やさしい忘却

夢を見ていた

第1話

            ∞


私が好きになった人は、既にいない人でした。


            ∞


ふと気づけば私は、ある部屋の中にいた。私は起き上がると、『ソレ』が私の前に現れた。

「お目覚めですか」

私が首を傾げると、ソレは言った。

「朝食を食べませんか。今日はちゃんとあなたが好きなマーマレードを用意してありますよ。今パンを焼いているところですわ」

それから甲斐甲斐しく世話を焼き始めたので、私はたまらず声を上げた。

「なんなんだこれは!」

「これ?」

「おまえのことだ!」

「私ですか? まあ、好きに呼んでください」

「何の為にここにいる?!」

「好きでいるだけですよ。そんなことより朝食です、さあ早くベッドから下りて。焦げたパンはお嫌いでしょう」

そう急かすものだから、私は仕方なくソレに従い階下へ向かった。するとそこには、色鮮やかな料理が並んでいた。甘いマーマレードの香りが鼻をくすぐる。

「さあ席に着いて。パンは無事でしたよ」

と、くすくす笑みを漏らすソレは、私の前にあつあつのパンを運んできた。そして黄色のマーマレードの入ったビンを渡した。

「どうぞ、お食べになって」

得体の知れない奴から何かを受け取るのは嫌だったが、こんな時でも腹は空く。やむを得ず私はビンから美しい液体を掬い取り、パンに塗りつけ咀嚼した。甘い味が口の中いっぱいに広がり、思わず顔が綻び、警戒が薄れる。

「うまい」

「それは何よりですわ。さあさ、他のものもどうぞ」

促されるままに私は料理を口にした。正直、パン以外は色が綺麗なだけで、あまりうまくはなかったが、空腹を満たすには十分だった。

「これから私はあなたの世話をします。それだけのものです。あなたはただ、それに慣れるだけでよいのです」

そう屈託なく笑うので、私は何も言えなくなった。


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「今日はよい天気ですから、どうです、読書ばかりせずに外へ出てみては」

最初は何度も断っていたのだが、半ば強引に外へ連れ出されて、昼食もそこで取ることとなった。

「あなたはいつも外出を嫌がりますね」

「外など面白くない」

突っぱねるように一蹴すると、子供を相手にするように宥められた。

「そんなこと言って。駄目ですよ。太陽の光に浴びないと元気が出ませんよ」

「元気など必要ない」

「まあ。あって困ることもありませんのに」

段々苛立ってきて、私はいつものように質問を繰り返した。

「私は一体何者なんだ」

「あなたはシャルル=レイザードという四十五歳の男性です。ご両親が資産家で、この屋敷も昔あなたが受け継いだものの一つです。あなたは真面目で根を詰める方でしたから、仕事に明け暮れ、挙げ句精神を病み、仕事から離れてここでゆっくり療養している方です、が?」

一字一句違わぬ言葉。ソレはまるで記録用紙が手元にあってそれを読み上げているのではないかと思うくらいに流暢に話す。それを聞けば聞くほど私の猜疑心は膨らむばかりだ。

何故、ソレは私の知らないことをここまで話すことができる? でたらめという可能性も否めないが、それにしては態度が自然過ぎる。嘘をつく時はどうしても普段とは異なった不自然さが出てしまうものだ。しかしソレには見当たらない。

「何を考えていらっしゃるのですか?」

「おまえは何者なんだ」

「またそれですか。私は私です。あなたの世話をするだけのただの人――」

「では何故おまえが私の世話をする」

「何故ってあなたが雇ったからじゃありませんか」

「……じゃあ何故、私にはその記憶が存在しない――?」

ソレは即答した。

「知りませんよ」

続けた。「あなたが勝手に忘れたんでしょう」

さらに続ける。「私には契約があり、契約金も貰いましたので義務があるのです」

そして。

「たとえあなたが忘れても」

言い切った。


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腹が減ったのでソレに料理を作らせようと探していると、庭で草むしりをする姿があった。

「お腹が減りましたか。では用意します」

汗を拭いながら、ソレはいそいそと走り出した。そしてソレは思い出したように帰ってきて、私に告げた。

「久しぶりの外はどうですか」

どうもこれが狙いだったらしい。だから、普段は飯前頃には既に食事の用意がされてあるのに、今日に限って無かったのかと一人得心した。

記憶が所々欠如している私は、なるべく外へは出ずに、家の中にある書物を読み耽っていた。屋敷の外へ足を踏み出そうとしたこともあった。が、どれも途中で心が折れ――というよりも、心のどこかでそれを拒絶し――やめてしまったのだ。だから私はソレと二人でそれなりに穏やかな毎日を過ごしていた。

最初はソレに対し、警戒と猜疑しか感じなかったはずの私の心は、いつの間にかソレに手綱を取られ、ソレの思惑通りに動かされているのだった。――そして驚くべきことに、それを快く思っている自分がいるのだ。

