マイ・クリスマス・カロル

夢を見ていた

第1話



私は日本から出たことがありませんから他の国がそうなのかはわかりませんが、少なくともこの国では、陰気で引っ込み思案だと損をするらしいのです。さらに相手を毒づいたり、ちょっとでもクラスのみんなに気に入らないことをすれば、簡単に孤立していじめられてしまうらしいのです。

この「クラスのみんな」というのが面倒なのです。正直に言ってしまえば、全体意思であり、権力のある人間のエゴにまみれた独断でもあります。

私はこれが非常に窮屈でした。私の「クラスのみんな」は直接口にしたりはしませんでしたが、空気が、私を拒絶していました。私の被害妄想、ただの勘違いかも。たしかにそう考えたことも幾度もありましたが、私も人間。十何年しか生きていない高校生であったとしても、生まれた時にどうやら植え付けられたらしい本能が鋭く感じ取るのです。おそらく、自分への敵意というやつを。それは案外 莫迦にできない時もあったりするのです。そう信じたいものではありませんが、無視できない感覚なのです。

人口の少ない、あまり発展していない町にある古い学校には、管理の緩い場所があります。私の学校だけかもしれませんが。ともかく。

屋上。と来れば、なんとなくみなさまもお分かりでしょう。古びた南京錠を工具でぽかり。錠は呆気なくも簡単に壊れてしまいましたが、私の知ったことではありません。

そうです。私は今日、自殺します。みなさん、早速ですがさようなら。

ちなみに言うと遺書はありません。理由はそうですね、漠然とした不安に堪え切れなくなったから。これでいきましょう。自分の脳内で遺書を書きます。みなさま、せいぜい私の分まで楽しく楽して生きてください。長い髪が風になびきます。今日は日曜日。部活動に励む生徒や教員しかいません。まあ、今私が屋上にいると誰かが気づいたからって、結果どうすることもできないでしょう。せっかくですし、彼らに目撃者にでもなってもらいましょうか。トラウマになってしまったらごめんなさい。きっと将来素敵な異性があなたを支えてくれますから、ご心配なく。トラウマなどの明らかに弱い点があれば人はあなたに手を差し伸べたくなります。これはさすがにフィクションの読み過ぎでしょうか。

風で浮き上がるスカートを気にすることなく柵を乗り越え、着々と死にゆく準備をします。上履きは勿論脱ぎました。はかない人生でした。一世一代の大ギャグです。

いざ、さらば! 笑顔でもって別れましょう。あばばばば。

「おまえのブラックユーモア、寒すぎて逆におもしれーな」

ははは。現実の空に響いた笑い声。あまりの急なことに私は振り向きました。まさかこんなところに誰かいるとは。いや、鍵を開ける際に人がいないことはちゃんと確認したはずです。そして柵を乗り越える際にも念入りに見渡しました。では、なぜ。

「今来たに決まってるだろ? おまえ、やっぱ頭悪いな」

「失礼な」

 私はこちらに歩み寄ってくる学ランの男を睨みつけてみました。効果なし。相手は飄々とした様子でポケットに手を突っ込んで、偉そうな嘲笑を浮かべて吐き捨てました。その男、ちびである。おそらく私より小さいです。ズボンの丈も随分余っていました。

「気にしてるんだからもっとオブラートに包んで話せよ、莫迦女」

 中性的な顔つき、中性的な声色。歳をお召しの女性からおモテになりそうです、その目つきが少しでもマシであったなら。まるで地獄の底から這い上がってきたかのようなぎらぎらと欲望に輝くその瞳。見ていると妙に落ち着きません。

「お、今度は良い線いってた。さすが、血のつながりは莫迦にできないわけだ」

「一体何のお話をしていらっしゃるのですか? ……それよりもまず、何故さっきから私の心の声とあなたの会話が成立しているのでしょう。私今まで無意識にお喋りとかしていました?」

 不思議現象に対応できなかった私はかわいらしく小首を傾げてみました。鼻で笑われました。断固抗議します。

「本題に入ろう」

 はて、こんな生徒などこの学校に居たかしらむと自分の記憶をまさぐってみる。少なくとも同じクラスではなかった。私を仲間はずれにしたやつの名前は全員覚えている――というと執念深く聞こえるのでやめましょうか。

 こんな、人を射殺しかねない目をした男子高校生がいたら、頭の悪い私でもさすがに覚えているはずです。一度見たらとても忘れられそうもない、この強烈なまでの黒い光。

 彼はその目を細めて、にたりと頬を吊り上げてほほえみました。他でも無い私に、です。私は自分の肌が粟立つのを感じました。それはおぞましい笑みで、同時に地を這うような低い声でした。

「俺は、おまえを救いに来た」

「は?」

 それはそれは愉快そうに彼はにやにや言いました。

「おまえ、死ぬつもりなんだろ」

「えっと。誰がどう見てもそうだと思いますが」

「だからそれを止めさせるって言ってるんだよ」

「……あー。お気持ちは有り難いのですが、遠慮させていただきます。放っておいてくれませんか。そうすれば、すっと飛び降りますんで。すっ・ぱっ・ぱっと逝きます。すぐ済みます。ただ、死体処理だけお願いすることになりますが……。とりあえずですが私は、『今から死ぬから止めるなようわああ』などと喚いた後で『実は死にたくないんだようわああ』などと咽ぶ予定はありません。引き止めるクラスメイトも必要ありません。どうせ友達いないんで。なので、そういう自己満足の善意というものは私にとって正直迷惑でしかありませんし」

