道化師と月の華

夢を見ていた

第1話


             ◆◇◆


 月明かりの優しい夜のことでした。

 わたしはたった一人、人のいない路地裏の階段で、泣いていました。その日は寒い夜でしたので、すぐに体の温度は奪われ、小刻みに震えながら泣いていました。こんな顔のまま帰るわけにもいかず、その場から離れることもできず、ただ時間だけが過ぎてゆくのでした。


 わたしは、ここ【百合の国】にある街を拠点としている、フローラ楽団という楽団に所属していました。この楽団はほぼ毎日演奏会を開き、歌や音楽を披露して、この街の人々を楽しませていました。また、街の住人たちだけでなく、他国の人たちまでもがこの街を訪れ、フローラ楽団の奏でる音楽を楽しんでいくのでした。

 わたしは、この楽団に憧れて、故郷を捨てて入団した歌い手の一人でした。しかし、ただ歌うことが好きだから、では、舞台に立てないのが現実です。わたしには、才能がありませんでした。人を魅了する声も、感情豊かな声も、高い声も低い声も、どれもこれといって特徴のない、――皮肉を言えばその平凡さが特徴なのかもしれませんが――、ただの歌好きの女でした。

 団長にはいつもどやされて、団員たちからは蔑みに似た視線を感じる毎日。舞台に立てないわたしの仕事は、舞台に出る人たちの世話や、舞台の掃除といった雑用ばかりでした。

『あんたには才能がないんだ。いい加減、諦めたらどうだ』

 団長は繰り返しそう言います。『歌の楽しみ方は他にもある』とも言います。その声色はいつも、呆れの色が込められています。それでもわたしが縦に首を振らないので、団長は焦れて、わたしを怒鳴るのでした。団長は辛い立場にいる方でした。楽団を切り盛りするには、実力のない歌い手など雇う余裕も無いはずなのです。それなのに、わたしを置いていてくれるのは、すべて彼女の優しさからでした。団員たちもわたしに対してわざと冷たい態度を取って、わたしに歌を諦めさせようとしてくれているのです(そう話しているのを聞いたことがありましたから)。

皆、優しい人たちばかりでした。


――ただ、わたしだけがいつになっても、愚図なままなのです。

――そのことが、辛くてたまらないのです。


 頭上から、カチカチと接触の悪い街灯が音を立てます。それに合わせて光が消えたり灯ったりを繰り返します。

わたしはそれをそっと見上げて、ため息を漏らしました。そしてまた、自分の不甲斐なさに対する怒りや悔しさや悲しみ、といった色々な思いがごちゃまぜになった、例の感情が込み上げてきて、わたしを苛むのでした。

泣いたって楽にはならない。むしろ泣けば泣くほど強くなっていく心の痛み。わたしはもう終わりにしたいと思いました。みんなのところへ帰ろうと。そしてそこで歌の練習に励んで、舞台に立てるよう頑張ろうと。そう前向きに考えることで必死に堪えよう堪えようするのですが、それもうまくいかずに、無情にも、涙は零れていくばかりでした。――。


そんな時、革靴のような硬い靴が、煉瓦の道を高く鳴らしているのが、聞こえました。どうもこちらへ近付いて来ているようです。すっかり油断していたわたしはとても焦りました。今は誰にも会いたくありません。こんな見苦しい姿を晒すなどもっての外!

わたしはやり過ごすことに決めました。足音はゆっくりとこちらの方へと近づいて来ています。わたしは急いで顔を伏せました。まさかこんな時間にこんな所へ誰か人がやって来るなんて思ってもいませんでしたから。

(来ないで!)

半ば祈るように心の中で叫ぶけれども、ついに誰かが、わたしの前で足を止めました。焦る心の臓が早鐘を打つのがわかりました。

「御嬢さん、こんな寒いところでどうしたんだい?」

陽気で朗らかな、テノールの声。親しげな、それこそ昔ながらの友達に話し掛けるような物言いに、思わず顔を上げてしまいました。

「!」

わたしは息を呑みました。視界いっぱいに入ってきたのは、黒い何かでした。よく見ればそれは、黒の色に塗られた仮面を被った、誰かの顔だということがわかりました。仮面は顔全体を覆っており、こちらから唯一窺えるのはわたしを真っ直ぐ見つめる両の瞳だけ。月夜といえど辺りは暗く、人気が無いせいか、それが何よりも不気味に感じられて、たまらなく恐ろしくなって、一刻も早くこの場から離れたく思うのですが、ずっと寒空の下に居たせいで体が固まって思うように動いてくれません。それでも必死の思いで、半ば強引に体を引っ張るようにして、少しずつ移動してその方と距離を離し、向かい合います。

