道化師のアリア

夢を見ていた

第1話


            ◇◆◇


 ひとりの青年が急に泣き出しました。突然のことに私は驚いて、思わずそちらを見やると、青年が体を丸めて思いを堪えるように泣いていました。あんまり激しくまるで幼子のようにせき立てて泣くので、こちらが恥ずかしくなるほどみっともなく感じられました。

 かねてから念願だったフローラ楽団の音楽会のチケットを手に入れ、意気揚々と自宅から遠く離れたこの街にはるばる足を運び、音楽会にやってきたというのに、それを邪魔されるとはなんという不幸でしょうか。私はひとしれず嘆息しました。広いホールでは目立たなくとも、隣で大声で泣かれてはさすがに気が散ってしかたありません。

 ふと視線を上げると、彼を挟んで座っている向こう側の客が、青年のことをひどく迷惑そうにみつめていました。その視線が交差すると、自然と互いの顔に苦笑いが浮かび、軽く会釈しました。こうなれば私自身が何とかするしかありません。私は仕方なく、青年の小刻みに揺れる肩を叩きました。

「ムッシュ、いかがなさいましたか?」

 彼は私の言葉に何度も頷きを返しました。けれども一向に泣き止む気配はありません。

「大丈夫ですか? ご気分がすぐれないのですか?」

 そうではないと首を振る彼は、さらに激しく泣きつづけるのでした。これでは埒があきません。かといって放っておくこともできず、何度か彼の背中をさすってやりました。

 ――確かに、この楽団の音楽はたいへん素晴らしいとは思いますけれども、それにしたってあまりにも感動しすぎではないでしょうか? そんな疑問が頭を過ぎります。

「……っ、あの、すみません。うるさくして」

青年はこみ上がってくる嗚咽を必死におさえ、ようやく私に言葉を返しました。私は一応の礼儀として彼を気遣いました。

「大丈夫ですか?」

「はい。……つい、こらえきれなくて」

「そんなにいいですか、彼女の歌は」

 青年は私の言葉を受けて、涙で濡れた顔を上げ、舞台に立つ一人の歌い手に目を向けました。そうして眩しそうに、その歌い手を黙って見つめるのです。

舞台の上に立つちいさな少女は、観客の視線を一身に浴びながら、高らかに澄んだ歌声でうたっていました。情感のこもった 温かな声色、可憐な姿。そして何よりも、人々を慈しむような優しい愛ある眼差し。

彼は静かにつぶやきました。

「おれはこの日を、決して、忘れないでしょう」

青年はかすかに微笑んで、そっと涙を流しました。その晴れ晴れとした表情に、私ははっと息を呑みました。なぜかはわかりませんが、彼がとても貴い存在のように思えたのです。その瞳にたたえられた情熱の色を目にしたからでしょうか。

舞台の上の少女が、観客一人ひとりに向けて笑顔を贈っています。その笑みはついに我々のところにもやってきました。すると歌い手は青年の方を見て、一呼吸、間を空けました。彼と彼女は短い間ではありましたが、優しく見つめ合っていました。それを見た私は、きっと二人は仲の良い知人なのだろうと合点してその場を去りましたが、後に、二人の苦難に満ちた壮絶な過去をひと伝えに聞き、そこで初めて青年の涙のわけを知ったのです。


私は、あの清らかな涙を不快に思った自分の愚かさに、ただただ恥じ入り、赤面するばかりでした。


            ◆◇◆


<百合の国>という豪華できらびやかな国に、〈ルテジエン〉という華やかな街があった。この街は、東西に流れるルローヌ川を境目に、北区と南区とで分かれており、北には広場、南には教会がそれぞれの区の中核を担っている。それらを取り囲むように劇団や楽団、サーカスや見世物小屋といった娯楽を営む団体が多く点在していた。

ルテジエンは人々に娯楽を提供することで繁栄した街である。従来ならば、それらは人間が享楽に耽ることを厭う教会などの組織によって弾圧されるものであった。が、教会を創設した この街最初の神父は風変りな人で、娯楽施設を許可するだけでなく、自ら発展へ尽力したのだった。その流れは今も受け継がれている。よってルテジエン娯楽の歴史は長く、評判の舞踊団や楽団などは 昔と劣らず高い評価を集めており、他国からの貴族や騎士などの高い身分の人間をも迎え入れるほどであり、最近では新たな劇団や新しい見世物が活発に取り入れられ、さらなる盛り上がりをみせている。


そんなルテジエンの街の夜を歩く、ひとりの道化師がいた。道化師はつい先ほどまで北区の方まで足を延ばして、自身が所属する劇団のチラシを配っていた。成果はまずまずといったところか。日はすっかり暮れてしまっている。冬の訪れを感じさせる冷たい風が、彼の体温を容赦なく奪ってゆく。道化師は足を速めて帰路を急ぐ。

すると向こうの方から、か細い声が聴こえてきた。最初は何かを囁いているように思われたが、注意して聴くとどうやら何かの歌をうたっているらしい。道化師はなんとなく興味を引かれて、歌の聞こえる方へと引き寄せられていった。彼の行く道は人の少ない路地裏であったので、すれ違う影はない。煉瓦の道を革靴で歩くため、足音はやけに大きく響いた。彼は歌い手を驚かせないように音を忍ばせ、慎重に進んでいく。

声の主はルローヌ川の橋の上に立っていた。路地に並ぶ街灯が橙色の炎で、その人影をぼんやりと照らし出している。歌声はちいさくはあったが優美なものであり、川のせせらぎと交ざり合って安らかな気持ちにさせた。道化師はしばし立ち止まって歌に耳を傾けつつ、建物の陰からうかがった。

歌い手はウェーブがかった短い金髪を耳のあたりでふくらませた、かわいらしい少女だった。歳は十五、六だろうか。街灯の光を受け、俯き加減の横顔がもの寂しげに映る。橋の真ん中で、少女はアーチ状の欄干に腕をのせて、すっかり口を閉ざして川の流れを眺めていた。そうしてふと水に映った自身の顔の上にある、白銀の満月が視界に映ったのだろう、ゆっくりと空の月を仰いだ。

「今日は満月だったんだね」

響くソプラノは、やがて吐いた息とともに消えた。白くのぼる息を目を細めて見届けてから、腕に顔をくっつけて再び川の流れに視線を戻す。

少女は寒い夜であるにも関わらず、透きとおった生地を幾重にも重ねて作られた薄いドレスの上に、適当に上着を羽織っているという出で立ちであった。急に外へ出てきたのだろう。体が弱々しくも震えている。少女のちいさな手や、形はよいが薄い唇、ちいさな耳や、低めの鼻も、――そして月の光を受けて輝くふたつの瞳も、どれもが一様に赤く染まっていた。少女は泣いていた。人通りの少ない裏路地を選んで、ひとしれず涙を零した。


少女の名はリリーといった。リリーは、この街の北区に音楽会場を構える〈フローラ楽団〉という楽団の歌い手であった。しかし実際には歌い手として舞台に上がれたことはほんの少ししかなく、主な仕事は、出奏者の世話や舞台の掃除といった雑用ばかりであった。したがって、歌の練習は雑用のわずかな合間をぬって行うしかなく、今のところはこれといった上達の兆しは見られなかった。

フローラ楽団とは、この街で非常に人気のある楽団である。団員のほとんどは女性であるという一風変わった楽団でもある。彼女らは週に一度、演奏会を開いて歌や音楽を披露してたくさんの人々を楽しませていた。人々の中にはもちろん、高貴な身分の人間も多く含まれる。そんな楽団がこの少女を入団させた理由は一抹の期待も入ってはいたが、大部分が団長の深い同情心からくるものだった。

今日もいわばその〝思いやり〟によって舞台に立たせてもらったリリーだったが、全く自分のやりたいように出来ずに立ちすくんでしまい、ついには観客から陰口を叩かれ、団員たちからの哀れみの目を避けて、ここへ逃れてきたのだった。

リリーは泣きたくなると、よく独りでここへ足を運んだ。人通りが少なく、水の流れる音が、水源豊かな愛しい故郷を思い出させてくれるからだ。

古くからの知り合いは誰もいない孤独な身の上。自分を哀れに思って支えてくれる団員もいくらかいるが、ほとんどの人間が自分を疎んでいることは嫌でもわかる。自分が決めた道だとはわかっていながらも、つらく淋しかった。

そんな風にリリーがしみじみと故郷へ思いを馳せていると、彼女の様子を窺っていた人影がついに動き出した。物思いに耽る彼女は少しも気づかない。

「今晩は、ちいさな御嬢さん」

 呼び掛けられ、少女は勢いよく顔を上げて声の主と対面する。そこで初めて人が近くにいたことを知る。同時に自分の状態を思い出して、泣き顔を必死に手で隠してみたり、声にならない声で弁解をしてみたりと、慌てふためいた。その様子は可笑しくかわいらしく、声を掛けた当人は満足げに微笑むのだった。

「だ、だれですか?」

少し落ち着いてから、リリーは尋ねた。

目の前に立つ人影は、顔のほとんどが何かで覆われていた。そこに二つの光が点っている。翡翠色の双眸がこちらを窺うように覗いていた。赤毛の髪が街灯の光に照らされる。リリーはその人をよく見るために目を凝らした。そこに浮かび上がったのは、歪みない微笑み。それも生き物としての表情ではなく、人工的なもの。それは、木でできた仮面に彫りつけられた笑顔であった。リリーは戦慄する。暗闇に浮かぶ笑みがひどく不気味であった。

人影は体つきからして男だろうか。しかし普通の男性にしてはあまりにも妙な格好をしていた。上はひし形のアクセサリのついたシルクハットに、生地の良さそうな分厚い上着、先の尖った革靴。上着のボタンは首元までしっかりと留められている。手には細身のステッキを持っており、彼の演じる役の雰囲気を見事に作り上げていた。

 彼は仮面を指差しながら、リリーに話しかけた。

「こんな姿だから驚かせてしまったかな。どうか警戒しないで、ぼくはここからずっと南に行ったところにある〈アルテ劇団〉という劇団に所属している道化師アルルカンっていうんだ。最近この街へ越してきたんだ。ここを拠点にしてぼくらの劇を披露していくつもりなんだ。以後よしなに」

そう言ってアルルカンは優雅に一礼し、リリーのすっかり赤くなった手を取り、挨拶のキスを落とした。

「道化って……ピエロやクラウンのこと?」

 これに対し、アルルカンは少しうなってから、すぐさま舌を動かした。彼の芝居のはじまりである。

「いやあ、厳密には違うんだよね。ぼくらの劇団にはたくさんの道化役がいて、その中にぼくことアルルカンやきみの言うピエロがいる。クラウンはサーカスにいる道化役さ。いる場所によって名前が少し変わってくるんだ。東洋ではピエロの名称が一般的かな? まあ、きみの好きなように呼んでおくれよ」

そうして彼はリリーの方をみつめた。

「きみの名前は?」

「え、あ、えっと、リリー=マリアーヌっていいます」

「リリー、か。それはぼくの国では、それは百合の花を意味する言葉なんだよ。そういえば、百合はこの国の国花だったね。素敵な名だ。大切にすべきだよ」

「……ありがとうございます。そんなの、初めて言われました――」

 照れた様子の彼女に道化師はごく自然に詰め寄った。

「ほんとう?」

あまりの自然な動きに、リリーは身を強張らせることもなく自らも自然に受け入れて、それどころか彼に対する警戒心もいつの間にか消えてなくなり、すっかり打ち解けた様子で道化師に話しかけた。これはひとえに彼のなせる業といっても過言ではない。リリーはくすぐったそうに笑う。

「ほんとうよ。だから、すごくうれしい」

 素直に喜ぶリリーに、道化師は目の奥で微笑んでから、自身の上着を脱いで、そっと彼女の肩へと掛けた。リリーは大丈夫だと一度は断ったものの、男からの好意は素直に受け取るものだと諭され、申し訳無さそうに、しかし男性からの思いやりを受けたのは初めてのことだったので、嬉々の色を覗かせながら受け入れた。

「こんなところで何をしていたんだい?」

 何気ない質問に、リリーは途端に元気を失ったように俯いてしまった。

「……泣いていたのよ」

「へえ、それはどうして?」

「別に、なんでもないの」

 そうは言うけれど、今までの悲しみを思い出した瑠璃色の双眸に、またも涙が浮かんできた。彼女は健気にも笑ってごまかそうとするがうまくゆかない。必死に堪えようと唇を噛み締めてやり過ごそうとするが、雫が零れ落ちるのも時間の問題であった。ついには体を震わせ、泣きだしてしまった。

アルルカンは慌ててリリーの隣に寄り添い、お得意のパントマイムや面白可笑しい動きをして、懸命に彼女の笑顔を取り戻そうとした。それを見てリリーはなんとか涙を抑えたいと思うけれども、彼の優しさに触れてさらなる涙があふれてくるのだった。初めは彼女を笑わせようとしていた彼だったが、

「ああ、可哀想なリリー。ぼくのことは気にせず、気の済むまでお泣きよ」

 と囁いて、彼もいっしょになって泣き出しそうな声を出した。リリーはたまらなくなってまた泣いた。声も上げることなく、ただ静かに涙を流した。

 ――そもそも、何故リリーがこの街に来たのかと問われれば、それはひとえに彼女の夢のためだと、答えるべきであろう。

 彼女の生まれは、ここからずっと西へ行ったところにある豊かな自然に囲まれた村にあった。家は牧羊を営んでおり、父と母と、下に妹がひとりいた。リリーという名は母がつけてくれた。道化師が言った百合の花という意味ではなく、口にした時の音が綺麗だからという理由であった。初めて夫婦の間にできた子であったから、両親に時には優しく、時にはきびしく叱られながらこれといった病気もなく元気に育っていった。

リリーには祖母がいた。母方の家系の人で、リリーはとにかく祖母が大好きであった。しかし祖母はリリーが生まれた時には既に足が弱くて、あまり遠くに外出できなかった。外に出られない代わりに、ふたりは読書や編み物、絵や音楽といった遊びで楽しんだ。幼いリリーは祖母のために、自分が外で編んできた花冠を渡したり、お菓子を作ったりして祖母を喜ばせようとした。

中でも祖母が喜んだのは、リリーの歌を聴くことだった。歌は、祖母自らが教えてくれた。彼女にとっては歌は遊びのひとつでしかなかったが、祖母が花冠やお菓子やきれいな石や本の朗読といったものよりも何よりも、この贈り物を喜ぶので、気づけば自分も歌をうたうことが大好きになり、色々な歌を口ずさんでは祖母に披露するのであった。

祖母は熱のこもった調子で繰り返し言い続けた。あなたの歌をもっと多くの人に聴いてもらうべきだと。あなたの歌は、あなたの優しさを受けて、人々の心を癒やしてくれるのだからと。彼女としても歌うことは楽しかったので、祖母の強い言葉もあり、歌を歌うということが自然と彼女の夢へと変わっていったのだった。

リリーが十二になる頃、祖母は安らかに息を引きとった。そうして彼女は決意を新たに、自らの夢を叶えることを誓ったのだ。

そして翌年、評判の高いフローラ楽団の噂を耳にし、両親にそこへ行きたいと頼み込んだ。両親は祖母の遺した言葉通りに彼女が望むように手配してやり、愛する娘をひとり、異国へと送り届けたのだった。


 ……ふとリリーが隣にいる道化師に目をやると、心配してくれる瞳の奥にどこか不満げな色が隠れているのに気が付いた。そこで初めてリリーは、親切にしてくれた彼に対してまともに説明さえしていなかったことを知り、慌てて自分の身の上を簡単に伝えた。

「わたしはここからずっと西の方にある、ちいさな田舎村からやってきたのよ。この街にある楽団に憧れて、歌い手になりたいという夢を叶えるために。……でもね、うまくいかないの。憧れや夢だけじゃ、やっていけないんだって、団長にいつもどやされてるの。……あ、団長はとってもやさしい人なのよ。わたしを思って叱ってくれて……でもうまくできなくて、それがなんだか情けなくって」

 そう言ってから、乾いた笑い声を無理に作った。そうして川の流れに目を向ける。隣にいる彼の反応を見たくなかった。憐みであろうと、蔑みであろうと、そんなもの、見たくなかった。自分を案じてくれた彼に気まずい思いをさせてしまったことに、口惜しさを感じた。

「――それでも、楽団に入ることだけでも大変だったろう」

 道化師は静かに呟いた。まっすぐ川を眺めたままリリーは答えた。

「どうかな。毎日必死だったからわかんないよ」


楽団をいきなり訪ねても、勿論すぐに雇ってもらえるということはなかった。『うちにはもう、歌い手は間に合っているから』と断られたのだ。

それでもリリーは諦めなかった。むしろ当然の結果だと思い、街へ着いてからは日々のほとんどを、街の広場で歌をうたって過ごしていた。人々に自分の歌を知ってもらい、自身の評判を高めて、すこしでも好い噂が流れたなら、きっと楽長も考えてくれるだろうと思ったのだった。――当然、そう簡単にはいかなかった。うたう度に彼女は野次の嵐を受け、ゴミを幾度も投げつけられ、唾をかけられそうになったり、手を上げられそうになったりと、厳しく辛い環境にあった。また、日が経つにつれて親から貰った金も残り少なくなってきて歌ばかりに時間を費やすわけにはいかず、人の好い店主に拾ってもらい、酒場で住み込みで働くことになった。そこでの仕事は大変だった。それでも、彼女は何とか時間を作って歌をうたい続けた。

そんな彼女の健気な頑張りに、ついには心動かされた団長は、彼女を歌い手見習いの雑用係として入団させることにしたのだった。


「やさしくしてくれて、ありがとう」

零れる涙を拭いて、リリーは笑った。これは、もう大丈夫だから帰っていいよと暗に示された言葉だった。その意図を知ってか知らずか、道化師はそれに対して何も答えずに、こう切り出した。

「きみの歌を聴かせてよ」

「え?」

 アルルカンはやや前に屈んで、彼女と目線の高さを合わせた。

「実はさっき、そこに隠れてきみの歌を聴かせてもらってたんだよ。よかったよ。憧れや夢だけじゃうまくいかないって諦めちゃうの、すごくもったいない」

「……でも、」

「きみの歌はさ、おそらくきっと、何かの思いがこめられた歌なんだろう。愛しい誰かに向けての、歌なんだろう。じゃあ今は、その誰かの代わりにぼくが。ぼくがきみの歌を聴くから、どうか歌ってよ、歌姫さん」

 リリーはしばらく呆然としていた。が、その言葉の温かさが心の中へと沁みこむと同時に熱い涙が頬を伝い、ちいさな両手をぎゅっと握りしめた。胸がいっぱいで、目前にいる彼になんと感謝を伝えればいいのかわからなかった。

「泣いてばかりだね」

 アルルカンはからかうように言った。彼女はふくれてつぶやいた。

「好きなだけ泣いていいって言ったじゃない」

アルルカンは背筋を伸ばし、胸を張って自分のこぶしでぽん、と叩いた。

「そうともリリー、たくさんお泣きよ。そうして笑ってくれたら、ぼくはうれしい」

「――ありがとう、やさしい道化師さん」

 リリーは歌った。音を奏でる楽器も無い中で、旋律は外れることもなく、心を包み込むように流れていった。あたたかく、やさしい声色。気づけば吹く風の冷たさも感じなくなっており、まるで辺り一帯のみは春が訪れたかのように感じられ、リリーは少し可笑しくなった。今はもう少しも寒くない。

 歌が終わり、アルルカンはひとしきり拍手を贈ってから、

「じゃあ。次は僕の番だよ、リリー」

と不思議そうにするリリーの手を取った。早足に橋を渡って、その向こう側にあった古びた建物の階段にむかった。アルルカンはその階段の上に一枚ハンカチを恭しく敷き、そこにリリーを座らせた。準備完了と言いたげに軽く息を吐いてから、本日のギャラリーを確認する。そこには涙で目を腫らしたひとりの少女一人。ふわふわの金の髪が、月光に照らされきらきらと輝いている。そのまばゆさに彼はわずかに目を細める。

アルルカンは一歩下がって、片手を背中の方へ美しく仕舞い込み、優雅に一礼をしてみせた。そして、快いテノールの声で流暢に話し始めた。

「リリー嬢、あなたを、今夜のお客様としてお招きします。どうか、今夜限りの余興を、お楽しみあれ」

それを合図に、彼は持っていたステッキを、無駄の無い動きで真上に放り投げた。するとそれが一瞬のうちに小さな花束に変化して手元に戻ってきた。リリーは驚きのあまり声が出せずにいた。この時生まれて初めて手品というものを見たのだ。彼は花束を手に、まさに道化師らしく大仰な足取りで、リリーに近寄って騎士気取りで跪き、ちいさな姫君に贈った。

呆気に取られるリリーに、アルルカンは微笑んでみせる。

「……すごい、あなた、もしかして魔法使い?」

「かもしれないね」

花束の手品の他にも、服の中に忍ばせていたボールをいくつも取り出しては空に投げて見事なジャグリングを披露したり、先が鋭く尖った剣をいくつも用意して、それらを起用にくるくると回してみたり、逆立ちしたまま歩き回ってみたりと、彼はたくさんの芸を彼女の前で披露した。

リリーは、それらの芸が成功した場合には、体全体で「すごい!」と叫んでとびきりの拍手を送り、失敗した場合には、声を上げて笑い転げた。彼女は最初、彼の故意の失敗をあろうことか、怪我していないだろうかと心配して駆け寄ってきたのだ。が、よくよく見ると彼の動作一つひとつが過分に可笑しさを含んでいたのだ。それに気づくと、思わず忍び笑いが漏れた。そこを道化師は見逃すはずもない。彼はさらに笑いを誘うような動きをする。リリーは可笑しさを堪えようとしても、よけいに可笑しくなってたまらず吹き出すと、アルルカンは待ってましたとばかりに芸を展開し彼女を楽しませた。彼は素晴らしい道化師だった。そんな彼にリリーはすっかり魅了されていった。

 そんな夢のようなひとときからリリーを目醒めさせたのは、深夜を告げる教会の鐘の音だった。リリーは一瞬呆気に取られるが、頭が冴えるなりすぐさま立ち上がった。肩に掛けていた上着が滑り落ちるのをなんとか受け止めて、彼に感謝の言葉を短く告げながらそれを渡し、そのまま駆け出そうとして、

「どこへ行くんだい?」

 というアルルカンの声に呼び止められた。リリーは焦る気持ちはそのままに、足踏みしながら叫ぶ。

「帰らなくちゃ! こんなに遅くまで外にいるつもりはなかったから、早く帰らないとフローラ団長に叱られちゃう……!」

「お。さながら童話に出てくるお姫様じゃないか。深夜の鐘が鳴るまでに帰らないと魔法が解けてしまうんだったっけ。うんそれならば、それならば。別れる前に貴女への手がかりをひとつ、ガラスの靴の代わりに手渡しておきましょう」

 そう言って流れるような手つきで、彼女が抱える花束から一つ 花を抜き取り、茎に触れてから指を鳴らした。すると一瞬のうちに、一輪の花が一枚の紙切れに変わっていた。目を丸める彼女に目を細めて、貴族のような優美な仕草でその紙を渡した。それには『アルテ劇団・チケット』とあった。アルルカンは笑う。

「僕の本来の居場所は、劇場の中なんだよ。ここで見せたこと以上の楽しみや可笑しさがあるのさ。ね、是非ともきみに見に来てほしいんだ」

手を差し伸べられ、反射的にその手を取ろうとしたが、リリーははっと自分の立場を思い出し、急いでその手を引っ込めた。

「行きたいけど――でも、お金がいるでしょう。わたし下働きだから、その、あんまりお金は、もってなくて」

と俯き加減に呟くと、彼はゆっくりと首を振った。

「大丈夫さリリー、きみはとっても幸運だ――。実はね、近々、我々アルテ劇団のルテジエンへのお引っ越しを記念して、子どもたち限定に無料でチケットを配布しているんだ。ちょっとした寸劇を行う予定だけど、でも寸劇だからって絶対に退屈させない。少しでもいい、見に来てほしいんだ。他でもないきみに」

そう頼まれては断ることなど彼女にできるはずもなかった。アルルカンは満足そうに微笑んだ。

 名残惜しくも別れを告げ、リリーは楽団の宿舎へと急ぐ。その途中に思わずといった風に彼女は足を止めて振り返った。橋の上にはまだアルルカンがいた。立ち止まったリリーに気づいて大きく手を振ってくれた。彼女も大きく手を振り返す。そして溢れんばかりの喜びに、弾かれたように駆け出した。


            ◆◇◆


 帰ってきたアルルカンに、同じアルテ劇団の団員らの質問が矢継ぎ早に飛んできた。今まで何してたんだ。えらく遅かったじゃない。今まで真面目にビラ配りしてたってまさか、そんなことないだろ? ね、あんたのことだからどうせ、適当な場所でズルして休んでたんでしょう?

その中でも低く野太い声が響いた。

「ずいぶん遅かったじゃないか。ご苦労様ってところか?」

 その声の主である太鼓腹の男は、酒がなみなみ注がれたコップを片手に、彼に話しかけた。アルルカンは肩をすくめて「疲れてるんだ。きみが客を取れないせいでしわ寄せがぼくにくるからね」と嫌味っぽく返した。

 アルルカンが部屋へ下がろうとした時、

「こんな遅くまでお仕事なんて君にしては珍しいじゃないか。気になる。ね、

理由を教えてよ」

 目の前にひとりの青年が立った。歳は道化師と同じ十八歳くらいだろう。アルルカンはひどく億劫そうに青年を見た。

「エヴァンズか」

「ちょっと、その呼び方嫌だっていつも言ってるでしょ――ってまあ、今はいっか。どうしてこんなに遅くなったの、アルルカンさん?」

 道化師は沈黙して、無理やりにでも進もうとした。だが、穏和そうな青年がにこやかにその進路を遮っている。眉を顰めるアルルカンに青年は言う。

「質問に答えたら通してあげる」

「……残業だよ。ただの残業」道化師は面倒だといわんばかりに答える。「女の子が一人で泣いてたから、慰めてたんだ。それに時間くっただけさ」

「へえ? 君が誰かを泣き止ませるのに時間がかかるとはね。意外だな、いつもの君ならどんな子でも一瞬で笑顔にしてみせるのに」

「別にいいだろ」

「ふうん?」

「早く退いておくれ、ぼくは寒いんだ。このままでは風邪をひいて、稼ぎ頭が不在になるぞ? いいのか? 商売あがったりだぞ?」

 そう詰め寄られ、青年は素早く身を避けた。彼はすぐさま奥へと引っ込む。

「アーサー、早く仮面取りなよ」

 先を行く足が止まった。声が、刹那にして、凍てついてしまったかのように冷えた。

「――仮面を付けてる時は、その名で呼ぶなって言ってるだろ」

「はいはい」

 青年は立ち去る彼を見送った。そして嘆息する。

「僕の要求は認められないのに、アーサーの方は認めなくちゃいけないって、とっても理不尽だと思わない?」

 太鼓腹の男が大口を開けて笑い出した。

「ばかだなあ、ルイ。あいつの機嫌が悪い時に絡むからさ」


            ◆◇◆


アルルカンと夢のような夜のひとときを過ごしたあと、リリーに好意的である数少ない楽員たちがすぐさま彼女を取り囲んで問い質した。幸運にも、フローラ楽長はどこかへ出掛けているらしかった。

今まで何してたの? 急に飛び出すからびっくりしたのよ。ずっと落ち着きないわね? 何かいいことでもあった?

それらの質問にただ一言。リリーは高らかに宣言した。

「わたし、劇を見に行くのよ!」

 そして飛び切りの笑顔を咲かせた。

「とある人から、チケットを貰ったの。わたし今から楽しみで待ちきれないのよ……とっても素敵な劇なのよ、見なくたってわかるわ、だって素晴らしいあの人が出るんですもの。素晴らしいに決まってるわ……」

フローラ楽団に所属する者たちは、楽長の意向でほとんどが女であった。楽長によると、単純に娘が欲しかったからという理由らしいが、実際のところ詳しいことは伝えられていない。ただ、楽長の過去が深く関係しているということだけは知られていた。また、フローラ楽団多くはこの街に住んでいるので、夜になると皆、それぞれ自分の家に帰っていく。しかしリリーを含めた何人かの団員たちは、身ひとつでルテジエンにやって来ている。そんな彼女らのために楽長が、友人に頼んで用意してもらった宿舎があった。そこを使わせてもらって、彼女らは家事などの仕事を分担しながら生活していた。リリーはその中でも一番年下であったので、彼女と仲良しの団員たちからは、妹のように可愛がられていた。

ベッドに腰かけて熱のこもった瞳でチケットを見つめ続けるリリーに、姉代わりである女たちが近づき、何があったのか、特に誰と会ったのかと諦めずにくりかえし尋ねてくる。彼女らにはもうリリーが〝素晴らしい殿方〟と出会ったのが、女の勘ですぐにわかったらしい。甲高い声で辺りが騒がしくなる。

その中でもアニスとエウリカという、リリーと特に親しい二人がじゃれるように身体を密着させて尋ねてきた。

「ねぇそれ、実は誰か素敵な男性から貰ったんじゃなくって? じゃないとこんなに大はしゃぎするはずないもの。図星でしょう、リリー?」

「私もそう思う! さあリリー、隠してないで白状なさい。姉様たちには全てお見通しよ。一体、どんな方から頂いたの?」

 じわじわ伸びてくる二人の魔の手から逃れようとベッドを飛び降りるリリーだったが、周りは敵だらけ、逃げ道はない。ただなんとなくあの夜のことは自分と彼だけの秘密にしておきたかったのだ。だが、あっけなく捕まり、結局すべてを白状する羽目になった。しかし彼の容姿や所属する劇団の名前をテコでも話さなかったことは、せめてもの抵抗といったところだろうか。


            ◆◇◆


 リリーは寸劇を見るこの日の為に、溜まっていた仕事をすべて、完璧に片付けてこの場所へやって来た。辺りは最近引っ越してきた劇団であり、なおかつ子供の料金は無料ということもあって大いに混雑し、騒然としていた。

アルテ劇団の劇場はドーム型の建物で、やや小さめであったが、繁盛していけば後々面積を増やしていこうという考えなのだろう。劇場の周りは色あざやかな花やリボン、バルーンなどの飾りでうめ尽くされており、華やかな劇団として人々の印象に残した。

高鳴る胸に手をあて深く深呼吸してから、リリーはゆっくりと人だかりの中に入っていく。そこからは人の流れに身を任せ、少しずつ劇場の方へと進んでいった。扉の前では仮面を被った団員が、チケットの受け取りを行っている。ようやく自分の順番になって、団員におずおずとチケットを渡すと、それは無造作に箱の中へ回収されそうになって――咄嗟にリリーはその紙を譲ってくれと声を上げた。団員から怪訝そうな表情をされたが、リリーは気にしなかった。

(一生の宝物にしよう)

胸に抱きながら、リリーは思った。

 中に入ると、奥にある舞台を中心に円を描くように観客席が設けられていた。すり鉢状になっているので、席は舞台をちょうど真上から覗き込めるようになっており、これによりどの席からでも十分演劇を楽しめるようになっていた。席はみるみる埋まっていく。

 現在、舞台は分厚いカーテンによって仕切られているが、向こうの方でおそらく団員たちが忙しなく動いているのだろう、朱の布が気紛れに翻る。

 辺りは常にざわめき、人々の興奮が辺りへ次々に伝播しているのを直に肌で感じた。リリーもそわそわと指定された席に行き、腰を下ろしたもののしきりにたたずまいを直し、落ち着かない様子だ。劇場に足を運ぶのはおろか、何かの見せ物のチケットを得たことさえ初めてだった。期待と緊張で胸が高鳴る。リリーは視線を忙しなく動かした。隣の席には、彼女よりも小さい子供たちが楽しそうに話をしている。ふとその会話に惹かれて耳を立てていると、そのうちの一人がじっとこちらを見つめているのに気づいた。

「おねいさん、初めましての人?」

 無邪気に尋ねられ、リリーは戸惑いながらも頷く。「え、ええ」

「へー、そうなの。ま、どうでもいいけどね」

 訊いておいて何だといわんばかりの態度に、リリーは少なからずむっとする。何か言おうとして、ふと彼らの身なりに注目する。こまかな宝石のうめこまれた、きらきら輝く美麗な服にふくよかな体型、これは金に不自由しない家庭の子でなくてはなれない姿だ。きれいな服においしい食事、そして人生を豊かにする娯楽。きっと彼らはこの劇団以外にも、ありとあらゆる娯楽をめいっぱいに楽しんで満ち足りた生活を送っているのだろう。それを思うと、いささか――いや、かなり羨ましかった。そんな彼らを恨みがましくみつめていると、子供たちが大声で騒ぎ出した。リリーは一瞬ぎょっとしたが、彼らはリリーの恨みのこもった視線に立腹したわけではなかった。

「おねいさんはきっと初めて来たばかりでよくわかんないから、ぼくたちが説明してあげよっか!」

 突然の申し出に思わず苦笑するが、そういえば自分は物語や登場人物さえも知らなかったことを思い出し、せっかくだからと彼らの言葉に甘えることにした。

「初めてだもんね、ちゃんと分かってないと楽しめないしね、任せてよ! ぼくら、アルテ劇団が違う国にいた時から通ってたからよく知ってるんだ!」「うまく説明できるかなあ」「――え、なになに、何があったの?」「このひとにアルテ劇を教えてあげるのさ」「じゃあまずはキャラクターから説明しないとね!」