「迷惑ねえ……」

 彼は少し苦笑して、吐き捨てました。「こりゃ救い無いね」

「でしょう」

 それにしても柵を挟んで和やかに会話とは可笑しな場面です。早くしなければ下にいる生徒や教員に気づかれてしまいます。焦る私に彼はゆったりと勿体ぶるように話し掛けてきます。

「まさかここまで堕落しているとはね。ちょっと予想外だった。これは根深いわ」

「そのう。私、そろそろ逝っていいですか。早くしたいんですけれど」

「もうちょっと待て」

 私は口をとがらせて渋々従った。

「巻きでお願いします」

「任せろ。で、もう一回言うが俺はおまえを救いに来た」

「はい。先ほどもお聞きしました。で、何なんですか。何神様ぶってるんですか。何かの病気ですか頭の」

「神様がおまえなんか救いに来ると本気で思っているのか?」

 そこで思わず言葉が詰まってしまいました。私らしくありません、生まれてこの方言い負かされたことなんて一度もなかったのに。私は焦って言葉を探しました。が、それよりも早く彼は私に向かって高らかに宣言しました。

「俺は悪魔だ」

 私は確信しました。

「わかりました」

 こういうのは、適当に流してしまおう。構うだけ無駄だと判断したのです。さすがに頭の病気など私のような一女子高生には対処できませんから。できることは救急車を呼んであげることくらいでしたが、あいにく私は命をなげうつことで手一杯でしたし。

「救いの無いおまえを、仕方ないから神の代わりに引き上げてやる。喜べ」

「はい喜びます。わーい」

「よしじゃあ戻ってこい」

 そう言って彼が人差し指を立ててちょいちょいと動かしました。すると何と私の身体が宙に浮いたのです。

「は?!」

 じたばたしてみても無駄でした。私の身体は中枢神経からの命令を完全に無視しています。というよりも物理的にあり得ないことが現実に起こっていました。生と死の分かれ道だった柵を私の身体はぷかぷか浮いて越えて、彼の足下にまできたところで降ろされました。

突飛なことに頭がついていきません。幻想文学の読み過ぎでしょうか。まさか指一本で私の身体が浮くなんてそんな魔法みたいなことが、あるわけがない。

「でも悪魔だから魔法も使える」

「いやいやいや! ちょっと待って!」

 立ち上がろうとするも腰が抜けて立てなかった。情けない。これから飛び降りようとする者がこんな打たれ弱さで大丈夫なのか――とそれについてはひとまず置いといて。ここは現代日本なはずだ。科学もある程度発展してきて、オカルト的な現象が科学のメスによって散々な目に遭っている現代日本なはずだ。魔法など。あり得ない。日本にサンタさんがいると信じている大人ほどあり得ない。

「なんだ、信じられないのか。何ならもう一回、いっとくか?」

 私の返事も待たず、彼はまたもや私を宙に上げた。それも上下に素早く。スカートが翻るよりもまず、人智を越えた力に恐れをなした。降参だった。気づけば、信じますからやめてくださいと喉奥から絞り出すように出た掠れ声が辺りに響いた。彼は得意になって、屋上のタンクまでも持ち上げ出したのだ。もう使われていないから問題はないだろうが、私が提起しているのはそこではない。

「怖かったか?」

「……ええとっても」

「じゃ、もう死ぬのはやめろ」

 私は迷わず即答する。「いえ、死にます。今日絶対に死にます」

「何故?」

「私のために死ぬことができるのが今日しかないからです」

 乱れる呼吸を整えることなく喘ぐようにひたすら真剣に訴えた。そうなのだ。明日では駄目なのだ。彼は表情を変えることなく質問を重ねた。

「何故死にたい?」

「言わなきゃ駄目ですか」

「言っても無駄だが」

 私は一瞬逡巡してから、答えました。それが自分の心のすべてを語っているわけでは決してなかったけれど、あながち間違っているわけではありませんでした。

「……嫌になったんです、ぜんぶ。それだけです」

「――もう一回上下に飛んでみるか?」

 私はぎっと彼を睨み付けました。私の頭はそんなに単純ではありません。私の意思はそんなに簡単に揺らぎません。そんな思いを込めて彼と対峙しました。腰は抜けていますが。

「そんなことをしたって私の心は変わりません」

 彼はそこで初めて私の目を真剣に見つめてくれました。

そして一言。「だろうな」と。私は少し安心して頼み込みました。

「諦めてください」

 しかし彼は首を縦に振ってはくれません。

「いや。諦めない。とるべき手段が決まっただけだ」

「それはつまり、」

「実力行使?」

 彼はひたすら無慈悲に私に笑いかけた。なるほどその笑みは、確かに悪魔のそれだ。私は本当の意味で確信しました。

「いいじゃねえか、少し付き合ってくれるだけでいいんだ。……いや、付き合ってもらうのはおまえにとって利点が無いし、面白味が出ないな。よし、じゃあ賭けをしよう。これから俺が全力を尽くしておまえを幸福にしてやる。そこで少しでもおまえが生きたいと思えば俺の勝ち。おまえが変わらず死にたいの一点張りなら、おまえの勝ち。どうだ?」

