アミルとレイ

夢を見ていた

第1話

 白々とした月明かりが照らし出したのは、郊外に孤立するようにふくらんだ丘であった。丘の頂上には、豪奢で派手な一邸のお屋敷が空に届かんばかりに高く聳え立っており、今は月の光を全身に受けている。

そこでは月に一度の舞踏会が開かれており、管弦楽器の奏でる音楽に合わせて優雅に踊る紳士淑女の姿が見受けられた。踊りつかれた者は給仕の差し出す葡萄酒で喉を潤し、談笑し、豪華な食事に舌鼓を打つ。

 この邸の主人は、この町の役人たちと今後進めてゆくべき事業について語り、夫人は微笑みを絶やさず、客人のもてなしをする一方で、給仕たちの仕事ぶりに目を光らせている。慌しく動き回る給仕の中には、まだここにやって来て間もない少女の姿があった。少女はアミルといって、齢十二歳くらいのほんのちいさな子供だった。慣れない食器運びにも、ふらつきながらも一所懸命に動き回っていた。

時折、歓談していた大人たちが、このずいぶん幼い給仕を珍しがって声をかけるのを、少女は緊張気味の微笑みでつたなく返事するのであった。そんな少女のおぼつかないやり取りを見ていた若い令嬢がくすくす笑いながら、ちいさく少女を手招いた。呼ばれた少女は小走りでその令嬢のもとへと駆け寄った。そこでは、数人の乙女たちが狭い輪をつくって、何か内緒話をしていた。

「ね、ね。ちいさな給仕さん、あちらのバルコニーに、ひとりぽつんと伯爵様がいらっしゃるでしょう。顔はよくみえないけれど、あまり見かけない方だから、きっと、都市の方からいらっしゃった伯爵様にちがいないわ。それでね、あの方にね、どうぞ、赤の葡萄酒と、この絹のハンカチをね、――さりげなくよ、お渡ししてくださらない。」

「ハンカチですか?」

 ぎこちなく問いかける少女を囲んで、乙女たちはこそこそと小声で教えた。

「そう。良かったらこっちにいらっしゃって、という意味よ。みんな踊りは飽きちゃったから、これは、ほんの、お遊び?」

「せっかくの機会ですから、いろんな殿方とお話してみたいわよねえ」

「ええ、ええ。だから、ご気分を悪くさせないように、さりげなく、うまくやんなさいよ。そうでなくっちゃ、ねえ、ふふふ」

 そう言いさして、若い乙女たちは貴族を気取って扇で口元を覆った。抑えた笑い声はむりな上品さをつくりだしており、かえって垢抜けしていないことが目についた。

豪奢な扇からのぞいた瞳は彼(か)の方を熱心に見つめており、恋の戯れを演出しながらも、だれもがこんな辺鄙な町からどうか自分を連れ出してくれよと恋焦がれていた。そんな乙女たちの期待を一身に背負って、少女は緊張しきった様子で一歩ずつゆっくりと、指示された青年のもとへ近づいていった。

銀の盆の上に置かれたグラスとハンカチが小刻みに揺れている。良い返事がもらえなければきっときつく叱られてしまうだろうと少女は思った。ひとの見ないところで仕置きといってぶたれるかもしれない。どんなに田舎者といっても、相手はそれなりの身分にある子女である。少女のような身分では、たとえ幼子であっても容赦はされない。こぼさぬよう慎重に運ぶために普通より倍以上時間はかかったが、なんとか無事にバルコニーにたどり着いた。青年は相変わらずじっと遠くを眺め、少女がやってきたのにも気づかない。

少女は、何度も深呼吸をし、やっとのことで青年に話し掛けた。

「あ、あのう。伯爵さま、あちらのお嬢さま方から、こちらを」

 しどろもどろになりながらも必死に舌を動かして、少女はかたかた震えるグラスを差し出した。

少女の蚊の鳴くような呼び声で初めて彼女の存在に気付いた青年は、驚いたように勢いよく振り向いた。

「いつ来た」

 鋭く問われ、少女はさらにうろたえる。「つ、つい、さきほどです」

 彼は怪訝そうに少女を見た。「先ほど――?」

 そのまま距離をつめて近づいてくる顔に、思わず少女はさっと身をかわして後ろに退いた。わずかに雲が流れ、月の光が一すじ、彼の横顔に射した一瞬。少女は彼のうつくしい容貌を目の当たりにしたのだ。闇に融ける黒髪、強い輝きを宿した瞳、少女は圧倒された。

「……まあ、いいや。で、何の用」

 そう促され、少女はつっかえながらも答えた。

「ええ。それで、あの、これを受け取ってください」

「何」

「葡萄酒と、あとは――」

「葡萄酒なら今飲んでたところだけど」

 そう言って手の中のグラスを軽くまわした。そこには純白に透き通る液体が躍っていた。

「それは白、ですね。あの、こちらは赤なんです」

「赤に、白? ――ああ! 思い出した、この酒の色で何か意味をもたせてるんだったな?」

 そうです、と少女は硬い表情のまま頷いた。

「白は〝しばしの休息〟、赤は〝お手を拝借〟です。わたしたちの舞踏会では、踊りに疲れて休みたくなったら白の葡萄酒を、踊りたくなって相手を探しているときは赤の葡萄酒を飲みます。それで皆さま意思表示をなさいます」

「それで赤を持ってきたってことは……あんたがか?」

「いえですから、わたしではなく、あちらのお嬢さま方からです、あの、」

 少女はたまらず俯いて、消え入りそうな声で嘆願した。

「お願いです。あちらの方たちと踊ってください。そうしないとわたし……、わたしきっと叱られちゃいます。それに皆さんもただ伯爵さまと色々お話したいだけなんだと思います。いらしてくれないと、がっかりなさると思います。だから」

 みるみる萎れていく少女を見、少女の背後、ガラス扉の向こう側でこちらをしきりに気にしている女たちを見、それから改めてちいさくなっている少女を見つめた。

「ヤだね」

「そ、……そうですか、でしたら仕方ありません……」

「そうそ。仕方ない、仕方ない」

 言いつつ、彼はぐいっと白銀の酒を最後まであおって、空いたグラスを彼女の盆の上に載せた。そんな彼にすっかり落胆してしまった少女は、力無さげに一礼し、これから受ける仕打ちに怯えた。