素早く飛び交う会話についていけない彼女をほうって、彼らは思い思いに話し始めた。

「今日の話は『女神の像』ってお話だよ」「ステファノっていう教会にいる男の人――何だっけ?」「司祭さん」「そうそう、その司祭さんが出て来て女神像に悩みをいう」「パンタローネっていう、悪者がいるんだ。金持ちの商人で、髭が生えた仮面を被ってる。そいつがステファノを騙す。あ、でもその前にはさ――!」「あのね、コロンビーヌって女のひともいるんだよ! すっごく美人できれいなひと

!」「ばか、今日は出て来ないだろ」「いや、ちょっとだけ出るよ、ほら、最後の方で」「あ! ネタばらしだ!」「あっ」

各々盛り上がる子供たち。リリーは必死に理解しようと頭を働かせるけれどあまりの会話の早さに追いつけず、ましてや子供同士の会話なので常に話題が転換し、大きく脱線するので説明といえるものではない。ついにはどの登場人物が一番好きかに論点が移ってしまった。

――その時。

ブオゥ、と低いラッパの音がした。リリーははっとして音の方に顔を向ける。開幕の合図だと子供たちがざわめく。舞台の幕が徐々に上がっていく。するとちいさな子供たちだけでなく周りの多くの観客達が、一斉に割れんばかりの拍手と歓声を上げた。リリーも一緒になって手を叩く。あふれんばかりの期待に胸は張り裂けそうだった。


幕が完全に上がった。

広い舞台の上には、羽根の生えた女神像が置いてあった。これが、今回の劇の鍵になるのだろうか。すると像の方へ向かって司祭の格好をした一人の男性が歩いていった。その様子は深く何かを悩んでいるようで、「ああでもない。こうでもない」としきりに独りごちている。

「あれがステファノだよ」

子供の一人が耳元で囁いた。

「うん、わかる」

リリーは大きく頷いてみせた。


ステファノの独白から物語は始まった。

「――ああ、神よ。天に召します我等が神よ。この世はとかく難しく、わからないことが多すぎる。正しい道にいざ進もうとしても、道を違わせようと悪がはびこる世界。惑わされまいと思っても、悪は時に大義名分を得て、自らを正義と主張する。正しいと思うものが、実は不正。真理だと思ったものが、実は虚偽の塊に過ぎなかったりする。ああ、どうかひとつ、明白な揺るがぬ真理を示して頂けたら、どんなにか、どんなにか心が安らぐでしょうか。それが得られれば私は、迷うことなく貴方様を信じ、命を賭してでもその道をゆこうとそう思いますものを……」

そしてふらふらと覚束ない足取りで女神像の前で跪き、祈る。

「どうか私めに揺るがぬ道をお示しください」

そこで、新たな役者が物語の中へと入ってくる。

「……おや、なんと。素晴らしく良い事を聞いた!」

ステファノの言葉をよく聞こうと耳に手をあて、ぐっと前屈みになってしきりに頷き、わざとらしくこちらにウィンクを寄越す道化役。リリーは彼を知っている。彼から自分の姿は見えているだろうか。リリーは息を大きく吸って彼の名を呼ぼうとした、まさにその瞬間だった。

「アルルカンだっ!」

それこそ最初の割れんばかりの歓声と同じくらい、いやそれ以上の音量で場内が大いに沸いた。きっとこの劇を観ている客らはアルテ劇団を古くから知っている者たちばかりなのだ。リリーは出後れてしまったように感じ、開きかけていた口をそろそろと閉じた。そして力無く俯いた。膝の上においた手を強く握る。――わたしだけの道化師ではなかったのだ。あたりまえのことなのに、とんだ誤解だ。彼が掛けてくれた言葉はすべてあくまで〝道化師〟としての言葉だったのに、それをばかみたいに勘違いして、ひとり喜んで、ひとり悲しんで。

(ばかだ、わたし)

途端に彼が遥か遠い存在に思えた。

隣の子供たちが興奮気味に「あれがアルルカンなんだよ! すっげえ面白いの!」「たまに格好いいんだ! でもいっつもドジを踏んじゃうんだ」「この劇団一の人気者なんだよ!」と盛んに騒ぐのに、今度は顔を火照らせてちいさく頷いた。自分の身の程知らずさにたまらなく恥ずかしくなった。勘違いも甚だしい。彼にとってわたしは、どこにでもいる客の一人だったのだ。「どうかした? おねいさん」

「……ううん、なんでもないよ」

今すぐにここから逃げ出したく思った。でもせっかく彼が招待してくれたのだ。せめて最後まではと思い直してぐっと前を向いた。


 舞台の上で道化役のアルルカンは、悪知恵を働かせてステファノが語りかける〝神〟おとやらになりきることにしたところだった。つまり女神像の後ろに隠れて、ステファノに〝神のお告げ〟を行う。しかしそのお告げは、すべてアルルカンの欲望を満たすためのものだ。美味しい食べ物や高級の服や宝石、最終的には金そのものを要求する。それを神の言葉だとすっかり信じ込んでしまったステファノは、疑いもせずにアルルカンが望んだものをすぐさま用意するのだった。

 女神像に語りかけているので、必然的にアルルカンは女性を演じなくてはならず、彼の最も高い声でもって応えた。その妙に甲高い声がまた可笑しくて、劇場は大きな笑いのうずに包まれた。

「こりゃあいい!」

 アルルカンはすっかり有頂天になって、帰路へと急ぐ。が、途中でパンタローネという、金儲けに目のない老商人と出会う。彼の両手いっぱいに抱えた金貨を見て、それをどこで手に入れたのかをしつこく問い詰めてくる。興奮し口調が荒くなるパンタローネも意に介さず、アルルカンは飄々とその場を後にしようとするが、何か思いついたらしく、態度を一変させて懇切丁寧にその金儲けの仕掛けを教えてやった。それを知ったパンタローネは疑う素振りも見せずに早速実行しようとするが、それを押し留めて少し時間を置くよう指示し、アルルカンは狙われた司祭のもとへと急いだのだ。アルルカンは善人を演じ、ステファノに告げる。

「司祭さん司祭さん、お気を付けなさい。貴方の金をパンタローネが狙っております」

「なんですって?」

アルルカンから話を聞いて驚くステファノだったが、彼は持ち前の悪知恵をもってして、パンタローネを罠に嵌めようとするのだった。

「すべてはぼくに任せなさい。ぼくがきっと、好いようにしてあげよう。貴方は、パンタローネの言うことを従順に聞いてあげる振りをするんだ。いいね?」

 場面は変わり、再びパンタローネのもとへ戻ってきて、告げる。

「きみはまず、司祭に大きな箱を用意させるんだ。とっても大きな箱だよ? そうだな鍵つきのがいいね。とびきり頑丈のやつだ――。それから中身が空か、きみがちゃぁんと確認してから、金を入れさせるんだ。いいね?」

 二人はそれぞれアルルカンの指示通りに動いた。女神像の前には大きな箱が用意される。ステファノに席を外すようパンタローネは命じて、ひとりになってから箱の中に入った金を確認するために、ぐっと身を乗り出し覗き込んだ。これももちろん、アルルカンの策略である。金に夢中になったパンタローネは忍び寄る人物に気づかない。そんな彼の後ろ、物陰に隠れていたアルルカンが登場する。それを見た観客は、次の行動が予測できたのだろう、各々にその場に立つキャラクターに向かって言葉を投げ掛けては笑い転げている。役者たちはそれらの声に対して不思議そうに首を傾げたり、静かにしろと口に指をあててみたり振る舞って即興的に応える。

 そうしてアルルカンは、パンタローネの広い背中を思い切り押してやった。パンタローネは悲鳴を上げながら箱の中へ飛び込む形となり、最後にアルルカンとステファノは二人がかりで蓋を閉め、鍵を掛けて閉じ込めた。アルルカンはステファノから今まで以上に高額なお礼の金を受け取り、話は完結した。


幕が下りていく間も下りてからも、人々は興奮冷めやらぬようで、拍手に負けない笑い声が辺りに響いておさまる気配がない。リリーは笑いすぎて浮かんだ涙を拭いながらも、皆にこれ以上ない楽しさを与えてくれた劇団に惜しみない拍手を贈った。

「楽しかったね! おねいさん、また来る?」

「――ええ、ぜひまたね」

「じゃあ、今度もいろいろ教えてあげるよ!」

 そう言って帰ってゆく子供たちに手を振って、もう一度だけ劇場を見渡してからその場をあとにした。もう、ここへ来ることはないだろう。

外では先ほどまで舞台に立っていた役者たちが見送りに出てくれていた。リリーは役者一人ひとりに、丁寧にお辞儀をしながら前へと進んでいく。

「あっ」

視界に探していた道化師の姿が映った。リリーは彼に、今日の感想を少しでも伝えたくて急いで彼のもとへと駆け出した。けれども彼の周りには既に多くの人が集まっており、一種の壁のようなものをを作り出していた。それも、彼を取り囲んでいるのは美麗な服に身を包んだ女性たちばかりであった。リリーは自身の粗末な服と女性とを見比べて、改めて自分の立場を知った。――身分違い。場違い。勘違い。自分がひどくみじめになって、たまらず逃げ出した。女性の対応に追われる道化師の横をリリーは駆け抜けた。

あとから振り向いたところでもう遅い、あわれな少女の姿はすでに人混みに紛れてしまった後だった。


            ◆◇◆


 急な雨が降ってきた。近頃は快い晴れ模様が続いていたというのに。外では人々が大慌てで雨宿りできる場所を探しているらしい。人々が騒ぐ声をリリーは宿舎のベッドの中で聞くでもなく聞いた。

人の声にまざって激しく地面を叩きつける雨音が聞こえてくる。何故今日なんだろうと思った。でも、降るならば、もっと激しく降ってくれたらいいと思った。この気持ちを洗い流してくれるほどに、強く降ればいい。そうだ、いっそのこと雨に打たれてしまうのもいいかもしれない。彼女は自棄になっていた。 リリーはずるずると起き上がって宿舎を出た。雨は、もう止んでしまっていた。にわか雨だったのか。どうしよう。――この時間帯に宿舎にいると、演奏会を終えて帰ってくる楽員たちを出迎えることになる。そうなれば彼女らに以前のようにたちまち取り囲まれて、劇の感想や彼のことについて質問攻めにされてしまうだろう。それに対し返答することを考えると、たまらなく嫌になって彼女らと万が一にも出くわさないように裏口からこっそりと逃げ出した。

気づけば自然に、リリーは例の橋のところへと足を向けていた。雨が降ったせいで、辺りはぐっと冷え込んでいた。夕暮れ時。辺りは冬という季節柄もあり、既にうす暗く、いつも通り橋の周りに人はいない。川を眺めたいのならば、こんな路地裏までやってこなくとも、馬車が行き交う大通りの橋から眺めれば良い。そちらの方がよほど景色が美しいのだ。

 リリーは、川に架かるアーチ状の橋に立つ。

(わたしはずっと逃げてばかりだ。何もかも)

 川は先程までのにわか雨のせいで水の量が増していて、激しく波立ち 泡立ちながらも、うねるように下流へ進んでいった。時折、真上に跳ねた水が飛沫をあげた。そうかと思うと今度は深くふかく川底に潜って姿を消した。ごうごうと不気味なまでの激しい音が鼓膜に響く。水の色は土砂を含んですっかり濁っているだろうが、夕暮れから夜へと変わる空の下でははっきりと目にすることができない。手を伸ばせば、触れられるだろうか。汚れた水が、今の彼女にとっては我が身を表すようであった。怖いものから逃げようとする、臆病で卑怯な自分。少し、身を乗り出してみる。ほんの気紛れである。

 にわか雨が呼んだ風は、身を切るように寒く、痛みさえ感じる。あの夜の反省から外出する前にたくさん服を着込んできたのに、何故だか以前よりずっと夜風が冷たく感じられた。

――彼が逢いに来てくれるかも、という淡い期待が無かったといえば嘘になる。けれども、それを望むのはあまりにも都合が良すぎるのではないのか、現に自分は彼から逃げたのだ。会わせる顔などもう、とうになくしているのだ。

それなのに。


「あまり身体を出しては危ないですよ、御嬢さん」

 

 リリーは声の方を振り返る。そこには誰よりも逢いたかった彼がいた。心は一瞬にして安堵に似た歓喜に満たされる。けれどもそれをすぐに打ち消す。あまりにも身勝手な話すぎる。彼と会ってすぐに態度を一変させた自分を心の中で責めた。

すると急に、アルルカンは今まで伸びていた背筋をくたくたに曲げて、身体を折るようにしてからだ全体で項垂れて、ひどく落ち込んだ調子で彼女に話しかけた。

「すぐに帰ってしまったからお気に召さなかったのかと思いましたよ」

「そんなことないっ!」

 リリーは今日見た劇が、たとえようもなく素晴らしいものであったことを、拙いながらも一生懸命に伝えようとした。だが、この感動をすべて自身の言葉で言い表すことは到底不可能だと悟ったのか、リリーは途中で歯がゆそうに口を閉ざし、そうして溜息をついた。

「すばらしかったわ……とっても、とってもね。でもわたしには、劇場に足繁く通えるだけのお金がないもの――あの人たちみたいにあなたと一緒にはいられないわ」

「あの人たち?」

「……だから、わたしは貴方を裕福にさせてあげられるだけの金持ちではないということよ。あなたはあなたをご贔屓してくれる、裕福で立派で素敵なお客さまを探しなさってくださいな」

するとアルルカンは理解できないと幼い子供が駄々をこねるように頭を抱えて叫んだ。

「あんまりだ! やっと出逢えたばかりなのに、ぼくはこの出会いを大切にしようとしているのに、もうどこかへ行けと言うのか。なんてなんてつれない人だろう!」

 そうしてアルルカンは肩をすくめてリリーを横目で一瞥する。そこには彼女を責めるような色があった。

「ぼくはお金目当てにきみに近づいたわけではないさ。何故そんなにひねくれて考えるの。百合の花は、純心の象徴だよ? きみに疑心は似合わないな。――それに何よりぼくには、きみの歌を聴くという大事な約束があるじゃないか」

「約束?」

「そう。誰かの代わりに歌を聴かせてと、確かにそう言った」

「あ、あの場だけの言葉だったのではなかったの?」

「――じゃあ今この場で高らかに宣言しよう、疑心暗鬼のお嬢さん」

 アルルカンは彼女の両の手を取ってしゃがんで、彼女の前髪に隠れた 輝く瞳を覗き込んだ。彼女の吸いこまれそうなほどに深く澄んだ双眸が、不安そうに揺れている。

「ぼくはきみの歌を聴きにくるよ。リリー。だからまた誰かの代わりに聴かせてくれよ」

「でも……」

「駄目なのかい?」

「そうじゃないわ――」

「ぼくはきみの歌が聴きたいんだ、リリー」

 彼の言葉に嘘はなかった。それが彼女の心にもようやく伝わった、仮面に隠れた真摯な目を通じて。

「……どんなに下手くそでも、最後まで聴いてくれる?」

 アルルカンは微笑んだ。「もちろん」

 リリーはようやく表情を緩ませた。アルルカンは丁寧にお辞儀する。

「劇場の方でも、いつでもお待ちしていますのでまた、いらして下さいね」

「……劇場では、そうすぐには会えないかも」

 淋しそうに笑ったリリーに、アルルカンは何でもないように言った。

「ならぼくがまた逢いに来るよ」

 手が差し伸べられる。「ここへ、泣き虫なきみに逢いに」

「意地悪ね」

 リリーは涙を拭いながらその手を取った。

「そんなこと言うから。もう泣いたりしないわ」

「どうして? 何度でも泣けばいいじゃないか。そうしたらぼくが慰めてあげるよ」

「ふふ。……いいえ、もう泣かないわ。泣き虫だってからかわれちゃ、たまらないもの」

 なぜか妙にがっかりした様子の彼に、リリーは思わず苦笑する。

「道化師が涙を求めるだなんて、変だわ」

 ――何気ない言葉に、道化師の動きは止まった。目が、わずかに見開かれる。

そんな彼の不自然さにリリーは笑みを崩し、心配そうに彼を見つめた。

「どうかした?」

その視線に気づき、再び道化師は弾かれたように動きだし、もとの陽気で明るいアルルカンに戻った。

このようなことはこの日に限った話ではなかった。彼はリリーとの逢瀬を重ねる度に、突然言葉を詰まらせるといったような、いわば道化師らしくない〝不自然さ〟が彼の身にまとわりつくようになっていく。そして決まって、その時の仮面の奥の瞳は、感情すべてを圧し殺したかのように暗く重い影を差しているのだ。この日も、そうだった。リリーは彼の目を見て問いかけた。

「なにかあったの?」

 アルルカンは答える。

「全然。なんにもないさ。どうしてそう思うの?」

リリーは少し俯いて、感情を隠すようにほほえんだ。

「そんな風に、みえたから」

彼は何かを隠しているのだと、すぐにわかった。瞳が、わずかに逸れたから。きっと何かあるのだ。目は何よりも正直だ。それは祖母から教わったことだった。彼女はいつだって彼の目を見て話した。彼はわずかにその行為を嫌がる素振りを見せた。それは、見透かされるのを恐れるためか。


 この夜は、夜を告げる鐘が鳴る前に別れた。二人はずっと橋の上で様々な話をしていた。そのほとんどが主にリリーについての話であった。特別彼女がお喋りだからというわけではない。彼が次々と質問をしてきたからだ。

別れの際、リリーは道化師に大きく手を振って、そうして笑顔のまま帰路へと足を向け、歩き出す。

――道化師が重ねている失敗に、何一つ気づかないまま。


            ◆◇◆


〈百合の国〉を統べる王は、王宮の窓を見つめて物思いに耽っていた。窓の向こうの空ではない、窓に映る自身の姿を見ていた。青白い肌、高い鼻、くぼんだ瞳。視線を自分の体へ移す。痩せて貧弱な体つき、不健康そうに見える。二十歳の男の身体とはどうしたって見えなかった。指先を見た。そこは始終頼りなく震えている。自信の欠如のあらわれ。溜息がひとつ、こぼれた。


〈百合の国〉は西にいくにつれて大きな山脈が広がっており、ところどころに丘陵があるものの、基本的には穏やかな平野に恵まれた国だった。また、気候も変動が少なく、ブドウやオリーヴといった果物類を主な栽培品として他国に輸出していた。自然に囲まれた生活をしているからだろうか、この国の人々の気性は大らかな人が多いともいわれている。この国を受け継いだ国王は、ふと思う。この国は良い国だと思う。けれど、そんな国を私のような者が治めてよいのだろうか、と。

王は九番目のシャルルとして名を受け賜わった。シャルルは、この国の最初の統治者である。

シャルル九世は早くから父を亡くし、幼子の時に即位することとなった。当然幼い彼に政治や国民のことなど任せることは不可能だ。よって代わりに彼の母が実権を握って、国を治めることになった。これは勿論、彼が成長するまでの肩代わりであるはずだった。しかし昔から虚弱体質であったシャルルは、城からあまり出ることなく育つ。また、年の近い子供が身近におらず、たった一人の親である母も治国のため忙しくなかなか相手にしてもらえない幼少期を過ごした。これにより友達や家族と話す上で自然と培っていくであろう意思表示能力が欠如しており、多くの人から白い眼で見られた。それにより人前に出るのを極端に嫌がって、ついには城に引きこもって外にも出なくなってしまっていた。そんな彼に母は呆れ果て、やむを得ず引き続き政務を執ったのである。

国中から愛想をつかされたシャルル王だったが、彼にはたった一人だけ、心を開いて話すことのできる相手がいた――。


扉がノックされる。彼を訪ねてくる者など、今やもうその人しかいない。

「カルロ!」

 シャルルは幼子のように純粋な喜びを露わにして答えた。「入っていいよ!」

 扉は勢いよく開かれて、一人の滑稽な格好をした男が飛び出てきた。

「こんにちはシャルル、まぁた一人で空でも見ていたのか?」

 名ばかりの国王とはいっても、彼は確かな王族の血を受け継いでいる。そんな彼に対して呼び捨てで、なおかつ敬語を除いた言葉遣いなど、とんでもない非礼であり、絶対に許されることではなかった。男を除いては。

「別にいいだろ……、どうせやることなんてないんだから」

 拗ねたような物言いに、カルロと呼ばれた男は高らかに笑って言う。

「友達を作れ! そんな風に卑屈になるから皆が近寄れないんだよ」

「う、うるさいな! 僕には君がいるからいいんだよ……友達なんてそんなの別に」

 シャルルの言葉尻が萎んで消えてゆく。カルロは極めて陽気に話しかけた。

「そう落ち込むんじゃねえよ。ほら、ジャグリングしてやるから、見てろ」

「うんっ!」

 カルロの前ではシャルルは幼い子ども同然だった。甘えるように、彼は実の父親に接するかのようにカルロを見た。子供時代に母親に存分に甘えられなかったからだろうか、彼は子供のような振る舞いを無意識に行った。カルロもまた父親のように、彼を軽く叱ってやってから、道化を始める。

 カルロは宮廷道化師という、王族や諸侯に仕える専属の道化師であった。彼にもまた仮面がつけられており、今まで王の前であっても外したことはない。当時、明確に不可侵の身分差が存在した〈百合の国〉だったが、宮廷道化師といった職の者だけは自らの意見を口にすることができ、時にはその意見が聞き入れられることもあったのだ。よって政権を手中に収めようと道化の道に手を出す輩もいないではなかったが、邪な思いで始めた道化は不思議と面白さを持ち合わせない。道化の芸は即興である。いかにして即興で可笑しみを生み出すことができるか、それにかかってくる。その時必要なのは、自らと役を隔てること。そして、その役に純粋になりきることであった。人々を楽しませるためすべてを捧げる。そういう真っ直ぐさ、純真さが不可欠であるのだ。邪心を持っていてはその芸を身につけることなどできるはずもない。

 カルロは道化師として一流であった。よって、王からの信頼も厚かった。

 またカルロはこの哀れな王を自らの子供のように憎からず思っていた。だから、強いて自分と役とを隔てることなく、自然に道化を演じることができた。 彼は道化師として主人を楽の道へ誘うべく提案する。

「シャルル、せっかくなんだから、引きこもってばっかりいないで色々と動いてみるのはどうだ? 自分の国を自分の目でみてみるのも、いいと思うけどなあ」

「でも……」

「なんならお忍びでどうだ? 一週間くらい内緒でさ、適当に都や街の様子、見世物なんかもいいな――そういう娯楽も楽しんでさ、遊んでみるのさ。大丈夫、政治は女王さまやお偉いさん方がやってくれてる。今のうちだぜ、遊ぶのは。――だってよ、いつまでも女王さまに泣きついてばかりはいらんないぜ? 女王さまががんばってくれているうちに、王としての自覚を持たなくちゃいけない。いやだろうが、そういう運命に生まれたんだ。諦めな。……そういやあんたここ最近、気分がすぐれないだの言って、みんなの前に出てないだろ? それを理由に出掛けようぜ。外の空気吸ってきますって出て行けばいいんだよ。――母上に国を任せて自分は遊び呆けるのか、ってか? いいじゃねえか、今更陰口がひとつ増えたところで痛くもかゆくもないだろう? なんなら、何も言わずに外出しようか? くく、それも面白いかもな。……冗談さ。とにもかくにも、気分転換だと思えばいいんだよ。あんた知らないだろうけれど、あんたの祖先、めちゃくちゃ遊びほうけてたんだぜ。後世にまで伝わるくらいなんだ、よっぽどさ。あんたもちょっとくらい、許されだろうよ」

 シャルルは悩んでいるようだった。彼は一歩たりとも城から出たことがなかった。出る気にもなれなかったし、興味も勇気もなかった。けれども、カルロと一緒なら……。その表情は満更でもないといった思いがあらわれている。

「じゃあ、あなたが手配してくれる?」

「勿論」

 シャルルは窺うように彼を見た。

「あなたも、一緒に来てくれる?」

「あんたが嫌って言ってもついてくぜ」

 シャルルは息を吸い込み、頬を期待に膨らませて言った。

「じゃあ行く!」

「わかった。うまくいくように手配してやるよ」

「うん!」


            ◆◇◆


 リリーは楽長から与えられた小遣い程度の収入をすべて、アルテ劇団の劇を見るためだけに費やした。

劇のチケット代というものは下働きのリリーにしては非常に高額なもので、二か月に一回、良くて一か月に一回しか見に行くことができなかった。それでもその一回が、彼女にとってどれほど貴重なものであったかは言うまでもない。できるだけ多く、早く劇場に足を運ぶためにリリーは必死に雑用を片付けて楽団に貢献した。

以前に劇場で会った裕福そうな子供たちは、やはり演劇鑑賞といった類いを趣味としているらしく、同じ趣味を持つ仲間に声を掛けて、適当な場所で集合して情報交換をしているようだった。そのときにある子供が、劇場で知り合ったリリーの話を出したらしく、その話を聞いた子供達は妙な使命感を感じたのだろう、仲間たちは劇場でリリーを見かけるとわざわざ隣の席まで移動して劇の説明をしてくれたり、余ったチケットを譲ってくれたりしたのだった。何度か顔を合わせるうちに、リリーもすっかり子供たちと仲良くなり、集会の中にも入れてもらえるようになった。そこで行われる数々の会話――アルルカンの大活躍や、彼の相棒のブリゲルラの悪巧み、彼の恋人のコロンビーヌの物思いや彼の敵のパンタローネの失敗談などについての感想――を聞いて、期待に胸をふくらませるのだった。早く劇場に行きたい。それは、アルルカンに逢いたいからというのが勿論大きな理由ではあったが、アルルカンのいるアルテ劇団の皆のことも大好きになっていたのだった。

 アルテ劇団では、コメディア・デラルテという、劇に出てくる役者のほとんどが仮面をつけて、即興で演技する仮面喜劇の形態をとっていた。この形態は当時の劇団で大流行した型であり、劇団で演じられる劇といえばその多くが、コメディア・デラルテの劇を指すほどに、大変人気があった。人気の理由はおそらく、登場人物が把握しやすいことや、遠くから見る際に、役者の顔を見分けるよりも仮面の特徴を探す方がわかりやすいこと、即興であるからこそ同じ演目でも楽しめるといったところにあるだろう。

 例外的に仮面をつけない役もあった。コロンビーヌや出番の少ない役柄などである。コロンビーヌの場合は、演じ手の女性の美しさを売りとしているから仮面はつけない方針であるらしい。他は予算が足りないか、特別必要ではないから、だといった憶測が飛び交っている。

 劇団について全く知らないリリーのために、子供達はたくさんのことを説明してやった。

「演劇のほとんどはその場その場のアドリブで、台本に書かれてるような決まった台詞はあまりないんだよ。たとえば、昨日演じられた演目と同じ演目を今日観たとしても、昨日と今日では台詞回しや話の展開が全然違うってことだね」

「おおまかな話の流れみたいなものは、用意されているらしいけどさ、」

中でも物知りの子が得意げに言う。「台詞の指定はせずに物語のだいたいの展開だけがみんなに伝えてあって、あとは役者さんの自由に動いてもらうって感じみたいだよ。それがアルテ劇団の伝統なんだって。すごいよね!」

 リリーはこうして、子供たちの話を聞いて劇団についての知識を増やしつつ楽団の用事をこなしていくといった毎日を送っていた。


「そんなに必死になって……。そこまで劇場に行きたいの?」

事情を知る楽員の何人かが呆れたようにリリーに問う。

演奏会の準備のために、リリーは歌い手や奏者の衣装を整えたり、化粧をしてやったりと慌ただしく動いている。今は、尋ねてきた歌い手の長い髪を綺麗に梳いてやっているところだった。

「あなた、歌はいいの?」

リリーは確かに、楽器の調整や掃除、今は舞台準備と大いにせわしなく動き回っていた。けれど。そんな忙しい中でも、彼女は真面目に歌の練習もこなしていたのだ。そのため睡眠や食事の時間は十分に取ることはできなかったが。 歌の練習を削ることはまず無い。楽団の楽手にピアノの音を出してもらって発声練習をしたり、他の歌い手たちと合唱してみたりと、それは一生懸命にやっていた。……それなのに上達の兆しはみえない。合わせようとしても、音に遅れがち、もしくは速くなりがちで。音調から外れ、または旋律に置いてかれ、または自分の歌が不安定になり、最後には崩れてしまう。リリーは絶望した。自身の才能の無さが、ただただ恨めしかった。

――それなのに。少しも夢を諦めようとしないのは誰よりもリリー自身が、最も不可思議だと感じることだった。

祖母の言葉を信じたいと思うからだというのだろうか。自分に才能が無いとわかった今でも、……まだ? 