「あり得ませんね、私が生を望むなんて」

「そう。あり得ない。ならばもし、おまえが生きたいと思えば、俺はおまえの魂を頂いてもいいな? 生きたいと自分から願うわけがないと、おまえはそう主張するわけだから」

「えっと、私の話を聞いていましたか? 今貰ってくれてもいいと申し出ているのですが」

「今にも投げ捨てようとしているものを、一体どこの誰が欲しがるというのか」

あまりに正論で黙ってしまいました。どうも今日は調子が出ません。このままでは呑まれてしまいます。私は必死に頭脳を働かせて言葉を投げかけました。

「私が勝ったら、何が貰えるんですか」

「なんでも」

 彼はなんでもないように言いました。「悪魔の全権力をもってして、おまえの願いを叶えてやる」

「まるで神様の猿真似ですね」

「なんとでも言えよ」

「……あなた、またこの時間に私を連れ戻すことはできますか?」

「時間旅行もお手の物、ってね」

 ふむ。どうやらここで手を打っておかないことには彼も納得しないでしょう。彼が嘘をついていたらどうしようもありませんが、ともかく相手が飽きるまで我慢して勝てば、この時間まで巻き戻してもらって、この日に私が死ねばいいんですから。少し前後してしまうけれど、私の願いは叶うわけだ。なかなか私の非現実への適応力が高いのではないでしょうか。この適応力が現実でも生かされれば現状が変わっていたかもしれませんね、多少。

「……いいでしょう。契約します」

 私はその賭けに乗りました。自称悪魔と私は拳をぶつけあった。信じられないことが多いけれど、実際私の思い通りに事が運んだことなんて今までなかったわけで。それが魔法とか悪魔という形になって現れただけなのだと思うとそう抵抗感もなく受け入れられた。自分の身体で魔法を体験したことも大きい。何より中学生まで自分が魔法使いだと信じていた私にとっては、少し心が躍る存在でもあったのだ、彼という非現実は。

「さしずめおまえは悪魔に魅入られた人間・ファウストってところだな」

「本家の悪魔は人間を堕落させようとするんですよ。あなたは私を救おうとしているわけでしょう。立場が真逆ですよ、メフィストフェレスさん」



 手短に行こう。そう言って彼は小気味よく指を鳴らしました。

「飛ぶぞ。俺の手をとれ」

 意味が理解できずぐずぐずしていると、舌打ちが聞こえました。彼は乱暴に私の手を取って思い切り握りしめました。私は本来人との接触を避ける傾向にあったので――云々。

「おまえ意外と可愛いとこあるな」

「黙れ」

耐性のない私は気を紛らわすべく辺りを凝視しました。すると私たちの前を〝景色〟が信じられない速さで過ぎ去っていくのです。電車や新幹線の窓から覗く景色の流れとはもはや比べものにならないくらいに。それは無数の線でした。私の身体は重力に抗うかのように前方にのめりこんでいます。景色が動いているのか、それとも私たちが動いているのか。彼はびくともしていません。飄々とした表情でこちらを指さして笑っています。「おまえ、顔、やばい」

気づくとそこは屋上ではありませんでした。

私たちは何列にも同じ形の机と椅子がまっすぐ並んでいる場所に立っていました。前方には一枚の大きな緑の板が掲げられていました。そこには日付が書いてありました。朝日が無機質な窓から射しています。それはどこか見慣れた、いささか居心地の悪い空間でした。

「というか私の教室」

「おまえ……自分の教室に対して居心地が悪いっておまえ」

「あの、魔法か何か知りませんが私の脳内読まないでください。私のプライバシー」

「まあいいわ。とりあえず、自分の席座ってみ? そうしたら始まるから」

「……何がですか」

 私は促されるまま自分の席に着きました。彼は時計を眺めながら、ぼそりとつぶやきました。

「過去の改変」

 止まっていた針が、かちりと音を立てました。


「聖ちゃん! おっはよー、今日もはやいね!」

「は?」

 教室の扉を勢いよく開け放った彼女は私のクラスメイトの小森さんだ。

小森さんは普段から明るく元気で私とは真逆の存在だった。クラス長や文化祭実行委員などで積極的にクラスのために尽力してくれた素敵な人だった。いつも扉を壊れそうなほど開け放つので皆から笑い種にされている。それに照れ笑いで応えてみせるのが非常に魅力的だった。

いやいや、問題はそこではない。

「せ、聖ちゃん?」

「ん? え、だって、高村聖子で聖ちゃんでしょう? みんなで決めたじゃん、忘れちゃったの?」

「え、え……」

 戸惑う私に小森さんは詰め寄った。そして嘘泣きを始めた。私はますます訳がわからなくなる。

「あたしたちの仲なのにひどい……」

「いや、あたしたちの仲って――」

 私は今まで過ごしてきた学校生活を振り返ろうとして、はっと気づく。そしてさっと自分の教室を見渡した。彼の姿は見えない。しかし、私は正気を取り戻すことができた。危ない危ない、これは彼の術中だったのだ。あまりに唐突に、これまた異常すぎる状況に巻き込まれたため、気が動転してしまった。私は一度深呼吸をし、心を新たにしてからぎっと彼女を睨み付けました。が、効果は薄いようで。

 ともあれ、これは彼の作為的な過去なのだ。何も恐れることはない。私は何があっても心変わりはしません。私は堂々としておけばいいのだと思うことで気持ちに余裕が出てきました。

「私たち、そんな特別仲良くないですよね?」

 むしろあなたを筆頭に仲間外れにされていたのですが。せっかくの機会なので日頃言えないことでもぶつけてみようかしら。どうせ偽物の世界だからと私は口を開けようとして、閉じました。

「よう、何してんだよ聖子」「おはよう、今日も寒いねえ、高村さん」「聖ちゃん、宿題やってきた?」

向こうから続々とクラスメイトがやってきた。そしてなぜか彼らは全員こちらに集まってくるではありませんか。私は正直かなり戸惑いました。鋼の心も虚無の夢に心熔かされそうになりました。初めてでした。こんな多くの人が私に話しかけてくれることなんて。

