都都逸:がらす玉

夢を見ていた

第1話


【恋に焦がれて 鳴く蝉よりも

     鳴かぬ蛍が 身を焦がす】  / 都都逸



🌸


 秋の夜長、白銀の月を背に、その≪見世物小屋≫は妖しい雰囲気を醸し出していた。

明治激動の刻を生き抜いた、やや古ぼけた建物の入り口には、大勢の見物客が押し寄せていた。おとなもこどもも、小屋の中に隠されている≪奇妙奇天烈≫を思い、すっかり興奮している。娯楽のそう多くない時代、ひとびとは、日常とかけ離れた世界に連れ去ってくれる何かを熱望して生きているのかもしれない。そしてそれは、この場に私を送り込んだ支配人も、きっと同じなのだろうと空を仰いで思う。

今宵はおぼろ月だった。

正体の掴めぬ、ぼんやりした夜の灯りに、ふしぎと酩酊感を覚える。ここの見世物小屋は、夜空も演出してしまうのか、まるで奇術じゃないか……

馬鹿げたことを考えながら、順番待ちの列に並ぶ。珍奇な格好をした団員がビラを配っている。一瞥して私は丁寧に折りたたみ、ポケットに仕舞いこんだ。思わず漏れた息が白い煙のように浮かんだ。


――おや。ようやく、列が動き出したようだ。


🌸


 私の前には、父母子の家族連れが並んでいた。

帽子の型、服の生地、靴の革、所作や言葉遣い……中流階級の、下といったところか。おっと、またいつもの癖が出てしまった。職業病とはほんとうに恐ろしいものだ。私は被っていた山高帽をかぶり直し、彼らを避けるように行列の先を見た。

 見世物は、われわれの行く通路を挟むようにして置かれていた。絵画の展覧会を思えばわかりやすいだろうか。客たちはおのおの自由に、気に入った見世物の前まで歩み寄って、思う存分見て回り楽しんでいる。

 見世物の種類は豊富で、巨大な浮世絵や不気味な人形、檻に入れられた奇形な動物や猛獣たちが置かれている。人間もいる。背中におぞましい蜘蛛の刺青をした男や口から火を吹く男、蛇を裸体にまとう女や器用に玉乗りする子供もいた。

 私はそれらを遠巻きに眺めながらも、周りの者たちとは一線を引いた心で見ていた。私は娯楽をたのしみにきたわけではなかった。

小屋の最奥に辿り着いた。進行の先に、ぶ厚い紅の幕が垂れ下がる、顔を奇抜な色で化粧した男が、にたりと微笑んだ。

「楽しんでいただけましたか?」

「ええ、」私も愛想で笑う。

「まだまだこんなものではございませんよ、雅楽他(がらくた)一座、最大の目玉が残っておりますゆえ」

 男は勿体ぶるように幕をひきあげ、中に招いた。戸惑いながらも私は足を進めた。しばらく暗闇の中を歩いていると、遠くに光が見えた。近づくにつれ、興奮に沸くひとびとの声が聞こえてきた。

「ああ、すごい」「噂以上だ」「ねえ、これは本当に生きているのかい、それとも死んでいるのかい」「早く見たい、見せてよぅ」「きれいねえ」「まあなんてこと、こんなの今まで見たことないわ」「不思議だ」「神秘だ」

 感嘆がやまない、その異様な集団に私は一歩一歩と近づいた時、自らの口をもすべり落ちた声に、至極納得がいった。


 そこにあったのは、透き通る硝子に区切られた、ちいさな空間。細い線のような光に照らされ、われわれのいる場所とは切り離された、ひとつの閉じられた世界。硝子板の両端には、その世界を守る忠実な番人のように、一座の人間がどっしりと構えていた。硝子の世界とわれわれの場所は、ある一定の距離を保つよう、番人たちに指示されていた。しかし指示されずとも、誰もその領域を侵そうとはしなかったろう。なぜなら私もふくめ、生命をも吸い取られるような美しさに、心を奪われ陶酔していたからだった。

 こんなにもひどく、妖しくわれわれを魅了してやまないのは、硝子の向こうに置かれたモノ。

きらびやかな装飾のほどこされた西洋椅子に、人形が腰掛けている。われわれは息を呑んだ。その少年の姿をした人形が、みせるように足を組みかえ、頬杖をつき、こちらを覗き込むようにみつめて微笑みかけたからである。それは、ふくらんだ蕾みが、風に誘われ花開くような、それは美しい微笑みである。


――雷に打たれたような衝撃であった! 


私の心は彼の前にひれ伏した。それは、崇拝にも似ていた。われわれは互いの魂をふるわせる感動の存在を悟った。彼の前に言葉は要らなかった。まばたきにふるえる睫毛の一本一本へ賞賛の声が漏れる。うすい目蓋に隠れる玉のような瞳が一点をみつめている。頭が傾くのに合わせて、彼のかんばせに切り揃えられた前髪が流れ、影が落ちる。白雪の肌に包まれた頬の肉がわずかに動くと、乙女のような薔薇色の唇がほのかに開いた。頬杖をついた腕が膝上にだらりと垂れ下がる。眉が悩まし気に顰められている。その何かを愁うような表情は、権威ある女王の気高さを感じさせ、また、われわれ人間に対する神の苛立ちを彷彿とさせた。皆食い入るように見ていると、足元にいた子供が身近にいる大人に問いかけた。

