あかくろ
夢を見ていた
第1話
□
〝狂人病〟って知っている?
そう尋ねられて、小春はただかぶりを振った。すると、町中にいた人々が集まってきて、めいめい自分の見聞きしたことを話していった。
――狂人病とは、読んで字の如く、人を狂わす病である。何でも、最近急速に流行り出した病であるらしく、未だ治療法、抑制法、原因さえ分かっていないという。
狂人病患者の特徴を聞いていると、まるで化け物のようだと小春は思った。赤い瞳、伸びていく髪や爪、鋭い歯。彼らが求める者はただ一つ。――殺戮。暴れ回り、人を傷つけることのみを目的とする、恐ろしい化け物。元々は人間であったものが、化け物に変わる病気? 小春は正直信じられなかったし、実際にその思いを皆に告げようと思った。が、その開いた口はすぐに閉じられた。
町の皆の目は本気だった。皆、同じ怯えの色を浮かべていた。この中で誰一人、その病を否定する者はいなかったのだ。
「恐ろしい話よ」
女性は腕を組みながら言った。その手は自分の体を抱くようでもあった。
「その病気に罹ったら最後、自我を失い、死ぬまで暴れ続けるという噂なの。つまりね、その人は自分の愛した人――家族や友人その他たくさんの人にまつわる記憶が、一切消えてしまうってことよ。誰にも止めることができない、最悪の病気なのよ」
「下手すりゃ、自分の最愛の人を、自分の手で殺しちまう悲劇も起こってしまうわけだ」
「実際に、一家惨殺した狂人病患者も、結構いるらしいけれど」
「そんな……。それは本当なの?」
行き交う会話の中、遮るように小春は声を上げた。
「でも! そんな恐ろしい病気が、ここまで蝕んでいるわけではないですよね? だって皆、噂で聞いただけでしょう! 自分の目で実際見てきたわけじゃ――」
彼女に皆の注目が集まる。しかし、その視線はどこか縋るようでもあり、彼女を哀れむようでもあった。しばらくして、一人の男が重い口を開いた。
「そうであれば――どんなに、どんなに良いか……!」
ぽつりと零れた言葉に、小春は戦慄した。
□
少女は猫を抱えて座っていた。十五歳くらいの少女だった。長い黒の髪を三つ編みにし、頭をくるむように巻き上げている。着物の色は濃く赤く、彼女によく映えていた。少女は目の前にいる人に微笑みかけた。
「どうですか。かわいく描けましたか」
「まだまだ。体の輪郭しか描けていないよ」
その笑みに薄く応えたのは十九の青年であった。緑の瞳が特徴で、黒を基調とした着物を着ていた。その手には紙と、墨のかたまりのようなものが握られていた。彼はそれを滑らかに動かしていった。その手の動きを見つめて、少女はそっと呟いた。
「ご機嫌ですね」
「――そう見える?」
「ええ。なんて言ってもバラバラだった皆が帰ってくる日ですもの。私も楽しみにしています。早く会いたいですね。――でもあなたは、どこか、悲しそうにも思えます」
「はは、手の仕草にでも哀愁が漂ってるのか?」
からかうように笑った青年は、少女に視線を向ける。
手が止まった。少女の目は真っ直ぐだった。
「いいえ。でも、あなたの動きが、すごく遅く思えました」
「――時雨」
少女――時雨は、はい、と返事をした。
「その猫、触ってもいいか?」
急に話が変えられたが、時雨は気にする様子もない。よくあることなのだろう。
「猫さんに聞いてみてください」
「猫語は話せないよ」
「私もです。ですから私は、私の知ってる言葉で断っておきました。大事なのは気持ちですよ、椿さま。気持ちが籠もっていれば許してくれますきっと」
「なんだか適当だなあ……」
言いながらも、椿と呼ばれた青年は、そっと手を伸ばした。その手はかすかに震えている。
「急に飛び出したり、引っかいたりしない……?」
「しませんよ。私が抱えていますから」
「本当、時雨は不思議だなあ。時雨が触っていると、動物たちがすごく落ち着いてくれるんだから。ちょっと羨ましいよ」
そうして、椿の指が猫の毛に触れるかどうかの時だった。
「時雨ちゃんっ!」
「わっ」
ぶつかられた拍子に、時雨の手が猫から離れる。すると、猫がはじかれたように飛び出した。飛び出した先は椿の居る場所だった。伸ばされた手を猫は邪魔だと思ったのだろう、叩き落すように爪で引っかいた。
「ぎゃあっ!」
悲鳴が上がる。時雨は咄嗟に彼のほうを見た。が、それはしがみつくように回された腕によって遮られた。
「どうしよう時雨ちゃん……」
そのか細い声に時雨はすぐに反応した。
「――小春ちゃん?」
騒ぎに気づいた女性が、屋敷の中から出てきて駆け寄る。
「何があったの!?」
外にいた女性二人が、こちらの異変を察し、こちらへ急いだ。
「どうしたの?」
「何かあったのか?」
時雨は何も答えられずにいた。ただ、体の奥が、何かに対して恐れるように、ぞぐり、ぞぐりと蠢いたのだった。
□
――時は少し遡る。
「貴子、小春、時雨。もうすぐ彼女たちが帰ってくるよ」
この言葉を聞くなり、三人の女性は大いに喜んだ。そして、彼女たちは各々買い物に出かけたり、屋敷の中を綺麗にしたりして、『彼女たち』を迎え入れる準備を始めたのだった。
この国の周りは、山がぐるりと囲うように広がっている。広大な土地を有しているわけではないが、経済の面は潤っており、他の国と比べれば人民の生活は幾分豊かだった。戦争もしていない。平和な国。