「ちょろ」

 どこからか、こみあがる笑いを堪えるような彼の声が聞こえてきました。皆は聞こえなかったようですが、私はこれにこほんと咳払いで応えました。いかんいかん。策に嵌まりに嵌まっている。

 私は机の中に置きっぱなしにしている本を一冊取り出し、皆の前で広げて読み始めました。読書は大好きです。ですが、こんなにも大勢の人に注目されている中で本を読むというのは、なかなかに勇気がいるものです。文章がうまく理解できません。なけなしの集中力で必死に文字を追いかけました。が、刺客が私を遠慮なく妨害してきます。

「聖ちゃんは何を読んでるの?」

 小森さんの鈴のような声に、私は低い声で答えました。視線は本から離しません。

「夏目漱石の『こころ』です」

「わー! ソウセキだって! そんな難しい本、どうして読んでるのー? 好きなの?」

「……好きなのもありますし、次の国語の授業はこれをやりますから」

 わあ! 私の返答に一々皆が湧きます。私はびくりと肩を震わせました。逃げ出したい。しかし、ここで席を立てば私の負けな気がするので我慢します。彼女らの中から洪水のように留めない言葉が流れてきました。

「真面目だねー」「えらいよねー」「私、そんな本とか全然読めないよ」「本を読むよりも携帯さわってる方が楽しいし」「ホントそうだよねー」

 私は黙っていました。態度は変わっても、彼女らの本質は変わっていませんでした。私は目を伏せて、静かに本を読みました。妙に落ち着いた気分になりました。

 そんな中、透き通る声がしました。

「そうかな? 私、いいと思うけれど」

 はっと顔を上げました。よく図書室で見かける文学少女で有名な佐藤さんでした。私はひそかに彼女に憧れていました。物静かで美麗で、それでいて輪の中にうまく順応していて。まさか彼女が庇ってくれるとは思いませんでした。私は思わずじっと彼女を見つめていました。彼女は言いました。

「みんなもっと読書するべき。本って面白いよ? 色んな世界も知ることができるし、心が成長するもの。私、高村さんが本好きなの、とっても嬉しいよ」

「さ、佐藤さん……」

「それに、あるよね、そういう太宰治や芥川龍之介の作品をのめりこむように読む時期って。文学かぶれっていうのかな。私の本当の心を分かってくれるのはこの人たちだけ! みたいな、かぶれ時代」

「……ん?」

「大丈夫、みんな通る道なんじゃないかな! そういう痛々しい時期。私はそういうの無かったけれど」

 絶句。私は思わず立ち上がった。

 一瞬にして皆の姿は消えた。正真正銘、悪魔の笑い声が響いた。

「どうだ、生きたくなったろ?」

「いやむしろ先ほどよりも死への願望が急速に急激に高まりましたが何か」

 彼は私を一瞥して、何やら考え事をしているようでした。

「ふーん」

「なんですか。というか賭けに勝つ気あるんですか。こんなくだらない茶番繰り広げるくらいなら死にたいんですけれど私。ほらもう、私ここにきて何回死ぬって言ってます? 中二病じゃあるまいし、さくっといきましょうよ、こんな言葉の無駄遣い嫌ですよ」

「よしじゃあ次に移行」

 彼は今度は恭しい仕草で私に手を差し伸べました。思わずどきりとしてしまいましたが、その顔が始終可笑しさを堪えるかのようにふるえていたので、私は力任せにその手を握りつぶしてやりました。悪魔が何やら呻いていましたが無視を決め込みます。これでも握力は強い方です。……本当に、さっさとしてください。


 気づくとそこは、懐かしの屋上でした。戻ってきたのです。私はうれしさのあまり、そのまま走って行って飛び降りようかと思いましたが、襟元を引かれたためにあやうく窒息するところでした。窒息死って苦しいらしいので嫌なんですよね。

「ではなく」

「ここはさっきの場所と違うぞ」

「どう見たって同じじゃないですか。あなたはあまりに私の意思が強いために、用意していた打つ手もなくなり、諦めたのでしょう。その諦めの早さについては感謝申し上げたいほどです。ありがたや」

「現在の改変」

「は?」

 彼は顎で向こうを差しました。「見てみろよ」

 ふと差された方を見やると、長い黒髪をはためかせる少女がいました。彼女はじっと真下を眺めているため顔は窺えませんが、本能で察しました。あれは他の誰でもない私でした。

 私の周りには私たち以外誰もいません。彼女は後ろを振り返りません。止める者も誰もいません。靴を脱ぎ始めました。安全のために設置された、錆びた柵を乗り越え、ためらうことなくそのまま――。

 私は自分のいた場所に駆け寄りました。生徒の悲鳴が遠くで聞こえました。上から見るとそれは妙にこぢんまりとしていました。風が冷たく吹きました。胸の中がすっと冷たくなるようでした。

「どうだ、自分という存在が消える瞬間は」

「胸がスカッとしますね」

「強がるなよ」

 私は隣に並び立った彼を詰問しました。「どうしてこんなものを見せるんです。胸糞悪いでしょ……」

「これが俺が止めに行かなかったときの世界。――いやあ、しっかし歪みないなおまえ。すこっしも躊躇しないのな。流れる動作すぎるだろ。思い切りが好いというのかさてさて」

 彼の言葉は不謹慎極まりないものでしたが、命を粗末にしている私が口に出す権利などあるはずもなく、それに遠回りな私への賞賛と受け取れなくもなかったので黙っていた。何故か視界がうるみ出した。そうか、私、あんな風に死ぬんだ。彼は続けた。