「だ、誰っ!?」

「これは失礼! あなたに何かしようと思って来たんじゃないんだ。――ただ、こんな夜遅く、たった一人でいるあなたの姿に、ふらふら誘われて来た、とるに足りないただの道化師なのです」

「道化師?」

「そう。アルテ劇団という劇団の道化師、アルルカンです。どうぞ以後よしなに」

そう言って、被っていたシルクハットを取って、見惚れるほどに優雅なお辞儀を。わたしも慌てて立ち上がり、スカートの裾を軽く摘まんで、お辞儀を返しました。

その方は、細身で背丈の高い方でした。上はひし形のアクセサリのついたシルクハットに、生地の良さそうな上着とチョッキ。下は膝丈のズボンに白いタイツで、細身のステッキを持っていました。シャツのボタンは首元までしっかりと留められており、橙色の蝶ネクタイがアクセントとなって素敵でした。

仄かな街灯の光と澄んだ月の光とが、彼の美しさを引き立たせることで、彼のいる空間が、まるで名画の一部へと変わってしまったかのように錯覚させられました。

「どうかしました?」

「いいえ、なんでも!」

 思わず惚けていたわたしに、仮面から覗く目が細められました。変な子だと、思われたのかもしれません。わたしは言及される前に、話題を変えようと試みました。

「アルテ劇団とおっしゃってましたけれど、どんな劇をやってるんですか?」

「見に来ればわかるよ。皆は仮面喜劇なんて言うけどね。ぼくらは自分勝手に自由に動いてるだけなんだよね」

「仮面喜劇。ああだから、えっとアルルカンさんも仮面を被ってるんですね」

「そうなんだ。被ってない奴もいるけどね! ほら、統一性なしでしょ? ほんと自己中な連中しかいないんだよ」

それから一しきり団員たちの愚痴を零してから、彼は蝶ネクタイを軽く引っ張って服装を整え、こほんと咳払いし、

「さて。そろそろ警戒は解けたかな? お近づきの印に、まずはきみの名前を聞かせてくれない?」

 言われて初めて名乗っていなかったことに気づき、

「は、はい。リリーって言います。リリー=マリアーヌ。」

とたどたどしく答えると、道化師のアルルカンさんは、繰り返しくりかえしわたしの名前を小声で呟きました。呼ばれたからには返事をしなくてはと、その度ごとに律儀に「はい。はい。」と返事をしていると、仮面の下でくつくつ笑い声が上がりました。「素敵な名前だから、声に出してただけだよ」わたしは赤面しました。

「リリー。ぼくの故郷ではその名前は、とある花のことを指すんだ」

 わたしの格好が寒そうだからと、上着を貸してくれながら、彼は言いました。

「花? どんな花ですか?」

「リリーも知ってる花だよ。百合の花だ。この国の国花でもあるね。花言葉は、純白、純潔、純粋。そして無垢で偽りのない心。――あなたにふさわしい」

そう言って、わたしのすっかり赤くなってしまった手を取って、キスを落としました。それは仮面の上からのものでしたが、わたしにとっては十分意味を成しました。わたしはさらに顔が火照るのを感じました。

彼のすらすらと流れ出る、流暢な口調も、面白可笑しな言葉も、その優雅な仕草も、――そして何よりそのまっすぐな視線も、すべて初めて体験するものばかりでした。今まで生きてきた中でそんな風にわたしに接してくれる殿方は誰ひとりとしていなかったのです。なのでわたしは、始終戸惑っていました。けれども同時にとても嬉しかった。生まれて初めて胸がときめき、踊るのを感じてもいたのです。わたしは何とかこの素晴らしい時間を長く過ごしたくて、緊張で鈍る舌を懸命に動かして場を繋げました。