「美味しいですか」

頷くとソレはとても嬉しそうに笑う。ソレは料理を褒めた時が一番嬉しそうにする。私はそれがわかっているから、無理をしてまで全てを食べ切るのだ。

――思えば、ソレはよく私のことを知っていた。好きなものや嫌いなもの、得意不得意なもの、癖、嘘を吐く時に出る仕草など、本当によく知っていた。

「おまえは、私をよく知ってるんだな」

「そりゃあ、あなたとずっと居ますもの」

(私は知らないのに)

「おまえのことを、教えてくれよ」

「面と向かって言われると恥ずかしいですね」

「……教えてくれよ」

「時が来たら、ですかね」

笑うソレが、少しだけ寂しそうに見えた。


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「一つだけ、答えておきます」

「なんだ?」

「私は後悔してません」

言い切ったソレが、ひどく綺麗に映った。


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ある日、とある本を見つけた。どうも日記帳であるらしいが、ページを捲ってみても何も書いてなかった。真っ白な紙。興味が無くなって、その場に投げ捨てたが、その瞬間目に映った字に意識を奪われる。

「『言葉を持ち出すな』?」

殴り書きの文字。もしかすると欠けた記憶と関係があるのではと、しばらく考えてみたが結局意味が理解できず、そのままになった。――。

            

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その日は、たまらなく胸騒ぎのする日だった。私がなかなか起きて来ないので心配したのだろうソレが、私の近くに歩み寄り、優しく尋ねた。

「どうしたのですか。気分が優れませんか」

「――きみは」


どうしてここにいる?


「またそれですか」

「ふざけずに!」

「!」

「答えてくれ、頼むよ……。私はどうして忘れている? きみのことも、自分のことも、すべて!」

「――できません」

初めて、ソレが拒んだ。それだけのことに私はひどく取り乱してしまい、言葉もろくに出て来なくなった。

「あ、あ、あ」

「ただ、ただこれだけは、伝えておきます」

「……」

「私はどこへも行きません。離れはしません。必ず」「なんで――」

「そうですね」

ソレは笑った。今までで一番辛そうな笑顔だった。

「あなたがすきだからですかね」


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「きみは、もう、自由だ」

これだけの言葉を発するのに、どれだけの決心をしてきたのだろう。私はいつも笑うソレの笑顔を真似て、笑ってみたが、どうだろう、――きみには、美しく映っただろうか。

風が私たちの髪をなびかせる。きみに強引に荷造りさせて屋敷の外へ連れ出し、私は今、別れを切り出したのだ。

「やっぱり、私は思い出せなかったよきみのこと。だから、もう、忘れているから、いいんだ。お金なんて、貰っておけばいい。なんならもっとあげてもいい。……私はね、きみをこれ以上、縛りつけるのは嫌なんだ。だから、さよならだ。ありがとう。きみが居るだけで、うん、陳腐で平凡な表現だけど、……幸せだった。ありがとう」

「待って――」

「最後に、きみに言いたいことがあるんだ。これも陳腐な言い方しかできないけど」


――きみがすきだ。

――たとえぼくが他の何を忘れたとしても。

――きみを思う気持ちだけは、忘れたりしない。

――……絶対に。


彼女は泣き出した。

私は彼女を宥めるように背中を擦った。

彼女は言った。


「あなた、前もそう言ったじゃない」





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「ぼくはきみがすきだ」

「……わたしもよ!」

「じゃあ、ずっと一緒にいてくれる? 離れない? どっかいかない?」

「ええ」

「後悔しない?」

「ええ」

「ぼくがきみを忘れても?」

「どうして? ――ずっと一緒よ。あなたが忘れても、私が覚えてる。ずっと、ずっとよ」



「おはよう! 素敵な朝ね! どうして素敵か、あなたは勿論わかっているでしょう?」

「――きみは誰?」

「え?」

「ごめん、喋りかけないで、ぼく、知らない奴とは話さないようにしてるから」

「待って! 私は***であなたと同じ年で、この近くに住んでて、いつも一緒にいるって昨日……!」

「ごめん、あなたって誰? 今なんて言った? わからなかったんだけど」

「え――?」

「今のとこもう一度言ってくれない?」

「だから私たちは――」

彼の親が慌てて出てきた。そして事情を説明した。

朝から彼の記憶は一切なくなっており、親の顔も忘れていた。自分のことについての情報は教えれば理解したが、何故か一番仲良しの私の情報は理解できなくなっていた。今から病院へ向かうのだと早口に告げて出ていった。


            ∞


明日の朝、彼はもう私を覚えていないだろう。

だとしても、私は何度でも彼のそばに居続けよう。


私が覚えている限り。

どんなに、

辛くとも。



            了

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やさしい忘却 夢を見ていた @orangebbk

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