扉に手をかけようとしたその時、少女の耳に、かすかにではあるが、硝子のような小さな玉が割れたような音が届いた。その音に反応した彼女が振り向こうとしたのと同時に、深い闇の方から突風が彼女に向かって吹き付けてきた。これによりわずかに開いていたガラス扉は彼女の目前でバタン! と音を立てて閉ざされ、突然のことに驚いて仰け反った彼女は、哀れにもそのまま勢いよく地面に尻餅をついてしまった。投げ出された盆がくるくると回り、倒れたところで辺りはようやく夜の静けさに包まれた。あんなに強く閉められた扉だったが、ガラスは少しも傷ついていなかった。ホールで華やかに流れていた音楽や人々の談笑の声から完全に隔てられてしまった。今までいたところにはもう戻れないような予感がした。彼女は胸がひどくざわめくのを感じた。

 そのような心や周りの変化についていけない少女はぼんやりと辺りをみつめていたが、すぐさま意識を取り戻して、跳ねる上がるように立ち上がり、放り投げた自分の盆を探した。お嬢さまから託されたグラスもハンカチも見当たらない。

「こっちこっち」

頭上から声を掛けられて、勢いよく顔を上げると、満面に得意げな笑みを浮かべる彼の顔があった。そして彼の手にはなんと、彼女が放り投げたはずの盆が載せられており、グラス二客とハンカチ一枚がきれいに並んで置かれていた。

「お探し物はこちらだろ?」

 彼はにやりと口角をあげた。驚きのあまり声さえ出ない少女を置いてけぼりにして、彼は流れるような仕草で赤の葡萄酒が入ったグラスを手にし、わずかに口に含んで舌を湿らせた。

「うむ。気分が乗った。おい、そこなお嬢さん、一曲お付き合い頂こうかな。さ、〝お手を拝借〟」

 気が動転し、たくさんの疑問を頭のなかでいっぱいにしながら、ようやく口に出した答えは見当ちがいなものであった。

「ですからですから何度も申しあげていますようにお相手はわたしじゃなくてお嬢さまですってば―― !」

「ほんとうにおれと踊りたいなら、あっちから出向いて誘って来るべきだろ」

 そうだろう? とグラスに口つけ、首をかしげて問う彼に、彼女は思わず言葉を詰まらせた。確かにそう言われるとそうだったが、女が仲介役を使って男を誘い、男がそれに応じるというのは、いわば舞踏会ならではのある種の決まり事のようなものであった。皆はそれを暗黙のうちに受け入れてしまっているのであるし、今まですこしも疑問に思ったことがなかったのであるから、彼にこう言われて彼女は戸惑ってしまった。

 そんな彼女を見るに見かねた彼は、どこか憐れむように、

「人間の世界は窮屈だな」

 と呟き、そっと彼女の方を見やった。

――それから、彼女に両手を差し出させ、盆をその上に置き、右手にハンカチを、左手にグラスを持ち、わざとらしく咳払いをしてから、持っていたグラスを傾けて、純白のハンカチに赤い雫を幾粒か垂らした。そうして空いたグラスを彼女の盆の上に置き、勿体ぶった手つきでハンカチを両手で覆い、思い切り力を込めて握り潰した。パッと開いたところには、例の絹のハンカチから、かわいらしい芽が飛び出していた。芽はハンカチの糸をたぐり寄せるようにして、みるみる太く高く伸びてゆき、それに合わせてハンカチが小さく小さくなっていった。やがて絹のように透き通るような純白の茎ができ、ふんわりふくらんだ蕾みができた。

「息を吹きかけてごらん」

いわれるがままに、少女はふうっと息を吹きかけると、蕾みは身震いするように花弁をふるわせ、レースを広げるように花を咲かせた。一輪の白い薔薇。彼はその花に優しく口付けて、彼女に差し出した。花は彼女の手元へゆく前に、ゆっくりと白から赤にと色を変え、真紅の薔薇として咲き変わった。

「ああ……、すごい……!」

 そのうつくしい魔法にすっかり心奪われた少女は、目をきらきらと眩いばかりに輝かせ、感動のあまり盆の上のグラスがかたかた揺れた。贈られた花を受け取ろうと、片手を伸ばした瞬間、茎に触れるか触れないかのところで、薔薇は音もなく消えてしまった。心から残念そうに息をついた少女を、彼はどこか人離れした目で観察していた。

「さ、余興はこれでおしまい。ではさっそく。お付き合い頂けるかな?」

 彼の言葉に、彼女ははっと夢心地から醒めて、彼の差し出された手に恐る恐る自分の手を重ねた。「わたしあんまり踊りが上手でないの」

「だからしきりに断っていたのかい」

「ち、ちがう、それはほんとうにお嬢さま方に悪くって……」

「そんなことどうでもいいからほら早く」

 恥じらう彼女と手を組み合わせ、背筋を伸ばし、ゆっくりと歩み出した。音楽はなく、彼がしずかに刻む拍子に、顔を寄せ、耳をすませて、委ねるようにして踊った。パリ、パリンと彼がステップを踏むたびに、かすかに硝子の音がしたが、これを頼りに拍子を取っているのだろうかと彼女は思った。

彼と少女の背丈はずいぶんと離れており、しきりに身体がもつれて、ステップを踏み違うが、それでも彼は気にしなかったし、それに安心した少女は次第に落ち着きを取り戻し、緊張して強張っていた身体が少しずつほぐれていくのを感じた。それでも何度か彼の靴を踏んづけることが重なると、彼もまた仕返しにと彼女の足を踏もうとし、踊りながら彼女をあちこち連れ回しては、その場で立て続けにターンさせた。彼女の制止の声に涙声が混じり出したあたりから、ようやく踊りの足がゆるまり、そして終わった。顔を真っ赤にして荒く息を吐く彼女の姿を、彼は指さし腹を抱えて笑い転げた。涙にうるんだ彼女の目が、非難がましげに睨んでいるので、彼は口を閉ざして笑いを堪えたが、殺しきれない笑い声が唇の隙間からしきりに漏れ出ていた。

「なんども、とめてって、言ったっ!」

「ごめん、つい可笑しくて、くく、」

「ひどい、ひどい! あんなに、あんなにくるくる回して、わた、わたし、目が、回って!」

「ごめんって、あんたがピーピーわめくからつい、」

 最初は怒っていた彼女だったが、次第に彼の笑いに誘われたのだろう、目元がゆるんで、怒る声も笑いに震えていた。それでも、一緒に笑って済ませてしまうには、自分の気持ちがおさまらないので、彼女は怒ったような、呆れたような声色を作って言った。

