モノクロ世界と赤い涙
夢を見ていた
第1話
黒と白の世界とは、どんなものだろうかと、私は思った。
モノクロ写真、モノクロテレビ、モノクロ映画のように二色しか存在しない世界。
私は思う。
そんなところに居ては感覚が狂ってしまうだろう。――ましてや、画家という職業に就いている人間ならとくに。
「そんなことないよ。黒と白だけが見えるとさ、大切なものが、かえって見やすくなるんだ。輪郭の線や影、色が無い分、スケッチもしやすい。視力が悪くなったわけではないから、明度の違いで物の形も捉えられる。こちらの世界も面白い」
これに似た言葉は何度も彼の口から出てきたが、本心だとは到底思えなかった。
本当は、元の世界に戻りたいのだ。そんなこと、最初からわかっていた。
ひとりになって、全て私のせいだと呟いてまた泣くのだ。
――その色はおそらく、彼が見ることのできない、血の赤であろう。
∞
「こんにちは」
病室の扉を開けて入ると、ベッドに寝そべっていた彼が起き上がる。
綺麗に整頓された個室。彼は笑みを作った。
「こんにちは。よく来たね」
彼はいつもそう言う。私はずっと用意されたままの、ベッドの横にある椅子に腰掛ける。私は手ぶらだった。しばらくは、菓子折りや果物のバスケットも持って来ていたのだが、彼が頑なに受け取ろうとしないので、仕方なく諦めた。
その代わりに、黒い鞄を提げている。彼が唯一『見ることができる』色。この鞄を見て、彼は私を認識している。
「……具合はどうですか」
「うん。いいよ」
「そうですか」
しばらくの間。会話はあまりしない。まあ、当然といえば当然だと私は思う。最近会ったばかりの二人が、そう仲良く話すなんてできないだろう。それも、私なんかと。
私は本を取り出した。色についての本。まだ、まだまだ全然、知識が足りない。そのことがひどく、もどかしい。
「千絵さん、今日は何読むの?」
間延びした、柔らかな声を聞く度、私は何とも言えない気分になる。けれど、それを押し隠して私は答える。
「本です」
「うん?」
「……色の、本です」
「うん」
「……前とは違う本ですよ」
そう言ってやっと、彼は視線を外してくれた。彼は自分から訊ねたりしない。けれど、自分が納得するまでずっと解放してくれないのだ。その真っ直ぐな瞳で、私を見据える。それこそ、欲しい答えが来るまでずっと。
「勉強家だよね、千絵ちゃんは」
「そんなことないです。あと」
名前は呼ばないでください。その声が、思っていた以上に鋭くて驚く。が、これくらい厳しくいかないと、彼には意味をなさないだろう。
「いいじゃん」
ああ、また無意味だった。彼の目が私から離れない。
彼は彼自身が納得しなければ、私の意思を汲んではくれない人なのだ。
「……なんだか、仲、良いみたいで」
嫌なんです、と続けようとしたが間に入られた。
「え! 仲良しでしょ?」
素っ頓狂な声に、私は思わず立ち上がる。
「ど、堂々と嘘を吐かないでくださいよっ!」
幸い、ここは個室だった。誰も注目する人はいない。そのことをいいことに、私はぽろぽろと涙を零した。
こんな風になっても、彼は動じずに、そっと目を細めた。
彼は見慣れていたのだ。私がここへ来て何度も泣くから。
「私のせいだと、言って」
そして、この言葉も、聞き飽きているに違いない。けれど、言わずにはいられない。
「どうして、そんなに優しいんですか……」
「僕、優しい?」
「……あなたは、優しいです」
だって。
「一度も、私を責めたりしないじゃないですか」
「だって君のせいじゃないもの」
いいえ。私は首を振った。
「私のせいです。私が、あなたの世界の色を奪ったんです」
