった。事をしっかりと理解する前に、沙羅は急いで追いかけていた。このまま放っておいてはいけない気がした。
思いの外、相手は外すぐに捕まった。少ししか距離は無いのに、もう既に息があがって、苦しそうに呼吸する人に沙羅は問い詰めた。
「お金は……払ってるの?」
頷く人は、布で隠した頭を深くふかく下げた。
「謝られても困るわ。私、どうしたらいいの」
「貰って――」
「贈り物のつもり?二度は会えずの方」
驚いた様子に沙羅は指を差した。
「貴方から香る香が私の鼻をくすぐるのよ。嘘吐いてまで私を突き離して、どうしたかったのよ」
黙る彼は周りを見渡し、何かに怯えたように走って行った。
今度は、沙羅は追いかけなかった。
「何度も追いかけると思わないで」
それから彼が乗り込んだ牛車は、藤の宮の屋敷の方角へと進んだ。
「追いかけるには、位が、違いすぎるじゃない」
この時ばかりは自分の身分を呪った。沙羅はその場に崩れ落ちた。
**
どうしてあなたがいるの、中野家の人間が。
言葉として吐き出したものが、急速に上昇する体と共に持ち上げられる。今回はすぐに下へ引きづられることはなく、そのままずっと上へと引っ張られる。浮遊感。何て気持ちの悪いものだろう、と沙羅は思った。時折、鳥のように飛びたい、といった風な言葉を耳にしたが、正直願い下げだなと思った。人は、飛ばなくていい。
腹が後ろから押し込まれ、両手両足が投げ出され、横から見れば、「く」の鏡文字のような形になった。それを感じられるだけ、まだ良いものだと思って、目を閉じた。
目を開けば、変わらずあなたが側にいた。
(来ないで。何を期待しても、無意味なんだから)
思った。
(諦めて、誰も、来ない――)
ようやく頭が動き始めた。現実も、見つめられた。あなたは、現実ではない。
沙羅。手を伸ばしておくれ。
馬鹿でしょう、あなた。ちゃんと伸ばしてるじゃない。
君は今、命を落としてはいけない。
ああ、このまま、あなたと一緒に、地獄へ落ちてしまいたい!色々なものから放たれたい!もう嫌、考えることが、嫌……。
掴まれっ!
生きる意味はあるの? 存在価値は? 生死の違いは? 生きることに意味があるというの? 存在することに、意味はあるの――。
さら。
――ああ、そんな声で呼ばないで。
**
「貴方は、北の地で雪を見たことがあるかな」
「雪?ここでも見れるじゃない」
彼は静かに首を振る。
「違うんだ。北の地へ訪れて見ることに意味がある。そこには望みの叶う雪が降るという。本場の雪だ。私は、一度だけで良い、目に映してみたいんだ」
沙羅は空を仰いで、隣に聞こえるよう呟いた。彼女の横顔は恥ずかしそうに、はにかんでいた。
「じゃあその時は、二人で一緒に見ましょう。貴方の望みは、叶った後に教えてくれる?」
「ええ、勿論。……そんな日が来れば良いものを」
「――あら、願ったって行動なしには何も叶わないわよ? 私は願うだけの人、嫌だな」
「はは、では頑張りましょう。時間がかかると思うけれど」
「なら私がその時間、短くしてあげるわ!」
元気よく笑う沙羅に、彼は静かに笑い返した。
「どうやって?」
「意地の悪い人ねえ。――私のやれること、やるべきことは全てやってのける。それ以外のものは、そうねえ、こんな風に飛び越えてみせる! これでどう?」
そう言って立ち上がり、その場で思い切り地面を蹴って跳ねて見せた。それを目にした彼には、声を上げてまで笑われた。馬鹿にされたとふくれながら、本気にしてよ、と願いながらそっぽを向いた。湖は太陽の光を反射して、きらきらと輝いていた。
**
「嘘を吐かないことが、どれ程大切なのだろう」
自問する沙羅には、答えが見つからない。岩にしがみ付く沙羅は険しい表情を浮かべる。
「身分を知った私は、届かないことを理解して、それで、私の言葉が、真っ直ぐ貫けなくなって。それが嫌で、私は色々なことを隠して、忘れたふりをして。……届かないなら、諦めてしまえば良かった」
それが出来ないから、苦しいのだろうか――。
あの声によって沙羅は完全に意識を取り戻し、近くにあった鋭い岩に手を伸ばすことが出来た。急いで周りを見渡す。もう少しで本当に、死ぬ所だった。既に経験したことのある恐怖だが、あまりの地面との高さに、体が震える。必死に岩を掴むが、感覚はもうどこかへ行ってしまっていた。
「人を、馬鹿にしてるの……?」
唇を噛み締める。沙羅の思いが作り出した幻にしては、あまりにも現実味を帯びすぎていた。今はもういないにせよ、馬鹿にされたのだと思った。
どこかに居るであろう、神の仕業だと沙羅は怒り狂った。
「あんたがしたことは、私にとってどれ程苦痛なのか、知っててやってるわけ?……あんたは、私があの方に永遠に辿り着けないと、思ってるわけでしょう?辿り着いてみせる。舞雪だろうと、何だってなってやる……!」
体を丸めて苦し紛れに叫ぶ。泉の水が風に当たり、体の熱を奪っていく。またもや遠くなる意識に、沙羅はゆっくりと確実に上へと進んでいく。しかし徐々に力がうまく入らなくなっていき、何度も落下しかける。
(頑張りなさい沙羅。貴方、昔から木登りが得意だったでしょうに)
叱咤して、ただ上を目指して登った。負けてなるものか、と段々傾斜が酷くなる崖を登った。本来ならば、高さや外の温度、体力などの問題から、限界を既に通り越して、落ちる落ちないに関わらず、生死を彷徨ってもおかしくなかった。それなのに。
沙羅は、死だって覚悟していた。けれど死を望む度に彼の姿が、まぶたの裏に焼け付いて離れない。
頭を鈍く回転させながら、沙羅はあの水には、何か力を吹き込んでいるのでは?と考えていた。たくさんの人の声を飲み込んで、沙羅にまさに注ぎ入れるように、包み込んだ。それをさせたことによって、誰の得になったのかは全く分からないが。
「……会いたい」
体力もすでに底つき、気力だけで体を保っている彼女は、気づけばそんな言葉を口にしていた。
「どうして。もう約束も、私も忘れてしまったの」
二人の涙を見てきたせいか、泣き虫になってしまったと、上へと進む。
鼠色の空が、ようやく視界に入ってきた。崖を登り終えて涙を乱暴に拭う。達成感なんてもの、どこにも存在しなかった。そんな余裕が無いからだろうか。
白い積もった雪を踏みしめ、自分の住む町へと足を進めた。その間、言葉としては音量の小さい声が、口の端からぼそぼそと漏れた。