「アルルカンさんの故郷はどこなんですか?」

「【薔薇の国】からです。この服もそこから持ってきたんですよ」

 自身の服を指差す彼。わたしは手を合わせて合点がいったと口を開きました。

「やっぱり。見かけない服装だと思いましたもの。――【薔薇の国】ということは海を渡っていらしたのね、遠いところから遥々……。すごいですね。わたしはこの国から出たことはありませんから」

わたしの言葉に、彼はくすくすと笑い声でもって返しました。わたしの必死さでも伝わったのかもしれません。

わたしはまだ何か話していたくて、次の質問を口にしました。

「道化師、とおっしゃってましたけれど、それはピエロのこと? わたし、ピエロしか見たことなくて。あのサーカスに出てくる方のことですか?」

わたしの質問に、道化師独特というのでしょうか、とても軽妙な話し方と大げさな身振りで答えてくれました。

「サーカスの道化師はピエロか、か。……実はね、その表現はちょっと間違っているんだよ。まず、ピエロはあくまで道化師の一人に過ぎない。つまりピエロが我々道化師の総称ではない、ということなんだ。さらにまとめると、道化師というグループの中に、ピエロやぼくことアルルカンなどの道化師たちが属している、というのが実は正しいんだ。ちなみにサーカスにいる道化師は『クラウン』と呼ぶ。我々は劇場で道場する道化師。クラウンと我々は似てるけど、少し違うもの同士だったりするわけです」

わかった? と尋ねられて、わたしは自信なく頷きました。ピエロは道化師全員を指すのではない。クラウンはサーカスにいる道化師。多分そういうこと。わたしは頭の中で確認してからもう一度、今度は彼の目をちゃんと見て、頷きました。

話が一段落してから彼は、わたしに近寄るように促して、わたしが移動したのを一瞥してから、再び帽子を取って一礼しました。

「きみを、今夜のぼくのお客様としてお招きします。どうか、今夜限りの余興を、お楽しみあれ」

そう言って彼はステッキを真上に放り投げると、それが一瞬のうちに小さな花束となって現れました。

わたしが驚きのあまり声が出ずにいると(この時生まれて初めて手品を見たのです。わたしはまるで彼が魔法使いになってしまったかのように感じていました)、彼は道化師らしい足の運び方でこちらに近寄ってきて、花束を渡してくれました。恐る恐る受け取ると、彼はその場で宙に一回転して、自分の立ち位置に戻ってショーを続けました。

花束以外にも、どこかに隠していたらしいボールをいくつも取り出しては空に投げて、見事なジャグリングを披露したり、回ったり、逆立ちしたりして、芸をいくつも披露してくれました。

わたしは、それらの芸が成功した場合には、体全体で喜びを表してとびきりの拍手を送り、失敗した場合には、声を上げて笑い転げました。最初は彼の失敗を心配して駆け寄ろうとさえしていたのです。がしかし、彼の動作一つひとつが、多分に可笑しさを含んでいるのです。そのうち堪え切れなくなって吹き出すと、彼は待ってましたとばかりに、わたしの笑いを誘うような動きをするのです。――彼は素晴らしい道化師でした。そんな彼にわたしはすっかり魅了されていたのです。夜の寒さはいつの間にか感じなくなっていました。

「――残念ながら次で最後になってしまいました」

「そんなぁ……」

彼の言葉にわたしは思わず不満の声が漏れました。すると彼は慰めるように言いました。

「ぼくとしても、とっても離れがたい。それなのに、月は帰ってしまうんだ。そして明日を呼んでくる。仕方ない。ならば、ぼくも、流れる時とともに生きよう。できるなら、きみと共に。そうだな、今度は、劇場で。本当のぼくをみせてあげる。……さあ、まずは今日を終わらせてしまおう。何、悲しむ必要はないだろう、ぼくらはまた会えるのだから」

そう言い終えたのを合図に、どこから出してきたのか、ジャグリング用のボールより何倍も大きいものを足下に置いてから、器用に足だけで蹴り上げました。

「フットボールって知ってる? こうやって蹴って遊ぶスポーツ」

「フットボール? 聞いたことない」

「そっか。ぼくの国では有名なスポーツなんだけど。――よし、じゃあ、いくよ!」

それを合図に彼はボールを空高く蹴り上げ、落ちてくるときを見計らって宙返りし、そのボールを見事両足で受け止めました。わたしはあまりの凄さに声も出ませんでした。そしてやっと我に返ってから、ありったけの讚美の拍手を送りました。