――目を閉じれば、あの一瞬が戻ってくる。世にも恐ろしい一瞬が。
∞
少し蒸し暑くなってきた初夏の頃だった。体に当たる風が心地よくて、坂道をブレーキを踏むのも疎かにして、速いスピードで下っていったあの時。
目の前に人が通った。驚いた。咄嗟にハンドルをきって、避けようと思った。
「どいて……!」
その叫びも虚しく、私の自転車は、その人に衝突した。撥ねる体。その人がゆっくりと、宙へ浮かび、地面に叩きつけられた。
私は横転した自転車の下敷きになり、その人に駆け寄ることも出来なかった。
そんな私の代わりに、誰かが駆け寄ってくれて、そして救急車を呼んでくれた。
――それから、傷が浅かった私に、医師が告げた。
「意識不明です」
私が、そうなればよかったのに。もし、その人が亡くなったりしたら、私は――。
次の日、ベランダから飛び降りようとしていた私を、看護婦が必死になって止めた。それを見計らったように、医師が私の前に現れて言った。
「意識が戻ってきましたよ」
私は安堵した。けれど、それはつかの間のことでしかなかった。
落ち着いた私を、医師は個室に呼んだ。何度も落ち着くように念を押され、再び告げられた。
「彼はほとんどの色が見えていません」
「え?」
「色覚異常です。これは本当に稀なことなんですが、黒と白、この二色しか認識することが出来なくなっています。全色盲、1色型色覚とも言われるもので、モノクロ写真のようにしか色が映らないということなんです。この症状は先天性のものならば、珍しいにしても、あることにはあるんです。が、彼の場合後天性。しかし、目を特別強打した様子もない。記憶は少々あやふやなようですが、これといって異常はみられない。少し妙なんですよね」
あまりに早口に説明されるので、頭がついていかない。混乱する頭で考えた質問は、ただ、現実から逃げたような言葉だった。
「……あ、の。それを私に言っても……? えっと、よくわからないんですけれど、こういうのって普通、私じゃなくて、家族の方が……」
「それなんですが、彼の家族がね、来ていないんですよ。どうやら、家族の縁を切ったか、なんかで、面会も一切来ていないんです。だから、あなたに報告することになっていまして――」
「そ、んな」
私は俯いた。そんな重い責任が私に乗っかっているのか。私は、掠れる声を必死に絞り出して訊ねた。
「治りますか?」
「今の医療技術ではまだ……」
そんな台詞、ドラマや小説の中だけでいい。私は強く目を閉じた。現実と向き合うことができない。怖い。私のせいだ。その人の人生、めちゃくちゃにした。最悪な自分。消えたい。消えてしまいたい。
がた、と立ち上がった私を見てすぐに医師が、私の肩を押さえつけた。落ち着いてください、また繰り返された。
「いいですか。彼の病状については、不思議なところが多い。もしかすると、この病気ではないかもしれない。色覚異常に似た、何かかもしれない。だから、まだ治る可能性はいくらでもある。本当ならこんなことを医師が言うのもおかしい話だが、彼と一緒に治してみないか? 家族もいないし一人にするには、危なっかしい。……勿論君もね。まずは彼と会ってみたらいい。私としては、二人で何とか頑張ってもらいたいと思う。何かあったら相談してくれたらいいから」
そんな、無責任な。その言葉が口から漏れた。
加害者の私が、被害者の人の為に?
そんなこと、していいの? 確かに私は、その人と立場だって入れ替わってもいい。けれど、被害者にとって私は、目の前に居るだけでも嫌な存在じゃないの? その人の日常を、壊してしまったわけでしょう?