「――忘れてしまえば、この気持ちに気づかずにいたことにすれば、自分への嘘にはならないと思ったの」
ぽつりと漏れた。また一粒、涙が零れた。泣きすぎだ。笑おうとして失敗して、また悲しくなる。虚しくなる。
彼が去ってから店番を多く担当することになったのも、湖で人影を落ち着きなく探すようになったのも。北の雪についての物語を読むようになったのも、どこへ行っても人の顔を窺うようになったのも。
「全部、ぜんぶ、貴方のせいじゃない……」
崩れ落ちた体に、沙羅は限界を感じた。気力が消え入りそうだった。足が上手く動いてくれない。感覚も無い。――それでも自分が放った言葉を、頑張ると返してくれた答えの為に、嘘にしたくない。汚したくない。
這うしか方法が無いと、手を前へと出し体を運んだ。
彼に会いたい。その言葉を大事に抱えて、沙羅は前へと進んだ。辛かった。正直、諦めてしまいたかった。
「諦めて、しまおうか?」
けれど、それならもっと早くに決断すれば良かったのだ。なのに、今まで大事に抱え込んで、忘れた振りをしていた。この気持ちを捨てることは、今の自分を捨てることに等しい。沙羅は痛いほどに理解していた。
「つつめども――」
つつめども かくれぬものは 夏虫の 身よりあまれる 思ひなりけり
北の話を探していた彼女に偶然か、この話を読む機会があった。内容は女主人に通う宮を慕う少女が、蛍の光を借りて思いを告げるというものだった。
無邪気に宮は少女に言う。あの蛍を取ってみせて欲しい。近くでようく見てみたい。
一体、少女は何を考えていたのだろう。――召使である自分の位置に、叶わないと知りつつも思いを告げた少女は。
蛍を捕まえ、服の袖に隠した少女は詠んでみせた。
包んでも、包んでも。どうしたって隠し切れないものは、蛍の身から溢れる、灯(ひ)のような、貴方への思いなのですよ。
これを読んだ時、沙羅は思った。私と、同じだと。私も、叶わぬことを知りながら追いかけているのだと。追わないと決めたはずなのに。
「つつめども――」
蛍の力を借りずに、私は貴方に思いを告げてみせよう。次に会った時に思いを告げよう。沙羅は何度も立ち上がろうとして、力が入らず雪に突っ伏す。身分なんて、この世から消えてしまえ、と沙羅は思った。身分の違いで諦めないといけない恋なんて、無くなってしまえばいい。
「――ごめんなさい、ずっと嘘吐いてたのは、私だわ。――私は貴方を」
続けられない言葉を飲み込み、再び泣き叫んだ。呼吸もし辛くなり、前へ進むことも出来ない。体を震わせて泣く姿に誰かが近付く気配がした
「ここまでか。真の己の心に気づいたというのに」
神のお声。全く、有難くない。信仰心はあまりないけれど、神のお声を授かったら、必ず言う通りにしようと思っていたのに、と沙羅は地面を見つめる。
「あの方の姿をちらつかせてまで、私に嫌がらせをしたかったというの」
「そんなことをすると思うのか」
「……貴方は、励ましてくれたのでしょう?そして、大事なことを嫌でも思い出させた。違う?」
「――いや、その通りだ」
苦笑する神に、どうやったら幻を作れるのかを問うた。幻で満足するつもりは無いが、やはり気持ちに整理がつくまでは、彼に縋っていたい。
「……それは、お前が持っている物に籠められた強い心を、具現しただけなんだ。つまりこちらが少しの力を貸して出来た幻覚というわけだ」
「持っている物」
沙羅は震えて言うことを聞かない手を無理矢理に懐へと入れた。中にある本を取り出し、雪に触れないよう注意して掲げた。
「これに、そんな強い力があるというの?」
「ああ。本、というよりも本に隠された手紙によるものだろうがな」
その言葉を理解するのに時間が掛かった。本以外のもの?
急いで沙羅は、本のを探る。しかしこれを愛読書として持ち運ぶ位に読み込んでいる。北の地の話が載っている所なんて破れて読めない所まで存在する。ぱらぱらと捲る手を休めることなく探してみるが、一向に手紙が見つかることはなかった。
「……嘘吐いた?」
「それは折り本だろう?一枚の紙を折り畳んで一つの本にする形の」
折り本。沙羅ははっとして本を大きく広げ、上から覗く。そこには丁寧に畳まれている紙が入っているように見えた。沙羅は急いで本を傷つけないようそれを取り出し、美しい字の手紙を手にした。
「ああ……」
宛名は確かに自分の名だ。上手く捲れない指に焦れながらも、紙から透ける彼の字に、涙がまた零れた。
黙って読み進めていくと、今までのこと、将来についてのことが事細かく書かれてあった。そして何より最後には、彼の名前が記されていた。
「藤、道様」
愛する人の名を知った瞬間だった。
「――私、やっぱり彼に会わないと。そんなこと、許さないから。……言いたいことがたくさん出来た」
そう言って立ち上がる沙羅に、神は静かに側に寄る。自然と寒さを感じなかった。彼の言葉だけでここまで力を得られたのだ。笑う沙羅に頼もしい、と言葉を返した。
「さすがだな。女は強い」
「あら、諦めが悪いだけよ。皆が皆、強いわけではないの。――私は、あの少女のように思いを告げます。この気持ちに気づいたのも、貴方のお陰だわ。神様、私に何かして欲しいこと、ある? もう、余興だなんて嘘を吐かなくともいいのよ」
「――その言葉に嘘が無いなら、頼りたい」
「どうしたらいいの?」
神は俯いて自身のことを話した。そこに見知った名前が出てきたことに、沙羅は驚愕することとなる。
*
先程、耳に届いた話しに、藤道は驚愕する。そしてすぐさま準備をし、父の下へと急いだ。
すると、
「お前は藤道を、何だと思っているんだ!」
障子が外れ、父の体が飛んできた。それを見て、何事かと状況を掴めない藤道は、ともかくも父へと駆け寄る。父はすっと見据えた。その視線の先には、拳を握った、叔父の家定がいて。何かを堪えるような表情のまま、歩み寄って来る。
「……藤篤、今のは藤道の拳だ。私はな、どんなに恥ずべきことだと罵られても、お前を殴ったことに対し謝罪はしない」
「叔父上? 何があったんで――」
「藤道、お前も悪い。どうしてもっと早く私に言わない? そうすれば事は早く済んだのだ」
藤篤は立ち上がり、実の弟を睨んだ。
「しかし、お前が何より一番悪い。お前、家族を何だと思っている……? 藤道の行動に制限だと? 軟禁と大差のないことをしているではないか! 誰が人を縛る権利があるというのだ? 自分の兄ということを、ここまで恥じたのは、今、この時が初めてだ……!