そんな彼女の様子を見るに見かねた者がいた。トマスというこの楽団にとって数少ない壮年の男であった。彼はセロの楽手だったが、ピアノも巧く、彼女が練習する時はいつも伴奏してやっていたのだった。

「ここから西へ行くと、街はずれに大きな森があるのを知っているね? そこに僕の古くからの知り合いがいるんだ。彼は気難しいけれど、優秀な歌い手を何人も育て上げてきた確かな腕がある男だ。そんな彼は今、色々あって人から離れた生活を送っているが、僕が頼めば一度くらいなら君に会ってくれるはずだよ。どうだい、行ってみるかい?」

 思いがけない話にリリーが大きく頷こうとした瞬間、その話を近くで聞いていた楽長のフローラが口を挟んだ。

「あんた、リリーをあいつなんかの所へやるつもりかい?」

 フローラは、露骨に嫌悪感を露わにした。どうやら楽長は彼の古くからの友人を知っているようだった。トマスは苦笑し、宥めるような口調になる。

「そういえば、君たちは仲が悪かったね。まあでも、彼は優秀だ。特に、歌のこととなれば右に出るものがいないほどに、ね。その点は君も知っているだろう?」

「あいつの腕は信用できても、あいつの性格は信用できないね」

「はは。まあ、そう言ってやるなよ」

 フローラ楽長はふんと鼻であしらった。フローラはふくよかな体型をしており、赤みを帯びた頬や丸い鼻をもち、唇は厚く、女性らしい色気があった。つややかな茶髪をひとまとめにして肩に流している。いつも羽織っている絹のショールは、親しい男性からの贈り物だとかそうでないとか。トマスとは昔からの付き合いで、同じ年代らしいが詳しい歳はわからない。謎の多い女性であった。また、彼女は厳格な人間であった。それは吊り目がちの鋭い双眸からも窺え知れる。その射抜くような目を見て怯えて声が出なくなってしまう者も少なくない。彼女の楽団に所属する楽員たちでさえも気軽に声を掛けるのは躊躇われるほどだ。もちろんリリーも例外ではなかった。楽長の視線にいつも気圧されてしまう彼女は、自分の恩人はフローラであることを痛いほど理解しているけれども、自然と身体が縮こまってしまうのである。楽長は優しい人だ。自分を拾ってくれて、その上住む場所などの面倒を見てくれている。そのことに言葉では言い尽くせないほど感謝している。それなのに不必要に構えてしまうのは、フローラという人物が他人にもそして自分にも、妥協を許さない厳しい人であったからだろう。……しかしそれほどまでの厳格さが無ければ、この楽団を発展させることはできなかっただろう。フローラ楽団の現在の形を作ったのは間違いなく彼女の手腕によるものだった。

「リリー」

 呼ばれて、リリーはフローラを見つめ返した。いつもの呆れ顔が表情に浮かんでいる。それを目にしたリリーはさっと顔を背けてしまう。次に発せられる言葉は、いつだって決まっているのだ。

「あんたまだ――」

 トマスが間に入って、場を収めようと宥めたが、フローラの目がリリーから離されることはなかった。たまらずリリーは聞きたくないとばかりに瞳を強く閉じた。それでもフローラは言い放った。

「――まだ、歌をやるのかい?」

続く言葉を遮ることはできない。彼女の言葉は普遍の真実だからだ。リリーにできることは、閉じた目を開いては閉じて、しきりに瞬いたり、落ち着きなく視線を彷徨わせたりして、なんとかフローラの言葉に傷つかないようにと気を紛らわせることだけだった。

 フローラはリリーを見据えた。

「諦めないのかい、リリー。残念だけど、あんたにはねぇ」

フローラは、フローラ楽団の楽長として、リリーの為を思って、告げる。

――このままじゃあんたをここに置いとくことはできなくなるんだよ。

リリーにも痛いほど、わかっていた。

「歌の才能ってもんが無いよ。あんた、ここで生きていくにはさ、当然音楽をやってかないといけないわけだけど、歌だけが音楽じゃないんだよ? 楽器を演奏する道だってあるんだ。そうだ、そういやあんた、ピアノが上手かったそうじゃないか。それをやってみたらどうだい? うちは基本的に女しか楽員にしないという決まりがあって、奏者を見つけるのは大変だったりするんだよねぇ。あんたがなってくれたら、助かるしね。――まァ、そうすぐに歌を捨てることは難しいっていうのはわかるけど、さ、時には諦める潔さも必要なんだよ?」

「……はい」

 返ってきた声は、か細く震え、今にも消え入りそうなものだった。リリーはそのまま一礼して、その場を去った。

 フローラの嘆息が、いやに響いた。辺りには楽器の片付けをする団員たちが数人残っていたが、片付けが終わると楽長に挨拶をして別れていった。フローラとリリーとのこういったやり取りは、今日が初めてのことではなかった。フローラを慕う楽員たちは、リリーの諦めの悪さにひどく立腹していた。こんな風にリリーに対する陰口は増えてゆき、風当たりも強くなっていくのだった。フローラはおそらく気づいていないだろう。女の陰口ほど目につかないものはないからだ――。


 フローラはひどく疲れた調子でトマスに話した。

「あの子にはセンスがある。それは確かにね。それを見込んで、私はあの子を取ったんだ。でも、どういったわけか、……音痴なんだよねェ。一人のときはまだ大丈夫だ。でも一たび、合唱や楽器の音が重なり合ってくると、途端に音が取れなくなって、音楽に置いてきぼりを食らってしまう。そういう体質なのか、よくはわからないけれどね。……音痴な歌い手なんて聞いたことあるかい? こればっかりは直る直らないの話じゃないよ。どんなにあの子が望んだとしてもね」


            ◆◇◆


それから数日後、リリーはトマスの紹介により、彼の古い友人のところへと訪れた。森の奥、日の光もあまり差さないような陰鬱とした中に、一軒の木でできた家があり、そこにその人は暮らしていた。いくらか話をしたり、実際に歌を披露したりしてみせ、そして決定的な判断を下された。その帰りのことである。面会は予想以上に早く済んだ。よって、空もまだ明るくあった。彼女の歩く周辺には、一面に畑が広がっていた。今は冬だから、どこも土一色であるけれども、暖かくなれば葡萄やオリーヴが辺りを覆い尽くす。その季節は香る花や果実の匂いに〈百合の国〉全体が包み込まれるのである。この国の特産品でもあった。

 そんな農家の一帯、賑わう季節でもないのに、その道を歩いているのは自分だけだとリリーは思い、油断していた。涙に潤む瞳は、ある人の姿を捉えた。


「……どうして、あなたがここにいるの?」

震える彼女の声を聞くと、アルルカンはゆっくりと顔を上げた。彼は、もたれていた畑を囲う柵から離れて、そちらへと歩み寄った。仮面の向こうの翡翠

「いつも同じ場所でおち合うのは情緒に欠けると思っただけさ」

「あの」

「たまには、夜遅くでなくって昼時に会ってみるのも、なかなか新鮮味があって面白いだろ?」

「ねえ、わたし……」

「ん?」

 とてもあなたと会える気分じゃないの。リリーは申し訳なさそうにそう呟いた。

「今日、会う約束なんてしていなかったわ」

「そうだね」

アルルカンは肩をすくめて微笑んでみせた。

「でもぼくが会いたかったから」

リリーはその仮面の笑顔を茫然とみつめる。

「きみの歌が聴きたくなったから」

「どうしてわたしの歌なんか――そんな、そんな価値無いのに。あなたにそんな風に思ってもらう価値なんてひとつも無いんだよっ!」

堪えることはもうできない。リリーは崩れ落ちるように膝をついて、そのまま泣き出してしまった。

「あなたに会えばまたあなたの優しさに甘えてしまう。だから今、会いたくなんてなかったわ。……わたしまた、あなたの前で泣くんだわ。いやよ、もう……どこかに行ってしまってよ」

「そばにいるよ」

アルルカンはゆっくりと彼女に近づいて、自らも膝を折り、彼女の背を優しく撫でた。

「何があったの。話してごらん」


            ◆◇◆


「……ここの畑を抜けた先に、小さな森があるの。知ってる? 今は冬だから枝しか残ってないけれど、春になると鮮やかな色でいっぱいになるところ。ブリュニーの森と呼ばれているところよ。

 その森のずっと奥に、一軒の家があったの。ユグノーさんていう、わたしと同じ楽団にいる方とお友達の人で、今までたくさんの素晴らしい歌い手を育ててきた人なんだって。わたしもね、会いに行ってきたのよ。……なぜってわたしの歌が全然だめだからよ。――いいの、何も言わなくて。

わたしはもうこれが最後の望みだと覚悟して、その家のベルを鳴らしたわ。そしたら木の扉がゆっくり開いて、厳格そうに眉間を寄せているおじ様が出ていらしたの。その方がユグノーさんよ。ユグノーさんはわたしを見るなり、体の奥を震わせるような低いバスの声で仰ったわ。『話は聞いている。昔馴染みのトマスが熱心に頼んできたから、引き受けてやったが、こんなことは今後一切御免だからな』って。わたしは構わないと答えたの。ただ必死にうわごとのように『わたしの歌をみてください』とばかり繰り返したと思うわ。――実はあんまりきつく覚悟を決めてしまっていたから、緊張して頭が真っ白になったみたい。だからあまり記憶があまりないの。でもただ、ユグノーさんの眉間はずっと深く皺が刻まれていたことと、ピアノのある部屋に通されてそこで歌ったことは覚えているのよ。

歌の伴奏はユグノーさん自身がやってくださったわ。とっても上手だった。こうやって色んな人をみてきた方なんだと思うと、わたし場違いみたいで、比べられてるのかなって。ちょっとだけ思ったのよ。身の程知らずだと、すぐにわかったけれどね。

 ユグノーさんはわたしの歌を聴いて、多分わたしを気遣う言葉を選んで、お話しになったんだと思うわ。

『マリアーヌ、あんたはあまりにも耳が良すぎる』……って。

わたし何が何だかわからなかった。そうしたらユグノーさんがピアノの前にわたしを立たせて、目を閉じるよう指示してからいくつか鍵盤を叩いたわ。

『同じように弾いてみろ。ゆっくりで構わないから』と、そう仰るからわたし、言われた通りにやったの。ユグノーさんは徐々に音の数を増やして、わたしに弾かせたの。そうして。

『ほら見ろ、あんたの耳は正確に音を拾う』

一瞬、唯一の長所を見出だされたのかと思ったわ。でもそれにしては声色があまりに冷たかった。

『これは致命的な欠点だ』ユグノーさんは一言で仰った。『あんたは耳がいいから、歌っている最中に伴奏や他の歌い手の音を、必要以上に拾ってしまう。だから、自分以外の音より強い音が聴こえると、無意識にそちらに気を取られてしまって自分の旋律がわからなくなっているんだ』

それからユグノーさんはわたしをひどく気の毒そうに一瞥して、

『フローラは楽手だが、音楽の良し悪しはちゃんと判断できる。……だから、フローラが合わないと言ったのなら、それはおそらく正しいだろう』

 ――そしてわたし帰ってきたの。いくつか助言は頂けたんだけど、やっぱり皆、……皆諦めろって。向いてないって、ああそうなんだって思うけれど、何でだろわたし何でまだこんな気持ちでいるんだろう。ばかだね、わたしまだ、まだ諦められないんだよ。もしかしたら、なんて甘いこと考えてないのに、歌うことをやめてしまう自分が、想像できないの。舞台に立って歌う自分の姿が、夢が、消えてくれはしないのよ――」

「リリー」

 鼻をすすって、彼女は淋しそうに独りごちた。

「ねえ、才能が、自分のやりたいことに対する才能が、あれば諦めなくて済むのにね。どうしてわたし、自分の夢を叶えるために必要な才能を持って生まれてこなかったのかな。みんなもそうだよね。自分がやりたいことに必要なもの全部持って、生まれてきたらよかったのにね。そうすれば、幸せだったのに。それさえあれば、他に何もいらないのに……」

リリーはそうして口を閉ざした。力なく俯く彼女。それを見てアルルカンは声の調子を低くして、彼女に語りかけるように囁いた。しかしその声には、強い意志が込められていた。

「きみがどうして諦めようとしているのかが、ぼくには全くわからない。諦めたくないなら諦めなければいい。楽団を出ていけばいい。楽団を出てひとりで歌っていけばいい」

「そ、そんなのできるわけ……!」

 彼は一息置いてから、諭すように言った。

「ただ歌を歌うことだけなら、何処にいたってできるさ。声があればね。でも、きみはその楽団にこだわっているよね。――ということは簡単だ。きみの歌っていうのは、自分の満足のものなんかじゃなく、だれかに、たくさんの人達に聴いてもらいたい歌なんだよ。その人達が喜んでくれるのを見て初めてきみは、ああ自分は歌を歌っているんだと実感するんだ。そうだろう?」

リリーは涙に潤む瞳を彼に向けた。仮面の奥の瞳がこちらを見据えている。アルルカンは首を傾げる。

「そうだろう?」

 黙って頷きを返す。

「じゃあきみは、どんな歌を聴かせてくれるんだい?」

これには首を振った。

「……わかんない。だって今まで、歌いたい気持ちしか、知らなかったから」

 リリーは息を吸って、こわごわ彼の手に触れて、覚悟を決めたように強く握った。

「でも、想いだけは、こめて。わたしは――あなたを想ってうたうから、アルルカンさん、どうかわたしの歌を聴いて」

そこにはもう悲嘆の色は無かった。

「勿論だよ」

これを合図にリリーは歌い始めた。涙まじりの声で不安定ではあったが、宣言通りに想いだけは、こめて。

歌い手の観客はたった一人、道化師だけ。昼の太陽が、雲間から顔を覗かせ、彼女の金の髪をきらめかせる。風が輝く金の髪をなびかせる。道化師はらしくもなく心を奪われた。彼女の表情はとても晴れやかだった。彼女の周りは不思議とあたたかく、春の女神を彷彿させた。まだ終わって欲しくない、まだこの世界に居続けたいのだと、道化師は無意識のうちに祈りつづけていた。


「あなたはどうして、そんなに優しくしてくれるの」

歌を終え、リリーは静かに問う。時はひと知れず過ぎ去っていくもので、気づけば、冬の長い夜がまた近づきつつあった。

彼はしばらくリリーと見つめ合った。

「リリー、素晴らしい歌をありがとう。――さあ、もう遅いよ。早くお帰り」

そう声を掛けてみるが少しも動こうとしないので、アルルカンはぐっと彼女を覗き込んだ。

「どうしたの?」

「……わたし、いつもあなたに救われてる。ほんとうに感謝してるわ。だってあなた、わたしが本当に苦しいときに会いに来てくれる。そのお蔭でわたし、また、がんばることができるの。ありがとう。――だから、あ、あのね、わたしもあなたのことを、もっとちゃんと知りたいの。だって今までいろいろ話したりしてきたのに、わたしまだ、あなたの名前も知らない……。わたしも、あなたの名前を呼びたいもの。ね……?」

この申し出は、彼を異常なほどに動揺させた。

仮面の奥の双眸が大きく見開かれ、せわしなく視線が揺れる。足が一歩二歩と後退りした。体がぶるぶると震え始める。冷や汗がわき出て頬を伝うのを感じた。その色はまぎれもない、恐怖。しかしリリーは気づかず、期待と不安の入り混じった表情のまま、彼の返事を待っている。

彼は荒い呼吸を繰り返し、ついには壊れた玩具のように動かなくなり、沈黙して――。


            ◆◇◆


アルテ劇団のアルルカンを演じる アーサーという人物は、男女問わず人気の高い役者であった。それは勿論、彼が演じる役柄にも理由があったが(アルルカンはコメディア・デラルテの形をとるどんな劇団でも、一番の人気を誇る役であった)、彼のあまり知られていない、仮面の下の端麗な顔立ちもまた大きな理由になっていた。昔一度だけビラ配りの際に、運悪く使い古した仮面の紐が切れてしまい、その場にいた結構な人に顔を見られてしまったという事件があった。このことが一気に噂として広まり、それを実際見た女性と噂を聞いた女性から異常なまでの支持を得た。仮面の奥の神秘性に魅せられたのだろう。また、アーサーの仕事上がりを狙って訪れる女性も少なくなかった。けれどもまあ、ほとんどが彼の持ち前の話術により、あしらわれてしまうのだったが。

 アーサーは、アルルカンを演じること以外に何もしなかった。何ものにも興味を示さなかった。


即興劇をやる上で最も大変なことは、演者が登場人物になりきらねばならないということだ。ただ、その役の感情がわかるだけでは即興という高度な技術を得ることなど到底出来はしない。登場人物に感情移入できる物語の読み手と同じ立場に立っていては、即興は愚か、舞台の上で演じることすらできないだろう。

演じ手は自分が演じる役の遍歴、性格、交友関係、思考回路や物事の嗜好までを完全に理解・把握した上で、自分のものとして背負っていかなければならない。演じるとは言葉にすれば簡単だが、それを実行する役者たちは恐ろしいまでの精神的疲労に慢性的にさらされながら演じているのだった。役が抜けなくて精神が病んだ者も実は結構な数いる。それも悲劇喜劇に関わらず、である。

言ってみれば役者は皆、多重人格者であることを強いられるのだ。舞台の上ではとある人格を持つために自己を切り捨てておき、舞台から下りたら捨てていた自己を拾いにいく。切っては付けてを繰り返す度に心が分離しやすくなって、最後には気づかぬうちに落ちてしまい、どこで失くしたのか分からなくなって――。

それを受けて、アルテ劇団を含め多くの劇団では一人一役を基本とし、専門的に役と向き合わせる傾向にあった。(例外もある。自己と役との切替に自信のある者だけがその例外だ。アルテ劇団にも一人で三役を扱っている者がいる)

専門的となれば、より長く深くそれらと向き合わなければならないが、その分演技に乱れがない。何よりアルテ劇団は、コメディア・デラルテの特徴でもある〝仮面〟を強く意識している。仮面を被る者はそれをつけているか否かで人格を切り替えることができる。仮面のない人物もいるが、その場合は髪型を変えるなど各々に工夫し、自我を保っている。


アーサーは優れた道化師だ。自然にアルルカンを演じ、観客を一瞬のうちに惹き付け、魅了する。それゆえ危うい存在だと団員たちは考えていた。何が最も危ういのか。それはアーサーが危ういと感じていないことが危ういのだ。アーサーはアルルカンに身を委ねている。いわば依存状態である。つまりは自我を放棄してアルルカンに傾倒している。実際、彼が仮面を被っている時間より素顔を晒している時間の方が少ない。そのことは団員たちも気に掛けており、彼にあまり役に入り込むなと注意するものの、全く言うことを聞こうとはしない。

「……まあでも一概に悪いって言えないのよね。あたしらもアーサーの腕に頼ってるとこがあるわけだし」

そうしてアーサーは日に日にアルルカンという役に染め変えられてゆくのだった。

そのことを深く危惧する者がひとりだけいた。ルイス=エヴァンズ=ブライムという、彼と同じ劇団に所属する、温和な青年だった。

ルイスとアーサーは幼い頃から一緒にいた仲間であり、ルイスには過去、アーサーに救われたことがあった。そのことにルイスは多大な恩の念を感じているようで、その恩を返すことに日々躍起している節があった。その一生懸命さは、アーサーでない者から見ても鬱陶しく思えるほどの熱心さで。時には周りが見えずに、アーサーへの恩返しのみを頭に置いて行動することもしばしばだ。よって今回も例に漏れず、ルイスは行動した。

 劇団の宣伝をかねて役者が手品などの芸をして回ったあと、アーサーはそのまま劇団には帰らずに、団員たちと別れてどこかへと歩き出した。たまたま一緒だったルイスは彼について行こうとした。それに気づいたアーサーは不愉快そうに眉をひそめた。

「――ついてくるな」

「どこ行くつもり? もしかして昼前に見かけた女の子のところ? きみ、じっと彼女のこと見てたよね? そういや、西へまっすぐ歩いて行ってたよね。あそこには畑と森しか無いって聞いてたけど、何か用事があったのかな?」

 ルイスは好奇心を称えた瞳で、彼を見つめた。アーサーは黙って早足に歩いた。ルイスは小ぎれいに整えられた茶色の髪を揺らしながら、彼のあとを追った。堪えかねて、アーサーは答えた。

「別にどこだっていいだろう。いちいち詮索するな、うっとうしい。もういいからおまえはもう帰れ」

 そう突き放すように言われ、ルイスはおとなしく彼の背中を見届けた。そうして完全に姿が見えなくなる前に、――追跡を始めた。ここ最近、アーサーが頻繁に外へ出掛けているのは、誰かに会うためなのだと考えていた。その誰かとは、彼の反応を見る限りおそらく昼間見かけた少女だろう。そして、彼女ととある夜に泣いていた少女は同一人物だろうと彼は思った。――その推測は完璧に当たっていた。アーサーはやはり西の畑の方角へ向かっていったのだ。ルイスは彼に気づかれぬように農家の陰に隠れつつ後を追った。

 アーサーは森の入り口付近で足を止め、少し逡巡してから近くの畑の柵にもたれかけた。どうやらここであの少女を待つらしい。ルイスはぎりぎりまで彼のところへ接近し、彼もまた息を潜めつつ少女を待った。

 しばらくしてから、森の方から例の少女が俯きながらこちらへやって来た。アーサーの姿を目にした彼女は、ひどく驚いていた様子であった。それを見て、どうやら今夜会う約束をしていたわけではないようだとルイスは思う。珍しい。彼が女性の待ち伏せを行うだなんて。明日は槍が降るだろうか、半ば呆けた頭で思考する。

今日は風の強い日だった。音を立てて吹く風のせいで、彼らの声が途切れ途切れでしか聞こえない。しかし盗み聞きしている立場なので文句は言えない。そうしてルイスは二人の会話に聞き耳を立てたのであった。

 ――その場で起こったことは、どれを取ってみても、信じることなど到底できそうもないものばかりであった。ルイスは驚きのあまり開いた口がふさがらなかった。本当にこれら一連の出来事が現実で起こっていることなのか。そんな自問が延々と頭の中で繰り返される。ルイスは思わず頭を抱えた。信じられない。あのアーサーに限ってそんな。これらはやや誇張された表現ではあるけれど、大袈裟すぎると一蹴することはできないだろう。日頃のアーサーを、彼の演技を、間近でそれも長年見てきた者としては、この驚愕は極々当然のことなのであった。

 まず、わかりやすい例でいうと、あんなにも相手を気遣うような声色を出すアルルカンなどいない。

 アルルカンは劇団一の人気者である。勿論心優しい一面が無いわけではないが、基本は悪戯好きな人物として知られており、間違っても相手を哀れみ、同情することなどしない。道化師というのは、あくまで悲しみを可笑しさに、涙を笑顔に変える職業だ。なのに、道化師である彼が何故、観客の悲しみを慰めようとしているのか。また、話者を相手に譲って、自身は聞き手に回っているのも信じがたい。喋る速度が遅いのもいやに気になる。道化師は語りかけたりしない。一方的に言葉を投げつけるのだ。観客の悲劇に一々付き合うことはできない。人の数だけ不幸は存在するからだ。一方的に近寄って、一方的に喜劇に変える、それが道化。――これは、ほかでもないアーサーが言っていた言葉だ。

(わざとだ)

 ルイスは思った。(きっと、アーサーがわざとにやっているんだ。そうじゃなきゃ、とてもこんな、こんな失敗を――)

 道化師には挙げきれないほどたくさん掟がある。先ほどの彼の言葉はその掟のほんの一例だ。道化師に与えられた多くの掟をアーサーは完全に厳格に守っていた。だから彼は優秀な道化師でいられた。しかし今目の前にいる人間は誰だ? これがアルテ劇団のアルルカンで名を馳せた彼の姿なのか? 最早道化さえ演じられていない。これなら、ルイスの方が余程うまく演じてみせる。それほどまでに酷かった。

 ――極めつけに。

「名前だけでも教えて?」

 アーサーにとって禁断の質問が、問いかけられた。

 彼の態度に異変が起こったのが、向き合っていなくともすぐにわかった。ルイスは彼の仮面が剥がれ落ちる音を聞いたような気がした。彼はアルルカンを演じる時にアーサーという自分を出すことに、異常なまでの拒絶を示す。それは彼がアルルカンという存在に誰よりもこだわっているからだ。

 いつもの彼ならば「アルルカンという名前以外に名前はないよ」などと煙に巻くことが可能だろう。しかし今の彼にそんなことが出来るとは思えない。

 ここまでだとルイスは物陰から飛び出そうとして、

「アーサーだ」

 その場で、立ち尽くす。

「セカンド・ネームは無い」

 一体彼の中で何が起こっているのか。あまりに異常な光景に、ルイスは空恐ろしさまでも感じた。天変地異。地面がひっくり返っても、こんなことが起こると誰が想像できただろうか。彼は今、自分で彼の仮面を、アルルカンという役を――。

 この明らかな異常に気づくことなく少女は、満面の笑みを浮かべて、うれしそうに彼の名前を呼んだ。

「アーサーさんね!」

「呼び捨てで、いい」

「うんわかった、ありがとう、アーサー! じゃあ、わたしもう遅いから帰るね、……今日は本当にありがとう!」

 リリーは去って行った。ルイスはわずかに迷ったが彼女のあとを追った。あんな状態の彼をこのまま放っておくのは気がかりだったが、彼の態度はのちに彼を取り巻くあらゆる事態が良くなる兆しである。あの彼がようやく自分を認識して、自ら名乗ったのだ。これが好転でなくて何だろう。急ぐべきは、彼女の方である。彼に変化を与えた彼女の存在は大きい。

(もしかしたら)ルイスは知らず知らず笑みがこぼれた。(もしかしたら、彼を救うことができるかもしれない――過去の、しがらみから)


            ◆◇◆


「そこの御嬢さん、ちょっと御時間を頂けませんか。すぐ終わりますから」

 リリーは立ち止まった。目の前には街灯の光に照らされたルイスの姿があった。リリーは涙で赤くなった目を細くさせ、笑顔を作った。「なんだか今日は先回りをされてばかり」

「お急ぎのところ申し訳ない。僕はルイス=ブライム。主にアルテ劇団の劇作家を務めている者です。夜に女性ひとり歩いてては危険だ。アルルカンに頼まれて僕が代わりにお見送りをしますよ」

「別にいいのに。いつものことだから、大丈夫ですよ?」

 ルイスはまた、と心の中で呟く。――また、失敗を繰り返している。客を、それも女の客を、夜遅くにたった一人で帰らせるだなんて。彼は気でも狂ったのだろうか。道化師としての誇りを何よりも大事にする彼が、こんな当たり前の振る舞いもできないだなんて。

 ルイスはそんな思いをすべて温和な笑顔の裏に隠し、彼女と並んで歩き出した。

「少しだけ、お尋ねしても?」

「ええ」

「……彼はいつもあんな感じで?」

「アーサーのこと? あんな感じって、あの人に何か変なところがあったかしら」

「いえいえ! 何も変わらないならそれでいいんです」

「そう?」

 ルイスは悟る。――彼女こそ、彼を救える人間だと。ルイスは足を止め、彼女と向き合う。そうして膝を折り、彼女の手をとってその甲に自らの額をあてて、懇願した。

「お願いがあります、ミズ・リリー。もしもあなたに彼を想う心があるのならどうか、どうか彼を救ってやってください。僕にはもうあなた以上の適任者を見いだすことができない」

 リリーはあまりに急なことに戸惑った。わたしが彼を救う? この青年は何を言っているのだろう。彼がわたしを救うのではなくて? わたしはたった今、彼に救われたところだというのに、そのわたしが――?

 しかしルイスの目は本気だった。リリーはその瞳を注意深くのぞき込んだ。二つの琥珀の瞳は一切揺らがなかった。リリーが青年の真摯さを確かめるために自分の目を見ているのだ、と感覚的に理解したのだろう。熱いほどの想いのこもった双眸であった。そうして、彼の目に応えるために、リリーもまた真剣な瞳で答えた。

「わたしがあの人を救うことなんて、……とても無理ですわ。あなたは知っていますか、わたし、今あの人に救われたところなんですよ。今夜に限った話ではありません、いつも、いつも彼には救われているのです。嘘なんて言ってないの、おわかりでしょう? そんなわたしに出来ることなんてあるわけ――」

「それがあると言ったら?」

 ルイスはここで初めて、温和な笑顔が崩れた。彼は深く、嘆息した。彼の顔に浮かんだのは、困ったような疲れたような悲嘆に暮れるような表情だった。それほどまでに、彼はこのことに頭を悩ませていた。

「もしもあると言ったら、君はどうしますか」

 リリーは狼狽えた。本当に? こんな自分を、暗い世界から救いあげてくれたアーサーに、苦しみや悲しみといった陰の部分が、救いの手が必要になるほどの深い闇の部分が存在するのか。――闇。そういえば、彼は時折、表情を曇らせて何かに思い馳せることが度々あった。……しかしそれを理解したいとは願っていても、実際に自分に救えるとは到底思えない。リリーにとって彼は神、まではいかなくとも崇拝に近い感謝の念を抱いており、自分が何かすることで彼の心が安らぐとは考えられなかった。身の程知らずだとも思った。

 動揺する彼女を一瞥してからルイスは立ち上がり、

「そうすぐに返事を貰おうとは考えていません、むしろ本当に真剣に考えてください、これはすごく大事な、大変なことなんです」

 と告げた。

「もしもあなたに、彼を一心に、想う気持ちがあるのなら。どうか僕のところまで来てください。……繰り返しになるけれど、僕には君以外の適任者を見つけられない、絶対に、誓ったっていい。彼を救ってください、お願いですから。――……あなたじゃなきゃ、駄目なんだ」

 弱々しく頭を垂れたルイスを見て、リリーはもう、何も言えなくなってしまった。


            ◆◇◆


 アーサーはアルテ劇団の近くにある川原に立ち、空を仰いでいた。その手には黒の仮面が握られており、その顔は月と街灯に照らされてはいるが、ルイスの立つ方から見るとちょうど影が出来てしまい、彼の今の表情を窺い知ることはできない。

 ルイスは彼のもとに歩み寄りつつ、手を挙げて彼の名前を呼ぼうとした。  その時、

「くそッ!」

 アーサーは勢いよく仮面を地面に叩きつけた。そうして両手で頭を抱え込み、悶絶するかのように上を向いて吼えた。ルイスは慌てて駆け出した。

「アーサー!」

 ルイスの声に、アーサーの動きは止まる。そして壊れた人形のようにルイスの方を向き、地が震えるような低い声で尋ねた。

「エヴァンズおまえ、何でここにいるんだ。帰ったんじゃなかったのか」

「それは――」

「見てたのか」

 ぎょろりと二つの目がこちらを睨んだ。ルイスは思わず後退りした。背に強く風がぶつかり、耳元を轟、と音を立てて過ぎ去っていった。二人の青年の髪が大きく煽られた。それによりルイスはわずかに目を逸らしたが、アーサーの目は動じない。アーサーはルイスが退いた分、前に歩み寄る。そして、重々しく口を開いた。ルイスは自分をなじる言葉が出てくることを予想した。

 けれども彼の口から出てきたのは、何か重たいものを吐き出すような溜息と自嘲を込めたひきつった力無い笑みであった。

「……、嘲笑えよ」

「えっ」

「見てたんだろ。笑えよ。アルテ劇団の道化師として名高いおれが、人々の賞賛を一身に受けているおれが、このざま。何だこの、……情けない体たらくは。おかしい。何もかもおかしいんだよ」

 アーサーは、赤毛の髪をぐしゃぐしゃに掻きあげた。彼の視界は最早ルイスの姿を映すことはない。完全に自分独りの世界に陥った。ふたつの翡翠の瞳に光はなく、ただ当てもなく宙を彷徨っている。ついには口の先で ぼそぼそと言葉を発し始めた。いわば、独白。アルルカンである自分と、アーサーである自分が ぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまったことで、本当の自分がわからなくなっているのだ。

 劇団の中に長く所属していると、役に入れ込むあまり精神に異常をきたしてしまった演者を目にすることがある。ルイスもまたその何人かに出会ったことがある。彼らは決まって、失ってしまった自分を探りながら生きていた。彼らが纏っていた狂気に似たものをアーサーから感じたのだ。ルイスは戦慄した。本能から思わず、逃げ出したくなったが、彼を放ってはおけないと理性が留めた。そして何より、彼が自己の整理のために〝独白〟に近い形を用いていることに注目した。彼の抱えている思いが〝台詞〟でもって如実に言い表されるのだろう。この機を逃せば、たちまち他者との関わりを拒む道化師に戻り、アルルカンの殻に籠もって自己を失ってしまうかもしれない。今ここで、彼を救う手がかりが何としても欲しかった。ルイスを突き動かすのは、彼に是が非でも恩を返すという強い意志であった。

 アーサーは〝語り〟始めた。

「おれは生まれてから今まで、ずっとアルルカンに身をささげて生きてきた。彼の一挙一動、ものの考え方まで、自分の身体で表現することができる。この身はおれのものでもあり、同時にアルルカンのものでもある。仮面を被ることでアルルカンに完全に身を委ね、人々を腹の底から楽しませることができる。おれはどこへ行っても天才だと、もてはやされた。おれのアルルカンを見に、人々は莫迦みたいに駆けつける。その手に金貨の袋を握りしめて。評判は着々と広がっている。のちに王族の耳にも届くだろう。おれは一流の道化師として謳われ、名声を勝ち得るのだ。それなのに――。

 ――あいつだ、あいつのせいで全てが狂ったんだ。あいつの前だとたちまちアルルカンである自分が消えて、どこからか、何者か分からない何かが、おれの体を心を支配して、あいつの前に立ち、あいつの前で踊り、あいつの前で笑うんだ。あいつが、アルルカンでないものを生み出した。その存在が、おれは恐ろしくてたまらない。あいつは――リリーは、いつか必ずおれの中のアルルカンを殺してしまう……!」

「殺すだなんてそんな物騒な――」

 ルイスの声にアーサーは眼球を動かし、彼を射抜くように見た。

「おまえはあいつの恐ろしさを知らないからそんな風に言うんだ」

 彼は小さくこぼした。「おれにとってアルルカンは絶対の存在だ」

「アーサー、」

「不変の、絶対の存在だったはずだ。なのに、……何故?」

 彼は完全に力が抜けてしまったかのように膝から崩れ落ち、仮面の前にしゃがみ込んだ。ここまで精神的に参っている姿を見るのは、彼とは長い付き合いのルイスであっても初めてのことだった。しかしこの動揺は、彼が自分を取り戻すきっかけになるとルイスは確信していた。劇作家である彼だからだろうか、やや夢みがちなところがあって、心を閉ざした男を救うのは可憐な女性だと固く信じていたのだ。そしてその女性は、言うまでもなく彼の告白にまで現れた彼女だ。ルイスは新たなる希望を胸に、彼に言葉を放った。この言葉に、彼は必ず否と答えるだろう。

「ならばもう、彼女と会わなければいい」

「……それは、できない」

 それ、みたことか。アーサーの威圧するような視線に、ルイスはややたじろぐけれど、間髪入れずに飄々と言葉を続けてみせた。

「なんなら僕がリリーちゃんの相手をしてあげるよ。とっても可愛いし。たしかに僕は劇作家だけど、時たま役者としても舞台に立ってるの、君、知っているだろう? ヘマはしないさ。だから君は別のお客さんと仲良くやればいい。君の大事なアルルカンを脅かす存在に、何故自ら近づこうとする? 君子危うきに近寄らず、さ。迷わず逃げればいい。君に相手をしてもらいたいお客さんは山ほどいるんだから」

「――うるさい」

「嫌なら嫌で別にいいじゃないか。道化師も客も代わりがいるんだから」

「――黙れ!」

 ルイスは、舞台に上がるときよりもはるかに緊張していた。劇と現実は当然だが与えられる責任の重さが違う。震える拳に力を込め、役を演じる。

「どうしたんだ、急にそんな大声を出して。びっくりするじゃないか」

「…………、」

「君がそこまで興奮するんだ、彼女にこだわる理由があるんだろう」

 アーサーは顔を上げた。しかしその目はどこをも映していなかった。

「理由なんかない。そうさ、おれは、ぼくは、自分の客を手離すことなどしなかった、今まで一度だってしなかった、なあ、そうだろう? 昔も今もこれからもずっとそうなんだ。それが道化師の掟だ。彼女はぼくの大事なお客のひとりさ、会わないなんてそんなことできないし、それに……」

 そしてうわごとのように、呟いた。

「彼女の歌を聴きにゆくと、約束した」

 月影を雲がさえぎったため、彼の表情はうかがえなかった。彼は、そっと黒い仮面を拾い上げた。


            ◆◇◆


 ある日の未明。アルテ劇団に一通の手紙が送られてきた。急いで書かれたのだろうひどく荒れた殴り書きの文字で解読に時間が掛かった。内容は、非常に簡潔に、重要な事柄をのみ記されていた。

