太陽のサウダージ

夢を見ていた

第1話


「おまえの目はまだ生きている!」

 そう言って、ぼくの瞳を覗き込んだその人は、ぼくの戸惑いと抵抗をしかと感じ取っていながらも、その手を動かそうとはしなかった。

 頬を挟んで離さない手のあつさに、ぼくのほうがおどろいてしまう。その人の目は、きらきらとずっと輝いた目をしている。いつの日も希望に輝き続けた目だ。一朝一夕でできた、取って付けたような、説得力の無い人工の光ではない。

「そういうの、」

ぼくは身じろぎして言うと、

「知ってるぞ」得意げだ。

「『うぜー』って、言うんですよ」

「そうだろう」

しかし、とその人はつづけて、

「それを求めているのも、君だろう」

瞬いた。その人はにやりとした。ぼくは動揺してまた瞬いた。するともう十分だとばかり、その人はうなずいた。

「あとは、お前に任せておけ」

 どうして僕はこんなにもうまくいかない世界のなかで生きていかなければならないのかがわからない。どうすることもできない。この欲求のなかで生きていたくない。どうしてこのままでいてはいけないのか。それでなくてもわからないのに、小さな小太りのおじさんが、僕の脳内で、僕にささやいている。

ほら、やってごらん。どうして年寄りはそう、無責任にものをいうことができるんだろう。この時代に合っていないのかもしれない。過去はそうだったのかもしれないが、今は全然違っていることに気づいていないのか。だとしたら時代に取り残された哀れな中年男性というわけだ。僕はどうしても救ってやる価値がないということにようやっと気づくことができた。だとしたら切り捨てることもそう難しい話ではない。どうしてだか、そんな風に思うのだ。だとして、こだわっているのは自分自身であることはすでに分かっていることである。それでもこうやって何かを書き記していないと頭がおかしくなりそうだ。自分のなかに何物も取り入れないで、そうして僕は自分を作りだそうとしている。本当は何かを読んでから何かを書き進めていくことが正しいことのように思われるが、まずはああくそ、こんなことを書いたらこのまま書き進めて、ああもう、これを提出することはできないじゃないか、削除、削除だ。この調子で、自分の本当の気持ちを吐き出していけばそれなりに快く思えるのかもしれないがその実、どちらかが僕のことを愛してくれなければそうもいってはいけないのである。

 僕は僕の父親と母親の間に揺れ動く哀れな魂だ。どうしてそのように思うかはわからない。いつしか僕という存在を見失ってしまったのでどうしていいのかわからない。あああ、あと少しだけ書き記しておこう。このまま、うまく書けないことを理由に。だから何といったことではない、もうこのまま書き散らしている時点でもはや小説とは呼べない代物になりつつあることはわかっていた。こんな芸術として不成立なものをどうしてわたしは誰かに読ませて感動させようということができるのだろうか。しかし私はだれかを感動させたいわけではないだろう。自分のうちにある何かを伝えたくて、悲しみがあるのだ。それはさきほどの小説にもあったのだけれど、

「どうして僕たちはこんなにも苦しみあいながら毎日を過ごしているんだろうね? もういいじゃないか、こんなことはやめてしまおうじゃないか。いいかい、想像してみるんだ。僕ときみのふたりが、車で乗って、海までやってきた。車からおりて、海のほとりに立ってさ、僕たち夕日の落ちるのを眺めているんだ。きっと美しいだろう。いまさら自然の美しさなんて感動することもなかろうけれど、おもっていた以上に傷だらけの心に沁みてしまって、ふいのことでつい涙なんか流してしまって、そうして照れ隠しの文句をいくらか吐きながら、その実心のなかではなんだか不思議と悪くないと思うんだ。そんなこっぱずかしい青春をこれから僕と二人でやっていこうじゃないか」

 このセリフが、僕は深いと思うのだ。なぜって、何かを放棄しようとして、ほら、みてごらんとまだ捨てたものではないだろうと言って聞かせているところがよくできて、とても悲劇的で、その一縷の幸せに託している感じがよく出ていてよいじゃないか。

 ああもうお願いだから助けてくれないか。どうして私は小論文を書いているのか。どうして私は国語を勉強しているのか? どうして? どうしてといって答えが出るからやるのか? どうしてというか、やっていたのだ。やっていたから、そう、理由が言えるうちは未然の状態だ。どうしてやるのか。そんなもの、やっている状態が呼応しているのだから、言葉で代替できるわけがない。どうしてそんな当たり前のこともわからないんだ?

 そうして彼はカウンターの向こうへと消えてしまった。

残された僕は茫然としてしまってーーなぜってさっきまでとても好意的に話していたというのに、僕はあんなにも心を許してしまったのにーーまるで猫のふるまいだ。どうして僕を置いていってしまったのだろうか。僕にはどうしてもわからない。

 茫然としているついでに、手持無沙汰にカウンターのコーヒーカップを手に取った。そうして、スプーンをかき混ぜて、自分の動揺する気持ちを何とかなだめすかそうとしてみた。

「モチーフばかりが先にあって、本当にあなたが書きたいものが見当たらない」

図書館司書のその人は、僕の書いたものを読み終えて切り捨てた。

「あなたを読みたいのに、この本のどこにもいないんですもの。あなたがいないんじゃ、お話にならない」

 その通りだった。どうしたら、僕はそこにいることになるだろう。

「不在の存在を狙っているのだとしたら、私はあまりおすすめしないわ」

 ああもうこの無意味な小説の垂れ流しをだれか止めてはくれないか。本当にやるべきことから遠ざかってしまっている。本当にやるべきことは目の前に壁のごとく立ちはだかっている。どうしてもここから離れることはできないのか。どうしてこんなにもやる気が出ないのか。本当はおさぼりさんだったのか、僕?

「どうしてどうしてって自分に振り返りすぎなのではないかしら。本当はいつだってやりだせるはずなのに、そうして逃げているだけじゃないの」

「だって」

「だってじゃあないわ。わたし、知っているのよ」

 彼女は僕の目を見て言う。

「あなた、にげているのね」

「そう。絶賛、逃走中なんだ」

「だめよ」

「だめだよね」

「わかっているのね」

 僕はうなずいた。

「わかりすぎているくらいにさ」

「だとしたら、足を止めて、体の向きを変えるだけでいいのに」

「恐ろしいんだ」

「なら、どんな励ましの言葉もあなたには効かないわね。だって、あなた、怖がっているんですもの」

 彼女は猫のしっぽをくるりと揺らして、

「ほんとうにあなたがやりたいことは何?」

「ほんとう?」

 僕にほんとうが許されるのか。

「難しい顔」

 彼女は僕のほほを優しくなでて、

「誰にも言わないから、教えて。あなたのほんとう」

「ほんとう・・・・」

 僕は叫びだしそうな心を押し殺していった。

「ぼく、なにも、していたくないんだ」

「うそつき」

 彼女は僕をはたいた。

「うそをおっしゃい。ほんとうのことをきいているのよ」

「うそじゃない。ほんとうだ。ほんとうに、ぼくは、なにも、していたくないんだ」

「だとしたら、その目の輝きはなに? その目はなぜそんなにもギラギラと輝いているの」

 まるで太陽の眼。

「ぼくを、見て」

「焼けてしまうわ。あまりに熱っぽくて」

「ぼくの瞳を見て。僕は、ここにいます。どうして、ぼくの心からそらしてしまうの、瞳。僕は、僕はここにいます」

 僕が太陽の塔にのぼってそこから心からの叫びを叫んでみると、太陽は知らんぷりをしていたのであるが、僕が何度も声がかれて、のどから血を吐きだしたのを見てさすがに哀れと思ったのか、ちらと僕のほうを見やって、

