冠
夢を見ていた
第1話
かの黄金の冠を誰知るまいとこっそりかぶって鏡にむかい、にっとひとりで笑っただけの罪、けれども神はゆるさなかった。
――『二十世紀旗手』 太宰治
●
魔が差した、と言うべきなんだろう。
そんなにおおきくはない国の王子だった。王子といっても、順番で言えば五番目に生まれた子どもであって、結局この位というのはお飾りでしかなかった。国を継ぐことなど天変地異が起こってもまず実現しなさそうなそんな立ち位置。それでも
特別これといった特技もない。人を惹きつける魅力もなければ、勉学も突出して優秀なわけでもなく、剣術も決してうまいとは言えない。
いわば中途半端の塊であった。上の兄たちはぼくを空気のように扱った。弟も何人かいたが、ぼくとは違い、人より秀でた部分が数多くあったため、父親の国王や兄たちからも可愛がられた。弟たちは次第にぼくを見下すようになっていった。国王はいつからぼくを見なくなっただろう。どうやら彼にはぼくを血の分けた子どもだと認めてもらえないらしい。
いつもぼくだけが、出来損ないと見なされた。
この世界では、「少しできる」は、「できない」という意味であって、「できる」とみなされるには、「他の人が及びもつかない」高みまでのぼりつめる必要があるのだ。中途半端は、無能の代名詞ですらあったのだ。
蚊帳の外を生きることに不満を感じなかったといえば当然うそだ。やり切れなさに何度唇を噛み切ったかは知れない。何度拳を握りしめたか知れない。ぼくだって心ある人間なのだ。他人から自分の存在が殺されるたび、声の出ない悲鳴を上げて、痛みを堪えているのだ。
見返してやろうと思わないはずがなかった。それでも、今もなお、息を潜めて生きているのは、自分の実力を伸ばす前に、自信が足元から崩れ落ちてしまうから。どうしたって兄弟たちに敵う気がしない。彼らを差し置いて、自らの体いっぱいに賞賛を受けるヴィジョンが浮かばなかった。失敗作。召使たちがこそこそと宮廷の隅っこでぼくを見て口にした。その通りだと納得した。怒りは感じなかった。納得した自分にすら、である。その頃からぼくは諦観まみれの毎日を過ごしていたのだった。思うことは、自分の不透明な将来ばかりであった。いつまで自分はここに居られるのだろう。もういっそ、ここから逃げ出した方が楽ではないか。文字や金の計算はできるから、商人くらいにはなれるかもしれない。外へ出たことがないから、何とも言えないけれど。生憎、度胸も無いので。
そんな小心者のぼくが、ある時禁忌を犯したといえば、どうだろう、物語としては ありきたりな話だろうか。
すべてを諦めたはずのぼくが、それでも唯一譲れなかったものがあった。それは王位継承者のみが頭にのせることを許される、神聖なる王家の象徴。――王冠である。
ぼくはこれを、一度だけ目にしたことがある。あれは、国王の戴冠式のことだったであろうか。まだ三歳にも満たないぼくは周りにいた大人たちに手を引かれ、父が国王になる瞬間に立ち会ったのだった。その時のぼくは、白状だと思われるかもしれないが、父の恭しい態度やそこに浮かんだであろう厳格な表情は眼中になかった。ひたすらにぼくの心を魅了したのは、その頭の上に置かれた冠であった。
それは、まばゆいほどの光沢を身に宿していた。ぎっしりと隙間なくうめ込まれたルビーやサファイア、ダイアモンド。どれも自らを誇るように輝きを放っていた。聖堂の窓から射す光が彼らの身体をすべり、さらなる光を引きだしていった。新たなる国王を祝福するかのように降りた光の一筋に、人々は感嘆の息を漏らした。ぼくもまた、ほうっと心を震わせただろう。視線の先は食い違っただろうけれども。王冠の細部は本当によく記憶に残っている。あの紅に染め上げられた布の質感、金色の細工の艶やかな曲線。あれは装飾にこだわるためかなりの重量になるらしく、そういった儀式の時にしか用いられないそうだが、ぼくなら毎日だってかぶるのにと心底思った。たとえそのせいで首がまがって動かなくなっても。