「――近々、シャルル王がお忍びでこのアルテ劇団を鑑賞なさる予定なり。最高の演目を用意せよ、か。――おいこれ本当なのか?」

「……おそらく、本当だろう」

 アルテ劇団の副団長である二人は、人目を避けたあまり使われていない小さな一室で、顔を見合わせ話し合っていた。


 アルテ劇団は団長が不在という変わった劇団だったが、二人の副団長の手腕により、なかなかの収益を上げていた。

 副団長の一人はパンタローネという、以前寸劇で箱に閉じ込められた色欲旺盛な老人役を演じる太鼓腹の男、ブルーノ。もう一人は赤褐色の肌に白髪の長身痩身の男で一人三役をこなすアルダシールである。彼らはともに年齢も近くあったが、アルダシールのアルビノという珍しい容姿のせいだろうか、彼の方が何倍も若く見える。また、誠実なアルダシールとは打って変わってブルーノという男は、金や酒や煙草といったものに目が無く、常に酒瓶を手にして動き回るといったずいぶんと自堕落な生活を送っていた。そんなふしだらな男の酔いでさえも一瞬にして醒ましてしまうほどの内容が、その手紙にはあったのだ。ブルーノは、ちいさな目を見開かせて信じられないと首を振った。手紙の差し出し人は書かれていない。しかし、王族の忍び歩きの情報を手に入れ、かつアルテ劇団に流すことのできる者など一人しかいなかった。アルダシールは手紙を眺めつつ呟く。

「これはおそらく、あいつが必死の思いで作り上げてくれたチャンスだろう。こんな一劇団に、王族が足を運ぶ日が来るとは――。奇跡としか思えない。夢のまた夢……高嶺の花、青い鳥といったところか? ――今もまだ信じられないが、そうさ、こんな最高の機会を逃すわけにはいかない。必ず何があっても成功させてみせよう、絶対に。――そして我々はいずれ王家お抱えの劇団員となり、我らが仮面劇に輝かしい功績を……」

 ブルーノは苦笑して、歓喜に震えるアルダシールの肩を軽く叩いた。

 アルダシールは海をいくつも渡った遠い国の生まれで、そこで見た劇団の仮面劇に一目惚れし、その劇団へ飛び入りで入団したという経歴をもつ。そんな彼の過去からも窺えるように、彼は団員の中で最も、仮面劇の歴史を重んじる古典主義者であった。それにより、自分が楽しければ何でも良いと役の形を崩そうとする楽観主義者のブルーノとしばしば揉め事が起こるが、ひとまず今のところは二人の副団長の仲は落ち着いている。

 ブルーノは人の悪そうな笑みを浮かべて、アルダシールの耳に小声で囁きかける。

「つまりは、俺らがこの機会をうまく生かすことができりゃぁ、あっという間にお偉いさん方の仲間入りで、毎日の生活を心配しなくて済むってぇ話だろ? 確かに俺らにはアーサーやジャンヌのように人気の役者がいるが、この街には敵が多すぎるからな。油断できねえし。うん、だから、そう、うれしいねえ。つまり、この件がうまくいきゃあ俺は毎日酒を浴びるように飲めるって話だろ? 全く、こんな愉快な話があっていいのかってぐれぇだな!」

「……どうしてそう私利私欲のためだけに行動できるのか。私には全く理解できないな」

「こっちこそおまえには呆れちまうよ。仮面劇の歴史だ? 笑わせんな。俺はこれに毎日の生活がかかってるから演者なんぞやってるが、伝統で飯が食えるか、酒が飲めるか、ってんだ」

「――、よそう。私たちはこの話題について相容れることはできないだろう。そんなことより、これからのことを話し合わねば。まずは我らが花形役者たちに意見をあおいでみようか」

「そうだな」

 扉を開けた向こうの部屋、舞台に向け着々と準備を進める団員たちにブルーノは大声で呼びかけた。

「ルイス、ジャンヌ、バルサック、アーサー。ちょっとこっちへ来てくれ」

「ルイスは今いない」

 アーサーは簡潔に答えて、「あいつは別にいなくてもいい。あとで誰か伝えとけばいいでしょう。何かあったんですか」と切り捨てた。アルダシールは少し悩んでから、

「そうか。じゃあとにかく居る者だけに話しておこう。さっき呼んだ者以外は席を外して欲しい。三人はこの机に集まってくれ」

 ざわつきながらも団員たちは皆、副団長の指示に従って動いた。バルサックという若い男は不思議そうな面持ちで、アーサーはどこか疲れた様子で、ジャンヌという美しい女性は、談笑していた他の女団員に声を掛けてやや億劫そうに、近づいてきた。扉を閉め、皆が席に着いたのを確認してから、アルダシールは口を開いた。


            ◆◇◆


『僕にはもうあなた以上の適任者を見いだすことができない』

 ルイスは一体どういう意味で言ったのだろう。リリーは宿舎のベッドで、演奏会の舞台裏で、街の市場で、様々に思い悩んだ。

 アーサーは自分にとって救世主だ。彼は自分の歌を聴きたいといってくれた。その言葉がどれほど彼女を支えてくれただろう。彼のために自分に出来ることがあるなら何だってやる。――引き受けることは簡単だ。けれど、自分は彼のように強く、彼を支えることができるだろうか。中途半端に投げ出すことなんて出来ないし、したくない。そんな身勝手さを許したくない。失敗は、許されないし許せない。……そもそも、救いとは何だ。まさか彼がしてくれたことをそのまま返すわけではないだろう。そして何よりもまず、彼の闇とは一体……。

「何か、考え事かい?」

 今日も歌の稽古に付き合ってくれたトマスが、ピアノの横から顔を覗かせ、問うてきた。リリーははっと意識を戻し、少しためらいつつも頷いた。トマスは優しいまなざしを向け、自分の娘に接するかのように慈愛をこめて話す。

「歌のことかい? それならユグノーが言ったように耳栓をつけることで、大分良くなったじゃないか。歌の旋律がより正確になった。素晴らしい。これなら演奏会に出られる日も近いんじゃないのかい?」

「うん……」

 トマスは目尻の皺を深くして、彼女に温かな表情を浮かべた。

「僕は君たちの歌を聴くのがとても好きだよ。アニスは激しく情感豊かに。エウリカは美しい旋律で透き通るように。ネムはよく変調するけれど、それが個性的で面白い」

「……わたしは?」

「リリー、君は、誰よりも優しい」

 トマスは手招きし、近づいてきた彼女の両手をマメばかりの手でやんわりと包み込んだ。リリーはこの手に憧れていた。自分のやりたいことを、とことんやり切った手だ。そうして生み出された演奏は何よりも美しい。リリーはふふ、と声を上げた。マメがかすって こそばゆかった。それに気づいてトマスはにやりと笑った。ふたりは優しく見つめ合った。

「……君の歌はね、僕らに寄り添って、包み込んでくれる、こんな風にそっと」

「そうかな」

「君がちゃんと自分と向き合うことができたら、そういう歌を、うたえるようになるさ。もうちょっとだけ、頑張ってごらん」

 うん、と強く頷こうとしたところに、どこに隠れていたのか、リリーと仲良しの楽員たちが「もう、トマスさんったら。全然見当違いのことを仰って」と口々に笑いながら近寄ってきた。

「リリーはとある殿方への思いに頭を悩ませているのよねぇ?」

 アニスは悪戯っぽく口の端を上げて、リリーの頬をつついた。頬はみるみる赤く染まってゆく。面白がって増える指を何度も払いながら、リリーは一生懸命弁解した。

「た、確かにそうだけど、でも、歌のことも悩んでいたもの! トマスさんの言葉もとってもうれしかった! いつも本当にありがとうございます」

 女たちは各々思う存分笑ってからかってから、リリーを見つめた。

「それで? 姉さまたちに何か訊きたいこととかあったら訊きなさいよ? 特に恋愛のこととかはね」

 これは勿論、〝姉さま〟のちょっとした冗談であったが、リリーは大真面目に姉たちを見つめて質問を口にした。それもあまりに直球な問いに姉たちの方が戸惑ってしまった。

「わたしね、大事な人がいるの。その人はわたしの歌を好きだと言ってくれた人なの。その人がね、とっても辛い思いをしているみたいで、わたし、彼を救ってくれってその友人の方に頼まれたの。でも、わたしにそんなことできるかしら。ねえ、姉さま……」

 返答に困る姉たちの中で、誰よりも先に答えたのはネムという女性だった。彼女はのんびりとした口調であったが、はっきり堂々と言い放った。その思い切りの良さに、そこにいた一同――トマスを含め――感嘆の声をあげた。

「できるできないで、考えるから迷うんだよ。今やりたいことは今やるしかないんだよ。私はやりたいことがあればすぐに行動してきた。それを無計画だ向こう見ずだと、親にも友達にもありとあらゆる人から散々言われ続けてきたさ。でも、そのお蔭で私は人生一度だって後悔したことないんだ。リリー、あなたもしも明日死んじゃったらどうするの? ――突拍子すぎ? でも、いいでしょ。極端に考えてごらん。明日死んじゃったら、このままいくとリリーは絶対今日しなかったことを後悔するよ。でも私は絶対後悔しないよ。だっていつだって自分に正直に生きてきたもん。――ふふ。それってなんだか悔しくない? ……ねえ、リリーはどう思う?」

 リリーはネムを惚けたように見つめた。トマスは変わらぬ瞳で彼女らを見守っている。リリーはぐっと唇を引き締めて、息を吸い、腹から声を出して、決断した。

「ありがとうネム姉! わたし、行ってくる!」

「行っておいで。あんまり遅くなっちゃだめだよ」

「うん!」


 向かう先はただひとつ。乱れた呼吸を整えながら、リリーは劇場の前に立った。そこには舞台の後片付けをしているルイスの姿があった。彼女は一言告げた。

「彼に会いたいの」

「来てくれるって信じてた」

 ルイスは彼女を宿舎の方へと連れて行き、その扉を開けた。

「アーサーっ!」

 辺りは、一瞬にして音が消えた。皆の動きが止まる。空気が凍ったとはまさにこのことだろう。椅子に座っていた五人の団員が、声のする方へ目をやった。そこに立っていたのは、ルイスと――ちいさな少女。

 少女は団員たちの異変に一切気づくことなく、ただ一人アーサーだけを見つめた。

「話したいことがあるの。お願い、来て」

 突然立ち上がったことで、椅子が大きく音を立てて倒れたが、アーサーは一切目を向けようとしなかった。手にしていた仮面を被る際、うかがえ知れた彼の表情は、無。すべてが消え去っていた。

 皆、声を失った。事態が全くといって良いほど理解できない。ルイスと入れ違いに、アーサーはリリーの隣に立った。リリーは団員たちに一礼して、彼の手を引いて、その場を去った。それからしばらく経っても、皆自分たちの目を信じられず、全く頭が回らずそのまま茫然自失の態となった。


 リリーは彼を連れて、出てすぐのアルテ劇場の前で足を止めて彼と向き合った。そうして今伝えたい彼女の思いの丈を、すべて吐き出そうとして、それにはどんな言葉を使えば十分なのかわからなくて、ただひたすら沈黙して考えた。アルルカンもまた何も言わなかった。

 リリーは何度もつっかえながら、それでも彼の目をじっと見据えて、ついに告げた。

「あなたがすきよ」

 仮面の奥の瞳が、驚愕に染まる。

「だからわたし、あなたのことをもっと知りたいの。そうしてわたし、あなたを、――自分でも偉そうだと思うけれど――あなたを救いたいと、そう思うの」

 リリーの瞳は揺らぐことなく、きらきらと輝きを増して彼の姿を映し出していた。一方のアーサーはたじろいだ。彼女がその手を握っていなければ、今すぐにでも逃げ出してしまいそうなほど、怯えていた。彼の瞳は落ち着くことなくひたすらに動揺と恐怖を訴えていた。息が荒くなる。恐ろしい。恐ろしいことが起こった。彼は思わず自分の首に手をやった。そこはいつもの通り、きっちりと上までボタンで閉ざされている。手を首に置いたまま、声を絞り出すように答えた。

「きみが……あいしたのは、おれの仮面だ」

 彼は混乱し、自分がわけのわからぬ何者かに変わってしまう予感にただひたすら怯えおののいていた。首をゆるゆると何度も横に振る。彼女の手を振り払って逃げてしまおうとするが、そこに込められた力はあまりにも非力でで、二人の繋がった手がわずかに上下しただけであった。

「アーサーじゃない、アルルカンだ。きみが、あいしたのは」

 うわごとのように繰り返されるそれに、リリーははっきりと否定した。

「ちがうわ。わたしは、いつだってアーサー、――あなたを見ていたもの」

 自分との間隔を縮ませようと足を踏み出した瞬間、

「ひっ」

 明確な拒絶が返ってきた。リリーは足を止める。そして哀しいのをじっと我慢した。ここで逃げては、駄目だ。ようやく彼の闇に近づけたのだ。まだ、始まったばかりだ。ルイスの言葉を繰り返し、頭の中で唱える。あなたじゃなきゃ、駄目なんだ。あなたじゃ、なきゃ……

 自分はアルルカンの仮面に隠れているから決して顔を見られることない、そのことが彼の精神をぎりぎりのところで保っていた。だから、まだ言葉を口にすることができた。アルルカンの体をとった何者かとして。

「ぼくはあくまで、きみに対して客としてのあい情しか持っていない。そこらへんに歩き回るばか女ときみとは大した差が無いんだ。それなのに何度か会ってやってるだけでそんなガールフレンド面されても困る。ぼくはあくまで仕事としてきみに接してやっただけだ。……その、歌は聴いてやっていたが、それは置いといてだ。きみの言う〝あいする〟ということはぼくには理解できない。ならばそれをぼくに向けるのは見当違いというか、的外れというか、間違いっなのさ。ともかくぼくは誰かをあいするなんてことはしないし、これからもきみに対しては客としては接してやっても、大事な女として見てやることはできない、永久に」

「なにが怖いの」

 リリーは微笑んだ。「ずっと手が、震えてる。わたしが怖いの?」

「…………、」

「――わたし、アーサーがすきよ。気づいたのはついさっきのことだけれど、わたしの歌を聴いてくれたあの時から、わたし あなたがすきだったの」

「……きみの歌を聴いたのはアルルカンだ」

「そんなこと!」

 リリーは哀しそうな目を彼に向けた。彼はもう彼女と目を合わせようとはしなかった。

「言わないでよ……! わたしの歌を聴いてくれたのは他でもないあなたでしょう? ……わたしが信じられないなら否定したっていい、でも、それでも、わたしの歌を聴くと約束してくれたそのことだけは、否定しないで……」 

リリーは足早に自らの宿舎へ帰っていった。

 アーサーはルイスが迎えに来るまで、寒空の下、その場から一歩も動けずにいた。


       ◆◇◆


 ルイスは翌日、リリーを訪ねた。彼女は彼の反応を伝えた。ルイスはそれを悲しみ嘆くことはしなかった。その真逆、大いに歓喜したのだった。

「そこまでの反応を引き出せたんだ。上出来さ! 普段のアーサーなら、自分の気に入らないことがあれば即座に黙殺する。彼はずっと君の言葉に耳を傾けていたんだろう? 彼は戸惑っているだけさ、自分の心に芽生え始めた新たなる感情に、ね。気長に待ってやってほしい。彼には時間が必要なんだ」

 ルイスの言葉を受け、リリーは根気強く、彼と会い続けた。ルイスから劇団のチケットを格安で譲ってもらったりして、劇場にも足繁く通った。

「君のためなら喜んで協力するよ。だから気にしないでね。大した額じゃないから」と彼は穏やかに笑った。

 ――後から知ったことだが、リリーと別れたあとアーサーはそれはもう荒れに荒れたようだ。彼は迎えに来たルイスに、二度とこんなことをするなと罵詈雑言を吐き捨てたらしい。団員たちの間で何やら重要な話があったらしいが、制止するルイスを振り切ってそのまま寝床へ入ってしまったのだ。その日以来、彼のルイスに対する風当たりが強くなり、まともに話も聞いてくれないそうだった。これに対してもルイスは「気にしないで」と笑った。

 リリーはまた、わずかな時間であっても可能であればアーサーに会おうとした。劇場以外の場所でも、姿を見かけたら必ず駆けつけて話しかけた。

 しかしあの日から、彼は歌を聴きに彼女のもとを訪れなくなった。彼女と会っても、「歌を聴かせてほしい」と口にすることはなかった。彼女と目線を合わせることさえ厭うたのだった。


 あの一件以来、劇団内では、アーサーの名を呼んだ少女の話題でもちきりだった。ルイスに詰め寄る団員たちも少なくなかった。彼女はアーサーにとっての何者だ? その問いに対してルイスは決まってこう答えた。

「あの少女は、アーサーの救世主さ」

 呆然とする団員たちに、ルイスは興奮した様子でアーサーがあの少女に対しどれほどの反応を示したかを細々と説明してみせた。説明を受けた人々は、自身の知るアーサーの一面とルイスの話とがあまりにかけ離れていたため、冗談だろうと苦笑した。

 ジャンヌという女性は、怪訝そうな表情をルイスに向けた。

「へえ、アーサーがそんな態度取るなんて正直信じられないけれど――」

 彼女はブロンドの長髪に、すっと通った高い鼻筋、透き通る肌をもち、アルテ劇団の花形であるコロンビーヌという役を受け持っていた。コロンビーヌとはアルルカンの恋人役で、役者の美麗さを全面に出すために仮面が用意されていない、数少ないキャラクターだった。彼女ほどコロンビーヌという役にふさわしい女性は他の劇団を探してもなかなか見出せないであろう。

「ねえルイス。あんた、何かしたの?」

「え……」

 たじろぐルイスに、ジャンヌは形の整った顔を近づけてたいそう不快そうに言い放った。

「だってあの日、その女の子を連れてきたのはあんただったじゃない。アーサーの反応からして、彼女の訪問は突然のことだったわけでしょう。悪いけど、あんたが一枚噛んでるとしか思えないわね」

「そ、そうかな」

「煙に巻くの? さすが金持ちはやることが狡いわね」

 ふん、とジャンヌは苛立ちを隠さずに思い切り顔を背けた。その勢いで彼女の長い髪が波打って、甘美な香りが薫ってきた。

 挑発に似た発言を投げかけられたルイスはというと、気分を害した様子もなく、のんきに女性特有の甘やかな香りに惚けている。ジャンヌは不服そうに鼻を鳴らすのだった。

 見かねたアルダシールがジャンヌを宥めた。

「そう言ってやるな。ルイスだってアーサーのことを色々考えてやっているのさ」

「でも今アーサーが精神的に不安定なのは、間違いなくこいつのせいじゃない。そうでしょ、アルダシールさん?」

 この言葉にはアルダシールではなく、近くにいた別の女が反応した。

「それは本当ですかジャンヌさん! ――ルイさん、あなた一体何をしたんですか……!」

 ルイスのもとへ詰め寄ってきた人物は、板のように痩せた背の高い女だった。髪は寝癖でぼさぼさ。猫のようにつり上がった目を始終くるくるさせる仕草から、彼女の人懐っこい性格がうかがうことができる。女の名前はサーシャ=クルル。他の劇団と比べ、結成して間もないアルテ劇団の裏方――大道具から小道具まで――を支えてくれている非常に重要な人物であった。彼女の作品は、舞台の上で繰り広げられる劇中の世界を見事創り上げる。以前公演された寸劇に使用された女神像、あれも彼女の力作である。また、アルルカンそしてアーサーの熱烈な支持者の一人でもあった――。

 ジャンヌはサーシャに心底呆れた様子で、

「あんた、まだ知らなかったの? 例の少女事件、団の中じゃ専らその話題でもちきりだっていうのに、……鈍すぎ。せっかくだからルイスにでも説明してもらったら?」

 と匙を投げた。ジャンヌに少なからず好意を持っているルイスは、彼女の頼みを全うしようと意気込んだが、アルダシールに、

「これからのことと例の演目の細かな内容について色々話したい。来てくれ」

 と言われ、止むを得ずそちらへ足を向けた。

「ちょ、ちょっとルイさん!」

「ごめんサーシャ、またあとで……!」

 サーシャはひとり残されることとなった。すれ違いざま、ブルーノは淋しげな肩を軽く叩いた。


 アルテ劇団の花形四人の役者と副団長アルダシールとで今後に向けての会議が行われた。

 アルダシールは軽く咳払いしてから、始めた。

「前にも少し口に出したが、この国の国王が近々お忍びでルテジエンの街へいらっしゃることとなった。その際に、まことに恐れ多いことにこの劇場で、私たちの演劇をご覧いただけることとなった。――。皆、百も承知だろうが、我々に失敗は絶対に許されないのだ。必ずこの絶好の機会を逃してはならない。成功しなくてはならない。……万全の状態で最高の演技を。いいな?」

 しかしジャンヌは未だ懐疑的であった。

「その……王様がお忍びでくるって話。本当に信じていいんですか? 別にアルダシールさんを疑っているわけじゃないんですけれど、ぜったいに嘘じゃないって保証はあるんですか?」

 これにアルダシールは力強く頷いた。

「そこは安心してくれ。確かな筋からの情報だから間違いない。ブルーノも俺と同意見だ」

 ルイスはおずおずと訪ねた。

「そのブルーノさんは、一体どこに……?」

「……おそらく酒屋だろうな。まったくあいつは俺がいれば話は済むなんて言って意気揚々と出掛けるんだから――全く。副団長としての自覚が足らないな」

 アルダシールは仕方ないからと話を進める。

「まず今回の演目はアーサーらの意見から、〈百合の国〉で一番反響があった『ピエロットの悲恋』にしようと思う。ーー反響の理由はやはり、ピエロットにあるかもしれないな。東洋で有名なピエロという道化役の原型にもなるほどの人気があるからな。私も好きなキャラクターの一人だ」

仮面劇にまつわる話となると、急に熱っぽくなるアルダシールを横目にジャンヌは聞こえない程度に呟いた。「人気なのは悲恋だからじゃない? みんな悲恋好きだもの」

アルダシールは話を戻した。

「皆も知っての通り、この演目はピエロットが主役となる。アルテ劇団には珍しくアルルカンといったいつもの花形役が脇役に徹することになる話だな。

ある日ピエロットはひとりの女性に恋をする。それに感づいた友人アルルカンはあの手この手で彼の恋を成就させるため尽力する。が、彼が恋した女にはすでに想い人がおり、彼の恋は破れる。悲しみに暮れるピエロットはある日偶然にも、愛した女の命が危険にさらされていたのを目の当たりにする。咄嗟に身代わりになってピエロットは女を救ったが、不運にも自らは命を落としてしまう。友の死に嘆き悲しんだアルルカンが友人の想いを受け継ぐと言って女に近づいたところ、その女が想いを寄せていたのが実は当のアルルカンであったことがわかり、二人は晴れて結ばれるという物語。一見すると

体裁よくアルルカンが女を手にした悲劇のようだが、滑稽さを強調し、面白可笑しくすることで喜劇になる。どこまで観客を湧かせることができるかはアルルカンの腕にかかっているから、アーサー、よろしく頼むぞ。この女役は確かコロンビーヌでよかったんだよな。アルルカンの恋人はコロンビーヌと決まっているからね。そしてピエロット役だがそれは私が――」

 するとずっと黙っていたはずのアーサーが口を挟んだ。

「今回、副団長は参加しない方がいいと思う」

 アルダシールは予想外の言葉にひどく興奮した様子で立ち上がり、彼に抗議する。「何故」

 対するアーサーは淡々と事実だけを述べていった。

「副団長はただでなくとも、三つの役を専門にやってる。正直、多すぎると思っていた。いや、演技が悪いというわけじゃない。あんたの演技はおれが見ても凄いと思う。でも、役を多く任されていることが、精神的に負担になっているように見える。実際、そうだとあんた自身も言っていたはずだ。無理して本番に倒れられたら困るどころじゃない。だから今回は休んで、代わりに最近入ってきたピエールを入れたらどうかと思う。筋はいいと思うし、あんたほどの演技ができるとは思わないが、そこはおれが何とかする」

 アルダシールは首を振った。

「別に大丈夫だ、確かに疲れてはいるが、そんな大したことじゃ……」

「おれの目をばかにしてもらっちゃ困る。おれは生まれてからずっとアルルカンをして生きてきたんだ。あんたよりずっとたくさん、色んな役者を見てきた。役に思い詰めるあまり精神に異常をきたしたやつ、端からとち狂ってたやつ、劇団を去ったやつ、色々とな。年齢はあんたの方が上だが、芸歴らおれの方が上。ちょっと気分がすぐれないが大丈夫だと無理したやつから自分の心ぶっ壊していったんだ。狂気にとらわれたくないのなら、ここはあまり気張らない方が賢いとおれは思う」

 このような言い方をしつつも、アーサーはアルダシールに対し選択の自由を与えてはいなかった。休め。それ以外は断固として認めないという強固な姿勢。不安定な役者は入れない。足手まといを徹底的に排除しようとするアーサーの考えが、冷徹な声色や双眸から、彼の纏う凍てつく空気からでも窺え知れた。アルダシールと同じくらい、アーサーもその日に賭けているのだ。その思いがわからないアルダシールではない。それでも舞台に立ちたいという望みを捨てられない。彼は何度もなんども反論しようとして口を開閉した。しかし、最後には深く肩を落として了承した。

 そうしてアルダシールは純粋な質問としてアーサーに投げ掛けた。

「そう言うお前は大丈夫なのか? お前の方がその……」

 アーサーは逡巡する素振りを一切見せなかった。

「おれは別に構わない」

「どういう、意味だ……?」

「アルルカンにのみ込まれようと、構わない。むしろ本望だ。狂気にでもくれてやるさ」

 反論は認めないとばかりにアーサーは次の話題へと移行し、やや強引に会議を終わらせた。

「ピエールに話を伝えてくる」

 とだけ言い残し、彼はどこかへ行ってしまった。ジャンヌは立ち上がり、長い髪を束ねながら出て行った。「ほんと、あいつ気に入らない」

 ルイスはアルダシールを気遣ってから、深く思案した面持ちでその場を離れた。バルサックはひきつった笑みを浮かべて皆に軽く会釈して席を立った。

 残されたアルダシールは重いおもい溜息をついた。



            ◆◇◆


 アーサーの仕事帰りを待つ女性たちに紛れ、リリーもまた彼への贈り物を抱き締め彼の登場を待った。もちろんこれは彼と会うための口実であった。

 いくら劇のチケットが無料で貰えるからといって、彼女の雀の涙ほどの給料では、何度も花束といった小ぎれいな贈り物を買うことはできない。リリーはどうにかならないものかと考えに考えた結果、自分の得意料理であるパンプキンパイを作って彼に贈ることにした。

 アルルカンの仮面を被っている彼ならば、アルルカンとして、あくまで仕事の一環として、リリーからの贈り物であっても喜んで受け取ってくれる。が、仮面をしていないアーサーの場合であれは、彼女の声に気づかぬふりをして立ち去ってしまうこともしばしばだった。

 彼は滅多に仮面を外さない。しかし、リリーと二人きりの時にはわざと仮面を外して、冷たい態度を取った。仮面を取るという行為は、彼の中では天と地ほどの明確な違いがあったが、リリーにとっては理解しがたい感覚だった。目の前にいる人物は確かに同じ人なのに、話し方も違えば、彼女にとる態度も正反対。仲良くなれたと思えば、すぐ突き放される。悪口をいわれたと思えば、すぐ機嫌をうかがって謝る。冷淡に振る舞われたあとに、仮面を被って優しく慰められては、彼女が混乱するのも無理ないだろう。

 仮面という境界線。確かにこれは、どんな役者も少なからず持っている役と自己との線引きだったが、アーサーのこだわり方は他と比べても過剰すぎた。

「あんたさあ、何でおれにつきまとうの? 正直鬱陶しいんだけど」

 アーサーは劇場にやってきたリリーを、ひとけの無い物陰に連れて行き、仮面を外して、わざとらしく溜息をついた。一方のリリーははきつい言葉をぶつけられているのにも関わらず、平気そうに辺りをきょろきょろと見つめていた。アーサーは言う。

「別におれじゃなくてもいいんだろう? 誰でも、よかったんだろう? そりゃあ、あんたが言うようにおれが励ましてやったお蔭で救われたとか、そういう? 気持ちになれたみたいだが、それって優しくしてやったのがたまたまおれであったというだけだろう? じゃあもしおれ以外のやつが同じように言い寄ってきたら、あんたどうする? あんたは同じようにすき、とか吐いてさ、きっとそいつを好きになるんだろう? ……だから、」

「――そうだとしても。あなたが救ってくれたのよ」

「……あんたは自分が辛い時に優しくされたから、それを恋とかそういう類いのもんに錯覚しちまってるだけで、本当は誰でもいいんだろ? 大体あんたには夢があるって言ってなかったか? それに向かって頑張るんじゃなかったっか? こんなとこで時間無駄にしてていいわけ。おれもあんたが客として来るなら普通に応対するとは言ったが、そう毎日来られても困る。……というかあんたチケットどこから入手してるんだ、金無かったって言ってなかったか?」

 リリーは始終笑顔をたたえて、黙っていた。その屈託無い、無邪気な笑みにアーサーはこれ以上なく苛立ち、口早に相手を詰った。

「田舎から都会へやって来て、恋愛やら夢やら輝かしいものに憧れてるのかもしれないが、そこにおれを巻き込まないでくれないか、迷惑なんだ。あんたと居ると調子が狂って、――せっかく作り上げたおれの中のアルルカンが崩れるんだよ」

 それに。アーサーはぐっと彼女に顔を近づけ、吐き捨てた。

「おれは絶対にあんたをすきになることはない。もうほんとうに、お願いだから諦めてくれ」

 何も言わないリリーにアーサーは舌打ちし、こうなればとアーサーは彼女とともに再び劇場のところへ戻り、そこにいる一人の女性を示し、言った。

「あいつが見えるだろ。ほら、アルルカンの恋人役のコロンビーヌ。舞台にいつも出てくるから、あんたも知ってるだろう? ――あいつがおれの本当の恋人だ。そうだからおまえを好きになってやることはできない」

 外していた仮面をつけ、「おーい、コロンビーヌ!」と大声で呼んだ。ポニーテール姿のジャンヌはにこやかに手を振り返した。満足したようすのアーサーは横にいるリリーを一瞥する。ここでリリーはようやく笑顔以外の反応を示したが、あまりに一瞬の変化だったのでよく見て取れなかった。が、アーサーはこれでもう懲りただろうと半ば得意顔でリリーの返事を待った。

 そうして出された答えが、これだった。

「わかった。じゃあ、これからは二人の迷惑にならないように、あなたのお客さんとしてあなたに会いに来るよ」

「……あ、ああ」

 ここまで酷い仕打ちを受けていながら、まだおれに会う気が起こるのか。こいつばかなのか、鈍いのか、頭弱いのか何なんだ。アーサーは内心思いながらも、「まあ客としてならこっちも有り難いが――」とだけ言い捨て、その場を去った。


 そのあと、結んでいた髪を解くことで元の自分に戻ったジャンヌが、つかつかとアーサーに歩み寄ってきた。その顔には抑え切れんばかりの怒りが現れていた。ジャンヌは甲高い声で怒鳴った。

「あんた何なの? あたしもコロンビーヌとしてお客の前に立ってたから相手してやったけれど、舞台の上以外では極力話しかけてこないでって、何度も言ってるじゃない。正直あんたと同じ劇団ってだけでも嫌なのに、むだな接点作らないでよ」

「……騒がしい女」

「しかも、さっき一緒にいた女の子――誰? また、ファンの子たぶらかして遊びほうけてるの? まったく、何人目よあんた。男として最低の部類よあんた」

「わかった、もうしない。これでいいんだろ」

 自室に帰って行った彼の背を、ジャンヌは睨み続けていた。

 そこへ偶然通りかかったルイスに、怒りがおさまらないジャンヌは怒鳴るようにつっ掛かっていった。

「ねえルイ、全くなんであいつはあたしに話し掛けてくんのよ。あたしいっつもあいつのファンから嫌がらせとかされるのよ! あいつ一体何やってんの? どうせルイは全部知ってるんでしょ!」

「――君、たぶん利用されてるんだと思う」

「は?」

「面倒なファンがいたら、『あいつがおれのガールフレンドだ』って適当な女の子を指して手を振るんだ。女の子は大体、同じ劇団の女の子で。事情を知らない団員はそれに応えるだろう? それでファンはその呼びかけに応えた団員をアーサーの恋人だと信じ込む。――面倒を嫌って詐欺まがいのことをしてるんだよ。前の劇団でも同じことやっててさ。僕は何度も注意してるんだけど……」

「何それ!」

 ジャンヌは信じられないとばかりに叫んだ。「それってファンの子にも、濡れ衣の子にも、勿論あたしにも失礼じゃない! 女をなんだと思ってるの? ああもう、最低最悪の男だわ! 本気で劇団変えようかしら!」

「えっ」

 ルイスは慌てて彼女を引き止める。「そんなの淋しいじゃないか、行かないでよ」

 ジャンヌは射抜くように睨んだ。しかし怒った顔も美しくあった。「じゃああんたが何とかしなさいよ」

「そんな無茶な……。僕今、彼に口もきいてもらえないのに」

「自業自得ね」

 途方に暮れるルイスを見て、久しぶりに日頃の彼への不満が満たされたのか、ジャンヌは満足そうにブーツを高鳴らし、髪をなびかせて自分の部屋へと帰っていった。その一部始終を見ていたサーシャはそんなルイスを哀れに思ったのか、足早に近寄って、

「気にしちゃだめですよルイさん、ジャンヌさんの男嫌いは今に始まったことじゃないんですから……」

 と励ましてみたが、ルイスはまた別のことにひどく気を取られている様子で、彼女の声など少しも聞いてなかった。

「私なんだかこんなのばっかり」

 結局肩を落としたのはサーシャ一人だけである。


            ◆◇◆


「最近、調子いいじゃないか、リリー。そうね、今週の演奏会、出てみるかい?」

 そんな楽長からの提案に、不安そうにこちらを見つめるリリーを不思議に思った。フローラはてっきり大喜びするだろうと思っていたのでこの反応が意外だった。

「どうしたんだい、妙に元気がないじゃないか。自信がないのかい? そんな心配しなくとも大丈夫さ。楽長の私が言ってるんだ、この調子でいけばきっとうまくいくさ、自信もってやってごらん」

「……、はい」

「……。今日は久しぶりに市場に出てみようかしらね。あんたが今日の夕食当番なんだろ? ちょっと早いけど、買い出しに行こう。あんたは荷物もちだよ」

 そうして二人は市場へと出掛けた。

 トマスは彼女たちの後ろ姿を愛しそうに見送りながら、暇つぶしにセロを気ままに弾き興じていると、珍しい訪問者がやってきた。

「トマスはいるか」

 名を呼ばれたトマスは、予期せぬ相手に楽器を放り出して急いで駆け寄った。扉の向こうの男に、満面の笑みを向けた。

「ああ、ユグノーじゃないか! 久しぶり。元気にしてたかい? 君が訪ねてくるなんてとても珍しいね。こっちに出る用があったのか? もっと早くに言ってくれればこちらだってお茶のひとつでも用意できたのに……」

 喜ぶトマスとは対照的にユグノーの表情は厳しかった。

「マリアーヌはいるか?」

「マリ……ああ、リリーのことか。彼女はたった今市場へ向かったところだよ。フローラも一緒だ。そうだ、フローラとも会ったらいい。久しぶりにみんなで夕食でも――」

 ユグノーはぴしゃりと彼の話を折った。

「いないならいい。最近マリアーヌがうちに来て、歌が上達したお礼にと、手作りの菓子をもって挨拶に来たんだが」

「礼儀正しい子だねえリリーは。とっても良い子だろう」

「……良い子かどうかは置いといて。気づいたことがある。――俺は今まで結構な数の歌い手を見てきた。努力して成功するやつ、無茶なことして喉をつぶして失敗したやつ……色々な。それを見るのが嫌になって森の中で名前も隠して生活しているわけだが。まあつまり、そんな経験からマリアーヌに対して妙な危機感を抱いた。気のせいだとは思うんだが、どうもそれが頭から離れない――」

 トマスはそこでようやく、ただ事ではないとユグノーを見た。

「つまり、何が言いたい?」

 ユグノーは視線を落とし、眉間に皺を寄せ、心苦しそうに告げた。

「一緒なんだよ」

「え」

「喉がつぶれて歌えなくなった時の教え子たちの、辛いのを我慢したような顔に、今のマリアーヌはそっくりなんだよ」

 ユグノーは堪えきれないとばかりにトマスの両腕を握り締め、重々しく、懇願するかのように必死になって叫んだ。ユグノーの取り乱した姿に、トマスは呆気に取られている。リリーが何故? 今、歌も何もかも順調にいっているはずの彼女が、何故?