「見たけれど」

 とだけ言った。僕はうれしくてうれしくて泣いてしまった。泣いて、僕はそのまま太陽に抱きしめて燃え尽きようとしたけれど、僕と太陽との距離は遠いままだった。

「くだらない」

太陽はそういった。

「諦めたい理由を私に押し付けているだけじゃない」

 その通りだった。だから、僕は何も言い返さずにいた。どうして僕がこんなことをしているのか、読者の方々にもよくわかってはもらえないだろう。それなのに、この言葉があふれてくる感じがどうしていいのかもうわからないんだ。どうして、僕がこんなにまで書いて、もう命を燃やしてしまいそうなくらい、こんなにも恋焦がれているのか。誰か教えてくれないか、そうして僕の手を握って、僕の筆を折って、そうして僕は僕であることをやめてしまって、そうして僕はいつまでもいつまでも眠っていようと思う。何も恐ろしくない。だって僕の瞳は、眠っているのだから。

「太陽の瞳が、わたしを見ている」

 彼女は僕の眼を見て恐れた。

「お願いよ、あなた、それを遮るもの、無いの」

「遮る?」

「ああ、お願い、その目で見ないで」

 僕は言われるがままにさっと目をそらした。それで彼女はやっと安心できたと安堵の息を漏らし、

「いい。あなたの瞳はあまりにも強靭すぎるわ。光が強すぎるのよ。とても、あなたの瞳を見据えて話すことができない。だからね、あなたは例えばメガネといった硝子を通してね、レンズを通して物を見たほうがいいと思うの。だって、あなたの眼はたくさんのものを見えすぎてしまうから。見透かしてしまうのね。あまりよくないわ。だってそのせいで、あなた苦しんでしまいそうなんですもの」

 誰よりも自分が苦しんでいるから、相手のせいにして、自分の苦しみを正当化しようとして、彼女は僕にそうもっともらしく話した。むしろ、教師のように特別なことをここだと教えて聞かせるように、まるで親切な人間であるかのように言って聞かせてくれた。

 だから僕は慌てて近くの店で、不慣れな重たい大きなレンズを買った。そうして、それをフレームに入れて、そこからものを覗いて見て回ることにした。

「誰も僕の眼を見て話してはくれない」

「そりゃそうだ。お前の眼は、太陽の眼だから」

 彼はそんなことも知らないのかと、僕を小ばかにした。それがひどく愉快そうであって、僕は腹を立てた。

「どうしてわかる」

「お前は、太陽の眼を持っているからだ。その太陽の眼は、実はお前以外の者も持っていたものだった。でも、多くのものはその目を捨ててしまうんだ。売っぱらちまうやつもいる。そうしてその瞳がお前のものになっているのを、いやに感じるものもいる。どうしてだかわかるか?」

「わからない」正直に言うと、

「そういうところが気に入らないんだ。太陽は、素直な心を愛するから」

 彼は自分の眼鏡をずらして見せた。

「いいか、この目は仕舞っておくんだ。じゃないと、目をつけられて売り物にされちまうからな」

「あっ」

 僕は初めてみた。自分以外の、太陽の眼を。

「君も、太陽の眼を持っているんだね・・・」

「おや、初めてかい。自分以外の太陽の眼は」

「うん・・・」

 鏡を見ても、自分の瞳の光の強さを感じることはできなかった。だから、その瞳を持つ者に強烈な親近感を覚えた。

「ねえ、もっとよく見せてよ」

「いいぞ」彼はぼくのほうへ顔を寄せた。

「みえるか」

「みえる」

「光っているだろう」

「光っている」

 彼と僕とは顔と顔を近づけすぎて、もうありとあらゆる肌の輪郭が触れ合って、一つになっていた。くっついて離れなかったのを、彼がパンでもちぎるようにひっぺがして、

「ほらな、こうやって俺たちは同志を見つけていくのさ」

「でもつまらないな」

 僕は素直に言った。

「なぜ?」

「だって、僕たち同志なのはわかるよ」

 そうして僕は店をぐるりと見渡して、

「ほかの人は同志ではないの?」

「は?」

 何言ってんだよ、と彼は顔を真っ赤にして怒鳴った。

「おいおい、わかってんのか? この目を持っているのは、選ばれしものなんだよ。この辺で酒飲んでくっちゃべってる奴らとは俺らは違う。太陽に、選ばれたんだ。それは、誇るべきことで、誰にでもできることではないんだよ」

「う、うん」

 その迫力に気おされて、僕はつい頷いてしまったが、心は納得していなかった。まだずっと心中で首をひねったまま、同じ問いがぐるぐると回っていた。

「どうして、どうして僕たち違っているんだろう。違っていることを、どうしてこんなにも特別視したり、問題視したりするんだろう。僕たちは、同じ人類だと僕たちはどうして純なる心でもって思うことができないんだろう・・・?」

 彼は少し笑って、

「ほらお前疲れているのさ。瞳を見せすぎたから。俺も久しぶりに、日の光に照らしたから、瞼がひくひくしてたまらないよ。さあ眠ろう。大切な目を休ませてやらないと、本当にこれからどうして生きていけばいいのかわからない」

 彼は笑って、でも真剣な目で、眼鏡を掛けなおした。そうして彼の瞳は闇色のガラスのなかへ消えてしまって、僕は目の前にいる人物がまったくの誰であるかわからなくなってしまうような気持ちになった。

「ああ心が途絶えてしまったのだ」

 その人は僕の心を覗いて残念がるように言った。

「さあ、呼び起こしてごらん。本当の君の気持を愚かなわたくしたちにお教えください」

「ああ、つまらないな!」

 僕は叫んだ。

「こんなことがしたいんじゃないんだ。僕は本当に、こんなことがしたいわけじゃないんだ」

 太陽に跪くかのごとく、その辺にいるような子供である僕に対してまで跪く大人を見て、僕は絶望感に似た空虚を感じる。

「なぜそんなにもお怒りなのです、ラーよ」

 その人は、太陽の冠をかぶって、僕の心を知ろうと目をやった。

「手が疲れました」

「おや、それはいけない」

それでもこのくだらない儀式は終わらないらしかった。

「疲れました」

「おや、それはいけませんね」

らちが明かないので、

「心も体も疲れ果てました」と言ってみたが、これにも聞かぬふりであった。

ついに私は、

「眼が疲れた」といった。

そこで信者はようやくハッと所作を改め、恐る恐る少年のほうを見やった。

「おお神よ、すみません。配慮が及ばず。しかし、悪く思わないでください。あなたさまはようやっとわたくしの前に現れた救いの手なのです、わたくしはその手を放すわけにはまいりませぬのです」

 少年は仮面の向こうで大あくびであったが、それでもこの信者は素直にこちらの言葉を聞いて、上質な食事や上品な風呂やマッサージを提供してくれたので、彼にとっては悪い話でもなかった。

「神様がいてうれしい?」

彼は素直な気持ちで聞いた。信者は「もちろんですとも」と首が引きちぎれそうなほど強くうなずいた。

「あなたさまがわたくしのもとへいらしてくださらなかったら、どんなに我がこころがすすけてくさってしまっていたことでしょう。あなたさまは、わたくしの光なのです」

「ふうん」

 彼はおいしいものをたくさん食べたので、もう先ほどのように「いやだ!」と投げ出して言うことはしなかった。どころか、満たされてきたので、この親切な信者をありがたく、面白く、いいひとのように思われてきた。そして自分の存在がその人にとってそれなりに良いことを運ぶのであれば、そのために何かをしてあげようというような気にまでなった。