時雨たちの居る町は、国の最西に位置していた。そして、その最西にある山に対し、背を向けるように建っている屋敷があった。その屋敷の持ち主こそ、何を隠そう椿であった。
椿は絵描きであった。それも、何不自由なく生活できるほどの財がある絵描きであった。
彼の住む屋敷には、部屋の数が多くあった。給仕の人間を、いくらでも住まわせることのできる広さであった。実際に彼の屋敷には、貴子という二十歳前後の女性と、時雨が住んでいた。しかし椿が使っている部屋は、自分の書斎のみだった。そこは太陽の光よりも木々の影の方がかかりやすい、少し鬱蒼とした場所で、縁側に接するところのみが障子となっており、自由に行き来できるようになっている。下は畳で、部屋の隅に横長の机を置き、筆を走らせていた。
彼はそこで世話役を五人雇っている。勿論、その人数では屋敷の管理など全てを賄えるはずもない。この五人というのは、彼と『正式に』契約した者の人数を指している。
五人とは、透子、伊勢、小春、貴子、時雨の五人の女性である。彼女らは、それぞれに役割を分担して椿を支えていた。透子と伊勢は、彼の絵を外で売り歩いている。それ以外の三人は、彼の身の回りを世話しているのだった。椿は屋敷については全てを彼女たちに任せているので、三人の中で一番年長である貴子が主に動き、臨時の給仕を何人も呼んだりして、屋敷を清潔に保っていた。
そして年に一度、五人の女性が椿の元に集まる。これは、椿の絵の売れ行きやこれからのことを会議することが主な目的であった。がしかし今では、離れた場所で暮らす五人が顔を合わせる、大切な行事として扱われていた。
彼女たちは椿を含め自分たちを『家族』として認識していた。もう一つの家族。この認識は初めからあったわけではないが、今ではすっかり定着していた。故に年下の者は、年上の者を『姉』として敬うし、年上の者も、血の繋がった『妹』のように可愛がっていた。
「時雨ちゃん、貴子姉さま、……小春は恐ろしい話を耳にしたのです」
時雨に支えられて、小春はぽつりと零した。小春とほぼ同時に屋敷に到着した透子と伊勢は、椿と仕事についての話をしていた。少人数の方が好いだろうという椿の判断によるものだった。
「話? どんな話なの?」
貴子という十八前後の女性は首を傾げた。腕を組んで、壁に凭れてこちらを見やる表情は、とても怪訝そうであった。黄色の着物を纏っており、綺麗なかんざしをたくさん使って、結い上げた髪型は、最近の流行を取り入れたものだ。彼女の目は鋭く、吊り目であることもあってか、その視線は小春を睨み付けるようでもあった。
一方小春は、小さな体をさらに丸めて、縮こまっている。肩より少し長いくらいの髪をそのまま伸ばし、薄紫の着物を着ている。その色は彼女の可憐さを表現しているようでもあった。肌の色、目の色素など、元々色の薄い彼女であったが、すっかり青くなってしまった小春の唇は、明らかに異常であった。その異常さに一早く気づいた時雨は、しゃがみ込んで小春の肩に手を置いている。
「小春ちゃん、話してください。怯えていては、何も分かりません……」
「……二人は、〝狂人病〟というものをご存知ですか」
搾り出すように出てきた言葉に、貴子はああ、と声を漏らした。
「人を狂わす病、だったっけ? それがどうしたの」
「貴子姉さま、ご存知だったんですか……。時雨ちゃんは?」
「分からないです」
それを聞いた小春は、心を決めるために、深く息を吸って、話し始めた。自分が聞いてきた狂人病の恐ろしさについて。時に、貴子の知っていることも話に加わった。そうして、一通り話し終えた後に小春は、時雨の目を見据え、言った。
「その病は今や、私たちの町まで来ています」
「……誰なんですか」
時雨の問いに、小春は首を振った。
「……わかりません。ただ、狂人病患者を専門に扱う人たちが居て、その人た
びくびくと震える小春に、貴子は馬鹿らしいと言わんばかりに鼻であしらった。
「恐ろしいのは分かるけれど、そんなの仕方ないでしょう。いるものはいるんだから」
「ど、どうしてお姉さまはそんなに平気そうなんですか! 私、この話を聞いてから怖くて、怖くって……!」
「怯えても来るものは来るわよ。割り切りなさい。怯える前に、悔いを残さないように生きるか、生きるためにどうやって逃げるかを考えなさい。少なくとも私はそうするつもりだから」
そう言った貴子を、小春は呆然と見つめた。時雨は何も言わなかった。その反応を、終了の合図だと受け取ったらしい貴子は、
「はい、これでもうおしまい。透子姉さまと伊勢姉さまがせっかく、いらしたのだから、こんな暗い話は止めて、美味しい料理でも作りましょう」
と言い、座っている二人を促した。小春は勇気付けられたのだろう、不安な表情が段々と薄くなっていった。そうして、台所へ向かった貴子の背中を追うべく立ち上がった。時雨は最後にその場を立ち去った。
「――狂人病、ですか」
ぽつりと零れた言葉を聞いた者は、誰もいなかった。
□
客をもてなすための一室に、透子と伊勢は連れ込まれた。二人はあくまで家族なのだから、こんな豪勢な場所でなくてもよい、と断ったのだが、それを小春と貴子が承知しなかった。
