ミリィの手紙

夢を見ていた

第1話

            

            □


 いつも。郵便受けの前で待っているおんなのこがいた。

 おんなのこはミリィといった。

 毎日、ミリィは早起きする。それもこの街の住人の中で、誰よりも早く目を覚ます。しかし、それは自然とそうするものではない。彼女にとって早起きは、 何よりも苦手なことであった。

 そんな彼女が眠気まなこを何度もこすって外に出るのには、勿論理由がある。


彼女は、待っているのだ。

生まれてからまだ一度も会ったことのない、兄からの手紙を。


            □


 ミリィの兄は、彼女が生まれるずっと前に家を出て、海外を転々としている。『薔薇の国』『百合の国』『茉莉花の国』など、西から東まで幅広く、海を渡り山を越え世界中を旅して回っているのだ。

 ミリィが生まれた時――当時、既に兄は旅人として生活していた――、両親は、彼に宛てて手紙を送ったがしかし、祝福の言葉はそこにあっても、帰ってくるという旨の返事は返ってはこなかった。

 彼は非常に移り気な性格であった。

 知らせを受けた当初は、ちいさな我が妹に会いに故郷へ戻ろうかと思ったが、ふと視界の中に心の琴線に触れるもの――遺跡や、絵画や彫刻といった芸術品や、海や街の景色等々――が入ってしまい、彼の考えは淡く霧散して頭の奥底へと仕舞われてしまう。そして消えた考えを引っ張り出すこともなく、故郷の道とは逸れた道をゆく。それの繰り返しだ。

 可哀想なミリィは、そのことを少しも知らなかった。ただ無邪気に純粋に、彼と会いまみえることを楽しみにしていた。が。

「思うに。僕は妹の日常にいない人間だ。妹に会いたいきもちに嘘などないが、別段すぐさま会いにいかなくともいいんじゃないかな? 僕はこんな性格だし、妹に嫌われないために会わない方が賢明かもしれないな、はは。……まあ、手紙くらいは出してみようか」

 つまり。彼は旅する足を止めようとしない。よって妹に会いに来ることもない。健気な妹のちいさな願いは叶う見込みが薄くあったのだ。

 それでもミリィは朝早く起きる。兄から送られてくる手紙を誰より何より早く受けとるために。そして同時に、兄の帰還を淡く期待しながら。

しかし、ここ最近、兄からの便りが来ない。彼女は目をこする。こすった指に、あたたかな雫の温度を感じて、項垂れる。

「お兄ちゃん……」

 会いたいのは、わたしだけ?


            □


 ちいさな少女が、青の郵便受けの前で項垂れている。

 郵便配達の男は、少し膨らんだ手紙を手にしながら歩み寄る。

「どうしたんだい、おじょーさん」

 アーモンドのようなくりくりの瞳が、こちらをじっと見つめる。郵便配達の男はたじろいだ。その目は、とても悲しげに震えている。

「どーしたも、こーしたもないの」

「?」

「お手紙が届かないの」

 そうしょぼくれている少女に、男は優しい声をかける。

「誰からのお手紙?」

「ミトゥイお兄ちゃんからの、ミリィへのおてがみ!」

 すると、少女は影を差していた瞳を爛々とさせて、自分の兄の自慢を早口にしゃべり始めた。

「ミリィのお兄ちゃんは今もずっと外国を旅して生活してるの。知ってる? 『薔薇の国』や『牡丹の国』、『菖蒲の国』だって行ったことがあるのよ、すごいでしょ。ミリィはいちども会ったことないけどね、いつも毎月手紙をくれるの。その手紙にはいっつも素敵なものが入ってるの。ね、素敵でしょう!」

「へえ」

「でもね、今年に入ってからは一通もきてないの。もう六ヶ月もきてないの。ミリィはお兄ちゃんに何かあったんじゃないかってママに言うんだけど、ママはお兄ちゃんなら心配ないっておんなじことばっかり。……でもやっぱり、ミリィは心配だよ」