あんまりわたしがはしゃぐものですから、彼は「ぼくの本来の本領発揮の場は、即興劇の中なんだよ」と暗にこんなもので満足するなと言われました。

「是非、今度見に来てよ」

手を差し伸べられ、反射的にその手を取ろうとしますが、はっと自分の立場を思い出します。

「行きたいけど……でも、お金がいるでしょう。わたし下働きだから、その、あまりお金は、もらえてなくて」

魅力的なお誘いを断るのは、こんなにも身の裂かれる思いになるとは初めて知りました。それと同時に恥ずかしくもありました。わたしの稼ぐ金額では、食べていくのも容易くはないのです。なのに娯楽に注ぎ込むお金など――。

と悲しみに沈んでいると、彼はわたしの肩に手を置いて、やわらかに首を振りました。

「大丈夫。きみは幸運な方だ。……実はね、近々、我々の劇団の【百合の国】入国を記念して、子どもたち限定に無料でチケットが配布されるんだ。寸劇を行う予定なんだ。でも寸劇だからって絶対に退屈させない。少しでもいい、見に来てほしいんだ、誰よりもきみに」

そう頼まれては断ることなどできるはずもありません。わたしにできることはただ一つ、彼のお誘いに頷くことだけでした。それを受けて、彼もまた満足そうに頷きました。

「じゃあまたチケットが取れたら持って来るよ」

「ええ」

「……! ああ、こんなに長居をさせてしまった! 大丈夫? 寒くはないかい? さあ、早くお帰り」

彼の手を借りて立たせてもらい、感謝しながら上着を返そうとするとやんわり断られました。

「次、会うときに返しておくれよ」

「えっ」

「担保代わりだよ、リリー」

そう言って、軽い足取りで帰っていく彼の姿を見て、思わずこう口にしてしまいました。

「あなたの本当の名前は何ですか」と。

彼はその場に立ち止まりました。

「わたしも! あなたの名前を呼びたいの!」

長い沈黙。どうもひどく逡巡している様子でした。わたしは待ちました。が、あんまり悩んでいるので、聞かれて困ることなのだとひとり合点して、先程の質問を取り消そうと口を開くと、

「……アーサー」

と。か細い返答が。それでもわたしは嬉しくてさらに重ねて尋ねました。

「アーサーさん! 素敵なお名前ね。セカンドネームは――?」

「捨てた」

即答。その声は酷く冷たくありました。これ以上は何も訊くな。そんな強い意志が込められた声でした。そこでやっと、自分は出過ぎた真似をしたのだと悟りました。彼を傷つけてしまった。わたしに素晴らしいものを見せてくれた彼を。

「――っ、ごめんなさい!」

自分の浅ましさが恥ずかしくてたまらなくて逃げ出しました。思わず彼の服を握り締めます。――もう彼は会ってくれないかもしれない。勝手なのはわたし。それでももう会えないと考えるだけで辛くてつらくて――。

「リリー!」

「え……」

振り返ると彼の姿がまだそこに居ました。

「その服、ちゃんと持ってるんだよ!」

大声で叫んで、彼は走り去って行きました。あまりの声量にどこからか街の人々の怒号が聞こえました。わたしも走り去って行きました。わたしは身勝手な女です。――今は嬉しくてたまらないのです。



「アーサー、きみ、名前教えたんだね」

「……ルイか」

「きみが急に飛び出していくから、どうしたんだろうと思ってね。――しっかし珍しいことが起こったもんだ。明日は雪かな。あ、今は冬だから別段珍しくもないか」

「うるさい」

「ちょっとアーサー、待ってよ! アーサー!」


            ◆◇◆


それから。

道化師と歌い手見習いの二人は、初めて出会ったあの夜と同じ場所、同じ時間に会うことを繰り返した。

リリーとしては、彼に慰めてもらいたくて出歩くのではなく、ただ溢れる涙を他人に見られないが為に外へと赴いていたのだが、アーサーと会うのを繰り返していると、気づけば無意識に、彼の姿を目で探していて、少しでも会って話せはしないのでしょうかと思案するようになっていったのだった。リリーはそのことに対し、恥じらいに近い感情を感じていてあまり好しとは思っていないが、あれほどまでに魅力的な夜はリリーにとって初めてのことであったので、どこか落ち着きのない、彼の登場を心待ちにする気持ちが出てくるのはごく自然のことだろうと思う。

