三題噺
夢を見ていた
第1話
いざよい「睡眠」「赤いワンピース」「十六夜」
眠ろうか、君に会ってもらえるまで、何度でも。
意識がゆっくりと手元に戻ってくる。頭がぼんやりしているが、ここがどこかはわかる。
――夢の中だ。僕はまたここに来た。
これが夢だとわかる夢はあまり見られない。一般的には自分の目が覚めて、そこで初めて夢であったことを知る。それが普通。常識。
「あー……」
よろつく足で立ち上がり、夢の中を歩き出す。
夢の中は暗いようで明るく、モノクロなようでカラフルだ。何が現れてもおかしくない。勿論、消えても。 だから目を凝らす。探す。ひとりの赤いワンピースの女の子を。ひたひた、とよくわからない地面の上で小走りする女の子。どこだ。ふらつく体は、夢の微睡みに侵されながら動く。
「い、十六夜、十六夜やーい……」
夢を夢だと自覚することで、現実で持っている意識を夢の中でも使うことができる。ただし、その『自覚』はどんなに狙ってもうまくいかない。
――つまりは、夢だと『自覚』できるチャンスはごくわずかだということだ。このチャンス、逃さぬよう、夢の世界をさ迷う。
「十六夜、僕だよ、○★■だ……?」
しまった、名前が思い出せない。自分はどんな名前だった? えっと確か、さ行から始まる、スマートな感じの――。
「■■□か? それとも……*△∞? さ、さ……」
「シン?」
小首を傾げた女の子。さらりと流れた短い髪。はだしで、膝丈まである赤いワンピースを着ている。
間違いない。僕は弾かれたように呼んだ。
「十六夜!」
「きゃあ、また会っちゃった」
嫌そうに顔を歪める十六夜に、僕は笑いかけた。
「夢を制することは難しいね。僕は今にも◎#@だ」
「ふふ、大分無理してるみたいね、言葉、ぼろぼろ」
「わ、笑うなよ、そっちは夢で生きてるから、僕の苦労は◆★▽Х」
「何言いたいのかわかんなーい」
「……っ、十六夜!」
ちろ、とこちらを見据えた。
「わたしの名前だけ完璧って。きもちわるー」
「だって僕は君が○*……くそ、言葉、頭、しっかりしろ……十六夜、僕は」
たまらず、うずくまる。夢が動き始める。波打ち、暴れる。体が弄ばれる。揺れる。気持ち悪い、確かに。
目の前に十六夜がしゃがんだ。そしてこちらを射抜くように見つめてきた。
「何度も言ってるけど、『夢の住人』は『現実の住人』つまりあなたたちとは永遠に◆☆○*」
「なん……て?」
「ああ、もう、時間切れだね」
ばいばい、と手を振る十六夜。彼女の近くへ行きたかったが、夢が僕の体を掴んで放さない。もがく。今日を過ぎれば、次はいつ会えるかわからない。僕がサラリーマンや爺さんになってるかもしれない。今、伝えられることを、全力で――。
「ねえ」
気づけば、逆さまな十六夜と向き合っていた。髪が逆立って、ゆらゆら揺れていた。
「★え、本当に∞◆?」
本当に……?
とりあえず肯定しようと首を縦に振る。と、彼女の頬が――おそらく赤い、あたたかな色に染まった。
「それ、自分のことが★◆って言ってるのと同義よ」
「……?」
「ばーか」
唇にキスを落とされる。けらけらと笑われ、告げられる。
「あ∞◎てる」
「え」
――なんだって?
がば、と起き上がる。夢が終わった。――彼女との密会も終わった。
「はあ……」
今度はどれくらいかかるだろうか。再び寝床に戻り、目を閉じる。
「あいしてる――えっと、僕だけが」
寂しいなあ、と自嘲する。してからすぐに、夢の一部を思い出す。
唇にはまだ、キスの感触が残っていた。
「いつもよりたくさん寝よう」
そしてまた、君に会いに行こう。
おやすみ。また。
了
生きる屋敷「屋敷」「光る運命」「犠牲」
「初めまして」
差し出された手に戸惑っていると苦笑された。
「緊張なさらないで。僕は、ここの主人である木内透です」
「えっと、初めまして。俺は坂本です」
緊張が少しだけ収まり、握手に応じる。男にしては妙に柔らかい手だった。
「では、今日からよろしくお願いしますね、坂本さん」
頷いて中を見渡す。
すると、壁や床、すべてのものが、膨らんでは萎み、萎んでは膨らんだ。
――まるで呼吸をしているみたいに。
今日からこの化け物屋敷の世話をしなければならない。恐ろしいが、生憎やるという選択しか俺には残されていない。案内すると歩き出した木内さんに、俺はとぼとぼとついていった。
中はどこも広かった。こんなに大きな空間がここ日本にあることを疑いたくなるほどの。
それなのに、ここには何故か、机と椅子と最低限の家具しか置かれていない。嗜好品はない。ピアノや植物なんかもない。変な金持ちだな、というのが印象に残った。
「坂本さん?」
「あ、はい」
ぼうとしていたので、急に声をかけられて驚いた。
「叔父さんは元気ですか?」
「ええ、はい。元気です」
木内さんと俺は一応親戚だ。一応というのは今まで顔を合わせる機会がなかったからだ。
何故なら木内さんはここから出られない。一生をここで過ごさないといけない。この、
生きている、屋敷の中で。
階段を上っていくと、足場がふわふわと揺れた。欠伸だと木内さんは笑った。よく笑う人だと思った。――つまらないことで。
「こんなとこにいると、気が変になりませんか」
「なりますよ。だからすぐ笑います。つまらなくても」
でも仕方ありませんから。そう言った木内さんは寂しそうに見えた。
「この屋敷は呪われているんです。憎しみの塊なんです。だから誰かが犠牲者となって、ここを管理しないといけないんです」
僕は、と木内さんは続ける。
「木内家では必要のない人間だから、犠牲者に選ばれた。――僕は光る太陽みたいな運命みたいにも思えますよ。きらきらぁって」
「そんな、必要ないなんて! あなた一人では荷が重すぎるから、俺ら 親戚中が交代して木内さんをサポートしていて――」
「そうですね、ここを食い止めるためには必要ですね僕は……」
だんだん自嘲気味になっていく木内さんに呼応するかのように、屋敷がざわつき始める。うまく立てなくなって尻餅をつくが、木内さんは微動だにしなかった。
「僕だって自由に生きたい」
その声が、涙まじりであったことにようやく気づく。
「泣くなよ」
何とか立ち上がり、彼と向き合う。太陽の光もろくに浴びずに生きている彼の肌は病的に青白く、小さくあった。その両腕を壊さないようにそっと掴み、提案する。
「ここから出よう」
「……どうやって」
「呪いを解いて、全部終わらせてから、外に行こう。先祖の憎しみなんて大したことない。俺も今日からここにいるんだ、一緒に、出よう。自由に、なろう」
木内さんが静かに頷くと、屋敷ごと静かになった。
そしてすぐにまた呼吸し始める。
でも、一瞬でも止まった屋敷の時間が、まるで俺たちのこれからに期待するかのような意味合いが混ざっているような、そんな気がした。
了
火蜘蛛「朝」「蜘蛛」「燃える欠片」
この世界は朝も昼も来ない。つまり、太陽の光を感じることができないのだ。
それなのに、人間というものは光無しには生きられない。だから、光の代わりに『火』を生み出した。
その『火』のつけ方は、火花が散りやすい石同士をこすりつけ、できた火花を、火がつきやすい体を持つ『蜘蛛』という虫に近づけるのだ。燃え上がる炎に、人間はすがるしかない。たとえ、数えられないほどの蜘蛛を犠牲にしたとしても――。
人間の一人である彼は、蜘蛛を採集する役目を任されていた。外に出て、地面や水の中など、隅々まで探す。が、毎日大量に使用されるのに加えて、わずかな時間しか火を灯せない蜘蛛の体はもう既に足りなくなっていた。探すのも一苦労である。彼は膝をついて、地面を掘ってみた。しかしそこに蜘蛛の姿はなかった。
「おい、蜘蛛は見つかったのか?」
問いかけに彼は答える。
「じいちゃん、もう駄目だ。全然見つからない。全部採っちまったんじゃないかな」
「馬鹿野郎、もっと力入れて探しやがれ」
その無茶苦茶な言い方に我慢できなくなった彼はついに常日頃から思っていたことを口にする。
「じいちゃん、どうして蜘蛛じゃないと駄目なんだい? 別に他のものでもいいじゃないか、あんまりにも可哀想だよ!」
「……お前は昔から虫が好きだったからなあ」
彼が静かに頷くと、恐ろしい怒鳴り声が返ってきた。
「馬鹿言ってんじゃあねえよ! じゃあお前は、光無しで生きることができるのか?! やむを得ない犠牲だろうが! 大体、虫なんて得体の知れないものが可哀想だってか! お前のそのおつむの方が可哀想だよ」
ほら、と投げつけられた袋は満杯だった。彼は中に入っているものを知っていた。――大量の蜘蛛の焼け焦げた死体だ。火をつける時の蜘蛛はすべて生きたままである。何故なら、その方が火がつきやすいからだ。それ以上でも以下でもない。
「捨ててこい」
彼は走り出した。そして人気のない場所でしゃがみこんで、穴を作った。
「――もう、蜘蛛になんかなるなよ」
袋を逆さまにして、中に詰められた死体を穴へと流し込む。深めに掘ったはずの穴は、みるみる焦げた蜘蛛にまみれ、ついには溢れた。
「嗚呼……」
溢れたものを強引に押し込め、土を被せようとしたら、ちら、と光るものがあった。
死体の中に二匹だけ、生きているものがいた。つがいであろうか、一匹は元気そうに動き、もう一匹はまさに虫の息であった。
その死にかけた蜘蛛が、尻に消えずにいた火を引っつけている。その火は少しずつではあるが、死体に移り、ゆらゆらと燃え始めた。彼はその中にある燃える死体の欠片を摘まんで、生きている蜘蛛に近づけて火をつけた。
「恨むなよ」
その火は、彼の帰路を灯して、消えた。
了
いれたてココア「抱き枕」「ココア」「あたしの好きなもの」
悲しいことがあった日は、ココアを飲んで泣きたいわ。
嬉しいことがあった日は、そうね、あなたの腕の中で眠ってもいいわよ。
ピンクのカーテンを開けて、彼を起こす。少し前まで抱き枕になっていたあたしを探して、両手を動かす彼が可笑しくてくすくす笑う。
「うあ……。みさと?」
「何ですか?」
「……朝ですか」
「朝ですよ」
「…………何時ですか」
「朝の八時半過ぎです」
「やばっ」
大学へ行く準備をし始める彼の手伝いをする。高校生なあたしはと言うと、休日であり、学校は無い。
「お急ぎなさい、遅刻しちゃうよ」
「もっと早く起こしてよ……!」
「あたしも今起きたんだもの」
少し長い休みに入ったので、あたしは彼の部屋に泊まらせてもらっている。一人暮らしだけど、別にやましいことはしていない。
彼とあたしは親戚という関係であることもあり、両親には目をつぶってもらっている。まあ、その隙にあたしたちは恋人の関係になっていたりするんだけど。
跳ねた髪を撫で付けながら、ごはんの準備をする彼。動き回ることで、その髪がひょこ、と上下する。その様子を見ていると、なんだか頬が緩んでしまう。平和だなー、なんて和んでいると突っ立ってないで手伝えと怒られた。
「りきや君、もう諦めて食べなきゃいいのに。それか休むか」
「嫌だ。がんばる」
結局役立たずだったあたしを、彼は強引に席につかせて食事を机の上に運んでくれた。焼いてくれたパンにバターをつけていると、ことん、と目の前にコップが置かれる。熱い湯気が上がり、甘い匂いがただよう。
「わあ、ココアだ……」
口に少し含むだけで、チョコの甘さが広がっていく。温度の高さに驚く舌を宥めて、さらに口の中へと流し込む。ふわふわする気分のまま、あたしはお礼を口にした。
「ありがとぉ」
「いいえー。おれ、お前にココア入れんの好きだから」
「え、なんで?」
訊ねると甘く微笑まれた。
「みさと、自分が好きなもん口にしてる時、一番幸せそうだから」
「――早くしないと遅刻しちゃうよ」
「あ、逃げたな。……なんか行く気無くなってきたなあ」
「最悪なやつめ」
「勉強よりも大事な恋人の時間を選ぶ、賢いやつですよ」
そうやってまた甘く優しく笑うから、顔が火照ってきて照れ隠しにココアを飲んだ。
「あち」
火傷した舌が、ちりちりと痛む。それでも火照りが止まらなくてまたココアを流し込む。
「――今日もまた、一緒に寝てあげてもいいわ」
一杯のココアで動くあたしも、単純なものね。
了
水の絵「水」「コーヒーカップ」「憂鬱な主人公」
そこは水の中にいると錯覚しそうになる程、静かだった。
マリアは物音を立てないようにして奥へと進んでいった。
ここに住む者が作り出す静けさが、マリアは好きだった。だからなるべくそれを壊したくなくて、そっとそっと……進んでいく。
「マリアかい――?」
奥の部屋には、窓と向き合って座る男がいた。男の声はか細く、元気がなかった。けれどそれがまた、この静かな世界にマッチしていて。
マリアは悔しいような羨ましいような気分に陥った。
部屋全体には、透明な窓から太陽光がこれでもかという位に入り込み、男の姿もその中に取り込まれるようであった。
「マリア、君がいないと僕は……」
「はあ――、ボロウ、あなたったらまたそれなの」
ため息をつきながら、マリアはボロウと呼んだ男の近くへと寄る。
窓の下にはテーブルが一面に広がっている。そしてそこには小さなコーヒーカップが置かれていた。中には透明な水が入っている。ボロウはそれを力無く見つめている。鬱々とした様子の彼は、病人のように思えた。
近寄るマリアの気配を察したのか、視線はそのままに言葉を紡ぎ始めた。
「水をね、見ているとね……、君を思い出せるんだよ。……君は、水に、とてもよく似ている。とくに、蒸発していく様が、似ているんだよ……、この、消えて見えなくなる感じが君そっくりだ」
「何を言ってるんだか。だから蒸発する水を見てるっていうの?」
「そうさ。……君がきてくれないから、こうなるんだ」
その言葉にうっすらマリアに対する非難が含まれていることが、マリアは気に入らなかった。
どこの子どもの台詞なんだと思い、腹立たしさに任せて、ドロウのカップを叩き落とした。ガチャン、と割れる音が響く。それでもドロウの目は、先ほどまでそこにあったコップの位置から動かない。
マリアはそれすらも気に入らなくて叫ぶ。
「私はあんたの母親でも妹でも恋人でも友人でもないのよ。きてくれない、なんて勝手なこと言わないでくれる」
何も言わないドロウにさらに畳み掛ける。
「あなた、鬱陶しいのよ。私はね、あなたのこと嫌いなの。そんな私がここに来る理由は一つ」
ちらと視線を天井に移す。円形になった天井にはいくつもの絵画が飾られていた。すべてドロウが描いたものであった。
「あなたの絵が、絵だけが、美しいからよ」
マリアは持ってきた画材を引っ張り出し、彼に握らせる。
「……なんだかなあ、憂鬱なんだよ、やる気がうまく出てきてくれないんだ……」
「いいから描きなさい、描き終えたらサインしてね、レア物にするためによ。それから、私はそれを金持ちに高くたかく売ってやる。――分け前はいつも通り、私にすべてくれるのよね?」
「……もちろんさ、君が欲しいだけあげるよ」
そう言って一度は黙ったドロウだったが、しばらくしてから口を開いた。
「君がこないと、絵を描く気、しないんだ。君がいないと、何もする気が起こらない。何かをしようとすれば君を思い出すために、知らない内に蒸発してしまっている水を眺めているんだ……、おかしいだろ」
「ええ」
手を動かすドロウをマリアは見つめる。
「僕の絵もまた、水に似ている」
「あら、どうして? あなた、油絵じゃない」
「君を思い、描く絵が、……不思議と自然に、君に似通っていく感覚が……、君にはわかるかい」
「さっぱり」
「……僕の絵は、水のように僕の心を映し出す。君を思う心を、繊細に」
「へえ、そうなの」
それから二人は黙った。また、あの静けさが戻ってきて、マリアは嬉しかった。そっとその中に身を委ねる。
声を出すことさえ憚られたが、マリアは堪らず口を開いた。
「私、あなたは嫌いだけど、あなたの絵は好きよ」
「どうも」
「――ね、今度『水の絵』を描いてよ」
「勝手に似るのと……、似せるのでは話が別物だよ」
「いいじゃない。画家なんでしょう。あなたならできるわ」