 しばらく黙っていた配達員は、手にしていた手紙をほほえみながら手渡した。 

少女は最初、不思議そうにしていたが、送り主の名前を目にした瞬間、弾かれんばかりに飛び上がり、歓喜の声を上げた。まぎれもない、自分の兄からの手紙。男は興奮のあまり顔を真っ赤にする彼女を気遣うように、はにかみながら言った。

「ごめんね。一応お兄さんからの手紙は局には届いていたんだけど、切手がどれもついていなくて。忘れちゃったんだね、きっと。もう少しで廃棄処分、えっとごみとして捨てちゃうところだったんだ。はは――……え、笑い事じゃない? おお、そんなに興奮しないで。ごめんごめん。じゃあ明日、まとめて他のも持ってくるから待っててね」

 そうして去っていった男の見送りも大概に、ミリィは嵐のように自分の部屋へと舞い戻り、兄からの手紙を一心不乱に読んだ。その手紙はどれも彼女のちいさな机の引き出しに、大切に仕舞われている。辛いとき、寂しいときにこの手紙を読むのだ。そうすれば、大好きな兄から元気を貰える。――まだ一度だって会ったことはないけれど。ミリィは思う。兄の字は男らしい、やや雑ではあるが、凛としたはっきりした字だったが、彼の書く手紙の内容は、とても夢みたいにきらきら輝いていて、まるで童話だった。ミリィはまだ見ぬ世界に想いを馳せる。彼女の想像の世界はどこも目映いほどに、輝いていて。ミリィはにこにこと笑う。兄とは会えなくとも、繋がっていられるのだ。手紙があれば。

(そうだ)

 ミリィは手紙を抱きしめながらベッドから跳ね起き、がさがさと机をあさり出した。

 ――そうだ。

 自分も、手紙を書こう。兄に。

(めいわく、かな。嫌がられる、かな)

 それでも。それでも伝えたいことがある。

 ママは言っていた。手紙は素敵なものだと。離れていても、想いが繋がるから、と。


――お兄ちゃんあのね。

ミリィはペンを走らせながら、想う。

――伝えたいことがあるの。あのね。無理かもしれないけどね、ね。

(あいに、来て)


            □


 ミリィは書いた手紙を手に、家を飛び出した。

 まだ覚えたての字が仲良く跳びはね踊っているような、そんな子どもらしい文字。それでも、気持ちだけは。会いたいという気持ちだけは、溢れてもおかしくないほどにたくさん込められていた。

「ミリィ、どこへ行くの?」

 台所にいたママに尋ねられ、ミリィは意気揚々に答える。

「手紙を出しに行くのよ!」

「まあそうなの。ってあら? ちょっと、待ちなさいミリィ、今日は郵便屋さんお休みよ、ミリィ!」


            □


 ミリィは外に出て、すううと息を吸う。空は雲ばかり。太陽は隠れて、今にも雨が降ってしまいそうだ。

 でもそれでいい。ミリィは手紙を抱えるようにして走った。それでいい。天気なんかわたしに関係ない。大事なことはひとつだけ。

 お兄ちゃん、ミリィ九さいになったよ。かけっこ二番になったよ。勉強は苦手。でも、世界のおはなしは好きだよ。お兄ちゃんが行った国、ぜんぶ覚えたよ。木登りをね、初めてやったの。そしたらおっこっちゃった。痛かったの。だから泣いちゃったわ。でもすぐ泣き止んだ。偉いでしょ? だってママが言うんだもん、そんな泣き虫だったら、お兄ちゃん呆れちゃうよって。

 ――お兄ちゃんに会いたくて、わたし、五さいになるまでずっと泣いてたんだよ。でもねママにそう言われたから、もう泣くのをやめたよ。……でも最近、お兄ちゃんからの手紙来なくなってから、たまらなくなって泣いちゃった。でもママに見つからないように隠れて泣いてたんだよ。ねえお兄ちゃん。


 ミリィは笑う。すごいでしょお兄ちゃん。ミリィは皆の前で泣かないんだよ。偉いでしょ。だから、お兄ちゃん、ほめてね。ちゃんといっぱい、ほめてね。ミリィよくやった! ってたくさんたくさん……。