――しかも何だ、ある所では藤道の気に入った人を捕まえ、処罰していると聞いたぞ。何だそれは。お前は神か? 仏か? ここまでお前が下劣とは……、見損なったわ……!」
「……偉そうに言うようになったな、家定。実の兄に暴力を振るうとは」
「先程の言葉に嘘はない。謝罪も、反省もせぬ」
二人のおぞましい憤怒の世界に入れない藤道は、しゃがんだまま動けずにいる。
――その時、藤篤の視線が藤道の余所行きの服装に移った。珍しい、外に出てはいけないと言い聞かせているはずなのに。ここで、藤篤は怒りの矛先を藤道にぶつけ出した。
「藤道、お前は、どこへ行くというのだ! ここ最近は大人しくしていたというのに。ならぬ、ならんぞ、私は許可した覚えは無いからな。早く部屋へ戻れ!」
「――兄者、私の言葉何一つ聞いて無かったようだ」
再び拳が落ちてきた。しかしそれは藤道の制止によって、宙に止まることとなる。
「退け、藤道」
「いいえ、退きません。貴方がやっていることは、私の為にはならない」
「――そうか、叔父の思いも全て水の泡か」
「そうではありません。ただ、私は穏便に事を進めるべく、我慢してきたのです」
叔父から視線を逸らし、藤道は父親と向き合った。そして、自身のこれからの意向を告げた。
「どうやら十の内の一つ、牛車の到着予定がかなり遅れているようで。もし遭難していたら、食料が持ちません。乗車している者たちが命を落としてしまう前に、私どもが北へと赴くことにしました」
「しました、だと? 私は許可せぬ、ここで待っていろ」
「いいえ、私が行くのです。言い出した本人が行かねば、町民に示しがつきません」
お前が示しと来たか。そう嘲笑う父親に、藤道は構わず彼が抱えてきた過去を口にする。
「私は夫婦仲を切る前、初めて涙する母上を目にしました。その時、貴方に言いましたね、〝母上を泣かした父上を、私は怨みます〟 と。私はまだ幼くありましたが、けれど貴方が悪いことを理解していました。家の主としてしてはならないことを、やってしまわれたこと。私の目は、貴方が恐れる程に強い光を宿していましたか、はは。――私を部屋へ閉じ込めたのも、全て私を恐れてではありませんか?」
二の句を言えない父に、藤道は詰問する。
「今でも許してはいませんよ。その気になれば、貴方をこの中野家から追い出すことだって出来る。何故なら私は少なくともあなたよりは頭が働く。味方になってくれる者たちも大勢いる。こんなことを息子にして、皆が黙っているとは思えない。
けれどあなたは思っていた。私がこのことを口にするはずがないと。
あなたは行動を制限した。自分に抵抗するなと、すれば母を襲うと脅した。それで十分。
私を操れると? ええ、確かにあの時まではそれで十分だった。けれど、今は違う。今の私を制せるはずがない。
――私には現在貴方をも越える財がある。嘘ではありません。隠れて作家となり、密かに金を稼いでいたのです。つまり権力がある。昔はなかったものでしたね。……これから私は母上の屋敷に、幸いにも住まわせてもらうことになりました。あなたの手は届かない。もう、貴方の力は私には及ばない」
突き放すような底冷えした声は、父親だけではなく周りの人々も、驚き、恐れた。
鋭い視線に耐え切れない父は、視線を床に止めたままだ。それに気づいた藤道は
場所を変えて父と視線を交わせた。
「貴方は、何に逃げるんですか?もう立派なご家庭を築いているというのに、藤丸とは全く会話しない。奥様と一緒に居る姿など、ここずっと見ていません。母上ではない愛する人を、大切にする義務が貴方にはある。――だけど、母上のことを決して忘れてはいけない。貴方が嫌でも母上を思い出すように、私はここに居たのです。だからこれからも、母上に謝罪の気持ちを持っていて。そうすれば」
「……そうすれば、どうなる?」
「私はこれから、貴方に何一つ干渉しません。言葉でさえ交わしません。二度と貴方の前には現われないことを約束します。――つまり、貴方を怨むことを止めます、だからといって勘違いしないで欲しいんです。私は許しはしません。間違えないで。
――その条件が藤丸や今の家族を私たちの分まで愛すること。私にも一切干渉しないこと。そして母上のことを忘れないことです」
黙る父親に、藤道は瞳を閉じて立ち上がり告げた。
「今までお世話になりました。今から私、中野藤道は、中野藤篤様との縁を全て切らせて頂きます」
「何……!」
反応を返したのは、事の行き先を黙って見つめていた家定である。藤道はすっと相手を見据える。
「家定様、貴方にも大変お世話になりました」
「――それで、お前は良いと言うのか」
黙って頷く彼に、やり切れなさそうに、拳を握り締めて問う。
「お前の望みは何だったんだ」
藤道は目を伏せた。
「私の望みは、中野家の憎しみで絡まった糸を断ち切ること。私の愛する者が生きやすくなること。そして――、もう一つ」
「何だと言うのだ?」
「――家定様、望みはそう易々と告げれば叶わないと言うではありませんか」
そう言って振り切るように笑った藤道に、家定は複雑そうな表情のまま俯いた。
「後悔するぞ」
「後悔、するでしょうね。でも、満足はしてます」
「……矛盾している」
「そうかもしれません」
「藤丸が悲しむぞ」
「彼を、宜しくお願い致します」
一礼し、彼は背を向けた。これでやっと、藤丸は窮屈な思いをせずに済んだ。母のことも、ほぼ完璧に終わった。しかし、予想外のことが一つ。
「藤道様、牛車の用意が出来ました」
「ありがとう八郎、別にここへ残ってもいいのに」
「いいえ、どうかお側に置いて下さい。貴方のような素敵なお方に、私はついて行きたい」
「おかしな人だ」
笑う藤道は、悲しみも寂しさも感じてないように思えた。八郎は笑い返した。
「ほら、明子様がお待ちですよ、早く片付けましょう」
「……そうだね」
牛車は藤道を乗せ、歩き出した。その後を追うように人影が走っていくのを、誰も知りはしない。