「へんな人。想像していた伯爵さまとも全然ちがう。他の殿方とも、勿論ちがう。子供みたいにはしゃいで、いじわるするし、とってもへんよ!」

「そうかな?」

「身分が上のひとはみんな、わたしのような給仕役とそんな気さくに話したりしない。まして、踊ったりなんかするはずもない。そうよ、言葉遣いもへんだし、へんなところがたくさんあるわ」

「そうかな」

「そうよ」

 冗談まじりだった彼女の言葉が、次第に真剣味を帯びてくる。彼女の不安は最大限に達する。今、目の前に対峙している人物は何だ。

「あなたは、ほんとうは、何ものなの……?」

 ――瞬間、飄々としていた彼の表情が強張った。「何もの」か。彼はがくりと頭を垂れ、身体中の力を抜き切った。口の中で彼女の言葉を反芻しながら、浮かべていた微笑を確実に崩していく。

「そんなに目立って変だったのか? 自分ではなかなかうまいモンじゃないかと思っていたんだが、そうか、案外難しいもんだな」

「な、なにが……?」

「人間の真似事」

ぐしゃりと引っ掴むようにみずからの黒髪を掻き上げたものは、先ほど少女と踊っていた青年とはまったくの別人、――別物であった。嘲るように細められた双眸は氷のように冷やかに彼女を、彼女のみならず、この世に存在するありとあらゆるものに満足できず、侮り、見下し、嘲笑っていた。それはある種の権力者の優越であった。

今までずっと抑えつけていたのであろう、他の者を圧倒させる膨大な力を身体中に纏った。その力は彼女の皮膚を刺すように、激しく刺激した。彼女の心が、身体が、運命がその場からただちに逃げ出すようにと警鐘を鳴らしていた。しかし、彼女の二本の脚はまるで地面に縫いとめられたように動かない。冷や汗が、彼女の頬を伝っていった。

「声も出ない?」

少女の瞳からはただひたすらに、彼の豹変に対する当惑と恐怖の色が読み取れた。彼は愉快そうにわらった。

「さすがのあんたも、おれの中で何かが変わったことには気付けるみたいだな」

 少女はわななく唇で、言った。声は掠れて出なかったが、確かに口の動きはこう告げていた。

――〝悪魔〟。

「せいかい」

彼はわずかに口角を上げた。その酷薄な微笑みは、ひたすらに少女の恐怖の想いをかき立てたが、完全なる決別に満ちたその表情に、不思議とどこか畏う心も彼女の中に浮かんできたのである。自分の命を脅かすかもしれない、恐ろしい存在であるのは勿論である。しかし、その揺るがぬ強さに裏打ちされた余裕は、人間には真似できないであろう。彼女は彼という存在を恐れた。しかし、それだけでは表せられない強い感情も生まれてきたのである。頭が我もわからず混乱する。

悪魔はきらびやかな格好を脱ぎ捨て、黒い外套に身を包んだ。それから彼が右頬を撫でると、丁度黒い色の◆印が肌に浮かび上がり、彼は不敵にほほ笑んだ。

「これは悪魔の印」

 さらに唇を歪める。

「いくら辺鄙な場所に住んでいても、一度も噂を耳にしなかったなんてことはないはずだろう。ここ五十年ほど前から、我々〝悪魔〟のめざましい活躍を。

遠い都の方で種も問わず人間を支配する絶対的王者。魔法の力を有する魔、悪魔。辺鄙な町の噂では、魔は都にしか出没しないから安心だって、そう言ってたって? 確かに、そうだな。活動範囲はまだ今のところは、都の周囲のみだ。だが、まあ、人間界全体に力が及ぶのも時間の問題だろうな。――あいつも黙っていないだろうし。」

 少女は怯えながらも尋ねた。「あ、あくまがここに何の用なの」

「あんたには関係ない」

 彼は一蹴して、黙って空を仰ぐ。月は厚い雲にかかって月影もほのかで、辺りは張りつめた糸のような緊張を孕んだ静寂があった。

そうして彼は、ゆっくりと少女を見据えた。その目は、少女を揶揄するところも少なからずあったが、その顔は懐疑のために歪められていた。

「それにしても、あんた、なんでそんなに平気そうなんだ?」

 パリン、またどこかで硝子の音がした。少女はびくりと肩を竦ませる。一歩。彼が少女と距離を詰めた。少女は咄嗟に一歩下がった。

「こないで」

「ヤだね」

「お願い、」

「おかしい。実におかしい。何故、あんたは今もなお、おれと口をきけている? 何故、あんたは何事もないようにその場に立っていられるんだ?」

「っ、」

「おかしい。だって、おれ、ずっと」

 じりじりと距離を詰められ、壁際に追いやられる。「ひっ!」と思わず上げた悲鳴を無視して、彼は少女の耳元にを唇を寄せた。

「ずっと、あんたに魔法をかけ続けているのに」

 彼は少女アミルの目の前に自らの手を持っていって、勿体ぶるようにゆっくりとこぶしを開いた。その中には、ちらちらと輝く夜色の宝石が幾粒もあった。それはうつくしくもあったが、何よりまがまがしさを少女に感じさせた。怯える少女に、彼は至極愉快そうに目を細めた。

彼は、これらの結晶を、握り潰した。

パリン、パリン、パリン! 耳を劈くの破裂音が辺りに絶え間なく響いた。その音がした瞬間、彼女の周囲は見るも無残に破壊し尽くされてゆき、彼女らのいるバルコニーは始終不安定に揺れていた。彼女は近くにあった欄干に縋るほかなく、ちいさくなって震えていた。

「いやっ!」

「何が嫌なもんか。あんたは何一つ傷ついちゃいないのに」

 声がする方に顔を上げると、器用に欄干の上に足をつけて立っている彼の姿があった。

「みてごらん」

 彼女は何も見たくなった。しかし、その心よりも先に、目が、彼女を取り巻く現状を捉えてしまった。趣向を凝らした豪華な装飾も、綺麗な玉をちりばめた地面も、まるで獣の鋭利な牙にえぐりとられたかのように崩壊しきっていた。彼女は言葉をなくした。それだけで済むのなら、どんなによかったか。