「……じゃあまた、君が来てくれたら描こう、かな」
そう言うからマリアはまた日を変えて彼を訪ねた。
描き終えた絵がマリアに渡される。青い絵だった。青色が踊るように置かれている。美しい水の絵だった。
「ありがとう……」
マリアは帰宅し、自室へと入っていく。
そこには、彼の絵が溢れんばかりにあった。壁や天井、床、ベッドはすべて絵の置き場と化していた。
マリアは一度だって彼の絵を売ったことはない。すべてが彼女の部屋にある。このことは誰も知らないはずだ。
その中をかき分けてマリアはベッドの近くの壁に、この『絵』を飾った。やむを得ず、前に飾っていた違う絵を床に置くことになった。
それでもマリアは満足げだった。
そこに描かれていたのは他でもないマリア自身であったからだ。
青の色で描かれたマリアは美しかった。
そうして、またマリアは彼の家へと出掛けるのであった。きっと彼は彼女がいないと、水を眺めたまま、絵筆も持たずに息絶えてしまうだろう。そう思うとマリアは彼に向かう足を止めることができなかった。
『水の絵』の右端に、小さく掠れた文字があった。 彼女はまだそれに気づいてはいない。
――To the person who has all pictures that I drew――
――僕が描いたすべての絵を持つ人へ――
了
はずれ女とクジ運悪男「はずれ」「食べかけのプリン」「体育館の裏」
この学校には一つ、特殊な行事がある。それは男女一人一組になって行う肝試しだ。しかもそのペアはくじ引きで決定される。
俺は、黒色で書かれた二番だった。つまり、赤の二番を引いた女子がペアになる。男女の名前と引いた番号が黒板一面にずらりと並ぶ。俺は赤の二番を探した。
そいつはどこで買ってきたのか生クリームがのった、見るからに甘そうなプリンを食べている。今の時間は昼休みで、そいつは教師の目が届かないのをいいことに元気にプリンを頬張っている。
そいつこと町山貴子は、一言でいうと変なやつだ。
授業中はいつも先生に気づかれない程度に鼻唄を歌っているし、休み時間は友人とゲームしているし、放課後はよくひとりで学校内うろついてるの見かけるし。
だけど何故か、顔立ちだけは抜群によかった。それもモデル並みに。スカウトされたことも一度や二度ではないらしい。
「なあ、町山」
そんな彼女に声をかけると異常に驚かれた。そして怪訝そうな表情でこちらを見つめてくる。何か用ですかという他人行儀な言い方をされた上に、クラスの注目が集まっている。
「ちょっと……こっち来て」
仕方なく場所を変える羽目になった。町山の腕を取って歩くと、友人のはやし立てる声が聞こえた。
「あの……、蓮見くん、ですよね。どうして体育館裏なんですか……。私、まだプリンが残ってるんですけど。早く帰りたいなーみたいな――」
体育館裏に連れて来たわけは、町山と話さなきゃいけないことがあるからで、別に変な意味はない。のにも関わらずもじもじし出す彼女に、呆れの混じる愛らしさみたいなものを感じた。
「あのさ、俺ら肝試しのペアじゃんか。んで、肝試しって二人でそれに使う蝋燭と小さい懐中電灯を買わなきゃいけないだろ、だからいつならいいかなって。俺、サッカー部だから試合ある日は無理だから……」
「えっ、私、蓮見くんと一緒なの?!」
「え」
そうだけど、と言うと、うわあと叫ばれた。ついていけず、呆然とする。
「蓮見くんファンに悪いことした……! 私まじで恨まれちゃうかもしんない、命危険だわ。よりによって私かぁ。――蓮見くんクジ運悪いね、ごめんね、はずれクジ引いたね。私みたいな変人嫌でしょ。他の女の子と変わってあげるよ、どの子がいい? きっとどの子でもオッケーもらえるよだって蓮見くんだもん」
一気に捲し立てた町山に、堪らず吹き出した。
「変だって自覚あるんだ」
「まあ――、あるよ」
だって私以外にプリン食べてる人いないもの、と拗ねたように呟く町山。おい。お前のつっこみはそこかと、可笑しくて笑い声が漏れた。
「もう、笑ってないで早くしてよ、誰がいいんですか?」
「え? お前」
「……は」
「町山となら、なんか面白そーだ。じゃあメアド、上田さんに聞いとくから」
「え、ちょっと待っ――」
「上田さん、町山の知ってるよな?」
「なっちゃんなら知ってるけど、いや、じゃなくて――」
振り返り、笑いかける。
「じゃ、楽しみにしてるから。私服とか、可愛いの着てきて。――あ、あと食べかけのプリン早く食っとけよ。先生見つけたら面倒だぞ」
ついにパニックに陥った町山の姿が目に入る。
その日が楽しみで思わず頬が緩む。
しばらくして、昼休み終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
背後から猛スピードで走る彼女が追いつくまで、あと、数十秒……。
了
すこしふしぎ。「苺大福」「ロボット」「突風」
「メロ、さっき届いたお菓子食べよう。君が好きな苺大福だよ。君は緑か紅のお茶ならどちらがいい?」
返答がない。いつもの彼女ならすぐにでも飛んで来てくれるのに――いや比喩じゃなくて。
心配になってこちらから赴くと、ベッドから転げ落ちている彼女の姿があった。背中から、透明な羽根がつき出ている。かすかに羽ばたこうと震えるが、うまくいかないらしい。
「……っ、あるじさま」
「うん……。羽根の故障かな?」
倒れている彼女を抱き起こして、背中の羽根の具合を確かめる。が、大した故障は見当たらない。となると。
「燃料不足、かな? もう、もっと早く知らせなよ。ベッドから落ちたら色々壊れちゃうだろ」
「すみません、気づいたらなくなって、て」
「まあ古型だから仕方ないよ。次から気をつけてね」
そう声をかけてから、冷蔵庫に足を向け、目当ての物を手に戻る。ストローのついたボトルみたいなものだ。これの中身がいわゆる『彼女の燃料』であった。
ちう、と弱々しく吸う彼女は、どこか儚い。震える睫毛が割れる水の泡を彷彿させた。思わずぎゅっと抱きしめる。
ぐったりとこちらに寄りかかる体は、体温を持ち合わせていない。
――彼女はロボットであった。
ずっと昔、僕の知らない人間が作った機械であり、僕が見つけた時には起動することができなくなっていた。いつもなら廃棄物とみなして、ばらして適当な実験に使用するところだったが、彼女には稀にない『心』が組み込まれていた。古い型であるはずなのに、作ることは命を削る作業だとも言われているのに、紛れもなく『心』はそこにあった。
ロボットの心は胸の辺りに入れられており、そこが僅かに光るのだ。
彼女の心の光は弱々しくはあったが、美しかった。
気づけば僕は彼女を拾い上げ、自分の家に持ち帰り、現在に至る。
すべてを飲み終えた彼女は、ゆっくりとこちらを見上げた。
「あるじさま、いちごだいふく、たべないんですか」
「ああ、そうだったね。食べようか。メロ、歩ける? もしくは飛べる?」
「とぶのはちょっと……ふあんです。ごめんなさい。あるきます」
「いいよ、ほら一緒に立つよ。せーの」
椅子に座らせて、苺大福を彼女の目前に置く。その瞳がすこしだけ輝いたように見えたのは、気のせいなんだろう。何故って彼女の瞳は人間の瞳とは違う。喜びの感情に反応して、目を見開かせて光を取り入れることはできない。ぱっと見るだけなら、人間の姿と何ら変わりないのに。
そんなことをぼんやり考えていると、彼女の視線を感じた。
「何?」
「たべないのですか」
「え?」
「だいふく」
「……ああ! あ、えっと後で食べるよ。先食べておきな」
「――では、わたしもたべません」
「君は食べなよ。気を遣わなくていいから」
「いえ。あるじさまが、たべないなら、わたしはいりません」
こういうところは頑固な彼女に苦笑する。
ふと、窓の外に目を向けると、風が強く吹いている様子だった。
ここは毎年、突風に悩まされている地域てあった。 それも、最近ではその突風の強さが上がってきており、被害も多く出ている。生えていた木々は根こそぎもっていかれ、外に出ていた動物――人間も含め――は皆、どこかへと吹き飛ばされた。よって今日では、ここに住む人間が外出することはなくなった。食料などは通信機器を通じて政府から送られてくるから、生きていくのに一応は困らない。
「そと、でたいですか……?」
彼女がぼそりと呟いた。
「けんきゅうしゃ、として、そとに、でたいですか、やっぱり」
「別に研究者は関係ないよ。――ないけど、たまには出たいかなって感じかな」
「やっぱりそうなんだ」
ひとりごちて、彼女もまた窓の外を見つめる。ごう、と風の音が響く。家は最先端の技術で補強されている。家が壊れることはまずないが、すこし不安だった。最近、風が一段と強くなっている。
「わたしが、このかぜ、とめられたら、よかったのに」
彼女がぽつりと漏らした。
「ロボットなんだから、それくらい、きっとできるとおもうんです。あるじさまが、いじってくだされば、かぜ、とめられますよ。だってあるじさまは、てんさい、なんですから」
そうすれば。
「あるじさまも、きっときっとうれしいのに」
「――メロ、僕は君と暮らすの楽しいよ。うれしいよ」
だから。
「僕はこれ以上うれしくなくていいんだ。満足だから」
「ほんと?」
「――あ、ちょっと嘘入った。君が苺大福食べてくれないから、すこし悲しい」
そう言うやいなや、苺大福を口の中につめこむ彼女。
風の中で生きようとも、彼女がいるなら、まあいいかなと思える僕は――すこし、ふしぎだ。
了
夜の教室で鞠つきを「黒色」「鞠」「新しい時代の流れ」
薄暗い廊下を歩く。ちりちりと電灯が辺りを照らしているが、非常に頼りない。吐息が白く、手がかじかむ。足音が響く。他には誰も居ない。教師たちは職員室の中でせっせと働いているのだろう、と三宅は思った。視線を移して窓の外を見ても、不気味な暗闇が広がっているだけである。
「やっぱり忘れ物なんて取りに来るんじゃなかった……」
声を出すと、それだけで何だか恐ろしくなって嫌になる。別に自分が怖がりなわけではないのに、こういうところに来ると、ほぼ必然的に恐怖を覚えてしまう。お笑い種になるぞと自分を脅しつけるが、あまり意味は無い。
階段を上がり、教室に辿り着く。そして、自分の席へと移動した。机の中は教科書やノートでいっぱいだ。そこから、数学の教科書とノートを取り出す。これを見ないと、明日提出のプリントを解けそうもなかった。
目的のものを手に入れたのだ。早く帰ろうと、急く足に抗うことなく扉に近づいていくと、扉が閉まっていることに気づいた。
「あれ、俺閉めたっけ?」
閉めた気もするが、そうでない気もする。そう思うと、ぞくぞくと鳥肌が立ち、気味が悪くなってすぐに教室を後にした。
数学の教材を抱えながら廊下に出ると、こちらに向かって走ってくる音が聞こえた。誰だろう。もしかしたらその子も何か忘れ物をしたのではないか。そう思うと、仲間意識を感じて三宅は安堵の息をついた。
「ねえ」
前に意識していたので、背後からの声に反応できなかった。
「なにか忘れ物?」
「え、ああ、うん」
振り返ると、俯いた少女がいた。この学校指定のセーラー服を着ており、黒色の髪が闇に溶けているように思えた。黒髪と対照的に、肌が異常に白かった。こんな子居ただろうかと疑問に思いながらも返答すると、少女は、そっと三宅に近寄って袖を掴んだ。
「ごめんなさい……。私も忘れ物、取りに来たんだけど、その、怖くって――。ねえ、一緒にきてくれない? 私のクラス、奥の教室なの」
だめかな、と弱々しい声を拒むことができなくて、恐怖に脈打つ心臓を押さえつけて、少女について行った。その間ずっと、少女は三宅に縋るように歩いていた。頼られると悪い気がしなくて、三宅の恐れも薄れていった。
「中、いっしょに入ってくれる?」
「いいよ」
他クラスの教室に入るのは、たとえそこに人がいなくとも緊張する。恐る恐る中に入ると、少女は自分の机に向いて歩いていき、目当てのものを手にした。
「え、それって」
「これ? 鞠だよ」
少女が手にしていたのは、黒色の鞠であった。鞠には、黄色の菊の花が描かれていた。大分使い古されているのか、ぼろぼろであった。
「こうやって遊ぶの」
そう言って少女は鞠をつき始めた。なかなか上手で、鞠は少女の手と床を行き来する。でも、どうしてこの時代に鞠つきなんだろう、と不思議に思っていると、
「この時代に鞠つきって可笑しいよね」
と、心を覗いたかのような言葉が掛けられる。たじろぎつつも、うん、と頷くと、少女は少し寂しそうに言った。
「そうだね。時代の、新しい時代の流れには敵わないね。鞠、楽しいのに。――ね、やってみない?」
「え、えっと、じゃあちょっとだけ」
手渡された鞠をついてみた。ぽんと跳ねる音が、閑散とした教室の中を駆け巡る。少女が鞠つきの歌というものを歌ってくれた。三宅は大して何も考えずに、しばらく鞠をついていた。すると少女がおもむろに言った。
「鞠つきの音、好きなんだ」
「え?」
「だって、おかしいんだもん」
「どういう――」
「ねえ、三宅くん、貴方は好きじゃない?」
「えっ」
「ぼこ、ぼこ……って不細工な音ねえ!」
勢いよく顔を上げた少女の目は赤かった。歯が白く鋭く尖っている。不気味な笑みが浮かんでいる。どこからか生ぬるい風が吹いた。そのせいで、少女の長い髪の毛がこちらに流れてきて、必死に逃れる。
「ひ、ひっ……!」
三宅の怯える声と、少女の妖しい笑い声が混じる。少女はじわじわと三宅に迫っていく。たまらず、声にならない声を上げながら、後ずさりしていくと今度は開けていたはずの扉が、閉まっていた。無機質の扉に行く手を遮られ、頭がパニックになる。
「ねえ。もういいでしょう? わたしの鞠、かえしてよ」
「か、かえす、かえすよ!」
「ありがと。ちゃんと拾って返してね。あそこに、あるから」
すぐ下を指差され、三宅は飛びついて鞠を拾った。それは確かに黒い鞠であった。が、手の中でもごもごと蠢いている。泡のように膨れ上がる鞠が、気づけば生首と変形しており、こちらを見ていた。その首は、鼻の辺りだけ形が変な風に凹んでいた。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
気持ち悪くてその生首を落とすと、ぼこ、と落ちて、跳ね返ってきた。また、にごった目と視線がぶつかる。
「かえしてって、言ったのになあ」
少女がにたり、と微笑むと、赤いあかい舌が垣間見えた。手で這って扉まで近づき、必死で開けようとするが開かない。震える手を必死で伸ばして鍵を開けたが、扉は開かない。
「うああああああああ、ひらけ、ひらけあああああ」
少女の手が、ひた、と首に触れた。
「かえらないでよ、まだ、かえしてもらってないわ、三宅君?」
「そこまでよ!」
セーラー服の少女が、大きな鏡を持って三宅の前に立っていた。
「帰れ化物! お前のいるところはここじゃない」
ぽう、と鏡が輝いたかと思うと、辺りはみるみる光でみちていった。遠くで化物の悲鳴が聞こえた気がした。が、よくわからなかった。三宅は、意識を手離した。
「三宅くん、大丈夫?」
揺り起こされて、正気を取り戻す。ああ、恐ろしい、まだ体の震えが止まらなかった。
「落ち着いて。ゆっくり呼吸をして。大丈夫。もう大丈夫よ」
「……あ、あれは一体――、お前は――?」
「わたしはこの学校に出る化物を封印してるだけよ。それがわたしの家の使命なの。気にしないで。……まさか生徒がこんな時間にここに来るとは思わなかった。もう二度と来ちゃだめよ、いいわね」
そう言って強引に追い払われた。気にする余裕も無かった。
三宅は何度も遠のきそうになる意識をもって、帰宅した。
その夜、眠れなかった三宅はずっと目を開けていたが、いつの間にか寝落ちていたようだ。
夢の中で三宅は、遠くで鞠をつく音を耳にした。そして自分の名前を呼ぶ声が、ぐるぐると、ぐるぐると。
了
鷹は鷹ではなく一本の樹に愛を告げる「鷹」「夜空」「消えた枝」
その鷹は孤独でした。