そんなリリーの微細に揺れる心を知ってか知らずか、道化師として現れる彼はまるで自身が、リリーの昔からの知己であるかのように振る舞うのだった。といっても、アーサーが知っていることは数少ない。名前と住んでいる場所くらいだろうか。それなのにも関わらず、リリーに古くからの親友に近いものとして錯覚させることを可能にしたのは、偏に彼の話術によるものだった。

「リリー」

 今日も彼は彼女の前に現れた。彼女は微笑んで、持っていた彼のステッキを手渡す。

「ああぼくのステッキ! あれ、なんだか綺麗になってる……?」

 そうして受け取ったステッキをくるくると回して眺める。リリーは嬉しそうに言った。「わたしが磨いたの!」

「ああ、別にそんなことをせずともよかったのに! いや、でもここはありがとうと感謝を言うべきなのだろう。ああでも! ぼくはきみと逢えるだけでいいのにこれ以上満たされていいのだろうか、リリーきみはどう思う」

「わたしが勝手にやったことだもの」

 得意げに胸を張るリリー。二人は逢って別れる度に自分たちのものを担保にして、また次に会う約束をするのだった。最初はリリーも服などを綺麗に畳んで置いておくだけであったが、彼女が担保にしたリボンが、シルクのものとなって返ってきたことから、自分も何かしたいと思いこういう細かい気遣いを始めたのだった。

 アーサーとしても、女性に物を贈ることは多々あっても、返されることには慣れていなかったので、ああ失敗したと内心息をついた。どうも彼女の手元には金という金が入っていないらしい。そんな彼女に結果として、贈り物を返すよう仕向けてしまったのは、彼としても心苦しかった。なのでそれとなく何度も断るような言葉を伝えてはいるのだが、リリーは首を振らなかった。それどころか、さらに力を入れて、彼の持ち物を小奇麗にするのだった。

「そうだリリー、聞いてくれ! やっとチケットを手に入れたよ! 小道具のやつらめ、早くしろと散々言ったんだがね、動きがのろくてたまったもんじゃないよ、きみが何よりも楽しみに待っててくれているのに――。さあ、受け取ってくれ、明日の午後二時から公演だ」

 そう言って彼はチケットを出した。彼女は溢れんばかりの笑みで両手を差し出す。が、次の瞬間、チケットは彼の手から消えてしまっていた。彼女はびっくりして伸ばしていた手をさっと引っ込める。

「なくなった!」

 ふてくされて頬を膨らませる彼女に、彼はまあまあと宥めてから、指をパチン、と鳴らした。するとそこには既にチケットが戻ってきており、アーサーは今度はちゃんとリリーに手渡した。

「お待ちしておりますよ」

「うん!」



            ◆◇◆


 眠りから醒めると、満月のように丸い瞳がふたつ、こちらを覗き込んでいた。

ぼやけた視界がはっきりするにつれて、その瞳をもつ少女の全体像を捉えることができた。軽くウェーブした金の髪は、えり首の辺りで切り揃えられており、柔らかな印象を受ける。鼻はやや低く小さく、唇は、形はよいが少し薄いように感じられた。頬はほんのりと桜色に染まっていて、自然と愛らしさが漂っている。

中でも、何より目についたのは、少女が浮かべている表情にあった。まるで聖女のような温かな眼差しで、こちらに微笑みかけているのだ。

微笑まれた青年は、夢うつつに少女を見つめ返した。そして半ば本気で、彼女が女の子の姿をした妖精か何かだと思った。太陽の光が少女の背後から優しく射し込む。風が周りの樹々から緑の香りを借りて、それを自らの身に纏って吹き渡った。その香りが彼の鼻腔をくすぐる。――森の妖精か。彼は頭がうまく働かないのをよいことに、感情の赴くままに目前の妖精に手を伸ばした。触れると彼女はくすぐったそうに身を捩った。手に伝わる体温を感じて、はっとした。