その破壊の手は、しゃがみ込む彼女に届く前に、やんでしまっていた。彼女はふらふらと立ちあがった。彼女を中心に円を描いた範囲、そこのみが、周りの崩壊を拒絶するかのように無変化であった。

「別におれが避けたわけじゃないぞ」

 彼は言う。「あんたが避けたんだ」

「わた、し、なにもしてない……! なんで、なんで――?」

「では何故、おれの魔法が効かない? そこらの悪魔の魔法ならまだしも、何故、おれほどの悪魔が魔法負けするんだ。あんたが何かしてるんだ、そうだろう? そうじゃないと言うのなら、それはあんたの体質か何かだ、心当たりがあるんじゃないのか? 何が原因だ。言え!」

「しらない……、しらない! わたしは何も、」

「あんたが白を切るつもりなら、こっちだってそれなりの態度に出る」

 彼は欄干からひらりと降りて、指の間から不思議な結晶を取り出し、割った。すると、彼の指から青い炎が現れた。炎はわずかに吹く風を受けて、ゆらゆら揺れている。

「確かめてみようか? この炎があんたに効果するか、しないのかを、直接」

 彼は静かに、彼女の方へ炎を向けた。

「あんたは悪魔のおれが何のためにここに来たのかを問うたな。細かいことは答えられないが、要はこのでっかい建物が邪魔なんだよ。だから、壊しにきた。最初は、おれより下っ端の悪魔が、その次は中級の悪魔が。しかし、それでもこの建物を壊すことはできなかった。魔法が使える悪魔が、だぞ? 人間が作ったガラクタを、悪魔様が壊せないわけがない。――だから、おれが呼ばれたわけだが――、なるほど。道理で壊せないわけだ。魔法を無に帰す、存在がいるわけだから。」

 彼は顎に手をあて考えあぐねる格好をし、しかし微笑みの消えない瞳を彼女に向ける。

「それにしても魔法を無効化にする範囲はどれくらいなんだ? あんたを中心にして、一、二、三。大体おれが三歩歩いたくらいの距離か。そういえば、あの薔薇の魔法も、消えてしまったわけだが、触ったら、消えるのか? ほかにもある――最初、おれはバルコニー全体に人間よけの結界を張っていたんだ。それを、飄々とくぐり抜けてきた。抜けただけじゃない、消滅させた。あれは驚いた。おれの結界は完璧だったわけだからな――ということは、広範囲の魔法には、その空気に触れたら無効化、部分的な魔法は、ある程度近づいたら無効化、こういうことか? 現にこの炎は消えていないわけだからな。魔法だけを対象にするのか、魔法のかけられた物ごと消してしまうのか、どうなんだ。消えた魔法はどこかに移動するのか?」

「わからない……」

 少女は力無く首を振った。

「何も? 何もわからないのか? 今まで何ひとつ気づかなかったっていうのか? 自分のことなのに? 嘘をつくなら、つく相手を選んでからにした方が賢明だな」

 炎が、彼女の頬のすぐ横まで近づいてきた。

「ほんとうに、わからないの」

 彼女は何を思ったのか、その炎に頬を寄せた。彼が手を引く前に、その頬は炎の先に触れ、一瞬にして消えた。

「な、」

「わからないの」彼女は俯いて、自らの膝上に額をのせてうずくまった。「自分のことなのに」

 彼女の急な変化に戸惑いを隠せない彼は、辺りをせわしなく見渡した。彼としては別段アミルを虐めようという気はなかったようであり、。

「お、おい……。なんだ。どうしたんだよ急に。……どこか痛いのか? これだから、人間は。ヤワだから、人間は、困るんだよ、まったく。――おい、何か言えよ、おいったら」

「放っておいて」

「直してやろうか? 魔法で、――って、魔法効かないのか、そうか。どうするか、どうしようか――」

 彼女は、なだれる髪の間から、珍しく落ち着きのない彼の姿を盗み見た。

「あなたって、ほんとうは優しいのか、怖いのか、よくわからない」

「どちらも人間が決めることだから、おれには関係ないな」

 うずくまる彼女を覗き込もうと、同じようにしゃがみ込んで様子をみていた彼は、ごく普通に、なんでもないことのように言った。実際、彼にとってはそう大した話でなかった。

「関係ないことばっかりね」

「そうとも」

「じゃあ、あなたはどうして、人間のわたしに関係しようとするの?」

「あんたに興味あるからさ」

 彼は笑った。彼女も、さびしそうに笑った。

「わたし、男のひとと踊るの、初めてだったの」

「ふうん」

「初めてで、とっても、とってもどきどきした。今は、ちょっとちがう、どきどき、してるけど。でも、ちょっぴりね、夢をみたの。わたしも、お嬢さまたちみたいに、きれいな女のひとになって、すてきな方と手をつないで傍にいる夢。」

「へえ」

「わたし、わたし。……ここに来たばかりで、勝手もわからず、失敗ばかり。奥様や同じ給仕役のひとに叱られて、陰でわるぐち言われてるの、知ってる。みんながわたしのことを無視する。笑う。わたしだって、がんばってるはずなのに。休みなくずっと働かされて、寝ることも食べることも、忘れてしまいがちで。それで、それで……ひとと話すのが段々怖くなる。いつも、いつでもわたしのことを笑ってる気がする。こんなこと考えたくないけど、怖くなるの」

 少女は、自分の身を、かき抱いた。

「わたし、なにもできないダメな子なの」

「人間は我慢が好きな生き物だな」

 彼は不可解そうに首を傾げた。「どうしてわざわざヤな所に居座ろうとしているのかがわからない。嫌なら逃げ出せばいい。したい事があるなら、すればいい。人間が人間と手をつなぎたいなら、手をつなげばいいじゃないか。一緒にいたいなら、いればいいじゃないか。どうしてそれが出来ない?」