* *
『さら様
ここでは真実を述べたいと思っています。これが誰かの手に渡る可能性は否めませんが、自己満足の為文を隠し入れました。貴方には、知っていて欲しい。読まなくとも、私の真実を持っていてもらいたかった。誰よりも、貴方に。
――私は今、中野家を取り巻く闇を絶つべく行動しています』
そこには藤道の立場、今の現状やこれからやることが事細かく書かれていた。そして、傷つけたであろう自身の言動、最終的には出会ったことまで謝罪されてしまった。
沙羅は込み上がる思いを胸に、力一杯唇を噛んだ。
『望みの叶う白粉、と全面的に出した理由は、二つ。一つは私の元父親の意識を他所へと向けてもらうこと。彼の望みは私の死でしょう。こういう言葉を使うのは良くないことですが、それ以外考えられないのです。
――必死になる彼の裏で行動を進めるのは、普段の何倍も簡単でした。本当に何でも良かった。けれど、どうせなら、と。
理由の二つ目は、貴方が雪が見たいと言っていたからです。……どうでしょうか、北の地は。私はここでやるべきことがあり、一緒には行けませんでしたが。
――私には今貯金があり、いざとなれば家だって建てられる程です。先程述べたように両親はいなくなるかもしれませんが。
……ああ、この先は次にしましょう。――二度と会えない、なんて言っておきながら、私はすごく身勝手ですね。
あれは貴方に吐いた唯一の嘘です、から』
* *
「兄様、藤道兄様! 待って!」
と聞き慣れた声に、藤道は牛車から顔を覗かせる。そしてすぐさま牛車から飛び降り、弟の前へと立った。
「どうして飛び降りるんですか!牛車を止めてと言ったんです!」
ご立腹な弟に、八郎へと声をかけて履物を持って来させた。外は何事かと見物人が早くも集まっている。そんなことには全く構わず、藤道は慌てて説得する姿勢に入った。
「私はもう、中野家の子ではない。縁を自ら切ったんだ。今は名の無い人間。貴族の貴方が口を聞くなど、してはいけないのです」
「……それは、私のような者が兄と話してはいけないと、言ってるようなものです」
「だから――」
藤丸は俯いたまま藤道へと歩み寄り、よそ行きの着物の裾を握った。
「私のことを思って出て行ったのでしょう……?私なら大丈夫です。だから戻ってきて。今日のことで父上は考え直しますよ、きっと。――私と貴方が兄弟のように話すことだって出来ますよ。だから、自分を犠牲にしないで、かえって来て下さい。……私は頭が悪いのです、貴方に歌や勉学など教えてもらいたい」
「藤丸様、もう、私の部屋の前で足音を忍ばせる必要が無くなるのですよ」
「兄様のいない部屋など、通りたくもありません!」
首を振る藤丸は、弱々しく漏らすのだった。
「どうして、一人で全てお考えになって、しまうのですか。頑固者……、貴方は私の両親よりも、優しくしてくれた。血の繋がりのない、私にだって――」
「藤丸、貴方は私の大切な弟だった。これで、――最後だ」
「最後なんて、言わないで下さいよう……」
藤道は牛車に乗り込んだ。弟の姿をこれ以上目にすれば、どんなに意思の強い藤道であっても、心が動きかねないからだ。
「出してくれ」
「――本当にいいんですか」
「いいから」
藤丸にはあんな風に言っても、一生の兄弟だと藤道は思った。成長した藤丸を隠れて覗きに行く位は、許されるだろうか。
「藤道様、前を……!」
切迫した声に、藤道は外に視線を向ける。目前には、なんと強風で作られた壁が立ちはだかっていた。唖然とする藤道は、瞬時に沙羅を迎えに行けないことを悟った。外へ出て壁へと近付き、手を伸ばしてみると、風に触れた指先がちり、と痛み血がにじんだ。顔を顰める藤道に、従者らはすぐに離れさせた。
「このままでは無理ですね……」
「こんなことは、今まであったでしょうか。風が……刃のように鋭く吹くことなんて」
「まるで我らを通さない為にあるようだ」
藤道はらしくない程に焦っていた。確かに自分らも北の地で何らかの事故に遭うかもしれない。しかし、食料があるのとないのとでは、話がかなり変わってくる。沙羅に出会い、何とか生き延びて帰ろう。母の為にも。そんな風に思っていたが、これでは一歩も動けない。藤道は拳を握った。
「ここで突っ立っていては、意味がない……!」
従者の手を振り切り、壁へと手を伸ばす。この勢いに乗り、壁を越えようと思ったのだ。しかし、両手が無残に傷つけられた所で従者に止められた。痛みよりも、怒りの方を強く感じていた。無力だった自分を変えようと前に進んだ結果がこれだ。冷静でない藤道は、体を突っ込ませてでも通り抜けようと考え、行動しようとしていた。
「貴方、命を落とす場面ではないと思うよ」
風鈴のような澄んだ声が、藤道の耳に届いた。ふと声の方へ顔を向けると、女が二人並んで立っていた。
「お前、藤道様になんて言葉を……!」
「いいんだ。あなたは、誰だろうか」
先程の声の主が歩み寄って名乗った。切り揃えられた髪に、町娘が着るには少し上等めな服。藤道と向かい合い、口を開く。
「私は鈴音。隣にいるのは母様。そこにある本屋の女店主」
「初めまして、かしら。藤の宮様」
頭を下げる女に、藤道ははっとする。
「沙羅の――」
「そう、あの子の母でもある」
笑みの形を作った店主に、惚ける。妖の類ではないかと疑る程に、独特の雰囲気を持った女性だった。鈴音は視線を壁に移して、やはりと呟く。
「ごめんなさい。これは全て私達のせいだわ」
「どういうことだ?」
「――それよりも健気な藤の宮様に訊きたいわね」
笑いながら店主は問う。
「今回の騒動は、貴方のお考えによるもの、でしょう?狙いは沙羅。――どうしてって顔してらっしゃるわね。分かるわよ。純粋な心、と女のみを限定。牛車使いも女、周りに女を固めて殿方を一人も使いにはやらなかった」
何も言えずにいる藤道に、健気ねえ、と店主はさらに笑みを深くした。無表情の鈴音も、少し笑顔を浮かべた。
「可愛らしい方」