 ちいさな雨粒が、ミリィの鼻のあたまをつついた。ぽつりぽつり。雨が降ってきた。ミリィは足を早める。郵便屋さんまではまだ距離がある。ミリィは走った。それでも子どもの足ではなかなか距離が縮まらない。ミリィは何度も転びそうになって、それでも唇をぎゅっと引き締めて、走り続けた。――すべては大好きなあなたのため。

 それでも、無慈悲な雨に、ミリィは堪えていたものが流れそうになるのを感じた。足が止まる。雨が冷たい。

「いい子にしてたよ、ミリィ。だから、お兄ちゃん、ねえ、ミリィに会いに」

 手紙が、よれてくしゃくしゃになった紙のかたまりが、目に入った。これではもう読めはしない。

「……っ、お兄ちゃん!」

 なんだか、会いたいという気持ちまで、ぐしゃぐしゃにされてしまったようで。

 その場で声をあげて泣いていた。あーんあーんと、切ない声が辺りに響いた。

 ――と。向こうから慌てた様子で誰かが近づいてくる。ミリィは視線さえ寄こさなかった。悲しいきもちで、それどころではなかった。

 誰かは近づいて、近づいて。ミリィを抱きしめた。ミリィはびっくりして泣くのをやめる。驚きのあまり抵抗することもできず、なすがままにされる。誰かはちいさな体を軽々持ち上げて、ミリィをミリィの家に連れて行った。

 彼女には訳がわからない。帰った二人を見た瞬間、ママとパパが見たことないくらいに喜んでいたからだ。

 ミリィを抱えた誰かが言う。

「ママ、ミリィにタオル持ってきてあげて。かなり濡れちゃったなぁ、ミリィ。寒くない? 大丈夫?」

「……朝の、」

 ミリィは首を傾げた。「郵便配達のひと?」

 そして弾けたように飛び上がり、ミリィは自分の手紙を握り締め、紙の状態をも忘れてしまうほどに必死に頼み込んだ。

「お願い! これをお兄ちゃんに届けて!」

「? はい」

 頷いた配達員は、あろうことかその封を破って、手紙を抜き取ったのだった。ミリィは唖然とする。

「わぁ、雨でびしょびしょだね。でもありがとう。うれしいよ。あとで乾かして大事に読むよ。きみからの初めての返事だね、はは。あ、でも切手がないね。これを出してたら大変だ、もうちょっとでおれと一緒の間違いをするとこだったよ、ミリィ」

「……え、え?」

「ミリィ」

 パパは可笑しそうに混乱する彼女の名を呼んだ。そして、これまた可笑しそうに言った。

「ミトゥイお兄ちゃんが帰ってきたよ、ミリィ。よかったな」

「え――」

「この放蕩息子、もっと早く帰ってこんか」

 ミトゥイと呼ばれた配達員は、にやっと笑った。「色々あったのさ」

 そしてしゃがんでミリィと目線を近づける。ミトゥイの背は高かったので、しゃがんでも、ミトゥイの方が視線が高かった。彼はほほえむ。

「そうだな。こんなに可愛い妹ができたんだから、もっと早く帰るべきだったなぁ」

「え、え、あなた、郵便――」

「ああ、それはきみを驚かせるために郵便配達をやってる友だちに頼んで服を貸してもらっただけ。切手忘れは本当だけど。友だちが気づかなかったら、ほんとに捨てられちゃうとこだった、はは」

 くるくると目を揺らすミリィに、ミトゥイはにこりとして、彼女を抱き締めた。

「ただいまミリィ。ね、おかえりお兄ちゃんって言ってよ。それから、ミリィの話を聞かせて。おれも話したいこといっぱいあるんだ」

「……」

「ミリィ?」

 ミリィは泣いていた。そして言葉にならない声をあげながら、ぐずった。何だか悔しいのだ。でも、そんな悪戯っこな彼が、ミリィが想像していたひとだった。優しくて、ちょっぴり意地悪。ミリィは抱き締めた。ちいさな体でこれでもかと、抱き締めるというよりしがみつく、の方が正しいか。