「お前、ちゃんとあいつの側にいるなら、見といてやれよ。元気そうだからって油断するなよ、頼むから、お前だけでも注意しておけよ。――じゃないとあいつは」

「あいつは……?」

「あいつは」

 ――こなごなに、壊れちまうぞ。


            ◆◇◆


 来たるべき日に備え、アルテ劇団は熱心な特訓を行っていた。劇に出られないアルダシールが指揮を執り、劇に出る予定の役者は徹底的な技術磨きを、出番の無い者は、舞台の見栄えを少しでもよくするために裏方の仕事を、と劇団中がせわしなく動き回っていた。

 今回の主役に起用されたピエールは団員の中では年長だが、なにぶん自信がなく引っ込み思案の男で、始終おどおどと視線を彷徨わせている。アーサーは彼に何度も言い聞かせた。

「自信を持てほしい。あんたは確かに入団してそう日も経ってはいないけれど、筋はいい。これはあんたにしか出来ないことなんだ。何かあったらおれが助けてやるから、あんたはあんたなりに努力してくれたらいい」

「うあ、は、はい」

 アーサーは少し不安になる。しかし、彼の神経質な性格と夢想家で繊細なピエロットの役との相性はばっちりだ。少しくらい荒くとも、あとは自分が何とかすれば、十分笑いは取れる。これで王様のご好意もいとも簡単に獲得することができるだろう。アーサーは人知れず笑みをこぼす。コロンビーヌ役のジャンヌとは仮面抜きでは取り付く島もないが、ひとたび舞台に上がれば、二人の波長はぴったり合い、様々な即興を交わすことができる。あまり認めたくはないが、確かに彼女の演技は優れている。また、その容姿も素晴らしい。そして、ルイスの話作り。彼には台本を改めて念入りに推敲するよう指示してある。彼に演技の才はないが、彼の書く物語は面白い。ここにサーシャら裏方の大道具、小道具が用意され、劇の質を上げる。あとはピエロットがアルダシールであれば完璧だったが、まあ仕方のないことだろう。着々と準備はできていた。

 ……しかし、その日の為ばかりに力を注ぐわけにはいかない。日々の劇場の活動も大事なのだ。それに王がこの劇団を見物しに来るということは、お忍びということもあって内密にしなければならない。よって急激に装いが豪華になったり質が高くなってしまっては、普段から足を運んでいる常連客が怪しむ。したがって、王が訪問するその日に向けて少しずつ、不自然にならない程度に劇団の核を上げていかねばならないのだった。


 本日はルイスとともに街へ出て劇団の宣伝をせねばいけなくなり、アーサーはできるだけルイスに話しかけないようにして仕事を行った。ルイスは最初、相手にされないことをわかってはいるものの懸命に声を掛けてきたが、疲れてきたのか、だんだん独りごちるように呟き始めた。

「王様がやって来る日に合わせて色々動かなくちゃならないから、本当大変だよね。それでなくとも団員が足りなくって困っているのに、このままじゃ過労で死んでしまう……。弱音はだめなんだけど、つい、ね。……そういえば昼の鐘が鳴ったら僕は受付でチケット係をしなくちゃいけないから、劇場に戻るよ。僕の代わりには違う団員の子が来るから、よかったねアーサー。僕を無視しなくて済むよ」

 彼と一緒の時間もあと僅かか、と気を良くしたアーサーは興が乗ったのか、些か愉快そうに彼に話した。

「人が足りないのなら、よそから誰かを臨時で雇ってくればいい。チケット係でも荷物運びでも、適当にさせておけばいい」

「でもそんなお金は……」

「――入るだろ。我らが王様から、な」

 ルイスは苦笑する。

「うーん。うん。そうだね、まあちょっとは考えてみようかな」

「そうしろ。おまえは話作りにだけ力入れとけばいいんだよ」

 橋を渡り、北区の方へ進んでいくと、何やら人が大勢いてざわざわと騒いでいた。二人は不思議に思ってそちらへ近づいてゆくと、どうやらフローラ楽団の演奏会が開かれるようであった。アーサーの足が止まったのを見て、ルイスはぼそ、とさり気なく呟いてみた。

「今ならまだ間に合うかも」

「……、」

「彼女、出るかもしれないよ、舞台に。僕さ、彼女が歌ってくれたとき、風が強くてうまく聞き取れなくってさ……交代にはまだ早いし、時間もあるし、ちょっと覗いて行こうかなー」

 そう言ってチケット売り場の方へ忍び足で歩いていくルイスの肩を、力強い手が引き止めた。

「……二枚だ」

「はいよ」


            ◆◇◆


 中は、名高い楽団なだけあると感じさせるほどに広く、綺麗で華やかだった。二人は思わず息を呑んだ。観客の数が半端ではない。席はすべて満席で、アーサーらを含め多くの人が立ち見席――この場合は立ち聴きだろうか――であった。アルテ劇場のすり鉢状の造りとは違って、観客席よりも高い位置に舞台が設けられており、そこでは既に楽手と歌い手が暗い舞台の上に立って、最後の調整を行っていた。低い音、高い音、互いに確かめるように響く。控えめではあるが それを耳にしただけでも、この楽団の音楽性の高さを感じる。びりびりと空気が彼女らの音を伝え、響かせる。アーサーは音楽に疎かったが、そんな彼でもこれらの音に心が震えた。まして音楽に心得があるルイスは感動のあまり涙ぐんでさえいた。

 楽手と歌い手の緊張が伝わってくる。アルテ劇団とは打って変わってフローラ楽団は、演奏が始まる前でも辺りは静まりかえり、歓談している人の方が少なかった。アーサーとルイスはともに並び立ち、開演を待った。


 やがて眩しい光が一瞬にして舞台を照らした。

 舞台に立つ者たちが一斉に礼をして、指揮者が壇に上がった。指揮棒を空中に上げ、楽手が楽器を構える。楽手の後ろに並び立ち、大きく口を開けたのは歌い手たち。そして、演奏会が始まった。

一瞬にして、彼女らの音楽は人々を引き込んでいった。様々な楽器の多彩な音色がひとつの調べを創りだし、それに歌声が乗り、完成された音楽として観客のところまで届いてくる。人々の鼓膜を時には切なく、時には甘く、優しく、強く、哀しく、温かくふるわせる。観客たちは目を閉じて聴く者もいれば、その圧巻の音楽に驚かされ、目を大きく見開いた者もいた。一曲、二曲と、音楽は時間はあっという間に流れてゆく。

 少しの休憩のあと、いくつかの楽器が去り、わずかな楽手と何人かの歌い手が前に出てきた。

「あ……」

 思わず声が漏れた。舞台の上には、ひどく心細そうな面もちをした少女が立っていた。彼女は背の高い女性の間に挟まれていた。アーサーはじっと彼女を見ていた。舞台とは距離があったので、勿論彼女がアーサーに気づくことはない。仮に近くにいたとしても、今の彼女には辺りを見渡すといった余裕など持ち合わせてはいないだろう。彼遠くからは見えない汗ばんだ丸い手が、小刻みにふるえている。よく見ると唇も、不安そうにわなないている。そこから声を出して歌をうたうというのに、なんという頼りなさだろうか。

 ピアノが鳴り始めた。リリーは息を吸い、軽く耳を押さえて歌い始めた。歌が、はじまる。他の者の歌につられないよう、伴奏につられないよう、必死に自分の音を探した。手の震えが体の震えに繋がり、やがて声の震えへと変わっていく。隣に立つ歌い手が彼女を一瞥する。怖い。失敗が、自分の歌が消えていくのが、自分がいなくなるのが、恐ろしくてたまらない。リリーはこのまま膝から崩れ落ちてしまいそうに思った。それでも歌い続けた。こんな状態であっても、彼女は歌をうたっていたかったのだ。何故かはわからない。ただ漠然とした感情が歌うことを強いた。ここから逃げることを拒絶した。

 掴んでいたはずの音が遠のく。歌声が揺らぐ。しっかりしろと自分に言い聞かせる。眩しい、光。自分を照らしているはずの光が、何故か自分を刺すように思える。自分の耳に触れ、耳栓をもっと奥へ押しやろうとした。――瞬間、片方の耳からそれがぽろりと落ちてしまった。

「え……?」

 途端に耳に入ってくる音、音、おと。怒濤のように流れ込んでくるそれに、リリーは動きが止まった。もう、わからない。自分がどの小節をうたっているのか、どのパートにいるのか、どこにいるのか。わからなくなった。立ちすくむ。ここで初めて、リリーは周りを見渡した。多くの人がこちらを見ていた。人々はただ舞台の上を見つめていただけだったが、リリーにはそれらの視線が全て自分を責めているように思えた。満足に歌をうたえないくせに。想いをうまく伝えられないくせに。――独りのくせに。足が震える。もう駄目だ……。 倒れそうになったところを、すんでの所で両隣にいた歌い手が彼女の背中を支えてくれた。口を開くだけでいい。最後まで歌いきれと目が強く訴えていた。虚空を映していたリリーの瞳に、わずかばかりの光が点った。足を踏ん張らせ、何とか自分の体を自分で支えた。歌ってみようと喉をふるわせてみた。擦り切れた吐息しか出てこなかった。それでも口を開き続けた。音は止んだ。

 絶望。リリーは再びこの文字を思い浮かべることとなる。――。


 演奏会は閉幕した。アーサーは足早に出て行った。ルイスが慌てて後を追いかける。

「どうしたのさ」

 振り返り、アーサーは真っ赤な顔をして、彼に理不尽なまでに怒号を浴びせた。周りの人々が喧嘩か何かと勘違いして集まってきた。それに気づいて、アーサーは言い足りないのを必死に我慢して、思い切り吐き捨てた。彼の心を渦巻くこの感情は、裏切りに遭った者のそれによく似ていた。

「あいつには……ッ、がっかりだ! なんだよあれ、あんなの、あんな態度で、舞台に立つなんて……!」

 心底悔しそうに、アーサーは詰った。

「おまえ、あの舞台に立ちたくてここまで来たんじゃなかったのかよ……」

 ――おれ、おまえの歌は、本当に、ほんとうに――。


            ◆◇◆


 演奏会が終わり、片付けも終え、リリーは会場の扉を開けてそこから逃げだそうとした。

 その姿を見た楽員の何人かが、彼女を引き留めた。

「どこ行くの、リリー」

「……姉さま」

「また、例の劇団のとこへ行くの、リリー」

 アニスはそっと歩み出た。その手は静かな怒りに震えていた。エウリカが必死に押しとどめようとするが、それを振り切った。アニスは泣いていた。

「逃げちゃ、だめだよリリー。たしかにあんたは大きな失敗した。でも、逃げちゃだめだ。闘わなきゃ、いつまでたっても満足いく歌なんて歌えやしないんだよ!」

 強い感情を堪えるような声に、リリーは翳った瞳で応えた。

 アニスを押しのけ、この楽団で一番人気の歌い手が出てきた。彼女は長い間、リリーに対して不快感を抱えていたが、ついにこのとき、思いの丈を尖った刃で突き刺すように彼女にぶつけた。

「いつも努力してるから、頑張ってるから大目に見てあげてたけど、もう限界。あんたここから出て行きなよ。歌もやめなよ。娯楽に遊びほうけてるくらいなんだから、あんたに歌なんかいらないよね。努力しない能なしって夢を持つ権利さえ無いの。あんたの暇をうめるために楽団があるわけじゃないし、あんたに合わせるための時間なんて無いから。逃げたきゃ逃げればいいじゃない。覚悟無いくせにここに居ないで欲しいわ」

「ちょ、ちょっとそれはあんまりだわ……!」

 リリーをかばって何人かが歌い手を止めた。

「……何よ。あんたたちや楽長がべたべたに甘やかすから、それに乗っかってこの子はぶらぶら遊びまわるのよ、大体私はずっとこの子やこの子に肩入れしてるあんたたちの態度が気に入らなくて――」

「そ、そんなの……! だって、リリーは今までずっと一生懸命になってがんばってたんだから、少しくらいなら……」

「ネム、あんたが何か適当に言ってこの子をそそのかしたのも、私ちゃんと知ってるんですからね。勝手なことばかり言って、楽長を困らせて……絶対に許さ――」

「やめて」

 遮ったのは、感情の読み取れない希薄な声であった。ちいさい囁き声であったが、皆の口は一瞬にして閉じられた。俯いているので彼女の表情はみえなかったが、それがどこか恐ろしく思えた。まるで自分たちが知っている少女とは別人――。

「ネム姉さまも悪くない。アニス姉さまも、誰も、だれも悪くない」

 前髪が風になびいて、虚ろな双眸が露わになった。周りにいた者たちは皆、彼女から狂気に似た何かを感じ、戦慄した。

「悪いのは、わたしだけだ」

「リリー!」

 騒ぎを聞きつけた楽長がリリーの前に立った。リリーは楽長と向き合った。リリーの瞳に怯えの色はなかった。何も、表情らしい表情はひとつも浮かんではこなかった。しかしそれは夜の闇に溶けて、周りの人は確認することができなかった。楽長はただ一言、宣告した。

「いいかいリリー、二つに一つだ。諦めるか、出て行くか。あんたが決めな」

 そうして。リリーは項垂れた。そのまま崩れてしまいそうに思えたが、彼女は自分の足で歩き、扉の中へと入っていった。

 フローラは下を向いて黙った。リリーの隣にはエウリカとネムがついた。アニスは泣き崩れた。リリーを詰った歌い手はいまだおさまらない震えに、怯えていた。


            ◆◇◆


 宿舎に戻り、リリーは一緒に寝ていた団員たちに声を掛けた。

「姉さま、寝た?」

「……いいえ、起きてるわ」

 隣にいたエウリカだけが起きていた。他は皆、整った寝息をたてている。

「――大丈夫よリリー。歌だけが音楽じゃないもの。一緒に頑張りましょう。私もね、たくさん失敗してきたわ。でも、そのお蔭で今があるの。あなたは決して恥じたりしてはだめよ。次に繋げていくのよ」

 そう言って少し起き上がって、リリーの髪を撫でつけた。

「もうお休み」

 そうして彼女の頬にキスをした。「大丈夫、だいじょうぶよリリー」

 ――しばらくしてから、リリーは声を掛けた。

「姉さま、もう寝た?」

 今度は返ってこなかった。リリーは起き上がり、辺りを見渡した。

 そして。まとめておいた荷物を引き出し、それを持ってベッドから抜け出した。

「ごめんなさい。わたし、もうここには居られない」


            ◆◇◆


 宿舎を出ると、フローラ楽団の近くにルイスがいた。細かい雪がちらつき、外の気温は肌を刺すようだった。彼の口元から白い息が漏れる。

「忘れてた? 今日、劇のチケット届ける日だったでしょ」

 そうしてにこやかに手を上げた彼に、リリーは駆けて、服の裾を掴んだ。

「……どうしたの?」

「お願いが、あるの」

 リリーは潤んだ瞳で見上げた。

「わたしを、アルテ劇団で働かせて」

「えっ」

「アーサーには内緒で、劇団に置いてほしいの。何でもする、何でもするから……」

 ルイスは体をふるわせて訴えてくる彼女は、なんと可憐であやうい存在なのだろうかと思った。自分は彼女に多くを望みすぎていたのではないかとここでようやく思い至った。やはり無茶だったのだ。アーサーの心を変えることなど、決してできないのだ。

 ルイスはそっと彼女の肩に手をやった。

「大丈夫。女性の願いを、無下にするなんてこと僕は絶対にしないよ」

「ルイス、さん」

「おいで。僕がなんとかするから、安心してください」

 ありがとうと擦れた感謝の言葉が、妙に胸に突き刺さって離れなかった。


            ◆◇◆


 アーサーはピエールとの稽古を重ねた。

「いいかピエール。ここでおれが大袈裟に動き回るから、おまえはピエロットらしく体全体でおれの動きを追ってくれ。そうしたら、おれはぴたりと立ち止まるから、ピエールはしばらそのままで。いいか?」

「ぼ、ぼくにできるかな……?」

「――できるようにしろ」

「は、はあ……」

「日に日に良くなっていってるから。自信を持て」


 次にアルダシールのところへ向かう。

「ちょっといつもとは形を変えて、悲劇の面を強く出そうと思うが、どう思う? ほら、〈百合の国〉の人間は悲恋の色がつよく出ているやつが好きだろう。もう少し、悲しい色を出したらもっと受けると思うからさ」

「……うん、その方がいいかもしれない。土地に合わせて工夫するのも大事だしな」


 そしてルイスのところへ行く。

「台本、もう少しピエロットの独白を増やせ。テーマは悲恋だ。〈百合の国〉受けを重視して書け」

「わ、わかった。でも、間に合うかな?」

「間に合うに決まってるだろ? 大筋を変えるだけだ。劇はほとんど即興なんだ。台本なんて無いに等しいが、あって困るものじゃない。死ぬ気で仕上げろ」

 

 そうして最後に、ジャンヌのもとへと足を向けた。

「おい、莫迦女。ヘマするなよ」

「いわれなくてもわかってるわよ莫迦男!」


            ◆◇◆


 アーサーは王の訪問が明日に迫っているということで、一日休みをもらった。

演劇に出る他の役者も同じように、明日に備えて休むことになった。

 彼はその半分を台詞回しや振る舞いの確認、手品や軽業の練習などをして過ごした。それが済むと昼飯を食べて、ふらふらと劇場へと足を向けた。そこはいつも通り、劇を見に来た群衆がチケット片手に集まっていた。アーサーは珍しく上機嫌で口笛を吹きながら、受付の方へ足を向けた。思った通り、仮面をつけた人間がチケットをひたすらにちぎっていた。その内の一人であるルイスを見つけ出し、思い切り背中を叩いた。「ぎゃっ」情けない悲鳴が上がった。

「精が出るねえ、エヴァンズ君?」

「だからそれやめてって言ってるだろ……」

「何でだよ。おまえの家の名前だろう」

「僕にはもう、その名前で呼んでもらう資格が無いんだ。……それより! 一体何しに来たのさ。暇ならちょっとは手伝ってよ。――というか君、何だかお酒のにおいがする……なんで? もしかして酔っ払ってるの?」

「ん? ああ、ブルーノの酒が戸棚に隠してあったから、ほんの少し頂戴した」

「ほんと何してるんだよ……。今日は明日に備えて休むんじゃなかったっけ? 邪魔だからさっさとどっか行って……って、ちょっと聞いてる?」

「うーんしかしついに明日か。長かったような短かったように思う、そうだろ、エヴァンズくん。ええっと劇に出ないやつらは今まで何してたんだっけか……あ、舞台の衣装とか裏方で働いてくれてたんだっけか。じゃあ、そいつらにも休みをやらないとさすがに不公平だろ? おれから言っておくさ。何ならおまえも休むか? まあ明日は、全部おれらに任せて、出世道駆け上がろうって話だな! はは」

「饒舌だね。酒のせいかな」

「吹っ切れたからだろ?」

 アーサーは嗤う。

「どっかの目障りな女が消えて、ずっと引っかかってたもんも消えて。全部楽になった。あとはアルルカンに委ねるだけだ。どうだ。素晴らしいだろ」

「な、アーサーっ!」

「何だよ大声出して……わかったよ、消えますよ。ったく」


 その帰り道にひとりの乞食と目が合った。どこに行ってもこういうやつはいるなとアーサーは思いながら、良いことを思いついたとばかりに口端を上げ、そいつを手招きした。

「来いよ。腹いっぱい食い物、食わせてやるよ」


            ◆◇◆


 楽屋の扉がノックされる。

「お荷物が届いています」

 面倒に思ったアーサーはいい加減に返事した。そっと扉が開かれ、仮面をした人間が入ってきた。どうせルイスのやつだろうと決めつけ、アーサーは中断された話を続けた。

「それでさあ。おれが唯一気に入ってた歌い手がいてさぁ。おれもそいつのその歌だけは認めてやってたんだけど、ひとたび舞台に立つとさ、全然だめなわけだ! 嗤っちゃうだろ? そいつはいっつも歌いたい歌いたいってばかみたいに繰り返してたくせにさ、いざ舞台に立ったら足が竦んで歌えませんってな。始終目は泳いでるし、体震えてるの遠目でもわかったし、歌も全然だめ。音楽のこと全く知らないおれでもわかるんだから、よっぽどだろ? な、そう思うだろ?」

 楽屋の隅で、がさがさと物音がしている。乞食がアルルカンへの贈り物を片っ端から広げてそれを口に押し込んでいるのだ。

「まあおまえは今、食べることに必死だもんな。まあ食えよ。その代わり今日一回切りの話だし、他の連中に言うなよ? 言ったら今まで食った分全部支払ってもらうから。あ、服とかは置いとけよ。使えるもんは使わないと女も可哀想だからな」

 贈り物の山のその中には、少し形が変な包み紙があった。仮面の人間がじっとそちらを見ているので、アーサーもちらとそちらを見た。が、すぐに視線を背けた。そこに乞食の手が伸びたのだ。

 乱暴に梱包が無茶苦茶に破られ、中から綺麗な焼き色をしたパンプキンパイが現れる。

 一度は目を逸らしたアーサーだったが、それを見て高らかに嗤って、笑い涙を拭いながらひどく謗った。

「あいつってさぁア。口開けばすぐ夢だ何だって喚いてたけどさ。結局は自分の才能の無さに絶望して、でも大好きな故郷にも帰るに帰れなくて、異郷の地で孤独感に打ちひしがれて、やりたいことさえ見えなくなって逃げてる臆病者なんだよ。結局さ、歌なんて言うほど好きでもなくて意固地になって拘ってるだけだろ。そんなやつが夢を叶えられるわけないのになぁ! なあ?」

 話し相手の乞食は黙々と咀嚼するのみだ。

 彼に言葉を返す者などいないはずだったのに。

「――ないで」

「あ?」

 ドサッ。

荷物が地面に落ちた。アーサーは「おい!」と舌足らずに怒鳴ってみせたが、わなわなと震えるその手が妙にちいさく思えた。よく見ると、全体的に身体がちいさい。酒で視界がぼやけるが、背格好から女のようであることが辛うじてわかった。

 徐々に頭がさえてきたアーサーは、大きく目を見張ることとなる。

「誰だおまえ、……ルイスじゃ、ないのか? おい、ちょっと待て……おまえ、まさか、嘘だろ」

「――しないで、わたしの」


 リリーは体全体で、喘ぐように叫んだ。


「……わたしの、わたしの大事な夢を、ばかにしないで――ッ!」


 ――どれほどの苦痛がそこにあるのか、その表情は仮面に遮られ、わからない。

 楽屋の扉が勢いよく開く。

「リリーちゃん!」

 もう一人の仮面の人間が、出て行った彼女と入れ違う。アーサーは唖然として動くことができない。ただただ動揺を隠せず、荒々しい呼吸を、繰り返し、くりかえし……

「っ、アーサー、君は、君はッ!」

 アーサーの肩を思い切り引っ掴んで、強く揺さぶった。ルイスは堪え切れぬ憤怒のあまり、自らの瞳を真っ赤に潤ませている。

「とんでもないことをしてくれた。なんで僕じゃないってわからなかった? 背丈だって全然違ったし、っ、声だって……!」

「金髪だったから、あんまり考えなくて、それに、酒が」

「話にならない!」

 ルイスは彼を睨みつけた。

 アーサーは力無い質問を呟くばかり。「なんで、なんであいつがここに、楽団はどうした、なんでなんでなんで……」

 この騒ぎに乞食はすぐさま、ありったけの食料を腕に抱えてわが身をくらませていた。さすがと言うべきか。いや、そんなことよりも。

 ルイスは胸ぐらを掴んだ。怒りと彼への憐れみと彼女への申し訳無さに掴んだ手が揺れる。

「僕はどうやら彼女を過信しすぎた。彼女にあんなこと、頼む僕の頭が狂ってた。ここまで救いの無い人間を、どうこう出来るやつなんていなかった。いないんだ!」

 その目からはついに涙が零れた。

「君は彼女を、無茶苦茶に傷つけたんだ」

「あ……っ、う、あ」

 視点の定まらない目を冷淡な射抜くよう見据えながら、純粋な心に怯える不憫な男に諦めの息をつく。胸ぐらを放し、手首を握り、彼に背を向ける。

「探しに行こう」

 彼は狂ったようにぼそぼそと「仮面……アルルカンの仮面が」と口を動かした。この期に及んでまだ、そんなことを言うのか! ルイスは勢いのまま自らの仮面を引き剥がし、それを彼の手に押し付けた。

「これでいいだろ!」

「あ――」

「行くよッ!」


 二人は夜が明けるまで探し回った。白んじた空は無情にも思え、ルイスはふらふらとその場に膝をつき。アーサーはその空の下に、ただただ立ち尽くしていた。


 ――本日、〈百合の国〉の王がルテジエンに到着する。


            ◆◇◆


「フローラ楽長!」

 非常に焦った様子の団員たちが落ち着かない様子で楽長を取り巻いた。

「リリーがいなくなったの!」

 それに対してフローラは何も言わず、歩き出した。

「楽長!」

「それがあの子の選択だ。私らが引き留めることもましてや探すことなんてしてはいけない。放っておきな。あんたらはいつも通り仕事すればいいんだよ」

 冷たく突き放し、調理場へと足を向けた。早朝、昼、遅晩。食事作りは当番制にしてはいたが、自然と下働きのリリーに任せきりになっていた。仕方ない今日だけは、とフローラは台所に立ち、はっとする。

 そこには、朝昼晩の三つの種類の料理が作り置きされていた。どれもすべて冷めてしまってはいたけれど、見映えはよく、美味しそうだった。リリーはいつ、これを作ったのだろう。ふと視線を向けると、パンプキンパイまでもが盛り付けてあった。――これは。フローラはやや不格好な包装を見て、静かに思う。

(渡せなかったんだね、リリー)

 フローラはそっと触れた。

(別にあんたが嫌いだったわけではないんだよ、私も、皆も)

 伝えることはもうできないけれど。


            ◆◇◆


 馬車から降りたシャルルは幼い子供のように辺りをうろついては、あれは何これは何、とせわしなく従者に質問をぶつけていた。

 これはなにもこの街へ入ってからのことではない。馬車の中でも、王宮から一歩外を出てから既に質問の嵐にカルロは巻き込まれていた。すっかり興奮した王の姿に、カルロは人知れず苦笑する。こんなに喜ぶのならば、もっと早くに外へ連れ出してやるべきだった。黙って仮面を取るカルロを見て、シャルルは驚き目を丸め、じろじろと彼の顔を見た。

「なんだ?」

「いや。カルロが仮面を取ったところ、初めて見たから。――その目の傷はどうしたの? やられたの?」

「……やったんだよ」

「え、それどういうこと?! 自分で傷をつけたってこと?」

「おいおい、もう質問はたくさんだ。勘弁してくれ」

「ねえどういうこと? 教えてよ!」

 尚もつっかかってくる王に、カルロは内心余計なことを喋ってしまったと自分の失敗に舌打ちする。王を適当に宥めながら、話題を彼の召し物についてのものにすり替えてみた。試みは成功した。

「一応お忍びだからな、召し物は庶民風になるわけだが。どうだ、着心地は」「何だかごわごわするよ」

「あと名前。いつもみたいにシャルルと呼んでもいいんだが、もしも勘の鋭いやつに気づかれたら色々面倒だから――万が一の話だが、可能性があるならできるだけ避けといた方がいいだろ。だから仮の名前を。……おっとそうだ、顔が隠れるおおきな帽子もあったから、これも被っとけ。よし。それで、どうする。呼ばれたい名前とかあるか?」

「別に何もないけどなあ。じゃあマシュウで」

「なんで」

「さっき見た看板に書いてあった」

「うんじゃあそれで」

 輝く瞳であちこちを見渡す。カルロは一応尋ねてみる。「どっか体調が悪いとか無いか? 疲れてるなら早く言えよ。休む場所も探さないといけないからな」

「全然! 楽しくって仕方ないよ。……ね、僕らは今日劇団を見に行くんだよね? アルテ劇団、だよね? それって面白いの?」

「まあな」

「君が言うならそうなんだろうね! 待ち遠しいよ、いつから始まるんだっけ?」

「教会の鐘が真昼を告げた時にですよ、ムッシュ・マシュウ?」


            ◆◇◆


 ちいさな少女が、複数の男たちに囲まれ、ちょっかいを掛けられていた。人通りの少ない街角でのことだった。

 少女は何も反応せず、男のいるところとは違う方向をぼんやりと見たままで、男など相手にすらしていない。金髪に瑠璃色の瞳。その危うい雰囲気に思わず悪寒を感じた。何故だろう。

 いつまで経っても動かない少女に焦れた男たちがどこかへ連れて行こうとした。この寒空の下、早朝によくこんなことを。ここを通りかかった数少ない通行人は、よくある事だからと言いたげに足を速めて見て見ぬふりをする。中には助けようとした人もいたが、少女はずっと無言を貫いているので助けようもない。

 それを見ていたピエールは、とある思いが頭を掠め、それが離れず、ついにはその集団のところへおずおずと近寄っていったのだった。こちらを怖々うかがう周りの人は、不安そうに彼を見守っていた。なぜならピエールの体つきは貧弱で、とても腕っ節が強そうにもみえず、男たちの思うままに殴られるのが明白だったからだ。そしてそれは正しかった。その彼の騎士気取りが気に障ったのか男たちは容赦なく彼を殴りつけた。鼻が嫌な音を立てて、曲がった。ピエールは必死に頭を守った。蹴りが、拳が飛んできた。

「逃げて!」

 彼の叫びにも少女は動じなかった。ぼんやりとした瞳でこちらを見ていた。そこに何の感情も映っていかったことが、何より彼の心を乱した。怯えも恐れも、悲しみも何も無い。中身が空。空洞のような目。

 しばらくして気が済んだのか男たちは唾を吐き、去って行った。周りの人々が弾かれたように助けを呼んだり、「大丈夫だったか」としゃがみ込み、手当してきたりした。ピエールはふと視線を上げた。そこには湖水のような静かな双眸で彼を見下ろす少女が。彼は力を振り絞って声を出した。

