絶酸素世界ー吐いた息とともに息絶えて

夢を見ていた

第1話


            *


「マーヤ」

 呼ぶと微笑む彼女がいた。白の髪が透けているから、奥の瞳がこちらを見つめているのがよくわかる。今にも空気の中へと溶けてしまいそうな、消えてしまいそうな彼女は、そのちいさな手でぼくの手を握る。恋人と手を繋ぐだけで、幸せになれるといった人は誰だっただろう。それは真理だ。ぼくも微笑んだ。少しだけ、はにかんだ彼女が、優しく震えた。


            *


 太陽が沈む。街は朱に染まる。白い石が敷き詰められた道が、コントラストになっていて綺麗だった。その道は坂へと続いていて、ぼくらはふたりでゆっくりと、時間を掛けてのぼっていった。急かす人はいないわけだし、焦る必要もないし、疲れたら休む。ぼくらに流れる時間は緩やかで、心地よい。彼女がぐい、と袖を引いた。振り返ると、しゃがみ込んだ彼女がいて、どうしたの、と尋ねると、みて、と指を差した。そこには黒い天道虫がいて、ぼくは思わず表情を緩める。「天道虫だね」

「羽が出てるよ」

「おっちょこちょいなんだよ」

「そうかな」

「たぶんね」

「スバルと似てるね」

「なんだと」

「ふふ」

 彼女が指に乗せて、口を尖らせた。「やめたげなよ」ぼくが非難すると、彼女は悪戯っ子のように笑った。「やだよ」

 そうして天道虫にそっと息を吹きかけた。すると、その息に触れた虫は、粉になって辺りに散った。

「みて。散っちゃった」

 楽しそうにする彼女に、嗜めるように言った。

「そんなことしちゃだめだよ」

「どうして?」

「どうしてって」

「命は大事だから?」ぼくは頷く。「そうだよ。わかってるじゃん」

「……わかんないよ」

 駄々をこねるように握る手を振り回して、俯く。「わたしには、ぜったいわかりっこないよ」

「こら」

「だってわたしには、大事にできないもの、いのちなんて。」

 揺れる手に力を込めて、そっと囁く。「きみの分までぼくが大事にするよ」

「ばかね」

 彼女は泣き笑いを浮かべた。「あなたはわたしよりも先に散るのよ」

「それでも一緒にいるよ」

「その台詞も、もういいよ」

 彼女は背伸びをして、キスを落とした。そして、離れる瞬間にふっと、息を吹きかけた。そして、首を捻る。

「あなたどうして散らないの?」

「さあね」

「もう一緒にいなくていいよ」

「どうして」

 彼女の口が、ずっと噛み締められていた口が、ぱか、とおおきく開いた。丸々とした目が、ぎゅっと閉じられる。そこから、透明な雫が落ちてゆく。

「これ以上一緒にいたら、もう、堪えられないよ」

 泣かないでと、そう呟いたつもりだったのに、漏れた声は嗚咽で、情けなくなって、一緒になって泣いた。ね。どうしてきみはそんなのになっちゃったんだろうね。きみみたいに妖精みたいな子が、どうしてこんなに苦しまなくちゃいけないんだろうね。どうせならその息吹が、命を芽吹かせる何かになればよかったのに。

「わかんないよ……。わたし普通になりたい、普通になって、あなたと恋をしたいよ」

「うん、うん……」

「それができないなら、いっそ、もう、楽になりたいよ」

 泣かないでと口に出した自分の方が、涙を零す。ばからしくなって笑った。笑うと、きもち、楽になった。


            *


 夕闇に呑まれた世界は、やがて白銀に輝く月の色を身に宿す。それでもぼくらは歩き続けた。とくにこれといった理由はないけれど、歩けば前に進むから、楽しくて歩き続けた。

 彼女は先ほどからずっと深呼吸をしている。思い切り吸い込んでは、吐き出して、しかも吐き出した息をぜんぶこちらへ寄こしてくるのだから、正直困る。

「そんなに消えてほしい?」

 たまらなくなって訊くと、彼女はぴたりと立ち止まった。黙るので、名前を呼んで促すと、歩き出した。けれども声は出てこない。

「さっきぼくは」たまらずぼくが沈黙を破る。

「命が大切だと言ったけれど、ぼくが言うと矛盾するね」

「そうね」彼女は答えた。

「自殺志願者が、好い身分ね」

「ぼく以外の命が大事なんだよ、きっと」

「矛盾ね」

 彼女はそう呟いて、また、俯いた。


            *


<わたしは、息するだけでいのちを殺せるの>

 初めてここを訪れ、彼女と会った時にそういわれた。その目は暗い影を差していた。

<今までで何百ものいのちを殺してきたの。殺人鬼よ。あなたも殺される前に逃げた方がいいよ>

 ぼくはたまらず泣きだした。冷めた目で見つめる彼女に、ぼくは微笑んだ。

<噂は本当だったんだね>

<何が>

<ぼくはきみと一緒にいるよ>

<どういう意味?>

<ここに行けば、楽に死ねると聞いた。どうかぼくを殺しておくれ、妖精さん>

 ぼくの申し出に、彼女は一言、呟いた。

<残酷>

 と、だけ。それからぼくらは一緒にいる。


            *


<こんなに一緒にいるのに、あなたが死ねないのはどうして? わたしの問題じゃないわよ? だって他のいのちは散るもの>

<耐性があるのかな>

<あんまり好ましくない性質ね。おめでとう>

<ありがとう>

 そう返事すると、彼女は怪訝そうな顔をした。<なんでうれしそう?>

<きみと一緒にいるのも、悪くないなって思いだしてきた>尋ねる。<きみはどう?>

 苦虫を潰したような表情で、彼女は言った。

<あなたと真逆の感想よ>


            *


「この性質は、後天性のものよ」

 彼女はぽつりと零した。

「急にそうなったの。……いつしかわたし、酸素じゃなくて何かのいのちを吸うようになっていったの。CO2じゃなくて、何かのいのちを吹き散らすようになっていったの。吸って、すかすかになった身体を、息を吹きかけて、殺すのよ。最初は家族、次は植物とか動物とかで、その次は友人。そのまた次は見知らぬ人を喰っていったの。この街にはもう、わたしとあなたしかいないから、あなたがわたしの最後のいのちね」