「あなたが怯えて帰ってきたお蔭で、食材の形がぐちゃぐちゃね」
「うう……いじわる言わないで」
小春は大分顔色がよくなった。時雨は安堵した。包丁を握る手はまだ微かに震えているけれど、元気になってくれてよかった。
みるみる豪華な料理が出来上がり、あとは運ぶのみ、となったところで、貴子が時雨を呼んだ。そして、時雨に椿を呼んでくるよう頼んだ。時雨は頷いて、すぐに彼の書斎へと足を運んだ。
「椿さま、御夕食の準備ができました」
「うん」
すぐ行くよ、と返事があった。しかし、障子の影が動く気配は一切見られない。時雨は、部屋の中へ入ろうとしたが、声に遮られた。
「小春は大丈夫だった?」
「ええ。落ち着いてきたみたいです」
「……よかった」
どうしてあんなに動転していたんだ、と問われて時雨はあの言葉を呟いた。
「狂人病」
「え――」
「狂人病、という言葉を、あなたはご存知ですか」
しばしの間があって、
「小春が取り乱したのはそのせいか」
と問うた。時雨が頷くと、障子の向こうから、彼は諭すように言った。
「時雨、これから僕は、君の主としていくつかのことを命じる。そのすべてをちゃんと守るんだ。いいね?」
間髪容れずに切り返す。
「どうしてですか」
「僕の時間が無いからさ」
そう言って影は立ち上がり、障子が開かれた。障子の前に正座する時雨と視線を合わせるために、椿は音も立てずしゃがみ込み、彼女の瞳を見据える。その瞳は、暗い夜の色を切り取ったようでもあった。澄んだ黒の瞳。椿は時雨とすぐ目の前で視線を交わした。彼女は驚いた様子も無く、むしろ、彼女の方が彼の目を真っ直ぐ見据えていた。
しばらく沈黙する。
そしてついに、椿の口が開いた。
「僕にはもう時間が無い」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ」
「……理解できません」
「しなくていい。ただ、僕の言うことを聞いて。いいか、君はこれ以上、狂人病に関わってはならない」
時雨の顔がわずかに驚く。が、すぐにまた問い掛けが投げられる。
「その理由は」
「理由は必要ない。――君はこれから先ずっと、僕と一緒にいるつもりか?」
「……あなたが望むなら。いつまでも」
「では僕は望まない。君はすぐに僕から離れろ。いつまでも、だ。これが主人である僕の命令だ。口答えは耳を貸さない。以上だ」
立ち上がる椿の腕を、力強く握る。その手はすべてを一人で解決しようとする彼に対する怒りに近い悲しみが込められているようだった。また、縋るようでもあった。
彼女の感情の昂りに比例して、込められた力は強くなる。そして、その瞳の輝きも。
時雨は、見上げた。
「納得できません」
ですから。
「承知することはできません」
迷い無く発せられた言葉に、わかってはいても動きが鈍ったのだろう、椿はその場から立ち去ることもできず、かといって時雨の強い視線と向き合うこともできず、そのまま空を見つめた。
「あなたはいつも肝心なことを教えてくれない。私を納得させたいのならば、あなたは私と向き合うべきです、椿さま」
「……君の言葉は、いつも嘘偽りがない、正しいものだから、その度に僕は惑うんだ。どうして君は、これを僕の理不尽な願いだと受け取ってはくれない――」
降参したかのように囁かれた言葉。それからため息が漏れて、この話はもう少し先に延ばそう、と言った。時雨は渋々ながらも頷いた。
「今日は、君たちが大いに腕を振るった料理がたくさん、あるんだろう? 楽しみだよ」
「……私はいつだって、腕によりをかけて作っておりますよ」
少し機嫌を悪くしたような時雨の声が、日の落ちた空に、わずかに響いた。
□
「時雨! あなたちゃんと元気にしてたの? 私とっても心配だったんだから!」
甲高い透子の声に、時雨は曖昧に頷いた。深く考えをしていたせいだ。
――彼の言葉は、彼女を中途半端に傷つけるものだった。自分のことが邪魔になったというのならば、あんな回りくどいやり方を取らずに、有無をいわさず捨ててしまえば好いものを。何より、あれほど曖昧で気にかかる言い方をしたのは何故なのか。時雨には全く理解できなかった。
「時雨? あなた、どこか調子が優れないの? 大丈夫?」
「大丈夫です、透子姉さま。長旅お疲れ様でした。会えて嬉しいです」
時雨が一礼すると、透子は何とも言いたそうな顔をしていたが、ぐっと我慢した。頭が上がった時に一瞬だけ窺えた表情が、調子が悪いというよりも、苛立って仕方がないのを堪えているように思えたからだ。ただし、これは透子という人物が、時雨を僅かな違いにも気づく程よく見ていたからこそであり、他の者は、おおよそ気分が優れないのだろうと早合点していた。
時雨は用意された席へ動く。その時、後ろを通った椿に、そっと囁かれた。
「今は楽しみなさい」
彼ほど命令口調が似合わない男もいないだろう。時雨は、よけいに落ち着かなかった。けれども皆が席に着き、食事が始まると、次第に自然と力が抜けてきて、皆との会話を楽しむことができた。
『家族』として料理を囲む姿は、平和そのものだった。横長の机に豪華な料理が並べられ、そこに皆が好きなように座る。椿は一応肩書きが雇い主であるので、上座の場に座っている。
