n月n日
夢を見ていた
第1話
「教室の中に置かれた席のなかで、もっともきらわれている席」といえば、学生生活をちょっとでも送ったことのある子どもたちならわかってもらえるだろう。
――そう、あの黒板と先生との距離がちかいあの場所、一番前の真ん中の席である。くじであれ何であれ、その席に決まったときにまず思い浮かぶ言葉は、きっと「ツイてない」だろう。
彼もまた、例にもれず、その席を避ける生徒のひとりであった。高校一年の春までは。
≪n月n日≫
入学式というのはいくつになっても緊張するものだ、と彼――梨木健二は、ざわざわとさわいでいる集団のなかにまぎれながら思った。
さきほどやっと入学式が終ったばかりだというのに、まわりにはまるで以前から知り合いだった友達同士のように親しげに話している生徒たちがたくさんいた。
彼はとくべつだれかと話すこともなく、ひとりぽつんと立っていた。この、始終そわそわした空気がいやだった。一人ぼっちにならないように、だれでもいいから声をかけて仲良くなる。何も考えず、近くにいたひとに、わらいかける。そのくしゃくしゃの笑顔はほんとうにわらいたくてわらった笑顔だろうか。その上ずった声は、家族や親友にむけるような自然な声だろうか。その日出会ったある人と、純粋に仲良くなりたくて笑みを浮かべて、「よお」って声をかけるのが、ほんとうの友達づくりじゃないのだろうか。彼はひとりだった。しかし、ひとりになりたいわけではなかった。だからそんな形のよい笑顔で話しかけられても、拒まず応えたし、返事をした声はすこし上ずっていた。こうして、自然と彼もまたこの集団の中にとり込まれていったのであった。
おれは、ちょっとずつ打ち解けはじめた友達といっしょに教室に入った。このクラスの担任も教室に入り、名簿からひとりひとり名前を呼んだ。あんまり大きく返事をして、目立ってはこまる。かといって、小さい返事で担任にききとってもらえず、二度三度と呼ばれるのも恥ずかしい。おれはそれなりの無難な返事をして、安心したように頬杖をついた。右斜め前、ちいさな寝ぐせ頭がふわふわと揺れていた。何やら妙に落ち着かない様子だった。
担任が名簿を閉じ、クラスの注目を集めた。
「えー。みなさん、入学おめでとうございます。今日からここ××高校で日々学業、部活動、その他さまざまなことに励み、立派な社会人として――」
後ろに座った友達からせっつかれて、おれは担任の目を気にしながらも雑談をはじめた。意味もない、長ったらしい話は右から左へと流れていった。
「さて、」
話を終えた担任は、教壇からある生徒を呼んで起立させた。おれはそちらの方をみた。前に出てきた生徒はあの落ち着きのない頭だった。
「みなさん、よくきいてください。彼、秋奈実琴くんは、生まれつき、声が出にくいのです」
えっ、とクラスが一気に沈黙した。秋奈くんはどこか申し訳なさそうに俯いていた。
「そして、耳も生まれつき弱く、ざわざわしたところだと、声が拾いにくいそうです。なので、彼は一番前の真ん中の席に座ってもらうことにします。いいですか?」
いいですか、ときかれて駄目ですという生徒はいないだろう。それも、入学式が終ってすぐの教室の中で。
担任はうなずいて、秋奈君に明日からこちらの席に座るようにと言って、別の話に進めていった。担任が示した場所は、ちょうどおれの座っている場所だった。ふと彼の方をみると、むこうもこちらをみていた。おれはさりげなく会釈した。秋奈くんは口をぱくぱく動かして、「ご・め・ん・ね」と言った。そうして両手を合わせ、ちいさくなって何度も頭を下げた。といっても、それは彼の生まれつきのものなのだから謝らなくてもいいのに、と思いつつ、おれはもう一度会釈した。むしろ、この席と代わってくれて有難いくらいであった。
ふわふわの猫っ毛、ひとのよさそうな微笑み、ちいさな体つき、それが秋奈くんから受けた第一印象だった。彼と話してみたいと純粋に思った。それでも、今、話しかけたら、自分は彼を面白半分でからかう人間のように思われるのではないだろうか。
時間を置こう。なんなら、明日の朝、登校のときにでも。