「見ろよ。下は大騒ぎだ。おまえの処理をしなくちゃならないからな。部活中の生徒も教員もえらい迷惑だよなー」

「やめてください」

 本格的に涙が出てきた。どうしてだろう。何に対して泣いているのかがわからない。鼻水も出る。見られたくなくて顔を伏せた。見られたからといってどこが痛むだろう。痛む心なんてもう無いはずなのに。

「意外と感情豊かだよな、おまえ」

「そうですね。私も自分がこんなになるなんて、今初めて知りました」

「自分のことなのに?」

「自分のことなのに」

 しばらく、お互いに何も言いませんでした。どうやら私が泣き止むまで待ってくれるようでした。冬の風が耳元をびゅうと通りました。私は顔を上げて空を仰ぎました。どうか涙をとめてくれよと、いっそのこと涙を凍らせてくれよと、もう暖かい場所に戻るつもりはないからと。


「さて。行くか」

 悪魔は伸びをしながら言いました。

「まだ行くんですか」

 悪魔はさも当然と言わんばかりにうなずきました。私は無性に腹が立って怒鳴りました。

「それで最期にしてください」

「――いいよ」

 まさか受け入れられるとは思っていなかったため、驚きのあまり声を失いました。言葉、声、私のアイデンティティが着実に削られていく。心も、すべて。このちいさな時間旅行が終われば、私はすべて丸裸にされた状態で投げ出されるのではないでしょうか。

賭けなんてどうでもよくって、彼はただ私を苦しめることを目的としているのではないでしょうか。思うに彼は、実は神からの使者であって、私が命を大事にしないからそれ相応の罰を与えさせているのではないでしょうか。だとすれば私は何とも莫迦です。とんでもない申し出に乗っかってしまったのですから。自分の首を絞めるとはまさにこのことでしょうか。辞書を引く元気も、もう残っておりません。

絶望の色にさらなる絶望を塗りたくられて、この世とさよなら、とは。

 悪魔というのは、なかなかに残酷なのかもしれません。



 またもや見慣れた場所に着きました。私の実家です。部屋の中にいました。

 マンションの1LDKということもあり、元々そう広くはないのですが、必需品の家具や電化製品から、あまり必要性のなさそうな小物までの様々な物が、寄せ合いへし合いしながら身を置いています。壁には幼子が描いたのかクレヨンの絵が所狭しと飾られています。その絵の隅っこの方には拙い字で書かれた名前が記されていました。

彼は遠慮の欠片もなく、そのままどかりと床の上に座り込みました。私も恐る恐る彼と対峙するように座りました。彼は口を開きません。私は手もち無沙汰ぎみに辺りを見渡していました。……以前来た時よりもずっと作品が増えている。絵を描くのが好きなあの子だから、きっと家に帰るなりクレヨンを握って無心で描いているのでしょう。上達しているかどうかは分からないけれど、個性あふれる可愛い絵でした。

ああ自分は帰ってきたのだと思いました。一年ぶり、でしょうか。あの子は毎日楽しく過ごしているのでしょうか。私は彼に尋ねました。

「ここはあなたの言うところの改変された未来ですか? ディケンズ的に言えば未来の霊、つまりあなたが、私の死後どうなっているかを見せてくれるのでしょうかね」

「いや? 未来を改変したって意味がないだろう」

 悪魔は小首をひねって答えました。

「これは未来でも現在でも過去でもない。かといって俺の力によって歪に変えられた世界でもない。切り取られた時間だ。が、俺次第でまた動き出すってところだな」

「私は何をすればいいんですか」

「別に、何も? このままゆっくり部屋を案内してくれてもいい。――一年ぶり、なんだろう?」

 私は苛立ちのあまり身体を乗り出していました。

「だから勝手に読むなってあれだけ――」

「読まなくてもわかるさ」

 立ち上がり、彼はどこかへ向かって歩き出しました。「おまえがここに住んでないことくらい」

 私も急いで立ち上がって彼を追いかけました。荒らされては堪ったものではありません。特にあの子の作品を傷つけでもしたら――。

私は徐々に駆け足になってきました。この部屋はそんなに広くないはずなのに、なかなか彼の背中に追いつくことができません。逆に後ろ向きに歩けば近づくというひねくれ魔法でしょうか。もう何がなんだか理解できません。

その中でも最も理解できないことがあります。そもそも何故、ピンポイントに私の家を見つけてきたのでしょう。悪魔ならなんでもお茶の子さいさいだとでも言うつもりですかね? 魔法万能すぎるでしょう。

ついに私は足を止めました。そしてしゃがみ込み、俯き、目を閉じました。疲れたのです。身体ではなく心が。少し前から他人には聞こえやしない悲鳴を心はずっと懸命に上げ続けていたのです。私に気付いてほしかったから。私は無視していました。そう、ずっと、前から。

 自分を騙しながら歩くのも疲れました。笑うのも怒るのも泣くのも疲れました。食べるのも寝るのも何もかも面倒になりました。こんな風に考えるのはおかしいって何度もなんどもやめさせようとしました。それでもずっと消えない。こびりついたまま何度洗い流しても消えてはくれない。生活が怠惰になりました。やりたいものがみつかりません。自分の消滅を望むようになりました。そっと目を閉じて、死にたいと思うようになりました。