「ねえ、これ、生きているの?」

「えっ、あ。どうだろうねえ、生きているのかねえ」

 夢から醒めたような気持ちで答える大人を、私は興ざめに思ってみていた。こういうとき、子供は未知への感動よりもまず、未知を得たいという欲求に突き動かされる。

「ぼく、あれ欲しい」

 上流階級の子供が、親にねだるように言った。それを受けた親は、近くに立っていた団員に人形の交渉を始めた。それを聞いていた近くの大人たちも、所有権を自分に渡すよう訴えかけた。

「あれは売却済みでございます」団員は微笑んだ。

「売値の倍を出そう。金ならある」大人たちは途端にわあわあ騒ぎ始めた。

私はかまわず一際大きな舌打ちをした。そうして苛立ちを超えた憎しみをもって騒々しくわめく連中を睨み付けた。しかし連中は頭が沸いてしまったのか、何ものも気にせず熱狂している。

硝子の中の人形は表情を変えず、そこに佇んでいる。彼の静寂を侵すなと叫びたかった。

 団員は鷹揚に首を振った。

「あれは、例の博覧会に出品予定のものです」

 群衆は冷や水を浴びたように静かになった。

「失礼ですが、お客様のお財布にはちと荷が重い金額かと存じます」

 私はすっかり意気消沈した彼らを少し気の毒に思った。彼らは縋るように団員に聞いた。

「あれはいつまでここで見られる?」

「あと十日ほど、でしょうか」

「十日!」

 悲痛の声が響き渡る。私はポケットに仕舞いこんだビラを見直した。そこには硝子の箱に閉ざされた美少年の姿があった。ビラには赤と紫の字で≪永遠ヲ生キル少年人形≫と書かれてあった。

そうして私はもう一度確かめるように、目の前にいる人形少年をみつめた。この分厚い硝子は、こちらの声など届かないだろうが、みっともなく泣き叫ぶ子供や頭を抱える大人たちの姿は見えているのだろう。

 人形は再び表情を変えた。愉快そうに嗤ったのである。私はその時初めて、この人形の意志というものを強く感じたのであった。


🌸・九


 朝、仕事場に向かい、職場の人間と今日の予定を確認し合い、身だしなみを整え、客人の前に立つ。陳列された商品を、人々はショーウィンドウを通して楽し気に見つめている。購入を決めた客人が私たちを呼ぶために手を挙げる。私は手袋をした手で恭しく商品を扱い、金と品を交換する。以下、繰り返し。

 お買い物を済ませた客人が、私の方に笑いかけ、尋ねる。

「二階は行かれないの? 一体何をなさっているのですか?」

 私は二階を一瞥し、丁寧に答える。

「あちらは、近日開催する観業博覧会の品々を展示する場となっておりまして」

「あら、例の博覧会の――」

 貴婦人は口元に手をやって、

「国を挙げての大事業ですから、しかとなさってくださいましね」

「はい」と深くお辞儀をした私は、頭を下げたまま心の中で十を数えて、ゆっくり顔を上げた。

そのとき目に入ったものに不審を覚え、私は近くにいた従業員に声を掛けて持ち場を離れた。二階は現在、客人の立ち入りを禁止している。私は階段を上がり、案内板を退けて中へと突き進んでいく。博覧会の開催場所になることは、百貨店にとって名誉あることであるが、その準備の間中、本業をないがしろにして営業を休み続けていては、やっと売り上げが安定してきた新設の百貨店は博覧会が終わった途端に傾いてしまう。開催日前日の営業後に準備をして、当日までに終えてしまえれば一番良いのであろうが、われわれ明治屋百貨店は、従業員が少なく、うまく手が回らないのである。そうして今も、絹の布に覆われたショーウィンドウが磨かれもせず、配置も無視して置かれている。

その中でももっとも大きなショーウィンドウが、筒のように天井まで高く伸びているものである。これには、上質な幕が掛けられているのだが、足元がむくりと膨らんでいる。幕の内側に何かの塊。私は子供が監視の目をかいくぐって遊びに入ったかと思い、腰に手を当ててぴしゃりと「出ていらっしゃい」と叱りつけた。

しかし、中の塊は何の反応も示さない。面倒だな。私は仕方なしにしゃがみ込んで、幕を上げた。

「あ……、」

 同じくしゃがみ込んでいた子供と目が合った。声が出たのは私の方である。それは、私が昨夜見世物小屋で見た、あの少年だったからである。彼は、丸々とした瞳をくるりと動かして、指を唇に当てた。それは、実に人間じみた動きであった。しかし、彼と同じくらいの少年とは明らかに異なる空気をまとっていた。

「しい。ぼく、みているから」

 琴のような澄んだ音色で、彼は私に命じた。私は呆然としてその場から動けずにいた。

 人形少年は、おもむろに立ち上がり、ぐっと天井を仰いだ。そうして再び、硝子のショーウィンドウと向き合った。

「このなかに、ぼくはかざられるんだねえ」

 何も言えずにいると、彼はこちらをじっと見つめた。

「しっていた?」

「え、ええ」促され、ようやく声が出た。まさか、彼本人がここへ足を運ぶとは思わなかった。

「いまね、ぼくは≪ゆうよ≫をもらっているから、じゆうなの」

 彼は笑った。それは、その舌足らずな物言いゆえに、妙に幼く思えた。しかし瞳は、よく見れば笑っていない、造り物の笑みだった。彼はそのことを全く意識せずに、表情として浮かべているのだと私は悟った。