鈴音の評価に、藤道は赤面する。自分のくだらない目論見を見透かされ、どうしていいのか分からずにいるのだ。
「……沙羅が少し羨ましい」
そう漏らして、刀のような風へと歩き出す。その行為に藤道は叫ぶが、その言葉に耳を傾けることなく鈴音は振り返り、背中から壁の中へと入っていく。背中、肩から腕へとのまれてから、体を起こし戻ってくる。
「え……」
くる、と回転してみせた鈴音の姿には、傷一つすら存在しなかった。藤道は目を瞠って、自分の手元へ視線を移す。切り傷――中には深いものもあった。手当てをしてもらったので、白い布しか見えないが、その白には既に赤がにじんでいた。
「私だけ、特別なの」
「どうして……、いや、待ってくれ。なら、彼女を……沙羅を助けてくれないか!私には無理なんだ、頼む」
「残念ながら、通り抜けることは出来ないのよ」
説明するから。その声に憂いの色が浮かんだのは、気のせいではないだろう。藤道は黙って聞いていた。
――――
「お前は鈴音という者を知っているだろう?我はここの神でいて、道に外れた者を案内するという使命がある。前に我が穴を掘ったと言ったが、あれは少し広げただけであの地下の穴は、元々存在するものだった。そこを塞いで道を作り、崖が見えない日は穴を開けここで休ませる。――お前らの牛車ももう少しで崖に落ち、命を落とす所だった。まあ、普段ならこんなことも有り得ないわけだが」
神は話が逸れたな、と苦笑し、続けた。
「ある時、彼女は我の前に現われた。それもたった一人で。その日は春で、雪が融け始めた頃だった。我は問うた。何用だと。
すると、彼女はこらえ切れない憎しみと、殺気を宿した瞳をして、我に襲いかかって来た。しかし、こちらとて神。人間が敵うはずもない。無礼だとそのまま殺してしまおうかと思った。すると、彼女は自分が一人なんだと叫んだ。
『あなたのせいで、わたしは孤独よ』
舌足らずの幼い子は、それだけを言うと悲しみのまま帰って行った。次の日も、それから毎日ここへ足を運び、刀を向けてきた。二週間ほど経ってから、やっと彼女の言い分が分かった。
つまり、吹雪の日、穴を塞いでいる時に二人の人間が上を通り、崖の存在に気づけずそのまま落下し、命を落としたというのだ。
『どうして助けてくれないの』
それには理由があった。我はここの地方を任されてから日が経っておらず、千里を見渡す眼などの力がまだ使えず、ともかく人を休ませる泉を作るのに必死だったのだ。しかし、そんなことを説明したって納得するはずがない。
『わたしは一人。それが全てでしょ』
謝れば、鋭く睨まれた。そしてまた、どこかへと去っていった。
彼女が来てから、しばらくして千里眼も使えるようになり、我は以前よりも遥かに外を気にするようになった。彼女はきっと、二度は許さないと言いたいのだろう。そう考えたからだ。
『俺を切らないのか』
前の神が居ることにより、穴を塞ぎ続けなければいけなかった。我は首を振った。もうすぐ泉が完成し、我の目が見えない時でも死人を出すことがなくなる。
『木の棒とか、使わないの?手、痛いよ』
彼女は言った。素手でないとうまく水が力を持ってくれないのだ。昔に学んだことの一つである。
『わたし、お手伝いできる?』
最初のうちは断っていた。しかしあまりに熱心に言ってくるので渋々頷いた。だから泉の辺には手で掘った跡が残っている。我らはついに完成させた。
『あの枝が人の命をうばうことはない?』
『大丈夫、その為の泉だ。痛みはあるが、堪えてもらうことになる……。それに俺のはかなり細いから、傷は浅いだろう』
彼女はついに前の神の声までも聞こえるようになっていた。つまり、人間ではなくなりかけていたのだ。我は危惧した。このままでは人の世界へ戻れない。
焦った我はすぐに知り合いを訪ね歩き、ようやく彼女の将来を手に入れたのだ。
『上には、誰もいないよ。友達もいないよ』
怯えた瞳を見ない振りをして、成長してもまだ小さな手に薬を握らせた。
それから、彼女は何度もここへ寄ったが、我は何度も無視し続けた。そして彼女は以前に勧めた店に、勤め始めた」
「――それが、鈴姉様だというの」
頷いた神に、沙羅は呆然としてしまう。
「貴方、それは酷でしょう」
「では一緒にいろというのか。我は生まれながらの神だが、彼女は違う。人間だ。たくさんのことを感じ、自分を探し、幸せを見つけるだろう。それが人の形だろう?我はその幸せを作るために存在する」
「ねえ、神とかそういうのじゃないと思うよ。人の中に幸せが必ずしもあるわけじゃないもの」
沙羅は知っていた。鈴音の普段の姿、心を閉ざして冷たい視線でこちらを睨んでくる姿。それに羨望の心が籠もっているのも、皆知っていた。今でこそ少しは会話してくれるようになったが、すぐにどこかへ行って、命を落としかけていることが度々あるのだ。
「私は今、身分とかぶっ壊してね、思いを告げに行くの。だから人と神がどうとかも同じようなものでしょう」
そうじゃない、神は問題がそこではないと正した。
「――問題は、渋った彼女との約束なんだ」
「どんな約束……?」
「……いつか、舞雪を降らせてみせると」
沙羅はすぐに簡単だと笑みを浮かべた。貴方は舞雪を作れるでしょう?そう神の顔を窺えば、ひどく苦しそうにしていた。
「あれは伝説だ。前にも言ったが、水に浸かったものが再び舞い上がることなんて、非常に稀で簡単ではない。作れるとは言ったが、前に見たのは五百年も昔のことだったんだ」
沙羅は言葉を失う。風が強く吹いた。
「……お前は今、舞雪の代わりとなっている。しかしそんなこと普通では有り得ない。人間はあくまでも人間だからだ。理由は背負う三つの魂。――とは真実ではなく、それは舞雪そのものである」
姉達の魂ではなかった。今や輝きが小さくなりつつある玉。神はそれを見つめながら、言葉を紡ぐ。