そうぼんやりと思いつつも、うまく彼と話す機会がつかめず、さらさらと日々が過ぎ去って行ったのだった。
それは、何回目かの席替えの日だった。なんと、おれは真ん中の前から二番目、つまり彼の後ろの席に当たったのである。
彼はとくべつクラスで浮くということもなく、みんなと仲良く、学校生活を送っているようにみえた。確かに声はすこし小さく聞きとりづらいが、全く聞こえないわけではなく、親しい友達も何人かいるようだった。おれは彼とは入学式の日以来、交流らしい交流をしていない。同じクラスにいるからといって、みんながみんな仲良しこよしのクラスではなく、赤の他人に近い存在のひとももちろんいるのだ。おれも彼にとってはその程度の人間だろう。そんなことを思いながら、彼の後ろの席へ移動した。周りにはあまり話したことのない奴ばかりが座っていた。おれはなんとなく目の前にあるふわふわの髪の毛をみつめた。なんでこんなにふわふわなんだ。何かワックスでもつけているのか、とぼんやり考え込んでいると、「プ・リ・ン・ト」
彼がこちらを振り返っていた。手にプリントを持って、にこり。微笑んだ。
かわいい、と男のおれでも思うくらいに、その笑顔は屈託のない、純真無垢な笑みだった。そして、声もまた高校生になったおれには遠い昔のソプラノ声で、幼い顔立ちの彼によく似合っていた。耳に快い声とはまさにこのこと。おれは惚ける心でなんとかプリントを後ろのやつに回し、前を向いてしまった彼の肩をあわてて叩いた。
「おれ、梨木っていうんだけど」
「うん、しってる」
彼はふふっとわらった。かわいい。教室は席替えの興奮が冷めず、ざわざわとざわめいており、ささやくような彼の言葉を探すのは苦労したが、それでも聞き逃すまいと耳を寄せた。
「入学式のとき、席ゆずってくれたひと。でしょ?」
覚えてくれていたのだ。おれはうれしくなって、自然と口元がゆるむのがわかった。
「これからよろしくな、」
「うん、」
「秋奈って呼んだらいい?」
「うん。ぼくは、なんて呼んだらいい?」
「なんでもいいよ」
そう答えると、彼は申し訳なさそうに尋ねた。
「なしぎ? なしき? よく、きこえなくて」
「なしぎ、濁るほう」
「梨木くん、」
彼の瞳はふしぎにも、きらきら輝いていた。
「ぼく、きみとおはなししたいっておもってたの」
「奇遇だ、おれもそう思ってた」
「いっしょだ、」
担任が教壇に立って話し始めた。彼はちいさく手を振って前を向いた。おれは後ろから、その肩を軽くつついてやった。
それからというもの、おれは彼と一緒に行動するようになった。移動教室のときも、休み時間も、彼と一緒にいると心がやすらいだ。彼もおれといるときは肩の力を抜いて話してくれていると思う。
ちかづいてみて、初めて気づくことがある。たとえば彼は意外と方向オンチで、いまだに学校の教室配置を覚えていなかったりする。女子生徒だけではなく、男子生徒からも彼は幼い子どものようによくかわいがられている(その気持ちはわかる)。彼は勉強がすきなまじめな優等生で、授業中にうまく声が出せず、先生に聞き返されることをなによりつらく感じている。それを知ってからというもの、おれはできるだけ彼の代弁者となるように、彼の声を拾い、周りのひとたちに伝えた。以前あまりに必死に彼の声に耳をすませるので、友達から過保護だとからかわれたので、それからは、彼が助けを必要としているときだけ代弁するようにしている。
彼は甘いクリームが一等好きで、男だがよくスイーツのお店を訪れるそうだ。彼と仲良くなってからは月に二度はその「お菓子めぐり」に付き合わされた。おれは甘い物が苦手だから、いつもコーヒーだけを頼んで、彼がうれしそうにケーキやらシュークリームやらショコラやらを頬張るすがたを見守っている。
「梨木くんは、どうしてたべないの?」
彼はおれがメニューを言い終えるたびにそう訊いてきた。
「もったいないよ」
「苦手なものは仕方ないだろ」
「ぼくがおいしそうに食べてるのをずうっとみつづけてたら、そのうちきっと、にがてでも食べたくなるよ」
それが、彼がおれをしきりに誘い出す理由だった。おれは早くから「甘い物は苦手」だとパスし続けていたのだが、彼は一向にきかないのだ。スイーツをたらふく食べたあとは、彼といっしょに人気のない、静かな場所にいく。