「神としてのふるまいがわかってきた」

 少年は自分で言って、

「あなたはどうしてほしいのですか?」

 取って付けたような言葉遣いで、信者に対した。しかし、信者の表情は晴れない。むしろ疑惑に満ちた目でこちらを見てきた。少年はたじろいで、再び権威のあるようなふるまいで、声を大きく張って「どうしてほしいのですか?」ともう一度言った。すると、今度こそ信者は深い不快感を露わにして、少年と対峙した。

「失礼。どうされましたかね? 突然そのような不可思議なものの言い方をされては困ります。わたくしは何か無礼なことを致しましたでしょうか?」

 とんでもない! 少年はそのような言葉が出てきたのにびっくりして、

「いや、そんなことはないよ。むしろとても良くしてもらったからーー」

「ああそうでしたか。これはこれは」

 信者は途端にあの恐ろしい顔を笑みに変えて、

「しかしながら、急に態度を変えられてはわたくしも驚いてしまいますので・・」

「ああ、はい」

 少年は内心ぞわぞわと落ち着かないままであった。どうしてこんなにも恐れに似た感情を抱いているのかがわからない。それでも、目の前の信者の笑顔を信じられない気持ちでいるのが、自分でも痛いほどに分かった。

「お前こそ、どうしてそんなにも豹変してしまうの」

 彼は思わずつぶやくように言った。

「さっきまで僕を殺してしまいそうなくらい、強い強いにくしみの顔だったのに、今はもうぱっと、笑顔になっている」

「あ、ああすみません。もしかして、偽物ではないかと思いまして」

「偽物?」

「はい、わたくしが願ったような救いの主ではなかったかと。その、万が一にでもですね、間違ってはいけないと思いましてですね、はい」

「間違ってはいけないの?」

「そりゃあ、わたくし何のために今まであなたさまに仕えて膝をついて祈ってきたのか、まったく無意味になって無価値になってしまうではありませんか。今まで、ほかのものとは違うことをしてきたからこそ、あなたさまはわたくしのところを選んできてくださったのでしょう? ですからわたくしとしては、あなたさまの存在こそがわたくしの努力の賜物と、まぁそういうわけでございますね」

 少年は黙ってしまった。神様に本物も偽物もあるのだということも驚きであったが、もしもその神様が偽物であった場合は、この信者は先ほどの表情を変えずにそのまま少年と対峙していたことに気が付いてしまったからである。

 少年は偽物などではなかった。しかし、本物でもなかった。ただ、太陽の光を凝縮した瞳を持っているに過ぎなかった。それを、この信者が勝手に神様の証だと崇め奉ったのであった。

 少年は途端にこの場にいることが恐ろしくなって体の震えが止まらなくなった。この恐ろしい人は、もし今度決定的に少年が「偽物の証」を出してしまったら、先ほどの表情でもって少年の存在を亡くしてしまうのだということを、言葉で言い表せなくとも、少年は感覚でもって理解したのである。

 少年は逃げ出そうと思った。しかし寸でのところで何とか堪えることができた。今ここで逃げ出しては自分の身が危うい。そうではなく、この信者が寝静まったりしたころ、その隙を見つけてこの気味の悪い教会から逃げ出してしまおうと思った。

「正しい神がいるのなら、正しい信者もいるだろう。でも、この人は偽物だと思う。偽物の信者だと、そして僕も偽物の神様なのだと」

 本当なら、今すぐにでも素直な心で謝ってしまいたかった。そうして謝ろうと思った。しかし、その言葉を押しとどめるように信者は「いいえあなたさまこそ本物の神様です」と一言一句誤らず答えるので、少年はますます気味が悪くて仕方なかった。

「まるで人形だ。同じ言葉を繰り返すしか能がない人形だ」

 少年はその信者を強く拒絶した。しかし信者はむしろそのことをひどく喜んで、「もっと言ってください、もっと」と少年の足首に縋り付いて言った。少年は必死にその手を払いのけようとしたが、それも意味のないことであった。

「倦んでくる考えをどうにかして正当化してしまいたいと思うのです」

 彼はあえぐように言った。

「どうしても」

研究がやりたくなくてこのように、小説を書くことにしたんだ。そうしてまともに考えることをやめたんだ。

 なぜなら、無意味だから。無意味だからだ。どうしてこんなにも自分にどうして自分に自信がないだろう。僕は本当のこと言えない。

 どうしてこんなにも世の中には絶望がたくさんあって、私達は運よくそれに触れずにいられているだけで、本当に賢い女性はたくさんのことに気付いている。本当は、こんなことをしていても意味がないこと。そして、ここに居続けていても、苦しいだけでどこにも本当などないことを。

 現実は苦しくて優しくて、でも真綿なのだ。じわじわと私の首を絞め続けるのだ。なあ、どうして夜中によるぽっとした気持ちで、女一人で出歩くことが危険だといわれるのだろう。たとえば、電車にのっていて、どうしてわたしは身をちぢこませていなければならないのだろう。どうして独身同士がそばにいると、くっつけようとするのだろう。まるでひとつよりもふたつが良いみたいに。そんなことはないのだ。ほんとうは、ひとつが強いのだ。でも、ひとつはずるいから、ふたつにしたがるのだ。本当は、本当は、人間としてこんな生活は不自由なのだ。でも、そうするしかないのだ。そうすることでしか、もう保てなくなってしまっているのだ。もう手遅れなのだ。でも、手遅れでいいのだ。どうしてもこんな感情しか抱けないのだ。もういいのだ、いいんだ。だってもう、捨て身だ。捨て身なんだから、もうどんなに苦しんだっていいのだ。もうこの、あとはこの寝ながら、この状態で永遠に文字を書いていられる状況があればいいな。そうして言葉を呑み込んで、自分のためにだけ使うそんな言葉のやりとりがありさえすればもうそれでいいな。そうして絶望していような。そうしていつまでも同じところにいような。そうしてという言葉は優しいな。どうして、現実で良いことがあっても、そうして、どうしてそうしてといって進んでいる気になっているんだ。

「涙が悲しみを呼ぶんだ」

「悲しみが先に来るのではないよ。涙がながれてはじめて自分が悲しんでいることに気付くのだ」

 その人はぼくの涙をその指ですくってくれた。

「君は、悲しかったんだ」

「……ぼくはかなしかったんですか? ……それは、」

 僕は食らいつくように、「それはみなが言う『かなしみ』ですか。みなに認めてもらえるだけの『かなしみ』ですか。ぼくが『かなしみ』だと言ってまわりに聞かせても傷つけられないだけの『かなしみ』ですか?」