「アルテ……劇団に、行って、僕のことを」

 少女はここで初めてちいさく口を開いた。囁くような吐息のような声だったのにも関わらず、ひとつも漏らさず彼の耳に届いた。

「どうしてたすけたの」

 少し迷って、彼は言った。「ごめん。あんまり、格好いい理由じゃない。君を助けたくて、助けたんじゃないんだ。……今日は、劇団にとって大切な、いわば運命の日で、僕にはまだ、主役なんか……荷が重くて。だから、君を助けて、ぼろぼろになって、大義名分を得て、逃げようとしたんだ。ごめん、ごめんね。君を、理由に使ってしまって」

「いいよ」 

 少女はわずかに首を振った。「きもちはわかるから」

「え……」

「あなたはあなたを守れたんだね。わたしは、ちがうけど」

 問い返す余裕も与えず、少女はどこかへ消え去ってしまった。

 食料の買い出しに出ていたサーシャが、血相を変えて彼に駆け寄ってくるのは、もう少しあとのことになる。


            ◆◇◆


「ピエールさんが、倒れました……!」

 劇場に駆け込んできたサーシャが、先刻の事件のあらましを告げたことにより、場が刹那にして凍りついてしまったのをアーサーは身をもって感じた。

 ジャンヌは口元に手をやり、どうしてよいか分からず立ち尽くしている。この場にルイスたちはいない。彼は何人かの団員たちと一緒にリリーを探しに出掛けていた。アルダシールも「運命が決まる今日、自分が出てない演劇を見るのは辛いだろう」というアーサーの強い勧めで精神病の治療を取り扱っている医師に診てもらうために、隣町へ早朝に出発してしまった。この日のために働き詰めとなった団員たちにはアーサー自ら特別に休みを与え、劇場にいる役者は数少ない。ジャンヌの顔はすっかり青ざめ、絶望の色をたたえている。

「ちょっと、どうするのよ今日……。即興劇だからって今更 劇の内容まで変えられないわ、だって私たち『ピエロットの悲恋』用の練習しかしてないもの……。主役がいない劇なんてありえない、一体どうすれば――」

 アーサーははっとしてブルーノに振り返った。

「副団長はピエロット役できないのか?!」

「無理だね」

 ブルーノはすぐさま否定する。「俺はパンタローネしかできない。なぜって俺の役作りが、お前らみたいな〝創り上げ〟の形じゃないからだ。俺は俺自身をパンタローネとして動かしている。だから、演技はぶれない、パンタローネという役限定でな」

「うそだろ……」

 言葉を失うアーサーに、ブルーノは自嘲ぎみに嗤った。「つっ立ってるだけでいいんならやるけどな」

 それにジャンヌが半ば悲鳴のような声で否定した。

「だめよ、ブルーノさんはいつもパンタローネの役で出てるわ。観客は王様だけじゃあないのよ! 皆、変に思うに決まってる!」

「それに体格もおかしいからな、はは……」

「笑ってる場合か! 開演まで全然時間が残ってないんだぞ! 客はもう中に入ってる。……王もその中にいるかもしれない。今から団員が出て行って誰かを捕まえに行くにしてもまず間に合わない。っ、くそ、何でこんな時に限ってピエールのやつは!」

「ピエールを責めたって仕方ないじゃない! 不慮の事態のことを考えなかったあたしたちのミスだわ。誰も責めることなんてできないのよ――」

「最悪サーシャを舞台に上げるか?」

「そんな! 絶対無理ですよ! その場で卒倒してもいいんですか!」

 アーサーは唇を血が滲むほどに噛んだ。どうしてだ。あともう少しだったのに。どうして。成功への幸せへの道が、もう、すぐそこに見えているのに。こんな機会もう二度と恵まれない。どうする、どうする――。


 そんな時、皆の集まる楽屋の扉を、控えめに叩く音が聞こえた。アーサーはもしかしてルイスたちが帰って来たのかと扉を勢いよく開けた。

 そこには。

「アーサー、」

 わずかに口元に笑みを浮かべた少女の姿があった。

「リ、リー、なんでこんなときに……」

「うん。大変なときなんだよね。わかってるよ」

 そうして、リリーは子供のようにおおきく首を傾げた。「それで? 今日は何のおはなしをするの?」

「ちょっと何この子、相手してる場合じゃ――」

「っ、黙ってくれ!」

 アーサーは怒鳴った。それを見たブルーノが、何を思ったのか今日の演目を説明し出した。ジャンヌとサーシャは部外者相手に何をしているのかと全く理解が追いつかない。リリーは頷いて、アーサーを見た。

「できるよ、わたし。ピエロットの役」

 ブルーノ以外のそこにいる者は全て声を失った。唖然として少女に一直線に視線を向ける。リリーは少し息を吸って、演技した。

「『あの満月のお月さまが落ちてきたらどうしよう。ぼくの体は、ぐしゃぐしゃに押しつぶされてしまうのかな。それとも、ぼくの体に触れた途端、一緒になって月と溶けてしまうのかな。ぼくだったらどうしよう。そうだな、一瞬のうちに消えてしまいたいかな。そうすれば、きみへの恋心に一瞬だって焦がれやしないでしょう?』」

「見てよあれ……、この前アルダシールさんがやってたピエロットの台詞と全く同じ――」

「動きもまったく一緒ですよ――。信じられない、もしかしてアルダシールさんから教えてもらったんですか? いや、でもそんな……」

 リリーは動かしていた体を止めて、にこりと微笑んでみせた。

「見て覚えたんだよ。だってずっと見てたもの」

「嘘だ……」

 これには誰よりもアーサーの方が戸惑ってしまった。あそこまでの演技を数回見ただけで、これほどまでに再現できるだなんて――。そこで彼の脳裏に才能という文字がよぎる。恵まれない事柄に対する才能。夢に必要な才能以外いらないと涙を浮かべた少女を思い出す。

 ブルーノは彼女の細い肩に手をやり、頷いた。

「君に、ピエロット改め、ピエロッタ役、つまり女のピエロットをお願いしたい。頼む、我々を助けると思って引き受けてはくれないか」

 リリーはブルーノや周りにいる人々を一切視界に映すことはしなかった。ただ、一人。彼だけを除いて。

「うん」

 そして視線を落として。「それに助けてもらったから。お返し」

 彼女の了承を受け、それを合図に人々は弾かれるように動き始めた。

 リリーは白いだぼだぼのピエロッタの服を着させられた。顔には真っ白の、仮面。黒のアルルカンとは対照的な白。心配そうに窺うアーサーにリリーは小さく手を振った。そして舞台と観客席とを区切る布の後ろに立った。もうじきに幕が上がる。劇開始を知らせるラッパが構えられる。アーサーは一言だけ口にした。

「おまえは立ってるだけでいい、あとはおれが何とかするから」

 そしてラッパの音色が、高らかに響いた。


            ◆◇◆


「白い花。白い空。世界が真っ白になればいい。そしてぼくの心も真っさらになれたら。毎日が夢のように過ぎていけば、辛いことも忘れてしまえるよね」

 舞台はまず、主役であるピエロッタの台詞から始まる。そこにアルルカンがやって来て、暇つぶしに彼女をからかうのだった。久しぶりだな。最近どうだ?

 そしてここで、アーサーは致命的な失敗を冒す。 

「好きな女でもできたか?」

 今までピエロットに対して練習をしていたため、その癖が抜けずにピエロッタに対し恋慕の相手を同性に向けてしまったのだ。アーサーも言い終わった後に即座に気づいた。彼はなんとか自分の間違いを訂正しようと開口した瞬間、ピエロッタは観客の方へ体を向けて、内緒話をするかのように両手を口にあて、独白した。

「実はね、アルルカンはぼくのことを男だと思っているんだ。ぼくっていう一人称のせいかな? もちろん、皆ご存知のようにぼくは女なんだよ? 可笑しいよね! おもしろいからもうちょっとだけ黙ってようかなぁ……」

 アーサーは呆然とする。即興。それも、物語の筋を大幅に変えてしまうほどの即興。舞台裏からジャンヌが小声でアルルカンの名を呼んだ。アルルカンはようやく我に返って、練習通りに物語を進めていく。

 ピエロッタはアルルカンに、面白がってコロンビーヌという女性の名前を紹介する。そしてその女性に恋をしたと告げたのだ。それを聞いたアルルカンは、友人として二人の縁結びをしてやると申し出た。その辺りから、だんだんピエロッタの表情が曇っていくのが、観客にも伝わってきた。

「どうしたのピエロッタ!」「何かあったの?」「辛いことがあったの?」口々にそんな声が飛んでくる。それにピエロッタは、俯きながらもこくこくと頷きを返している。アーサーも観客と同じように大丈夫かと尋ねてみるが、「だいじょうぶ」と笑顔で返されてはそれ以上尋ねることはできない。流れに、リリーに任せる他無かった。

 ついにピエロッタはコロンビーヌと対面する。が、コロンビーヌからは、自分には好きな人から諦めてくれと告げられる(ここは筋書き通りだ。しかしジャンヌの顔にも不安の表情が浮かんでいる)。ピエロッタはそれをアルルカンに告げ、そして、

「ねえ、アルルカン?」

 筋書きにない態度を取った。アルルカンは身構え、彼女の言葉を心から待った。ピエロッタはちら、と向こう側を見て、目で合図した。彼女を信じた団員たちは、なるようになれと次の場面へ移った。そう。コロンビーヌに危険が迫る場面である。 

 コロンビーヌの前に勢いよく馬車が突っ込んでくるのをピエロッタは目にする。

「危ない!」

 次の瞬間には自分の身をなげうってコロンビーヌの命を助けた。その代わり、彼女自身は命を落としてしまうこととなる。アルルカンはピエロッタに駆け寄り、抱きかかえた。

「大丈夫、お前の意思はきちんと受け継いでみせるから」

 この台詞に、彼女は彼の全く予期していなかった演技をみせたのだった。

「アルルカン……実はね」

 目の奥の瞳が、涙に覆われて、そうしてこぼれ落ちた。

「実はぼく、ぼく、きみのことがすきだったんだぁ」

「な」

「ぼく、実は、女なんだよ? なのにきみ、ぼくのことずぅっと男だと思っててさあ。おかしかったぁ。だからちょっと意地悪しちゃったんだ、ごめんね? コロンビーヌさんはね、きみのことが好きなんだって。きっと幸せになるよ。幸せにしてあげなよ。ぼくの分まで。ぼくの命の分まで」

 そうして彼の首に手を伸ばし、そっと抱きしめた。

「さようなら」

 ピエロッタは息絶える。アルルカンは呆然として辺りを見渡す。するとコロンビーヌが静かにこちらへ近寄ってくるのが見えた。コロンビーヌなりの助け船であった。コロンビーヌもまた膝をつき、アルルカンを抱きしめた。

「あなたは、私たちの橋渡し役のつもりだったのかもしれないけれど。彼女の方がよっぽどすてきな恋の架け橋だったんじゃないかしら」

 このままでは悲劇的に終わってしまう。あくまでアルテ劇団は喜劇を。

「そうとなれば、ぼくは彼女の想いを無視しちゃいけないから、きみと一緒に幸せになっていこうかな」

「ぜひ、そうして?」

 アーサーは瞬時に考えた結果、会場いっぱいに響き渡るよう大声で高く笑うことにした。滑稽に、自らの愚かさを自嘲しながら。狂気に、頭がおかしくなったかのように。悲嘆に、犯した過ちの大きさに涙する。

 その笑い方は聞いているとだんだん可笑しさがこみ上げてくるほどに滑稽じみていて、観客たちの中でようやく笑いがうまれた。しかし、結構の人が、ピエロッタの余韻に浸り、呆然と舞台をみつめていた。それも、いいだろう。悲劇に近い喜劇として、あくまで喜劇として終わりを迎えられたのだから。ジャンヌはほっと安堵する。幕が下りる。惜しみない拍手が彼らに送られる。姿がみえなくなってもまだ、アーサーの笑い声は響いていた。それが演技ではなく、自然と出てきたものだと知ったら、人々はどれほどの驚愕を表すだろうか。


 シャルルは大いに感動し、周りの観客たちと同様に立ち上がり、拍手を贈った。本当に、素晴らしかったよ。彼はカルロに話しかける。

「凄かったよカルロ、本当に、よかった」

「それは何よりだ」

「――ねえ。彼らをいつか僕の宮殿に呼びたいな、いいかな、ねえカルロ?」

「勿論だよ。……また、手配しておくからな!」

 シャルルは無邪気に笑った。

「ありがとう! そのときはね、是非、仮面を取るように言ってくれる? 僕、彼らの顔を見て劇を見たいな。折角素晴らしい劇を見ているんだもの、その人の顔を見て楽しみたいからね!」


 幕が完全に下り切ったのを確認してから、ジャンヌはすぐさまアーサーから体を離した。しかし、リリーはしばらく彼にしがみつくようにしていた。ジャンヌが促すと、彼女はほんの少しだけ、駄々をこねるようにしたが、すぐに立ち上がり、仮面を取り、アーサーを見た。

「どうだった?」

 これにはアーサー以外の団員たちが声をそろえて返事をした。

「素晴らしかったっ!」

 サーシャは涙し、ブルーノは嬉しそうに笑っている。劇の途中に帰ってきたルイスは彼女に駆け寄り、感動とねぎらいとを同時に口にした。

「リリーちゃん! 君のことをずっと探していたんだよ、……大丈夫、だった? とにかくここに君が戻ってきてくれて本当に良かった――。ピエロッタという女性の立場を利用して、物語をより深いものに展開してくれたんだね、そのお蔭で悲劇的な表情を持つ喜劇として、とっても素晴らしい劇となったよ。ありがとう、きみはこの劇団の救世主だ――本当に、ありがとう」

 団員たちが輪をなす中に、アーサーの姿はなかった。 彼の心中では激しい思いが胸の内でせめぎ合っていた。動けず立ち尽くしていたのだった。

 ――自分が貶し、侮っていた少女が今、自分を絶望的状況から救い出してくれた、その事実に対する羞恥、申し訳無さ、自分への憤り、罪の意識、そして激しい後悔。彼女はいつだって優しく、こんな人間として最低な自分に繰り返し歩み寄ってくれた、なのに。おれは彼女にどう接した? 差し伸べてくれた手を何度も拒んで、あろうことか暴言を浴びせかけて滅茶苦茶に言葉の刃を振り回し、彼女の心にいくつもの深い傷を、刻みつけて……! 

 自分は彼女に対してなんと非道なことをしたんだろう。今になって悲痛なくらいの後悔に苛まれた。

 彼は、自分が彼女の演技に魅了され、心奪われたことを痛感し、そのことを言い訳なしに素直に認めていた。今まで頑なに心を閉ざしてきた彼が、演技に対する評価をすぐさま認めたことは、彼が今に至るまでいかに真摯に芸事に打ち込んできたかの証明になるだろう。

 また同時に、アーサーは彼女の慈悲深さに心から感謝する気持ちも強く抱いていた。何より自分を絶望的苦境から救い出してくれたこと。そのことへの純粋な感謝の念。――なんて身勝手な話なんだろうと非難されて当然だ。むしろ非難しない方がどうかしてる。今までしてきたことを思い返せば、感謝なんてそんなこと、言う資格なんてないのだ。――けれど。

 彼はどんなに口汚く罵られようとも、自分の中に目覚めた思いを、二度と拒むことはしないだろう。否、もう、できないだろう。ようやくリリーによって自分の抱えていた真実に気づかされた。知らないふりはもうできない。その感情が持つ温かさに、触れてしまったあとでは決して。――彼はここで初めて、彼女を愛するという気持ちを解することができたのだ。それも揺るぎない、確固たる愛を。もう否定しない、嗤ったりしない、あとは受け入れるだけ。それは彼が思っていた以上に簡単で、幸せなことだった。

(一生を賭してでも、謝罪し続けよう)

 彼は決意する。

(受け入れられなくても構わない。むしろ当然だ。あんなことをしておきながら、今さら、愛してるだなんて。都合がいいにも程がある。でも)

(今日、助けてもらったから初めて好きになったというわけじゃない気がするんだ。どちらかと言えば、今日の出来事で初めて胸の内にあったものを気づかされたみたいで)

(正直に言えばまだよくわからない。だって……初めて、人を愛したのだから)

(でも。もしかしたら。おれはきみの歌を聴いたときからずっと、本当はずっと――)

「リリー、」

 アーサーはぎこちない笑みで彼女の名を呼んだ。もう仮面は必要ない。アーサーとして彼女に語りかける。――彼女になら、自分の過去だって話せるかもしれない。ひといきに全部は、無理かもしれないけれど、でも。

 衣装を着替えたリリーは小首を傾げた。ざわついていた辺りが静まりかえったのがわかる。アーサーは一語一語区切るように言った。

「少し、話がしたいんだ。いつもの場所で、ふたりだけで。いい、かな」

 程無く、返事が返ってきた。

「いいよ。わたしも話があったから」

 二人は歩き出し、劇場をあとにした。二人が去ったあと、場はふたりを祝福する声で弾かれんばかりだった。


            ◆◇◆


 外は雪がちらついていて、肌を刺すように寒かった。彼は自分の上着を掛けてやろうとして、ふと自分はその上着すら羽織ってこなかったことに気付き、あまりの間抜け具合に思わず笑った。

(緊張、してるのか? 今まで数え切れないほど、それも幼い頃から舞台に上がって演技をしてきたのに?)

 彼はちら、と横に並び立つ少女を見る。彼女は川の流れをじっと凝視していた。川は最近降った雨が残っていたのか、やや荒れていた。彼もまた静かに水の流れに目を移す。両手を軽く握ってみる。かじかんだ手が情けなくて、でもなんだか、初めて手の感覚を知った赤子のような気持ちになった。おれはきみのお蔭で、ようやく自分の想うとおりに手を満足に動かせるように、なったんだよ。ようやく、人の体温のあたたかみを知ったんだよ。そのことを早く伝えたくて、でもその前に何度だって謝って、自分のことを話して――今まで自分の話なんてしたことないから、うまくはいかないかもしれないけど、それでも何とか話して、きみに、きみだけに。

(愛を告げようと思う)

 彼は生まれて初めて自然な笑顔を浮かべた。彼はそのことに気づけだろうか。


「アーサー」「リリー」

 名前が重なる。白い吐息が空気と交わる。アーサーは笑って、先を譲った。 きみの話を聞いたあとに、ぼくは話をしたいと思うんだ。早く話したい気持ちはあるけれど。それと同じくらいにきみの話をいくらでも聞いていたいという思いがあるんだ。似合わないだろう。でもそう思うんだから仕方ない。きみはどんな風にぼくに返事をするかな。頬をぶたれたって全く不思議ではないから、覚悟をしてきたよ。きみになら何をされたって構わない。だってきみはぼくの。

「じゃあ、わたしから話すね」

「うん」

 リリーはひどく妖艶に笑った。その姿が月光を浴びて、ほのかに光を帯びる。その美しさに、アーサーは初めて、今夜は満月だったと気づいた。出会った時と同じ。しかし今夜は妙に、陰っていて、――。


「アーサー。わたし、あなたに逢えてよかった。最期に、あなたを救えたのなら、本当によかった」

 リリーは橋の欄干に体を傾けた。


「さようなら。わたしの愛したひと」


 小さな体が、落ちていく。下には冬の冷気にさらされ、氷のように冷えきったつめたい川が。アーサーは迷わなかった。頭でなく体が、反応した。反応できなければ自分で自分を殺していたかもしれない。手を伸ばした。彼女の目はかたく、閉じられていた。

 水が二人を呑み込み、どぷんと飛沫をあげて、また元に戻った。


            ◆◇◆


 水の温度が彼らの体温を容赦なく根こそぎぎ奪ってゆく。たちまち体が言うことを聞かなくなってきた。眠く、なってきた。重くなる目蓋を必死に開けていると、視界に金色の糸が映った。糸は水中をたゆたうように揺れ、手招きしているかに思えた。薄く開いた瑠璃色の瞳が、暗い水の色と同じで、彼女が水に溶けて消えてしまいそうで、アーサーは泣きそうになりながら祈った。そしてもう一度、手を伸ばした。その手は彼女の腕を掴んだ。そしてその腕を思い切り、引き上げた。彼女の服は水を吸って重かったが、彼女の腕は骨のように細く、弱々しかった。

 川岸まで もがいて、地面に二つの体を引き上げた。一瞬のことだったので互いに水を多量に飲んだわけではなかったが、何分冬の川に落ちたわけであったから、体温の低下が著しい。アーサーは劇場へ急いだ。

 人々はそのまま場所も変えずに、まだ興奮覚めやらぬ面持ちで語り続けていた。そんな中アーサーは彼女の体を抱えて帰ってきた。ずぶ濡れの、二人。誤って落ちた様子は皆無だった。

「な、何か拭くものを!」

 ジャンヌが叫ぶ。これにより何人かの団員が動き出した。しかしほとんどが棒立ちのまま、彼らの変わり果てた姿に愕然とし、ある者は崩れ落ち、ある者は状況が読み取れず呆気にとられていた。

「リリー、返事をしてくれ、おねがいだから……」

 だらりと垂れたリリーの腕が、妙に生々しかった。


            ◆◇◆


 あなたに滅茶苦茶に傷つけられたあと、一人夜をさまよっていたの。なんて酷いひとなんだろうって。正直、憎んだりもしたわ。

 でもあとになって、冷静になって考えてみたのよ。あなたが言ったことはどれを取っても嘘はなくて、わたしはただ図星をつかれてばかみたいに怒鳴っただけだったんだって。歌が好きじゃないなら、やめてしまえばいい、簡単なことなんだ。なぜ今まで歌にこだわっていたのかしら。考えて、おばあちゃんの顔が浮かんだの。『あなたは立派な歌い手になりなさいね』次に、故郷からの手紙の文字が浮かんだわ。『頑張っておばあちゃんの夢のために歌い手になって』わたしはどちらにも『はい』と答えたわ。

 自分の夢はきらきらした宝石みたいに綺麗で、他の誰よりも美しくて、自慢に思ってた。その夢は両手で握って、わたし、それだけが唯一だったのよ。だけど、あなたに言われて初めて、ちゃんと目を開けて、両手を広げて、その夢を見たの。

 そこにあったのは薄汚い石ころ。わたしは悲鳴を殺してすぐに投げ捨てた。がっかりしたわ。こんなものを自慢に生きてきたのかって、恥ずかしくてたまらなかった。

 でも。ずっと一緒に生きてきたんですもの、ずっと大事に抱えてきたんですもの、やっぱり捨てられないんだわ。拾い上げてさらに汚れたそれを見て、諦めの悪い自分をを自分であざ笑って。でもただの石は磨いてもただの石よ。どうすることもできないわ。

 だから命を天にお返しすることにします。

 死んだ先がどれほどの地獄だろうと、今が死ぬほど嫌なのです。醒めない悪夢があるのなら、夢にうなされた拍子に舌を噛みきって死んでしまいたいのです。

 それでわたしは後悔しないのです。

 

 ――あなたが嫌で、死ぬわけではないの。ひとえにわたしの弱さのせいなのです。どうかあなたが幸福になってくれることを、誰よりも強く願って。


            ◆◇◆


 目が覚めたリリーは狂ったように暴れ出した。歌い手にとって何より大事な喉を痛めつけて叫び続けた。濡れた服を着替えさせた団員たちが、必死になって取り押さえようとするが、うまくゆかずにちいさな少女の体は、辺りに置かれた物にぶつかって更なる傷を増やしてゆく。それを呆然と見つめるアーサーは背筋が凍りついた。寒さのせいでは決してない。取り返しのつかないことをしてしまった。その思いだけがぐるぐると脳内を埋め尽くす。がたがたと震え出す体が何より情けなくて、自らの腕に爪を突き立てた。力を込めたことで真っ青になった肌から、わずかに朱の液がにじみ出てきた。それでも足りない。彼は自らを傷つけ始めた。おれは、彼女を、――殺してしまったのだ! ルローヌ川に身投げした彼女の命を、救えたからといってその事実を否定することなど到底できない。

 強いて、救いという語を使って表現するのなら、彼は彼女の身体のみを救えただけだった。彼は彼女の体を救う前に、既に彼女の心を殺していたのだ。


「一体どういうことだ。ちゃんと説明しろ……といっても、今のアーサーに説明なんて無理か。……ルイス。お前どうせ全部知ってるんだろ。全部話せ、決して、嘘なんてつくなよ」

 ブルーノはルイスを連れてその場を離れた。皆、あまりの出来事に頭が追いつかずにいた。


 その後、帰ってきたアルダシールは悲惨な状況に立ち尽くしてしまった。

 小さな少女がしきりに「死なせて。しなせてしなせてしなせて」とぐったりと椅子に寝そべったままつぶやき。ジャンヌを始めとした女たちは彼女の四肢を押さえつけていて。ルイスは項垂れ、ブルーノが渾身の力でもってアーサーの顔を殴りつけていた。アルダシールは駆けつけるが、ブルーノが顔を真っ赤にして、激怒しているのを見て、ただ事ではないのだとすぐに窺え知れた。

「おまえは、何て、屑な真似をしたんだよッ! 今すぐこの場で死んでみるか? それであの子の受けた傷とつり合えるとは到底思えないがなッ!」

 アーサーはふらふらとよろけて、殴られた頬に手をやった。彼の頬はみるみる腫れ上がり、赤黒く染まった。唾を吐いた。折れた歯が床に転がった。口の端から血がだらだらと流れた。大の大人が、それも力のある大人が思い切り殴りつけたのだ。サーシャが彼の体を支え、「何をするんですかブルーノさん!」と泣き叫んだ。しかしブルーノは冷酷に彼を見下す。

「こいつが、この子を殺したんだ。死の道へ追い込んだんだ。彼女の好意もわかっていながら、こっぴどく痛めつけて悦に浸って、自我を守ろうとして。そんな辛い目に遭っても、見放さず救ってくれた彼女に今更ながらさすがだと見直した、だ? 虫の良い話じゃねえか! 彼女がお前みたいな屑に優しくしてくれたことが、どれだけ大変なことだったか、辛いことだったか、屑の頭ではわからなかったんだな?!」

「ブルーノさんっ、さすがに言い過ぎですよ……!」

「うるせえ! 自分の女も守れずに、あろうことか殺そうとしたやつに、慰めの言葉なんて掛けてやる必要なんてこれっぽっちもねえ! こいつが犯した過ちがどれほど大変なことなのか、わからせてやらなきゃならんだろうがよお!」

 ルイスとサーシャが間に入るが、何も意味を成さない。言い罵るブルーノの目には堪えきれないとばかりに涙が浮かんでいた。皆、そのやりとりを固唾を呑んで見守っていた。リリーだけが虚空を見つめて死を懇願している。

「ブルーノ、少し落ち着け」

 アルダシールがそう声を掛けたことで、ようやくブルーノの舌は止まった。

「とんでもねえことになっちまったぞ、アル……」

「わけを話せ」

「俺らの団にこんな男がいたなんて――俺がおれがもっとちゃんと見てやれば」

「わかったから、深呼吸でもして。そうだ。一旦落ち着け。ルイス、サーシャはアーサーの手当をしてやれ、血が出てる。そういえばピエールが見当たらないな」

「……ピエールは医者のところです。全治二ヶ月、ですって」

 ジャンヌの答えに、アルダシールは怪訝そうにした。ジャンヌはとても疲れた様子で歩み寄り、「あたしが全部説明する」と伝えた。二人は別室へと消えた。


            ◆◇◆


 二人の副団長が下した決断は、〝リリーを楽団へ返そう〟ということだった。「ルイスの話を聞くに、彼女は数日前に楽団から追い出されているらしいが、楽員たちも彼女を探しているようだ。あちらにも色々あったのだろう。ともかく、俺らでは対処できない。いいな、アーサー」

 リリーの側にしゃがみ込んでいたアーサーは、すっかり光を失ってしまった目で見上げた。そしてゆっくりと立ち上がり、覚束ない足取りで、転びそうになってルイスに助けてもらいながら二人の団長の前に立った。

「それは、――もう、リリーとは会えないということですか」

 擦れた、生気の無い声に、アルダシールは驚愕しながらも、頷いた。こんなに疲弊した彼は初めて見る。これが精神に異常をきたした者の例だろうか。彼は今日一日でずいぶんと変わり果ててしまった。

 アーサーは小刻みに動く手を伸ばして、アルダシールの腕を掴んだ。少し動いただけで解けてしまいそうに頼りない。震える唇が、嘆願する。

「つれていかないでください、ぼくの、おれの、何だってもってっていい。命でも、心でも、何でもいい。捨ててやる、くれてやるから、だからリリーだけは、リリーだけはつれていかないでください、お願いします」

 そうして膝をついて、頭を地面になすりつけた。何度も、なんども。

「ぼくの罪だ。一生涯の罪だ。贖うことのできない罪だ。それでもおれの罪だ。だから、背負わなければいけない。お願いです、ぼくからリリーを奪わないで」

「だとしても彼女はお前の顔なんて一生見たくも無いだろう」

 アーサーはここで初めて顔を上げてリリーを見た。彼はルイスを見上げて、「リリーに訊いて」とかすかに囁いた。ルイスは何も言えずに黙って彼の言う通りにした。リリーは何の反応も示さなかった。ただ同じ言葉を呻くばかり。

 アーサーは狂ったように笑って、「ほら、リリーは何も言わない。いいでしょう、アルダシールさん」

 ブルーノは頭を抱えた。「なんだこの揃いも揃っての狂気沙汰は。とにかく駄目だ。彼女はフローラ楽団に責任をもって返す。だからお前は遠くで罪滅ぼしでもしてろ」

「――それじゃ意味がない」

 ブルーノはしゃがみ込んでアーサーと視線を合わせた。「お前、それ本気で言ってるのか」

「リリーはつれていかないでくれ」

「――お前が彼女のことで相当参っちまってるのは、誰が見てもすぐわかる。このままじゃ、本気で、……。お前が彼女を背負うことで、お前は更なる苦痛に苛まれるを受け入れちまうことになるんだぞ?」

「罪なんか滅びるはずない。おれの過ちは一生抱えていかなきゃいけない。だっておれは、彼女の純粋な心を、壊したんだから。だから。どんなに辛くても死にたくなっても、罪と向き合わない選択をすることなんてできるはずがない。許されない大罪でも、贖い続けることをぼくに許してください」

 ブルーノはそっと語りかけた。

「彼女を愛しているのか」

 アーサーは黙って頷いた。それを見て、ブルーノは舌打ちした。「なんで今気づくんだ。もっと早く――」

 立ち上がり、アルダシールに囁いた。

「すべてをフローラさんに話そう」

「……わかった」

 ブルーノは強引にアーサーを立たせて、ルイスにリリーと一緒に来るように命じた。ジャンヌは彼らを追いかけた。「どこに行くの。フローラ楽団のところへ行くの」

「ああ。お前は待ってろ」

「行かせて」

「大勢で押し寄せて何をするんだ。脅しに行くわけじゃないんだぞ」

 ジャンヌはリリーを一瞥して、副団長らを見た。「あたしが居た方が、良いこともあるでしょう」それに、と彼女は付け足した。

「もう十分、大所帯よ」

 六人は深夜の道を歩いて行った。


            ◆◇◆


 フローラ楽団はまだ寝静まってはいなかった。それはリリーを探しに行った、リリーと仲の良かった団員たちを待つためだったが、フローラはもう切り上げようかと迷っていた。確かに心配ではある。しかし、彼女の意思で出て行ったのだ。それを今更――と思わないではなかった。すると、外の方から何やら言い争う声が聞こえ始める。やがてそれは大きくなり、フローラは堪えられずそちらへ足を向けた。

「……っ、リリー」

 そこには、自分の知る少女とは全く違う顔をした少女がいた。フローラは愕然として声が出ない。リリーを探しに行っていた団員らが、彼女の細い体を抱いて、咽び泣いていた。アルテ劇団の副団長らが深く頭を下げて、言った。

「お話があります」

「……ともかく中へ」


            ◆◇◆


 楽長と副団長は別の部屋へと消えた。その後ろを、ルイスが今までの出来事をフローラに説明するため、無言のままつき従った。

 しばらくして彼女の荒上げられた怒鳴り声が響くが、次第に静まっていき、また沈黙が訪れる。

 アニスはじっとアーサーを凝視し、ぼそっとつぶやいた。

「ひとごろし」

「ア、アニス!」

 咄嗟にエウリカが止めに入るが、涙に濡れた瞳で強く訴えられ、気圧され、そのまま黙ってしまう。アニスはアーサーを強く、射殺さんばかりに睨みつけた。そして、リリーの手を握りながら、叫んだ。

「他でも無いこいつが、こいつがリリーを殺したんだ。だって私、見たもの、リリーが笑って話しかけてるのに、聞くに堪えない罵詈雑言を吐き捨てて去って行ったのを……っ! こいつ、こいつが全部悪いのよ、だってリリーがこいつを好きだったのをちゃんとわかってたはずでしょう! なのに、なのにリリーがずっと笑ってるからって高をくくって無茶苦茶に痛めつけて! なんて酷い、惨い、最低じゃない!」