 彼女は堪えられずに顔を上げて叫んだ。

「できないわ。わたしには、そんなこと」

「出来の良いコも出来の悪いコも、おれから見ればどれもこれも同じ人間だよ」

 彼女はうるむ瞳を彼に向けた。

「そう言えるのはあなただからよ。逃げ出せるのは、あなただからよ」

「じゃあ、連れ出してやろうか」

 彼は手を差し伸べた。「逃げるのに、ひとりもふたりも、変わらない」

 少女は呆然と彼を見た。彼は弾かれるように笑った。

「なんだ。最初から、あんたは外に出たかっただけじゃないか。なんだ。そんなことで悩んでいたのか。ばかだな、人間は。たったそれだけのことが、言えないだなんて」

 少女は動かない。

「なんだ、まだ怖いのか」

「そんなこと、……できっこない」

「悪魔のおれに出来ないことは無い」

彼は続けた。「あんたは逃げ出したいって気持ちだけもってればいい」

彼女はまだ、何かに迷っていた。もごもごと口の中で話すので、聞き取りづらく、彼がしきりに促すと、アミルはしきりに恥ずかしそうにして、もう一度問いかけた。

「ほんとに、なんでもできる?」

「くどいな。出来るさ」

 消え入りそうな声で、彼女は、懇願した。

「わたしのこと、守ってくれる?」

「いいよ」

 彼女は、たまらず目前にいる彼にむかって跳びついた。彼の首にまわした手にぎゅっとありったけの力をこめて、抱き留めた。

「わたしのこと、アミルって呼んで」

「アミル?」

「わたしの大事な名前を、あなたに、呼んで欲しい」

 彼は少女を抱えたまま、ふらつく足取りで立ちあがろうとした。が、自らが壊した瓦礫に足を掬われてしまう。手を伸ばし、体勢を整えようとするも間に合わない。彼の背中が当たった衝撃で、ぎりぎりのところで形を保っていた欄干は決壊し、彼は少女ともども空中に身を投げ出される形となった。

 落下の最中、彼は少女の頭の向こうにまばゆい光が射したのに気付いた。雲の晴れた月が、彼らをつよくつよく照らし出していたのだった。


◇◆◇


 彼が地面に背中から着地した時と同じく、たった今まで彼らがいた邸もまた、音を立てて崩れ落ちた。

「そうだった。おれの他にも悪魔がいたんだった」

 空中で落ちながら、なんとか魔法を発動させて、自らの頭と足に雲のような綿を出したために、彼の身体への衝撃がいくぶん和らいだようだったが、彼女の不思議な体質のために、予期していた魔法の効果が得られなかったようだ。しきりに頭や尻をなでつけている。

 そんなことよりも、目の前で完全に崩壊した邸を見、少女・アミルは絶句した。これも魔法の力だというのか。先程まであったはずの高くそびえる邸が、一瞬にして瓦礫の山となった。その人間離れした力を前に、冷静な判断ができないアミルであったが、はっと、邸の中にいた人々のことを思った。

「みんなは?!」

 彼女は真っ先に尋ねた。彼は邸の壊れ具合にうんうん頷いていた。

「あ? ああ、他の人間のことか。さあ、一緒に瓦礫の下でねんねしてるんじゃないか?」

 けけけ、とひどく可笑しそうに笑う悪魔だったが、アミルの瞳がみるみる涙にあふれていくのを見て、戸惑った。

「何故泣く? あんたの嫌いな人間がきえたのに。うれしいことじゃないか?」

「怖かったけど、死んで欲しかったわけじゃなかったんだもの」

 彼は呆れたようにため息を吐いて、「勝手だな」とこぼした。アミルはどきりとした。見るに見かねた彼は、無関心そうに口をとがらせた

「――死んではいない。生きてはいる。ただ、みんなバラバラの見知らぬ土地に飛ばされたはずではあるけどな」

 と付け足した。彼女の目からまた涙がこぼれた。

「ほんとう?」

「ま、誰がどこに飛ばされたかまではわからないが、本当だよ。元々そういう手筈になっていたんだ。最初におれがこの邸に忍び込み、魔法の効かない元凶を探り、滅する。その後、二、三の悪魔がこの邸を魔法で壊す。これで任務は完了ってわけだ」

 アミルは、得意げに話す彼にうなずきながらも、心は上の空で、しきりに邸の人間が死んでいないかどうかを確かめた。

「そんなに気になるなら『みんな』とやらのところへ会いに行くのか?」

 彼は特別の意図もなくそう尋ねたが、彼女は思わず黙ってしまった。戻りたいと言えば、彼はきっとこの願いを叶えてくれるだろう。しかし、彼女は一度決別したのだ。そしてその結果、邸は壊れてしまった。そうとも考えられた。実際、彼女がそのまま邸に居残る選択をすれば、悪魔の魔法が発動することもなく、邸が崩れることもなく、彼女は変わらず給仕の仕事に精を出すこともできただろうからだ。

「もどれない」

 アミルは、強引に涙をぬぐって、彼と向き合った。「もどらない」

 彼は感心したように口笛を吹いた。

「では、どこへ行く?」

「どこ……」

 途端に、意気消沈する。「どこだろう、……」

「思いつかない?」

「思いつかない」

 彼はにやりと口角を上げた。

「じゃあ、おれのところへ来いよ」

「あなたのところ? どこ――?」

「悪魔といえば、地獄だろう」

 アミルははっと顔を上げた。

「地獄? わたし、地獄へいくの?」

「あんたなら行けるだろう」

彼はほほえむ。「何も恐れるものはない。おれがついてる」

アミルは少し考えてから、彼の目を見て恐る恐るうなずいた。彼もまたうなずき返した。そして、どこからともなく細身のステッキを取り出して、地面をとん、とんとんと三回叩いた。

「どういう意味?」

「〝地獄の道〟を繋いでもらうための合図さ」

 アミルの身体をさっと手で退けて、彼は告げた。「来るぞ」

 地面が波打った。彼がノックした点を中心に、さっきまで彼女が立っていた場所までがどろどろの液体となって揺らいだ。その現象は円のようにみるみる広がってっていき、大人ひとりが何とか入れるくらいになってようやく静止した。アミルは思わず息を呑んだ。まさかと思って隣に立つ彼を見上げると、彼は案の定うなずいた。

「入れよ」

「これに……?」

「そうさ。この深淵に入れるかどうかで、地獄に入れるかどうかが決まるから。まあ頑張れよ」

「えっ、そんな! ほ、ほかの方法はないの? わたし、魔法を消してしまう体質なんでしょう? これも魔法の一種なら、消えてしまうかもしれない」

「魔法にも色々ある。これは、おそらく消えない。そこらの魔法とは比べもの

にならないくらい強い魔法だ。おれの魔法でも太刀打ちできない。この究極の力でもあんたの力の方が強いって言うならそれまでだけれど、試してみる価値はあるだろう?」

「そうだけど、その、……抜け道とか、ないの? だって、ちょっと、こわい」

彼は黙ってふんと鼻を鳴らした。どうにも呆れられたようだ。アミルは途方に暮れて、深淵の近くに膝を折った。覗き込むと、かすかに生温かい風が肌に当たった。この〝淵〟が遥か下に広がる世界と通じているのがわかった。目を凝らすと、暗闇のずっと奥深くで青い炎がいくつも燃えているのが見えた。彼は一歩離れて覗き込んでいる。