その鷹は仲間の中でも賢く、強くありました。
中でもその鋭く曲がったくちばしの強さは、異質でもありました。
ですから、仲間との喧嘩では負けることなどありませんでした。そして、必ず、負けた鷹は深く傷を負うのでした。
もちろん、その鷹も怪我をすることにはするのですが、丈夫な体は小さな傷ならばすぐに治してしまうのです。そうなると、圧倒的な力をもつ鷹は、仲間に遠ざけられてしまったのでした。
その鷹はとても辛抱がきかない性分でした。自分が強いから、という理由で仲間が離れていくのをじっと我慢することはできませんでした。暴れる鷹を、仲間達は押さえつけ、羽根を深くふかく傷つけました。
そのせいで、その鷹は長時間飛ぶことはおろか、少しの距離を移動することさえできなくなりました。
そんな鷹を置いて、仲間達はこの森を去っていったのでした。
鷹は自分の強さを憎く思いました。これが自分にあるせいで、自分は彼らの中で生きられなくなったと、鷹はそう思いました。
仲間が恋しくて、延々と仲間を呼ぶ日もありました。誰よりも陽気に生きようと、声高に歌ったこともありました。夜の冷えた空気に耐えるために、体を小さく丸めて眠る日もありました。
それでも、前ほど楽しくも面白くもないのです。鷹は寂しさと退屈を紛らわす術をもちませんでした。
だけれど、そんな鷹が唯一、心が休まる場所がありました。
小さな樹のくぼみの中。そこが何故か妙に温かく、穏やかな気持ちになれる場所でした。
気づけば鷹は、そこから動くことをしなくなりました。食べ物はこの樹がつける実を食べて生きました。
「孤独ってのは、いやなもんだ」
鷹はいいました。
「おれが何かしたのか? いやまあ、ちょっとはしたかもしれないが、やってきたのはあっちが先なんだよ。それで黙ってなんかられないだろ。だからやり返したまでさ。なのに、あいつらは、あいつらはおれの」
鷹は泣きました。
「おれの羽を痛めつけて、無能にしたんだ。いい加減、木の実は飽きたよ。肉を食べたいよ。大空を羽ばたきたいよ。おれが飛べば、人間も動物も植物も、おれの力強い羽ばたきに見惚れていたんだよ。おれは、鷹だったんだ」
次の日、不思議なことが起きました。
鷹が木の実をつついて食べると、その実は懐かしい肉の味がしたのです。
「な、なんだこれ……」
鷹は嬉しくなって、夢中になって実を食べました。けれど、食感だけは、木の実のままでした。
「なんだか、逆に寂しいなあ」
その次の日、木の実の形が変形していました。刃物で切ったかのようにきれいな形をした肉がついているのです。鷹は舞い上がってしまい、樹から落ちんばかりでした。
「おれはどうやらこいつに励まされているように思う。そうだ、思えばこいつだけが、いつもおれを優しく包んでくれる。雨風しのぐ屋根になってくれる。食べ物を与えてくれる。こいつだけだ」
おれは、こいつのために何かしたい。鷹はそう考えるようになりました。
何かこの樹がしてほしいことを告げるならば、その鷹の思いは叶うのですが、樹は話す口を持ちません。ただ、その場所に在るだけです。
鷹は久しぶりに地上に降り立ちました。踏んだ地面が昨日の雨を吸ってふやけています。
鷹はゆっくりと歩き出し、その樹の前に立ちました。下から覗くとその樹は、右の枝がありませんでした。すっぱりの切られているのです。鷹は、風か何かにやられたのかと思い、辺りを探してみました。が、見つかる気配もありません。鷹は少し範囲を広げて探してみました。そのことが何故か、その樹のためになると思えたのです。
それが正しいというかのように、その樹は色々な肉の実をつけました。鷹は毎日違った味の肉にありつくことができました。
消えた枝を探すことに必死になっていると、すぐに夜がやってきました。
ここの夜空はとても綺麗でした。鷹の目にも、綺麗に映りました。夜になると、鷹の黒い羽は夜の色になりました。そのことが、鷹にはとても愉快でした。自分も夜になってこの空間を包み込んでいるような、そんな気持ちになれたからです。
「おれも、おまえみたいに、優しくなりたいよ」
鷹はいつも樹に語りかけてから眠ります。そうすることでいつか、この樹が自分の言葉を覚えてくれて、会話をしてくれるのではないかと思ったのでした。
ある日、鷹が目覚めると、声がしました。
『おく。この、もりの、ずっと、おく』
「なんだって?」
『おくに、わたしの、ある』
そう言い終えると、声はぷっつりと消えました。
鷹はこの声を無げにすることができず、森の奥を目指して歩き始めました。
途中、小さな鳥や巨大な虫、たくさんの生き物に襲われました。その鷹は飛ぶことができなかったので、彼らのよい暇つぶしになったのです。鷹は必死に生き延びました。
何日夜が来て、去っていったことでしょうか。
ようやく鷹は、森の奥、木が円を描くように生えている場所に辿り着きました。そよそよ、と風が吹き渡り、木々の葉を揺らして音を奏でます。
鷹はまっすぐ進みました。その円の中に、一本の枝がぽつんと置かれていたのです。
大きな枝でした。それでも、鷹はその枝を足で掴み、あの樹のところを目指して羽ばたいたのでした。
途中、何度も風にあおられ、地面に落ちました。それを見た動物たちは、鷹をばかにしました。
「鷹のくせに、飛ぶことも満足にできないのか」
その言葉が、鷹の心を何よりも傷つけました。鷹であることを誇りにしていたその鷹は、悔しくてたまりませんでした。けれども、ぐっと堪えて、再び空を飛びました。今は、あの樹の元に帰ることだけが、すべてだったのです。
鷹はそんな自分に驚きました。自分は、我慢なんてことを知らなかったのに。自分をばかにするやつは、決して許すことができなかったのに。今は、あの樹のためだけに、それらすべてのことを堪え、我慢しているだなんて。
鷹は悟りました。あの樹が自分にとって何よりも大切なものなんだと。
そして決意しました。あの樹は自分が、絶対に守り抜いていこうと。――たとえ、自分の命を投げ捨ててでも。
鷹が帰ると、おぞましい状況が目前にありました。
鳥が、虫が、動物たちが、あの樹がつけている肉の実を欲望のままにむしり取っていたのです。鷹は叫びました。やめろ! こいつに手を出すな! ……。
その叫びは無力でした。聞き届けたものは誰もいなかったのです。樹は、みるみる傷ついていきます。
鷹は戦いました。彼らの口や手や足に、そのくちばしで戦いました。けれど皆、あまりにも数が多く、強かったのです。鷹もまた、彼らに傷つけられました。羽根は千切られ、自由に飛べなくなりました。それでも足を動かして彼らの前に立ち現れました。が、彼らの腕や足や尻尾に、突き倒されるだけでした。
鷹は自分の無力さがたまらなく嫌になりました。守ると決めたのに、守ることができなかった自分が、悔しくてくやしくてたまりませんでした。その時初めて、死を望みました。仲間に捨てられた時は、復讐の気持ちしかなかった自分を救ってくれた樹を、自分は救うことができない。こんなに辛く、酷く、恥ずかしいことはない。鷹はあの樹の枝を持って、湖へ飛びました。
鷹は枝とともに水の中へ飛び込みました。傷の中に水が入り、恐ろしい痛みに襲われました。それでも、目を閉じつづけていました。
――それなのに、いつになっても、その痛みが止むことはありませんでした。
死をもってすれば、こんな痛みも感じなくなると、鷹は信じていました。何かがおかしい。鷹はゆっくりと目を開けました。
そこには、きらきらと輝く世界がありました。湖の水が光を弾いて、辺りに散りばめられているのです。鷹は驚きました。先ほどまではこんなに綺麗な世界など、ありえなかったのに。
『こんにちは』
「え……」
『わたし、わかる?』
はっと見上げると、緑の葉をもつ樹がありました。そして自分は、あのくぼみの中で休んでいるではありませんか。鷹は信じられなくてうろたえました。
『あの、はね、きにいりましたか』
「羽根……? 羽根ならあいつらにちぎられて今はもう――」
ふと自分の体に目を向けると、なんと羽根があるのです。しかしそれは前の黒い羽根ではありません。植物の弦が編み込まれた、木の羽根でした。中は空洞なのかすごく軽く、鷹が試しに羽ばたくと体がふわりと浮きました。どれほど飛んでも辛くありません。
『わたしここにきたかった。だから、えだ、いろんなこに、もっていってもらった。……けど、ちがうとこにいった。しっぱい。――ここのみず、えいようたくさん。すぐに、おっきく、なれた。――だから、ありがと』
「おれは別に何も……」
樹は首を振るかのように葉を震わせた。
『あなた、わたしをひつようとしてくれた。わたし、とってもちいさかった。でも、いっしょにいてくれた。あなたが――すっごくだいじ。たいせつ。まもりたい。……このきもち、なんていう? おしえて』
「それは」
『うん』
「愛だよ」
「――おれもきみが好きだ」
了
誰そ彼「黄昏」「化石」「バカな才能」
【たれそかれ】
夕暮れ時は人の区別がつきにくく、「誰(たれ)そ彼は」と尋ねることから。
そこにいるのは貴方でしょうか、わからない。
誰そ彼。
転じて、黄昏。
いつも、暗闇の中に隠れてしまう貴方を、わたしが見つけ出すことはできない。否、探すことをしてはいけない。それが貴方と会うための条件だから。だからわたしは息さえ止めて、あなたの気配を感じとる。今日は少し……機嫌が悪そう。
暗い部屋の中は、日常、生活している場所だけれど――、明かりもつけず、外もこうも暗いと別世界のように思えた。
わたしは貴方が来る時は必ず家具のほとんどを仕舞う。なぜなら、貴方を招き入れてから、何かにつまずいて転んでしまうと困るもの。
というわけで、今この部屋にはソファーがひとつだけ置いてある。貴方はわたしの隣に、空間をあけて座る。それがもどかしくて、わたしは近寄る。すると逃げられる。また追う。逃げる。
「やめろ」
普段より一段と低い声が頭上から降ってくる。貴方はどうやら背が高いみたい。よく知らないけれども。 ――そういえば、貴方は機嫌悪かったね、と言うと、
「お前、なんでわかんだ」
と尋ねられたので、貴方が纏う空気でわかることを告げると、
「気持ち悪い。バカみたいな才能だな」
と返された。気持ち悪いわたしとこうやって半年も会い続ける貴方はどうなのよ。そう怒ったように言うと、少し笑われた。
「お前の方がどうかしてる」
どうして。
「だって、普通、こんなやつと一緒にいたくねえもん。顔、明かさないやつなんかと」
――貴方には、コンプレックスがある。顔に対するコンプレックス。美形かどうかは知らない、教えてくれないからよくわからないが、顔のことで色々と大変な目に遭ったらしい。
わたしと貴方は携帯サイトでお互いを知り合った。元々趣味が同じで、ネットではよく会話していたこともあり、実際に会ってみようと提案した。
けれど貴方は、さっきも言ったように、コンプレックスがあった。他人とはできるだけ会わず、外へはできるだけ出なかった貴方にはきっと最悪なお誘いだったのでしょうね。
でも、何を思ったか今も教えてはくれないけれど、条件をいくつか提示して、会ってくれている。そして現在までこんな調子だ。
「顔を見てはいけない。明かりは少しでも置いてはいけない。見送りも駄目。会う場所は、お前の家じゃないと駄目。お互いの詮索はなし。――こんな条件、馬鹿馬鹿しいと思うだろ、常識的に」
貴方から言ったくせに。 これは、口に出さなかった。貴方を傷つけてしまう可能性があったから。代わりに、この憂鬱な気分を変えるための話題へすり替える。
「今日はいつまで居るの?」
「……どうしよう。――どうしてほしい?」
意地悪な返答だ。まあ、貴方らしいといえば、らしいけれど。
「できるなら、ずっと」
ずっと、それこそ誰にも知られずに。比喩を使うなら、化石みたいに、長いこと誰にも知られずに。
「化石かあ」
「うん」
「そんなに長く一緒にいたら飽きるよ」
「貴方が決めないでよ」
「……うん」
しばらく、何も話さずにいた。ただ、二人の呼吸だけが辺りに響いた。優しい空気が漂う。暗闇の中だけれど、かえって安心できた。貴方の隣は心地よかった。だから、飽きるなんて言わないでほしかった。わたしのこと、何もわかってないのね。
「――そろそろ帰るよ」
この時間が永遠に続くと錯覚しかけていた頃、貴方は少しだけ残念そうに言った。時間はわからない。けれど、貴方が言うのだから、帰る時間なのだろう。
「いつ会える?」
「まだ会い続けるのかい」
「当然」
「――じゃあ……、また来週」
「ええ。わかった」
去り際に、貴方はわらった。
「お前、やっぱおかしいよ」
その笑い顔こそ見えないけれど、きっと、自嘲的にわらったのでしょうね。
「おかしいのは貴方の方でしょう」
自嘲する前に、貴方からこちらへ来なさい。わたしには、顔が見えないの。
誰そ彼は。
すっ、とこちらに歩み寄る気配がして――。
了
mystery「義妹」「小学生」「銀色のスプーン」
A、柿本七子。女。50歳既婚。息子一人。薬学研究者。被害者との関係、友人。
B、岬岳士。男。21歳独身。会社員。被害者との関係、息子。
C、長井治。男。52歳。既婚。娘二人。菓子製品会社社長。被害者との関係、仕事の取引先。
D、立木美那夜。女。30歳独身。薬剤師。被害者との関係、被害者の仕事の部下。
E、多田久。男。50歳。執事。被害者との関係、主従関係。
「どうよ」
と、コンパクトにまとめられた文章を見せつけられる。
それをふんふん、と頷いて、よくできてると褒めれば、馬鹿にしないでと怒られた。
「私だって、やれることはあるのよ……」
「うん。――じゃあ警察の人にも手伝ってもらって、探し出しましょうか」
この事件の犯人を……。
事の始まりは、某大学の最高責任者であり、我らが父の『おねがい』によるものからだった。
「代わりにちょっとパーティーに出席してきて」
自分は忙しいので、この大学に通う俺と妹をわざわざ呼び出しての
第一声がこれだ。
俺は正直気分が乗らなかったが、妹が行く気満々なので仕方なくついていくことにした。
俺と妹は血が繋がっていない。母が違うのだ。どちらも父と結婚、離婚し、父は今はフリーである。つまり、妹は義妹ということになる。
まあそれはそれとして。
パーティーの主催者は父の知り合いである狩野洋子であった。最近、夫をなくしたことで気落ちしている彼女を励ますために親しい友人を呼び、開かれた。彼女の好きなもの――ダンスやら音楽やら食事やら――を出し惜しみすることなく盛り込まれたパーティーだった。皆、それなりに楽しんでいたのだ。
が、事件は起こった。
ダンスも終え、少し休憩にとちょっとした茶会が設けられた。これはダージリン、これはアッサム、と少し嬉しそうに説明する狩野が、しばらくしてから突然呻き出し、死亡した。
自殺の線もあったが、死ぬ直前に、
「どういうことなのっ……!」
と呟いたことから、自殺とは考えにくい。殺人――おそらく毒殺――だと思われ、俺は持ち前の頭脳で事件解決を試みている。ちなみに、俺の頭の賢さは、大学教師全員が認めている。まあ、自慢じゃないが。
やってきた警察に、毒の有無を探してもらっている間に、俺はゆっくりと考える。
「おにいちゃん……」
「大丈夫だよ。俺がなんとかする」
軽い事情聴取を妹に頼んだのは、今にも泣きそうな妹の姿を見ないためだった。
小学生の頃に、俺らは兄妹になった。が、年があまり変わらないこともあってかよく喧嘩になった。けれどもいつも俺は手を出せなかった。
泣く妹の姿があまりにも悲痛で、見ていられなかったからだ。それ以来、妹の涙を見ないよう必死であった。勿論、今も。
すがる妹を感じながらも、頭を動かす。
茶会では執事の多田が紅茶を入れ、運んだ。順番は狩野が最初であった。
「ティーポット、中身ともに確認しました! 反応なしです」
多田が紅茶の中に毒を入れた可能性が消える。多田が重く息をつく。
がやがやと声が上がる。