「じゃあぼくが死んだら、きみも死ぬんだね」

「そうね」

「一心同体じゃないか」

 楽しくなって声を弾ませると、ぎっと睨まれた。「それでもわたしがすぐ死ねるわけないじゃない。あなたが来るまで、この街はわたし以外生きていなかったけれど、五年はもったわ。あなたが持ち込んだたくさんの天道虫と、あなたとで、わたしはあと何年、生きていけると思っているの。生きていかなきゃいけないの、あなたのいなくなった世界で、わたしは、独りで」

「――そういう話を聞くと、ぼくはホントに食べられているんだと感じるよ」

「現在進行形よ」

「ちょっとぞくぞくするね」

「そういう変態話はわからないからパスよ」

「そっか」

「ねえ。あとどれ位で死にそう?」

 尋ねてくるので、ぼくは首を傾げた。

「あと半世紀くらいは」

「嘘つけ」


            *


 先へ進むと、何かがそこにいた。何とも思わずそこへ近寄っていくと、それは人だった。彼女は絶句する。「人だわ」悲鳴を上げる。「あなた以外の人間が入ってきたんだわ」

 逃げようとした彼女を、誰かが押さえつけた。ぼくはすぐに彼女を助けようとしたが、また違う誰かに自由を奪われ、離ればなれにされる。

「もういやよ!」彼女は叫んだ。

「もう、もう、生きていたくなんてない!」

 彼女は何かのカプセルの中へ入れられてしまう。ぼくは気絶させられて、それきりだった。


            *


 声が聴こえた。


――彼女はこの街から出られないらしい。出ていこうとすると、引っかかって我々も出られない。やはり彼女がここの軸か。

――一緒にいた男なんか酷いぞ、体の中身がすかすかだった。吹けば飛ぶような異常な状態だ。なのに、身体は活動を続けている。意味がわからない。我々の理解を絶する。

 ――彼女はカプセルの中に居れることで、どうも自分の命を吸って生きているようだ。私も言ってて意味がわからなくなるが。

 ――しかし彼女は、殺人犯であってだな……。

 ――でも、彼女には何の罪もないのでは?

 ――そういえば、銃や刃も試したそうだな。あと、毒薬も。どれも駄目か?

 ――駄目だった。どうも、命を吸い尽くすまでは生きていくようだな。

 ――まだ死なないのか。

 ――ああ、まだ当分は。


 起きろ、おきろ、起きろ自分、彼女を先に散らせるな。彼女に殺してもらえ。その為に、今は生きろ。


            *


 ぼくは人目を盗んで、何やら研究所らしき場所から抜け出した。彼女はすぐに見つかった。透明のカプセルに入れられた彼女は、昏々と眠っているようだった。ぼくがカプセルを叩くと、その瞳がゆっくりと開いた。

 彼女は笑った。

「最初からこうすればよかったんだわ」

 そのガラスが彼女の声を遮って、声がこもって聴こえる。苛立ちながら、そのガラスに耳を引っ付けると、彼女はそこに近づいて、唇をつけてガラスの面を震わせた。

「ここでわたし、死ぬの。わたしを喰って、吸って、散らして、死ぬのよ」

 綺麗な笑顔だった。望みが叶ったような笑みだった。「これでもう、あなたを殺さずに済むのよ。素晴らしいことだわ」

「何言って……」

「わたしもっと早く死ぬべきだったのよ。でも死ねなかった。あなたが居たから。あなたとの時間は素敵で、だからこそ、離れるのが辛くなった。ごめんね」

「なにが――」

「わたし、あなたの命を吸っていたわけではないのよ」

 そうして、ポケットから、天道虫の死骸を取り出した。ぼくは瞠目する。

「わたしがあなたにしたことは、息を吹きかけて散らすことだけよ。そのせいで、あなたの内側は粉みたいに形を失ってしまったけれど、生きているわね。よかった。本当に」

「ぼくも死ぬ」

 縋るようにガラスを叩いた。「ぼくを置いていかないでくれ」

「あら」彼女は泣き笑いした。「あなたは置いていくつもりだったじゃない」

 ふふ、と笑う。

「立場が逆になっただけよ」

「ぼくの命を食べてよ」

「いやよ」

 悪戯っ子のような笑顔で、囁いた。「わたし、自分の好きなものは口にせず、取っておくの」

「置いていかないで」

「愛していたわ、わたしのすべて」

 彼女はガラスの中のボタンを押した。すぐに誰かがぼくを連れ戻した。


 しばらくして、彼女は死んだ。誰かから手渡された小瓶の中には、彼女が食べてきた天道虫が入っていた。それを口にした。彼女と出会ってから初めて、何かを食べた。

 そう、ぼくの身体の中の消化器は、すべて粉になって役に立たなくなっていたのだ。それはただの毒にしかならない。ぼくは息を引き取った。目を閉じる前、彼女の姿が見えた気がした。



            了

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絶酸素世界ー吐いた息とともに息絶えて 夢を見ていた @orangebbk

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