「――見えるだろ? あれが外から見た地獄だ。おれはあそこから来た」

 ずっとぐずっていたアミルだったが、ついに心を決めた。深呼吸をし、大きく瞳を開く。眉間のしわはまだ寄ったままであったが。

「それで。どうやって入ってくの?」

「頭から」

「あたま!」

「へんに怯えているようだから忠告するが……。いいか、あまり物を考えすぎてはいけない。眠って夢の中にいるかのように力を抜いて、すべてを委ねてしまうんだ。抵抗するなよ、精神に傷がつく。あとはあっちが勝手にやるから。すぐ済むさ」

 アミルは泣きそうになりながら、目を閉じて、心の中で今まで生きてきたこの世界に別れを告げた。もしかしたらもう戻れないかもしれない。こんな思いをするくらいなら、やめておけばよかったと思う気持ちもある。今ならやめることもできるかもしれない。そう思わないこともない。それでも、彼についていきたい気持ちの方がもっとずっと強くあった。彼と一緒だと思えば、暗闇も深淵も恐ろしくなくなってきた。いざとなれば彼が守ってくれる。アミルはその言葉を大事に仕舞いこんで、深淵に頭を垂れた。やはり心の底では、彼が彼女のためを思って差し出してくれたその手を掴みたいという、純粋な願いがあったのである。

額が深淵に触れたとき、こちらをやんわりと拒むような弾力を感じた。そのまま頭を深々下げてゆくと、水中に潜るように身体が深淵の中にすべっていった。 

――意識が遠のいてゆく。身体と精神がばらばらに離れていくような気がして、恐ろしくなる。彼はどこにいるのだろう。不安に感じながらも、たゆたう水の流れに抗うことなくすべてを委ねて下へ下へとおりてゆく。

すると、途端に下におりる速度が落ちていった。まだひっついている身体が重すぎるのだと彼女は直感した。――これは持っていけない。置いていかなくてはならない。夢うつつにそう思ったとき、見計らっていたかのようにどこからともなく無数の手のようなものが現れ、彼女の視界を覆い、手首や胴体、足首に巻き付き、下へと抗いがたい力で引っ張っていった。それにより、辛うじてもってきていた身体がゆるやかに切り離されてしまった。

嘘みたいに身が軽くなるのを彼女は感じた。これならば、くだってゆける。彼女はどこか安心して目を閉じて、完全に体中の力を抜いた。深く深く、おちてゆく。遠くで誰かが自分を呼んでいる声が聞こえた。それは、悪魔の彼の声にも似ていて、けれどもどこか違うようにも感じられた。

ともかくも、彼女は自然と声のする方へと運ばれていくこととなった。

――世界が変わる。


◇◇◆


「アミル、」

誰かが身体をゆすっている。彼女はゆっくりと目を覚まし、ぼやける視界の中、彼のからかうような微笑みを見つけた。

「よう。ちゃんと通れたじゃないか」

「うん、」

「怖くなんてなかっただろう?」

「……こわくなんてなかったわ、」

 アミルは少しだけ強がりをした。「驚きはしたけれど」

「上出来だ」

 彼はにやりと笑った。

――それから、アミルは彼の手を借りて起き上がり、辺りを見渡した。が、どこもかしこも濃い霧が立ち込めており、周りの状況がほとんど掴めないのである。おそらく広い空間に置かれているのであろうが、彼女は先ほどの浮遊感を未だ引きずっており、どこか夢見心地で彼を見ていた。

「ここは、地獄?」

「いやまだだ。ここは、人間界と地獄の境目だ。心せよ人間、本当の地獄はこれからだ」

くくくと口を歪めて微笑む彼。本当の地獄、という言葉に、アミルは自然と身を強張らせた。今まで以上に恐ろしいものが存在し、恐ろしいことが起こってしまうのか。――覚悟しなければならない。彼女の目に映る何もかもが、彼女にとっては未知数で、未知というものは遥か昔から人間にとって何よりも恐ろしいものであった。

と遠くを指差し歩き出した。アミルは先を行く背中についていきたいが、何だか自分の足が地についていないような気がして、思わず下を向いた。

すると、アミルの両足は透明なガラス板のような地を踏んでいたのに気がついた。霧のせいでよくは分からないが、透明な地面のために、彼女の足元の《世界》を知ることができた。彼女は、虚空の上に立っていた。底の見えない、世界にあるありとあらゆる存在を呑み込まんとする虚空の闇。先程彼女たちが通ってきた深淵とは比較にならないほど遥かで、巨大で、まるで禍々しい怪物が大口を開けているようでもあった。アミルは全身で震えあがった。底冷えした悪寒が走る。這い忍び寄るような恐怖に彼女の頭はたちまち支配されてしまった。

硬直する体を、それでも懸命に動かして、彼女は目の前の彼に訴えかけた。

「ねえ、ねえ、……ちょ、ちょっと待って……っ」

半ば悲鳴まじりの声に、彼は悠々と振り返って、ひとつ鼻で笑ってまた前を向いて歩き出した。

「さっきまで、歩いていたじゃないか」

彼は口笛を吹いて、愉快そうに進む。

「怯えるから止まっちまうんだ。黙って進め。悪魔はいつだって遥か先を眺めるもんだ」

そう得意げに笑う彼に、自分は悪魔ではないと反論することは簡単だったが、たとえそう言い返したところで、彼は待ってくれはしなかっただろう。彼が手を差し伸べるのは、進むにしても逃げるにしても、何か動き出そうとする者に対してである。立ち止まることは許さない。そのことを彼と一緒にいることで少しずつ分かってきた。