わらいたくてわらっているのではなく、わらうべき時にわらっている。この浮世離れした子供は――。

「きれいきれいにして、いちばんきれいにして、かざってね、おじさん」

「貴方は今、≪猶予≫と、言いましたか。何の猶予ですか。いや、それよりほんとうに、」

 私は自分でも何を口にしているのかわからず尋ねた。

「貴方は商品として出品されるのですか。――≪人間剥製≫として……!」

「おじさんは、ぼくにわからないことばをいっぱいしっているんだねえ」

 彼はかたりと首を傾げた。

「ママとパパがいってたのは、ぼくはもうすぐぼくのからだからたましいをじゆうにしてもらえるってことだよ」

 彼はくすくす笑った。「これ、ひみつなんだった」

 私は思考が止まる音を聞いた。

彼はとっておきの話を披露するかのように、語った。

「ぼくのからだ、西洋のひとに、かってもらえるんだって」


🌸


 そう、私が見世物小屋を訪れたのは、出品予定の人形少年の実在を確かめるためであった。それは、私の上に立つ人間に言われた仕事であった。私はそれを報告し、商品として十分価値あることを伝え、朝、仕事場に立ったのである。

 そこで私は気付いてしまったのだ。企画書では、≪人形≫つまり、物体として出品されていたのだ。しかし、彼は、浮世離れはしていても≪人間≫である。そうして少年との会話から、彼の親(見世物小屋は孤児を拾って育てることも多いらしいから、保護者とすべきか)は、彼の命を奪って、彼の身体を出品しようとしている。――

 かといって、だ。しがない一従業員の私に一体何が出来るであろう。

答えは、『看過スベシ』だ。

 私は静かに目を閉じて、心に蓋をして、思い出さないようにした。


🌸・八


 朝。少年は次の日も店に現れた。団員が言っていた言葉を信用するのであれば、彼に残された≪猶予≫はあと八日――。六日で何ができるであろう。私は彼の姿を視界に入らぬよう顔を伏せた。彼は、全身をボロ布でまとい、擦り切れた下駄を履いて歩き回っていた。元々が活人形のように美麗な、人の目を惹きつける用紙だというのに、こんな不審者のような格好では注目の的になっていけないのではと思うのだが、彼はいかに自らを溶け込ませれば良いかを心得ていた。

 人形は人形らしく。彼は人間らしく振る舞うのではなく、≪人形≫として振る舞った。まるでショーウィンドウから抜け出してきた人形だった。彼は自然だった。息を殺し、気配を殺し、そうして人間社会に溶け込んだ。彼を知る私でも、何度も彼を見失った。よく考えれば、ボロを纏う人形なんて、百貨店にいるはずもないのに。

 私はついに、彼が二階へ上がっていくのを看過した。どうせ、誰も気づいていないのだ。私は、目を逸らした。私は、見世物小屋に来ていた大人のように彼を欲しがりもしなかった。ただ、近づくことを恐れ多いと思っていた。自分よりうんと年下の少年に、畏怖していた。


🌸・七


 朝。私が見世物小屋を訪れて、三日ほど経った頃だろうか、少年が来ているのを看過した私は、ふと見知った人の姿を認めた。

「永良川先生!」

 私はにこりと笑った。先生は、連れと一緒に私の方へ歩み寄って来た。

「先生、お久しぶりです。お元気そうで何よりです。新作の出来はいかがなんですか?」

「……うん、まあね」

 先生はふと隣にいる男を見た。彼は私の古くからの友人である。友人は先生の編集を担当している。

「久しぶり。先生の新作が出来上がったもんだから、一杯やろうかって、ちょいと寄らせてもらったよ」

「そうかい有難う。奥の食堂に行ってご覧。私の名前を出せば、優先してくれるだろう」

 会釈して二人は去って行った。私は先生の作品のフアンなので、先生の役に立てることを喜んでいた。

 ――そんなところに、≪彼≫が来た。私は素直に迷惑に感じた。ずきりと、良心のような何かが僕の心をじくじく刺した。

私を呼び止めた彼は、珍しくどこか不機嫌そうであった。

「みあきたの。なにかほかにはないの」

「一階はどうだい」

 私はひとめを気にして声を潜めた。彼と関わっている場面を誰にも見られたくなかったのである。

「みた。ぜんぶみた」

「じゃあ別のところへ行くと良い」

「べつ? べつってどこ」

「君の行きたいところだよ」

 そうすると彼は、特に考えもせず、一階の奥へと進んでいった。そこは、先生たちが向かった食堂である。私は慌てて引き止めた。

「どこへ行くの」

「あっち」

「それは困る」

「どうして」

「それは……」

話しているだけなら、聞き分けの無い、どこにでもいる子供である。

 いやしかし確かに、彼が先生のいる食堂へ向かおうと、構わないはずであった。なぜと問われれば、それはなぜであろう。視線をめぐらせた瞬間、

 嘘だろう。

 向こうから、先生がやって来るのに気付いた。友人の姿は見えない。

「先生、どうなさったんです」

 あまりの間の悪さに心中で悪態をつく。よりによって、何故今なのか。

「人ごみは苦手でね。帰ろうと思う。もとより乗り気ではなかったんだ」

 先生は、私から視線を外し、足元にいるちいさな少年に目をやった。

「これはなんだい」

「あ、先生、その子は――」

「あなた、せんせいっていうの?」

 彼は、興味を抱いたのか、先生の方を見やりながら、先生を中心にくるくると歩き始めた。先生は不思議そうに彼を見下ろしている。

「ふうん、」

「なんだい」

「ねえせんせい。せんせいは、ぼくのこと、ほしいひと?」

 少年は、いつものように笑顔を浮かべた。それは、見世物小屋で見せた、人の魂を揺るがす美しい笑みであった。私はさっと視線を逸らした。彼の奇術にかかるものかと思った。しかし、先生はどうだろう。作家はこういう、不思議な美しい物に目がないのではないだろうか。そうなったら、恐ろしいことに――。

