夏の世の夢
夢を見ていた
第1話
夏ノ夜ノ夢
「窓の外、みて」
夜、従姉がベッドから起き出して窓の方を指さした。寝室には、まだ幼い私と弟、そして従姉がいた。
親たちは一階のリビングでお酒を飲んで、談笑していた。
私は眠い目をこすって言った。
「なあに。何もいないよ」
従姉は勢いよくこちらを振り返った。
「いたらどうする」
弟は寝てしまっていた。私も、もう寝てしまいたかった。だから、すぐに答えた。
「いないよ。いるわけないよ」
従姉は首を振った。
「あの窓に、泥棒が隠れてたらどうする? カーテンの向こうに、誰かが刃物を持って待ってたらどうする? 死んじゃう、わたしたち殺されちゃう」
「かんがえすぎだよ」
私は努めて明るく笑い飛ばした。従姉はそれでもずっと何やらぶつぶつ言っていた。もしかしたら、この家の向こうには、知らないあやしい人が住んでいて、みんなが寝静まるのを待っているのだ、ぶつぶつ、ぶつぶつ――。
これはきっと、幼い頃の子供によくあることで。
想像力が豊かで、そして、少しずつ社会を知り始めた頃に起こる、妄想のようなものだろう。
従姉はその翌日、帰って行った。本人は、昨日のことなど忘れてしまったかのように、けろりとしていた。事実、忘れていたのだろう。
みんなが帰った夜。私は、いつものように眠れなくなっていた。
従姉の言葉は、おぞましい置き土産だった。
私は、昨夜、笑い飛ばしたはずの妄言に、とらわれてしまった。
「窓の外にだれかがいたらどうしよう」
◎
私は、小学校にあがるまで、よく一人で田舎の祖父母の家に連れて帰られた。実家と田舎との距離は新幹線で三時間くらいで、私は、きっと田舎に帰りたいとも、帰りたくないとも言わなかったように思う。本当は帰りたくなかっただろうが、自分を可愛がってくれる祖父母のことを思うと、幼心に「帰ってあげなくちゃいけない」という気持ちを抱いたのではないかと思う。
祖父母の家は、さびしかった。
山も近く、自然がいっぱいの場所だったから、夜は夏でも涼しかった。
柴犬が一匹、一緒に暮らしていたから、まだ、頑張れた。賢い犬だった。今はもう亡くなってしまった。
夜になると、私は祖母と二人で布団を並べて寝た。
ボーンボーン、と時計の音が障子の向こうから聞こえてきた。
畳の上に敷かれた布団が硬かった。
私は天井を見つめた。隣で祖母が、私の寝付くまでじっと見守ってくれていた。
「××ちゃん、」
祖母は決まって、夜になると、私に語り掛けた。
「おばあちゃんはいつか死んでしまうけれど、でも、××ちゃんがお嫁に行くまでは頑張って生きるからね」
祖母は、死ぬことを語った。
「おばあちゃんが死んでも、元気でがんばってね」
私は、うなずいた。
「おばあちゃん、××ちゃんがお嫁に行くまで生きるから」
祖母は、毎年、毎夏、毎夜、このように語った。
語り終えた後、祖母が寝入ったのを見てから、私は泣いた。
私は、祖母に、堪えようもない死の悲しさをすりこまれた。
私はこの時間が、嫌だった。寝る前に、涙を流し、布団にくるまって鼻をすすった。そのとき、祖母を起こさないように気を配った。
夜、悲しい話をしないでほしい、とやっとのことで言えたのは、私が小学校を卒業する手前のことだっただろうか。確か、父にやっとのことで訴えて、それから、祖母にも伝えたのだったと思う。
祖母はそれきり、その話をしなくなった。
子供ながらに、祖母の死語りは、聞いてやらなくてはならないと感じていたのだろう。
夜になると、天井が暗闇に呑まれて近づいてくるような気がして、恐ろしかった。
決まって同じ夢を見た。ビールの箱が宇宙空間でいくつも浮かんでいる。その真ん中に、恐ろしい魔人のようなものがいた。私はその宇宙空間に漂う、ひとりの非力な人間だった。
◎
それから私は、夜が怖くなった。
◎
小学校中学年から高学年、私は、死を恐れるようになった。
自分が死ぬことよりも、自分の大切な大切な大切な人に、置いていかれることが、身を裂かれるように辛かった。
私は、毎日、毎時間、毎分、死について考えるようになった。
昼は、まだましだった。明るくて、人も動いていて、ひとりではなかったから。
問題なのは、夜だった。
夜になると、従妹の呪文がよみがえってきた。祖母の語りが思い出された。
当時の私は二階で眠っていたから、二階への階段をのぼるのが恐ろしかった。
トイレに行くのも恐ろしかった。
マイルールがあった。暗闇の中、一度は元来た道を振り返るというルールだった。
何もいないと知っていながらも、振り返らないといけないと自分で自分を縛った。恐る恐る振り返り、やっぱり何もいなかったと安堵してから、トイレやベッドの中に入った。
◎
昼も、辛くなった。
それは、大体、夏ごろに起こる情緒不安定だった。小学校は、夏休み期間に入っていた。私は、母の買い物についていったり、家でゆっくりしたりして過ごした。何もすることがなくなると、頭ばかりが働いた。そうして、死を考えた。私も、母も、父も、弟も、祖母も、祖父も、いつかは死んでしまう。弟は年齢からしても私より後に死ぬだろう。
だとすれば、私を置いていくのは、父と母だ。祖父母もそうだが、私の今いるところと実家とは距離があったし、身近さにも欠けていた。
私は、よく母に泣きついた。
「お母さん、死ぬの」
「死なないでよ」
「嫌や、なんで死ぬの」
こんなことを、繰り返し言っていたのではないかと思う。私はこのどうしようもない寂しい気持ちを、一人ではどうすることもできなかった。
◎
夏のある日、私はいつものように母に泣きついた。それは、真っ昼間。もう、寂しくて寂しくてたまらなかったのだ。
母は、ついに堪忍袋の緒が、切れたのだろうと思う。
「お母さんはまだ、死んでないでしょ!」
私は、ぴたりと泣くのをやめた。母に置いて行かれるのは嫌だったが、叱られることも嫌だった。
私はこの日から、母の死を口にしないようにした。
そうして少しずつ、少しずつ、人の死を考えないようにしていった。
◎
少しずつ、歳をとるにつれて、夏にさびしくなる気持ちが薄れていった。それは、私の心を救ってくれた。
◎
それでも、夏に、何か少しでもつまずきがあると、私は、憂鬱になる。
◎
夏になると少し、不安定になる。
了
夏の世の夢 夢を見ていた @orangebbk
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