 ネムはついに大声で泣き出してしまった。それにつられて皆も嗚咽を漏らし出した。アーサーは何も言わなかった。

「女はね、どんなに辛くても苦しいときでも、好きな男の前でなら笑顔でいられるのよ。それが仮面だと、どうしてわかってくれなかったの……」

 エウリカはリリーの胸に涙を落とした。彼にとってこの状況がどれほど精神を狂わせるものか、想像は難くないだろう。


 しばらく彼女らの会話を聞いていたジャンヌが、もたれていた壁から離れて口を挟んだ。

「あのさ。アーサーを責めてるところ悪いんだけど、あんたたちにもまったく非が無かったってわけじゃないでしょ?」

「な……」

「確かにアーサーは絶対に許されないことをしたわ。許せない。あたしもあんたたちと同じ立場。女を何だと思っているの? 愛した男から傷を受けた女がそう簡単に立ち直れるわけないじゃない。なのにこいつは何を勘違いしたのか、全く意味がわからない。非難されて当然。――でもね。あなた側にも罪があるんじゃないのって話なの。自分らの罪を押しつけてそれもこいつに背負わせるなんて筋違いじゃない? あんたたちの過ちまで抱えて生きてくなんてさすがに無茶だわ。もう、彼、いっぱいいっぱいなのよ。大事な彼女を思って責め立てたい気持ちはすっごくわかるんだけど、もう少し精神的にマシになってからにしてあげてほしいの」

 ジャンヌは辛そうに楽員たちに笑いかけて、ほうけているアーサーに耳打ちした。

「お礼なんて、間違っても言わないでよね。あたしは不平等とか、そういう不快なものが嫌なだけなんだから。さっきも言ったけど、あたしはむしろあの子たち側にいる人間だからね」

 アーサーは静かに頷きを返した。


 それから、どう説き伏せたのか、楽長はアーサーがリリーの面倒をみることを認めた。ただし条件がひとつ。週に二度、楽員が彼女の様子を窺わせる。彼女の様子が少しでも悪化しているようであれば、すぐさまに楽団へ引き戻す。アーサーは不安そうだった面持ちを一転させて繰り返し礼を述べた。あんまりしつこいので、楽長は煩わしくなったのか腹が立ったのか、「これ以上リリーに酷い目に遭わせたら承知しないよ、たとえあんたの過去がどれほどでもね」と心底悔しそうに言い放った。

 フローラ楽団は楽員同士の繋がりが強い。楽長にとって楽員は娘同然であった。その愛娘を託すのだ。言葉にできないほどの葛藤がそこにはあっただろう。アーサーはもう一度頭を下げた。


            ◆◇◆


 それからが、大変だったのだ。

 リリーは空き部屋をあてがわれた。アーサーの部屋と真向かいの場所。何かあっても彼が気づけるように。彼の強い希望だった。荷物は彼女が劇場に来てそうして出て行った時に置きっ放しになっていたので、必要最低限のものはそろっていた。

 アーサーは彼女の心を取り戻すために、生まれて初めてここまで必死に、献身的に世話をした。まず、食事を取らせようとした。ここで早速、問題が起きた。

「リリー?」

「……、」

 彼女は何ものも口にしようとしないのだ。食べ物だけでなく、水も一滴たりとも摂取しようとしない。うわごとのように彼に死を懇願するのだった。時には涙を、時には責め句をもってして彼に詰め寄った。

「食べてよリリー、食べてくれよ」

 食べ物を口に運ぼうとすると、彼の手を払って頑なに拒んだ。その拍子にスプーンが宙に跳び、床を汚した。そんなことが永遠と続いた。彼女がみるみるやせ衰えていくのも当然のことである。アーサーだけではとても扱い切れず、ジャンヌやサーシャといった主に女性の団員がリリーの命をぎりぎりのところで保っていた。それでも、目に見えて細くなっていく彼女に、アーサーは苦痛を感じないはずがなかった。

 ジャンヌはひどく重い溜息をついた。

「ねえこれって意味あるの……? リリーちゃんはいつ行っても『死なせて』ってしか言わないし、何も食べようともしないし、このままじゃ本当に死んじゃうわよ……」

 ブルーノは今の状況を思い巡らせた。

「アーサーの方も深刻だな。精神がひどく衰弱しちまってる。ありゃしばらくはアルルカンなんて出来そうもないな」

「だとしても、アルルカンが一番人気な道化役なわけですし、そう長く休ませているわけにはいかないのでは――」

 サーシャの意見に、アルダシールはその通りだと頷いた。しかし、とブルーノは二人の会話を遮った。

「それでも決めたじゃないか。あの子を責任をもって、救ってやるって。――いつも人と壁作ってばかりいたあいつが初めて愛した、おそらく最初で最期の女なんだ。大事にしてやりたい」

「言われなくとも」

 ジャンヌは立ち上がった。「助けてやるわよ。……だって本当、見てられないもの」


            ◆◇◆


「た・べ・な・さ・い! リリーちゃん!」

ぎゅっと固く結ばれた唇を開けようと、女が二人がかりになって押さえ込む。それをアーサーは非常に不安そうに見守っている。

「いやぁっ!」

 リリーの悲痛な叫びに、アーサーは堪えられない。「もう、もうやめてくれ、やめてあげてくれ!」

 彼の愚かしい発言にサーシャは苛立ちまぎれに言い返した。

「リリーちゃんがこれ以上痩せたらどうするんですか!? 死んじゃうんですよ、そんなの絶対だめでしょ、アーサーさん!」

「……ちょっとルイ、あいつをどこかへやってしまって」

「わかったよジャンヌ。あとは頼む」

ルイスはいつものように彼の手を引いて、その場から遠ざけようとして、リリーの口から「ころして……」と涙ながらに歎願される。アーサーの足がぴたりと止まる。これ以上はたまったものではないとサーシャはリリーの両肩を掴んだ。

「いい加減にしてください! アーサーさんは、自分の命を擲ってまであなたを助けたじゃないですか。それなのにずっと死にたいとか、殺してとか、そんなことを言ってもらいたくてアーサーさんは――」

「おい」

 一気に空気の温度が下がった気がした。憤怒を押し殺した声。冷淡で、恐ろしいほどまでの激情を含むそれに、サーシャは背筋が凍る思いがした。

「リリーは何も悪くない」

 悪いのは、

「おれ一人だけだ。だから、罵倒するならおれだけにしろ。絶対にリリーを傷つけるな」

「うっ、……う、はい」

サーシャは顔を隠して、部屋から出て行った。ジャンヌは彼女を追って、部屋を出た。すれ違う際、

「あんた、破綻してきてる」

 と言い放った。

「これが本性だよ」

 揺るぎない瞳で、ジャンヌを一瞥した。

「本当、見てらんないわ」


            ◆◇◆


「食べろよリリー。お願いだから」

 リリーは無言のままだ。二人はどこかへ行ったきり帰ってこない。ルイスは彼女が暴れた拍子にひっくり返った器を洗い、もう一度食事を入れるために席を外した。

 アーサーは自らの手でリリーの口元にスプーンを向けてみる。が、力なく首を振られてしまう。そんな彼女に業を煮やしたアーサーは、禁断の言葉を口にすることになる。これが、彼に考えられる唯一彼女の命を繋ぎ止められるものだった。アーサーはぐっと息を呑み、言った。


 帰ってきた女二人が見たのは、必死な形相でスプーンをかき込むリリーの姿と、その部屋の前にしゃがみ込んで俯いているアーサーの姿だった。彼女らの後ろから、その様子を目にしたルイスは大いに喜び、「やったじゃないかアーサー!」と彼の肩を叩いた。が。彼はくぐもった声色で「違うんだ」と答えた。

「何が違うんだ」

「違う、戻ったんじゃない」

 アーサーは両手で顔を覆った。

「これを食べ切ったら楽に殺してやるから、だから今は食べろって言ったんだ――!」

 絶句。辺りにいる誰もどうしていいのかわからなかった。ただ、リリーのがむしゃらに食べる咀嚼の音が響いているだけだった。


            ◆◇◆


 ついに。アーサーはとんでもない行動に出た。リリーの部屋の扉が半開きになり、二人の、アーサーの一方的な会話が聞こえてきた。ルイスはそっと中を覗いた。ベッドに腰掛けているリリーの前に座り込んで、アーサーが何やら渡して身につけさせている。それが何か悟った時、ルイスはすぐに中へ飛び込んだ。

「きみ、一体何して……」

「ああ、これか?」

 アーサーは笑っていた。しかしそこに精気は無く、表情は虚ろでどこに心があるのかわからない状態だった。放心状態に近い、狂気へまた一歩近づいた彼の姿であった。

 彼の手には高価そうな宝石や耳や髪の飾り、ドレスの類いが、ベッドや床を占領するかのように広がっていた。その中のひとつを拾い上げてはリリーの手に持たせて、力なく落ちた手からこぼれた宝石をアーサーは「気に入らないんだな」と呟いて放り投げた。そうしてまた、新たなものに手を伸ばしていく。 ルイスは紛れもない畏怖を感じていた。まさかここまでおかしくなってしまったなんて。堕ちていく親友に、ルイスは戦慄の感を否めない。それでも、今度は自分が救いの手を差し伸べる番だと決めたのだ。ルイスは尋ねた。

「その宝石とか、アクセサリとか、一体どうしたの」

「もってきたんだよ」

「っ、ま、まさか盗んだのか?」

「盗もうとしたが、人がいたからやめた」

 狂ってる。ルイスは心が砕けそうになるのを懸命に堪えた。

「そ、れでどうして手に入れたの」

「借金した」

「は」

 何気なく。子供が親に正直に答えるように言い切った。そうして、ルイスの方を向いて、ひひ、と笑ってみせた。

「女ってやつはさあ、金とか宝石とか、そういうきらきらしたものが好きなんだろ? だからリリーも好きだと思ってさ、持ってきてやったんだけど、なかなか気に入ったのが無いみたいなんだよなあ。何でだろうなあ。おまえ、わかる?」

「……借金って君、一体いくら――。それってちゃんと返せる額なのか? なあ!」

「辺り構わずもってきたからわかんねえわ」

 ルイスは、眩暈を感じた。もう、駄目かもしれない。彼の闇はここまで深かったのだ。これを取り除こうなんて考えた自分が浅はかだったのだ。リリーが自ら命を絶ったっておかしくないのかもしれない。自分も、これ以上彼と一緒にいると狂ってしまうかもしれない――。


『僕、自分の家から出てしまいたいんだ。家柄とか、裕福とか、そういう余計なしがらみの無い世界に行ってしまいたいんだ』

『ふうん? おれは劇団に誰が増えようが、何人増えようが、どうでも構わないが――』

 ――後悔するぞ、おまえ。――

 過去の彼の声にはっとする。そうだ。何を弱気になってるんだ。可能性を信じろ。彼の不安定な心は、未来へ変わるために必要な今を暗示しているんだ。 ルイスは周りにあった高価な品をかき集め、団員たちに声をかけて、これらの返品のために街を駆け巡った。当然店主からすれば納得できないことであり、頑なに拒んだが、必死の頼み込みが功を奏したのか、ほとんどのものは再び店のところに受け入れられた。その他は、ルイス自らが金を払い、この事件を強引に解決した。

 ジャンヌは、帰ってきたアーサーとルイスの頬をぶった。

「まずアーサー。あんた、女がそんな単純な生き物じゃないってどうしてまだわからないの? 気持ちのこもってない贈り物なんてごみ屑と同じなの、価値なんてないの、わかって!」

 そうしてルイスと向き合う。

「ルイ。あたしが許せないのは何かわかる? その金で解決しようとする態度よ。今回は仕方ないとはいえ、何でもそんな風に振る舞われたらとっても不快なの。まだ、ブライム家にいた時の自分が抜けてないんじゃないの?」

「……ごめん」

「あたしや他の子たち、劇団にいる人たちのほとんどが、裕福でない家庭に生まれてやむを得ず役者として何とか生計を立てているの――。そのことを、ちゃんとわかって」

「うん。ごめんね。ジャンヌ、本当に」

 目を擦りながら、ジャンヌは少し微笑んだ。

「そこを直してくれたら、そこそこいい男なのにね。あたしはブルーノさんとアルダシールさんしか眼中に無いけどね」

「はは……、そんなぁ」

「――さて。アーサー、ちょっと気分転換に出てきたらどう? ほら、ちょうど昼の鐘も鳴ったことだし、適当にお腹でも膨らませていらっしゃいよ。リリーちゃんのことは任せて、ね。あんたが前みたいに余計なことしたら彼女も迷惑なのよ? ねえ。ちょっと外の空気を吸ってくるだけでいいのよ。ここはちょっと……空気が澱んでる気がするわ。掃除もやってしまおうと思うから、つまり、席を外してくださる?」

 有無をいわさぬ物言いに、気づけばアーサーは一人劇場の前に立っていた。 片手には、アルルカンの仮面。その紐を結ぼうとは思わないが、顔を隠す程度には使おうと思った。彼はやることがないので、少し道化を演じてみようと思ったのだ。ずいぶんとアルルカンと離れてしまった。けれども、昔のように彼に執着する気持ちはすっかり薄れてしまった。

 通りがかった子供を呼びかけ、少し話をしようと試みる。子供はアルルカンの仮面をみるなり嬉しそうに顔を輝かせ、口火を切ったように喋りだした。久しぶりのせいかうまく回らない舌に戸惑いながら何とか会話すると、子供は不思議そうにこちらを見つめていた。そして、眉をひそめて叫んだのだ。

「何このアルルカン! 全然おもしろくない! すぐ考えこんで喋らなくなるし、すぐぼくのこと訊いてくる! 変なの!」

 そうしてどこかへ走り去っていった。アーサーは仮面をもった手をだらんと下ろした。リリーは、こんな風に笑ったりなんかしなかった。

 リリーはどんなに長く沈黙しても、おれが再び話し出すのをずっと待ってくれていた。その目が慈愛にあふれていたのを、アーサーは思い返して、項垂れた。

 愛は、自分にとって恐怖でしかなかった。何より自分に不釣り合いで不似合いで、縁のないものと思っていた。それがまた、苦しくもあった。皆がもっているはずの親から受ける無償の愛、友情、愛情。どれも自分には無い物。でもそれを得るために努力するにも、あんな腐った親からもらったこの心体では適わないだろう。だから。理想の人間としてもうひとりの人格を作った。

 それが彼にとってのアルルカンであった。

 理想像として打ち立てたアルルカンは彼にとって何よりの支えであった。彼の性格はひねくれ、ジャンヌの言うよう破綻していた。それは最近まで変わらなかった。そんな自分を変える努力をする代わりに、すべてを諦める努力をした。そうすることで、アルルカンの仮面を被っている間は、なりたい自分――欲しい物を手に入れられる自分を作り出した。アルルカンになれば、不思議と友達に優しく出来た、親を愛する心がうまれた。観客をいとおしいとさえ思えるようになった。彼は自分が愛を手に入れたのだと思った。そうして仮面を取ると、それらは幻想となってたちまち彼の前から霧散してしまうのだった。そこで彼は思う。これは、仕方の無いことなのだと。

 彼が愛に拘るのは、ひとえに彼がそれに羨望を抱いていたから。

 彼は誰よりも愛という存在を罵倒しながら、誰よりも愛に飢えていた。しかし愛を獲得できるのはアルルカンだけだった。

 だから、彼にとってアルルカンは唯一の拠り所であったのだ。

 そして、それを壊すものが現れた。彼はアルルカンの得られる愛に固執するあまり、新たに愛を与えてくれるアルルカンではなくアーサー自身を愛してくれる大切な人を拒絶したのだった。


 どこに行く当てもなく彷徨っていると、三角形の屋根が天高くまで聳え立つ建物の前にたどり着いた。細かい装飾が施されており、荘厳でかつ神秘的な雰囲気を纏っていた。注意して見てみると、その天辺に青の鐘がはめ込まれており、余韻に震えている。彼はその鐘を知っていた。いつも朝と夜の十二時を告げる鐘だ。アーサーは視線を落とし、重々しい扉が大きく開かれているのをみつけた。気まぐれだった。今更、神に祈るだなんて、今まで一度だって神の存在を信じたことない自分が教会にまで縋りつくとは。

「末期だな」

 それでもいい。リリーの笑顔が帰ってくるのなら。そこまで考えて、アーサーは悟った。

 自分はこれほどまでに、彼女を愛していたのだと。


            ◆◇◆


 最近、赤毛の青年が教会へ訪れる姿をよく見掛ける。彼は教会の椅子に腰掛けて、ステンドグラスで描かれた神の絵をぼんやりと見つめている。その横顔は深い物思いによって暗く翳っている。司祭はゆっくりと彼に近づき、彼の隣に座った。

「初めまして、ですね。いえ、貴方のことはよく見かけていましたから、初めてではないのでしょうか」

「――はじめまして」

 わずかに一礼した青年に、司祭はふふと微笑んだ。

「私が女でしたからきっと驚かれたことでしょう。私、女司祭なんですよ。でもこれでも一応、この街の教会を管理しているんですよ」

「はあ」

「ここは良い街ですね。上の人たちが言うように娯楽を禁止になんてしなくて、本当によかった。やっぱりね、娯楽を無くしちゃだめだと思いません? だって今まで受け継いできた立派な伝統が無くなっちゃうってことになりますもの。人生楽しんでこそですよ。娯楽が神を冒涜するはずがありません。だって娯楽も人を幸せにするでしょう?」

「……よく喋る司祭だな」

「よく言われます」

 しばらくの沈黙の後、アーサーは開口した。

「あの。おれ今まで神様とかそういうの、信じたことなくって――それでも。神様にでも誰でもいいから、心から、叶えてほしいことがあるんですけど……おれ、その、祈り方も知らないんで、代わりに祈ってもらってもいいですか」

 司祭は首を傾げて、慈悲深さを表情に浮かべて笑った。

「教えてあげますよ」

「いや。でも、あなたの方がきっと神様も聞き届けてくれるでしょ。少しでも可能性があった方がいいんだ」

「あら。そんなに叶えたいことがあるのなら、他力本願はよくないんじゃありません?」

「……司祭なのにそんなこと言っていいんですか」

 司祭はすっと顔を上げて神の絵を眺めた。

「私は、神のことを信じています。嘘じゃありません。心から、信じています。――けれど。道を切り開くのは人間だって思っています。それを神様はご覧になってくれています。だから、何一つ私たちが行うことに無駄はありません。……こういう言い方すると、司祭らしくないからって怒られちゃいますけれど。我々神に仕える職の者が、目を向けるべき者ってやっぱり人間なんですよ。神以上のことはできません。人間ですから。当然です。できないこといっぱいあって当然なんです」

 だから。あなたのことを教えてください。司祭は青年の手を握って語りかけた。

「そうしたら、私もあなたの願いのために、助言を施すこともできるでしょう」


 アーサーは話し始めた。自分の大事なひとを、自分の手で壊してしまったこと。何故そんなことをしたのかはうまく答えられないけれど、それは全部自分の弱さがしたことで。今はその人の心を取り戻そうとして、どれもうまくいかず、自分が狂ってしまいそうだと、彼らしい言葉で一生懸命、何度もつまずきながらも話しきった。

「これは、人間がどうにもできないことの中に入る、のでしょうか」

「いいえ」

 司祭はゆっくりと言い聞かせた。

「本当にそのひとを助けたいと思うのなら、まずは貴方から、貴方のすべてをそのひとの前に晒しなさい。貴方が言う弱さも、うまく答えられないことも、できるだけ形にしてみせなさい。そうしたら、みえてくるものがきっとあります」

「……みえてこなかったら?」

「そうしたら。私が間違ってたことになるので、もう一度考え直しです。ですからまた、会いに来てください。今度は、その大事なひとも一緒に」

「――ほんと。変わった司祭さんだ」

 でも、と彼は立ち上がり、わずかに口端を上げた。「ありがとうございます。ちょっとだけ、参考にしてみようと思います」

「ええ」

 すると。向こうの方から二人の足音が聞こえてきた。アーサーはそちらを見やって、そうして司祭に小声で囁いた。

「彼女が、ぼくの大事なひとなんです。噂をしたら、やって来てくれました」

「へえ、どんな子かしら」

 彼と同じくらいの歳の青年の手を握る少女。司祭は思わず目を見張る。アーサーは駆け寄ってしゃがみ込み、リリーに少し話しかけてから、ルイスを見上げた。

「なんでお前……」

「またここに居た。ちょっと僕用事ができちゃって、今劇を上演してるから人がいなくってさ。リリーちゃん独りにするのもあれだから、君のところまで連れてきたんだ」

「ああそうか。ありがとう」

 じゃあ、帰ろうか。彼女はルイスの手から離され、今度はアーサーによって手を握られる。

「さようなら、司祭さん」

 手を振る彼に、司祭はやんわりと笑みを返した。そうして内心思う。彼女の心を取り戻すのはとっても大変でしょうね、と。あの少女は、瞳が空っぽだった。表情は何ひとつ浮かんでいない。まるで。

(人形みたいで。生きてるのに、心は死んでいるみたいで。なんだか空恐ろしい)

 そうして。司祭は祈る。彼らの道が少しでも明るくあるように、と。


            ◆◇◆


 扉をノックする。返事など勿論返ってこない。アーサーはわかってはいるものの、淡い期待を捨てられずにいた。

「アーサーだ。……入るぞ」

 また例によって部屋主の許可なしに中へと入った。ベッドの上に腰かける彼女は、何も変わらぬ光の消えた瞳でわずかにこちらを一瞥し、興味をなくしたように再び虚空の彼方へ目をやった。

 アーサーはゆっくりと歩み出し、椅子を引いて彼女の隣に座った。

「聞いてほしい話があるんだ」

 膝上に置いた両手がじんわりと汗ばんでいるのがわかった。

「誰よりもリリーに聞いてほしいんだ」

 そう口にして、彼女の反応を待った。長い間、彼女はずっと遠くを眺めていたが、ついには根負けしたのかゆっくりとではあるが、彼の方へと顔を向けた。

「ありがとう」

 ――じゃあ話すよ。今まで自分で話したことが無かったから、きっと聞きづらいかもしれないけれど。アーサーは挫けそうになる心を叱咤して、言葉を紡いだ。

「おれの過去の話だ」


            ◆◇◆


 おれは、とある旅回り一座の座長だった男と女の間に生まれた子だった。

 旅一座で生まれ、育ったおれには故郷と呼べる故郷は無かった。ただ、〈薔薇の国〉という当時世界的に発展していた国に両親がいた時に生まれたらしいから、一応そこが故郷と言えるんじゃないのかな。ルイスもその国出身なんだ。全然立場の違う人間だけどな。

 父親は一流のアルルカンで、母親は一流のコロンビーヌだった。まさしく役同士の関係を自らに当てはめた例だった。しかし、やがて二人は意見が合わなくなり、おれが生まれる頃には完全に明らかな溝が出来上がっていた。おれが物心つく前にはもう、母は酒浸り、父は中毒的な陶酔を仕事に向けていた。誰もおれを顧みない。……それが当たり前だと、当時は思ってたんだよな――。

 そしてある時。旅一座の収入がみるみる少なくなり、共にいた仲間も消え、二人は飽きなかったのが不思議なほどにばからしい喧嘩を繰り返した。――そんな時にルイスと出会ったんだっけ。あいつ金持ちのくせに、自分が正当に評価されないことに嫌になって逃げてきたんだぜ。ばかだろ、暖かい家に引きこもってぬくぬく暮らせばよかったのにな。まあ、おれはあんまりあいつに対する羨望みたいなものは持ち合わせてなかった。自分の問題の方で手一杯で、他人なんて考えてられなかったんだろうな。


「ま、ルイスの話は置いといてさ……」

 息を整える。ここから、自分は長年封印してきた過去を開放し、それについて他でもないリリー相手に喋るのだ。怖い。冷や汗が噴き出し、力の入らない両手を握る。額を拭い、目を瞬かせて眼球の乾燥をおさえる。口内がからからに渇き、声が擦れる。聞き苦しいだろうことは百も承知だ。

 自己を守るために忘れていたいと、アーサーを形成するほとんどのものがアーサにむかって強く訴えるが、彼の中の一片の使命感のようなものが、心の中で暴れまわる衝動をなんとか食い止めていた。

 リリーには話さなければ。恐る恐る彼女を窺うと、その目がずっと真っ直ぐ、こちらを見てくれていたので、それに励まされ何とか話を続けた。

「それで、おれの母親は」

 

 おれの母親は、浴びるように酒をのみ続けたことで体を壊し、それでもまだ酒に酔って現実をごまかしたので、治る病気も治らず、ついには命を失った。

 ――ここで初めて、なくしたものの大きさを知った男は生きることを止めたくなった。

 しかし、男にはおれという云わばしがらみがあった。

 そいつは言った。

『アーサー。賢いお前は、もうこの一座が終わっちまってるのも、ちゃんとわかってるな、わかるな、俺たちはもう生きていけないんだ』

 そいつの瞳は怪しく揺れている。焦点が合ってない。しかし眼球は明らかにおれを射抜き、おれから視線を外す気配は微塵もない。

 おれは狂気にすべてを呑まれた人間をそこで初めて見たんだ。それが実の父親だったわけだが――。

 おれは抵抗した。ただひたすらその目が恐ろしかったから。

 でも当時まだ幼い子供だったおれに、その手を振り払う力はない。逃げ出すことはできなかった。

『死にたくない!』

 なぜだろうその時は、男に対する猛烈な拒絶が心身を包み込んだ。生きていたいわけではなかった。それでも信じていた父親に殺されたいわけでは決してなかった。

『俺たちは死ぬ運命だ』

 そいつは暴れるおれの首に手をやった。宙ぶらりになる足を無茶苦茶に動かし抵抗したが、みるみる息が吸えなくなって頭が真っ白になった。

 そいつは実の子供の首を絞めたんだ。

 ――もうあと何秒か助けに入るのが遅れてたら、おれは確実に死んでいた。 妙に静かで明かりのついていない座長の部屋を、不審に思った人々が助けに来てくれたんだ。おれは命からがら逃げ出したが、ここに居ては直に殺されるだろうことを強く感じていた。

 正気に返った男は頭を地面につけて何度も謝ってきた。その姿を見ても、おれはここを出て行くという決意に変化はみられなかった。そして、寝静まった夜を狙って、逃げ出した。その時、運悪くルイスにみつかって、結局二人で抜け出すことになったんだが。

 それで。遠く離れた場所へ逃げるために船に乗り込み、叩き込まれた芸をみせてやったり下っ端として働いたりして金を工面して。で、やっと着いた別の国で何とかこのアルテ劇団に拾ってもらってさ――。そうしてやっと今があるんだよ。そうしてリリーと出会ったんだよ。

「……リリーに、見てもらいたいものがあるんだ」

 アーサーは一番上まで閉めていたボタンを一つ一つ外してゆき、首元をあらわにした。そこから覗いたのは、きつく巻かれた真っ白の包帯だった。アーサーは小刻みに震える手で、途中何度も手を止めながら、やっとのことでその包帯を解いた。さすがのリリーも目を見張った。そこには、

「これが、不愛の刻印だ」

 浅黒く、まざまざと残った人の手形があった。その痣は、ぐるっと彼の首を巻き付いており、指の形までくっきりと焼き付いていた。それを、アーサーは自ら触れようと手を浮かせるが、それを心が拒むのかうまくゆかず、始終手を彷徨わせていた。

「これを鏡で、見る度に思うんだ。おれは、親から受ける愛を受けられず、……愛されず、生きてきたのだと。それが、何よりも苦痛で、辛くて、淋しくて、消えてしまいたくなった――。『この世で愛されない者はいない』という言葉を、よく教会で耳にした。嘘だ! おれは背を向けた。じゃあおれは誰から愛されたというのだ。おれは父親を憎んだ。だから、セカンド・ネームを捨てた。 おれはただのアーサーとなった。実の親に殺されかけた、愛を知らずに生きてきた哀れな子供として。

 でも。独りになるのは恐ろしかった。目を閉じれば今も、あいつがおれの首に手をかけた姿が浮かぶ……。何が恐ろしいって、あの目であの手であいつに殺されるのが怖かった。独りになればあいつに殺される。おれは独りを恐れるようになった。

 独りにならないようにするには、ひとから愛されればよかった。気に入られればよかった。そのためにどうすればいいか。そして自分をかえりみた時、自分の中にあるアルルカンという仮面に気づいたんだ。

 アルルカンはどこへ行っても人気ものだった。人々に愛された。笑ってくれた。おれは必死に彼を演じた。でもそれは、おれに対する笑顔ではなく、あくまでアルルカンという仮面に向けられたものだと気づいた。

 ――だから、おれは自分という存在を滅し、アルルカンという役になりきり、同じものになろうと思ったんだ。同じものになれば、自分も愛されるのだと、想ったんだよ。滑稽だよな。でも、おれは必死だったんだよ。そこにしか道はなくて、周りなんて見てられなかった。――だからおれは、リリーを傷つけてしまったんだ。ようやくアルルカンとして完璧に生きていけそうだったのに、アルルカンが呑み込んでくれそうだったのに、自分の目の前にリリーという人間が現れて、おれは動揺したんだ。リリーは、いつだっておれを見てくれていた。仮面の奥のおれを見てくれてた。言葉のとおり、おれを、愛してくれたんだ。

 その時すぐに、おまえの手を取っていれば、よかったのに。おれは、長年積み上げたこの、簡単にからっぽの愛を得られる仮面を手放すことができなかったんだ」

 アーサーは静かに泣いていた。その泣き顔に、ひどく儚く、愛にあふれた笑みがまじった。彼女の名を呼んだ。

「リリー、変わったんだおれ。わかったんだ。今のおれは、もう誰かの愛に縋ったりしない。おれが、リリー、あなたに愛を捧げようと思うんだ。一生を懸けてでも。全部捨ててでも。そうしたいんだ、そうさせてくれ。他には何もいらないから。……あなたは拒絶したって構わない。ただ、生きていてくれればそれで、それで何も構いやしないんだから」

 言って、椅子から降りて地面に跪き、彼女の手を取り、その手を自らの額に強く押しあてる。それは、一生服従を誓う、彼なりの証明。

 ほのかに当惑の色を浮かべるリリーに、アーサーはやんわりと微笑んで、懐からナイフを取り出した。試しに指の上で刃を滑らせてみた。鮮血の玉が一粒、二粒とこぼれた。

「それでも、あなたが死を望むなら。あなたはその刃を使えばいい。でも。それでもって命を絶ったなら、おれもともに死ぬ。おれに計り知れない恨みがあるだろう、だからおれをひと思いに突き刺して殺してもいい。罪は無い。もう遺書も書いてある。あなたに絶対に罪が問われないようにしておいたから。心配ならみてきてもいい。おれは殺されたっていい。あなたになら。むしろ本望なんだ。――つまり、あなたが死のうと思うのなら、おれもまた道連れだということをお忘れないように……。これはおれの我が侭だ。それでも、おれは必ず後を追いかけるから。独りには、しないから」

 そう言って、リリーにナイフを握らせた。鋭利な刃。心臓を一刺し、貫けば命は無いだろう。彼女は黙ってその鈍い光を食い入るようにみつめていた。

「……どうして、話、したの」

 久しぶりの声に純粋なる歓喜を示しながら、アーサーは温かく微笑んだ。

「あなたが抱き締めてくれた時、首に手を回してくれただろう? それでも、おれは驚きはしても、不思議と嫌悪感を抱かなかったから。きっと、それだけリリーが特別で、唯一のひとだったんだと気がついたから」

 リリーは再び沈黙した。じっと手元の刃を眺めている。決断しかねているのか。その白い肌に、玉のような汗が伝い始めた。ナイフを握りしめる手がしきりに上下する。唇をきつく噛みつくように閉ざした。嗚咽が漏れ始める。目に涙がにじんできた。刃の切っ先が自らに向けられる。呼吸が荒くなる。肩で息をし始める。葛藤、迷い。苛まれる激情の間に挟まれて、選択さえまともにできなくなる。視界がぐるぐると回転する。死への切実な願望と、他の命を道連れにするという大きすぎる罪悪感。リリーは途方に暮れたようにゆるゆると顔を上げた。そこには、アーサーの優しい笑顔があった。もう無理だった。

 リリーはナイフを投げ捨てて、自らもベッドから滑り落ち、彼と向き合った。そうして細い腕をあげて、彼の首元へ手をやった。なんと深く傷つけられたことだろう。リリーは泣いていた。アーサーは伸ばされた手を瞳を閉じて、喜んで受け入れようとした。しかしその手は途中で躊躇われた。アーサーは目を開けて、囁いた。

「リリーになら、触れられてもきっと大丈夫だ」

 自ら小さな手首をとって、痣の方へと近づける。触れられた一瞬はびくりと反射的に身をよじったが、深呼吸してから彼女に笑いかけた。

「初めてだから、緊張する」

 リリーはその痣を慈しむように撫でた。アーサーは頭を垂れ、その温度に涙を流した。

 ふたりはどちらともなく、お互いに抱き合った。リリーのこぼした涙の熱さに、彼女の愚直なまでの優しさを感じて、アーサーは涙がとまらなかった。


            ◆◇◆


 それから。アーサーは劇団にも復帰して、アルルカンとして動き始めた。

「あんまり休みすぎて芸が錆びたら困るから」

 まだ言葉にどもったり、口が回らなかったりはするけれども、少しずつ勘を取り戻し始めている。ただし、彼は劇が終わるとすぐに仮面を外すようになった。アーサーとして、生きるようになっていたのだ。