 先生は、首を傾げた。

「いや、いらない」

 少年は驚きを体で表現するかのように、大袈裟に半身をのけぞらせて、先生の腕に触れた。

「いらないの」

「いらないね」

「だまっていてあげようか?」

 少年は自分の口元に両手をやった。先生は彼の申し出に怪訝そうに返した。

「どうして黙るんだい」

「おとなのひとは、みんなぼくがはなすといやがるから」

「黙りたいなら黙ればいいさ」

「そうしたら、せんせいほしくなる?」

「ならないよ」

 不思議なことに少年は先生にこだわり続けた。

「あげようか?」

「いらない」

「もらう?」

「もらわない」

「どうして?」彼は今にも泣き出しそうであった。

「人は物ではないから」

 先生は言った。私は、それを聞いた時、無知とはこんなにも恐ろしいことなのかと戦慄した。先生は知らないのだ。そうして、彼も、知らないのだ。

 私は、きっと、間違いを祈ったのだ。そうして、それは、皮肉にも叶ったのだ。

「そっか」

 少年は心から納得した様子であった。「じゃあぼくはちがう」

 先生も何も言わなかった。少年はそれから静かにその場を去って行った。

 私は沈黙に堪え切れず、ひきつる笑みをもって先生に話し掛けた。

「どうにも、可笑しな少年でしたね。会って初めての先生に自分が欲しいか――などと、ははは。今頃の子供は妙にませていて困りますね」

「そうだね。彼なりの挨拶だったのかもしれない」

「ずいぶん洒落ていますね」

先生はしばらく無言でいたが、私に軽く手を振ってそのまま出て行ってしまった。私はその背中を黙って見送った。沈黙だけがそこにあった。


🌸・六


 朝。少年は、店の開く前から入口に座って待っていた。彼は私を見つけると開口一番に、「せんせいはどこ?」と聞いてきた。私は手短に、先生は来ないことを伝え、どこにいるか見当もつかないことを伝えた。何か言いたそうにしていたが、私は無視してその場を去った。硝子を隔てたあの空間では、彼は精神の支配者だった。しかし今はどうだろう。私は考えるのをやめた。それに気づいてしまえば、戻れないと分かっていたから。

 しばらく少年のことを忘れて、日々の業務にいそしんでいたところ、客人を出迎えた時に、入口の硝子戸の向こうに、見知った姿が映った。

 信じられなかった。少年は未だ入口のところで座っていただろう。悠々と和服姿でやって来た先生は、茂みに向かって話しかけている。否、座り込んだ少年に声を掛けているのだろう。何を話しているのか気になったが、客人の応対に追われて体が空かない。

 ふと近くに食堂の給仕役の若い女性がいたので慌てて呼び止めて、彼らの会話を聞いて来るよう頼んだ。怪訝な顔をしながらも女性は頷いてくれた。逆らわない方がよろしいと判断したのだろう。こんな時でしかうまく使えない地位が悩ましい。客人に呼ばれ、私は後ろ髪を引かれる思いで応対に向かった。


🌸


 のちに給仕に聞いた話はこうである。

 二人はしばらく何でもないやり取りを交わしていたそうだが、先生は立ったまま、少年は座ったまま話し続けていたそうだ。そうして、先生の方からふいに、

「少しこの辺りを道案内してもらいたいのだが」

 と言う。それを聞くなり少年は嬉々として先生に跳びついて、どこかへ歩いていったそうである。

 給仕役は小首を傾げた。

「あの方たちは、親子でも、兄弟でもございませんよね? ……なにか特別な関係でございますか?」

「いや別に、昨日初めて顔を合わせたくらいだよ」

「まあ、ふしぎ。うてば響くような会話でございました。――わたくし、壁に隠れて耳を寄せておりましたが、おふたりともとっても詩的で浪漫な言い回しをなさるものだから、わたくしほとんど意図をくみ取れませんでしたのよ。きっとあのお方の心うちにだけ分かるお言葉なのでしょうね」

 うっとりと手を握り、給仕は余韻に浸っている。

「まるでお芝居の一幕を覗いてみているようなお気持ちがいたしました。いけないという気持ちと、ああみたいという気持ち……たしかにあまり表情は窺えませんでしたわ、それでも声色を、言葉を耳にすれば分かりますわ、あれはたしかに儚い恋物語――」

 私は思わず身震いした。

「少年と良い年した男が恋愛事とは、怖気がする」

「あら、あのちいさな御方は男の子でしたの。てっきり、年端のいかない女の子だと……」

「ともあれ助かった。持ち場に戻ってくれたらよいよ」

「ああ、松方さま、もう少しお話を……」

「さぁ、もうお行きなさい!」


🌸・五


 朝。どうやら彼らは、私の職場でもある明治百貨店を密会の場所としてしまったようだった。朝いちばんに店前に座り込んでいる少年は、私の姿を見ても、以前のように先生の所在を尋ねることはしなかった。ただ遠くから、にやりと愉快そうに肩を揺らすだけである。今日も待っているということは、来るのだろう。