それから、あの王冠はぼくの夢の中に度々あらわれるようになった。その夢は成長してから今もずっと続いている。
王冠は勉強机の上や入浴場の中、ベッドの下や食卓の皿などさまざまな場所に、無造作に置かれていた。ぼくはそれを嬉々として触れようとする。しかし、必ず邪魔が入った。それはぼくに鞭をふるう家庭教師であり、乳母であり、召使であり、兄たちであり、弟たちであった。ごくたまに、国王までもがぼくの名を呼んで叱りつけるから、その日の朝は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって飛び起きねばならなかった。夢の中のぼくは現実のぼくよりずっと大胆だった。見つかったら大変なことになると分かっているのに、むしろその危機感(スリル)さえも楽しむかのように手を伸ばすのだ。
起きてしばらくはじっとして、心臓の鼓動が鳴りやむのをじっと待つ。それでも自分はいけないことをやろうとしたのだという罪悪感が拭えない。
それ以上に困ったのが、冠に触れたいという気持ちが夢を見るたびふくれ上がることだ。あの冠に触れて、頭にのせて、数歩でいい、歩いてみたい。少しくらいいいじゃないか、そんな考えが浮かぶ度に必死になって打ち消した。次の国王は第一王子である兄だとほぼ確定していたのだった。ぼくはおそらく、それに触れることはおろか、近づくことも許されないだろう。なぜならそれは、兄の王位継承に異を唱えることとなり、国王の決定、つまりは国の決定を否定する大犯罪にもつながり、すぐさまぼくは反逆者として罰せられるだろう。ぼくは黙ってその戴冠を見届けなくてはならない。あと何度、その冠を目にすることができるだろう。兄たちに不運が続けば、少なくとも一度以上は式が行われるかもしれないが、その前にぼくは不要のものとしてどこかへ打ち捨てられてしまうだろう。ぼくは兄たちの中でもこの第一の兄にすこぶる嫌われていた。王族としての権威剥奪。そんなことが果たして行われるかはわからないが、皆からの信頼を集める兄であるので、どんなに理に合わない理由であったとしても、刑は執行されるし、命は遂行されるに決まっていた。
だから。現国王が病にかかり、自らの死を察して次期国王に冠を引き渡すと宣言した時、ぼくはさっと背筋が凍る思いがした。それは自分の居場所が完全になくなってしまうという、いわば死刑宣告であった。ぼくは、十四の誕生日を迎えたばかりであった。生まれて十四年、ぼくはついに父とともに葬られてしまうのだと思った。ぼくは迷った。今更、この状況を変えることなど自分には不可能だ。この城からは出て行かざるを得ないときが必ず来るだろう。国王の命で実現できないことなどないのだ。
ぎゅっと胸が悲しみでいっぱいになった。けれどもやはり、仕方ないという気持ちが優ってしまった。
そうだとすればぼくの中に何を迷うことがあるだろう。
一つしかない。王冠への想いをどうするのか、だ。父が今にもこの世を去ろうとするのに、ぼくはよりにもよってこんなことに頭を悩ませていた。――血も涙もない、ひどい息子だと、思うだろうか。ぼくの存在を今まで黙殺してきたその人を、父として愛さないことは、罪だろうか。王族は家族のつながりが希薄なものだから、父としての役割を別の形で果たしていたのだと、人々が理由をみつくろってみたところで、何の意味があるだろう、兄たちや弟たちには慈愛あふれる表情を向けるのだ。
父は、自らの意思でぼくを視界の外に はじいたのだ。――。
さて、問題は解決していない。
どうする? 諦める? いっそのこと盗んでしまう?
