夏の世の夢

夢を見ていた

第1話

夏ノ夜ノ夢




「窓の外、みて」


 夜、従姉がベッドから起き出して窓の方を指さした。寝室には、まだ幼い私と弟、そして従姉がいた。

 親たちは一階のリビングでお酒を飲んで、談笑していた。

 私は眠い目をこすって言った。


「なあに。何もいないよ」


 従姉は勢いよくこちらを振り返った。


「いたらどうする」


 弟は寝てしまっていた。私も、もう寝てしまいたかった。だから、すぐに答えた。


「いないよ。いるわけないよ」


 従姉は首を振った。


「あの窓に、泥棒が隠れてたらどうする? カーテンの向こうに、誰かが刃物を持って待ってたらどうする? 死んじゃう、わたしたち殺されちゃう」

「かんがえすぎだよ」


 私は努めて明るく笑い飛ばした。従姉はそれでもずっと何やらぶつぶつ言っていた。もしかしたら、この家の向こうには、知らないあやしい人が住んでいて、みんなが寝静まるのを待っているのだ、ぶつぶつ、ぶつぶつ――。


 これはきっと、幼い頃の子供によくあることで。

 想像力が豊かで、そして、少しずつ社会を知り始めた頃に起こる、妄想のようなものだろう。


 従姉はその翌日、帰って行った。本人は、昨日のことなど忘れてしまったかのように、けろりとしていた。事実、忘れていたのだろう。


 みんなが帰った夜。私は、いつものように眠れなくなっていた。

 従姉の言葉は、おぞましい置き土産だった。

 私は、昨夜、笑い飛ばしたはずの妄言に、とらわれてしまった。


「窓の外にだれかがいたらどうしよう」





 私は、小学校にあがるまで、よく一人で田舎の祖父母の家に連れて帰られた。実家と田舎との距離は新幹線で三時間くらいで、私は、きっと田舎に帰りたいとも、帰りたくないとも言わなかったように思う。本当は帰りたくなかっただろうが、自分を可愛がってくれる祖父母のことを思うと、幼心に「帰ってあげなくちゃいけない」という気持ちを抱いたのではないかと思う。


 祖父母の家は、さびしかった。

 山も近く、自然がいっぱいの場所だったから、夜は夏でも涼しかった。

 柴犬が一匹、一緒に暮らしていたから、まだ、頑張れた。賢い犬だった。今はもう亡くなってしまった。


 夜になると、私は祖母と二人で布団を並べて寝た。

 ボーンボーン、と時計の音が障子の向こうから聞こえてきた。

 畳の上に敷かれた布団が硬かった。


 私は天井を見つめた。隣で祖母が、私の寝付くまでじっと見守ってくれていた。


「××ちゃん、」


 祖母は決まって、夜になると、私に語り掛けた。


「おばあちゃんはいつか死んでしまうけれど、でも、××ちゃんがお嫁に行くまでは頑張って生きるからね」


 祖母は、死ぬことを語った。


「おばあちゃんが死んでも、元気でがんばってね」


 私は、うなずいた。


「おばあちゃん、××ちゃんがお嫁に行くまで生きるから」


 祖母は、毎年、毎夏、毎夜、このように語った。

 語り終えた後、祖母が寝入ったのを見てから、私は泣いた。

 私は、祖母に、堪えようもない死の悲しさをすりこまれた。

 私はこの時間が、嫌だった。寝る前に、涙を流し、布団にくるまって鼻をすすった。そのとき、祖母を起こさないように気を配った。



 夜、悲しい話をしないでほしい、とやっとのことで言えたのは、私が小学校を卒業する手前のことだっただろうか。確か、父にやっとのことで訴えて、それから、祖母にも伝えたのだったと思う。

 祖母はそれきり、その話をしなくなった。


 子供ながらに、祖母の死語りは、聞いてやらなくてはならないと感じていたのだろう。

 夜になると、天井が暗闇に呑まれて近づいてくるような気がして、恐ろしかった。

 決まって同じ夢を見た。ビールの箱が宇宙空間でいくつも浮かんでいる。その真ん中に、恐ろしい魔人のようなものがいた。私はその宇宙空間に漂う、ひとりの非力な人間だった。



 それから私は、夜が怖くなった。



 小学校中学年から高学年、私は、死を恐れるようになった。

 自分が死ぬことよりも、自分の大切な大切な大切な人に、置いていかれることが、身を裂かれるように辛かった。

 

 私は、毎日、毎時間、毎分、死について考えるようになった。


 昼は、まだましだった。明るくて、人も動いていて、ひとりではなかったから。

 問題なのは、夜だった。


 夜になると、従妹の呪文がよみがえってきた。祖母の語りが思い出された。

 当時の私は二階で眠っていたから、二階への階段をのぼるのが恐ろしかった。

 トイレに行くのも恐ろしかった。

 マイルールがあった。暗闇の中、一度は元来た道を振り返るというルールだった。

 何もいないと知っていながらも、振り返らないといけないと自分で自分を縛った。恐る恐る振り返り、やっぱり何もいなかったと安堵してから、トイレやベッドの中に入った。



 昼も、辛くなった。

 それは、大体、夏ごろに起こる情緒不安定だった。小学校は、夏休み期間に入っていた。私は、母の買い物についていったり、家でゆっくりしたりして過ごした。何もすることがなくなると、頭ばかりが働いた。そうして、死を考えた。私も、母も、父も、弟も、祖母も、祖父も、いつかは死んでしまう。弟は年齢からしても私より後に死ぬだろう。

 だとすれば、私を置いていくのは、父と母だ。祖父母もそうだが、私の今いるところと実家とは距離があったし、身近さにも欠けていた。


 私は、よく母に泣きついた。

「お母さん、死ぬの」

「死なないでよ」

「嫌や、なんで死ぬの」


 こんなことを、繰り返し言っていたのではないかと思う。私はこのどうしようもない寂しい気持ちを、一人ではどうすることもできなかった。



 夏のある日、私はいつものように母に泣きついた。それは、真っ昼間。もう、寂しくて寂しくてたまらなかったのだ。


 母は、ついに堪忍袋の緒が、切れたのだろうと思う。


「お母さんはまだ、死んでないでしょ!」


 私は、ぴたりと泣くのをやめた。母に置いて行かれるのは嫌だったが、叱られることも嫌だった。

 

 私はこの日から、母の死を口にしないようにした。

 そうして少しずつ、少しずつ、人の死を考えないようにしていった。



 少しずつ、歳をとるにつれて、夏にさびしくなる気持ちが薄れていった。それは、私の心を救ってくれた。



 それでも、夏に、何か少しでもつまずきがあると、私は、憂鬱になる。



 夏になると少し、不安定になる。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の世の夢 夢を見ていた @orangebbk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る