 しかし私が編集の友人から聞いていた先生の様子とは妙に違っている。のんびり屋で、人だかりを避け、書斎でぷかりぷかりと煙草を吸うのが何より好きだと言う雲の上の仙人のような文豪。もともと大衆向けの娯楽小説を書くことが多い永良川果船(ながらがわかせん)先生は、識字のできる人間であれば知らぬものはいないというほどの根強い人気がある。かくいう私も、彼のフアンの一人である。自分より五つ離れた作家の作品を愛読し、私は自らの立場と先生の地位とを思った。編集の友人も、先生の人気にあやかって出世したのである。悔しくないと言えば嘘になる。

私はなんとなく少年と話したくなった。ここ数日間で初めて、自ら少年い歩み寄ることにしたのだった。

「ふふ、」

 少年は私を一瞥するなり、口元を覆った。漏れた笑い声を隠すためだろうか。しかし、忍びきれない喜びが細い指の間からあふれる。彼は愉快そうに目を細め、遠くの方を眺めている。

「あそこにあるおひさまがね、おそらのてっぺんまであがったら、せんせいはくるの」

 少年はにこにこしている。

「きょうは、せんせいとかつどうしゃしん(※当時の映画のこと)をみにゆくの」

「先生と……?」

「せんせいが、ぜひゆこうというから。だからぼく、ここでこうしてまってるの」

 私は耳を疑った。先生自らこの少年を誘ったというのか? 信じられない。彼は私が聞いてもいないのに、先日の先生との出来事を嬉しそうに話し出した。私はその場に立ち尽くした。従業員に声をかけられても反応できない。私は掠れた声で少年の言葉を遮って、

「ここは従業員員玄関の近くだから、近寄ってはいけないよ」

 と言った。少年は理解できなかったのかしばらく私の方を見つめていたが、やがて立ち上がり、どこかへ行ってしまった。しかし、そう遠くはないであろう。私の見えない、先生を見つけられる場所に移動したのだろう。

 驚くべきことに、彼の話によると、彼らは昨日、朝から日暮れまで行動を共にしていたというのである。私や友人がいくら外出に誘っても色好い返事をしない先生が、自ら、彼に申し出てまで。

 先生は知っているのだろうか、彼に残された時間はごく、ごくわずかであるということを。――知らないのであれば、私は、先生に知らせるべきなのであろうか。知らせれば、何かがきっと変わるであろう。先生の気持ちも、少年のこれからも、……私の立場も。しかし、その変化を私が起こしていいのか、これから起こることに私が責任を取るのか。

 私は迷い続けた。それはつまり、保留にしたのだった。


🌸・四


 朝。その日私は、珍しく休みをもらったので、溜まっていた用事をすべて済ませ、一服し、そうしてどうしても気になったので、休みであるにも関わらず、明治百貨店へ足を向けた。

 そこには予想通り、先生と少年がいた。百貨店のすぐそばにある、公園の長椅子に二人並んで腰かけて、何か話をしているようであった。少年は先生の方を向いて、何やら懸命に話し掛けているが、先生は少年を一瞥することなく真っ直ぐ遠くの一点を見据えている。時折煙草を吸って、紫煙を吐き出す。その姿は一文豪としての威厳があった。

 私は近づいて彼らの会話を、――いけないとは思ったのだが、盗み聞きすることにした。

「せんせい、きのうは、ぼうしとはおりをありがとう」

 彼は自分の頭と、羽織とに手を置いた。それは小さな体の彼にとっては地面に引きずりそうなほどの丈の長さであるし、不格好であり、質も良いわけではない。それでも彼は満足そうであるし、相も変わらず先生は遠くを見やったままぼんやりしている。彼は特に気にする様子もなく、先生の方に体を寄せて、顔を真っ赤にして話した。あんまり興奮して話すものだから、何度も何度もつっかえて、咳き込んで、それでも話したいことがあるのだろう、彼は何度だって呼んだ。

 

せんせい、せんせい、せんせい……

 せんせい、せんせい、せんせい……

 

「せんせい、ぼく、はなしたいことがたくさんあるの」

 それは喘ぐように、

「きのうのかつどうしゃしんは、おもしろかったねえ。いっしょにたべたうしのおにくもおいしかったねえ。ぼくひととごはんたべるのはじめてだったから、あんまりじょうずにたべられなかったけれど、それでもとってもうれしかった。うれしいってきもちがわかったの、ぼくせんせいといっしょならなんだってたのしい、なんだってうれしい、なんだって」

「――落ち着いて話せばいいよ。私は逃げないから」

 首を振って、

「ううん、じかんがにげていくもの。ぼくにはじかんがない。あといくにちかすれば、ぼくはぼくじゃないひとにぼくをあげるから。ぼくはおにんぎょうになるから」

 頬を赤らめて、

「ぼく、おにんぎょうになるの。せいようのきじゅつがね、ぼくをうつくしいままにほぞんしてくれるって。ちを、うすくして、からだから、ぬくでしょう。てとあしのゆびを、いちばんきれいにみえるように、かたちをととのえて、糸でぬってしまうでしょう。りょうのめをくりぬいて、がらす玉をいれるの。くちびるは花のいろをぬるの。まつげをいっぽんずつかためて、ふくも、きんぴかのふくにきがえさせられて、ぼくは、びじゅつひんとして、うつくしいもののけっしょうとして、かんせいさせられるの」