 きっかけというものはこれといってありませんが、そのひとつふたつの小さな思いが、強い願望に変わった日はあります。

「それが親の離婚だろう」

 ゆるゆる顔を上げると、前を行っていた悪魔がこちらを覗きこんでいました。私は目を細めました。なんだ、何もかも知っていたんだ。

「悪魔っていうのは元来、ずる賢いものだろう?」

「全部……調べ上げてるってわけですね」

「だけど、おまえが語れよ。頭のなかでもいいからさ。おまえの言葉で聴いてみたい」

「物好きな悪魔ですね。そしてすこぶる意地が悪い」

「お褒めに預かり恐悦至極」

「いいでしょう。語るに堕ちてあげましょう」



「私の親は、私が中学一年生になる前に離婚しました。元々仲の良い夫婦ではありませんでした。母の金遣いの荒さや父の浮気性から始まり、やれ洗濯が汚いだやれ子どもの面倒を見ないやら、それはもうどうしてそんなにバリエーション豊かに喧嘩ができるのだろうと思うくらい喧嘩をしていました。喧嘩するほど仲が良いと世間様では言うそうですが、本当に仲が良い人はお互いを尊重するから滅多に喧嘩をしないと思うのです。私の両親は時に互いに手をあげて戦っていました。私は巻き込まれないように息を殺して自室に籠もる日々でした。

 離婚すると聞いたときは、ああやっとかと安堵したのを覚えています。当時の私はそう、当時から文学かぶれの痛々しい子どもでしたから、大人ふたりのみっともない姿にあきれ、離婚という子どもにとっての非現実に触れ、不幸に酔いしれていた部分もありました。今思ってもぞっとします。あまりの莫迦さ加減に。

離婚した後は、私は父の方についていくことになりました。私が今まで住んでいた家は母が住まうことになったようです。父と私は元の家から離れた場所に引っ越しました。特別これといった揉め事もなく、それなりにやっていけています。が、高校を卒業したら家を出ていこうとは考えていました。そう仲が良いわけではなかったので」

一息ついて私は少し口の中で、もごもごと言い淀んでから、

「ですが、ふと、将来に役に立つかどうかわからない授業を耳にしながら、思ったんです。もういい。もうやめたって。だから、死ぬことにしました。私のために。そういう、話です」

 悪魔はこちらを見据えています。ガラスのような透明の瞳が私の情けない顔を映していました。とても直視できなくなって顔を背けると、彼は立ちあがり、壁に飾られた一枚の絵に触ろうとしました。私は反射的にその手を払いのけました。「触らないで!」

「おまえはこいつについてまだ話していないだろ? 促してやってるんだよ」

「……うう」

 私は項垂れました。あの子の名前が目に入ってきました。

高村つばさ。

「私の妹です」

「知ってる。おまえの家族だろう」


 私の、――家族。


「――私には、妹がいます。高村つばさ。小学三年生の女の子です。

 あの子とはいつも一緒にいました。親二人が喧嘩しているときは、子二人布団の中でぎゅっと寄り添って堪えていました。私はあの子の心を守っているつもりでした。あの子はやさしすぎるから、親が喧嘩するたびに間に入ってひどく傷ついて泣いていました。私がいくら止めても聞きませんでしたから、喧嘩が始まりそうになったら小さな手を取って自室に入り、あの子のやさしい気持ちがあの子を傷つけないようにと常に心掛けていました。それでもあの子は心のどこかで悲しんでいたのでしょう。離婚の話を聞いたとき、別れちゃ嫌だよとえんえん泣きました。可哀想に。健気な子どもの声を聞き届けてくれる大人は、もう、そこにはいなかったのに。

 私たち姉妹は別々に暮らすことになりました。互いの負担を減らすためだそうです。そういう心掛けができたのなら、もっと素敵な家庭になれたでしょうに。

 ……それがなくとも、あの子は私と離れる選択をしたでしょうけれど。どちらかが一人ぼっちになっては可哀想だと思うのでしょう。かえってその思いが身勝手な大人たちには迷惑となってしまうかもしれないのに。何度か説得してみましたが、あの子は首を縦に振ることはありませんでした。ですから、私はもう何も言うまいと思っていました。

 離ればなれになる時、あの子は今にも泣きそうな声で訴えてきました。

〝毎年、じぶんの誕生日の日になったら会いに来てほしい〟と。私は頷きました。それから毎年、私は欠かすことなく彼女に会いに行きました。母が、ちゃんとあの子を養っているかを確認するためでもありました。どうやら二人はそれなりに仲良くやっているようでした。母は私が家を訪れても、特別嫌な顔はしません。私も複雑な気持ちを押し殺して、母に会釈します。限りなく他人に近い家族、そんな感じがしました。

あの子は毎日、楽しそうにしていました。いつも飛び切りの笑顔で私を迎えてくれます。ある時、私は心の中で確信したのです。もう、大丈夫。私がいなくても大丈夫だと。

そう確信した時は既にクラスに馴染めず、夢も希望もないお先真っ暗な状態でしたから、自分の必要性が消えたのを悟ると同時に自分を殺すことに決めたのでした。そして私があなたに連れて行かれたあの日、私は死ぬことにしたのです」

私はちらりと彼を一瞥して、すぐに俯きました。

「笑いますか、あの日は私の誕生日なのです。私が私のためだけに死ねる絶好の日でした」

 これで全部終わりです。洗いざらい吐きました。もう何もありません。

 彼はとんとん、と私の肩を叩いて、顔を上げさせました。私は怖くてたまりませんでした。これからどんな罰が待っているのでしょう。私はあとどれだけ生き恥を晒すことになるのでしょう。


「つまりおまえは、」

「『人と馴染めない自分が嫌になりました』って理由で、」

「死を選ぶんだな?」


 悪魔は不敵に笑っていました。


「なら、」

「『人に馴染めたら』」

「死なないんだろう?」


 あくまでも彼は、私に生きることをさせようとしているのでした。そんなのたまったもんじゃない。私はすべて覚悟した上で、ここに立っているのに?