 先生は困ったように眉を寄せた。気遣うように笑ってくれた。

「それだけの悲しみだ」

「……ああ、ああ、せんせい、ありがとうございます」

 僕は救われたように笑った。

「これで僕、思う存分安心して泣けます」

 そうして表情が崩れていって、保つことが難しくなって、ぐしゃぐしゃの顔で、鳴き始めた。

「ボク、ほんとうは、泣いてしまいたかった」

「この世が悲しすぎて?」

「ううん、ボク、泣いていたかった」

「そう」

「僕は僕の、ストーリの中で……」

「もう、説明しなくていいよ。君のなかの感情を、ぼくに説明してくれなくていいんだよ。わかっているから、言われなくても、わかっているから」

「でも、」

「ああ、わからないよ。でも、ぼくがわからないことは、きみを傷つけたりはしないから」

「……うう」

「君はひどく傷ついている。でも、その傷はきっと癒えるから。大丈夫だよ」

「僕は一人でこの傷を治す必要があるんです」

「その通りだ」

「僕は寂しくなんてありません」

「そうだろう」

「ただ、時間をかけて癒していたいんです」

「ああ」

「でもそんな時間を許してはくれないでしょう」

「どうして?」

「許してくれといったひとを、ぼくは許さなかったから」

「自分だけ、許してもらおうというのは、いけないこと?」

「いけないことです。みんな同じじゃないといけないことです」

「みんな、同じではないのに?」

「……」

「きみの物語と彼らの物語はもうすでに違っているのに? 同じ言葉でも、きみが指す言葉と彼らが指す言葉は違ってしまっているのに?」

「ああ、先生、僕は、ぼくは恐れています」

「恐れているのなら、行動すべきだな」

「怖いんです、怖くて怖くて毎日怖くてたまりません」

「では怖さを感じなければいいじゃないか。これは怖さを感じるまでもないことだよと、安全敗を切り捨ててしまえばいいじゃないか」

「そんなことできません」僕はなかば悲鳴をあげるみたいになった。

「どうしてできないというのかい」

「どうしたってできないじゃないですか」

 先生はいつまでも僕の瞳を見ていた。その目はあまりに真っ直ぐなので、ぼくのほうが戸惑ってしまう。

「先生は、ぼくの目が怖くはないんですか」

「怖い? 何故?」

「見慣れたものですか? 僕とちがう人の目を見たことがあるんですか、この……」

「君が言う『太陽の目』かい? いいや、初めて見たよ。凝固した時間のように美しい」

「……ぼくは、おそれているんです」

「見ればわかるよ」

「見なくても、わかりますか」

「見なくても、わかる人にはわかってしまうだろう」

 でもそんな人は、と先生は切って、

「君と同じく恐れている人だろうね」

「ああ僕は、このままではいけないことは分かっているんです、でも」

「できないんだろう。できることから、少しずつ解き放っていった方がいい。君はもうできないんだよ。できないから、できないままでいるんだよ。そこから次のステップへゆくには、できるようにならなければならない。やればできるの話ではないのだ。ただ単にきみの力不足。もうできないんだ。君はもうできないところにまで行ってしまっているんだ」

「ぼくはもうできないんですか」

「そうだ」

「そんな、そんなの嫌です」

「何故? もうできなくたっていいと君はたった今言ったじゃないか」

「そんなことは言ってません。ただ、やりたくないと、できないと言ったまでです」

「その通り繰り返したつもりなのだけれど」

「それでもあなたの口から出た音と、ぼくの心の声とは違って響いて聞こえます」

「そうですか」

「だから、そんな傷つけるようなことは言わないでください、後生ですからお願いします」

「いいよ。それで君がいいのならね。僕はなんでもするよ。君を傷つけるようなことはしないから、だから安心してそこで泣いているといいよ」

「ありがとうございます。泣いていますね」

 そうして僕は部屋の隅っこに移動して声を抑えて泣いた。そうしたのは、だって、声がうるさかったら迷惑だろうと思ったからだ。

 白い壁に、赤茶けた雫がいくつもついては枯れてしまったのだろうが見える。

期待されていても、それが本当に期待であるかなど分からない。自分のなかにほんとうにやりたいことがあって、やりたくないことがあって、そこから逃れられないとわかっていて、それでもこの世界で生きて居たいかということを突き詰めて考えていかなくてはならない。身体は、生きたい。精神は、死にたい。思考を鍛えれば鍛えるほど、死にたくなってしまうのは、自己の精神が強すぎるから。身体の力が弱まっているから。

そう思うだろうか? 死ぬことを思うことは、強さではないか? 弱いものは、弱くて、死にたくないと思うのではないか? それでも、死にたいと思うのは、精神がむしろ強靭すぎて起こる自己保存の考えではないのか?

 私はそう思う。だとしたら、死にたいと思うのは、悪い事ではない。生きていれば、死にたいくらい思う。だってそこに嘘はつけないはずだ。だって、だってこんなにも苦しく生き辛く、互いが互いを牽制し合うような、そして自らでさえ自らを牽制してしまうような、そんなくだらないよくわからない世界のなかで自己を保存するために息を殺している。安寧の地はない。永遠にさまよいつづけなければならないのだとしたら? どうだろう、あなたはどんなに苦しい気持ちでいることになるだろう。こんなに文章がうまくなったって表現したいものはいつもどこにもない。

 自分がなしたい物を、自分が好きなものを、教育なんてつぶれてしまえばいいのにと思うことばかりで、本当は何がしたいかなんて、自分の過去からしか物事を見ることができない不幸のために、子どもたちは苦しんでしまっている。どうして? どうして目の前の生徒をのぞき込んでみることができないの?

 みなくていいと思っている。恐ろしくて、その目にうつる拒絶の色がおそろしくて。笑いながら泣く自分の感情を恐れている。その他者による心の感情のせいで、私の感情がゆらぐことをもっとも恐れている。どうして?どうしてどうしてもどうしてだ。私は自分の感情が恐ろしい。時に自分をみじめに苦しめるこの感情が恐ろしい。自分の感覚がもっとも恐ろしい。他者によってもたらされる痛みが、どうして私にとっての痛みと感じられるのか。自分の感覚・感情・感じがもっとも恐ろしい!

 表現は表現のために行うべきもので、何かの目的を考えている時点で表現ではない、それは物事へと成り下がってしまう。ただし、たった一つを表すために書くのでもなかろう。自分が本当に伝えたい事をより良く書く伝えるために? 伝える伝えるとやかましい。ほんとうにやかましい。誰かのためを考えて、何故?伝える必要があるのだ?そうやってやかましい作業をどうして繰り返して、そうして私も誰かに強いてしまう。その答えを自分で見出せないならやるべきではない。どうして自分でもわからないことを他人にまでやらせようとするのか。どうして僕たちはいつまで経っても同じところに立っているのか。本当は動き出してしまったほうが楽なのではないか?そう思わずにはいられない。だってこんなにもいつも苦しんでいるのは、腐っているのだ。尻から、頭の先まで腐って朽ちていくのだ。面白いな。早くそうならないかな。そうして息もできなくなったら最高だろう。そうしたら僕はようやく僕という存在から離れていくことができるのだ。私という存在はもはや、何かを行為するために生まれたただの身体に過ぎなくなる。そうしてようやく私は私というものから飛び立つことができるのだ。ああ、感情から離れて作業をしていけばどうしてしまえるだろう。そこは空しいのだろうか?いや、まさか、行為の先に行為体としてだけの身体があるとして、どうしてそこに残念さを覚える必要があるだろう? どうして自分が本当に生き永らえたいと思うだろうか。生き永らえるのは、身体の運命だ。どうして精神までがそれに引きずられなければならない? 私は見えてきつつある。分かり始めている。しかしこのような感覚が誰しもあるなら、即刻この感覚を焼き捨ててしまいたい。それくらいに私は私という存在から離れたがっている。どうすればいい。どうしたら私はどこにもいかなくて済む?どうしたら変化せずに死んでしまえるのだろうか。しかし、死も、変化ではないか?死こそ変化で、生こそ維持の不変ではないのか? だとしたら私は不変を志向するから、私はわたしを志向していることになるのか。どうした。どうして突然自分のロジックにまともに相手ができなくなってしまったんだ?