 彼は誇り高く微笑んで、

「ママとパパは、それをよろこんでいるの。みせもののみんなも、よろこんでくれる。いつまでもうつくしいままでいられるねって。ぼく、いつも、がらすのとびらのなかにいる。おにんぎょうとして、みんなをわぁってかんどうさせる。きのうみた、かつどうしゃしんみたいに。とっても、すごいことなんだってね。ぼく、そんなすごいひとになれるんだねえ」

 しかし彼は途端に俯くのだ。「ああでも、せんせいからせっかくもらったふくが着られないのはかなしい」

 先生は黙っている。

「せんせい、ぼくのいちばんきれいなすがたを、きっと、みにきてね。このおみせのにかいで、ぼくいるからね。きっとみにきてね、きっと、きっと。そうしてはなしかけてね、そうしてぼくがさみしくないように、いくどだってあいにきてね。ぼく、まっているからね。ずっとまっているからね」

 先生は変わらず黙ったままだった。


🌸


 ――私は、たまらず逃げ出した!


🌸


 夜更けの頃。私は、編集の友人から聞いていた先生の屋敷を訪れた。百貨店から二駅ほど離れた場所にある、自然豊かな市だった。

「夜分遅くにすみません。あの、先生……私のこと、覚えておられますか」

 先生は書斎で物を書いていたようだった。右手に握った万年筆をそのままに、「やあ、君か。覚えているよ」

「――先生、お忙しいところ恐縮なのですが、よかったらこれから散歩にでも出かけませんか」

「散歩?」

先生は怪訝な顔をした。

「そうです」

私は頷いた。「今、巷で人気のある見世物小屋があるのです。よかったら、ぜひ、行かれませんか……?」


🌸


 私と先生は黙って歩いている。


🌸


 夜。そこはいつぞやの見世物小屋。私は先生とともに並んで順番が来るのを待った。先生の吐いた息が、月の昇る空へとふらりふらりと寄り添うように。

「いらっしゃい。どうぞみてってくださいな」

 いつの間にか列は進んでいた。先生は先に動いていた。私は後を追った。黙って後を追った。

 他の見世物は目もくれない。気付けば私は先生を追い抜いて、先生の前に立ってずんずんと進んでいた。あの幕の垂れ下がる場所へたどり着く。

 私は振り返ることもせず先へ進んだ。そこには変わらず硝子の窓が神秘的な空間を創り出していた。先にいる観客が彼を見て声を上げた。

「わあ、みて、お人形さんみたい!」

 子供がいるのも構わず、私は観客を押しのけて彼の前まで来た。客は憎らしそうに私を見ていたが気にしない。私の前にいる彼を観たかった。


「――」


 彼は、まさしく人形だった。そもそも彼が見世物としてどう名づけられているか。少年のまま成長せず、美しいままに、その姿を保ちつづけていることから、≪永遠ノ刻ヲ生キル人形≫、と。しかし≪人形≫とあるのは、なぜか。

 彼は今年で十六になるそうだ。しかし見た目は十あるかどうか。背丈も低いまま、声も幼子のように高いまま、何も変わらず、時を逆行するかのように生き続ける不思議な生き物。

 そして何より変わらないのは、その表情にあった。

 生命の息吹をその白肌の細首に隠し込んだ、瞬くこともしない、置物のような、モノのような、物体。彼はモノとしてそこにあった。そしてそれが、彼のパフォーマンスなのであった。瞳は輝きを捨て、虚空を見つめている。表情もなければ感情もない、変わらぬ永遠に閉ざされた人形。

 聞こえる足音が、私の耳にはいやに大きく響いて消えた。


 私は、この見世物小屋に足を踏み入れてから、――毎夜。欠かさず足を運んだ。

 それでも彼が表情を変えたのは、あの一回きりであった。彼は何度私が呼びかけても、誰が呼びかけても、何があっても人形を演じ続けた。


 私は後ろを振り返る。周りが、あの時と同じ熱狂に包まれたのを肌で感じる。感嘆の溜息が、歓声が、私から切り離されてしまったようだ。

 私の目の前に、先生がいる。

「せんせい」

 ふいに彼の声が聞こえた気がした。いや、聞こえるはずがない、あんなにも冷淡な硝子に阻まれているのに、声など届くはずがないではないか。

それでも、私には、彼の唇が声高く先生の名を呼んだのを悟ったし、みるみる彼の中で温かな血液のめぐってゆくのを唇の薔薇色に輝くのを見て知った。艶美さが、一息にふきだすように、硝子の世界を支配した。彼はこの世界においては女王であった。しかしその目は愁いを帯びている。ひと恋しさの熱に心を苦しませている。もがくようで、すがるようで、見て居られないような痛ましさだった。それでも、なにものにもまさる歓びが、彼の心を支配していたのだろうと、思った。

「先生、彼が呼んでいます」

 先生が私の前に来たとき、私は声を掛けた。

「あなたを待っていたんだ」

 私はもっと言葉を持っていたはずだった。彼を表する言葉をたくさん。しかし、言葉にならない思いが私を苛んで、声を発する喉が焼けるようだった。私は二の句が継げなかった。

 それなのに先生はそんな私に気付かった。こんなにも心が悲鳴を上げているというのに、気づかぬふりをしたのだ。

 先生は少し考えて、首を振った。

「……私には聞こえない」

「うそ、だッ!」

 私は先生に掴みかかっていた。それは冒涜だった。私は声にならない叫びを今度こそ先生のその使えない、まったくもって使えない鼓膜にむけて轟かせてやった。聞け、聞け、聞こえているんだろう、その耳は、飾りではないだろう!