「息子のお前は確か、自分の母親とうまが合わなかったらしいじゃないか! お前じゃないのか!」
「あ、あんただって持ってきた菓子に毒盛ったんだろうが! わざわざ 妙に高い菓子持ってきやがって……おかしいと思ったんだよ!」
警察の声が響く。
「菓子、どれも反応なしでした!」
これで、長井の可能性も消滅。
すると、紅茶が注がれた後に毒が入れられたとされる。思い出せ、思い出せ。
「おにいちゃん、確か狩野さん、角砂糖入れてたよ。立木さんが入れてあげてたよね――」
ぼそりと呟かれた言葉に、辺りが一瞬だけ静まり、火のついたように騒ぎ出した。
「そうだ、お前、薬を使う仕事してんだろ? 砂糖に隠し入れるなんて、お手のものじゃないのか!」
「そ、そんな……! 薬剤師だからって私、そんなことまでできませんよ! それなら薬学研究者の貴方はどうなんですか、柿本さん!」
「私がそんなことするわけないでしょう! 友達なのよ?!」
罪の擦り付け合い。次第に俺ら兄妹にもそれが向けられる。妹が懸命に否定してくれているが、時間の問題だろう。怪しいといえば、ここで初めて顔を合わせた俺たちが怪しい。父の差し金のようにも考えられる。
「机上のものは、すべて反応なしでした!」
――やばいな。ますます立場が悪くなってきた。このままでは周りの人間に、言葉で言いくるめられてしまい、警察に尋問されるかもしれない。そうすると、妹の大学での高い評判が、地に落ちてしまうかもしれない。急がなくては……。
紅茶が執事の手により配られる。角砂糖を入れろと勧められ、立木さんに入れてもらう。その時、狩野はスプーンを落とし、友人のものを借り、紅茶を飲んだ。その際、菓子にもいくつか手を出していて――。
はっとして、テーブルを見つめる。無い。そこにあるはずのものが無い。
俺は叫んだ。
「犯人は貴方だ」
――柿本さん。
角砂糖には毒は入っていない。角砂糖を摘まむ道具にも。
柿本が貸したスプーンに仕掛けがある。狩野がスプーンを落としたのは、柿本のせいだろう。用意してきたスプーンを渡すために。
そのスプーンには熱に反応する毒が塗られていた。狩野が熱い紅茶が好きなのを知っていたのだろう。スプーンの毒は砂糖をかき混ぜる時に一緒に溶けて消えた。
しかしこのままでは、スプーンにわずかな毒が付着する危険性がある。が、柿本は狩野の癖を知り、利用したのだった。
几帳面な狩野は、銀のスプーンについた液体をペーパータオルで拭き取ったのだ。これにより、毒はペーパータオルに移動する。そして、呻く狩野に皆の目が行った隙に、ペーパータオルを回収したのだ。
「私が夫をなくした時は何も言わなかったくせに、自分がそうなったら毎日毎日電話して、慰めろ、って言ってきたのよ。友人でしょ、ってね。……なんて、理不尽なんでしょう」
柿本は最後にそう言った。
「とんでもないことに巻き込まれたね」
「……うん」
おにいちゃん、と何年ぶりにか甘えたような声を出した。
「こわい」
「大丈夫だよ。おにいちゃんが守るから」
「……兄貴面しないで。ほんとの、おにいちゃんじゃないくせに――」
「ごめん」
「――でも、男面はしていいよ……」
泣いてもいい? と尋ねる妹に、何も言えなかった。
「おにいちゃんは、誰かの命取ったり、誰かに命取られたり、しちゃだめだよ」
「――わかった」
すすり泣く妹が、ゆっくりと顔を上げた。
「ほんとに?」
「……うん」
約束だからね、と泣く妹が、昔よりも辛そうに見えた。
その苦しみから救ってやりたくて、そっと、抱き締めた。
了
悲しきピエロ「銅像」「風」「危険な目的」
風がそよぐ。私は、ゆっくり立ち上がって、彼に話しかける。
彼は泣いていた。
私じゃない女の為に。
『泣かないで』は、私らしくない。
『もっと泣いていいんだよ』は、私に言う権利がない。
だから私はこう言った。
「今日から、私が貴方になる」
彼はピエロだった。サーカスで、彼はとても人気だった。彼がステージに上がるだけで観客は大喜びだった。それは、魔法のようにも思えた。
私は、そんな彼に惹かれていた。
けれど、世界っていうのはそんなに優しくできていないらしい。彼が好きな女は私ではなかった。そのことは注がれる熱い眼差しで容易に知ることができた。他の人は気づかなかったけれど――あの女も含めて。
あの女は最近、違う男と結婚した。男は、このサーカスでの猛獣使いで、彼よりもずっと人気があった。 何よりピエロと猛獣使いだ。ピエロは滑稽な姿を晒して馬鹿にしたような民衆の笑いを得る職業だけれど、猛獣使いは誰もが憧れる、格好良いものだ。
彼は仕方ないよと笑った。本当は泣きたいくせに。悲しみの涙は、顔に描かれた涙に託した。
昨日、女が死んだ。
男は、団の皆が気の毒に思ってしばらく休ませている。
だが、彼らは愚かにも勘違いしている。女の死を悲しむものは、実は二人であることを。
彼は、二人の欠番のため、いつもよりも馬鹿らしく、滑稽に振る舞わなければならなかった。団長は、悲しみに暮れる彼をそう言って怒鳴り付けた。
「よくここがわかったね」
彼は静かに言った。銅像の下、彼が独りになりたい時に来る場所。
「ここで――彼女と初めて出会ったんだ」
「そう、だったの」
「だから、ここなら」
死ねると思って。
危険な目的のために、彼がここへ来たのはわかっていた。サーカスのテントを出る時に、鈍く光る刀が見えたから。
「――君が僕になる? 僕の代わり? 無理だよ」
「無理なんかじゃないわ」
息を整えて言う。心が悲鳴をあげるのを無視して。
「これから、私がピエロになる。あなたは、滑稽な振りをしなくていいのよ、」
もう。
泣きそうになる彼を見て、私が無性に泣きたくなった。
ああ、嬉しそうな顔をするのね。あの女のためだけに涙を流すのね。
私はただのお人好し。
あなたが思う人は私じゃないわね。でも私は、あなたを慕っている
わ。だから、今は悲しみに任せて、泣いてほしい。いつか、また、元気なあなたが見たいから。――もう、無理かもしれないけれど。
「本当に――?」
「ええ」
笑うと、不細工に口がひきつった。涙で覆われた目が、私を捉えなくてよかったと、心底思った。
私は急いで戻り、ピエロになって、ステージに上がった。彼が演じたピエロを真似して動くと、うまく観客に気に入られた。時には、食べ終えたゴミなんかが投げられてきたが、まあ、ご愛嬌だ。
私は笑った。――悲しみの涙は、顔に描かれた涙に託して。
了
There is no magic for you.「雷」「墓標」「最後の魔法」
「師匠、雲行きが怪しくなってきましたよ!」
「そうだね、急がなければ」
そう言って駆け出す師匠の後を、僕は複雑な気持ちのまま追いかけた。
師匠は今日、『最後の魔法』を使う。それは、師匠が今日死ぬことと同じことを意味する。
師匠は今や世界中に知られている立派な魔法使いだ。生み出した魔法、救った国、救った人間はもはや、数え切れない。そのことは伝説にまでなっていた。
そんな伝説の魔法使いが今日という日に消えてなくなってしまうのだ。信じられない。一番弟子の僕でさえ、信じられないのだから、他の人は尚更だろう。こんなに元気でいるのに。
――『最後の魔法』とは、その名の通り、魔法使いが最後に使う魔法のことだ。
魔法使いは生まれながらに魔法使いだ。つまり、魔法使いになりたいと思っても、生まれながらに持つ魔力がその人間に無ければ、絶対に魔法使いにはなれないのだ。今のところ、魔法使いは一般の人よりも少ない。
ただし、魔法使い側にも制限がある。自分が使うことのできる魔力が決められているのだ。その魔力を使い切った時、寿命とは関係なく命が無くなってしまうという。その時に使う魔力を、人々は『最後の魔法』と呼ぶ。
「君は、魔力が無くなりかけているならば、魔法を使わずに生きていけと言うんだろう?」
師匠は尋ねた。僕は勿論だと答えた。師匠は今まで頑張ってきたんだ、余生をゆっくりと生きていく権利が十分にある。そう主張すると、師匠は困ったような表情を浮かべた。
「ゆっくり生きていくなんて、僕には無理なんだよ、カムラ。僕にはとても」
「どうして、ですか」
「あの人との約束があるからさ」
ふ、と漏らした息。それに呼応してか、ついには雷が鳴り出した。
「どういうことですか……」
走りながら問うと、師匠は、この際だから話しちゃおうかな、と苦笑した。
――それは、師匠が魔法使いとして生きていく前の話。一人の恋人がいた。その人は誰よりも優しく、どんな人間をも愛していた。 ある時、そんな恋人の性格を利用して、罪人が恋人の家に逃げ込んできた。師匠は駄目だと何度も反対したのだが、恋人は罪人を受け入れた。
それを知った村人が、朝廷に告げ口し、罪人とともに恋人が罰せられ、命を落とした。本来ならば一緒に暮らしていた師匠も同罪なはずだっ たが、恋人は賢く、朝廷の使いが来る前に師匠を逃がした。その時に言った言葉がある。
『どんなことがあっても、人を愛することを止めてはいけない。恨みによって行ったすべての行為は、自分にとっては憎むべき悪だ。だから、自分の分まで人を助けてほしい』と。
師匠は『いつまで』と尋ねた。
恋人は『じゃあ、魔力がなくなるその日まで』と答えた。
――だから、師匠は人間を救い続けた。その言葉があったから。
「その言葉のために、今まで憎くてたまらない人間を救ってきた。ゆっくりなんて生きていたら、いつの日か僕は、朝廷の人間を殺してしまうかもしれない。……いいかいカムラ、僕はそういう危うい存在なんだよ」
「っ、それでも、あなたは僕の師匠です」
「――おろかな子」
それゆえに、いとおしい。そう言って笑う師匠は、僕から見ても美しかった。
崖の上にあるという恋人の墓に、僕らはようやくたどり着いた。
「ああ、さっきの雷のせいかな、墓標が壊れている」
そっと触れられた墓標。すると、みるみるうちに美しい石碑へと進化していた。
『最後の魔法』が始まっている。僕はその時を忘れないようしっかりと刻み付けた。
「カムラ、あなた、好きな人はいる?」
周りの枯れ果てた草木に命を与えながら、師匠は尋ねた。
「い、いません」
「ああ、残念だ」
「う、作ります、必ず」
「そうだね。そうしておくれ」
草木は花をつけ、カラフルな草原へと変化していく。どこから来たのか綺麗な蝶や鳥が辺りを飛んで回った。
師匠は片手を上げて、空を宥めた。すると雷は止み、眩しいほどの太陽が顔を出し、照らし始めた。
「すごい、です、――うっ」
「カムラ……、泣かないで」
「なんで、一緒にいてくれないんですか師匠……。親がいない僕のために、一緒にいるって約束したのに――」
「……そうだね、約束したのにね」
師匠はしゃがんで、僕を抱き締めた。温かかった。僕は涙した。
「何か君にあげよう。何がいいだろう」
「師匠がいいです……」
「――それ以外で。最後に君を救って終わりにしよう。……僕のために、救わせておくれ」
「じゃ、じゃあ、師匠の恋人から貰ったペンダント、ください。ずっと大事にしてたやつ」
「いいよ。大事にしてね」
師匠はそう囁いて、僕の首につけてくれた。
「カムラ、君には辛いことをしているけれど、僕は君に看取ってほしかったんだ、ごめんね」
「いいです、師匠はいじわるな人ですから」
「うん、ありがとう」
これが最後の言葉になるね、と師匠が言った。抱き締める腕に力が籠る。
「死んだ人に向けて、魔法は、かけられないんだ。甦りもそうだけど、こんな風に周りを綺麗にしてみても、死んだ人が喜んでいるかは分からない。この魔法は自分で満足したいがための魔法なんだ。――だから君は、こんな自分勝手な魔法を使っちゃいけないよ。愛する人が生きている時に、魔法を使いなさい。後は頼みますよ」
「師匠……!」
「愛してる、可愛い我が子たち。あなたがやることに、不安など一つもありませんからね」
体が冷たくなる。師匠は死んだ。たまらなかった。悲しい。独りになった。体が裂けていくように痛い。苦しい。
ああ、と嘆いていると、一人の子供がこちらに駆け寄ってきた。
「お母さん!」
「え……」
師匠の体が揺さぶられる。子供は涙していた。その子は、師匠と同じ長い黒髪をもっていた。
「きみは――?」
「……ナリーの一人娘よ」
「えっ?!」
「お母さんを看取ってくれてありがとう……。――ね、最後の言葉聞いた……? 『我が子たち』ですって。あなたも勿論含まれているのよ」
わけが分からず戸惑っていると、師匠の娘という子どもは、ゆっくりと微笑んだ。その微笑みが師匠とそっくりだった。
「私は、お父さんのお墓をずっと守っていたの。お母さんに言われて、ね。ほら、お母さん伝説の魔法使いだから、弱みを握られたら大変でしょ? 私は魔力がないから……。お母さん、よくここに来てくれたから寂しくなんてなかったんだけどね――、ああ、一緒にいてほしかったな……」
「でも、そういう人だから」
「うん、そうだね」
彼女は呟いた。
「いいなあ、ペンダント。お母さん来たのかわかんなくて、最後の方しかいられなかった……」
「きっと気にしてないよ。それに、ほら」
ペンダントを受け取った時に、何故か二つを首にかけられていた。なるほどそういうことかと、そのうちの一つを手渡す。
「ありがと……。おそろいだね」
「うん――」
「……ね、簡単な魔法、みせて」
「――じゃあ、ちょっとだけ」
彼女のペンダントをつつく。そこから、たくさんの花びらがひらひら、ひらひらと。
「お母さんが好きな花だね」
「うん」
「ありがと」
その中のひとひらが、空に舞い上がってそのまま、消えた。
――あなたのための魔法は存在しない。――
了
はなびら「桜並木」「復習」「小さな勇気」
桜並木のなかで、一人の女の子が立っていた。
女の子は両手を伸ばして、うろうろと動き回っていた。じっと何かを見つめて止まっているかと思うと、ぱたぱたと走り出し、追いかけていく。
ちょうど帰宅途中であった男の子がその――同じランドセルを背負う――姿を見つけた。
不思議な行動をしている女の子に興味を持ったのか、知っている子だったのか、男の子はそっちへ近寄って行った。
「何してんの?」
尋ねると、女の子はすぐさま足を止め、すっとこちらを見てきた。
「あ……」
「お、みずきやん。何してんの? 先に帰ったんとちゃうの?」
「う、うん。せやで」
「桜見とったん?」
俯いたまま女の子はまた、せやでと呟いた。その返事は適当にその場で合わせたようなものであったが、男の子は気にした様子もなく、桜を見上げた。
「桜かぁ、たまに虫落ちてこーへん? おれ、虫嫌いやねん。――ちょっとかっこ悪いやろ?」
「ふふ、うん」
「はあ、でもみずきと二人で話すん初めてかもなあ。あんま話さんしなあ」
「学校やったら、女と男はほとんど別々に喋ってるからなあ」
「んで、何しとったん? うろうろしてたやん」
「え、あ、えっとな」
恥ずかしいのか地面を軽く蹴るようにしてから
「はなびら拾ぉう思てん」
と口にした。
「はなびらぁ?」
「せや」
「何でぇ。はなびらなんかそこにいっぱいあるがな。何でそっから拾わへんの」
「それやと意味ないねんもん!」
女の子は必死に声を張り上げた。それに驚くも、意味が理解できず苛々したのだろう男の子も声を張り上げた。
「意味ないってどうゆうことやねん!」
「散ったはなびらじゃないと、あかんの! 落ちたやつやと意味ないねん!」
それから女の子は目を逸らし、ぼそぼそと言葉を紡いだ。
「散ったはなびらをな、空中でな、きゃっちできたらな、願い事叶うって、本で読んでん。うちな、どうしても叶えてもらいたいねん……」
「――ふうん」
「でもな、風とかが邪魔してきよんねん。最悪やろ」
もう帰ろかな。そう呟いた女の子に、男の子は何で? と尋ねた。
「おれここで壁になったる。風に邪魔されんようにしたるよ。それかおれも取ったる」
「そんなん意味ないよ……」
「じゃあ取れるまで一緒にいたる」
「なんで……? 学校の勉強の復習、せなあかんやん」
「今はこっちのが大事やろ?」
そんなに叶えたいもんなんやろ?