「頼むよ。罪滅ぼしだと思って」
何を言っているんだろう、この医師は。勝手すぎる。何が、罪滅ぼしだ。罪は、一生続くんだ。滅ぼせるはずなんて、ないんだ。
――でも。その人の見えないところでなら、私はその人の為に動くことはできるだろうか。それは、許してもらえるだろうか。
私は医師の手をどけた。
「その言葉は、医師として、人として、間違っています。罪は滅びません。私は、その罪を一生背負わなければいけないんです」
私は背を向けた。
「あなたには相談しません。が、あなたの助言らしいものだけ、受け取っておきます」
あの人に、会ってきます。
もし、殴られても、殺されても、何もいえない。
私は覚悟して、その病室の扉を開けた。
「はじめまして」
耳に届いた声は明るかった。優しかった。予想していたものと大きく違った。私は用意していた台詞を忘れて、ただ呆然と突っ立っていた。
「えっと、お名前を教えてください。僕は笹木裕一郎です。好きに呼んでくださいね」
「……なんで怒ってないんですか」
「え?」
「どうして、もっと、罵ったり、怒鳴ったりしないんですか! 私は、貴方の色を、奪ったんですよ! どうしてそんな風に話し掛けてくるんですか……!」
「だって君だけの責任じゃないもの。僕も悪かったんだよ、その時の記憶は今はないんだけど。どっちも同時に飛び出したそうじゃないか。僕も君も悪くないんだよ」
飄々と言い退けた彼の言葉に、私の膝の力を奪われた。膝をついて嘆き出した私を、彼はわざわざベッドから降りて慰めてくれた。背中を摩るその手つきからでも、私を恨んでいないことが伝わってくる。その優しさが、私の心を貫き、苦しめた。こんな良い人を、私はこんな目に遭わせたんだ――。
ようやく落ち着いた私は、彼と初めて目を合わせた。綺麗な澄んだ瞳だった。私の、浅ましい姿が彼の目に映る。その目は、色を認識できない。でも、私の思いだけは、その目を通して感じてほしかった。
「私は」
「うん」
「貴方の色を取り戻します」
それこそ、
「私の両目を抜き出してでも」
「それ駄目じゃーん」
馬鹿にされている。本気にしてもらえてない。知らず知らずの内に声が大きくなる。感じ取って、その場だけの決意じゃないの。
「私は! 本気なんですよ、ふざけてると思わないで……、お願いですから……!」
「……本気なのはわかってるって。でも、君の目を僕に移植したら、君は見えなくなっちゃうじゃないか。それとも、僕の目を君に渡すの? ――あのさ」
その話、もう止めない?
彼は実に不愉快そうな顔をして、首を傾げた。
「つまんない。君は全然つまんなくないのに。――そんな話よりもさ、君、またここに来てくれる? 会いに来てよ。ね、仲良くしようよ」
耳も目も疑った。彼は子どもみたいにはしゃいでいるし、声も弾んでいる。
加害者である私にそれを頼むのか? もしかして、私に罪を忘れさせないようにと思ったことなのだろうか。有り得る。内心では大いに怒り狂っている可能性もある。私はもう何も言わず、その場を立ち去った。
「約束だからね」
何度も念を押す彼に、一度だけ頷いた。
翌日、彼の病室の前に、大きな太った男性が立っていた。彼は見るからに怒っていた。彼の父親だろうか、私は謝罪の言葉を胸に、男性の前へと歩み寄った。
「すみませんでした」
男性は私に掴みかかって来た。男の人の力はやはり強く、私の体は宙に浮いた。抵抗することもなく、男の気の済むように、いくらでも殴ってもらおうと目を閉じていると、急に地面に落とされた。その音に驚いた周囲が、わらわらと集まって止めようとする。
「止めないで!」
私は男と向き合った。
「私のせいです。すべて私のせいなんですよ。殴ってください、蹴ってください。貴方はそれを行う権利がある」
男はぼそぼそと呟いた。聞き取れなくて、男に近寄り耳をすませた。
「……本当か」
「え?」
男は私の耳元で大声を出した。そして私を罵り、責め続けた。しかしその言葉のほとんどは理解できないものであった。
「ああ……ああ、あの人は、あの人は」
「あの人……?」
「笹木先生は、本当に色が見えていないのか……! あの人は、画家だというのに……!」
雷が落ちた気がした。画家。絵を描く職業。彼が画家。色が見えなくなった彼は、画家。
「うそ……」
立ち尽くす私を、無邪気な声が呼びかけた。
「山田千絵さん。ちゃんと来てくれた。良かった。早くお話しようよ」
「私はあなたに色を返します」
「そう」
「信じてください」
「信じるよ」
「その言葉だけで私は命を捨てられます」
「だから捨てちゃ駄目だって」
「捨てます」
「ばかやろー」
モノクロ世界と赤い涙 夢を見ていた @orangebbk
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