「聞こえていないのなら、見てください」

「何も見えない」

「わかっているんでしょう、」

 私は慟哭した。「彼はあなたを思っている」

「思いは目に見えないから」

「硝子の向こうで、あんなにもあなたを思っているのに。わからない? わからないなら教えてあげましょうか、言葉にすれば陳腐に聞こえるでしょうが、これは誰がみても愛ですよ先生。あなたひとりにささげられた無上の愛だ。今宵のわれわれは、いや、いままで彼を思ったわれわれは、あなたの前では誰もがピエロだ。あの時からそうだった」

 私は縋るように彼の胸元を握った。

「先生、この見世物へいらしたのは初めてではないでしょう。私が初めてここへ来たとき、あなたもここにいたんだ、そうでしょう」

「……、」

「沈黙は肯定と捉えますよ。思い返せば、すべてが可笑しかった。百貨店にいらしたときも、あなたと彼が初めて会ったと誰が言ったでしょう。あなたは知っていたんだ。ずっと前から、彼が展覧会に≪人形≫として出品されることも、国の関わる事業だから手出しもできないことを、悔やんだのか、迷ったのか知りませんが、彼の貴重な時間を盗み取って、彼と日々を過ごしたんだ。彼は朝あなたと会って、夜、見世物小屋に戻ってきて人形になる。あなたが愛したのはどちらですか」

「……」

「あなたほどの大作家なら、彼を買い取ることだってできるのではないですか? あなたは、不思議なくらい彼と目を合わせませんでしたね。あれは、なぜですか。『人は物ではない』、あなたの言葉です。しかし、本当にそう思っていましたか? 彼の美しさに魅せられていたのは、あなたも同じだったのではありませんか? ……中途半端に手を出して、身の破滅を恐れて、彼との距離を保って逃げる。なんて卑劣なんですか、彼を救い出そうとは思わないのですか。このままだと彼は死んでしまうんですよ、わかっていますか!」

 声を荒げるたびに自分が情けなくてむなしくなった。私は苛立った。そして寂しかった。死んでしまいたかった。消えてしまいたかった。別に自分の思いが実らなかったから悲劇を演じているわけではない。ただ、自分の滑稽さが自分でも哀れでならなくて、そんなことなら今すぐにでも慰めの為に死神の口付けを受けたってかまわないと思うだけなのだ。いつだって私は私のことを考えていた。このときもそう。


 ――ただ先生は、おそらく違っていたのだろうと思う。


「……きみはあの子が好きだったんだね」


 顔を上げると、先生は寂しそうに笑っていた。

先生の笑みを私は初めて見た。それは優しい笑みだった。

「金を払ってあの子を救い出すことは不可能じゃない。私の貯蓄はほとんど手元に残らないけれど。――でも、それは果たしてすべきことだろうか。私は思うんだよ」

 思いやりのこもった声が耳に響く。「金を出せば、私はあの子を買う人間と同じじゃないかって」

「せ、先生……」

「それに私まで彼を≪物≫扱いしてしまったら――一体だれがあの子を人として見てくれるだろう」

 先生は言った。「きみの言葉を借りれば、だれが愛してくれるだろう」

「そ、それでも命が危ういんですよ、いいんですか、みすみす、そんな……」

 すると急に、先生は私から視線を外して、私の背中の向こうにいる人影に目をやって、「ふむ」と頷いた。先生はにこりとした。

「人形を演じる彼よりも、どこにでもいる、ごく普通の少年として在る彼の方が、よっぽど魅力的だ」

「えっ」

「意外かい? 彼は、彼のこころの内からふうっとあらわれた表情が好い。こんな造り物みたいなものよりもずっと」

「本当に?」

「彼は、私たちが思っているより、ずっと聡いよ。自分がこれからどうなるのか、どうなるべきか、だれが自分に何を求めているかをしっかりと理解している。そして自分の中にある気持ちも理解している。すべてを理解したうえで、決断しようとしている。みんなの幸せのために。きみは私をなじるだろうか――、私はね。――彼の人間らしい実に愚かな間違いを、私の願いのために踏みにじってはいけないような気がしているんだよ」

 雷に打たれたような衝撃だった。

私はへろへろと一歩、二歩と先生から退いた。目を逸らしたくて、ふっと背後に視線を向けた。彼は笑っていた。先生に向けて手を振っていた。幸福そうに。

 私は脱力して、その場に崩れ落ちてしまった。彼の前には、私の慟哭も、涙も、思いも、届かないのだと知った。それでも、ここで彼という、ともしびを消してしまうのは、おかしいような気がした。

 道化師は最後まで道化を演じよう。私は駆け寄る先生を押しのけて、一言、

「お願いがあります。彼の死ぬ間際、彼に会いに行ってください。必ず、会いに行ってください。彼のために」

 私は騒がしくなった群衆に向かって身をかがめて突っ込んでいった。なんて喜劇だ。先生が私の名前を呼んだ。「松方くん!」聞こえないふりをした。私は自らの浅ましさが、憎くて、憎くて、憎くて、仕方なかったから。