彼は基本的に、ひとの声がうるさい場所では話さない。自分の声の小ささをいつも悩んでいるからこそだろうが、彼はひとから聞き返されることを異様におそれている。だから、確実に自分の声が届く場所でないと、彼は口を開かない。学校では、休み時間になると決まって図書館などといった人気のない場所を探して居座る。
「なんだかね、うるさいところ、にがてなの」
「本はすきなのか」
おれは彼の前の席に座る。彼ははじかれたようにわらった。
「ううん、あんまりすきじゃない」
「へえ、意外」
「でも本をよんでないとおこられるから、てきとうに本をもってきてひらくの」
「読んでないのに?」
「よんでないのに」
彼は口元に手をあてて、くすくすわらった。そうしてこちらに身を乗り出して、内緒話をするようにおれの耳に口を寄せた。
「梨木くん、きをつけて。ここのせんせい、おこるととってもこわいの」
「へえ、そりゃいいこと聞いた」
おれは適当に本を引っ張り出して、彼と同じように開くだけ開いて字を読むこともせず、彼とのおしゃべりを楽しんだ。時折、先生からの視線が厳しく感じられたら、すぐに本のページをめくり、互いに顔を見合わせてわらった。
彼はとある休み時間、ノートを取り出して何かを書き込んでいた。おれはそれを後ろから覗き込んでいた。
「何書いてるんだ?」
「にっき、」
彼はこちらをふりかえって、そのノートを見せてくれた。ノートの線に行儀よく並んでいた丸々とした字は、彼らしい字だと思った。日付の欄をみると、どの日も≪n月n日≫と書かれていた。
「なんだこの≪n≫って」
おれが尋ねると、彼は恥ずかしそうに答えた。
「すうがくで、nはいろんな数になるってならったでしょ」
「ああ」
「ぼく、にっき、つづいたことないの」
彼はくすぐったそうにわらった。
「まいにち、なにかを書くっていうのが、にがて。ほんと、なつやすみの宿題とか、ほんと、つらかったんだよ。にっき、というより、なにかをつづけることがにがて。
――でも、なにか書いておきたいことってあるでしょ? 書いて、おぼえておきたいことが」
「書きたくなったときだけ書くから、日付がどんな数字が入ってもいいように≪n≫って書いているのか?」
「うん、」彼はうなずいた。「ぼくなりのこだわり」
「へえ」
「梨木くんはさ、だれかとのおもいでをおもいだすとき、記念日以外のおもいでをおもいだすとき、なにをさいしょにおもいだす?」
「最初に、って?」
「そのひとのいってくれたことば? そのひとがしてくれたこと? そのひととどこへいったか? そのひととなにをしたか? ね、どんなこと?」
「……さあ、」
「なんでもいいんだけどね、でも、きっと。みんながにっきを書くとしたらそのひとと、いつ、どこで、なにをしたかを書くとおもうんだ」
彼はそっとノートのページをなでながら、目をふせた。
「でもね。ぼくは、そのひとと、たわいのないはなしをしたことを、おぼえておきたいの。それは、いついつ、どこどこ、かんけいない。ぼくにとっては、そのひとがぼくのききとりにくい声を、きいて、はなしをしてくれたことがだいじなの」
彼はほのかに頬をあからめながら、顔をあげた。
「ぼくはね、そのひととしたはなしを、おぼえておきたい」
「へえ、いいと思うよ」
「……うん、」
すると、彼は珍しくしばらく俯いたまま、じっとしていた。おれは何かあったのかと心配しつつ彼に声を掛けると、彼は何度もうなずいて、そうして、ノートを掻き抱いて、前を向いた。もうすでにチャイムが鳴っており、教師の姿が扉の向こうにみえたからだ。
彼はチャイムの音にまぎれて、何かを言った。彼はそれがおれに届くはずないと高をくくっていたらしかったが、おれが日頃どんなに彼の声に耳を傾けているか、彼は知らなかったらしい。
涙にかすれたような、あたたかな声が、鼓膜をふるわせた。
「ぼく、せきがえしてからずっと、にっきを書きつづけてる」
了
n月n日 夢を見ていた @orangebbk
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