「あれ、……おまえ……誰だ」

ようやく夢から抜け出し、意識が明瞭としてきた。彼は咄嗟に自身の顔に手をやる。――無い。起き上がり、何かを探すように必死に辺りを見渡す。体勢を変えたことにより、腹にのせておいた何かが転げ落ちた。

「あっ」

地面に落ちたそれを少女は拾う。手にしたのは黒い仮面だった。目の所以外はすべて隠されていて、木製で緋の紐がついている。それこそ、彼が求めたものであった。彼は彼女の好意を蹴るようにして小さな手からすぐさま仮面を奪い取った。

「――大事なものなの?」

しかし少女は笑顔のまま首を傾げた。彼としては咄嗟のことではあったが、露骨にやり過ぎた部分もあったので一応は謝ろうと口を開いたところだったので拍子抜けしてしまった。

「ごめんなさい」

その上先に謝られてしまった。彼は複雑な気持ちのまま口を閉ざした。

少しの沈黙のあと、彼女は言った。「名前聞きたいな」

「え」

「わたし、リリー=マリアーヌ。あなたは?」

彼はかなり長い間躊躇していた。が、ついには彼もまた名乗った。「アーサー」とだけを。

「姓は?」

予想できた質問に、アーサーは吐き捨てるように返答する。「捨てた」

「え?」

今度はリリーが聞き返す番だ。アーサーは立ち上がり、膝を折って背の低い彼女と目線をあわせて、じっと見つめる。

(小さいから、妖精みたく思えただけか。寝ぼけてたんだな、まったくもって莫迦らしい)

思いながら、アーサーはふと遠くを見据える。ここは郊外にある、森というにはこぢんまりした自然溢れる場所だった。この奥には物好きの人間がひとり住んでいるという小屋がある。そこよりまだ街寄りであるここが、アーサーらがたった今いる場所だった。アーサーはここが気に入っていた。静かで人がいない場所。彼が寝転んでいたのは、すっかりひび割れて苔が目立つ樹のベンチであり、何故かこのベンチだけが離れて置かれている。それを許可なく使用し、適当に時間を過ごすのが最近の彼の気に入りであった。

アーサーはリリーと向き合う。

「何しにここへ来てるんだ。話すのは初めてだが、おまえの姿は何回か見たことがある」

「わたしも、アーサーさんのこと何度か見たことあるよ」

アーサーと呼ばれ、眉をひそめる彼を見て、リリーは不思議に思うが何も言わずにいた。代わりに違うことを口にした。

「わたしはある人に会いに来てるの。……なかなか会ってもらえないけれど」

淋しそうに俯いたと思ったらすぐに勢いよく顔が上がった。

「アーサーさんはどうしてここへ?」

「……別に。何でもいいだろ」

「別に、か。――わかった。あのね、わたしはね、ずっと通ってるんだけど全然会ってもらえなくて。でもぜったい諦めないつもり。だからあなたがまたここへ来たら、きっとまた会えるね」

アーサーの突き放すような物言いに対して、気分を害した様子も傷付いた様子もなく、それよりむしろ相手を気遣って話題を変えるまでした彼女の態度にアーサーは感心する。大抵の女はなんでそんな言い方をするのかと喚いて泣く。それが心底面倒でアーサーはいつも泣き出す前に彼女たちのもとから逃げ出すのが常だった。しかしリリーに対しては、焦って逃げ出す必要がなさそうだと彼は軽く安堵する。

ではそろそろ、と彼女はその場を去ろうとした。それを見て、そういえばとアーサーは質問を投げ掛けた。

「なんでずっと見てたんだよ」

「え?」

「さっき。寝てたの見てたろ」

「――えっと、はい、見てました」

怪訝な顔でリリーを見つめる。「なんで」

「待ってたら、見れるかなって思って」

さらに眉がひそめられる。「何を」

リリーははにかんで、答えた。

「――ひとみ。きっと綺麗なんだろうなって思って」

「は? ……ずっと思ってたけどおまえ頭おかしいの?」

妙に堂々としてるし、おれの物言いにも動じないし。これは心の中だけに留めた。リリーはやや興奮気味に反論するが、興味をなくした彼の頭にはとんと入ってこない。彼女の故郷では目を大事にする、といった内容のことを主張していたが、アーサーは最後まで聞かずに退散した。これだから喚く女は嫌なのだ。あと、酒飲みの女はとくに。