どちらも選びがたく感じられた。その時、ふっと悪魔が耳元で囁いたような気がした。
「一度だけならいいじゃあないか」
ずっと消してきた思いが、今、ぼくの手を離れて、いつの間にこんなにも大きくふくらんでいたのだろう、ぱりんと割れた、それがぼくの頼りない背中を力強く押した。
「最後くらい、ぼくの好きなことをしよう」
破滅の音が耳の奥で鳴り響いた気がしたが、あまりにも音が小さくて、どうにも聞き取れない。
●
冠は戴冠式にのみ姿を現し、不要の際は常に王冠守護者という役割の兵たちに守られている。この冠に触れることができるのは彼ら二人と、国の第一権力者と、大司教のみである。
といっても、王冠守護者ではない後の二人は、戴冠式にのみ手を触れることが許されるわけで、本来ならばそうみだりに王冠とまみえることはできない。
ぼくは、本来あるべきではない五人目に、なろうとしているのだ。これは、神様をも背く罪かもしれないと思った。しかし人間というものを作ったのが神ならば、罪を犯すように作ったのも神ではないかと思った。神様のせいだ。こんな風にぼくをつくった神様のせいだと信じた。祈りにも思えた。
そしてそれは通じた。兄が何をとち狂ったのか、王冠を見てみたいと言い出した。
先ほども言ったが、ぼくが罪を犯そうにも、冠は屈強な男に守られているのだ。王族としての権力など欠片も残っていないぼくに、彼らをどかせることなどどうしたって出来ないだろう。つまり、ぼくの野望といえば聞こえは良いこの試みは、本来ならば実現しない夢物語だったのだ。
それが、今、機会を得た。
神の焔の苛烈を知れ。
――『二十世紀旗手』 太宰治
●
兄たちは、ぼくを人間として扱わないことに、すっかり慣れ切ってしまっていた。そして同時に、ぼくは人間として生活しないことに慣れ切ってしまっていた。そのことこそが、今回の事件の最大の落とし穴だと言っても過言ではないだろう。
兄は気づかなかった。王冠を見に行くという話を物陰に隠れてぼくが聞いていたことを。兄は自信家だった。次期国王という地位を得た彼は、ここ最近ずっと機嫌が良く、有頂天であった。だから、いつもなら過敏な感覚も、今ではそう役には立たなくなっていたようだ。
「深夜、ひとの寝静まったころに行こう。おれは次期国王。恐れるものは何もない。どうせ、あれはじきにおれのものになるのだ。少しの盗み見くらい、みな許してくれるだろうよ」
その日の夜遅く、予定通り宮廷内を忍ぶ兄たちのあとをぼくは、距離を置いてゆっくりとつけていった。気づくはずがない。その時のぼくは自信に満ち溢れていた。誤るはずがない。夜の暗闇はぼくを守ってくれているようだった。辺りの様子は火が使えないためよくは分からなかったが、兄の話を聞いてすぐに、王冠が保護されている宝物庫までの道筋を何度も確認した。大体の配置は覚えている。最初は慎重に手さぐりで進んでいたのだが、だんだんじれったくなってきて、ついには堂々と、胸を張って大股で歩きだしたのだ。これではさすがの兄にも気づかれてしまうのではと思ったが、不思議と堂々と歩いている時の方が、不自然さは消えてしまうものである。もしくは目的地に近づいてきたので、そちらに頭がいってしまっているのだろう。
宝物庫の扉の前で、兄は一度振り返り、ついてきていた数人の御供に告げた。
「ここからは私ひとりで行く」
「さ、さすがにそれは……」
「いいからここを開けろ。私が誰の御前にあるのか、分かっているのか」
「ですが……、」
「よい、下がれ、命令だ」
王冠守護者を押しのけて、兄は扉をぐいっと開けて入って行った。王の我儘に翻弄される召使たちをほんの少し哀れに思いつつも、ぼくは速足で兄を追った。その際、項垂れる御供の前を通り過ぎたが、誰もぼくの気配を察知した様子はない。
ぼくはまるで影になった気分だった。自分という身体の内から離れて生まれた、宙に漂う魂のようにぼくはぼくを見下ろしていた。足を動かして前に進んでいるはずなのに、どうにもその感覚が伝わってこない。ひたすらに兄の背中を追いかけた。
扉をくぐり、階段を降りてすぐの場所、兄は迷いなく辿り着いた。興奮のあまり乱れた呼吸がいやに辺りに響いた。
それは、ぼくたちを待っていたかのように、鎮座していた。光の射さない暗闇の中でもわかるその質量、形、神々しさ。それは透明なガラスによって厳重に守られていた。錠がついていた。兄は震える手で持っていた鍵を突き刺した。が、うまく回らずがちゃがちゃと情けない音が空間を打つ。ぼくは呆れた目で彼を見下した。自分より遥か上をゆく、万事に優れたこの兄を見下すことなど今まで一度だってなかったのに、なんとぼくは兄の情けなくも見える姿に露骨にため息をついたのだ。美しいそれは一切動じることなく、急な来訪をしたぼくら無礼者を拒むことなく、どっしりと構えて迎え入れようとしている。
兄は叫び声をあげた。
「開いたぞ!」
冠 夢を見ていた @orangebbk
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