女の子はおずおずと頷いた。それを見て、男の子は笑った。
「みずきって意外と、がんばるやつなんやな」
「……何それ」
「ほら、がんばれ。おれも風に負けんよう息吹いといたるから!」
「絶対意味ないわそれ」
嬉しそうに笑ってから、女の子は桜並木と向き合い、はなびらを得るために走りだした。その後について男の子ががんばれ、と応援し、時には口を尖らして桜のはなびらを少しでも女の子の手に届くようにと息を吹く。
それからしばらくして、ようやく女の子は一枚のはなびらを手中に収めた。離さないように、だけども、くしゃくしゃにしないように慎重に指で触った。
「やったやん」
息を吹き続けていたせいか赤い顔のまま男の子は笑った。
「ありがとぉ!」
女の子も笑う。
「じゃあ帰ろか」
「うん!」
並んで帰る二人。桜並木を通りながら、男の子はふと女の子の方を見て問いかける。
「何か叶った?」
「まだやん」
「そか。じゃあ何願ったん?」
「……それ聞くん」
「そりゃ気になるよ」
「……みかさくん、きっと笑うよ」
「ええやん、笑わせてや。勇気出して、ほら。小さいことでも勇気出さな、大きい時に勇気出せんなるで?」
「――うん」
息を大きく吸い込んで、女の子は言った。
「みかさくんが好き」
「え?」
「こくはく、できますようにって思ったの! あーもう恥ずかし! ふつう聞かへんで男の子から」
「――え?」
「最悪な男やわあ。うちしか好きにならんな、こんな男は!」
「え。みずき?」
「もうええ。返事はええ。帰る!」
女の子は頬を赤く染め、手に入れたはなびらを右手にそっと握りしめながら、また走りだした。今度は目的なくただの照れ隠しとして。
後ろから、「ちょぉ、待ってやぁ!」という声を聞きながら、女の子はにっ、と微笑むのだった。
了
川と蛙と空と彗星と俺と彼女「川」「彗星」「鑑賞用の蛙」
金魚やメダカやミジンコよりも、蛙が好きだった。だから鑑賞用に捕まえるなら、絶対に蛙にしようと心に決めていた。
思い立ったらすぐ行動。これが俺の座右の銘だった。だから、近くにあった水がある場所――何とかいう川。名前は知らない――に赴き、家にあった虫籠に水を入れ、虫取りあみを構えた。
――というか蛙は川にいるのか? 何の調べもなく行動したことを些か後悔する。昔のこどもたちならば、蛙の生息地など即答できるほど熟知していただろうに。何となく時代の流れを感じる。
「かえるーかえるちゃんやい」
出てこんかい。一緒に楽しく暮らそう。美味しいご飯もつけるから。
そう口を動かしながら水の中にあみを潜らせる。収穫なし。無茶な気もしてきた。
俺が思い立ったのは深夜の出来事であったので、辺りは暗く、人は誰ひとりいない。ここで下手して溺れたら確実に死ぬな、これ。まあ、浅い川だけど。
その後しばら川の水にちょっかいをかけるような行動を繰り返していると、急に辺りが明るくなった。太陽のお出ましではない。月の光はこんなに強くない。
後ろを振り返った瞬間、目を疑った。目前にはなんと光を纏った何かがあって、ぶつかると思った俺は、持ち前の反射神経でその何かからぎりぎりで避けることができた。
何かが水の中へ突っ込んだ。大きな水しぶきが上がり、巻き込まれる。結果、水を頭から被ることになり、夜風が身に沁みた。いや、そんなことよりも。
じゃぶじゃぶと足を動かし、その何かに近寄る。恐る恐ると近きたかったが、まとわりつく水が邪魔で苛立ち、面倒になったので大胆に足を動かす。
光る何かをよく見ようと屈んだ時、
「ばきゃやろー!」
立ち上がった何かから渾身の頭突きをくらった。
「お前はラピュタを見たことないのか!? 受け止めろよ! んでラブでピュアな展開に持ち込めよ! 主人公失格! 持ち前の能力発揮して逃げてんじゃねー抱き止めろっ」
「いやいやあんな速かったら無理だから。物語始まる前に終わっちゃうから」
頭を押さえながら冷静に答える。そしてすぐに、ただならぬ違和感を感じた。あれ、俺今誰と喋ってる?
「彗星の私にこんな目に遭わせるなんて……」
「え、彗星?」
「人間なんてくそだわぁ」
わああ、と泣き出したのは美しい少女だった。少女は輝いている。いや、比喩じゃなくて彼女自体が発光体なのだ。あまりの光の強さに目を細める。
「えーと君、彗星の妖精とかだったりする? もしくは彗星を夢見る美少女?」
「――妖精です」
「間違って人間世界に来ちゃった?」
「その通り……」
「――え、ドンピシャですか」
「……はい」
「家に帰れますか」
「帰るためには燃料が……」
コテコテだなあと思いながらも、彼女に手を差しのべる。
俺は非日常とか憧れてたクチだった。大歓迎である。正直、今とてもわくわくしている。
「一緒に暮らそう、蛙の代わりに」
「何故に蛙……」
手を取った彼女は、ゆっくりとこちらを見上げた。優しく微笑んでみせると、「ちょっとだけ主人公ぽくなった」と評価された。褒め言葉として受け取っておく。
「なんでそんなに反射神経あるの」
「俺の唯一の能力」
「はあ」
「あのさ、なんでラピュタ知ってんの」
「有名だよ、彗星界でも」
「まじでか」
帰り道、項垂れる彼女の肩をポン、と慰めてあげた。弱々しく寄り添ってくる彼女に、思わずきゅんとしてしまったのは内緒である。
どんな形でもラブストーリーってやつは始まるもんなんですかねえ。
了
魚のまる焼き「騒音」「魚」「かんざし」
「君はきっと、僕と一緒にはいられないね」
男は そっと言葉を溢した。その返事の代わりに、水の跳ねる音がちゃぷん、と響いた。
男が君と呼びかけた相手は、人ではなかった。
「僕だって君と一緒に居たいさ、だけど――」
俯いた男は抱えている金魚鉢を覗き込んだ。そこには、少し窮屈そう体をうねらせている美しく、綺麗な魚が泳いでいた。透明な鱗が男の寂しそうな顔を映し出す。
「だけど、君はストレスが溜まると死んでしまう……。僕はね、一生懸命努力したんだよ? 隣の家のやつに文句も言ったし、部屋中に防音壁も設けた。他にも色々、本当に色々なことを試したんだ……。だけど、それでも、君のストレスになる『騒音』は消えてくれないんだよ――。今もほら、足もとが揺れるように音が、五月蝿い、うざったい音が周りに――」
男がいる所は川の近くで、そこはひどく閑散とした場所であった。
男は首をこれでもかと振り、脳内に響き渡る音を拒んだ。男が聴こえる音は、誰にも耳にすることはできなかった。男の最も近くにいる魚でさえもだ。男は、自分の世界の中で生きていた。
「僕はね、君が死ぬ所だけは見たくないんだ。愛する人の死なんて、これ以上ない悪夢なんだよ。だから、その夢を見ないためにね、君と別れることにしたんだ。許しておくれ、すべては君の為なんだよ」
そう言って両手を離し、金魚鉢を川の中へと落とした。バリン、と大きな音を立てて、ガラス製の鉢が砕けた。その破片が辺りへと散らばる。中にいた魚が自由を獲た。魚は大きく尾びれを動かし、どこかへと泳いでいった。
「さようなら、さようなら――」
虚ろな目をした男には最早、愛した魚の姿を捉えることはできなかった。けれども、その魚の頭のひれに挟み込んだ手作りのかんざしがわずかに光を反射し、男の眼球へと届ける。そんな頼りない光を頼りにして、男は必死に手を振った。完全に見えなくなるまで、男はそこにいた。やがて、自身の家へとおぼつか無い足取りで帰っていった。
魚は自由な世界を泳いでいた。
そこにふと通りかかった独りの少年が、魚のかんざしが生み出した小さな光を見つけた。
「何か光ったか? ――どれ」
そうして手にしていた釣竿を使い、川に向かって釣り針を投げた。その針は見事、魚のかんざしに引っ掛かり、少年は針が外れないことを確認してから釣り竿を引き上げた。
美しい魚は少年の手の中で逃げ出そうと必死にもがいた。が、少年の両手に力一杯握られてしまい、身動きができなくなった。
「今日はついてんなぁ!」
少年はその場に座り込み、火の準備をし始めた。
「うまそうな魚だなァ、お前」
少年はその鱗の美麗さも、その二つの目の輝きも何一つ眼中になかった。ただ、捕った獲物の大きさに、歓喜していたのだった。以前の飼い主に大切に育てられた魚は、そこらの魚とは比べられないほどに大きな体を持っていた。少年は白い歯を見せて笑った。
「ほんと、幸運だわ」
そう言って、魚を焼いた。その時、魚の頭についていた焦げてしまったかんざしを眺め、そして地面に投げ捨てた。少年は焼いた魚を大きく口を開けて食った。
所詮は人と魚との関係なのである。
了
恋愛フリル「悲報」「恋愛」「フリル」
部屋の扉を開け、パソコンと向き合うフリルの塊もとい彼女に伝える。
「悲報だよ真理亜ちゃん」
「うん?」
「真理亜ちゃんに頼まれてたフリルのカチューシャ、完売したみたいです。再入荷の予定は無いそうです」
「っ、清水君のばかやろう!」
俺が真理亜ちゃん、と呼んだ白いフリルの塊は、床にその身を投げ出して、手足をばたばたさせて大声で喚いた。
彼女は俺のせいだと何度もなんども俺を責めた。その小さな瞳に涙まで浮かべている。余程ショックだったのだろう。俺は屈んで右手で、溢れた涙をそっと拭う。
「本当ごめんなさい。いやね、俺もすっごく頑張ったんだよね、でもさ、本当びっくりする位人気があって――」
「――ゆるす」
「え、マジで?」
「まじです」
「何で?」
「それは恋人だからです」
さながら先生の質問に答える優等生のようであった。滑舌は悪いが、いつもよりはスムーズに言葉が出てきた。言い終えた彼女はどこか誇らしげである。
「いやいやいや」
「何か?」
「あのさぁ、いつも言ってるけど、俺なんかやめとけって。最悪だぞ。俺が恋人なんか作ったら泣くまでかまい倒すぞ」
過去泣かせた子ども、女は数知れず。加減を知らないってやつだな。と一人自分を分析する。うん、こんなやつが恋人って正直不幸にしかならないな。なんて、なかなかの酷評。
「上等!」
「いやいや……俺の話真面目に聞いて」
「わたしはいつだって大真面目よ」
そう言ってよたつきながらも立ち上がった。フリルの服を何重にも重ねて着ているので、丸い塊のようにしか見えない。おそらくその小さな体に、かなりの重さがかかっているんだろう。動物でいうとアルマジロかな。丸みが似ている。とひとり思う。
「恋人同士はデートしなくちゃいけないんだよ? ひきこもりの君は外出たくないでしょ?」
彼女に揺さぶりをかけてみる。見事に彼女は動揺した。その証拠にバランスを崩し、ぽて、と尻餅をついた。フリルのお蔭で痛くはなかったようだけど。
「……家ですればいいじゃん、デートなんか」
「えー俺は嫌だなぁ、外ではしゃぎたいなぁ、若いから」
「わたしより六つも年上のくせに」
――その通り。
真理亜ちゃんと俺との年の差は六歳だ。現在俺は十七歳で、彼女は十一歳の小学五年生だ。自分で言うのも何だが、実に妙な組み合わせだった。
「外出よーよ? ね? 絶対楽しいからさ、絶対」
「――またその話なの清水君」
そう言うと彼女は心底つまらないと言いたげな顔をして、ぷいと再びパソコンのフリル服の画像と向き合った。
――ああ、
「清水君もういい、帰って」
――また、失敗した。
∞
部屋から追い出され階段を降りていくと、ちょうど玄関の扉が開き、背の高い男が入ってきた。勿論この家に住む人物である。
「よう、また駄目か?」
「はい先輩、駄目でした」
そう伝えると苦笑された。
目元が彼女に似た男は、彼女の兄である。俺よりも一つ年上で、かなり年が離れた兄妹であると言える。
「なんだっけ、ひきこもりなんちゃら委員会だっけ? お前んとこの大学、変な会多いよなぁ、この前なんかサムライ会とかあってさ――も、笑った笑った。……じゃなくてもうやめたら? あいつ強情だから無理じゃね?」
「……そうですかねぇ」
「え、まだ勝機あんの」
「強引なことすれば、まあ無いことも――」
「へえ。――てか、あんま外出ろとか言わなくていいぞ。言われると逆に反抗したくなる時あっから。少なくとも俺はね。あいつだって出たくなったら出るし、学校行きたくなったら行くだろうよ」
要はあんまり入って来んなということかなと推測。まあ可愛い妹だしね。兄弟がいない俺にはちょっと分かりにくい感情かな。
「ただ」
お邪魔しましたと玄関に手をかけた時、先輩は言った。
「今のあいつは、少々強引でもきっかけが必要な気もする。だから、まあ、お前に任せるわ」
「うっす」
いい兄貴じゃないか、真理亜ちゃん。
∞
「真理亜ちゃんが好きそうな服屋が近くに出来たって、行こうよ」
「……ヤダ」
最終手段である。この前これで泣かしちゃったから、封印してたのですが、やむを得ず。兄貴の許可らしきものも出たので。ごめんね。
「行かないと真理亜ちゃんのこと嫌いになるよ」
∞
ふて腐れ顔のまま、普段のフリルっ気を大分落とした格好で歩く彼女。目が赤いです。
結論から言うと泣かしました。説得に一時間かかりました。それでも服屋に到着すると目を輝かせていたので一安心。
店を出る時には機嫌も直ってきていた――けれど、
「おい、あいつ杉野じゃね?」
「うわマジだ! 何かフリフリの服着てんぞ!」
下校途中の小学生たちに出会した瞬間、表情が消えた。実はこの時間を狙った。小学校が終わり、ここを通る時間。
彼女が何らかの大きなアクションを起こすのは、ある程度予想していたが、まさか大声で叫び出すとは思いもしなかった。不審者にでも遭ったみたいだ。俺は必死に口を押さえて、小学生に話し掛けた。
「君たち真理亜……杉野真理亜ちゃんと同じクラス?」
「お、おじさん誰?」
男子と一緒に女の子がいた。そう、この子だ。おじさん呼びはまあスルーしよう。
そうだ、彼女が悲鳴を上げたことを利用しよう。
「彼女は今、悪いやつらに操られているんだ。このままだと彼女は死んでしまう」
「おじさん誰だよ!」
「おじさんはそこら辺にいるおじさんなの! ――だから彼女を助けるために一緒にいてあげてほしいんだ……」
「うそくせー」
最近のワルガキどもめ。ええい面倒くさい。と自棄になってみた。
「お前は二度と真理亜ちゃんをバカにすんな! 隣のお前は二度と服とか髪とか引っ張んな! お前もイタズラすんじゃねぇ! あとそこにいる女の子!」
俺の剣幕に小学生たちは皆、怯えた目でこちらを見てきた。元ヤンキー時代も無駄ではなかった。……だとしても近所の人にお叱りを受ける前に終わらせねば。
俺は真理亜ちゃんの背中を強く押し、その女の子の隣へ移動させた。バランスを崩した彼女を女の子が咄嗟に支えた。
「毎日彼女と学校に行ってあげてください。これが、俺からのお願いです」
ぺこりとお辞儀。そして去る。任務完了。これで俺と真理亜ちゃんとの関係終了。ああ、今回は長かったなぁ。なんて回想。
「ま、待って清水君!」
呼びかけた彼女の声に反応したのは、俺ではない。
「え、清水って俺だけど」