「残酷です」

「ああそうだな」

「私はもう嫌なんです。人に馴染むってなんですか、クラスメイトや家族に相手に引きつった笑顔貼り付けていればいいんですか? 私お喋り苦手なんです、趣味も少ないですし、話題の芸能人の顔も名前も知りません。興味が湧かないんです。人と話していると気を遣いますし疲れます、陰気な性格を隠そうと無駄に明るく振る舞わないといけなくなります、私が、変わらないとだめなんですか? 周りは私のために変わってはくれないんですか、人との関わりを拒む私がぜんぶ悪いんですか……?」

「悪いな」

 私は彼の目を見つめました。

「関わりを拒みながら、自らを必要としてほしいと望むことは」

 視界がぼやけて仕方がないのです。ぼろぼろと水がこぼれるのです。彼はその一滴を手で掬ってくれました。意外にもそれは、とても優しい手つきでした。

「なぜ泣くのか分からない、とおまえは言っていたが、俺には分かる」

「一体なんですか」

「生きたいという身体中から沸き起こる叫び」

 叫び。なんて似合わない、詩的な表現なんだろう。恥ずかしくて鳥肌が立った。おまけに涙もさらに溢れてとまらない。

「大体が、心と身体を分けすぎなんだよ、おまえは。しっかり飯は食ってるか? ちゃんと毎日眠ってるか? 運動不足じゃねーだろうな? そういうところから憂鬱って気持ちが出てきたりするんだよ。毎日幸せに飯食って適度に読書でもして汗流して眠れば、人間ってのは案外幸せ感じちまうもんなんだよ」

「あ、悪魔に人間の何がわかるんですか……!」

「悪魔だからわかるんだよ、そういう人間の面倒なところぜんぶな」

 涙は止まらない。生きるのって難しい。死ぬのはあんなに簡単そうだったのに。私は拳を握って地団駄を踏んだ。どうして何もかも思い通りにいかないんだろう。

「まだ死にたいと思うのか」

「うう、うう……」

「なら仕方ない。少し時間を進めてみようか」

 彼がパチンと指を鳴らすと、どこかで玄関の扉が開く音がした。あの不思議な空間からこの部屋に戻って来られたことに安堵した私は、息つく間もなく焦り出すこととなります。

 妹が、帰ってきたのです。

「お姉ちゃん……?」

 状況をよく理解している様子ではありませんでしたが、私の姿を見て、彼女が両手をひろげて、こちらへ駆け寄ろうとしました。ところがそれを、彼がさっと一瞬にして抱き上げてしまいました。

「感動の再会を邪魔して悪いが、はっきりしておかないといけないことがあるだろう、お姉ちゃん?」

 彼女は彼の腕の中でジタバタと苦しそうにもがいていました。私は咄嗟に彼に飛びつこうとしましたが、パチンと弾いた指で魔法を使ったのか、近づこうとしても、はね返されてしまいました。私は我ながら耳の痛くなるような悲痛な声で叫びました。

「その子を返して!」

 悪魔は首を傾げました。「何故」

「なぜって……」

「おまえは死ぬんだろう、こいつを捨て置いて。ならば俺がどうしようと勝手じゃあないか」

「その子は、……つばさは、何も関係ないじゃない! 巻き込まないで、お願いだから……!」

「そうだな。おまえが死ぬときには邪魔になって仕方のない何一つ関係のないガキだな」

 悪魔は吐き捨てるように言った。その顔は異常なまでの不快感を表していた。

「おまえは意図的にこいつの存在を消していただろう。その証拠が、あの語りだ。俺が促すまで口にしようとしなかった。俺がそうしなければ、おまえは黙ったままに話を終わらせようとしていただろう。こいつを残して逝くのが、後ろめたかったから。だから、考えないようにしたんだ。毎年誕生日の日になれば会いにゆくと約束しておきながら」

「そ、れは……」

「こいつは、それだけを頼りに生きていたのに」

 彼女は、ひどく寂しそうに体を丸めていました。私は、彼女のあんなに辛そうな切なげな表情を、生まれて初めて目にしたのです。頭から冷水をかぶったようでした。いつもの満面の笑顔はどこにも見当たりません。

悪魔は慰めるようにそっと彼女の髪を撫でました。

「おまえは知らないだろう、母が仕事が遅くて家を留守にすることが多く、朝も晩もほとんど毎日一人で飯を食っていることを。おまえは知らないだろう、夜遅くにやって来る酔っ払いが、気まぐれにこの部屋の扉を叩くことを。おまえは知らないだろう、母と思ってドアを開けたつもりが、見知らぬ男が入ってきて必死にベランダから逃げ出したことを。その男は警察に連れて行かれたそうだが。

食事が喉を通らない朝もある。孤独と恐怖で寝付けない夜もある。それでも毎日学校に出かけて、母を、おまえを、笑って迎えるんだ。自分が幸せにやっているかと毎年気にかけてくれる大好きな姉がやってくるからだ」