「いたたた、ミリィ、痛いよ」

「ばかお兄ちゃん!」

 ミリィは泣き笑いを浮かべた。

「大好きよ!」



そして後日、ミリィは再びペンを取った。隣に立つ兄にもたれながら、彼への手紙を書くべくゆっくりと、ちいさな手を懸命に動かして。


            了



サリマンの手記


            ■


『向日葵の国』では雪が静かに降っていた。しかし我々は散る雪に脇目もふらず、一心に足を動かし続けた。

寒風がひたすらに痛かった。身体はもはや言うことを聞かず、情けなくぶるぶると震えていた。それなのに、彼は最初に出会った頃と変わらぬ人の好さそうな笑顔を浮かべていた。そこからは、楽しくて仕方のない子どものような純粋な――私はとうに忘れてしまった――感情がうかがえた。私は俯く。とてもじゃないが、見てられなかった。それほどに、彼は眩しくあった。


まず初めに、私がなぜこんな辺鄙な場所にいるかということについてだ。


私には昔からの夢があった。それは、おとぎ話に登場する〝水晶宮〟という誰も見たことのない世界を見ることだった。その話によると、〝水晶宮〟とは、地下にできた細く高く伸びた鏡のような水晶が、地上からの水滴を溜める、泉のような場所を取り囲むようにして立っているというのだ。地下ということもあり当然暗闇なのだが、発光性のある水晶なので、辺りは星空のように幻想的で美しい、と。小さな頃の私は、それはもう目を爛々とさせてこの話を聞いていたものだった。そんな場所があるならば、ぜひ行ってみたい。ぜひともこの目で見てみたい、と。  けれども、大きくなるにつれて、思い知らされてしまう。所詮、お伽話は嘘を固めて作った話で、ただ無情に子供の想像力を膨らませるにすぎないことを。 そう、つまりは夢を諦めていたのだ。が。


ある日の新聞に、こんな記事が載っていた。

『〝水晶宮〟、発見!』

私は驚愕した。そして自分の夢が、今まで死んでいたはずの夢が、生きていたことを示すように私の胸を高鳴らせた。みてみたい。純粋にそう思ったその感情を、大切にしたい。そうしてこれからの人生を送って生きたい。私はすぐさま新聞社に電話をし、そこから色々と紹介してもらってようやく案内人と契約することができた。しかもなんと、その〝水晶宮〟を見つけた張本人が、私のために直々に案内してくれるというのだ。なんという僥倖。私は何度も感謝をした。――夢を捨てて仕事に一心に取り組んできたことへの褒美といったところだろうか。私は世間で知らない人はいないとまで言われた会社のオーナであった。


            ■


「初めまして、サリマンさん」

一礼した案内人はまだ青年であった。人付き合いの好さそうな表情を浮かべて、これから向かう場所への軽い説明を受ける。

「すぐですよ、すぐ。ここから一日もかからないかな。ま、すぐ着きます」

彼は笑った。そう言う彼の様子はやはり旅慣れてみえた。私は自分が自国を出るのは今回が初めてだということを告げた。それについても彼は笑みをよこしてきた。

「だいじょうぶです。おれがついてますよ」

彼は数えきれないほどの国を旅してまわっており、その際に偶然に(と彼は言っていた)

まだ発見されていなかった歴史的価値のある芸術品や、遺跡などを見つけたのだという。今回も例によってたまたま見つかっただけだと。

「サリマンさんは、どうして〝水晶宮〟に興味を?」

私は質問に答えた。恥ずかしながら、子供のころからの夢でして。彼はさらに笑みを深くする。一瞬、ばかにされたのかと思ったが、そうではなかった。たとえるならば、同志を見つけた時の子供、といったところか。

