歌姫とヴィオール弾き

夢を見ていた

第1話


 森の中の小屋から、弱々しい音を出した。少年は泣いていた。けれど、そのことを知られたくなくて、そっと手元の楽器を奏でて、その音の陰に泣き声を隠していたのだった。

「うっ、うっ」

 悔し涙だった。その中には、自分への怒りも込められていた。

 少年はヴィオーレという、ヴァイオリンに似た楽器の奏者になりたかった。そのことは少年の昔からの夢であり、誇りであり、そして支えでもあった。

その支えを汚されたのだ。お前にそんなことが出来るはずがない。馬鹿なことを言うのはよせ。そんな才能、どこにあるんだ。お前の弾くヴィオーレなんて聞くに堪えない。聞いている時間が無駄だ。他にも、たくさん罵られた。

これらの言葉は、大いに少年を傷つけた。けれども、何よりも悔しいのは、それらの言葉に返す言葉が無かったことだった。反論できなかった。それが、何よりも素晴らしい真実だとさえ思えた。


昔から少年は、何に対しても自信が無かった。何に対しても、勉学で一番になっても、徒競走で一番速くても、音楽で一番うまく楽器を奏でられたとしても、少しも自信が持てなかった。

それが当然だなんて思ったことは一度も無い。ただ、努力した分の結果が出たとしか思えなかった。それ以上の感情――喜び、達成感、向上心なんか――を何一つ感じることはできなかった。

けれど、ヴィオーレ奏者という夢があった。早くに亡くなった父親がその職業に就いていたのが最大の理由であろう。

少年は輝いた目の父親がヴィオーレを弾く姿に、憧れを感じていたのだ。自分もあんな風に、生き生きと演奏してみたい。あれこそが、『生きる』ということなのだ、とまで思っていた。

だから、何の感情を抱かない少年は、みるみる学力、体力が落ちていった。けれど、ヴィオーレだけは手離さなかった。少しでも、父親の姿に近づけるように必死であった。よって、音楽の技術だけは、落ちることなく上がっていった。そのことが、少年を縛った。

――自分にはヴィオーレしかないのだ、と。

やらないことと、やり続けたこととの、些細な違いでしかなかったのに。まあ、そのことは少年には関係なかったが。


 ともかく、少年は自分の夢を、守ることができなかったのだ。そのことが悔しい。世界には、自分以上の奏者がいる。少年は泣いた。そんなことは、自分が一番わかっている。

 少年は知らなかったが、少年を罵った人間は、心の奥底では少年が羨ましかったのだ。純粋に、夢に向かって歩く少年のことが。だから傷つけた。自己中心的で、理不尽で、身勝手な行いであったのだ。なのに、そのことを露も知らない少年は、その無茶苦茶な言葉を、丸々信じ込んでいた。

「ぼくには、才能がない。ぼくの音楽は、聞いていられない……」

 そしてまた、わっと涙を流すのだ。少年はそこから動けなかった。


          ∞


 泣き声とともに、かすかなヴィオーレの音が聞こえる。

 人気の無い森の中の、小屋の方から聞こえてくる。


この森は、誰かの所有地であった。小屋は、その所有者が造ったものだった。そこから音がする。――つまり、そこにいるのは、この森の所有者ということになる。 

「どんな人かしら」

 少女に似た高い声が響く。声の主は、小屋の中を窺っている。挨拶しようかどうか、迷っているのだ。そしてお願いも、あった。けれど、所有者が自分と話し合ってくれるか、非常に不安であった。

何故なら声の主は、少年と同じ人間ではない。森に住む妖精であったからだ。

妖精は、自分の住処をとても気に入っていた。それと同じくらい、大事にもしていた。

「優しい人じゃなかったら、どうしましょう……。わたし、捕まってしまうかもしれないわ」

 そっと目が伏せられる。瞬きすると、きら、と輝いた光の欠片が、頬を伝った。背中に背負った羽が、呼吸するように震える。妖精の睫毛も、不安に震える。

「アリアーヌ、いつまでここに居るつもりですか? もう何度も失敗しているじゃないですか、今度こそちゃんと、話し合わなければいけないでしょう? まず、わたしがあの人間の前に出て、美しく、礼儀正しく、お辞儀をする。その時、スカートの裾を軽く持って、右へ引っ張る。足を交差させて、腰を落とす――そう、何度も練習したじゃない。綺麗だわ」

