人ぎょとぎょ人

夢を見ていた

第1話


            ∞


辺りが騒がしい。ウンディーネは沖へと急いだ。ざわざわと動く影。そこには大勢の魚人がいた。ウンディーネは陸地に上がることができないので、よく通る鈴のような声で叫んだ。

「何があったの!」

「……おや、ウンディーネさん」

その中から、彼女と見知った仲である魚人が顔を出した。彼は彼女と一番の仲良しである魚人の友達である。彼女は戦慄する。その一番の友達の姿が見えないのだ。腕の力で体を引き上げ、なんとか一目彼の姿を目にしようとする。

「あの人は? 何処にいるの!」

「ヨーマは――」

言いかけて、大きな声がそれを遮った。

「ここだよ」

「ヨーマっ……!」

こちらへ歩み寄ってくる友達は、顔の半分が焼けてしまっていた。所々に焦げ目がついている。ウンディーネはたまらず悲鳴を上げた。

「焼かれちまったんだよ、はは」

「わ、笑い事じゃないわよ!」

「はは」

「ははって貴方――……」

ショックのあまり、ウンディーネはそのまま水の中へと沈んでいった。


            ∞


ウンディーネはよく独りでいる人魚だった。彼女は孤独になりたくてなったわけではなかった。彼女はいつもこう言い訳した。

「私を守った結果なのよ」

彼女が独りを選んだ理由は何か。それは彼女が絶対に自分自身には嘘をつかないことが一番の原因であった。

自分を曲げない。曲げてしまったら、自分という存在は、一体何処へ行ってしまうのだろうか。泡となって消える? いやまさか。――それでもそのまさかが起こったら?

彼女は不器用ではあるが、真っ直ぐな自分を誇りにしていた。皆と協調できない性格を憎みながらも、自分だけが理解者だからと愛していたのだ。しかし独りは淋しい。けれども独りが嫌だからといって、薄っぺらな友情関係など持ちたくない。

彼女は、アルルの大樹の木陰で自分で淹れた紅茶を飲むのを日課にしていた。尾びれを水に浸し、地面に腰掛けながら、遠くを眺める。彼女は何時だってティーカップを幾つも用意した。もしかしたら自分と一緒に紅茶を飲んでくれる誰かがいるかもしれないという淡い期待。あるわけないと知りながらもそれにすがってしまう己の弱さ。彼女は にわかに自己嫌悪の感を懐きつつあった。


そんな時、ひとりの魚人が彼女に話し掛けてきた。目の黒い、青の魚。肌には透き通った鱗があり、首から下は、さながら人間のようであった。ただ、人魚も魚人も肌を晒すことをあまりよしとしないので、人間が着るような服を身につけている。

魚人はヨーマと名乗った。ウンディーネは嬉しさと気恥ずかしさがごちゃ混ぜになった感情を声に表して問い質した。何故ここに来たのか。何故私に話し掛けるのか。何故隣に座るのか、と。

ヨーマは笑った。

「あんたの淹れた茶が、美味そうだったからだよ」

そう言って勝手にティーカップを手にして、紅茶を注ぐよう催促してきた。涙で潤む瞳で注いだので、ティーポットが揺らいで彼の手に紅茶が注がれた。

「っの、ヘタクソ!」

「わ、わわ」

彼はすぐさま水の中へ飛び込み、火傷を冷やした。

「身の危険を感じたぜ……」

「ご、ごめんなさいっ」

彼女は嫌われたと思った。嫌われても仕方ないと思っていた。

――しかしその手にはまだティーカップが握られていた。彼は両手で包むようにカップを持ち、再び彼女に差し出した。

「今度は、かけられても大丈夫だな」

彼女は彼の優しさに感動し、身を震わせ、彼のきらめく瞳に茶を注いだ。

「お前莫迦だろ!」

「ごめんなさいごめんなさい! 私の涙、治癒能力があるからこれを使って――」

「ばーか! ばーか!」

「ごめんなさい!」

「意味わからん」

そう言って彼はけたけた笑った。


それからというもの、何をどう気に入ったのか彼は足繁く彼女のもとを訪れた。彼女はというと、狂喜する一方で彼は頭がおかしいのではないかと思っていた。何故あんなことがあった後で彼女と話そうと思えるのか。けれど彼女は怖くて訊けなかった。訊けば、彼がもう来てくれないような気がしたからだ。