🌸


 季節はめぐって、春。

遠くで軽やかな足音が聞こえる。永良川先生の原稿が出来上がるのを待っている間、僕は先生から少し離れたところにちょんと座って、縁側の向こうをぼんやり眺める。太陽の沈む頃、夕方。

 書斎と縁側との間には外から見えないよう障子が設けられているのだが、それが閉ざされているところを僕は今まで見たことがない。涼しい風が、書斎の部屋をぐるりとめぐった。原稿の紙が少し揺れた。

ふと気配を感じて遠くを見やった。すると、雨でもないのにちいさな朱色の蛇の目傘が、ふらりふらりと向こうの方からやって来る。僕は「あっ」と声を上げた。と、慌てて口をふさぐ。先生の邪魔にならないよう、驚きを隠しながら、そろりと横目で蛇の目を追いかける。漆塗りの下駄に、赤紐が映える。しゃら、と鈴の音がかすかに聴こえる。傘は縁側の前で立ち止まる。ふふふ、と艶やかな笑い声が漏れる。

「せんせい、きたよ」

 傘は閉じられ、そこには。


すらりと背の伸びた美少年がいた。


色白で、くりりとした玉のような瞳、活動写真から飛び出してきたかのような化粧が、彼の肌の白さを際立たせている。

悪戯好きな小悪魔のような微笑をたたえ、しかし舌足らずな口調は相変わらずだが、それは絵になる美しさであった。

「きょうも活動写真のさつ影だったんだよ。台本、おぼえたの、ちゃんといえたよせんせい」

 永良川先生は一度集中すると、それを妨げられることに強く不快感を覚える人である。だから僕は訪問時、とても緊張して玄関の前に立つのだ――。

 しかし、≪彼≫は特別だった。≪彼≫だけは、先生が仕事をしていようとも、自由に振る舞えた。そして、先生の居場所である書斎へすぐ行けるように、≪時彼≫専用の玄関が、この縁側であった。彼は下駄を脱ぎにくいのか、もたもたとじれったそうに脱いで、跳びつくように先生のもとへ駆け寄った。先生は何も言わなかった。それでも≪彼≫は満足そうであった。

「せんせい、またあたらしい台本もらってきたの。ぼく、またいっぱいせりふをはなすよ。いっしょにきいて、せんせい」

 彼はするりと猫のように先生の腕と腕の間をくぐり、ちいさく体をまるめて先生の膝の上におさまるように座った。新人編集者である僕からすれば、もうとんでもないこと、無礼千万ここに極まれりと言いたくなるような振る舞いであるが、先生はそれを一度も叱ったことがない。むしろ、彼の声が聴きやすいように耳を傾けるのであった。

「あれ、新しいへんしゅうのひと?」

 ≪彼≫は僕の方を指さして、先生に尋ねた。「せんせい、ちゃんとしめきり、まもらないとだめだよ」

 先生は頷いた。僕は少し待っていたが、やはり何も言ってくれなかったので、口を開く。

「千歳さん、以前もお会いしましたよ」

「そうお?」

 さすが俳優の職に就いているだけあって、どんな振る舞いも活動写真の一場面のように麗しい。実は僕は彼のひそかなフアンでもあった。こんなことを言うと、先生に笑われてしまいそうだから言わないが。

「せんせい、はなしてくれないから、わかんないの」

「本当に。先生はおかしなくらい無口ですね。僕が話しかけても全然答えてくれないし。何故ですか? 僕が新人編集だからですか?」

 先生はくっく、と喉の奥で笑っているようだった。先生は彼が来ると少し機嫌が良くなる。すると、彼はゆるく首を振って、答えた。

「ううん。せんせいはね、ぼくがみせものごやにいた頃は、ちゃんとおはなししてくれていたの。でもとつぜん、すこしもはなさなくなっちゃったの」

「見世物小屋? 千歳さん、見世物小屋にいらしたんですか」

 驚く僕に、彼はやさしく教えてくれた。

「そう。ぼくもうすこしで、にんぎょうになるところだったの。でもね、ぼく、みれんができちゃったの。だから、しぬのはやめにして、活動写真ではたらくことにしたの。いまはまだゆるしてもらえないけれど、いつかせんせいの書いたおはなしをえいぞうかするときに、ぼくもそこにだしてもらいたいなっておもうの。だからね、ぼくがおはなしのじんぶつになりきって、せんせいの作品のいちぶになるのがね、……ぼくのだいじなゆめなの」

「わあ、先生! いいじゃないですか、千歳さんにぜひ主役をしてもらいましょうよ。大盛況まちがいなし、ぼくたちの編集社も儲かりますよ!」

 僕の言葉に、先生は少し困ったように笑うだけだった。

「……先生はどうして話さなくなっちゃったんですか」

 僕はなんとなく白けてしまって、彼に話し掛けた。彼は首をひねって、

「うーん、わからないの。でも、こうなるすこしまえ、たしかせんせい言ってた」

 彼は先生に寄り添うようにして、

「なんかね、とてもやさしいひとをきずつけてしまったんだって」

美しい瞳を閉ざした。

「ぼくのしらないひとだけど」



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都都逸:がらす玉 夢を見ていた @orangebbk

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