 近くにあった水溜りで自分の姿を映し、お辞儀の確認をする。

「そこで笑顔。おしとやかに、そう、リラックスして。――間違っても心を許してはだめよアリアーヌ、相手は人間よ。手足を捕まれたら一貫の……終わりよ――」

 笑った後、妖精は真面目な表情を作り、口を開いた。

(ゆっくりと、人間が聞き取れるように、大きく、はっきりとした発音で)

 息を吸う。そして話し始めた。

「わたしには、お願いがあります。どうか、この森をそっとしておいて下さい。間違っても、壊したりしないで下さい。ここには、貴方が知り得ないほどの、たくさんの妖精がいるんです。生きているんです。どうか、貴方が頼みです。わたしたちの世界を壊さないで」

 よし、と妖精は決意した時、バランスを崩して水溜りに落ちてしまった。ちゃぷ、と弾かれた水の音が鳴った。

「誰!」

 妖精は息を飲んだ。もう、逃げられない。はずなのに、何よりも逃げ出したかった。妖精にとって人間は怖いものだった。足がすくむ、口が閉じたまま開かなくて、言葉が出せない。

(何か、なにか、言わなくては……! 捕まってしまう、話し合えなくなる……、何でもいい、話して!)

「あの……」

「どうせ皆、ぼくを馬鹿にしてるんだ」

 勇気を振り絞った声は、卑屈めいた言葉に呆気なく遮られた。

「そこにいる何かだって、ぼくを、嘲笑ってるんだろ……? そうだね、ぼくは弱い、よわい人間だよ。自分の夢を馬鹿にされても、何も言えない弱虫だ……、うっ、むかつく、こんな自分が、腹立たしい、うう、嫌いだ、大嫌い、もっと、強くなりたい、弱い自分を、消してしまいたい……。でも、どうやって……」

 妖精はそっと、小屋の扉まで飛んでいって、中を覗いた。

「ううっ、ふえ、うう」

 少年は最早、楽器を奏でることはできなかった。顔を隠すこともなく、流れる涙を拭うこともなく、ただ目を瞑って、上を向いたままで泣いていた。妖精は目を見張った。そして、惹かれるままに近づいていったのだ。

(涙……、人間が流すという涙、初めて見た……)

 本来、妖精は人間に認知されにくい。何故なら、その姿を人間の目に映すことができないからだ。辛うじて見えたとしても、それは時たまに、妖精が涙の代わりに零すという光の欠片のみ。そして耳にできるものは、囁くような声だけ。声を聞き取れても、何を喋っているのかまでは拾い切れない。そのことを知るのは、妖精だけであった。

 だから、妖精は少年の目のすぐ横まで移動し、零れる涙を観察した。間近に見られた涙に、妖精は妖精の掟を忘れてしまっていた。

「え……」

 思い出したのは、少年の目が、こちらをじっと見つめていることに、気づいた時であった。

「君……、誰?」

 妖精の掟――。

人間には、決して近づかないこと。何故なら、本来、妖精の姿を見られる人間はいないが、時たまに、妖精を見ることができる人間が生まれてくることがあるからだ。君子危うきには近寄らず。人間と妖精は別世界に生きる存在。決して必要以上には、近づいてはいけない――。

「『みえる人間』!」

 妖精は逃げようとした。が、失敗した。

少年の両手の中に捕まった妖精は、自分の最期を悟った。妖精はこうなったらもういい、と自棄になって、ありったけの声量で思っていることをすべて吐き出した。

「わたしは妖精なんだけど、今日やって来たのは、貴方がこの森の所有者だからなの! わたしは、ここが好き。ここに住む妖精も好き。でもね、妖精って弱いのよ。貴方たちがここを壊す日をずっと恐れ続けて、生きていかなきゃいけないんだもの。だって、一度この森を壊すことを決めた人間を、止める力なんて、わたしたちには一切無いんだもの。ほとんどの人間はわたしたちを目にすることすら、できないわけなんだし。……だからわたしは思った。声なら、ゆっくり話せば、聞き取れるはずだと。それでお願いしようと思ったの。ここを守ってほしいって。そうすれば、怯える心配は全部無くなって、幸せに生きていけると、思ったのよ……」