「え……?」
そう。名前は明かさない。任務が終われば無関係(ひきこもりの過去を思い出させないために)。これが俺らのルール。清水竜太君、ご協力ありがとう。
「待って、待って!」
駆け寄ろうとした彼女に言葉の刃を向けた。
「お前が外に出たんだ、俺の任務は完了した。もう、無関係だよ。これでフリルの服なんか見なくて済むよ」
傷つけただろう。傷ついただろう。
情けない話、俺も傷ついた。
∞
それから、フリルの店に通いつめるようになった。勿論彼女の町の店には近づかないように、大学の近くにある店を選んだ。
俺らは元ひきこもりだった。そんな俺らはその時代を後悔している。有限な時間を無駄にしてしまった。――だから、次の世代の誰かが同じ後悔をしないように、救いたい、それが俺らの共通点だった。情報は小中高の学校から直接受け取っている。年齢が近い俺たちが当たる方が、ひきこもり脱率が高いからだ。
杉野真理亜ちゃんは、友達がいないわけではなかった。ただ、趣味の違いや交友関係に悩み、ひきこもりとなった。
ただ、彼女には親友がいた。その子が真理亜ちゃんを託した女の子だ。親友が毎日家に来れば行かないわけにはいかないだろう。これがきっかけとなり、彼女は無事学校に通うようになったと聞く。
――俺は無事ではないけれど。
正直言おう、可愛かった。清水君、と呼ぶ姿が愛おしかった。フリルの団子みたいになっていた彼女を抱き締める感触が好きだった。
「恋愛かぁ」
俺には程遠いものだと思っていたのに。息をつく。虚しい気持ちだけが心の中で渦巻いていた。
あれから四年。俺はまだ彼女から抜け出せずにいた。
「きもいよー」
言い訳すれば、それほどに彼女は魅力的だったのだ。そう呟きながら、カチューシャを見つめた。彼女が欲しがっていたものだ。かなり長い間探し回ったが、ようやく手に入れることができた。彼女には会えないけれど。
店を出た。瞬間だった。
抱き留められた。細いほそい腕だった。
「みつけた、みつけた……!」
彼女は泣き笑いした。大きくなった彼女はずっと大人びてしまった。もうフリルは身につけていなかった。けれどその目元は変わらずにあって。
「もう、逃がさないから。すっごい探したから。あなたほんとに本名じゃなかったんだね、全然見つからないから、あなたの委員会を探した。でも名前は決まってないし、あんまり有名じゃないし、なかなか見つからなかった」
「う、あの、離してください」
「でもね、もう一度会って、怒鳴ってやりたかったから、必死に探した。任務完了したら無関係ってやっぱりおかしいよ。これからも会っていたいよ」
黙っていると俺が手にしていたカチューシャに気づいた。彼女は弾かれたように笑顔を浮かべて、
「何で清水く――あなたがこれを持っているの? ふふ、どうして!」
彼女はそっと俺の手からカチューシャを抜き取り、自分の頭にはめた。
「誰へのプレゼント……?」
「――恋人への」
俺は抱き締め返した。その感触もまた、残っていて少し安心した。優しい匂いがした。
∞
「フリルやめたの?」
「……あなたがフリルはうんざりだって言うから」
「そんなこと――ああ」
「忘れてたの?! 信じられない!」
「ほんとごめんね」
「…………ゆるさない!」
「えっ」
「清水君のばーか!」
「ああ、うん、それでいいや」
彼女の前では清水君。それでいい。カチューシャに飾られたフリルが、風に吹かれて揺れた。
了
キリンさんと過ごす日々「キリン」「グラス」「消火器」
僕は人形サイズのキリンを飼っている。名前はキリン。キリンにキ
リンと名付けるのは、少し安直だと思われるだろうか。
「キリン」
僕はキリンという音は、素敵だと思うけど。
僕がキリン、と名前を呼ぶと、キリンは嬉しそうにこちらへ駆け寄ってくる。会話はできないけれど、意志疎通はできる。僕らのコミュニケーション能力は長けていると言っても全く過言ではないわけだ。
「暑いね、最近」
キリンはゆっくりと体を揺らした。ゆらゆら。暑さを表現しているつもりなのだろうか。くすり、と笑うと僕の右足に突進してきた。怒らせてしまったかな。
「おいで」
と言うと、その小柄な体で僕の膝までよじ登ってきた。そんな姿はキリンと言うよりはまるで小さな子猿みたいだった。ちょっとだけ意地悪して、両足を縦に小刻みに揺らしてみた。すると振り落とされまいと、四つの足で僕の足にしがみついてきた。何だか可笑しかった。
「キリン、水はいらない?」
机に置いていた水の入ったグラスをキリンの目前にちらつかせる。喉が渇いているみたいだ、目がグラスから離れない。
「欲しいなら、行儀よくしなきゃいけないねえ」
キリンは僕の言葉に反応して、僕の太股に乗った。二本の後ろ足を器用に畳んできちんと座る。
僕はキリンの前にグラスを持ってきて傾ける。水が傾き、キリンの舌をもって体内へと入っていく。キリンの舌は不思議な色をしている。その色を眺めながら、ちくたく、と針は進む。13時。お昼の時間だ。
「そろそろご飯にしようか、キリン」
縦に頷いたキリンを抱えて、台所へと向かう。
正直僕は料理ができない。いつもならコンビニにお世話になりに行くのだが、今月は金銭的にちょっときつい。あと二日間はコンビニ弁当等は禁止だろう。生活するのは大変だ。
冷蔵庫に唯一残ったソーセージをフライパンで適当に焼いた。それを皿に移しているうちに火から目が離れた。この不注意な行動がいけなかった。
いつの間にやらキリンが自分の昼食である草を口で挟み、火であぶろうとしていたのだ。
勿論、草に火が移り、草が勢いよく燃え始めた。キリンから小さな悲鳴がしたのでそちらの方を見た瞬間、リアルに息が止まった。
「しょ、消火、消火器、いや、水!」
水道から水を手で掬い取り投げつけた。が、少量の水では消えない。
「キリン!」
ガシャン、と音がした。その音にはっとする。そうだった、キリンと一緒にグラスも持ってきていたんだった。慌てるキリンがグラスを倒し、草の上に水を溢した。結果火は消え、僕らは焼けずに済んだ。
「……次からは、キリンはダイニングで待ってな、な?」
項垂れるキリン。何だか可哀想になったので、買いだめしていた高いエサを特別に出してあげた。するとキリンは簡単に元気になったので良かった。
キリンと僕の一日はこんな風にやや穏やかに過ぎていく。
そんな日常を僕らは生きている。
ゆっくり、ゆっくり。
了
いざ酔ゑ「一輪車」「ワイシャツ」「昼食」
繰り返し映像が流れている。同じところをぐるぐる、ぐるぐると。いつ抜け出せるであろうか、友達に連れられ扉をくぐるも自分だけが抜けられない。
「ユメノセカイに来たのねあなた、いらっしゃい。どうか酔ってしまって。ずっと夢の中にいましょう、さあ、さあ」
――さあ、酔え。
∞
気付けば自分は一輪車に乗っていて、何度も転けそうになるのだけど、その度に何度もバランスを取り戻す。うまいうまいと手を叩く音がしたのでそちらに目をやると世界が変わった。
気付けば自分は誰かから昼食である弁当を受け取り、もぐもぐと咀嚼している。美味しい? と尋ねられたので美味しいと答えながら頷き隣を見ると世界が変わった。
気付けばそこは自分の部屋で、誰かが僕のワイシャツを身につけている。どう、似合う? と胸元を強調しながら問うたから、その姿をよく見ようとしたら世界が変わった。
「見てはだめ、見てはだめ、見ては」
回転する世界の中で女性の声が頭の中を廻る。ぐるぐる。声が若く
なったりしゃがれたりする。僕の姿も縮んだり大きくなったりする。
「無茶苦茶だ……」
「そうね、この世界は何もかも均整ではない。だって」
「だって?」
振り向くと、ワンピースを来た少女がいた。小首を傾げ、唇を動か
した。
「だって夢だもの」
少女と同じ背丈の僕はゆっくりと少女の方へ近寄る。少女は裸足であった。白のワンピースは膝丈までしかない。
「君、名前は何ていうの」
「十*夜――」
「え?」
一瞬、無音になった。聞き返すと少し怒らせた。
「いざよい、よ! 何度も言わせないで」
「えっと十六夜さん、君は一体誰?」
「あなたの夢に生きる人」
訳がわからないので呆然としていると、くすくすと笑われた。
「あなた、夢を見るでしょう? その時、誰かしら登場する人がいるはずよね? その人を私が担当しているの」
「すべて?」
「ええ。姿形、時には数を増やしてあなたの夢を形成する」
つまりは。
「どんな夢でも、あなたと私しかいないのよ、お分かり?」
「……じゃあ君は、僕が夢を見ない時、何をしてるの――?」
「ひとりでいる」
「ひとり?」
「そう。ずっと、ひとりでいる。だから、寂しい」
そう言って泣くから。僕は静かに少女へ告げた。
「じゃあふたりでいよう」
「……無理よ」
「何故」
「あなたは帰らなくては」
「……どこへ」
「現実へ」
現実?
「じゃあここはどこだ」
「ここは夢だと、さっきから言ってるじゃない」
「え、夢?」
記憶が曖昧だ。ばらばら、ばらばらと手のひらから落ちていくような感覚。夢。
「あなた、そろそろ帰らなくてはね」
「君は」
「私が行けるわけないじゃない。私はまたひとりよ。慣れたわ」
寂しそうに言う少女をひとりにしたくなかった。本当に。けれど体と言うより意識が、どこか上か下か右か左から、引っ張られている。帰らなくてはいけないらしい。
「また、また会いに行くよ!」
「もう、私が私だとわからないわ、あなたはきっと。だって、私の姿形は変わるから。さよならよ」
「――十六夜!」
少女はぴくりと反応した。僕はありったけの声で叫んだ。
「この名をたどって会いに行く。そうしたら、また会える。ひとりじゃないよ」
「……ばーか、起きたら忘れてるよ」
「忘れない」
忘れないから、十六夜。
「だから、そんな顔しないで十六夜」
そう言ってから、目が覚めた。
夢の記憶は曖昧であったが、少女との出会いは覚えている。
「名前、名前は……」
何だ、い、いから始まった気がする。何だった、早く思い出せ、約束しただろう――
「い、い――」
「いざよい、だろ」
同僚が上から言葉を投げてきた。そうだ。昨日は何人かの同僚と一緒に寝たのだった。
いざよい。少女の名前だ。忘れないように鞄からノートを引き出し、書きなぐった。
「お前昨日の寝言すごかったぞ。急に叫ぶから、皆起きてしまったんだよ」
「なんだ、いざよいって、何かの名前か?」
「――いざよい。彼女の名前なんだよ」
「彼女……って誰?」
「僕がこれから毎日、会いに行く女性の名前だよ」
いざよい。
了
ゲエムオーバー「うさぎ」「遊び人」「ゲームオーバー」
一、
「作家は多くを見、知り、感じねばならない。つまり作家は『遊び人』でなければいけない」
これが先生の父親である人が言ったことばであり、言い訳である。先生の父親も作家であった。が、先生とは全くの真逆の不真面目な人間であった。女の元へ走ったり、酒を浴びるように口にし、人を馬鹿にした態度を取り続けた。
「先生」
私が呼び掛けると、先生は光の無い瞳でこちらを見てきた。そこに感情はない。黒く長い前髪が光を遮っているとしか思えない、暗さ、闇。
「先生は、無理して遊びに行く必要なぞ何処にも無いのですよ」
「……んん」
何だまたその話かと言わんばかりに視線を落とした。書いたばかりの原稿を適当な封筒に突っ込み、出かける準備を整える。
――私だってこんなこと言いたくありませんよ、そう言いかけて溜息をつく。
「……またあの方の所ですか」
「――ん」
「…………わかりました、私もお供しましょう」
「いらん」
即答だった。
今まで何もかもを何となくで決めてきたはずの先生だったが、ただこの件に関してのみ、頑なになる。偏に慕情の成せる業であろう。いつもの萎えた着物を脱ぎ捨て、髪を綺麗に整えるのも。
「私は一出版者ですので、原稿は受け取らねばなりませぬ」
「あとで渡す」
「いえ、先生のあとは何年先か分かりませぬので」
「……ふん」
姿をある程度綺麗にすれば、それなりの美男子に見られるものを。
早足の先生の後を追うべく、私も走り出したのだった。
二、
そこは小さな古い家であった。先生が扉を叩くと、あの方の母親が迎え入れてくれた。
「まあ先生、いつもお世話になっております」
「いえ……こちらの方こそ」
「あの子は自室におりますよ。どうぞ会ってやって下さい」
「はい」
先生は御辞儀をしてから あの方の部屋へと向かった。雲の絵が描かれた襖の前。先生は口を開く。
「私だ、入ってもよいか」
「まあ先生? もちろんです、今開けます」
「いやいい、寝込んでいるのだろう?」
「私だって、自分で大切なお客様くらい迎えたいのですわ」
からころ、と紡がれていく明るい言葉に、先生はいつもより嬉しそうに返事をした。この時ばかりは、先生が人であることを感じることができる。
正直普段の先生は人とは思えない程に乱れている。目に生気が込もっていない。――私は普段の先生を密かに恐れてさえいる。正直なところ。
「こんにちは」
襖が開き、小柄な女性が頭を下げている。先生もそれに倣って膝をつき、頭を下げる。
「こんにちは」
三、
私も中に入れてもらい、二人の様子――というよりも原稿をじっと見つめ続けた。
「……素敵」
ぽつりと感想を漏らした女性――私があの方と呼んでいた人――は、少し頬を赤く染めて原稿をめくってゆく。
先生は出来上がった原稿を誰よりも先にこの方に見せる。つまり私は題名すらも見ていない状態なのだ。 先生の小説は面白い。巷で今最も人気な作家だと表しても過言ではない。そんな作家の小説を一早く読むことができるのだ。この方が羨ましくて仕方がない。
「……ふふっ」
「何だい」
「いいえ。ただ、おかっしくて、ふふっ」
「何処が可笑しい?」
「まあまあ、ちょっとお待ちになって」
そう言ってまた先生の世界へと戻ってしまう。が、先生は気分を害した様子もなく、何となく嬉しそうにしていた。
この方は元々病弱で、外にもあまり出ない方だった。詳しくは知らないが、ひょんなことで先生と知り合い、今に至るらしい。――訊いても何一つ教えてくれないのだ。教えてくれるのは女性の方からである。
しばらく辺りが無音になる。否、紙をめくる音だけがする。その音を先生は緩く目を閉じて静かに聞いていた。
四、
「面白かったです、先生」
その言葉を聞くなり、徹夜の体の緊張が解けたのだろう、先生はそのまま倒れてしまった。このことはいつもの事なので、予め用意してあった布団にこの方が寝かせた。
「では原稿をこちらで……」
「出版社さん」
「? はい」
「ご覧になって」
渡された原稿の中身を早く見たい欲求に駆られてペエジをめくろうとすると、言葉で制された。
「お待ちになって」
「な、何ですか」
「これ、私と先生が登場人物になっていますわ」
ちら、と中身を覗くと確かに登場人物が作家と病弱な女性となっていた。いや、だが、それが何なんだ?