「わかりますその気持ち」

「は、はあ」

戸惑う私に、彼は楽しそうに語らった。

「なんかそういうの、夢、ありますよね。きらきらしてる感じかな。おれもそういう気持ち大事にしたくて、こんな風に旅して回ってるんですけどね」

私は俯いた。ならば私は、今の今までそういう気持ちを大事にしてこなかったというわけか。


            ■


よその国には多少なりとも興味はあったが、自分の家庭からは極力離れずに生きてきた。だから今回の旅は家族に無理言って、なんとか許しをもらったのだ。

「いつもみたいに他の人に任せればいいのに。社長がそう動き回るものじゃありませんよ」

そう。今回の旅は名目上、仕事に行くということにしてあるのだ。夢を莫迦にされるのが怖かったのがまあ大きな理由だが、ひとりで行きたかったというのも一応は理由である。案内人はいるけれども、見知った人はいない場所で、〝水晶宮〟と向き合いたかった。


私は内心期待していた。彼が〝水晶宮〟について色々な話をしてくれることを。

――しかし実際は違った。

彼は自分の妹の話しか口にしなかったのだ。


「おれとしては、妹なんてまあいても大して変わりはないか、ぐらいにしか思ってなかったんですけどね、やっぱね、会うとすごくかわいくて、初めて会ったときは無駄に滞在時間延ばしちゃって。故郷に戻るたびに滞在の日数が増えていくんですよ。ああ、兄貴莫迦っていうのかな。賢いし、可愛い子なんですよ」

そして懐から妹からの手紙を取り出し、こちらに見せてきた。たしかに綺麗な字で整った文章で、私の子供のころとは大違いであった。彼はうれしそうにする。

「今度はいつ会おうかなって感じです。次は『緑の国』に行ってみたいと思ってますし、そのついでになるかな? まあ、そんな感じです」

私は眉をひそめた。そして我慢できずに苛立ちを言葉にした。そんなに可愛いのなら、ずっと一緒に暮らせばいいじゃないかと。すると彼は初めて表情を暗くした。私の申し出は不可能なのだと彼は首を振った。

「いわば性分なんです。同じ場所に留まっていることはできない。安住っていうのにもまた夢があるけれど、きっとおれには無理だ。やろうと思ったことなんか、一度もないですけどね。直感でわかりますよ、合わないってね」

「……きみは好きな女性なんかはいるのかい?」

お節介だとは思うが尋ねてみた。彼は力無く笑った。

「おれは一生、誰かと結婚することはありません。それが、流れゆく者の使命ですよ」

正直にいえば、くだらないという気持ちとうらやましいという気持ちとが、半々であった。


            ■


その問答からすぐに空気を切り替えて、彼は再び妹の話題を持ち出し語り始めた。私は半ばうんざりしながらも適当に頷きを返していた。

すると急に彼は足を止めて、とある山を指差した。空は曇っており、景色は薄暗い影を受けてはいたが、山の形は朧ながらもそれとわかる。が、山はあまりに遠くにあった。彼は輝かんばかりの表情で言い切った。

「あそこにあります」

「は?」

「頑張りましょう! すぐですよ」

私はたまらなくなって声を荒上げた。たまったものではない。そちらは旅慣れしているから大したことではないのかもしれないが、私としては生まれて初めての、それもかなりの年を重ねてからの旅なのだ。正直に言うと、足にマメらしきものができたみたいで足を動かす度に痛むし、寒いし、先程から歯が忙しなくカチカチ震えている。年甲斐もなく恥ずかしいと黙っていた不満を弾みでぶちまけてしまった。彼は呆気に取られていた。けれども次の瞬間には元に戻っていた。

「お疲れなら、尚更早くたどり着かないと。あいにくですがここには一面の雪しかありません。さすがに雪の上に腰を下ろしたいわけはないでしょう。あと本当にもう少しですよ。一息に行きましょう。変に休みを挟むと余計と辛いです。おれがそうでしたから」