「アーサーさん!」

呼ばれ慣れていないのか、彼の振り返り方はぎこちなかった。まるで自分が呼ばれたのか不安のままに反応したかのような。そして彼女と向き合ってから、ああ呼ばれても無視をすればよかったのだと後になって気付くのだった。

「……なんだよ」

ぶっきらぼうにそう返すと、リリーは手を上げて左右に大きく振り始めた。新しい非難の仕方だろうかと考えていると、リリーは花の咲くような笑みをたたえて言った。

「また! お話しようね」

虚を衝かれる。あんなに相手を拒むようにしていた自分をもう一度話し相手に選ぶだなんて。その場かぎりのお誘いかもしれないが、その屈託ない笑顔は本物だとアーサーは思う。その笑顔への賞賛を込めて手を振り返そうかと一瞬悩んだが、らしくないと割り切って何もせずに立ち去った。

リリーは今もまだ手を振り続けているのが、背を向けていてもわかった。


            ◆◇◆


それから、アーサーは森へ行くのをやめた。人との接触を嫌って森へ出掛けたのだから、当然の結果ではある。しかし心の端の方では、少女の笑顔がちらついて離れなかったりするのだ。それを何度も打ち消しては、時を過ごした。

そしてある時、時間もできたので、久しぶりに足を運んでみようと森へ向かうと案の定、彼女と会った。手には何故か空のかごが握られていた。そのことについて尋ねようか迷っていると、彼女の方から声を掛けられた。

「最近見なかったねアーサーさん」

 返事を渋っていると、リリーは勝手に喋り始めた。

「忙しかったから? それとも別に? だとしてもわたしはうれしいよ、またあなたに会えたんだから。……もう会いには来てくれないって思ってた。あれからずっと会えなかったから」

 リリーは彼の『別に』という返答を、これ以上訊くなという意味で捉えているようだった。あながち間違いではないが、そんなに気を回してもらう必要はないのにと思う。ほとんどの場合、仕事柄こちら側が常に気を遣っているので、余計とそう思う。けれどもそれを口にすることはなかった。リリーは嬉しそうに笑っている。その笑みを見ているとふと、彼女が以前使った『故郷』という言葉を思い出した。気になったので問うてみる。

「おまえはここの街出身じゃないのか?」

 急な問いに驚いたのか、目を丸くしながらもリリーは楽しそうに答えた。

「ええそうなの。田舎者なのですよ」

「どこ」

 リリーは答える。この街から随分と離れたところにある場所だった。アーサーは彼女がひとりでここまでやって来たのかを尋ねた。リリーは頷いた。

「理由は?」

 矢継ぎ早の質問にも律儀に答えるリリー。この質問には、手遊びしながら、照れくさいのをまぎらわすようにして返事をした。

「わたし、この街にある【フローラ楽団】というところに所属しててね。えっと、一応歌い手なんだけど、一番下手だから、いつもは下働きしてるんだ。でもね、いつかはあの大舞台に立ちたいなって、そう、……思ってる。――じゃなくって! そう、フローラ楽団はとっても有名で人気でしょう? わたし、故郷でその噂を聞いていてね、入りたいなあって思ったの。歌がすごく好きだったから。だから諦められなくって、お父さんの知り合いに頼んでこの街の近くまで連れて来てもらって、一生懸命がんばって、雇ってもらったのよ」

「へえ」

 アーサーはいつものベンチに腰かけて、リリーを見た。「じゃあ一曲、聴かせてよ」

「えっ!」

「歌い手なんだろう、一応」

 戸惑う彼女にアーサーは早くと促した。アーサーの真っ直ぐな瞳を見つめてから、リリーは覚悟を決めたように彼の前に立った。

「笑わないでねできるだけ最後まで聴いてねがんばるから」

「……わかったよ」

詰め寄るリリーに頷く。それでも物足りなかったのか彼女は繰り返しくりかえし念押ししてから、深呼吸し、そして。


「……曲は【星屑の祈り】です。――じゃあ。いきます」

歌が始まった。


            ◆◇◆


ある日の、月の光が明るく輝いていた夜。仕事に遅くまで精を出していた彼は、寒空の下、ポケットに手を突っ込み、体を屈めて帰路に急いでいた。彼の吐く息は真っ白で、雪がちらちらと舞っていた。冬がやってきたのだ。これから徐々に冷え込んでゆくのだろうと、彼は空を仰ぎひとり思う。見るだけならば美しい月と雪の共演も、寒さを伴えばただの景色と化す。少なくとも、物の情趣に何の興味もない彼にとっては。