書いた本人は書いたものを読むことはできない。読み直しても、完全なる読者にはならない。なぜなら未知ではないから。読者は未知との遭遇であって、未知である人間は読者である。作者はすべてを既知であるから、既知だ。属性として、作者は自分がその文章を生み出したことが作者としての権利であるが、テクスト内の役割としては、その内容を既に知っているか否かである。そして、読み手もそのすべてを読みつくすことができれば、知ることができれば、書き手の存在へと近づくことができる。そうすることで、テクスト生成はさらなる次元へと返り咲き、読みが生成される。また、書き手の思考まで読み解くことができれば、作者となり得るかについてであるが、おそらく読み手は書き手にはなれないのだろう。こうまでしても、読み手は書き手として書くことができない。しかし、そのテクストを自分がコピーしてそれを書いたといえば、そのテクストはもはや作者ではない。

芸術とは、これは自分が書いたのだと主張することは非常に難しく、読者の良識に委ねられる。私でさえ、そして恐るべきことに、書き手でさえ、そのテクストが生成されたのちは、自身の手を離れてしまって、「元」書き手であった人物に成り下がってしまう。テクストがテクストとして完成するまで、作者を必要としながら、それが完成してしまったあとは、もはや作者の手を離れてしまうのだ。これこそがテクストの確立であり、作者の像や支配権を殺してきたのは、ひとえにテクストをテクストとして確立させるためであるというのになぜ国語教育はこうも作者にこだわっているのかが分からない。ラベリングの利便性だけである。


【 】

 ずっと苦しみたいのだと思っていた。どうやら、この世界はどうにも生命力が低下していて、それでどうやら体力を温存することばかり考えているらしかった。しかし温存した体力はどのタイミングに用いるというのだろう。貯蔵した金が戻ってくるように、その生命力もさえ元通り、溜めておいた分がそう器用に取り出して作り上げることが果たしてできるのだろうか?

今神様呼んでます


イッシュ「お前が太陽の眼を持ってんのか!

お前だったのか!

ははっ、なんだ、こんなに近くにいたのか。なら、さがさなくても、よかったのにな。


イ「おれが守るよーーアルタ。

だから、おれの近くにいたらいいよ。


乳臭い少年を、けつの青い少年


型番……あっ、回収対象だ。

ごめんな、青菜くん。おれ、これ持って帰んないと叱られちゃうから。


あっちょっと動かないで、レンズだから。目玉くり抜くとかじゃないから。


目から鱗っていうでしょ。鱗なの。

太陽の鱗。

お前の眼の中に入ってたのはただの鱗。でもそれ付けてるだけで、良いことあったでしょ?


神様の幸運、偶然にも貴方のもとに舞い込んだってわけだ。そんなにあれこれ思うこともないけどな。まぁ、幸運はここでおしまい。



(夜ふらっと、真面目そうな女の子が外に出て行く。普通のこと。安全のこと。でもそれを殊更取り上げないことで、当たり前にする。)


……は?


なんで、鱗、重なってんだ?


ウチのとこの鱗……あと、もう一個……?

外すぞ……?


は? え?

まだある……


鱗……

その眼……まさか……


早く外せ!外せないと……もとに戻れなくなるぞ!……っ!


両の眼もか?!

ああ、ああ!っ まさか、そんな!


「痛っ」

「痛むのか?! そんな。うそだ、まだ……なにも知らないままじゃないか」


『お前の生命は何処にある!』

あのおじさんのせいだ……あのおじさんがぼくの心に炎を燃やし付けたから。ぼくはもう、動き出さないといけない。この心臓をわくわくどきどきさせるために、動かし続けなければならない。


ぼくはぼくを楽しませなければならない。ぼくは、ぼくのことを楽しませなければならない。

だから生命はそこにある、ぼくの生命はぼくだ、ぼくが、生命だった。



私が一番喜ぶことは、文章を書いて、作家になって、愛されることだ。それ以外にはない。仕方ない。ぼくはぼくの人生をやめることにしよう。そして、きみのことを楽しませるために尽力するんだ。

だから、きみは安心して?

君はきみの人生を、命を燃やすんだ。ぼくのなかに、ぼくがいる。



きみに描かれることを拒絶しているんだ。

窓枠に足をかけて、こちらを覗き込むように見やった少年。


目は脳。

目が見えなくとも心の瞳で物を見るだろう。耳が目になるだろう。


太陽の眼がこちらを見ている。運命がお前だと選んでいる。逃れる事はできない。


運命が選んだ人間ではない人間がでしゃばる。


どうしてあなたにほんとうのことを伝えなくてはいけないのだろうか。どうしてわたしはあなたのそばにいられないのだろうか。そういうことをずっと考えている。


「危ない!」

そう思ったときには、遅すぎるくらいである。だから彼は、ぼくの体ごと包み込んでくれた。

彼は顔から首までがそのまま人間のそれであったが、下から全てがマントになってしまっていた。モモンガのそれである。

マントが太陽の模様が入っていて、中地が赤い色に染められてキラキラと輝いている。

「大丈夫だったか?」

「うん、おかげさまで」

「そりゃそうだろう」


マントの中に包まれていると、暖かくて、うとうととしてしまった。


「まるで太陽の中にいるみたいだ。太陽に包まれているみたいだ」

「ばか。太陽は熱いんだぞ。触れたら、あったかいどころか、焦げてぱらぱらになっちまうよ」

「そっか。そういえば、イカロスは太陽に恋い焦がれてしまうんだよな」

「おれらの主人は、本当にすばらしい熱量をもった方だよ」


イッシュはアルタを庇うように身を投げた。


「怪我は無いか! そりゃ俺のが身体が丈夫だから……


「何をあんなに怒っているんだろうな?」

「さあ?」

「お前……主人を裏切るつもりか!?

「乗り換えるも何もこれが……器だぞ


さぁつどえ愚民ども

この瞳が証 辿り行く証


「眼鏡、ガラスレンズ、まだ外さない方がいいな

「やっぱりまだおかしいの?

「おかしいさ。おかしくないとこ、なんて無いくらいにな


どうして小手先にしか書き出さない?本当はもっとマグマのように怒り狂っているんじゃ無いのか。自分を自分たらしめるために、むしろ自分が削られていくその矛盾にきみは静かながらも酷く傷つけられ悲鳴をあげ押し殺し毎晩毎晩なき綴っているのではないのか!


そんなこと言っても無駄です

無駄ではない


ファンタジーと言うな、フィクションとファンタジーは似て非なるもので、しかしながらフィクションの中でまでも苦しみたくないと言うなら それはきっと、そういうことなのだろう。


「もっと苦しみなさいと僕は言えない。あなたには絶対

アルタは強い瞳で言った。

「苦しむことに必死だから


「イッシュ

呼ぶと、夜風になびいた髪が美しかった。イッシュは彼の方をその愛し子を見るように細めた瞳で問うた。

「イッシュ、ぼく

「何だ?」

「ぼくは、あの塔へいつか登らなければならないとおもう

「……そうさ。きみはいつかあそこへ行くのだ

「でも今ではない。今でなくともいい。

「ぼくはでも、毎夜、呼ばれているんだよ

「ならば耳を貸さなくていい。おれの中で隠れておいで。さぁ、寒くなってきた。砂漠の夜は冷えるから。ほら、見えない。こうやっておまえのことを隠しといてあげるから。

そうして抱きとめられ、アルタはそっと彼の輪郭を撫でた。

「イッシュ、でもぼく

「今はまだいいんだ、アルタ。眠って

「イッシュ……きみはぼくのことをそんなに気に入ってくれたんだね。

「そうさ。まだたくさん、あるんだよ。アルタと物語が

「でもぼくもう……いいや。そのたくさんがなくなるのを、みたかないや。だからね、きみがいつでもいいって言ってくれたら、ぼくすぐにでもあの塔へ登ってしまいたいくらいなんだよ。……

「行くなアルタ、まだ……

「イッシュ、きみはまだ自我の芽生えたばかりだから……ぼくを親鳥とでも思って慕ってくれているんだね。そうだね、ぼくもう少しだけきみと居ることにしよう。そうすれば、きみの心の不安もいくらか解消されることだろうし……



「ワナンナ。わたしの声が聞こえたでしょう

「ぼくが、待ってる。あの塔で

「どうしたんだアルタ?



「ああやめてくれ、主!