「ウンディーネは」

「うん!」

名前で呼んでもらえる幸せに、彼女は弾かれたように返事する。彼はその様子にひとしきり笑ってから、尋ねた。

「『人魚姫』にはならないのか?」

「あ――」

彼女は落ち込む。『人魚姫』。人魚ならば誰しもが憧れる地位。きれいなお召し物。きらびやかな宮殿。美味しい食事。そして素敵な殿方。すべてが手に入る肩書き、それが『人魚姫』だった。

百年に一度、若い人魚から候補者を募って、その中から『人魚姫』が選ばれる。何故百年か。人魚の寿命はきっかり百年と決まっているからだ。もうすぐ現『人魚姫』は死ぬ。その代わりとして新たな『人魚姫』が選ばれるのだ。

その為の試験は難関で有名だ。歌、知識、仲間との協調性、泳ぎ、食事のマナー、殿方との接し方などと多分野から試験は行われる。


「私も『人魚姫』になりたかった。私好きな人がいるの」

「へえ。誰?」

少し躊躇したが、彼女は答えた。

「この国の王子サマ」

「へェ。あんなヤツの何処がいいんだ?」

「! 素敵じゃない! 私話したこともないけど、身のこなしとか、優しい笑顔とか、とっても――」

「あいつ性格悪いぜ、きっと」

彼女はむっとして、彼を睨む。

「そんなこと言わないでよ」

「はいはい。それで? 試験受けて、不合格だったのか? 何処まで行ったんだ?」

「――最初」

「即行で落とされたのかよ! あららァ」

「笑わないでよ」

尾びれで水面を叩いて、水飛沫をあげる。ヨーマは彼女の肩を叩いた。

「あんた普通に可愛いと思うけどなぁ」

「え」

ぼさぼさの短い黒の髪に、真珠のカチューシャ。丸々とした黒の瞳に長い睫毛。もっと髪の手入れをしたら、きっと何倍もよくなると、彼は言った。ウンディーネは黙って水面を見つめた。照れていたのだ。

「ありがと」

彼女は言った。「じゃあちょっと、伸ばしてみようかな」


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火傷をした顔に涙を落とし、包帯を巻きながら、彼女は叫んだ。