足早に街中を過ぎ行く彼が、急に立ち止まった。違和感を感じて顔を上げると、人気のない路地裏に面して立つ街灯が見えた。よく見ると、光が瞬くように揺らいでいる。灯りを維持するための油が少なくなっているのだろう。間もなくそれは消えてしまった。暗闇が一層深くなり、景色がわかりにくくなった。――しかしそのことは彼にとってどうでもよくなってしまった。彼の視線の先に、たったひとりで路地裏の階段に腰かける少女が映ったからだ。寒い夜風を身に受けて、小刻みに震えながらも俯いたまま一向に動こうとはしない影。彼は驚かしてやろうとさながら悪戯を企てる子どものように、足音を忍ばせて少女のもとへと近寄る。少女の正面に立つ。が、俯いたまま顔を上げない。気づいていないのか。時折鼻をすするような音が聞こえた。

(こんな寒いところに居るからだ)

彼は気づかれないことへの苛立ちを感じながら、階段を上がって少女の背後にまわる。そして、

「やあ!」

少女の肩を両手で軽く叩いた。そして期待する。彼が思い描いていた飛び切りの驚きの表情が、そこにあることを。しかし、驚かそうとした方が逆に驚かされてしまう結果となった。

「え……」

 彼は絶句する。振り返った少女の目が、真っ赤に腫れていたのだ。見開かれた瞳から、ぽろりと何かが零れ落ちた。

目だけといわず、鼻や頬など顔中を真っ赤にして、リリーは泣いていたのだ。彼はもう少しで声を荒げるところだった。どうして泣いているのか、もう少しで問い質してしまいそうだった。が、その衝動を抑えて、彼は自身の役割を演じた。彼は今、自分という枠を離れた存在であるのだから。

「御嬢さん、初めまして。ぼくはしがない道化師、アルルカンと申します。以後よしなに」

 丁寧に一礼する。黒い仮面が月光を反射して、わずかに光る。その光にそっと目を細める。

――道化師として動くとき、私情を持ち込むこと勿かれ――。

これが道化師を生業としている彼の絶対のルールであった。彼は今までこの確約を破ったことがなかった。そのことが誇りとなって、彼の自信へと繋がっていた。

道化を演じる上で、自然と必要となっていくのが、洞察力である。観客が何を望んでいるのか。それを的確に、ただし見つからないように、そっと探し出すのである。その際、何故悲しんでいるのかは関係ない。だから彼は少女の涙のわけを問わない。彼は少女の理解者ではない。彼はひとりの道化師であるのだ。彼の役目は決まっている。


 リリーはしばらく呆けた顔で、道化師を眺めていた。戸惑うのも当然だろう。その仮面は、彼の顔のほとんどを覆っている。目だけが、こちらからも窺えたが、それ以外は完全に夜の色に同化していた。

しかし、そんな少しの明かりでも、彼女の表情が読めた彼にとっては十分すぎるほどだった。仮面の向こう側でほくそ笑む。――彼女が求めているのは、その涙を忘れられるほどの娯楽だ。喜びだ。希望だ。そうだろう?

――では、本領発揮といこうか。道化師が口を開こうとしたその瞬間、少女はまたもや彼の呼吸を奪った。

「こんばんは」

 満面に微笑んで見せたのだ。先ほどまで泣いていたはずの彼女が、もう笑顔を取り戻した。彼は二度も出鼻を挫かれ、非常に腹立たしかった。

(なんですぐにそんな風に笑えるんだよ、ふつうそんな簡単に涙なんて止まらないだろ――。なんだ、そんなに悲しいことでもなかったのか? おれが出てくるまでもなかったか?)

「わたしはリリー=マリアーヌっていいます。アルルカンさんって、道化師なんですか?」

「そうさ」

 彼は大げさに頷いてみせた。乗りかかった船とでも言おうか。袖触れあった客だ。仕方なく


ふたつのふくふくとした手が――これもまた赤くなって――、行き場を失くして動かずにいる。


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