ふと伊勢が透子を見やってから、時雨に話しかける。
「こいつは、お前が送った手紙をずっと手放さなかったんだぞ?」
「ちょっと伊勢。あなたは黙りなさい」
「いつもお前のことばかり話していてなあ。――ああ勿論、私は小春や貴子と会いたかったよ? でも、こいつは目の前の妹分しか眼中になくてね」
「……今すぐ口を閉じないとこの春巻きを詰めるわよ、容赦なしよ」
「それは困る」
春巻きは苦手なんだと笑う伊勢は、透子の頭を軽く撫でた。透子はその笑みを憎らしそうに睨んで、そして笑った。
伊勢は背の高い女性であり、長い髪を高い位置で一つにまとめている。その後姿は、男性のものだと言われても、何ら違和感がない。よって彼女はよく男性と間違えられる。質素な服装や喋り方なども関係しているだろう。女っ気は無いが、この『家族』の中で唯一の既婚者だ。
透子は髪を二つに分け、それぞれを紐で結んでいる。伊勢よりは小さいが、女性の平均よりは大きく、体のバランスも好い。巷を歩けば男性は十人に九人は見返る容貌だ。
伊勢、透子、椿は同い年で、付き合いも長く、他の三人には入れない縁がある。が、伊勢も透子も自分の妹分をたいそう可愛がっていた。
「あら、末っ子が可愛いのは世の常でしょう。……もちろん、貴子、小春にも会いたかったわよ? 雅やかな貴子に、可憐な小春、そして愛らしい時雨。私の自慢だわ」
「わ、私も、自慢のお姉さまです」
小春が顔を真っ赤にして言うと、透子は美しく微笑んだ。その笑みを受けて、彼女の顔はさらに火照る。食事の手を止めて、必死に体温を下げようと努めた。
「そんなお綺麗な姉さまだから、お世辞を言われても不思議と嫌になりませんわあ」
「冗談がお好きねえ貴子。あの殿方とはどうなったの?」
「な……! 何故透子お姉さまが!」
「ああ、私が言ったんだ。それで貴子、どうなったんだ? あの殿方に告白されたんだろう。どんな返事をしたんだ?」
「うう……、伊勢姉さまの裏切り者――。透子姉さま協力してください。この恨みは計り知れませんよっ……!」
「わわ、時雨小春、助けてくれ! 意地悪二人組にやられてしまう……!」
時雨と小春はただ微笑んでいた。椿も楽しそうにこちらを見つめている。こういう時、椿はあまり参加しない。一歩下がって、まるで親のように子どもたちのじゃれる姿を、静かに眺めている。時雨はそっとそちらを一瞥した。頬杖をついて微笑んでいる。その目が何よりも優しいのを、時雨はきちんと理解していた。彼のことは、何であろうと理解したいと思うし、その意図を汲み取ることで彼の望む行動を自ら行いたいと思う。けれども、今日の話は納得ができない。というよりも、なんだか無茶くちゃな気さえする。彼は時雨がきちんと理解するまで、何の行動にも出ないことをよく知っているはずだ。理由説明もなしに、彼女が頷くとは考えられない。分かっているはずなのに、敢えてそれを行った。
――時間が無い。彼の言葉の真意は。時雨は気づけば、周りの声も耳に入らない程考え込んでいた。透子の心配そうな声に、時雨は申し訳なくなって、
「すみません。少し、考え事をしていただけなんです。だから姉さま、気になさらないでいて」
「気にするわ、だって、私の可愛い妹ですもの」
「姉さま……」
ああ、とわざとらしく吐かれた息。
「会いたかったのは私達だけのようね、伊勢」
「ああ……どうもそうらしいな」
「そんなことありません!」
時雨は珍しく声を上げた。伊勢と透子は少しだけ笑った。
貴子が言う。
「もしかして、またあの噂を気にしているんですか。いい加減にしなさいよ時雨。大丈夫だってば」
「……ええ」
「あら、あの噂って何?」
透子が尋ねようとした瞬間、
「待て」
がたん、と席を立った椿に、辺りがしんと静まり返った。椿の声は底冷えしていた。その目にはもう、優しさを欠片も擁していなかった。
「その話は食事の後、話したいと思っている。これは、大事な話だけれど、同時に辛い話でもある。覚悟ができた者だけ、僕の部屋へ」
そうしてそのまま、椿は退出した。辺りに残された者は呆然とするばかりである。
ただ、時雨だけが、すぐに彼のあとを追った。
このままでは納得できない。それだけが彼女の頭の中を埋め尽くしていた。
□
夜風が歩く二人の体温をさらってゆく。椿は呟く。
「今日は少し肌寒いね」
「ええ」
「もう、秋が近づいているんだね」
「はい」
「僕は冬が好きなんだ。君は?」
「……分かりません。だから、――あなたと同じで」
時雨は微笑んだ。彼は何も応えない。
そして椿は障子に手を伸ばす。そして時雨を中へと誘う。
「君は、いつもそれだ。自分の意見を言わない。もっと自分らしくあればいいのに」
そして椿は机の前に座った。時雨は彼と少し距離を取って、座った。時雨はそっと彼を見上げる。
「私の意見、ですか」
「そうだ」
「じゃあ何故私と離れようとするのですか」
一瞬、椿の動きが止まる。しかしすぐに、彼は馬鹿らしいと手を振った。
「君と離れようとしているわけではない。君を守ろうとしているんだ」
「私を守る?」
「そうだ。そのために今日、君たちをここへ呼んだ」
「――話をするために、呼んだんですよね」