こんな汚らわしい従者従属と触れ合うなどわれわれの禁忌! 嫌だ、やめてください、お願いします。

ああ、ああ!主はわたくしを見限られたのですか! こんな殺生な……ああ。ああ!

触れてしまった肌から一刻も待たずに皮膚が灼け爛れていく

触れた肌が汁気を帯びみるみる腐ってぼとりとたわんだ枝から落ちていく

ひどい!主人。わたくしをこんな目に合わせるなんてなんてひどい人だろう。

こんな汚れた落ちぶれた従属を見て楽しいのですか主人よ、わたくしはもう訴えることすらできません。


そうして折り重なっている従属たちを見て、主人は呆然としていた。


「ぼく、そんな……」


「月の住人と太陽の住人は、触れ合うことは許されないのです」

女性がすっと前に出てきて、

「あなたはどちらですか? 本来ならば、こんな風に立っていることもできないくらいなのですよ。現に」

そう言って女性は手を挙げた。そうして、彼の手を取って握ってみせた。

「ほら。あなたは、月の住人とも触れ合える。そうして太陽の従属を纏っても生命を保つ。どころか、気力すら回復させている……あなたはどちら側の器なのですか?」


「まさか、あなたどちらにも選ばれてしまったのですか? 同時期に?」


「ぼくの欲望が、彼らを死なせてしまった。

蘇らせて

「……あなた様が望むなら

「でもどちらかですよ。どちらか一方しかあなたは出会えません。



「イッシュ」

「イッシュ? 誰ですか、その名前は」

「え?」

「わたくしの名前は、ワナンナですよ、主わが主人。お忘れですか?」

「え、あ、えっと」

……ぼくの名前わかる?」

「わかりますとも。どうされました? 今日はわかりきったご質問の多い日でございますね」

「ワナンナ……あの、ぼくさ」


「ワナンナのマントの色は、紺色なんだね。

静寂のしじま……ぼくは心が落ち着くよ

さあ、眠りについてください主人。起きたらまた眠って。

「でもぼく、あの塔へ行かなくっちゃいけない……

「まだよいのです主人。焦ることはありません。ただ、あなたはここで静かに眠って夢を安らかに見ているだけでよいのです……」


苦しみの中に置いてきた貴方の時間を綺麗に返すことのできないことの罪を感じています。


どうして?って聞いたら、どうしてそんなこと聞くのって言って。取り合わないでおれに真剣に、問題にしないで大したことないよって笑って、ほんとは大したことあっても無視できなくても無視して欲しいんだ。


意味を追求すれば、無意味が捨てられちゃうでしょう。意味が無いものたちの存在意義はないなら、意味が無いものから意味を作る必要が出てくるね。急いでね」でもさぁ、溜息。「そんなインスタントに出来上がった意味、ホントに意味あるの?」


いい加減君も僕も自分を傷つけるのはやめた方がいいね。そんなことしても強くはなれないし。所詮自分だから手加減して致命傷を避けてしまう。でも傷は出来るからその治療に手間取ってロスタイムが生まれる。これは勿体ないね」 宗は肩をすくめて「仕方ない、僕達は僕達の味方であることとしよう」


君たちの周りには、辞めてもいい理由が沢山、あるかもしれないけれど」 宗は目を細めて、 「そんなどっち付かずの理由に耳を貸さなくてもいい。君たちが真に耳を傾けるべきは、心の声ーー」 それは神さまの囁きみたいに、 「辞めなくてもいい理由なのだと僕は思うよ」


目のないものはどうなるんですか!

目のないものは耳が目になるだろう

イメージが目になるのだ



「わたくしはワナンナじゃありません、主」

「ヨナンです」

「ふうん。ヨナン。ぼくはアルタ」

「存じ上げております」

「ヨナンは、ぼくのこと好き」

「ええ」

「ヨナンは、ワナンナのことを知っている?」

「勿論。そして、あなた様が彼に何を望まれたのかも」

「あれは、間違えちゃったから」

「ええ分かっています。それにワナンナも悪い気はしなかったでしょう。恍惚の表情で逝きましたから」

「ぼくのこと怖い?」

「ええとっても。気まぐれで太陽のモノとまぐわえと言われてしまいそうで」

「ぼくそんなこと言わないよ」

「ええそうでしょう。ですが結果的には同じことでした」

「ヨナンと対になるのは誰だろうね。ウッシュかな」

「ウルクかと」

「古代文明チックだね」

「あなた様をお守り出来るかだけが存在価値ですから」

「ぼく、神様だもんね」

「そうです。ですから、あまり無茶を仰らないでくださいまし」

「うん、そのつもり。」

「……でもたまには無茶すぎない、無茶なことを仰ってください」

「そのほうがいいの?」

「そのほうがわくわく致します

「ヨナンぼくすき」

「まぁ。奇遇ですね、主さま。わたくしもです」



「ぼくが島へ行くには前もってお話ししといてもらわないといけないんでしょう?」

「そうです。でないと、皆驚いてしまいますから」

「じゃあ言っといてね。ぼくはやく向こうに行きたい」

「はい。」

 【笛吹少女は明日を夢見る】

 どうしても自分のなかにあるものを口に出さずにはいられないみたいだ。

「だって書くのは、疲れるじゃないか」

 あんなにたくさんのことを書いてきた人がそれでもやっぱりしんどいというのだから、これは本当にしんどいのだと思った。

「それも手でたくさん文字を書くというのは、しんどいじゃないですか。面倒じゃないですか。それなのに、その言葉を信じられないというのなら、あなたもう、研究やめたほうがいいですよ」

 そうだと思う。ほんとうに、ほんとうにそうだと思う。

「だってあなた別に子ども好きじゃないでしょう。集団の子どもも、個人の子どもも、どっちにしても愛情などないでしょう」

 そうだけど、そんなに言わなくてもいいじゃないか。

「それはなぜか。子どもファーストだからだ。それは一方で見れば大人ファーストでもあるのだけれど、でもあなたはほんとうは、自分が大事な人も大事にしてほしかったし、そうすることで自分のことに対しても余裕をもって向かい合ってほしかったんではなかったですか?」

「あなたは永遠にこどもでいたかった。それは、自分がほんとうの自分でいられた気がしたからだ。余計な女性性という、くだらない性別にとらわれた考え方から外れて、自分を自分でいられたそういう当たり前に帰りたかったんじゃないか。いやちがう。帰りたいのだいつだってその機会をうかがっているのだろう。しかしこの世界について知れば知る程その当たり前を崩すにはそれ相応のパワーが必要であることを知った。一度カテゴライズされてしまったものから逃げ出して、自分のほしい世界を求めることはおそらく難しいのだろうと思う。だからこそ自分のことばづかいには気をつけて。だって、このことばが世界を作ってしまっている。空気だけではない、始まりは空気ではない、ことばがだれかがくちにしたことばがその世界を作り出している。そうして常識が、判断を止めてしまって、あなたのことを考える余裕をなくしてしまうのだ。それほどまでにこの世界は疲れてしまっている。休ませてやりたい。しかし、休むことで疲れが取れるとは思えない。おそらく、行動することでしか、疲れを取ることはできなくて、行動して疲れることでしか疲れを取り除くことはできないのではないか。だって、わざわざ休まなくても、だって……」そこで言葉は終わっている。彼女もまた疲れてしまったのだ。

 眠っている彼女の頭に手を載せた。

「もういいよ」

「もうって言わないで」

「いうよ」

 私は笑った。

「えいえんに、くるしめば?」

 心の無いことばに傷つけてしまいたかった。その絶望に歪む表情を見て、恍惚としてしまって、どうしてだろう、そして涙が出た。悲しかった。空しかった。どうしても、自分のなかにあるものを取り出したくて仕方なかった。しかしそれはすでに手ばなして失ってしまったものであるから、それを再び手に入れることは非常に難しいことであった。