「嬉しいのですか? おめでとうございます」
「違いますわ。私、告白されましたのよ」
「はあ?」
「最後のペエジですわ、お読みになって下さい」
戸惑った。が、女性の顔が鬼気迫るものだったので、致し方なく言われた通りに最後の部分のみを読んだ。
『作家は女に言つた。
【私は貴女の為ならば、死んでしまつても良ゐのです。】
女は何も言わずにゐた。 作家も何も言わずにゐた。
……女の答えは書いた私でさゑ見つからぬ。』
なるほど、と思った。小説の中で思いを告げる。先生らしいやり方だと思った。
「感心している場合ではないのです! 嗚呼、嗚呼、私は何とお返事すれば良いのでしょう!」
「貴女様のお気持ちは?」
訊くと、この方はぶす、と顔をしかめて、
「乙女の気持ちを訊くとは何と無粋な」
と叱られた。確かにそうだと項垂れていると、ぎっと睨みつけられた。その目は微かに潤んでいた。
「……そんな無粋なお方にお尋ねするのは非常に不服ですが、貴方は私よりもずっと聡いのでしょう。――……気の利いたよいお返事をお考えなさい」
思わず笑みを浮かべると「笑ってはなりません!」と一喝された。
五、
先に帰った振りをして、夜の散歩に出た二人の後をつける。
「――夜の空気は夏と言えど、冷たいもので――」
「ええ――」
会話が聞き取りにくいので、少し近寄る。二人ともこの暗闇の中でも手に取るように分かる程、緊張し、顔を赤くしているのがわかる。
「ご覧になって先生、月にうさぎが出ております」
「おや、見事なものだ」
「先生は少し、うさぎに似ていらっしゃいます」
「何と。何処がだい」
「寂しがり屋なところですわ」
ふふ、と品よく二人は笑いあって、見つめ合った。
「――先生」
「何だい」
瞳を逸らさず、あの方は言った。
「月が綺麗ですね」
私は踵を返し、出版社へと帰ってゆく。
ゲエムオーバー。これ以上のことは、野暮というものであろう。――。
了
case-by-case「原っぱ」「皇帝」「作家」
原っぱに男がいた。その男は金色で彩られた洋服を身に付けていた。
顔つきは明らかに日本人ではない。纏う厳かな雰囲気に過ぎ行く人々は避けるようにしていく。
男の隣には、こちらは日本人の男がいた。が、どうも動揺している様子であった。
「あの……」
意を決して日本人の男は尋ねた。
「あの、どちら様ですか……?」
彫りの深い顔で外国人の男はじっと凝視してきた。たじろぐ日本人の男は、もしかして言葉が通じないのかと危惧したが、杞憂であった。
「私は、ローマ帝国の皇帝であるカルニウス=ウル=シリアヌスだ」
が、とんでもない人物に話しかけてしまったと日本人の男は頭を抱えた。
「そなたは何という名なのだ」
「――田中、ですけど」
「タナカか、妙な名だな」
田中は、高校時代の世界史の授業を必死に思い出そうとした。――たしかローマ帝国というのは、古代のイタリア辺りで出来た国の名前ではなかったろうか――。ではこの皇帝と名乗る男はタイムスリップでもしてきたというのか。田中は苦笑した。まさか、まさか。
「――ほんとにローマから来たんですか?」
「来た」
「――……えっと、証拠は?」
「我が身すべてが証拠だ」
「ば、馬鹿にしてるのか?!」
「いつ私がそんなことをしたというのだ」
ぎっと睨まれ、田中は渋々腰を落ち着けた。
(でも、俺がここで気分転換してたら急に出てきたんだもんな――もしかして本物――? ――いやいやまさかそんな)
と、田中が色々と考えていると、皇帝は深い溜め息をついた。
「ど、どうしたですか」
「平和な世だ。ここならば、戦はないのだろう? 兵士もおらぬ」
「……いや、戦争なんかしたら憲法に反しちゃいますから――」
「ここならば、作家となることも、可能であったろうになぁ」
皇帝の口から意外な単語が出てきた。田中は不思議に思って、皇帝に問いかけてみた。
「作家になりたかったんですか? 皇帝なのに?」
「――皆が皆、望んで皇帝になるわけではあるまいよ……」
そう言って俯いたので、田中は気が引けたものの好奇心を抑えられず、気づいた時には疑問を口にしていた。
「どういうことですか? あなた方の時代は誰もが皇帝になりたかったんでしょう? なのに作家? ――というか、別に皇帝でも物書きになれるでしょ? カエサル――だっけ? あの人も自伝? 覚書? ……みたいなの書いてるし、不可能じゃないでしょ?」
「それでも皇帝の位に居る者がペンを握ることのできる時間がどれ程あるだろうか?」
一息ついてから、皇帝は語った。
「幼少の頃から父に皇帝としての振る舞い、考え方、戦い方を教わってきた。が、私は、本当は、作家になりたかった。本を文字を読むことはとても心踊ることだった。自分も書いてみたい、そう思った。だから、夜な夜な隠れて物語を書いた。――が、気づいた父にすべて私の目の前で破り燃やした。それ以来、私はペンを握ることさえ許されない」
「そんな……」
「――タナカ、お前、やりたいことはないのか」
急に呼ばれて田中は驚いた。けれど真っ直ぐ見つめてくる皇帝の目に促され、ゆっくり、ゆっくりと自分を語った。
「ありますよ。ガキん時からの夢。何度か諦めたんですけど、まだ、捨てられなくって、ずっと抱えてます」
「それは何だ?」
「作詞家、です」
「サクシカ?」
「えっと、詩を歌につける人のこと、です。――昔、親とめちゃくちゃに喧嘩したことあって、そん時に『お前なんかいらない子供だ』なんて言われちゃって。当時馬鹿だったから、俺、親にありったけの悪口浴びせて家出ていったんです。それで、コンビニ行って食料確保してから、遠くに行こうって思って。そうしたら、コンビニで音楽がかかってたんですけど、歌詞がもろに、俺と同じ気持ちで。あ、故郷を離れる人を描いた歌詞だったんですけど、不満とか悔しさとか、全く一緒で。しばらく聞き入ってたら、なんか、その歌詞で出ている人は、故郷離れるのやめちゃうんですよ、何でだよ! って思ったんですけど、なんかね、色んな気持ちを取り除いたら、故郷を故郷の人を恋しく思う気持ちが残ったんですって。馬鹿でしょ。でも、それがきっかけで、俺も馬鹿らしくなっちゃって、家帰って謝りました」
力なく笑う田中。そして続けた。
「最初は分かんなかったんですけど……しばらくしてから、その歌詞の気持ち、何となくわかってきて。だから自分も作詞家になりたくて努力したんですけど、そりゃあちょっとは売れたんですけど、才能なくて、はは」
言い終えると、皇帝は立ち上がった。田中も思わず立ち上がる。
「そなた、誤ったな」
「え?」
「私から、そなたへこの言葉を送ろう。私の経験から実感したことだ」
「……はあ」
「他人はまだ分かる。が、自分で自分に限界を作らない方が良い。悪い意味でも良い意味でもだ」
首を傾げる田中に、皇帝は笑いかけた。
「才能も自分の作ったものも幸せも、終わりを決めない方がいい。終わりは死をもってやって来る。仮の終わりなぞに意味はないはずだ」
そう言って皇帝の姿は消えた。田中は一人呆然とその場に立っていた。
ただ、胸を強く燻る何かは、感じていた。
∞
「どうでした、もう一人の皇帝は」
ベッドの近くに立つまじない師に、皇帝は答えた。
「どの時代も、悩みは尽きないものよ」
「そうですよ。だから、あなたがローマに生まれ、皇帝の位置にいる場合でも、もう一人のあなたが見知らぬ国で生活している場合でも、結局は悩みながら生き、死ぬのです。それが人です」
「――たしかに、たしかに」
けれど、だからこそ、死ぬまでに死ぬほど抗ってみたくなるではないか。
皇帝は口角を上げて命じた。
「紙と何か書くものを」
そうして人は抗い続ける。死が訪れ、終わるまで。
了
みぞれ味「みぞれ」「暗示」「リボン」
溝口桜はかき氷を注文する時、決まってみぞれ味を選ぶ。
その日は、全国でわりと有名な祭りが行われていた。桜は高校の友達に連れられてぶらぶらと歩き回っていた。が、元々人付き合いが苦手である桜にとっては、それは耐え難い苦痛であった。
(大体が私はお祭りなんて行きたくなかったのに……何も楽しくないじゃない、学校でたまに喋るくらいなのに、正直、疲れる)
他の女子高生にとってはお祭りというイベント事は何がなんでも参加しなければ、と思うのだろうが、桜は違った。いつ別れを切り出そうかと、悩んでいた時であった。
「ね、暑くない? 私さ、ちょっとかき氷食べたいんだけど」
「あ、私も!」
「桜ちゃんも食べるよね?」
「え、あ……うん」
その場の雰囲気にのまれてかき氷を購入する。ああ、こんなものに金を払わずとも――。今月出る漫画に費やした方が――。そんな考えが浮かんでは消えた。
別れを切り出すチャンスが変わった形で訪れた。
「私はいちご!」
「じゃあ私もそれで」
「皆いちごでいいよね?」
「――私、みぞれで」
手を小さく挙げながら発言すると、結構なブーイングをくらった。
「えーみぞれぇ? 皆揃っていちごでいいじゃん」
「なんだかおばばだね、桜ちゃん」
「あれ、いちご嫌いなの?」
むっとして、一人かき氷の列に並び、みぞれ味を注文し、適当な場所に腰かけた。慌てた友達たちが桜を追いかけてきた。
「ね、なんで先行っちゃうのー? いちご嫌いなのー? あ、もしかして食べられないの?」
(どうでもいいじゃん!)
私がいちご食おうがみぞれ食おうが私の勝手! なんで皆は人と揃えるのが好きなんだろ。そんなことを他には聞こえない音量呟きながら、私は頭を抱え、理由を述べた。
「くちびる」
「え?」
「くちびる真っ赤になって化け物みたいになるじゃん!」
そういうのが苦手なの、放っておいて。
早口に伝えると、皆が「そんなに怒んなくてもいいじゃん!」と声を上げた。別にあなたたちと喧嘩したいわけじゃないから。だから、また早口に
「私食べるの遅いから一人にしといて。これ食べたら帰るから、皆で楽しんできてよ」
まだ腹の虫が収まらない子がいたが、友達に促され、桜の前を去った。桜はストローの先をスプーンのように広げたもので氷の山をつついた。口に入れると、当然だが冷たかった。
「さーくら」
その声に思わず反応する。まるで暗示にかかったかのように動けない。
どうにも動じない桜を正面から覗き込んだのは、桜と同い年くらいの少年だった。
「無反応?」
「三木……」
「誠二君だろ、桜ちゃん?」
「何であんたがいんの――」
誠二と呼ぶ少年はにんまりと笑顔を作った。
「さっきの見てたぜ? かき氷ごときで喧嘩すんだな、お前。おめでてーやつ」
「うっさい」
「……仲直りしてこいよ、友達なんだろ」
「何であんたが絡むの? 私の勝手じゃない、皆、皆どうして――。……もう、ほんと放っておいてよ!」
「お前見てると、幼なじみのよしみで放っておきたくねーんだよ」
ばーか。
そう言われて桜は思わず黙った。桜と誠二は、小学校からの幼なじ
みだった。一緒に帰ったりもしていた。が、高校はお互いの志望校が
異なり、別々となった。
「てか、かき氷のいちごの話、まだ根に持ってんのかよ、はは」
「笑うな」
「なあ、それって小学校の時だよな? お前がいちご味食ってて、化け物みたいだなあ、って大笑いして、お前ぶち切れ。だよな?」「そーだよ、嫌だったの」
半ば自棄になって口を尖らせ肯定すると、ぽん、と頭を撫でられた。
その後、かき氷を一口奪われた。
「ごめんなぁ。もういちご食っても、そんなこと言わねーからさ。謝ってこいって」
頷かない桜を見兼ねて、誠二は彼女に一本の赤いリボンを握らせた。
「これ、やるよ。彼女の千切れたリボンなんだけどさ。綺麗だろ? だから、行ってこい」
「――なにそれ強引」
「頼むから」
「わかった」
立ち上がり、桜はまだ半分も残っているかき氷を誠二に押し付けた。あんたが勝手に食べたから、とこじつけて。
「じゃあね」
何も言わせず走り出した。桜は素直に友達のあとを追いかけ、謝った。友達たちも許してくれた。変なことで喧嘩しちゃったね、なんて笑って。そんなことが色々あったからだろうか、早く帰りたかった気持ちも消え、どうでもよくなっていった。
「え! 桜ちゃんどうしたの?! 辛い? しんどいの?」
慌てる友達に、桜はぽつりと答えた。
「失恋」
透明な涙は、みぞれのシロップみたいに融けて、見えなくなればいい。
了
春箱「春」「箱」「幼女」
彼女はとりわけ春を愛していました。だから、彼女はいつも春を探しました。
――春は色んなものに属する。――
これが彼女の持論で、辺り構わず花や木くずや壊れた時計なんかを集めて、まとめてそれらを一つの箱に詰めて満足するのです。
それらはただのガラクダでしかなかったのですが、次第に不思議な力を持つようになりました。
彼女はそれに、いち早く気づいて、それらを自分の内で独り占めするのではなく、たくさんの人たちに分けてあげようと思いました――。
□
あるところに、次の仕事の計画を任された大人がいました。
「春をわけてあげましょう」
手に載せられた小さな車のおもちゃは、無慈悲にも大人の手によって叩き落とされました。
「ばか言っちゃいけない。私に春など来ないよ」
そういって頭を抱えました。
□
あるところに、いつになっても訪れない恋人を待つ女性がいました。
「春をわけてあげましょう」
手渡したてんとう虫の死骸が、女性の手によって悲鳴とともに捨てられました。
「あなたふざけてんじゃないわよ! 私は忙しいの! 嫌だわもう、手が汚れちゃったじゃない。彼がもうすぐ来るっていうのに!」
そう叫んで彼女をぶちました。
□
あるところに物乞いがいました。
「あなたに春をわけてあげましょう」
手渡したタンポポの花を、物乞いは少し不満げに受け取りました。
「もっと好いのがよかったなあ」
そう言って、そのタンポポを口に含みました。咀嚼して、言いました。
「ありがとよ」
□
「あなたに春をわけてあげましょう」
手渡した四つ葉のクローバーは、小さな男の子の手でぎゅっと握られました。
「ありがとう」
「いいえ」
男の子はそっと彼女の赤く腫れた頬に触れました。
「痛い?」
「ええ、まあ、少し」
「君は、春はどこにでも属する、と言ったね。だから、形を問わず、色々な人に分け与えたね。でもそれは間違いだったんだよ。
君は、誰に対しても全く同じ量の春を与えたつもりだろうけれど、他人からすればそんなのわからないんだよ。君が何の思いをどれほど込めてプレゼントしたのかなんて、気にも留めないのさ。――つまり君は、誰しもが喜ぶ器を用意して、そこに春を注げばよかったのさ」
でも、と彼女は首を振った。
「そんな風にしては、春が一つの場所にしか居られなくなるわ。春は、どこにでも在るべきものだもの。私が制限するなんてこと、できないわ」
「なら、それぞれの人が望んでいる形を、それぞれ作って渡せばいい」
「簡単に言ってくれるわね」
「ああ。無理に誰かに渡す必要はないと、ぼくは思うからね」
「やめないわ。私が決めたことだもの。――それで、あなたが望む形を教えて? あなたに春をわけてあげましょう。さあ」
男の子は、「じゃあ」と呟いて彼女をやんわりと抱き締めた。四つ葉のクローバーを彼女の持つ箱に返して。
「春はどこにでも属するんだろう? 勿論、君の中にも」
「――あなた意外と、ろまんちすと、なのね」
彼女の問いかけに、男の子は笑った。
「いんや、ぼくは行動派さ。まずは、君をぶった女性から、謝ってもらおうかな」
了
桜より薔薇「桜」「太陽」「薔薇」
*
彼女は、花が好きだった。その中でも一等、桜の花が好きだった。その愛情の深さにはさすがのぼくでさえ、驚かされた。
明るい黄の色をした草原を、ぼくらは暇さえあれば散歩した。そこを吹く風は心地よかった。風に揺られる花々を彼女は愛おしそうに撫でて歩いた。花々の近くを飛ぶ虹色の蝶たちは、優雅に宙を舞っている。この不思議な世界は、ぼくにとっても彼女にとってもお気に入りの場所であった。そしてそこで見かける一本の樹の前で、彼女は必ず足を止めて仰ぎ見るのだった。優美な桜の花の前で。
「なれるものならわたし、桜になりたいわ」
彼女はよくこう言って笑った。その口元は確かにいつも緩んでいたけれど、その目はいつだってまっすぐ、真剣だった。ぼくは何故そんなにも桜が好きなのかと尋ねる。すると彼女は何度でも、桜という花のすばらしさを語って聞かせてくれるのだった。彼女は普段はとても、おとなしい落ち着いた女性だった。だから、ぼくとしては、桜の話になると熱心に舌を動かす彼女の姿を見るのが、とても楽しかった。彼女としてはぼくにもその魅力を理解してもらいたかったようだが、どうにも花というものに興味が湧かなかった。どちらかといえば、花よりもそれに群がる虫たちの方がよっぽど面白かった。
なれるものなら桜になりたい。
この言葉は現実のものになろうとしていた。彼女は奇病にかかった。それも、この世にたった一人しかかからないだろう病だった。
「太陽の光を浴びると、そこからじわじわと少しずつ、人間の体から植物の体へと変化していきます」
一瞬、医者の脳みそが爆発でもして、まともにものが考えられず、狂い始めたのかと思った。本気でそう思った。同じ文句を繰り返した時、ふざけるなと殴りかかろうとした。その手は途中何者かの手によって遮られた。
「やめて。きっとそうなんだって、思ってたから」
短い言葉だった。その顔に喜びの色が少しでも見えたなら、ぼくは彼女にだって手を上げるつもりだった。けれど、その表情を知ることはできなかった。彼女はただ俯いていた。包帯でぐるぐる巻きになっている右腕。包帯を押し上げるように、緑色の何かが見えていた。ぼくはたまらず叫んだ。
――それから、ぼくは旅に出ることにした。こんな病なんかに、彼女を奪われるわけにはいかなかった。この病を治すための何かを、解決策を必死になって探し始めた。
もしかすると、彼女はぼくが知らないだけで、このことを喜んでいるかもしれなかった。確かに、普段から口にしていた望みどおり、自分の体は花を咲かせる植物のようになってしまうのだから、嬉しいことなのかもしれない。――けれど、もし、そのことを望んでいなかったら? あんなこと言うんじゃなかったと後悔しているとしたら? ぼくは堪えられなかった。彼女の言葉はどんなに真剣なものだったとしても、それは叶えられるはずもない望みであるからこそ、望むわけであって、実際にそうなってしまうなんて、考えてもいなかったのではないか。つまり羨望の意をもって、そう言ったのではないかと、ぼくは思うわけだった。たとえば詩人が「鳥になって空を飛びたい」と書いたとしても、それはきっと本心ではないのだ。いざ、鳥と人間とを選択できる権利をもらったとしても、人間が人間である限り、彼らは人間を選択するだろう。そう思うのだ。
しかし、ぼくの旅はまったくの無駄に終わってしまう。十年、経った頃、彼女は完全に植物と成り変わってしまったのだ。人づてに伝え聞いた話だった。だから、それは嘘だと拒み続けた。続けてみせても、真実は変わってはくれない。どうか、真実が嘘であってくれと、望んでみたが、無駄だと心の底ではわかっていた。
実際ぼくは逃げたのだ。彼女の姿がみるみる植物へと変わっていくのを、見ていられなかったのだ。
彼女はその日からすぐ入院した。そして、日光が入らないように遮光のカーテンをして、電気の灯かりなら大丈夫みたいなので、光源はすべてそれにして、彼女を外へ一歩も出さないようにした。
「厳重な牢獄」
彼女は怒りを言葉尻に散りばめながら、そう形容した。彼女にとって外に出られないというのは、――何より桜の樹を見ることができないというのは――、生きていないことと等しい意味を持っているようだった。彼女は何度も外へ出ようとした。その度、ぼくや医者や看護婦などが交代になって彼女を押し留めた。そのうち、彼女は身に受けた日光によって植物化していき、自由に動けなくなっていった。
「見て」
車椅子に乗った彼女は、力なく笑った。その笑みは、嬉しくてたまらないのを堪えているようにも、悲しみのあまり元気を喪失してしまったようにも思えた。ぼくは言われるがままに彼女の左腕を見た。指は茶色く変色し、腕は太い幹のようになってしまっていた。――植物そのものだった。ぼくはすぐさま目を逸らした。とても見ていられたものじゃなかった。
「あのね、」
彼女はすっと右足を晒した。腕よりはまだ植物化が進んでいなかったが、どこか肌の色が緑に変わってきているようにも思えた。
「これ、わたしがなりたい植物になれるみたいなの。右腕と左腕は桜の一部分なんだけど、足はね、ちょっと色が違うでしょ? 違う植物を想像してるから、ちょっと違うの。ねえ、わたし何になりたいって思ってると思う?」
「そんなの、知りたくもないね」
切って捨てるように吐いた言葉を、彼女はどこか寂しそうに聞いていた。
「わたしが話せるうちに、色々話しておきたいと思うのに」
そう呟いた声が、頼りなくて、たまらなくって、逃げ出した。
今になって、このことを後悔する。
彼女は、ぼくが旅立った日、病室から逃げ出した。
*
「はあ……はあ……」
ぼくは今、ひとつの確信を胸に、ある場所へと向かっている。何故、思いつかなかったのだろう。彼女が行きそうな場所。彼女の家、両親の家、ぼくの家。思いつくままにぼくは放浪した。植物となったとしても、彼女はまだ生きている。ぼくは彼女に久しぶりに会いたいと思った。それだけだった。
広がる野原に、ぼくは眩しささえ覚えた。太陽の光がぼくの身を貫かんばかりに射し込んだ。ずっと昔のぼくならば、そのことに喜びを感じたはずなのに、今はただうっとうしく思った。彼女の姿を眩ませているようにも思えた。
ぼくは走って、周りの植物たちを一瞥することもなく、一心不乱にあの場所へ向かっていった。
「桜が……」
ぼくはその場に立ち尽くした。あの大きな桜の樹はどこにもなかった! 切り倒されていたのだ。あるのは切り株だけ。それが彼女なのか、彼女が愛した樹だったのか、ぼくにはわからない。でも、でももし彼女だったとしたら……?