「騙していたことは謝る。……しかし自然に作るものを、自らが生み出すことは禁忌とされているのだ。それもたった一人の人間の為などは、言語道断。――生み出したはいいが、禁忌のものに触れると、体が拒絶するようになっていて運べない。しかも我の力はまるで発揮されない。何より既にこのことは他の神たちに知れ渡っている。……我は必ず罰を受ける。しかし軽重が決まるのは雪を降らすか降らさないかによる」
しばらく黙ってから沙羅は言った。
「つまり、私が運びきるか否かで、貴方の罰の重さが変わる」
「その通りだ」
神は遠くを見据え、ぽつりと漏らした。「今頃、お前の町に大きな壁が出来ているだろう。お前を中に入れさせない為の壁が……。それもずっと続くだろう。お前が、死なない限りは」
沙羅は驚いたが、心が揺らぐことはなかった。ならばやるべきことは一つではないか。しかし、気になっている点がある。
「二つだけ訊かせて。貴方は私に辿り着いてほしいのよね?罪が重くなろうとも。――最後に舞雪は私以外に運べないの?」
「背負う三つの玉。徐々に光が小さくなっているだろう?もう限界に近いのだ。我も二度は作れそうもない。最後の、賭けになる。辿り着いてほしい。……独りだと震えた彼女に、約束を果たしてみせたい。それだけなんだ」
神の目は強い光を湛えていた。これを見て、沙羅は決心する。もはや、まともに動いてはくれない足を引きずりながら、前へ前へと進んでいった。
――――
「私はね、神になりかけた女。だから神の力はなくとも、抗うことは多少出来るの。外へは出れない。代わりに外を覗くことが出来る」
藤道は聞いた。鈴音の過去――、両親が亡くなり、噂に聞く神へと足を運び、何度も挑んでは返り討ちにされたこと。叔母に引き取られたが、そのことにより友達だった者からいじめられたこと。叔母は優しくあったが、自分の居場所までは作ってはくれなかった。自分の息子らばかりに、構っていたのだという。
自然と足は憎い者へと向かい、何度も通ううちに彼が話しかけてくれたのだ。
「すごく恐かったけど、でも、温かかった」
鈴音自身も、自分が人ではなくなる感覚があったという。例えば生まれつき悪かった耳が、徐々に良くなってかなりの距離でも声が聞こえたり、体がすこぶる丈夫になったなど。
それを感づいた神はすぐに行動に移し、鈴音を人間の世界へ戻すことに成功した。
「私、拒絶されたんだと思う。いつまでも係わってくる私が面倒になったの。でも独りは嫌でしょう、誰でも。だから約束してもらった。伝説の雪を降らせてみせてね、と。――後から聞いた話、その雪が降ったのって過去から数えても重もないんだって。作るのも大変で、命消えるまで続く痛みと、半分の命を使わなければいけないらしいの」
「だからこの子は何度も命を絶とうとした。それを何度も助ける私たち。どうお思いになりますか、藤の宮様?」
苦笑する店主に、藤道は黙考した。まさに自分が同じ立場ならば、全く同じ行動をしそうだと思ったからである。それに気づいたのか、鈴音は寂しそうに笑った。
「私と貴方は少し似ている。考え方が、ね。貴方は家族がいる。……私もね、こんな化け物と知っていても、母様がいるの」
身分が違いすぎるのに、貴方と話が出来るなんて凄い。その横顔に藤道は思わず俯く。確かに家族はいる。やったことは正しいとは思う。けれど、後悔してないのは嘘だ。
「蛍、伊勢、透子、沙羅。この中の誰かが運ぶことになっているはず。あの寒い北の地を、食料もなく歩き続けているはず。――舞雪は歩く振動を受けないと消えてしまうから。……やはりね」
私が悪いんだね。そう呟いて袂から小刀を取り出す。周りの人々が駆け出したのも虚しく、距離がありすぎて届かない。細い首に刃が向けられ、近付き、薄い皮膚を切った。
「鈴姉様っ!」
どこからか飛び出した四人の女に、皆驚愕する。よく見ると、北の地へ旅立ったはずの三人と、従者の一人が鈴音を押さえつけていた。
「自ら命を絶ってどうするんです!」
怒鳴る伊勢に、辛そうな表情の蛍。透子は抗う手足を必死に押さえていた。
しばらく暴れ続けた鈴音は、体力がなくなったのか、肩で息をしながら妹分を睨みつけた。
「放しなさい」
「嫌です」
三人の揃った返事に、鈴音は一瞬冷静になり、はっとして質問を投げつける。
「どうしてここにいるの、貴方たち……!」
「それは彼女のお陰で」
そう言って、一緒に飛びかかった従者が頭を下げる。
「彼女、穴に落ちた瞬間外にいたから、木の枝の餌食にならずに済んだわけ。牛も元気だったから、壊れた牛車を降ろして私たちを運んだ。……と言って分かるのかしら」
透子の言葉を受け、伊勢は続ける。
「神、と名乗る人に言われたんです。今一番何かに気づかないといけないのは沙羅だから、私たちは一足先に帰れと。町には強風が巻きついてましたが、神様のお陰で何とか帰れました。そこで家に着いたら鈴姉様と母様がいない。急いで追ってみたら、この状況です」
最後は鈴音を責める口調で強く発音したが、鈴音は呆然としており、こちらを一切見ようとしない。
「伊勢のせいで壊れた牛車に乗る破目になって大変だったの。何せ半分無い状態だったから、雪混じりの冷たい風が横からひゅうひゅう、と」
ふふ、と上品に笑う蛍に、あれは貴方のせいだったのね、と蛍が詰め寄る。
瞬間、壁の近くにいた鈴音が吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。他の者もその場に尻餅をつく者や、所々にある木などにぶつかり、怪我をしている者までもいた。
「どうしたんだ!」
鈴音は起き上がり、ひとりごちた。
「来た」
壁は先程とは比べ物にならない程強く吹き、轟々とおぞましい音を立て始めた。辺りにいる者は既に立っていられなくなり、地面に突っ伏す。壁から噴き出す風に木々ももげる程に揺れている。
壁は土や小石などを巻き上げ、竜巻のように徐々に高くなっていく。鈴音はそこを目を細めて見つめるが、砂などが邪魔でよく見えない。しかし、薄ら人影が見えた気がした。
「向こうに沙羅がいるのか」