 お願いだから、当たり前のことを当たり前のように言わないでください。ひとによって違うんだから。

 頭を強く殴りつけて、

「ねえ。わたし、強くなりたい」

「ぶれないということ?」

「相手を傷つけるかもしれないね」

 彼女は笑って、

「でもそれでも、やっぱりわたしはわたしであることにするよ」

「……」

 彼女は諦めたように、両手を広げた。そこには、紺碧のマントの裏地が宇宙のように広がっていた。

「連れて行って、ムナンア。わたしは、行く」

「あなたのこと、永遠に連れ出せたらよかったのに」

「そんなのむりってわかってたでしょ?」

 彼女は涙の光る頬で頷いた。

「むりだから、すきだった」

「ばかだなあ」

 わたしは彼女を抱き締めるように、そのマントに包まれる。

「次に会うときは、きっと美しいものとして出会えるよ」

「もう出会いたくない。出会ったら、またあなたをすきになる」

「自分不在の文章を描こうとするのである。どうしても引き付けられるものばかり描けばいいのである。好きな物ばかりある世界を描けばいいのである。たったそれだけだ」

「哲学者の言葉はやはり違いますね」

「哲学者は、自分の面白いものを忘れてしまったから、手近な問題をつつきまわしてもっともらしい答えを作り出そうとしている発明家に過ぎないよ、無一文のね」

「そういう潔さが豊かじゃないですか」

物語を演じるのが面白かった。自分の思うように物語をすすめていくのが面白かった。そのなかでならわたしはすごくすきなわたしでいられた。性別なんてどうでもよかった。どうしてそういうことをしていたのかもわからない。自分があんなに生命力たっぷりで生きていたあの頃がなつかしくて、すきだな。でもそれは男性の中にいることがよかったのではなくて、じぶんが生きたいところに素直に生きたいといえるそういう生命のあり方がすきだったのだ。

私のいまの自分はそれに比べてどうだろう。私はほんとうに私らしくなくなってしまった。自分がしたいことを、自分のしたいようにやることは、他人の迷惑になる。だから自分の生存戦略として、自分を既存の型にはめこんでいるのだ。そうか、私は真面目なのではなくて、真面目をしているに過ぎないのか。だからギャップを感じるのか。しかし誰しも真面目であって、他の自分があるのだろう。真面目は無色透明で、ほんとうの自分を出さなくてもいいから、だれかが自分を出したくない場合に身に付けるのが、この「真面目色」というものではないだろうか。

だとしたら、今家の前に立ってパソコンを叩いているこの指は、何色なのだろう。自分の本当の色を忘却してしまったあなたは、いったいなにいろに染まろうとしているのだろう。染め上げようとしているのだろう。

「僕は怪物なんだ」

「どうしてそんなことを自分で言ってしまうの?」

「どうしてどうしてって、きみは正直なんだね」

 青年はアルタの前に膝を折って覗き込んだ。

「きみって不思議だ」

「よく言われる」

「その眼」

 彼はアルタのレンズから覗いた瞳に驚いた様子で、

「印の眼だ」

「うん」

 アルタはフレームをずらして「こっちもあるよ」と見せてやると、彼は今度こそ絶句して、

「……印が二つ」

「まだあるよ」

 そうして、右手左手を見せてやった。

「印が……」

「すごく、神様に惹かれられやすいのぼく」

 アルタはにやりと笑った。青年は絶望するように声を震わせて、

「笑いごとじゃない……それは、神が一人の子を巡って争うことも考えられる空前の……異端子……」

「そうなの?」

 アルタはそれでも笑ったまま、

「じゃあぼくのこと殺す? 危険すぎるから」

「……むりだ」

 そんなことで収まるものではないし、ましてここで誰かがキミを殺したとしたら……。彼は恐怖におののいた。

「きみ、永遠にどこにもいつかないようにしなくちゃ、いけないよ……そうじゃなきゃ、きみをめぐっていつ世界が崩壊するかわからないじゃないか……」

「うん。よく、神様からの使いが来るから、ぼく仲良くやってるよ」

「アルタ……」

「でもぼく、ひとから好かれるの好きだから嫌な気持ちじゃないよ」

「……きみひとりのためにせんそうがおこるかもしれないんだね」

「そうかもしれないね」

「でもそれでもいいんだろう君は」

「うん」

「それが愛だとおもえば……」

「研究者はほんとうに子どもの学力を伸ばそうとかしてるんかな?自分以上に賢い人間やユニークな人間がいたらたまらんやろな。そう思うよ。だからこんな面白くもない本をぎょうさん出してるにゃろ?」

「そう言ってやるなよ、本人たちももはや何が面白かったか忘れてしまっているのさ」

「だってほんとうにおもしろいものって絶対ゲームやろ。あれは中毒性もあるし、わたしもゲーム好きやもん。ゲームやってゲームに勝てるもんあらへんもん」

「じゃあお前もずっとゲームしてたい?」

「ゲームたくさん買えるにゃったら、うちゲームしたいな」

「なんでゲームしたいの」

「でもゲームより妄想のほうが楽しいかもな。結局、わたしがやりたいゲームなんて世の中にあらしまへんねんから」

「読みたい本がないというのも苦しいものだね」

「だからそれを逆手に取るしかないなってことやねん。うちが読みたいような話がない、おっしゃうちが書いたら面白いやろってやっぱりそういう考え方しかできひんと思うねん。この世の中を変えたろうっていう、面白いように良いように楽しいように生きていて面白いやっぱり生きて居たいなってこの世界に理由が生むくらいの大衆愛が芽生えるような、そういうところを見せたいとおれは思うねん」

「きみらしいね」

「でしょう?」

「きみらしくってへどが出るよ」

「でしょう?」

「じゃあどういう人間がいいんだ、君のお好みの人間というのは実際問題どんななんだ?」

「イッシュ」

「まともの思考で向かってはいけないよ。こんな程度のことで、君が苦しむことはないのだから」

「きみが失ってしまったのは、目標だろうか。本当にやるべきこと、やりたいことと向き合うことが恐ろしいのであろう」

「そうです」

 でも、とその人は言った。

「でもだ。きみがしたいことと、それをしたことによる反応とは、きみがほしいものでないのなら考える必要はないんじゃないか? きみが責任を持つべきは、自分がしたいという気持ちだけで、それ以外のことは何も考えなくていいんじゃないか?」