 ねえ。妖精は続けた。

「ねえ、わたしをあげるから、わたしの世界を守って」

 妖精は自嘲気味に笑って、自分の服を摘んだ。

「本当はね、こんな風に話すつもりじゃなかったわ。とびっきりのドレスを着て、可愛いって思ってもらって、わたしが手に入るなら守ってあげようって、思ってもらおうとしてたのに……。水溜りに落ちてドレスはどろどろ。整えた髪も汚れちゃったわ、顔も……何もかも。ほんと最悪よ、さいあく……。――ねえ、頼むから。誰にいくらで売ってもいいから、この森を壊さないで……。一生の、お願いよ」

「あのさ」

 少年の顔が見えた。どうやらずっと、手のひらは開いていたようだった。知らない内に、強く目を閉じていたらしい。妖精は、机の上に座らされて、体についた泥を、丁寧に拭き取られていた。少年の持っていたハンカチは泥を吸って、茶色に変色していた。

 その少年の手つきが、妙に優しいので、妖精は終わるまでずっと動かなかった。心地よくもあったのだ。

「君、名前なんて言うの?」

 売るために名前が必要なのだろうと思い、妖精は返事をした。

「アリアーヌ・フォン。ベル・フォンとリリー・フォンの娘」

「えっと、とりあえず、アリアーヌだね?」

「わたしは、ね」

アリアーヌ、少年は嬉しそうに呼んだ。呼ばれたからには答えなければ、と妖精は繰り返されて呼ばれるのに対し、律儀に返事をした。

「アリアーヌ」

「はい」

「あのさ、ぼくはビオラっていうんだ。ちょっと女みたいだけど」

「ビオラ、さん」

「君、なんだか勘違いしてるみたいだから言うけど……」

 ぼくはこの森の所有者じゃないよ。

 その言葉に妖精は固まった。その時を見計らって、少年はそっと妖精の、金色の睫毛についていた泥の塊を払った。全て取れたのを確認してから、身に纏う純白のドレスへと手を伸ばした。

「昨日雨だったものね、風邪、引かないようにしないとね」

 伸ばした手を、妖精は勢いよく叩いた。妖精は、ひどく傷つけられた表情を浮かべていた。

「騙したのね」

「いや、ぼくは別に……。というか、アリアーヌ、君が勝手に……」

「わたし、命まで捨てる決意さえしていたのに」

「ちょっと待って――」

「じゃあ、貴方は何だというの!」

 待った無しの言葉に、少年はゆっくりと開口した。

「えっと、わかりにくい言い方をしたみたいだ、ごめん。ぼくは、その所有者の息子なんだ。この森の所有者は、父親なんだよ」

 でも、と続ける。

「父さんはちょっと前に亡くなったんだ……。だから、今はぼくの母さんが所有者」

「……つまり、わたしは貴方の母親に命を差し出さなきゃいけないのね」

「ちょっと待ってよアリアーヌ、その必要はないんだって」

「何故!」

「ぼくが頼んであげるよ。何があっても、この森を壊さないように、お願いしてあげる……。だから、君の命は君のもののままだよ」

「えっ」

 一瞬、戸惑う素振りを見せたが、首を振ってその申し出を拒んだ。

「信用できない?」

「信用できない」

「一体どうしたら、信用してくれるの……?」

 妖精は、少年が人間だということを思い返し、距離を作る。

「わたしを捕まえた人間の言うことを、信じることなんてできない」

「そ、それは君が逃げるから……」

 口ごもる少年を、妖精は鋭く睨みつける。

「逃げるから閉じ込めるの?」

「ご、ごめん」

「人間って本当わがまま! だから信用ならないのよ!」

「ごめん……」

 深く俯いた少年に、今度は妖精の方が謝る。

「べ、別に貴方一人に言ってるわけじゃないの……! 皆よ、皆!」

「うん、でも、その一人だから……。ごめん」

 その素直さに調子が狂う妖精は、何か違う話題に変えたくて、辺りを見回した。そこにふと、楽器の姿が目に入った。

「弾いてみて」

「えっ」

 顔を上げた少年は、潤んだ瞳を向けてきた。理解できていない少年の為に、妖精は適当な嘘を吐いた。

「わたしたち妖精は、音楽を愛する種族よ。音楽でね、心の会話をするの。……えっと、だから、」

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歌姫とヴィオール弾き 夢を見ていた @orangebbk

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