藤道の声にはっとして、隣に視線を向ける。何度もつまづきながらも、鈴音の近くへと歩みを進める。
「立っては駄目!吹き飛ばされる!」
藤道はしゃがみ込み、鈴音にもう一度問うた。その声は冷静で、その目は真っ直ぐ壁の向こうを見ていた。
「沙羅はいるのか」
「……多分、いると思う」
藤道は姿勢を低くしながら、前へと進んだ。鈴音はもう一度叫ぼうとして、その背中に感化されたのか、同じように進み始めた。
「自分に責任を押しつけてる場合じゃないわね」
その言葉に藤道は笑みを零した。
――――
ようやく辿り着いた町は、風の集まりによって全く見ることが出来なかった。沙羅は神の言う通りだった、と悔しさを顕わにする。
「ここまでする?」
「我の為を思ってのことだろう。思う、と言っても神の評判を落とさないように。――信仰してもらわないと力は無くなるから」
納得する沙羅は、新たな壁を見つけた。
「ねえ、これって……」
指差した先には地割れのようなものが存在しており、町の壁に近づくことすら出来ない。地割れは深く、広く。飛び越えることなど以ての外。長い橋でも架けてもらわないことには通れそうもない。
「どうするの!貴方、何か使えないの?目前にあっても、届かないじゃない!」
冷静さがみるみる消えていく沙羅に、落ち着くよう注意する。
「力は前の神に預けて、あの場を守ってもらっているんだ。そんなものあったら既に使用している」
体が崩れ落ちそうになる。しかしここで倒れては、二度とは立ち上がれない気がした。沙羅は足に力の限りを込めて耐える。胸に手を置いて、握り締める。布の向こうにある紙の感触がした。
「出来ることは、ある?私、やれることは何だってやらなきゃ」
「……ある」
神はそっと背中の光を指す。沙羅も首を回し、光を見つめる。すっかり輝きが弱々しくなっていた。
かけていた紐を取り、抱えると神が手にした。そして中にある玉を沙羅に渡して布を広げ、何らかの形にしようとしていた。初めて見た玉は、一度だけ目にした水晶のように美しく、丸かった。滑り落ちそうなほど表面が滑らかで、透き通っていた。輝きの色は全て赤色をしていた。
「雪なのに、赤……」
少し可笑しくて微笑むと、それに応えるように光った。
「出来たぞ」
そう言って玉を受け取り、紐の端を片手ずつに掴ませた。布は少し破った跡があり、引っくり返して笠のような形にさせていた。沙羅は全く考えが理解できず混乱した。どういうこと、と問われる前に説明する。
「この玉の一つを割り、風を起こす。そしてお前を浮き上がらせる。正面突破は無理だ。ならば上から越えるしかあるまい。残る二つ。どちらか一つでいい、割らずに地面に着け。割らなければいいから」
「風を起こすって……どうして?」
「舞雪とは、つまりは力を持っているかどうかなんだ。玉の形は、力を外へ逃がさない為。割れば力は噴出し、どこかへ散る。その散る衝撃を利用し、お前は飛ぶことになる」
「まあ。じゃあ私、空を飛ぶの」
他人事のように笑う沙羅に、神は心配になる。どんなに衝撃が強いからといって、上手く壁に触れず越えられるかも分からない。触れる触れないよりも、本当に越えられるのか、という所だ。それを聞く沙羅は今一つ真剣みが感じられない。
「考えたら上手くいくの?そうじゃないでしょう」
確かに、と笑顔の沙羅に静かに笑い返す。
「私を選んだなら、最後まで信じて」
「……ああ、分かった」
「沙羅!」
遠くでそんな声が耳に届いた。はっとして辺りを見渡すが、人の姿などいない。ましてや知り合いもいない。では、と壁の向こうに視線を移すが風のせいで何も見えない。
「沙羅!聞こえるか!」
風の音に混じって、そんな声が確かに聞こえる。神と視線を合わせ、頷きあう。そして沙羅も必死に答えた。
「貴方は誰!」
と言った瞬間、勘だが誰だか分かった気がした。すぐに今の言葉を掻き消すように叫んだ。
「私、今から飛ぶから!」
「飛ぶ?!」
短い悲鳴のような声に、沙羅は一人頷いた。風が雪や砂を運んできて、目が痛くなる。
「そう!だから、受け止めてね!」
しばらく返事が返ってこなかった。少し身勝手、というより言葉足らずだっただろうか、と沙羅は心配になったが、返答が聞こえた。
「……なら、沙羅から見て右、少し風が欠けてる所、見えるね?」
指示通り右へ視線を動かすと、隣よりへこんで見える。
「よく気づいたな。さすがに町全体を囲っていると疲れや力切れが起こり、ああ
いう風にずれが出来る。沙羅、あそこに向かって飛べ」
「う、うん!」
渡された二つの玉を懐に入れ、何度も確認する。本当ならもっと落とす心配のない場に入れたいが、ここ以外思い付かない。
「沙羅!足を上に上げて!背中から落ちてくるんだ、後はこちらが……」
途切れる音に、勿体なさを感じる。さらに安堵を感じ、すっかり安心していた。
「落ち着いているが、――もしかしたら体が無茶苦茶に切れて、死ぬかもしれないんだぞ……」
「神様、あまり死ぬなんて物騒なこと言わないで。――私はね、ずっと逃げてきたわけ。だからもう既に心は決まっているの。……貴方には感謝しきれないわ」
さあ、と促され神は頷く。助走して来た沙羅の足が地面を蹴った瞬間、神は思い切りひびに玉を投げ入れた。岩にぶつかり割れた舞雪は赤い光を放射し、衝撃を生み出した。ひびの中なので分散することなく、真っ直ぐ沙羅を持ち上げる。
「わっ」
笠型の布が上手く風を掴み、体が地面から空へと上昇していく。体勢を崩し、前のめりに浮かんでいくが、何とか体を丸めて声の通り足を宙に投げ出す。下手すればそのまま回転しそうだったが、重心を変えて風の届かない場所まで行く。
急に壁が上昇した風に見えた。丁度沙羅の肩が通過しようとしてた時で、肩に鋭い痛みが走る。あまり痛さに布を離してしまい、落下速度が上がる。反射的になんとか頭を上げて避けたはいいものの、すっかり体勢が崩れてしまった。何度か回転し、段々と近づく地面に初めて恐怖を覚える。
(藤道様、藤道様!)