 悪魔は、一切の表情を捨てた。

「それはすべてだれのため?」


 悪魔は激昂した。


「お ま え の た め だ!」


「もう、やめて……!」

 か細い声が、彼を呼んだ。

「もう、お姉ちゃんを、せめないで」

 彼女が涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、訴えた。

「もういいよ、いい。お姉ちゃんが泣いているとこ、もうみたくない……」

「つばさ……」

「ごめんね、お姉ちゃん。つばさがいたから、たくさんがまんしてきたよね。ほんとうはお姉ちゃんもしたいことたくさんあったのに、お家のお世話をママがしなくなったから、かわりにお姉ちゃんがしないといけなくなったんだよね。あの、あのね、ひとつだけ、いい? お姉ちゃんが前にね、つばさといっしょにくらそうって言ってくれたの、ほんとうにとっても、とってもうれしかったの。だけど、ママひとりにしちゃったら、きっとさびしいって思ったの。だから、ごめんね。あのね、つばさ、たまにね、ママといっしょにおふとんでねるんだよ? お姉ちゃんがぎゅってしてくれたみたいに、くっつき虫みたいにしてねるの。いつか、家族みんなでぎゅってしてねむれたら、つばさ、しあわせだなあ……」

 

今にも消え入りそうな言葉を、私はうんうんと頷いていました。

たまらなくなってまた泣きました。私はむちゃくちゃに彼の方へと詰め寄りました。返して、返して、私の妹を返して。もうこの子を置いて死んだりはしない。ごめんなさい。だから。

「おねがいしますからあ……!」

 膝から崩れ落ちて、そのまま泣き喚く私を、誰かが抱きしめました。

 やわらかな髪が頬をくすぐります。あたたかい子どもの体温が、胸のあたりをぽかぽか温めてくれました。快い石鹸の香りはふかふかの服から漂っているのでしょうか。

「お姉ちゃん!」

 私は力任せに、もう二度と離すものかと彼女を胸に押し付けるようにして抱き締めました。なんて愛しいんだろう。こんな愛しい子を置いて命を捨てるだなんて本当に私は何を考えていたのだろう。もう、もう、一切離れはしない。事故や病気、私とこの子を分かつものに、進んで屈しようとは思わない、まして飛び降りなど。

「生きたいか?」

 悪魔の問いかけに、私はゆるぎなく答えました。

「はい」

「俺の勝ちだな」

「はい」

「魂を貰う約束だったな」

「はい」

 私は不敵な笑みで応えてみせます。

「私がこの子と離れるそのときまで、待って頂きます。私はこれから少しでも今より立派な魂ができるよう尽力するつもりです。といっても、努力したからといって進化するか劣化するかは私には到底わかりませんが。ともかく待って頂きます。これが私からの条件です」

「悪魔がそんな条件を呑む、と?」

「契約好きの悪魔様なら、条件があればあるほど燃えるものでは?」

「誰が契約好きだ阿呆」

 悪魔は口角を上げて、指をパチンと弾きました。

「契約は絶対だからな」

 そんな声が聞こえた気がしました。私は声に出して言うのは癪だったので、心の中でぼそりと呟きました。ごめんなさい、そして、ありがとうございました。

きっと、どちらにしたって彼には筒抜けかもしれないけれど。



「らしくねえな、お前が人助けだなんて。神の真似ごとかあ? 似合わないねえ」

「本当にな」

 一部始終を見ていたらしい悪魔が俺に声を掛けてきた。俺は自嘲気味に笑って言い訳をする。

「だってさあ、ものすごい剣幕で詰め寄られたんだよ。

〝お姉ちゃんを救ってください〟ってさあ。それが鬼気迫るもんだったから、ついその場の勢いで契約しちまったわけさ」

じゃなきゃ、誰が好きこのんで命捨てようとしている人間に声を掛けるだろう? それもあんなガチガチに意思の固い人間をさ。

「ああ、あれだろ? 毎日夜中に涙ながらに祈る人間の子。〝神さまでも仏さまでも天使でも悪魔だっていい。わたしのたましい、あげるから、だからお姉ちゃんをたすけてください〟って。こう耳がキンキンするくらい甲高い声で訴えるわけだから、もうあそこのマンション通る時は耳栓して飛んでたわ」

「悪魔っていうのも大変だよなあ。人間の魂が主な食料だから、少しでも多くの人間と契約を結んで魂を頂かないと。しかしそれに対しての悪魔の使い走りっぷりは酷い。まあ、苦労して手に入れた魂ほど旨いものはないんだが」

「そういやお前、人間は哀しすぎるほど愚かだって毛嫌いしてなかったっけ? いつも詐欺まがいに契約結ばせて、ほいほい魂を騙し取ってたじゃないか」

「だーかーら。今回は気が変わったの。それに、結局騙し取ったようなものさ」

「んん? そうか? 万事ハッピーエンドのように思えるが」

「結局、あと一歩で死という自由を得られるところだった人間を、むりくり引きずり落としただけじゃないか。愛という縛りでね。どうやらあの人間の執念の勝ち、ってところかな」

「――の割には、妙に力が入っていたようだが?」

 俺はひひっと肩を震わせた。

「あのちびの目は好いなと思ったんだよ。あいつからも魂をもらう契約だが、あいつごともらうのも悪くはないな。だとすると、あのでか女に頼まないといけないな。人間風に言うと、『妹さんを僕にください!』か。あいつ絶対許さないな。意思が無駄に石みたいに固いし。いやしかしそれはそれで面白い。あいつの泣き顔、妙に悪戯心をくすぐられる」

 彼はにやりと笑って。

「さーて。今日はおまえの誕生日だ。ハッピーバスデー聖子ちゃん。そして、メリークリスマス」



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マイ・クリスマス・カロル 夢を見ていた @orangebbk

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