念を押すような言い方に、椿は怪訝な表情を浮かべる。何が言いたいのか全く見当がつかない。時雨はその目に強い光を点した。
「では何故、先ほどから私の目を見ないのですか」
あなた、わざとですか。
時雨が彼を静かに責める口調で語り始める。
「私と離れると言ってから、ずっと私と視線を合わせていませんでしたよ。あんなに至近距離で向かい合ったのに、一度もまともに、私の目を見ていませんでしたよ。――あなたの視線は私の目のずっと下。見つめ合うこともせず、話をしようと思いましたか。人と話す時は相手の目を見るべきです、椿さま。少なくとも私を納得させたいのなら、私の目を見て、話してください」
その口調は何よりも淡々としていた。故に、無意識に押し殺された怒りという感情が、その声の裏側に隠れているのが伝わってくる。椿はしばらく何も返せずにいた。元より、口喧嘩でいえば、彼女の方が上だ。勝てるはずがない。だから、椿は観念したように本心を告げた。しかし、出てきた言葉は意外なものだった。
「……君の目は恐ろしい」
ぽつり、と零れた言葉に、時雨はわずかに目を丸くする。そして、不機嫌そうな表情が浮かんできた。唇をわずかに尖らせている。傷つけられたとでも言いたげであった。
「椿さまは以前、私の目を美しいと、言ったではありませんか」
「美しすぎて、直視できない」
「――まあ」
その即答に思わず時雨は、瞬いて笑みを作った。
「もしかして、それは口説き文句のおつもりですか?」
「まさか。それならこんなのよりも、もっと好いのを考えるよ」
そう言い終えた途端、
「あら、何を考えるの?」
と、透子の声が聞こえた。その後、失礼しますと断ってから、皆が部屋の中へと入って来た。皆、表情が硬かった。当然といえば当然だろう。何せ普段の椿からは想像できない態度を取ったのだ。自室に皆を集めて、大事な話。覚悟を決めろと言われ、皆それぞれに思いを固めたのだろう。
「――全員、揃ったな。じゃあ、好きなところに腰を下ろしてくれ。話を、始めたいと思う」
□
その言葉は、発せられた。
「僕は狂人病だ」
時間が止まったようであった。皆、それぞれ何も言うことができなかった。
時雨は真っ直ぐ椿を見つめていた。伊勢と透子は予めに聞かされていたのだろうか、俯いている。小春は呆然と、貴子は戸惑いをもって、彼の声を耳にした。
「本当ですか」
小春が恐る恐る尋ねる。椿は彼女の目を見て頷く。
「本当だよ」
さらに小春は取り乱す。体が自然と前へ出る。
「な、何故、ご自分が狂人病だとお分かりになるんですか! 狂人病は、原因さえわかっていない、未知の病で――」
「原因はわからなくとも、特徴はわかるだろう」
一度言葉を切ってから、椿は詳しく説明した。
「狂人病という原因不明の病気を調べ、狂人病患者を専門に扱っている組織が存在する。名前は『カタルシス』。――これは西洋語で浄化する、という意味がある。浄化、確かにこの病は穢れだ――。その『カタルシス』には、狂人病についての知識が、他と比べれば多くある。僕はそこの人間と繋がることで、他の者が知らないことも知ることができた。特徴もその知識の中の一つだ。――だから、これは確信を持って言えることなんだ。僕は狂人病患者だ。だけど、まだ完全に覚醒したわけではない。この狂人病というのは、潜伏期間が人によるらしいけれど、僕のは長い方らしい。だから、当分は大丈夫だろうけど、何があるかは保障できない。……そんな、危うい人間なんだよ僕は」
小春と貴子は絶句している。伊勢と透子は苦い表情を浮かべている。
時雨は、ただ、その事実を受け止めていた。それも無理に受け入れているのではない。この姿勢は、たとえ自分の主が、実際に狂い人であろうと人殺しであろうと、彼女の態度は決して、崩れないことを意味する。それほどまでに、彼女の椿に対する思いは真っ直ぐだった。それを忠義や覚悟と表現するには、言葉の方が力負けている。敢えて言うなれば、椿を信じることが、彼女の人生のすべてである、とした方が的を射ているだろうか。
凛とした態度で、物怖じしない口調で、時雨は言う。
「それで、あなたはどうして欲しいのですか」
椿は一度はっとしたような顔になるが、すぐに表情を消す。
「君たちは、今日から僕との契約を解消してもらいたい。これ以上、狂人病である僕と一緒にいれば、危険だし、君たちも気が気でないだろう。だから、ここから立ち去って欲しい。今すぐとは言わない。時雨と貴子はここで住んでいるから他所へ移る準備にも時間が掛かるだろう。――心配はいらない。場所は用意できた。貴子は伊勢、時雨は透子のところで暮らしてくれ。これは僕からの頼みであるから、費用などはすべて僕持ちだ。何か金がいるのなら、僕に言ってくれればそれでいい」
「透子姉さまと」
「そうだ。――今、『カタルシス』の人間がこの町にいる。僕が呼んだんだ。君たちは僕に何かあったら彼らのもとへ行ってほしい。彼らは、狂人病を専門にしてるだけあって、狂人病患者の扱いがちゃんとわかっているから。……極力、一人でいるようにはするけれど。間違って君たちを襲ってしまっては、僕は一生僕を許せないから」
だから君たちも、極力僕と一緒にいないようにしてくれ。
そう口を閉じた椿に対し、時雨が感じたことは一つだった。