「こんな酷いことを! 誰がしたのよ! 私の……大事なともだちに!」

「いやぁ、油断してた。危うく死ぬところだった。九死に一生を得るってまさにこんな感じ」

むせび泣く彼女とは対照的に彼は可笑しそうにしている。

「許せない。人間なんて、最悪の生物だわ――!」

「まぁそう怒るなよ。人間だって生死が関わってるんだから」

「一体何の為にこんな酷いことを――」

「まあ、食うためだろうね十中八九」

「食べる!?」

彼女は絶句する。

「こう、もぐもぐと」

彼は人間の魚の食べ方を真似する。彼女は声にならない悲鳴をあげる。

「悪魔だわ!」

「いや僕らも食べるだろ。草とか小魚とか」

「小魚は食べないわ!」

「ああ、人魚は草食系だっけ。――まあ仕方ないさ。食物連鎖。世の常だよ」

「何故そんな風に落ち着いていられるの?! 私もう辛くてつらくて堪えられないのに……」

そう言って彼女がほろほろ涙を流すから、彼も思わず口を閉ざして、そっと彼女の手に自身の手を重ねた。

「僕らは、死ぬ為に生まれてきたんだ。死ぬことは、恐れることじゃないんだよ」

「悲しいし、痛いし、不幸だわ」

顔を上げた彼女の顔が涙やら何やらでぐちゃぐちゃになっている。彼は目を細めて微笑み、何も言わずに手で拭ってきれいにしてやった。

「貴方は悲しくないって言うのね。仕方ないって諦めるのね。泣く私は愚かだと嗤うのね」

「いや――。そんなことはしないよ」

彼はそっと彼女から視線を外し、遠くを見据えた。

「ただ優しいなと、思うだけさ」

その目が何処を見つめているのかわからなくて、ウンディーネの胸が、音を立ててざわめいた。


            ∞


「人間を見に行こう」

全快した彼が開口一番に言い出した言葉がこれだった。

「きっといい経験になるよ」

彼は座ったままの彼女の腕を取った。その手を、彼女は静かに払った。「嫌よ」

彼はきょとんとする。「どうして」

「私たちの敵に、近付きたくもないの」

「敵ってまた大袈裟な」

「敵じゃない!」

彼女は悲しげに、ただし目は怒らせて怒鳴った。

「私たち、とって食われちゃうかもしれないのに、自ら近付くなんて愚の骨頂だわ。敵じゃなくて何よ、共生できるとでも思っているの? 奴らは私たちを殺してきているというのに」

「人間がいないと色々困るんだよ?」

「じゃあ出来るだけ遠くで、なるだけ関わらずに生きて下さって? 私たちはそれでいいじゃない」

「気にならないの?」

「全然、少しも、気になんてならないわ。――ただ、また貴方を傷つけると言うなら、話は別だけれど」

彼女の目が覚悟に据わる。彼は慌てて言う。

「僕が言いたいのは、あまり人間を誤解しないで欲しいってことさ」

「――貴方、妙に人間の肩を持つのね」

「まあね」

肩をすくめる彼に、彼女は不審を抱いた眼差しを向ける。飄々とした彼は意に介さない。


「実はね」

しばらく黙って考えていた彼は、彼女の耳元に囁きかけた。彼女がくすぐったそうに身を捩った。「こら」

「ごめんなさい」

「――実はね、人間に襲われた時、とある宝物を奪われてしまったんだ」

彼女の目の色が変わる。「何をやっても下劣だわ」

「まあまあ。――それで取り返しに行こうと思うんだが……君にも」

話の途中で彼女が即答した。「行くわ」

「おお、ありがとう。話が早くて助かる」

「貴方をひとりで行かせやしないわ」

彼は優しい眼差しを送ってから、じゃあ人間に変装しようかと提案した。早速彼は人魚の彼女を抱き上げて、何処かへと向かって歩いてゆく。彼女はされるがままに、抱かれていたのだった。


            ∞


「君は足だけ浸けてたらいいよ」

彼は彼女を下ろして、そう言った。

「僕は魚人だから、全身浸からなきゃいけないんだ」

「へえ」

彼が連れて来たのは森の奥にあった小さな温泉だった。彼は服を着たまま温泉に入り、彼女も言われた通りに足だけを入れた。

「ここは不思議な温泉でな、おっちょこちょいの王子様が魔法使いからもらった薬を投げ入れちまった場所なんだよ」

「その薬が、私たちを人間に変えるの?」

「そうさ。ただしこの水以外の水が身体に触れたら魔法は解けてしまうから気をつけろ。まああんたは、足に水がかからないようにだけ気をつけたら大丈夫だな」

「見つかったらどうなるの」

「恐らく見世物として生きてくだろうな。一生ガラスの水槽の中だよ」

彼女がぶるりと震えた。彼は水の中から彼女を見つめた。

「怖じ気づいたか?」

「ちょっとだけ」

彼女は正直だった。「でも、諦めたりなんかしないわ。一緒にいく」


しばらくすると、彼女たちに変化が起きた。何だか、水に触れている部分にわずかな痒みを感じ出したのだ。それが不快で少し動かしてみると、

「!」

 鱗がずるりと剥けるような気がした。足が自由になる感覚――いや、足が生まれる感覚といった方が正しいか。元々無かったはずのものがそこにあるべくしてあるような、今まで体感したことのないそれ。

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人ぎょとぎょ人 夢を見ていた @orangebbk

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