「……」

悔しいが正論だと思った。それに、やはり自分よりも格段に旅慣れしている案内人に、無力な私はただただ付いて行く他なかった。


 雪山は険しく、私を嘲笑うかのように雪が強く吹き荒れた。何度も足を止め、彼を呼び止めた。彼は嫌な顔一つせずに、じっと待ってくれた。ゆっくりと歩いてくれた。「大丈夫ですか?」「だいじょうぶだ」「もう少しですよ」

 しかし彼の『もう少し』は信用できなかった。私は自身を叱咤する。けれども、経験の差といえばそれで終いだが、私の体力はとうの昔に、気力はついに限界にきてしまった。私はたまらなくなって、前を行く背中に言葉を投げた。

「もう無理だ」

「無理じゃありませんよ」飄々とした言い方がむかついた。

「お前にとっては無理じゃないかもしれんが、私はもうとっくに疲れ果てていて、もう、足が前に行かなくて……」

「行かないと思うから行かないんですよ」

「おま、えは……!」

 彼は振り返った。その時初めて、彼の意志で足を止めたのだ。私は思わずじっと見つめる。彼の表情はどこか冷たく、そっけなかった。呆れられたのだ。なんとなくそう感じた。

「できないと思うから、できないんです。やろうと思わないから、やらないんです。叶わないと思うから、叶わないんです。そんなんだから叶わないということが叶っちゃうんですよ。おれはまっぴらです、そんなの。やりたいことがあるなら、そう思ったなら、思った通りに。うまくいかないからって、諦めたら、うまくいかないままで終わってしまう。貴方は、水晶宮を見たいと、そう思ったんでしょう。なら最後まで、諦めないで。悲しいきもちや辛いきもちで、大事な思いを隠したりしないで。おれは貴方に、そんな風に生きてほしくない」

「……、どうしてそこまで」

 言ってくれるんだ。

諭すように、生きた歳の差など感じさせずに、優しく語られた言葉に、私はしばらく声が出なかった。

「なぜってそりゃ、あなたの夢が美しいから」

「う、美しいのかい?」

「子どものころからの、大事な夢なんでしょ?」

 さも当然と言い切った彼に、私は動揺した。彼はそこでようやく微笑んで、私に手を差し伸べた。

「さあ、貴方の夢を叶えに行きましょう」

 すぐですよ。

 私は黙ってその手を取った。

 そして心の中で、静かに、一礼した。


            ■


 山の姿がはっきりと目で確認することができた。私は叫びだしたい気持ちを押し殺して、彼を一瞥する。彼は「ここからですよ」と山の麓を歩き回り、ある場所で立ち止まった。呼ばれるままにふらふらと近寄ると、そこには人が何とか通れそうな穴のようなものがあった。

「冷たいですが、這って入りますよ」

 雪をかき分けながら、彼は言った。

「きみはここから入ったのかい」

「ええ」

「どうして入ってみようと?」

 彼はうれしそうに口角を上げた。

「穴があったからですよ」

 単純明快。私は柔順に彼に従った。


            ■


 中は暗かった。彼は用意してきたランプを点した。それでも辺りは暗く、音を喰っているかのように静かであった。その静寂を脅かすのも気が引けたが、私は彼に問うた。

「ここは一体……」

「これは実は正しく言うと、緑が生える山とは別物なんですよ。地下にある泉の上に土が覆いかぶさって、山みたいになっただけなんです。その上に雪が降るんで、野山みたいになってますけどね」

 彼はさらに奥へと進んでいく。私は高鳴る鼓動を感じながら、疲労困憊な体を引きずるようにして後を追った。勿論彼に疲労の色は見えない。私を気遣うようにして、ゆっくりと、歩いてくれるのだ。しかし私はそれを振り切るように歩いた。早く見たい。勝手な話だが、もうすぐ出会えるのだとわかると、それ以外のことを頭に置くことができなかったのだ。