「――ことば足らず、です」
「え?」
時雨は彼を見据えた。すると案の定というべきか、彼の目線は逸れた。逃げた。そのことを責めるのではない。ただ、どうしてきちんと説明してくれないのだろうという悲しみ。彼女は滅多に誰かに怒りの矛先を向けない。彼女が怒りの代わりに感じるものは、悲しみである。
「そんなに、私は信用に足りませんか」
狂人病という重いおもい病を、伝えられずにいるほど。
何故狂人病であるかを知れたのか、教えられずにいるほど。
そして何より、目を合わせることでさえ厭うほどに。
「椿さま」
その後、発せられた言葉に、ここにいる者はすべて、思考を止めた。
「私は、あなたの隣にいてもいいですか」
時雨は微笑んだ。
「――ああ、やっと。目を見てくれましたね」
「し、ぐれ」
「駄目ですか」
「う……あ、だ、駄目だ。僕は、だって、狂人病で……」
「そうだとしても。――側にいたいと思います」
「――き、君は残酷だ……!」
椿の目には、涙さえ浮かんでいた。両手をつき、叫ぶ。堰き止めていたものがすべて溢れ出る。
「僕が! 僕がどれほどの思いをもって、この決断に至ったのか、君は察することさえできないのか!? 狂人病というのは、君も知っているだろう、記憶さえ、消えてしまうんだよ……。もし、もしも、どんなに大事な人であっても、一度狂人病の手に意識を奪われてしまえば、その人のことを平気で殺してしまうんだ。僕だって君たちを、こ、殺してしまうかもしれない……! そんな、恐ろしい病気なんだよ、これは。き、君は僕に、君を殺せと言っているようなものだ。そんなこと、そんなことを僕にさせないでくれ……頼むから……!」
「わかりました」
ここで初めて、時雨が頷いた。予想しない返事に、椿は勢いよく頭を上げた。時雨は笑っていた。
「あなたの心からの言葉が聞きたかったんです。残酷でしたか。ごめんなさい」
そうして、目を伏せた。
「あなたがそれを本当に望むなら。何であっても私はそうしますよ。昔から、そう言ってるじゃありませんか」
「……うん」
「でも。あなたが完全にその病に意識を奪われるまで、私がここにいることを許してください。大丈夫です。ちゃんと言いつけも守りますから」
「……うん。……うん」
椿は左手で涙を拭った。
その時、ちらりと白い何かが見えた気がした。
□
時雨は、貴子と小春とともに退出した。小春は元々実家通いだが、二人の姉が帰ってくる時は、いつもここで夜を過ごした。そのことに彼女の両親はあまり良い顔をしないが、許可してくれるあたりは、やはり優しいというか彼女に甘いのだろう。
透子は三人の妹が気になったのか、しばらくして彼女たちの後を追った。
部屋には、伊勢と椿の二人だけだった。
「すごい覚悟だな」
そう伊勢が零すと、椿はわずかに首を縦に振った。
「嬉しいじゃないか。あんなに大切に思ってもらえるなんて。幸せ者だな」
少しからかう口調で笑うと、椿は今度は横に頭を振った。
「確かに幸せかもしれない。でも、それは僕にとってのものであって、時雨のためにはならないだろう」
「うん?」
「……君は気づいているか。彼女の僕に対する姿勢を」
「ん? 大事に思ってるんだろうなあ……という位なら」
「違う」
あれは、違う。それだけじゃない。
「どういうこと?」
項垂れた彼は、ただ「違う」とだけを繰り返した。
「何が違うんだよ?」
「……僕は、時雨が恐ろしい」
「――ああ、あの意思の強さか?」
「それもあるけど」
椿は俯いたまま、畳の上へ力の入らない体を無理やりに座らせた。そして、遠くを眺めたまま、ぼそりと囁いた。
「彼女はいつか、自分を捨てる」
□
「時雨ちゃんはぎりぎりまで、ここに残るんですね」
「ええ。小春ちゃんはどうするんですか」
「私はまだ――。……でも、まさか椿さまが狂人病、だったなんて……。本当、ごめんなさい私まだ全然信じられなくて――」
そう言いかけて、貴子は遮るように宣言した。
「私はすぐに出て行くわ」
「え……」
「こんなところに居たくなんてないもの。そろそろ、出て行こうと思っていたところだし。ちょうど好い機会だわ」
ということで、と貴子は二人に向き直り、一度姿勢を正してから頭を下げた。
「お世話になりました――というよりは、お世話をした側だったんだけど。まあいっか。ありがと。楽しかったわ」
「き、貴子姉さま……! すぐってそんな――」
戸惑う小春に、貴子は怪訝な顔をした。
「契約は破棄されたんだから、いつまでもここに居たって何も変わらないじゃない。それに、あんな恐ろしい病気をもった人が近くにいるのよ? 噂なら仕方ないで終われるけれど、身近にそんな人がいるだなんて! ごめんだけど、私は無理よ。時雨は一緒にいるんでしょうけど、小春はどうするの。早い方がいいかもしれないわよ」
まだ何か言おうとする小春を尻目に、貴子は寝る準備を始めた。今日からは小春もここで過ごすことになるので、普段よりも大きな部屋で人川の字で眠りにつく、というのが恒例であった。伊勢と透子は別な部屋を。椿はいつも通り自分の部屋に一人で寝る。
月の光がわずかに辺りを照らす。貴子は布団を被り、目を閉じた。小春と時雨もそれ以上は何も会話せず、そのまま布団を敷き、眠ろうとした。