放心するぼくの肩を叩く者がいた。ぼくははっとして振り返る。腰の曲がった老人だった。ぼくは苛立ちまじりに、何か用ですかと尋ねた。すると、老人は口を開いた。
「桜はね、切ってしまったんだ。病気だったから。……わたしはよく君たちのこともよく知っていた。君と一緒にいたお嬢さん――彼女が一番にこの桜の異変に気づいたんだよ。それを皆に伝えたのも彼女だ。この桜は彼女のお蔭で死なずに済んだ。一から枝を伸ばさなきゃならなくなったが、生きている。長いこと生きていたから、もう命の終わりかと思っていたが、いや、救われたからにはもっと生きていたいと思うねえ。――ここを愛するすべての人たちが感謝している。と、そう彼女に伝えておくれ」
「……でもぼくは、彼女がどこにいるのか、もうわかりません」
「どうして」
「だって彼女はもう――」
老人は不思議そうな顔をした。そして指差した。
「そこにいるじゃないか」
ぼくは振り返った。そこには、彼の言うとおり、彼女の姿があった。微笑んでいる。髪が、風に揺れていて変わらず美しかった。その頼りない実像を見て、ぼくは彼に何か言おうとして、はっとした。彼の姿はもうなかった。一瞬のうちに消えてしまっていたのだ。再び彼女と向き合うと、彼女もやはり消えかかっていた。
「もう、帰ってこないと思ってた」
彼女は言った。
「まさか」
ぼくは言った。そんなこと少しも思ってないくせにと言った。彼女はまた笑った。ちょっとは思ってた。彼女は少し嬉しそうだった。
「桜になるの、やめたの。でも、諦められなくってつい、桜の近くにいることに決めちゃったの。いっぱい探した?」
「うん」
「あなたに伝えたいことがあったの。だから、この桜に頼んで、あなたと話す時間、もらったの」
「うん」
「でもごめんね、言いたいこと、たくさんあったんだけど、何もいえなくなっちゃった」
「……うん」
「ねえ、あなた、わたしがどうして桜を止めたかわかる?」
「きっと、……わかると思う」
彼女は今度こそ満面に笑った。花が咲くような笑みだった。
*
「ここにいたんだね」
ぼくはゆっくりと桜の切り株の裏へ移動した。
そこには、一輪の薔薇が、咲いていた。赤い薔薇だった。燃えるような紅だった。その赤が、濃くあれば濃くあるほど、彼女の思いが深くあることを示していた。
「ぼくの隣で、長く咲いていてくれるんだろ」
頷く代わりに風に揺れて、ぼくの手に花弁をすり寄せたのだった。
了
作詞家の詩「作詞」「犬」「洋服」
♪
時は明治。帝国大学の級友にとある依頼を申し込まれた。一度は断ったものの級友がしつこく食い下がってくるので、やむを得ず引き受けた。
待ち合わせ場所である××という店の前。僕は洒落っ気のない、よれよれの着物を召して、待ち合わせ時刻の三十分前から待っていた。
しかし、二十分、五分、待ち合わせの時間から一時間経っても、一向に待ち人が現れる気配が無かった。私は苛立ちを持て余して、思わず舌打ちを漏らした。貴重な休日を潰してまでやって来ているのに、まして、ものを頼んできたのはあちらの方なのに、相手が遅れてくるとはどういう了見だ? 寒さが忍び寄る初寒、息を吐くと白かった。対して手袋もしていない両手は、すっかり赤らんでしまっていた。僕はもう一度舌打ちをする。今日は家でゆっくり読書でもして過ごす予定だったのに。無駄な時間を過ごしてしまったと、その場を去ろうとした時、
「おーい!」
声が聞こえた。僕はこの怒りを思い切りぶつけてやろうと、声の主を鋭い視線で探す。人ごみの中、僕の姿を見つめているのはたった一人だった。――が、その人物を認めたくなかった。
僕を呼ぶ男は、この時代、この日本国ではえらく目立つ格好をした男だった。人々の注目は、男に集まっており、やがて、男が呼びかける僕の方へと集中していった。僕は赤面する。そのまま逃げてやろうかと思ったが、相手が近づいてくる方が速かった。
男は真っ黒のシルクハットと、スウツと、高価そうな革靴を履いていた。それは、服装だけは立派な西洋人だが、いかんせん鼻が低く丸く、唇も薄く、目の色も真っ黒の、誰が見ても東洋人としか認められないものであった。
「やあ、初めまして。花宮くんだよね。津村くんから教えてもらった通りで、すぐわかったよ。文学かぶれしてて、元気なさそうって」
「いや僕のことは――」
「まあまあ、今日一日世話になるんだ。君とはぜひ、仲良くなりたいね」
拍子抜けだ。
「……じゃあ、行きますか」
促すと、男は嬉しそうについて来た。
「私のことは、滝野でいいよ」
「はあ」
隣に立つだけでも恥ずかしくて死ぬかと思った。このまま、とんずらしてしまおうかと何度も思った。そういえば、家に読みかけの本があったっけ。――。
♪
津村は僕の前で両手を合わせた。
「頼む、花宮! 僕の友人がね、この街について色々と知りたいことがあるから、案内してくれと言っていてね、どうか君、頼まれてくれないか? 僕がすればいいんだろうけど、見ての通り、たまった宿題を片付けるのに忙しいからね……。そんな余裕がないんだ、頼むよ」
「断る」
「なぜ」
「僕に利がない」
「……でたよ、花宮の損得勘定。そんなんで生きてて楽しいか? この世は損得で出来てる、だっけ? 持ち前の持論はすばらしいと思うけど、困ってる友人の前では披露しないことをおすすめするよ。友だち大事にしないと損だぜ。――そして、今回の件はお前にとって、とてつもなく利があるんだよ」
「どんな?」
「まあそれは、会ってからのお楽しみだ。そいつはちょいと変わっているとこがあるが、まあ、悪い奴じゃないんだよ。目立つやつだから、きっとすぐわかるよ。待ち合わせについては、またあとで連絡するからな」
そういって、風の如く去って行った津村を見て、私ははっと気づく。
「また言いくるめられた……」
ここで逃げては、約束を果たさなかったというレッテルが貼られてしまうだろう。しかし、僕に利があるとはどういう意味だろう――。
そんなことを考えて、今日を迎えたわけだが。
「花宮くん! ここはなんというところだい!」
「××です」
「そうか、じゃあここは?」
「そこは×××で、隣は××です。ここでは××××とかが有名で」
「へえ!」
なんだこのはしゃぎっぷりは。僕とそう年齢も変わらないはずなのに。しかもその格好で。道行く先々で目を引き、時たまに声も掛けられ、からかわれる。が、そんなこと気にも掛けず、滝野は次から次へと質問をぶつけてくる。それに律儀に答えている僕もどうもお笑いのようだが、まあ、性格なのだから仕方がない。引き受けたことは最後までやろう、そう覚悟を決めて、滝野を一瞥しようとして、気づく。
「いない……!」
急いで辺りを見渡すと、公園にあったベンチに腰かけて、何やらごそついていた。僕はすぐに彼の元に駆け寄ると、滝野は顔をあげて笑った。
「ここはいいとこだね。君はここ出身かい?」
「ええ、まあ」
「すてきだ」
彼は何やら書き込んでいるようだった。僕は、気になってどうしようか逡巡してから、そっと忍び見た。そこには、予想よりも遥かに品のある、丁寧な字で文字が書かれていた。何を書いているのかまでは見えなかったが、右下に小さく名前がサインしてあるのを見て、はっとした。
「君は、知ってるかな」
滝野は、ゆっくりと微笑んだ。
「私、滝野光源。一応、名のある作詞家なんだけど」
知ってるも何も、僕が誰よりも何よりも尊敬してやまない人じゃないか。
♪
それから様々な場所を歩き回って、気が済んだのか滝野先生は、感謝の意を述べて帰ろうとしたので、何もおかまいもせずに帰してしまうのは、あまりにも勿体ない、ことだったので、強引にも家に連れ帰った。扉を開けると、僕の声が聞こえたのか、家で飼ってる犬が玄関でお座りして待っていた。
「こらワン、どかないか、先生がいらしたんだよ」
やや興奮した口調でワンをどかせると、先生を部屋へ通した。
「はは、先生か。いいなそれ」
「先ほどは、なんだか色々とご無礼を――」
「いいよ慣れてる」
こんな格好だからね、笑う先生は少し寂しそうに見えた。
僕がお茶を入れて戻ってくると、先生はワンと戯れていた。前足を掴まれたワンは後ろ足で立ち、先生を笑わせていた。無邪気な人だと思った。
「この子は、人懐っこい子だね」
「そうなんです。友達から貰った子でして」
「うん、いい子だ」
ワンをひとしきり撫で回した後、ここで創作活動をしてもいいかと問われたので、ぜひともと答えた。先生は静かに書き始めた。西洋で作られたペン、というものを使っていた。これは便利でいいんだよ、そう嬉しそうに教えてくれた。
僕は自分がどれほど先生を慕っているかを伝えようとして、失敗した。どれもこれも、陳腐な表現としか思えなかった。言葉で伝えることはもう無理だとさえ思った。だから黙って、先生の動きを食い入るように見つめていた。先生は少し苦笑したが、またペンを動かし始めた。
「私の詩は、どうかな」
おもむろに聞かれて、僕は戸惑ってしまった。しどろもどろになって、でも、何か答えなくては、自分の思いをできるだけ相手に伝えなくてはと思うと、余計と滑稽になってしまって、しまいには何と答えたのか忘れてしまった。
けれども、先生が満足そうに頷いていたのは、ちゃんと覚えている。
「できたよ。君にあげよう」
そう言って、先生は僕にそれを手渡した。僕はそれを落とせば壊れてしまう高価なガラス細工を受け取るかのように受け取った。そして食らいつくように目を通していく。あまりに興奮してしまって手が震える。
次のペエジへ移ろうとして、失敗した。僕はその一枚を落としてしまったのだ。その上を、ワンの足が踏んでいった。
「ああああ……ッ!」
僕は絶叫した。ワンをすぐさまどかせて、その紙をすぐさま拾った。しかし時すでに遅く、そこにはしっかりと犬の足跡が刻まれていた。
私はこれによって、自分の先生への愛情が浅はかなように思われてしまうのではないかと危惧し、申し訳なさでいっぱいになって赤面した。正直、泣いてしまいそうだった。僕は自分と心の中で、ワンを大声で叱咤した。そして先生にできる限りの謝罪をした。
すると、先生は今日一番楽しそうにした。声高に笑い出したのだ。私はさらに赤面する。謝ることさえできなかった。
「いや、いいね。実にいい」
先生は浮かんできた涙を拭いながら、僕と目を合わせて言った。その目はもう、可笑しさは浮かんでいなく、ただ真剣な眼差しがあった。僕は思わず身構える。
「犬にとっちゃ、いや、犬だけではない、鳥や猫や、羽虫だってそうだ、彼らにとっては、この紙は、ただの紙切れであって、ただむちゃくちゃにインクがついているごみくずだ」
僕は最初自分を詰っているのだと思った。しかし、先生の目は自愛にあふれていた。
「でも。人にとっては、ある人にとっては、とても大切なものになり得るものかもしれない。君のようにね、こんなインクの散った紙を、宝石のように大切にしてくれる人もいる。人間だけだ。人間だけだろう、文字を追いかけ、夢想にふけるのは。感動し、涙するのは」
「……はあ」
「彼らもまた、彼らの感動があるんだろうけれどね。これは私たち人間の特権だと、そう思わないかい? 鳥には飛ぶ特権が、猫には日向に寝転ぶ特権が、魚には泳ぐ権利が。そして人間には、文学を楽しむ特権が。私はこれに音をつけてもらって初めて完成なわけだが。はは、いや、しゃべりすぎたね」
「いいえ……。勉強に、なりました」
そうして先生は帰って行った。僕は、何度も礼と謝罪を繰り返した。
先生は最後に、
「もしよかったら、その詩に、君が音をつけてみないかい? 津村くんから聞いたが、音楽を独学で勉強しているんだろう? 今度聞かせておくれよ」
と言って去って行った。
僕は色々なものが胸の中で渦巻いて、そのまま息をついた。素敵な人だった。少し――いや、かなり可笑しな人だったけれど、いい人だった。津村には礼を言わねばならないと思った。
それから一服してから、先生の詩に改めて目を通した。
それは、こちらが照れてしまうほどに、まっすぐと女性に思いを告げる、愛の詩だった。けれど、まっすぐだった。自分の思いを曲げたり、飾ったりしない、まっすぐな言葉だった。
まるで先生自身を見ているようだと、少し偉そうなことを思った。
了
三題噺 夢を見ていた @orangebbk
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