「わたしはどうしたら、また文章の世界に神様に呼ばれるでしょうか?」

「何を言っているんだ?」

 彼は首をひねって、

「なぜ待つ側の話ばかりしているんだ? なぜ君は行かないんだ?呼ばれるのを待っているだけじゃ、永遠に責任逃れじゃないか」

「そう……ですね」

「ほら、結局はそれを背負うことができないいのだ」

「それを無意識の中にぐっと潜ませていられたらいいのですけれど」

「もはや君は迷っている状況ですらないということだ。君は未完成不完成の不完全な夢を見ていることができなくなってしまったんだろう」

 そう言って彼は、

「でももともとのきみは、そうではなかったはずだ」

「言葉ばかりが先行します」

「知って居る」

「どうすればいいですか?」

「どうすることもできない。自分で言葉を先行させていると思うのなら、もうとにかく先行させてしまっていくしかない」

「美しい観客から選ばれる気持ちを」

「ぼくはあなたのそばにいられないだろう」

「どうしてそんなことを言うのですか」

「どうやらもう機械となってしまったほうがよいような気がします」

「どうしてもどうしてもどうしてもまともに物を考えていられるような状況ではないような気がします」

「台詞があなたを発見します」

「なぜ書くんですか? なぜこだわるんですか? なぜあなたはわたしをこえにしてくださらないのですか」

「ほんとうのあなたは気付いているはずです」

「気づいていながら、でもほんとうと向き合うことが恐ろしいのですね」

「恐ろしいのなら、もうそのままにして公開していればいいじゃないですか」

「どうしてもあなたのことを思ってしまいます。なぜならあなたはわたしの死体」

「わたしの死体から生まれた存在であるから」

 彼女はそう言って、彼の瞳に触れて、

「わたしの捨てた瞳で物を見る世界はいかがですか」

「穢れていますか? レンズが曇って見づらいですか? ほんとうはあなたの生命のゆらぎに耳を傾けていたいくらいなのですが……そうもいってられないようです」

「ぼくは、心を失くしてしまいました」

「知って居ます」

「どうしてそうなったかご存知ですか」

「自分を行動者とするためでしょう」

「うるさい世界と物音を聞く度にぼくの心はざわつくんです。そうしてぼくは、ぼくを失ってしまいます」

「そうでしょう。あなたはほんとうに柔軟な物の考え方ができ、そして同時に頑固で一点張りで、融通がききません」

「ぼくはほんとうにじぶんのことをきらいになってしまいそうなんです」

「きらいになればよいではありませんか。そうしてわたしのようなよくわからない存在しているのかもわからない存在を相手取ってこのような心境の吐露を繰り返してみっともなく暮らしていればよいではありませんか」

「ぼくはほんとうはしなければならないことがたくさんあるんです」

「知って居ますよ」

「それでもぼくはしたくなくて……」

「したいことばかりしていてはいけないことですか?」

「あなたのしたいことってなんですか」

「産婆術を相手に返してどうするんですか。わたしはあなたの不変の答えを探してあげようと努めているのに」

「ああ、神、わかっています。ひとえにぼくを救い出そうとしてくださっていることも、ぼくにはよくわかっています」

「そうしてこのまま続けていてもいつしか心が疲弊してしまっていつもと同じ感覚に陥って同じことの繰り返しであることも」

「ぼくは人間としてあまり出来の良いものではないようです」

「あなたは親を不幸にします」

「家族を不幸にします」

「あなたはそそくさと死んでしまったほうがよかったのかもしれない」

「でも、ぼく、生きてくれさえいたら引きこもっていてもいいんですって言葉に、とても驚いてしまった。それ、言ってほしかったと思う。自殺ほう助する前に、わたし、あなたが引きこもっていても生きてくれさえすれば、どんなことからも守ってあげるってそう声かけてあげるだけで、十分生きていけたと思う。そういう声に、救われる人たちは少しだけ、休んだら、また歌い出せると思うから」

「歌? 歌うたいの話をしていたのですか?」

「わからないぼくもうわからない。なにもわかりたくない」

「それなのにあなたがしていることは矛盾していると思いませんか」

「思います」

「ほんとうにやりたくないことを人にやらせてばかりであなたは自分のことを甘やかしてばかりでほんとうに汚らわしいどうしてあなたのような人間がのうのうと生きているのか分かりません」

「生きるすべはあります。だって、免許も持っているしくいっぱぐれないようにだけしました。でも世界のために頑張るという感覚その意味がわかりません。なぜならわたしたちひどく個人に閉ざしているから」

「どこまで考え抜けば、あなたはそうしてまともになってくれるのでしょうか」

「夢中になって、当たり前のことを自分人生をかけて答えていけるようなそういう強さが欲しいです」

「そのためには一貫させなければなりません」

「あなたはわたしが傷ついても守っていてくれますか?」

「守れません。あなたのことを守ってあげることは永遠にできないのです」

「わたしは一人だ。一人じゃ何もできない」

「そんなことはありません。できないことばかりではない。むしろあなたは多くのことができます」

「だとしても、一つのことしかやりたくない。本当は自分が分断されていくようで苦しいのです。わたしはほんとうに頭の中がぐちゃぐちゃになってしまって本当は何も考えないことでしか、答えが出ないことを知って居て、だからこうやっていつまでもあれこれと考えているんじゃなかろうかとそんな気持ちにさえなるんです」

「いつまでも同じことの繰り返しではありませんか。こんなものは物語でも小説でもありませんよ。こんなものを上梓することはできません」

「ああもういっそ放っておいてほしいんです。わたしもうこんなことしかできない気がします」

「あなたはあなたらしい苦しみの中で生きています。ですが、あなたの苦しみは、苦しみにフォーカスをしているからそのように感じられるのであって、ほんとうは幾重にも喜びや楽しみを享受しているのです。それを食べつくしたから、あなたはあれこれとうなだれているんです。あなたが美味しい思いをしたいなら自分で行動しなさい。あなたがほんとうに相対と思うものに出会い続けるしかありません」

「こんな物語を読んでわくわくしますか」

「いいえ、まったくしません」

「どうしたらいいですか」

「あなたはどういう物語だとわくわくするんですか」

「恐ろしくても前を向いてほしい。そうして何かに向き合っててほしい」

「絶対に強い人が傍にいますね。そのひとはあなたを導いてくれます」

「杖がたくさん折れても、懐から何本も杖を出して構えて、戦っていくような」

「そういうバラエティ豊かなものがいい?」

「そうでも、愛されている主人公のなかにいたい」

「どうして」

「男も女も関係ない。女の子が、中性的にでも活躍しているような、そういう物語が読みたいです、先生」

「のどがいたい」

「みせてごらん」

 ぱかと口を開くと、イッシュはぐぐっと顔を近付けた。そうして首を突っ込むようにすると、彼の首から上が、アルタの口の中に吸い込まれてしまった。

【あーこりゃヒドイな】

 イッシュの声が喉の中で反響するように伝わって来る。

「おあ?(どう?)」

【すごいぜ。ひどく腫れあがっちまって、こりゃ、唾液を呑み込むのも辛そうだぜ】

「おおうああ(そうなんだ)」

 アルタは自分の喉のあたりに手をやって、

「おおいああらあい」

【どうにかってお前何か変な物食べたんじゃないのか? おっと、喉元に小骨が刺さってる】

「おっえお」

【おっけー。じっとしてろよ】

 イッシュは身じろぎをした。アルタはじっと待っていた。

「いは、」

【おっし、取れたぞ】

 彼は身を起こして、アルタの口から出てきた。煙のように消えていた顔が、みるみる人としての輪郭を帯び、

「おまえ昨日魚食べたろ」

 と、唇で挟んでいた小骨をぺっと手のひらに掃き出し、それをアルタのほうへと差し出した。

「もうしばらくは治るのを待つしかないかもな」

「そっかぁ……」

「痛む?」

「いや、ちょっとは楽になったかな」

「ちょっと待ってろ。喉の腫れにきく塗り薬を頼んでおくから。届いたら、塗っちゃる」

「うん。よろしく頼むよ」

「別にそういうプレイの物語が読みたいわけではなかったんだけどね」

「どういうのがいいの」

「今日読んだ物語みたいなのがいい」

「ほんとうは好きだけどいったん別れてちゃんと追いかけるみたいな……?」

「そうそう」

「主様はわたくしを置いて出ていかれたのですもの。わたくしがわざわざ追いかける必要などございませぬ」

「いやそれがさ」

 ぴこ、と耳が動いた。

「どうやらすんごく困ってるみたいでさ」

「へ、へえ……?」

「どうしてだか、変な呪いにかけられてしまったらしくって、それで困ってるらしいんだけど」

「ののろい!」

 その妖怪はばんと机をたたいて、しかしすぐさま、

「……で、ですがいけないのです。たまもというものがありながら置いて出掛けられた主様の落ち度です。せいぜい自身の罪をみずからのお身体で償って下さいまし」


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太陽のサウダージ 夢を見ていた @orangebbk

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