その時、
「時雨?」
すす、と障子から透子らしき人物が覗いた。外はすっかり暗く、人の顔が見分けられない。けれども、二つくくりの髪と
「透子姉さま」
時雨はそちらへ近寄った。小春も何事かと、のそりと這うようにしてこちらを窺う。
「もう眠るの?」
「えっと――」
どもる小春に、透子は微笑んだ。
「お邪魔したならもう行くわ、ごめんなさい。ただね、少しだけ伝えたいことがあったの」
「何ですか?」
一呼吸置いて、透子は零した。
「椿はね、あなたたちを大切に思っているの、何よりも、よ。あんな冷めた言い方をしているのはね、きっと椿がずっと離れがたいと思っているから。だから、――椿を見限らないでいてあげてね」
「……はい」
小春は頷く。貴子も、おそらく聞いているだろう。
「時雨、貴子、小春、おやすみなさい。私ももう寝るわ。また明日、ね」
そして一度足を止めて、子どもに言い聞かせるように、
「あなたたちがどんな決断をしても、誰も責めたりしないわ」
とだけ残した。
三人はそっと瞳を閉じた。夜は更けた。
□
「おはよう時雨」
「おはようございます、椿さま」
時雨が顔を洗っているところに、椿はやって来た。桶の中に入った水を掬い、椿も彼女に倣った。冷たい水が顔の感覚を刺激する。朝日が眩しい。
時雨はふと庭の方に視線を向けて、
「草が伸びましたね」
「……僕は別に気にしないんだけど」
「しなくちゃいけませんよ。こんな立派な屋敷なんですから」
「どうせこの屋敷も貰い物だし」
不貞腐れたように吐く言葉に、時雨は普段通りの微笑みを浮かべながら、顔を拭く布を手渡した。
「私が使った後ですけど」
「いいよ」
そこではっとした時雨が、やや慌てて彼に訊いた。
「私たち、今二人きりです、椿さま」
「……当分は大丈夫なはずだから。『カタルシス』の人もそう言ってたし」
「そうでしたか。それはよかった」
心から安堵した様子の時雨に、椿は非常に複雑そうな表情で、自分の思いを吐露した。彼女の前では、もう、見栄も張れないのだろう。あれほどの覚悟を見せ付けられては、自分だけが嘘で塗り固めているのは、卑怯というか、不釣合いというか。そんな混ざり合った思いを抱えながら、椿は正直に自身と向き合う。
「僕は、矛盾を抱えているんだ」
時雨は黙って聞いた。
「僕は、君みたいに覚悟を決められずにいるんだよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。僕は、自分から切り離しておいて、それを手元に置きたいと思っているんだ」
「……よくわかりません」
「僕もだよ」
借りた布を綺麗に畳んで返す。時雨は、自分より少し背の高い彼を見上げた。その視線は先を促していた。が、椿はそのまま去ろうとする。
「どういう意味ですか」
その背に問いかける時雨。椿は振り返った。その表情はとても淋しそうだった。
「明日、貴子はここを去る。小春はもう少し滞在するらしいが、早いうちに家に帰るそうだ。二人から、さっき直接聞いたんだ。僕は安心してる。これで、彼女を殺す危険性は消え去った。喜んでもいる。……でも、そのことにこれ以上なく動揺している。淋しささえ感じる。ずっと一緒にいたのに、って。自分で望んだことなのに。矛盾だよ」
自嘲に満ちた声。くだらないとでも言いたげな声。彼が時折聞かせる声色だった。
時雨の返答を待たずに、椿は言葉を重ねた。
「今日が貴子と過ごす最後の日だ。皆、最後ということだから、豪華にするみたいだよ。市場で買い物するみたいだ、君も一緒に行くんだろう?」
「……はい」
□
屋敷は山の上に建てられている。そこを降りると、市場が広がっていて、たいそう賑わっている。元気で大きな声が辺りに響いている。時雨たちは各々割り当てられたものを求め、市場を歩き回っていた。市場には食料から日用品、娯楽品まで何でも揃っている。よって、人が多く集まっていて、慣れていない者は決まって人ごみに流されてしまう。時雨たちはここをよく利用するので、そんなヘマはしないが。
時雨は小春と、貴子は伊勢と透子とで行動した。
「透子姉さまと伊勢姉さまは、椿さまと一緒にいるみたいですね、時雨さんと同じく」
手に買った食材を抱える小春は、時雨に話しかけた。
「みたいですね」
「小春も、できるだけ一緒にいます……!」
「怖いのなら――、別に無理しなくて好いんですよ。小春ちゃんは、小春ちゃんのしたいようにしてください。私は、私がしたいようにしてるだけですから」
笑う。小春はその笑みをじっと見つめていた。
「時雨ちゃんは、いつも笑顔ですね。――でも、何か伝えたいことがある時は、いつだって真剣な顔をしてますね。時折見せるその顔に、椿さまは何かを感じるのでしょうね」
俯きがちな小春を心配して、時雨は覗き込んだ。
「小春ちゃん?」
「私は、時雨ちゃんがどうしてそんなに真っ直ぐでいられるのかが、不思議なんです。どうして、どうしてそんなに平気? どうしてそんなに受け入れることができるの? 変ですよ時雨ちゃん……。貴子姉さまの考え方のほうがよっぽど理解できます。狂人病はやっぱり怖いですし、信じられないし、……恐ろしいです――。時雨ちゃん、あなたって……一体何?」
「私は私です」
それだけですよ?