頭から突撃するかと思い、目を閉じた。
「待って、待ってくれ沙羅!」
懐から落ちた玉が弾け、沙羅は再び舞い上がり、地面から遠のく。
「ふっ、藤道様あ!」
力一杯目を瞑っていたことにより景色などまるで見ていなかったが、何かにぶつかって地面を滑る音にようやく目を開ける。
「まあ……」
「沙羅!」
抱き締められ、呆然とする沙羅は現実に戻った。
「無事かい?肩に傷があるようだ……。痛い、だろう。誰か早く手当てを!」
「沙羅!大丈夫?」
沙羅の周りにはたくさんの人が集まっていた。姉や母、見知らぬ顔も多くあった。
「藤道様……」
「沙羅、藤の宮様よ!このお方が誰よりも早く沙羅に追いついて、貴方を受け止めたのよ!貴方すごい速さだったのに、簡単に抱き締めてしまわれたのよ!」
「はは、言い過ぎだよ。もう一度浮いてくれなかったら、間に合ってなかった」
久しぶりに興奮したよ、と力無く笑う腕の中で、沙羅は思わず泣いてしまった。せき止めていた物が全て流れるように感じた。
「こわかった」
子供のように自分の思いを吐露してしまい、恥ずかしく思うが堪え切れなかった。
「わわ、大丈夫だ。凄かったよ、私の舞雪」
「……舞雪を知ってるの」
「鈴音……さんから教えてもらったんだ。あ、そういえば彼女は」
と呟いてから、それ所ではないことを知る。眉をぎゅっと寄せて腕を回しながら泣く彼女に、愛しげに微笑む。背中を優しく叩いてやると嗚咽が少し小さくなった。
「子供扱い、しないでよう」
顔を上げた瞬間飛んだ涙が、懐から覗いていた玉に当たり、目が痛い程に強く輝き始めた。
「わっ」
玉が空へと昇っていき、一際輝いて消えた。すると、その入れ替わりに雪が――光を身にまとった雪がちらちらと降ってきた。
「沙羅、雪だ……、それも飛び切り綺麗な雪。約束が果たせたね……」
涙の残る瞳に雪を映した。沙羅は静かに眺めた。とても美しい、心からそう思えた。
「私は貴方をお慕いしています」
――――
「行ってしまうの」
鈴音に神は微笑んだ。
「そうだ。神として失格だからな」
「――私はまた、一人だわ。また、親友がいなくなる」
透け始める体を見つめ、困ったように神は笑う。
「我は消えても、死にはしない。遠くへ飛ばされるだけだ。……消える前に名前をつけて欲しい」
「どうして?」
「お前が会いたくなった時、その名を探して来ればいい。我は行く場所の目立つ場に名前を刻み、進んでいくから」
黙ったままの鈴音に、雪はどうだ、と問う。すると首を振ってそんなことよりも、と口を開いて、また閉じた。
「何を言っていいのか、分からない」
「ならば、何も言わずともよい」
「でも」
「お前は一人ではないぞ」
優しい声音に、鈴音は余計に何も言えなくなる。
「沙羅や他にもたくさんの妹分や、母がいる。友達もいる。お前から自分を閉ざしてどうする?たえず笑顔の奴は恐ろしいが、いつも無表情の奴も恐ろしい。周りを見て、まずは笑ってみろ。せっかく表情があるんだから」
もう体の半分も残っていない神は、消えるのにこんなに遅いのは、他の神の仕業か、と苦笑する。鈴音は意を決して叫ぶ。
「紅、……これは、貴方の名前。私、すぐに探すから。待つのは嫌だから、遠回りでも会いに行く。だから、貴方も早く私の所に辿り着いて」
「……我を探している間に、親友の位置よりも上の場所を探しておけ」
「え?」
神の姿は消えた。鈴音はしばらくそこに居た。
――――
「この雪は望みが叶うものではないのね」
大騒ぎする町の人々を見て、沙羅は少し笑ってみせた。未だ動く気配のない彼女のせいで、藤道はずっと地面に座ったままである。誰か知り合いが見れば、形相を変えて怒鳴られることだろうが、今はいい。藤道は頷いた。
「あ、そうだわ。藤道様、貴方謝りに行かなきゃ」
「誰に?」
「決まってるでしょう、貴方の家族に!」
立ち上がり、怒った表情を浮かべる沙羅に、理解が追いつかず藤道は尋ねる。
「私はもう、彼らとは家族では――」
「何を、言って、いるの!駄目よ、家族がいるのに自ら縁を切るだなんて。馬鹿もいい加減にしないと、許せないわよ。ほら立って」
手を借りて立ち上がる藤道は、嫌悪感を顕わにした。
「今行けば、私が言った言葉も全て無駄になる。愛する弟でさえ酷い言葉を言ってしまったのに。今更行けるわけがない」
「本当に賢いのかよく分からないわ。家族への言葉が元々無駄なの。……謝って全てが終わることはないでしょうけれど、許してもらえなくとも、何度も縁を紡いでいくのよ。――数少ない唯一の家族でしょうに」
困ったように笑い、沙羅は藤道の言い訳を潰していく。
「鈴姉様はきっと神様の所よ。でも蛍姉様よりも鈍いから、違う方向に進んでるかもね。ともかく心配はいらないし、私の怪我は深くないから大丈夫って言ってらしたわ。お姉様たちとの再会は後ででも出来るし、今やるべきことがあるでしょう?」
一息で言ってのけた沙羅に、参ったとのため息が漏れた。仕方なく牛車に乗り込み、行き先を告げる。
「沙羅には敵わないよ」
「……かなわないと言えば、貴方の望みは叶ったの?ねえそれで、貴方の望みは何だったの?」
藤道は先程の返し、と何も答えなかった。が、その視線が揺らがず沙羅に向けられていたので、何となく分かってしまった。
「私の望みも叶いましたよ?お返事はまだですが」
「普通、女性が先に言うものではないだろう……?」
「普通なんて知らないもの」
「……その嬉しいお言葉に、私の全てをもってしてお応えしようと思います。――愛の全てを込めて」
二人は微笑んだ。風によって宙に浮いた雪が、憧れの空へと舞い上がった。
舞雪 夢を見ていた @orangebbk
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