だからアミルは、何とか、何とか涙を堪えて一歩、足を踏み出した。

今でもまだ、地面を踏む感覚が戻って来ず、絶えず宙にふわふわと漂っている感じがして、気持ち悪かったが、それでも彼に置いてけぼりにされたくない一心で歩み続けた。

彼の歩幅に比べれば随分遅い歩みであったが、進むことには進んでいた。前を行く彼は、どうやら目的の場所に辿り着いたらしい。足を止め、振り返り、彼女の歩みを応援するというよりは揶揄するような微笑みを浮かべた。ようやく追いついたアミルを、彼はわずかに一瞥して、真っ直ぐに指差した。

「ほら、着いたぞ」

「えっ」

ずっと一点だけを見つめて歩いていたアミルは、自分たちの目の前に君臨する物を理解していなかった。

そこにあったのは、門。深い霧に包まれていた堂々たる姿が、今、アミルたちの前に立ちはだかった。彼がずっと指差し、目指し続けていたのはこの存在だったのかとアミルは思う。

その門には門扉はなく、ただ白い門構えのみが聳えていた。巨石をくり抜いて作ったように、柱には石独特の凹凸があった。彼は門を仰ぎ見て言った。

「これからこの《地獄の門》をくぐる。その先が本当の地獄になる」

アミルは上擦る声で、沈黙をつくらないよう懸命に口を動かし続けた。

「ね、ねえ、門をくぐるときは、またさっきみたいになるの? なんだかこう、連れて行かれるような感じで――」

「いや普通にくぐるだけさ。瞬き一つの間に終わっちまうことだよ。ただ、さっきの深淵と違うのは、地獄の門には門番がいるってことだな」

 言い終えるなり彼は、自らが身に纏っていた外套から被り物を取り出し、アミルに渡した。それは山羊の覆面であった。ちょうど山羊の目玉にあたるところは、透明なガラス玉が埋め込まれており、被るとそこから外が見られるようであった。

「間に合わせだが、これを被れ。おれの気に入りなんだから、汚すなよ」

アミルは最初こそ嫌がる素振りを見せていたものの、結局のところ彼に従う他なく、山羊の覆面を頭からすっぽり被ることとなった。

覆面を被ると視界はやや狭まり、発した声は篭って響いた。アミルはもごもごと問うた。

「悪魔はみんな、この山羊の覆面をしているの?」

「いや、山羊以外にもあるぞ。獅子とか犬とか」

「へえ、」

他にも聞きたいことが沢山あったが、彼に「ほら行くぞ」と促されては仕方ない。

慣れない覆面に戸惑いながらも、アミルは彼の背中を懸命に追った。

「離れるなよ」彼は囁いた。「後は任せておけ」

「お願いよ、少し手を貸して、引っ張ってくれない? さっきから変に歩きにくいの」

「悪いな、悪魔は誰かに手を貸したりはしないものなんだ」

「さっきは貸してくれたじゃない!」

「さっきはさっき、今は今。おれの気分が最優先」

彼は門と対峙すると、外套の中に手を突っ込んで、細長い木の枝を取り出した。おそらくこれもまた魔法の類であろうとアミルは思う。

彼はその枝でもって門柱を数回叩いた。「起きろ、カロンさん」

すると、彼の声にとある反応が帰ってきた。それはアミルたちの遥か頭上で起こっていた。

門構えのところに、一本の線が刻まれ、そして一気に上下に開かれた。その中には一つの円があり、それが壁の上でギョロリと動き出した。それはいわば石の瞳だった。右から左、上から下へとその瞳の動く度にギシギシと石が擦れる音がする。アミルは瞳と目が合った瞬間、堪えられずすぐさま俯いてしまった。と同時に自分の顔が覆面で隠れていることに心からほっとした。彼女にとって彼と出会ってからというもの、わけのわからないことばかりで、まともに判断ができなかった。ひたすら彼を頼りに、その背中から少しも離れることなく縋りついていた。

そんな様子のアミルをよそに、彼は門の瞳に向ってひらひらと手を振った。

「おうい、こっちこっち」

 瞳はこちらを認知し、じっと見下ろし、凝視した。特に彼の右頬にある悪魔の印を確認しているようであった。

「門をくぐりたいんだ。地獄に繋いでくれ」

 彼の言葉を聞いてから、瞳はゆっくりと彼の隣にいるものを見据えた。アミルは見られているのを感し、硬直してしまう。彼はなんでもないように肩を竦めた。

「ちょっと面白そうだったもんで、おれが連れてきたのさ」彼は付け足すように言った。「害はないさ」

 彼の言い分に瞳は納得したように瞬きをひとつし、そしてそのまま石の目蓋をおろした。開いていた瞳は消え、元の門構えに戻った。

「さ、くぐるぞ」

 先ゆく彼が門をくぐるのを見て、アミルは慌てて駆け寄った。

「ようこそ地獄へ、我らが主の絶望を享受する準備はできたか?」


◇◇◆


 彼の言うように瞬きする間に地獄に辿り着いた。まずアミルたちを出迎えてくれたのは、人間界と地獄との境界で眺めた虚空である。彼ら悪魔はこれを地獄の深淵と呼んでいた。深淵は漏斗状に底深くまで広がっており、その周りを囲うように地がひろがっていた。

「ここからおれたちはゴンドラに乗って、底の方へと降りていくことになる。ゴンドラの乗り場が、見えるだろ? あの薄い雲が浮かんでいるところにあるからそこまでさっさと行くぞ」

「雲の上を歩くの? でもあれも魔法か何かなんでしょう? わたしも歩けるのかな」

「歩いてだめだったら仕方ないな」

「落ちたらたすけてくれるでしょう?」

「助けないというのもある意味面白いかもしれない」

 アミルはしょんぼり項垂れながら呟いた。

「あなたって時々とっても意地悪ね」

「さてね。ゴンドラ乗り場には、さっそくおれ以外の悪魔がうじゃうじゃいる。せいぜい気を付けろよ」

「あああ、待って、置いていかないで」

 右も左もわからないアミルを一切気づかうこともなく、彼は彼の気分にのみ従って動いた。それに終始振り回されるアミルは、次第に、小さいことではそんなに驚かなくなり、多少の勇気もみせるようになってきた。雲の上にも一息に飛び乗った。雲は弾力があり、彼女の靴底をぽんと押し上げた。体勢を崩しながらも、アミルはぴったり彼にくっついて進んだ。

 彼の言った通り、辺りには動物の覆面や◆印を頬につけた悪魔が多くいた。アミルは極力そちらを見ないように、彼の影に隠れて何とか彼の言うゴンドラに乗り込むことができた。