首を傾げる彼女は、どうしてそんなことを小春が口にするのか、欠片も理解してはいなかった。小春はそれ以上口に出来なかった。ただ、心の中で彼女の答えを否定した。
それだけじゃない。あなたには、きっと何かある。その恐ろしいほどの強さの中に、きっと何かが――。
□
「ありがとうって言われたんです」
貴子は二人の姉に対し、少し無理をして笑顔を作った。
「私が一抜けるって伝えたら、ありがとう、これで君を殺さずに済む、って。はは。ばかみたい。そんなことでお礼言われるだなんて」
「貴子……」
「私、別に椿さまが嫌いになったわけじゃない。でも、狂人病なんて原因さえ分かっていない恐ろしい病気、私たちのことを忘れて狂って襲ってしまう病気なんて……! やっぱり一緒にいたいとは思えないの。時雨は本当に凄いと思うわ、すぐに側にいることを望んだんだもの。私にはできない。だから、逃げるの。ほんとは、椿さま、ほんとは、意気地なしだと私を詰るべきなのに! どうして、どうしてありがとうなんて、そんな、そんなのって、ある……?」
途中から、貼り付けた笑みが崩れてしまった。同時に、体が支えられなくなってその場に崩れ落ちる。隣にいた透子と伊勢が咄嗟に彼女の腕を取った。
「貴子、お前の選択は間違ってない。怖いものは怖いよ。私だって怖い」
「嘘……。怖いなら、離れてしまうはずよ。――どんなに愛していたとしても」
貴子は空を仰いだ。首を伸ばした時に、涙が頬を流れた。それを感じ、貴子は歪んだ笑みを作り出した。
「私も、時雨みたいに強い意思があれば、よかったなあ……!」
瞬間。貴子は体中に走る痛みを感じた。激しい痛みだった。たまらず、体を抱き締めるようにしてその痛みを抑えようとした。しかし、それは治まるどころか、段々と強くなっていく。貴子はたまらず、手を地面について、自分の体を支えた。痛みに意識が朦朧とする。視界がぐるぐると回転する。視線が定まらない。世界が高速に回っているかのように錯覚する。心臓が脈打つのに合わせて、痛みもどくん、どくんと激しさを増してくる。止まらない。貴子は必死に呼吸をしようと足掻く。無駄だった。手を喉元に伸ばしたところで、貴子の意識は完全に途絶えた。
そこから、悲劇が始まる。
□
悲鳴が辺りに響いた。
□
時雨はなんとなく嫌な予感がして、そちらの方へ駆けた。足の遅い小春は遅れながらも、彼女の後を追った。
「きゅ、急にどうしたんですか?!」
「悲鳴が聞こえました。誰か何かあったのかもしれません」
「ひめい?」
「あちらには、貴子姉さまたちが居たはずです……。無事であれば好いですけど!」
二人は群集を掻き分けて進んだ。足を止める人々のわずかな隙間を探して、そこに小柄な体を無理やりに押し込んでいく。途中何度も人々の足や体にぶつかり、体勢を崩し、地面に突っ伏しそうになるが、ぎりぎりの所で踏ん張った。頭上で怒鳴り声がするが、そんなことも気にする余裕もなく、ただ悲鳴が聞こえた方向へと足を速めた。
急に広がった視界に映ったのは、まず貴子の姿だった。その姿は、時雨たちが知っている彼女と、大きく違っていた。長い髪に、長い爪。赤い瞳。人とは思えないその姿。
その後、透子と伊勢が誰かによって、押さえつけられているのがわかった。
最後に、貴子が対峙している人物が見えた。男であるようだった。その男は、太陽の光を受けて鈍く光る、長く鋭い剣を握っていた。
――そこから、時雨は覚えていない。
「貴子姉っ!」
何故、貴子が傷つき、血を流しているのか。何故、貴子がそんな姿になってしまったのか。何故、貴子は泣いているのか。何ひとつ答えは出ない。
ただ、貴子を守らないといけない。そう思った瞬間、竦んでいた足が動いてくれた。それだけで十分だと思えたのだ。
「貴子姉を、傷つけないでくださいっ!」
貴子と男の間に、時雨は入っていった。剣が半円を描いて、自分の目の前にまで落ちてくる。刃は時雨のまさに頭上に位置していた。
時雨は思わず目を閉じた。遅れて、鈍い音が辺りを支配した。音が消える。時雨は恐る恐る目を開けた。目の前には、
「え――」
何かが剣の切っ先を受け止めていた。時雨は冷静にその何かの先を見極めようと視線を上げていった。
そこにあったのは、貴子の腕だった。
「あ、ああ、ああっ……! きこ、姉!」
しかし、貴子の目は彼女を捉えていなかった。ただ、剣を持つ者を見つめていた。その口元はかすかに歪んでいた。――狂っている。時雨は本能でそう確信した。体がその場から逃げることを何より望んでいた。危険だ。そうそれは危険なんだと体中から信号が送られてくる。でも。時雨は逃げなかった。否、逃げたくなかった。
「貴子姉さま、血が、血が――」
貴子の血は真っ黒だった。一滴も赤は混じっていない、完璧な黒。美しいまでの闇の色。時雨は息を呑んだ。どくどくと流れる血を省みず、貴子が動いたからだ。彼女の赤い瞳が鈍く煌く。
「ひっ」
剣を構える男が怯えた声を出した。無理もなかった。たった今、二人に向けていた剣が真っ二つに折られたのだから。
貴子は何度か手を閉じたり開いたりして、手の感覚を確かめた。貴子は手の握力だけで剣を握りつぶしたのだ。傷つくのも構わずに。
人間業ではない。周りにいた全ての人間がそう直感した。目の前にいる人間は、元人間であっても、今はもはや化け物だ。
「これが、狂人病――?」
まさか。貴子姉さまがどうしてそんな、まさか。
「狂人病は伝染するのか――?」
こう口にしたのは男だった。
…
あかくろ 夢を見ていた @orangebbk
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