 我々は歩いた。遠くで、ぽつん、ぽつんと水滴の音が反響する。私は訊いた。

「向こうには水源があるのか?」

「ええ。まあ、楽しみにしていてください。きっともう、何も言葉にできないと思いますよ」

「そうかな。それは楽しみだ」

 こつん。二人の足はそこで止まった。彼は息で火を吹き消した。私は圧巻する。そこは、〝水晶宮〟という名にふさわしく、辺り一帯を水晶でうめ尽くしていた。

「ここが水晶宮ですよ」

 その水晶たちは皆、自身に光を纏わせていて、辺りは星空のように目映く、時折落ちる水滴の音が、幻想的な世界を物語っている。光は常に一定というわけではなく、我々が呼吸するように光もまた、明るくなったり暗くなったりを繰り返して生きていた。そう、そこは生きものの世界だった。

 お伽話通りに泉の周りを、長さのばらばらな細長い水晶が囲んでいた。水が、水晶の光を受け、おぼろげに揺れる。すると急に横から、

「ちょっと見ててください」

 と、彼が足もとに落ちていた水晶の欠片を手にし、泉の方へ向かって放り投げた。私は何をするのかと怒りのあまり頭が真っ白になったが、その後に聞こえてくる音に見事に言葉を失った。


 彼の投げた水晶は、細長いそれのひとつにぶつかった。そしてそれが澄んだ音を立てた。すると、隣にあった水晶たちも共鳴し、音を立てはじめ、ついには我々の立つすぐ側にある水晶までが、一緒に声を上げだしたのだった。音の高低はどれも微妙に違っており、強引に例えるなら、オルゴールを何台も同時に奏でたような、それでいて統一性がとれ、硝子のように透明な音色として歌をうたっているのだ。

 彼は言った。

「ここの水晶たちは、皆、動物や植物のように生きているんです。ほら、植物に触ると葉っぱをちぢこめるやつ、いるでしょ? あれと同じことで、触れられると音を出して、それが皆に伝わっていくんです。あの泉から触るのが一番綺麗な歌になるんです。あんまり強く投げつけると傷つくかもしれませんが、ここの水晶は頑丈なので、そう簡単には壊れませんよ。やってみますか?」

 知らずしらずのうちに言葉が出ていた。

「いや……いいよ」

「おや、どうして」

「……ぼくには、今の一回で十分だ」

「そうですか」

 彼はそこから口を閉ざした。私はずっとそこにいた。美しさに酔い浸り、歌の余韻に耳を傾け、目を閉ざした。その前にふと隣を見やると、彼が地面に落ちていた水晶をポケットにいれるのが目に入った。私はふふと笑った。

「妹さんにかい」

「……ええ」

 彼は目を細めた。

「彼女もいずれ、おれみたいに外へ出たいって行ってます。おれにそれを止める権利もなければ、止める理由もないですし、彼女がしたいようにするのがいいと思ってますが」

「だとしても、心配だろう?」

「彼女自身に心配はないんですがね、やっぱり旅してると危険なこともありますし」

 でも、と彼は続けた。

「きっと彼女は、いつかおれの通った道を通ったり、通らなかったりして、ここや、ほかの場所にたどり着くんだと思います。そのための目印を作ったりするのは、野暮な感じがしますが、やっぱり」

「やっぱり」

 彼は高らかに笑った。照れの混じった、無邪気な笑み。彼には笑顔が似合う。自然と何度も彼の笑顔を書いているから、やはり私にとって彼の笑みは印象強いものなのだろう。

「やっぱり?」

「やっぱり! お兄ちゃんすごいっていわれたいですからね! やりたいことはやる、おれの信条なんで妹には悪いけれど、ここは我を通させてもらいます!」

「うすうす気づいていたが、きみはとても自己中心的な人だねえ」

「そりゃそうでしょ」

 彼は言う。

「人間誰しも、妹に好かれていたいものです」

 ひどく彼らしい持論だと、彼につられて私も笑った。こんなに愉快に笑うのは、とても久しぶりだった。


 我々が帰りに寄った国で、彼宛てに手紙がきていた。勿論彼女からだ。彼は深刻そうにこちらに顔を近寄せて、囁いた。

「どうしましょう、早く帰ってきてって言われちゃいました。」

 この分では、新たな恋人などできそうもないなと、私は大きく笑ってみせたのだった。



            了

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