外から見ると、黒く四角い箱に思われたが、中に入るとちょっとした小部屋のような空間が広がっており、彼はそこにあったソファに悠々と腰掛けた。床には高級そうな絨毯が、

「これも魔法?」

「もちろん」

 彼は壁に取り付けられていたレバーを回し、円盤に示された黒い色の部分に合わせた。アミルは興味をもって尋ねた。

「これはなに?」

 彼はどこか面倒そうに説明した。

「あー。地獄には、階層があるんだよ。大体三つ? いや、九つくらいだったかな? まあとにかく、これでどの階層まで降りるか決められるんだよ」

 彼はそんなことより、と自らの隣を軽く叩いた。

「いつまでも突っ立ってないであんたも座れよ。何か温かい飲み物でも出してやる」

 言うなり彼は、テーブルの上に紅茶の入ったカップを出現させ、彼女に勧めた。

 アミルはかぶっていた山羊の覆面を取り、ひとまず息をついた。そして彼の隣から少し離れて腰掛け、受け取ったカップに静かに口つけた。人間界でもらった薔薇のように消えることはなく、温かく甘い液体が喉をうるおした。

「美味しい。けど、なんだかとっても不思議なきもち」

「不思議? 何故」

「だってあれもこれも、ぜーんぶ魔法、なんだもの。……わたし今まで魔法をみたことがなかったから、何が何やらわからない……」

「おれたちにとってはこれが普通だがな」

 アミルはぼそっとつぶやいた。

「魔法ってなんでもできるのねえ」

「悪魔の特権だからな」

 彼はにやりとした。

「魔法で出来ないことはない。絶対の、支配者の力だ。あんたみたいな人間が一生かかってもできないことを、おれの力を使えばちょいと指を動かすだけで実現できる。哀れだ、まったくもって人間は哀れだな。できないことが多すぎる。あんたの願いはなんだったっけか。まあ退屈しのぎにどんな願いであっても叶えてやるよ、まあ、おれの気分が向いたらだけどな」

「わかってるわよ。もう、あなたの意地悪なところはわかったもの。むやみに頼んだりしないわ。からかわれちゃあ困るもの」

 それよりも、とアミルは身を乗り出して彼に尋ねた。

「ね、ずっと聞くにきけなかったんだけど、あなたの名前はなに? 悪魔にも名前ってあるの?」

 彼は目を丸くして答えた。

「あるにはあるが。聞きたいのか」

「だって、名前があるならちゃんと名前で呼びたいじゃない」

「そういうものなのか?」

「そういうものなの」

「名はレイアだ」彼は少し考えて、「レイと呼べばいい」

「レイ、レイね。わかったわ。わたしが呼んだら、意地悪せずにちゃんと返事をしてね?」

 アミルはここに来て初めてうれしそうに笑った。心の中で何度も名前を呼んだ。――レイ。悪魔の名前にしては呼びやすい名だ。アミルはゆらゆら体を揺らしながら、両手に持ったカップを見つめた。

悪魔とは、ひとびとの噂や、古くから伝わる神話から、それはそれは恐ろしい化け物だと聞いて、今まで信じていた。確かに地獄は彼女の想像より遥かにおぞましく、おそろしく、未知なる世界であったが、しかし、この隣に座っている彼だけはちがっていた、そうアミルは思った。意地悪で気分屋で、いつもひとを小馬鹿にしたような態度を取る彼。しかし、アミルは彼に対して様々に思うところがあったが、それでも心から感謝していた。弱虫で逃げることもできず、立ち尽くしていた自分に手を差し伸べてくれた存在。アミルはちらと横目で彼をぬすみ見た。――これから、わたしは、彼とともに生きてゆくのだ。悪魔だろうと、関係ない。むずむずと照れくさいような、くすぐったいような気持ちがアミルの心にあふれた。彼は怪訝そうにこちらを見ていた。

「どうした急に。地獄に入っておかしくなったのか?」

「ううん、なんでもない」

 堪えかねて、にこにこ笑っていると、彼――レイは呆れたように肩をすくめた。

「もうすぐ着くぞ。用意しとけ」

 アミルは慌てて紅茶を呑み込んだ。


 ゴンドラから降りると、先ほどの雲の上に扉のみがぽつんと置かれていた。おそらくこれも、このゴンドラと同じように別空間へと繋がっているのであろう。ふとアミルが空を仰ぐと、ずっと遠くまで虚空が地を食らうように広がっていた。ずいぶんと奥底までやってきたのだろう。漏斗状の穴なので、下へいけばいくほど狭くなってくるのだった。深淵の大きさは最初ゴンドラに乗った場所よりも小さくなっていた

 レイは扉を引いて中へと入って行った。「お邪魔します」と小さく呟いてからアミルも続いた。

そこはまるで宮殿の一室のように豪華な造りになっていた。まずはその空間の広さに驚いた。天井はアミルがうんと顔を上げてやっと見える所にあり、床は至る所にきらきら輝く宝玉が散りばめられており、華やかでアミルは思わず目が眩んだ。歩くと足音が遠くまで反響し、自分という存在が呑まれてしまいそうなほどの崇高な美しさであった。アミルは感激のあまり、息を漏らした。まるで貴族のお城だ。こんな綺麗なところに住めたらどんなに良いだろう、彼女が何度も何度も夢に描いては憧れた世界がそこにあったのだ。

「ここがあなたのお部屋? とっても素敵……」

「まあな」

「まるで魔法の世界ね……、あ、魔法なのよね、あれも、これも、ぜんぶ。ああ、ほんとうに、すごいわ、」

しきりに感動の言葉を呟き続けるアミルに、レイは何を今更、と得意半分に、呆れ半分で黙って首を振り、一言ここで待っているように告げてどこかへ行ってしまった。アミルは惚ける頭で何度も頷いた。

――それにしても、ああなんて美しい。アミルは部屋を見渡しては感嘆した。


向こうの天蓋に囲われているのはベッドだろうか。アミルはふらふらと夢に浮かれた気分で寄っていった。ふるえる手で天蓋を開くと、綿のいっぱい詰まったベッドがあった。ふかふかで暖かそうだった。今まで感じたことのない柔らかさだった。以前アミルが使えていた邸では給仕のために良い部屋を見繕ってくれるわけでもなく、ただ寝るだけの簡易ベッドしか与えられなかった。



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アミルとレイ 夢を見ていた @orangebbk

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