 食事も、仕事の合間を縫って、極力リリーと一緒に食べるようにした。その時には今日の出来事を面白可笑しく語り聞かせ、少しでも彼女にまた笑ってもらおうと努力した。彼が舞台に上がっているときは、他の団員たちが積極的に彼を支援した。週に二度来る、フローラ楽団の者たちも率先してリリーの世話をした。

 朝は誰よりも早く彼女の部屋を訪れ、時間が許すまで楽しく話をし、夜は誰よりも長く一緒にいて、彼女が完全に寝付くのを待った。自分にできることは進んで行った。髪をといたり、時々女団員から髪飾りを譲ってもらって、リリーに飾り付けてやったりした。そうして彼女の容姿を褒めちぎり、にこにこと笑ってみせたのだった。彼はよく笑うようになった。リリーはその笑みをじっと眺めていた。


 ある夜、悪夢にうなされて勢いよく起き上がった彼女は、何となく空恐ろしい感じがして、ベッドから降りて部屋の戸を開けた。すると、向かい側の部屋から明かりが漏れていた。ずいぶんと夜遅いのに。リリーは弱々しい手で扉を叩いてみた。すると、ばたばたと騒がしい音を立てて、アーサーが戸をこれまた大きな音で開け放った。

「どうかしたのか?!」

 リリーは面食らってしまったが、すぐにふるふると首を振った。するとアーサーは安堵の息をついて壁にもたれ、そうして彼女を部屋へと送り、ベッドに寝つかせた。

「悪い夢でも見たのか?」

 ゆるゆるとそっぽを向いた彼女にアーサーは声をあげて笑ってから、彼女の髪を撫でて、

「寝付くまで側にいるから、だから安心して寝なよ」

 と言った。リリーはゆっくり彼の方を向き、問うた。「ずっと、起きてたの」

「ちょっと……ね」

「眠れないの、いつから」

 言葉を濁す彼の態度で、悟った。頭に置かれた手を握り、「もういい。眠って」と請い縋った。

「大丈夫だよ」

「わたしが、だいじょうぶじゃない」

 有無をいわさぬ視線に、彼は「じゃあここでちょっと目を閉じとく」と自身の言った通りにした。不服そうな彼女が最後に映ったが、彼女の表情もだんだん綻んできたなと言い表せない喜びに浸る。

「……アーサー」

「ん?」

「わたし、あなたを憎んだこと、一度もないからね」

 ぜんぶ、わたしの弱さがしたことなの。あなたは関係ないのよ。これを、彼女が彼の目を見て言ったことならば、彼はこれ以上ない救いを感じただろう。しかし、彼女の視線はいつだって真っ直ぐ、机の上に置かれたナイフに注がれているのだ。見なくともわかる、いつものことだから。アーサーは何度でも同じことを繰り返し言おうと思って平然と答えてみせた。

「だとしても。リリーがいなくなるなら、おれも一緒にいく。変わらないよ」

 おやすみリリー。彼女は握られた手を、もう一度握った。彼女の目は、始終彼に注がれていた。


            ◆◇◆


 アーサーの提案により、できるだけ食事の時は、皆と一緒に食卓を囲むことにした。アルテ団員は少なくはあるものの、以前演じた劇に感銘を受けた者たちが劇団に入団を申し込んできたりしたこともあり、食堂と定められた場所は結構な人で埋まっていた。食べる時間は決められておらず、団員たちは好きな時に自由に食べることが出来たが、早く行かないと食事に有り付けないので、調理場から好い匂いが漂い出すと、自然と皆集まって席に着くのだった。

 食事は一週間、当番制で回していく。今週はアーサーが当番であったから、彼は早くからリリーの席を探し出してそこに座らせ、自分は彼女の前に席を取り、調理場へと慌ただしく駆けて行った。

 しばらくするとブルーノが彼女の右隣にどしんと座り、にやりと笑いかけた。

「アーサーの飯は美味いぞー。あいつ小食のくせに味にはうるせえから、他のやつがあんまりまずい飯を作ると、自分でもう一回作り直すんだよ。そのお蔭で料理の腕を身につけたんだ。ん? そのまずい飯はどうしたかって? 作ったやつの責任だよ。皆アーサーの飯に食らいついてたから、一人でしんどそうに食ってたけどな、はは!」

「ブルーノさん、朝から声が大きいですよ」

 サーシャは朝が苦手なのか、目を細めながらリリーの左隣に座った。「あ、でもアーサーさんの食事はおいしいです。それはほんと。だからこんな早い時間でも結構集まってるんです」

「そうそう、サーシャの料理はかなりまずいから、できあがっても人が全然いない、ってな!」

「ちょっとブルーノさん! それでも最近は人けっこう多いですよ」

「それは熱いうちにかき込んで、うやむやにするためだよ」

 アーサーが食事を運んで、二人の会話に入ってきた。サーシャは顔を真っ赤にして反論したが、アーサーは笑って受け流した。運んできた皿をリリーの前に置いて、自分の席につく。調理場はできあがった料理の凄まじい争奪戦が行われており、サーシャとブルーノは出遅れたとばかりに勢いよく立ち上がった。それを楽しそうに見送り、リリーを見た。

「ゆっくり食えばいいからな。残せばいいから」

 彼女はスプーンを握って皿に盛られた食事を眺めた。トマトの煮込みスープに、焼きたてのパンに、炒めた野菜もの。素朴な料理ではあったが、湯気が快い香りをともなわせて鼻孔をくすぐる。

「食べやすいものからでいいよ」

 アーサーに促され、リリーはゆっくりとスープを口に含んだ。それを数回繰り返していると、山盛りに乗っけられた料理を手に二人が戻ってきた。

「いっぱい食べないと元気出ませんから!」

「いやおまえはもうちょい体重とか気にしたらどうだ?」

「きゃーっ、ブルーノさんの鬼! 女の敵!」

 両隣の凄まじい食欲に押されつつも、リリーはちょっとずつ、食事を体に流し込んだ。パンを細かくちぎり、スープと一緒に口にする。咀嚼のため、しばし手を休めていると、それをもう食べきれないものだと判断したブルーノが「食ってやるよ」と手を伸ばした。アーサーも無言で感謝した。サーシャはずるいと自分も手伝ってやろうとしたところを、リリーの悲痛な叫びによって遮られた。

「たべる!」

 もぐもぐと一生懸命食べながら、二人の手から料理を守った。そうして途中でスープの皿を持ち、椅子からおりた。アーサーは呆気にとられて、

「どこに行くんだ」

「もうちょっともらうの」

「お、おれが! ちゃんと入れて来るから、リリーは食べてたらいい」

 リリーの手から器を受け取り、アーサーは群がる団員たちを押しやって進み、姿を消した。ブルーノとサーシャはお互いに顔を向き合わせ、堪えきれないとばかりにリリーごと互いの体を抱きしめた。間に挟まったリリーが窮屈そうにしたが、ほんの少し笑っているように思えた。

 たった今起きてきた様子のジャンヌとルイスはそんな三人の様子を、不思議に思いながら、アーサーがスープを走ってこぼしながら持ってくる様子を見ながら、アーサーの両隣に座った。持って来られたスープが、リリーの席に置かれたのを見て、ようやく状況を理解したのか、ジャンヌとルイスは彼の肩を思い切り叩いてやった。

「よくやったわね、アーサー!」「よかったね、アーサー!」

 アーサーは俯いている。ジャンヌは泣き笑いを浮かべながら、もう、と怒ったような声を出した。

「泣いてるの? ちょっと、やめてよ、あたしまで泣けてきちゃうでしょ……」

「大変だったねアーサー。でも、本当、よかった。ここまで変えてくれたリリーちゃんにはなんてお礼をしていいのか……。ありがとう、こんなことになって本当にごめんね……本当にありがとう」

「ほら。アーサーも何か言ったら?」

 アーサーは、くぐもった声のまま、呟くように言った。

「焦らなくていい、ゆっくりでいいから、少しずつで全然かまわないから、無理しなくていいんだよ、ただ、生きてくれればそれで、おれはそれだけで――」

 リリーはぐっと顔を上げた。スープが口の端にはねていたが、気にせずアーサーを見つめた。

「おいしいよ、アーサー」

 その場は、温かい拍手によってたちまちに包まれて、アーサーはそのまま顔を上げることができなかった。


            ◆◇◆


 アーサーは偶然ぽっかりと予定が空いたので、ルイスとともに市場へ出掛けた。市場は定期的に行われており、服やアクセサリ、新鮮な食材や美しい絵画など様々な色鮮やかな品物が置かれていた。先日降った雪が辺りを一面に覆っており、すっかり白銀の世界が出来上がって、子供たちが楽しそうに走り回っている。

「ルイス」

「何、アーサー」

「おまえには、本当助けられた。――ありがとう」

「急にそんなこと言わないで。おれだって、失敗ばっかりだったし。――それに、僕だって君に助けられたんだから」

 アーサーは怪訝そうに眉を顰めた。

「おれ、おまえ助けたこと、あったか?」

「あ、あったよ! もしかして忘れてるの!? 僕にとっては君は僕の救世主だったんだよ」

 ほら、とルイスは身振り手振りで話を始めた。

「僕が貴族の生まれでさ、エヴァンズ=ブライムという名のもとでしか僕を認めてもらえなくて、それでたまたま〈薔薇の国〉にやってきた旅一座に頼み込んだだろ?」

「――ああ! 屋敷抜け出して、『こんな身分や立場や一々の挙止動作に神経質にならなきゃいけない世界はもうたくさんだ――』って言ったやつな。おれは何でわざわざ金持ちが、貧乏生活覚悟の上でこんなところに来たか全然理解できなかったな」

「……僕はとにかく逃げたかったんだ。僕という人間を認めて欲しかった。だから、このままどこかへ行こうとした。――でも君が、『ちゃんとお別れは言ってきたのか』って。『このままだと絶対後悔する』って、言ってくれてさ」

「『おれは別段どうでもいいけど』って言っただけだろ?」

「ううん。君に全く関係無いことなのに、そう声をかけてくれた、それだけで十分だったんだ。僕は恐る恐る屋敷に戻った。……そうしたら、いたんだ。門の前に、僕が出て行った姿を見た妹が、今日みたいな冬の寒い日に、寝間着のまま、僕の帰りを待っていたんだ。僕は言った。ここを出て、生きていくんだと」

 ルイスの妹は言った。

『母様や父様はきっと怒って兄様を閉じ込めてしまうと思うから、話は私からしておくね』

 妹は、そうして微笑んだ。『お兄ちゃんがどこか知らない世界を旅したいってずっと幼い頃に言ってたの、私ちゃんと覚えてるよ。それからずっと、息苦しい世界でたくさん努力しながら、お兄ちゃん、ずっとその夢を諦めずにいたよね。私、わかってた。お兄ちゃんがいつかどこか行っちゃうって知ってた。だから、だからね』

 私がちゃんと見送ってあげる代わりに、お兄ちゃんはエヴァンズ=ブライムの名を、捨てないでいて。他の名前をつけてもいい。でも、どんなに嫌でも、ブライム家の名だけは語り継いでいって。そうしたら、会いたい時にエヴァンズ=ブライムの名を追いかけて会いに行けるでしょう?

「僕は、ブライム家を捨てた男だ。それでも、妹は僕に家族という繋がりを残してくれた。だから、君には痛い話かもしれないけれど、僕はそれで生きていけるし、これからも生きていくんだと思う」

「いや、いい話だと思う」

 ルイスは唖然として、そうしてくすくすとアーサーを見た。

「変わったね、アーサー。とっても、いい方向に」

「リリーが変えてくれた」

 アーサーは照れもせず、揺らがぬ答えを返した。

「リリーはおれにとって、唯一の女なんだ」

「……それ。彼女に言いなよ。僕に言わないで、照れる」

「お前に言ってねえよ!」

 

ようやく、ピエールの怪我が治り、劇団へ帰ってきた。アーサーは最初、こっぴどく叱りつけたが、よく戻ってきたと背中を叩いた。あまりの豹変具合に戸惑うピエールだったが、彼らに起こったことを全て聞いたとき、涙もろい彼は机に突っ伏して泣き出してしまった。

 リリーは自らの足でピエールのところに立った。「前は助けてくれてありがとう」

「あなたが、リリーさんでしたか」

 アーサーは怪訝そうにした。「なんだ、おまえリリーのこと知ってたのか」

 リリーは隣に立つアーサーの服をつまんだ。

「わたしを助けてくれたの。それで、怪我したの」

 ブルーノは大口を開けて、げらげら笑った。

「女助けてお前は大怪我か! 喜劇だな!」

 アーサーはつとめて冷静に礼を言った。リリーも頭を下げた。

 それから、アーサーはピエールを部屋の隅へ連れて行き、耳打ちした。

「おまえはリリーのこと、どう思ってるんだ」

「どうってどういう意味ですか……?」

「命張って助けるくらいなんだから、それだけ好きなのかって話だよ」

 ピエールは内心にやりとした。どうも彼は自分を恋敵だと勘違いしているらしい。普段からいじめられていた彼は、復讐心がうずいた。少し、懲らしめてやろうと彼は、唇を尖らせて空とぼけた。

「さあ。どうでしょう」

 ――すると。アーサーは予想外の反応をした。なんと、瞳を潤ませ、飛び上がらんばかりに大喜びし出したのだ。これにはピエールも驚愕する。

「よかった! おまえみたいに、ちゃんとしたやつがリリーと一緒にいてくれたら、リリーも幸せになれるはずだからな!」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! ど、どうして僕がリリーさんと――? アーサーさんがいるじゃないですか!」

 アーサーは黙った。そうして、地面に視線を落とし、呟いた。

「おれが、リリーの隣にいられるはずなんかないだろ。今は大分回復してきたけれど、おれはリリーを殺したんだぞ? そんなやつが、リリーのことを幸せにするなんておこがましいにも程がある。おれが出来るのはせいぜい、その幸せの道を作ってやることだけだよ」

「……じゃあ、彼女に恋人ができたら、あなたはどこかへ行ってしまうんですか」

 アーサーは不思議そうに、逆に問い返した。

「どうしてだ? おれは一生、リリーから離れるつもりはない」

「は?」

「ずっと陰から見守ってる。リリーの恋人がリリーを傷つけたら承知しない。引っ越したら一緒についていく。リリーが死んだら、おれも死ぬ。一心同体だ。リリーの幸せを、おれは守るんだ」

 ピエールは、はああ、とそれはもう深い溜息を吐ききった。そして、あんまり呆れてしまったので、怒鳴る気力も無くし、力なく首を振るばかりだった。

「――ずれてる」

「え?」

「根本からしてずれてるんだよ! 君は、彼女を助けるために力を尽くしたんだ。そうして、絶望の淵から彼女を救い上げたんだ。確かに君が犯した過ちは許されるものじゃない。けれど! それが君の彼女への思いを制限していいわけではないんだ。辛苦を共にした君以外の誰が、彼女とともに歩めると思うんだよ……」

 まだ納得していない彼の様子に、ピエールはわかったと一つの提案をした。

「僕以外にも、アルテ劇団の男女関係なく、リリーさんに贈り物をしよう。制限は何もない。ただ彼女にあげたいと思ったものを選んで贈るんだ。それで、誰の贈り物が一番喜んでいたか、君はちゃんと見ているんだよ。勿論、君も参加してもらう。いいね!」

「なんでそんなにピエールさん怒ってるんだ……?」

「君が恋に疎い大ばか者だからだよ!」


            ◆◇◆


 リリーの前には、色とりどりの贈り物が並べられていた。リリーは戸惑い、こんなに受け取れないと断ったが、「アーサーが全額負担だから、気にしなくて大丈夫よ」と女たちに強引に言いくるめられ、不承不承頷いた。女たちは勿論、男たちもこの面白そうな催しに参加しないわけはなかった。あの真面目なアルダシールでさえ参加しているのだ、そのこと自体が可笑しいといえばそうだった。

 皆各々に贈り物を選んできた。香水、綺麗な服、宝石のついたアクセサリ、人形、オルゴールやお菓子、本当に多種多様で、送り主の特徴が如実に表れた贈り物だった。

 その中で。アーサーの番が来たとき、リリーは顔を朱に染めて、両腕を伸ばして贈り物を眺めた。

「その……最近、寒くなってて。寝る時にも少し寒そうにしてたからさ、毛糸で編まれた羽織り物、なんだけど。なんだか似合いそうだなあ……って」

 そうして彼は言い訳を述べるように、よく回る舌で口を動かし続けた。「いやおれアルルカンという役をやってるのもあって贈り物は結構もらうんだけどさ、いやでも、自分から贈るのって初めてでさ、何あげていいのかわからなくて色んなやつに相談したんだけど皆、『これは勝負だから他人に訊くな』って口揃えて言うから自分で決めるしか無くて、いやほんと、どうしていいのかわからなかったから、ピエールが言ってたように自分があげたいものをあげようって思って選んだんだ、けど」

 リリーは部屋を飛び出して、風のようにどこかへ行ってしまった。アーサー以外の皆は人の悪そうな顔を浮かべながら、にやにやと笑って追いかけた。アーサーは訳がわからず皆の後ろをつき従った。

 リリーは団員たちが衣装に着替える時に使う鏡の前に立っていた。入ってきたアーサーを鏡で目にして振り返ったリリーは、真っ白の羽織り物に包まれた自身を指さした。

「うあ」

 男も女も関係なくアーサーの背中を肘で小突いて、リリーの前に送り出した。「よ、よく似合ってる」

 どこか不満そうにそっぽを向いた彼女に、「おいどうやら満足いかないらしいぞ」と囃し立てる声が聞こえる。アーサーはこれ以上なくうれしそうに笑って、叫んだ。

「とってもかわいいよ!」

 リリーは弾かれたように彼のところへ駆け寄って、抱きついた。「ありがとう」彼女は耳まで真っ赤にして囁いた。

 そんな二人をブルーノは肩に抱え上げて、その場をぐるぐると回り始めた。それを団員たちはけらけらと笑い転げながら、幸せそうに笑う二人を見ていた。ピエールは満足そうに頷いていた。

 しかし、肩から下ろされたアーサーは、彼に向かって言った。

「でもやっぱり、おれ以外に適任者はいっぱいいると思うから、リリーが好きになったやつがいたら、おれは喜んでその場を譲るよ」

 やっぱりわかってなかった。彼らの過去を思えば仕方ないことかもしれないが、まあ、時間はあるんだ。ゆっくり、彼にも独占欲といった男の欲も生まれてくるだろうと、ピエールはほくそ笑みながら思った。その時は、思い切りからかってやるんだから。まあ、覚悟しておけよ、と。


            ◆◇◆


 リリーとアーサーは二人、冬空の下、買い出しに来ていた。久しぶりに一日休みが貰えたので、何をしようかと思っていたのだが、

「なあリリー、今日、一緒に料理しないか?」

「……うん」

 リリーももう随分元気になって、まだぎこちなくはあるが少しずつ笑うようになっていた。アーサーはそれに感動に似た喜びを覚え、提案する。

「あのさ、その、パンプキン・パイ、教えてくれないか」

「……、」

「おれ、いつも貰ってたのに、酷いことしてさ……、嫌ならいいんだ、でも、その、今度はおれがリリーに作ってやりたくてさ」

「……まずかったら捨てちゃうから」

 また、リリーの笑顔に救われた。どんな姿になっても、やはりリリーはリリーだ、自分の唯一なんだと彼は思った。


 橋を渡るのはほんとうに苦労した。彼には、リリーが身投げした日から、様々なトラウマが植え付けられていた。川、橋、満月、他にもいくつか。

 リリーは何度も彼に合わせて立ち止まってやりながら、何とか橋を渡って北区へと向かった。市場は北区の広場にしかない。川は横断して流れているので、橋からは逃れられない。

 マフラーにコートという簡素な出で立ちのアーサーの隣に、彼からもらった羽織に、マフラーに手袋にコートにブーツに……、その他冷風を少しも通さないようにぶくぶくに着ぶくれさせられたリリーの姿があった。出掛けるとなった途端、アーサーは着せ替え人形のようにリリーに服を狂ったように着せてやった。風邪をひかせては困る。アーサーは自らには無頓着だが、リリーに対しては異常なまでに過保護であった。

「パンプキンと小麦粉と……」

 リリーは食材を選び、それをアーサーが抱えて持って帰った。

 そうして調理場に立ち、二人一緒に作り始めた。パンプキンを切って、中身をくりぬき、生地を作って、焼き上げる。

「アーサー」

「何?」

「……っ、あのね、わたし楽団に、」

「それより見ろよリリー、生地がふくらんできた」

 リリーはそれから、しきりに楽団の話を切り出そうとしてきた。それはいくらか精神が回復してからずっと考えてきたことだった。いつまでもここで甘えているわけにはいかない。元気になったのなら、ここに居続ける理由が無い。皆、好きなだけ居ても良いんだと懇意に言ってくれているのはわかる。でも、わたしがいる場所はやはりここではないのだ。

 アーサーは、リリーが楽団という単語を口にする度逃げてきた。まだ一緒にいればいい。もし帰ってすぐ、自分の目の届かない場所でリリーがまた壊れてしまったら……? 彼は恐ろしくて恐ろしくて、たまらないのだ。再びあの悪夢が再来することを思うと、恐ろしくて。ならば、ずっと自分が養っていつでも目の届くようにして、守っていけば。

「リリー、そんな焦らなくていいんだ。むしろ、ずっと一緒にいろよ。無理して帰る必要なんてないんだから」

「……でも、」

「焼けたよ、リリー」

 アーサーは手慣れた仕草で焼きたてのパイを切り分けて、団員たちに運んでいった。リリーはその後ろ姿を不安げに見ていた。

 戻ったアーサーは、紅茶をいれて二人で作ったパイを口にした。他愛ない話で盛り上がっているところに、配達屋が手紙を持ってきたのでそれを受け取った。

「誰からだろ」

 汚い字でカルロ、と書かれていた。宛先はアルテ劇団へ。団員である自分も当然見てよいものだろうと手紙を広げた彼は絶句する。

「どうしたの」

「――シャルル王が、アルテ劇団を王宮に招待する、と――」

 リリーはおめでとう、とすぐさま口にした。嬉しそうに手を叩くと、アーサーはちがう、と叫んだ。

「どうしたの」

「……おれらが招待されたということは、おれらはルテジエンから遠く離れた地にある都へ、王宮へ行かなくちゃならない」

 リリーはわからないと首を振った。アーサーは彼女を見ないままに、呟いた。

「行かない」

「ど、どうして」

「おれはリリーを置いていけない」

 手紙を破った彼を見て、わたしはここまで彼を縛りつけていたのだと知った。「このことは、絶対に誰にも言うな」

「だめよアーサー……そんなの」

「じゃあ、リリーはおれと離れていいって言うのか!? おれは嫌だ、絶対に! もう二度とあんなことを繰り返さないために、おれは、絶対にここを離れない……」

 わたしはあなたをここに繋ぎ止めたいわけではないのに。

 どうしたらあなたは自由になるのでしょうか。

 彼の言葉を否定しなければいけない立場にあるわたしだけれど、どうして、どうしてわたしのところから去ってくれと、自らいえるでしょうか。

 リリーは項垂れた。どうしていいのか、わからなくなった。

 

しかし、アーサーの目論見は失敗した。

 後日正式に、シャルル王からの手紙を賜り、王宮へ向けて出発の準備をするよう命じられたのだ。


「アーサー、手紙を読んだんだろう……? それなのにお前、それを隠してたんだな! なんでだ? 喜ばしいことじゃねえか」

 アーサーは何も言わない。その様子ですべてを悟ったアルダシールが一言、

「リリーさんか」

「!」

「彼女は一緒には連れていけないぞ。わかるだろ、彼女は劇団員じゃないんだ。お前の大事な人だとしても、無関係の人間を連れて行けるわけない。わかってるはずだな」

「っ、だから」

 だからおれは辞退します。続く言葉をアルダシールはすぐさま打ち消した。

「駄目だ。アルルカンとして一流の役者であるお前を連れて行かないはずがないだろ」

「そうだ。お前だってその為に色々頑張ってきたんじゃねえか。何で今更拒むんだよ、いいじゃねえかちょっと行って帰ってくるだけだろ」

 ブルーノの言葉をルイスは否定した。

「いや。もしも、王に気に入られたなら、多くの劇団は王のお抱えの団となって、そのまま王宮に住み込むことが一般的だ。帰るにしても、王の御命令を拒むなんて非礼なこと、許されるはずが無い」

 重い沈黙が訪れる。リリーは堪えきれず、出掛けてくると言って出て行ってしまった。アーサーが拘る点は彼女のみなのだ。居たたまれなくなるのも無理はない。

「アーサー。リリーさんだって辛い過去を克服しようと頑張ってる。それをお前が邪魔してどうするんだ……」

「でも」

「ずっと彼女をここに置いておくわけにもいかない。彼女もわかってるんじゃないのか」

「じゃ、じゃあ、リリーをここに入団させて……!」

 アーサーの必死の訴えに、アルダシールは駄目だと切って捨てた。

「彼女の演技は見てないが、凄い才能だということはちゃんと耳にしてる。でも――彼女はまだ歌を諦めていないんじゃないのか? お前が居ないとき、部屋からかすかに歌声が聞こえるんだ。あんなに辛い思いをしたのに、それでもまだ歌い続けているんだ。きっと、彼女はほんとうに歌がすきなんだよ。そりゃあ彼女が望むなら、こちらだって喜んで受け入れるが、無理矢理彼女の道を決めつけるのはどうかと思う。お前も、そう思うんだろう?」

 それでも返事は返せなかった。

 副団長二人は黙ってその場をあとにした。


            ◆◇◆


 このままではいけないという思いが、リリーの足をつき動かしていた。このままではいけない。彼をこんなところで引き留めていたいわけじゃない。けれども――王様に召されたら、もう、戻っては来ないのでは。もう、会えないのでは。そう思うとリリーは息もできないほどに胸が詰まるのだった。

 気づけば自分はフローラ楽団のところへ戻ってきており、自分の諦めの悪さにひたすら呆れた。改めて、楽団の演奏会場を眺める。大きな、建物だ。この中に観客が入りきらないほど入って、音楽が会場から漏れ出るほど響いていっぱいになって広がって……

 わたしはここに憧れていたはずだった。なのに、舞台に立つと足が震えて、何でこんなところに居るんだろうと思うのだ。逃げ出したくなって、でも逃げることはできなくて、自分の歌がうたいたくてここまで来たのに自分の歌がへたくそで聴くに堪えなくて嫌で、いやで。

 すると、自分と同じように楽団をみつめている人が居た。帽子を被った、背の高い、細身の男の人。

 目が合って、重々しい足取りで近寄ってきて、リリーに声を掛けた。振る舞いから、彼が立派な王侯貴族の出だということが一目でわかった。

「初めましてだね。こんなところにつっ立って何していたの」

「……とくには何も」

 あなたは? 男を見上げて尋ねると、僕はね、とずいぶん興奮して言葉を返してきた。

「僕はね、最近初めてこの街に来たんだけど、あまりのすばらしさに感動してしまって、もう一度お忍びでここへ訪れたんだ――あ、これ言っちゃ駄目だった。これ内緒ね」

「は、はあ」

 やはりお偉い様方だったのだとリリーは思い、失礼の無いように振る舞おうと身構える。その緊張が伝わってきたのか、「別に自然体にしてくれたらいいよ」と断った。リリーは優しそうな人だなあと思った。

「よかったら、君の話を聞かせてよ」

「え」

「人には人の悩みがあるわけでしょう? 僕はそれを知ってみたいと思ったんだ。だから、無理言って連れてきてもらった。――やっぱり自分の国民を自分の目でみたかったから。……ね、教えてよ。赤の他人だからこそ、気軽に話せることもあるでしょう?」

 リリーは促されるままに自分の過去を話し始めた。

 彼女の故郷、夢、この街での出来事、そして才能という名の壁、絶望、自殺しようとした救いようのない自分を助けてくれた唯一の人のこと。そしてその人が、今にこの街を去ってしまおうとしていることを。

「わたし、わたしどうしたらいいんだろう。行って欲しくないよ、一緒にいてほしいよ。でも、だからってあの人を……アーサーを縛りたいわけじゃないの。アーサーの思う通りに生きて欲しいのよ」

 男はしばらく黙っていた。何かを考えているようだった。リリーはあまりの辛さに身が裂かれるような思いだった。

 やがて男は、そっと彼女に問いかけた。

「君はどうしたいの」

「え……」

「夢があったんでしょう。君はまだ歌をやりたいの。それともこのまま劇団に残っていたいの。どうしたいの」

「――歌は」

 歌はわたしの全てよ。

「でも、才能が無いから、舞台に立つことができない」

「そうかな」

 男は理解できないとばかりに、眉を寄せた。「やりたいことがあるなら、やればいいのに」

「そんなの……」

「僕はいいなって思ったよ。夢とかやりたいこととか、そういうきらきらしたものがあっていいなって。僕はずっと周りに流されて生きてきたから、自分の意見とかそういう確固たる自分みたいなものが無くって、今も辛いから、正直君が羨ましい。だからどうして君が思い悩んでいるのかわからない。やりたければやればいい。それを許される立場にあるんだから」

 僕は、君みたいにすべてを投げ出してまでやりたいことってなかったから。 リリーはそんなことない、と反論しようとして、男の言葉にはっとさせられる。

「じゃあどうして君は今、ここにいるの」

「あ……」

「大事な家族とか、故郷とか捨てて、どうしてこの場所に立っているの。大事なものを知っていながら、どうして置いてきたの。きみが捨てた大事なものが欲しくてたまらない人たちからしたら、それはどれほどの冒涜だろう」

 リリーはふとアーサーのことを思い出す。彼は、あたたかな家族が欲しかった。故郷が欲しかった。愛が、欲しかった。

 わたしを遠ざけたのも当然だ。リリーは胸が苦しくなって、ぎゅっと握った。

「本当、ですね」

「僕はその捨てたものをもう一回残さず拾い上げろって言ってるんじゃないよ。ただ、ただ」

 男は真っ直ぐにリリーを見据えた。

「自分に才能が無いからを理由に、夢を諦めるのは、今まで歩いてきた君に対して失礼だよ」

 そうでしょう、と優しく問いかけられて、リリーは一筋の涙をこぼした。

「ええ、ええ……」

 そして、彼女は微笑んだ。花が風に揺られ、そっと花びらを開けたような、そんな美しさをもつ笑顔に、男は見惚れ、それから自分もそっと微笑み返す。

「……わたしの歌を、聴いてくれませんか」

「もちろん」

 彼女は歌った。

 街を歩く人々は足を止めて、その歌を聴いた。何だなんだと騒ぐ者もいたが、周りに静かにしろと小声で怒鳴られてたちまちに口を閉ざす。旋律を奏でる楽器はなかった。歌をふくらませるための他の歌声もなかった。リリーはひとりで歌っていた。温かい、彼女らしい誰かにそっと寄り添うような、優しい歌声だった。

 歌が終わると辺りは拍手に包まれた。男は彼女に握手を求めた。今までの彼女だったら、自分の身分を顧みてたじろいだことだろう。しかし、もう彼女は迷わなかった。堂々と胸を張って、その手をぎゅっと握りしめた。

「その歌が、君の答えだよ」

 また、きっと必ず君の歌を僕に聴かせてね。

「はい、約束します!」

「うん」

 じゃあ、僕は行くよ。そう言ってどこかへ去って行く背中をリリーはいつまでも見届けて、そうして、フローラ楽団を振り返り、そして歩み出した。


            ◆◇◆


 帰ってきたリリーを迎えたのは、他でも無いアーサーであった。

「どこに行ってたんだよリリー! ちゃんと外に行く時は行き先を伝えてくれないと……何かあってからじゃ困るんだよ! わかってるのかよ!?」

「うん。ありがとう、アーサー」

 リリーは彼の両手を握った。これで彼は逃げられない。わたしも逃げないから、きいて。アーサーは彼女が何を言おうとしているのかその面持ちですべて悟った。そして嫌だと拒もうとして、しかし彼女のその真摯さを裏切ってはならないと何とか堪えて、頷いた。

「あなたが真っ直ぐわたしと向き合ってくれたから、わたしは今こうして生きていけるのです。本当に、感謝しています。……ありがとう」

「リリー……」

「だから。わたしのすべてであるあなたに、わたしを理由に自分の夢を諦めて欲しくないの。諦めないことを教えてくれたあなたに、わたしは対等でありたいの」

 リリーはここに、宣言する。

「わたしは、フローラ楽団に帰ります。そして、もう決して夢を諦めたりなんかしない。だから、あなたも、逃げたりしないで。そうしてまた会いましょう。その日を、わたしずっと待っているから」

「……そんなふうに言うのは、おれを王の元へ行かせるため?」

「いつかはそうしなくちゃと決めていて、実行できなかったことよ」

もう、逃げも隠れもしないから。

 凜々しく言い切った彼女に、これ以上言葉などかけられるはずもなかった。

 それからリリーは団員たちに言い足りない感謝の言葉を繰り返して、自分は楽団に戻ることを告げた。皆、彼女を気遣って「そんなに焦って出て行くことないんだぞ」「ずっとここに居たって構いやしないわよ」と優しく言い聞かせたが、リリーは「もう決めたことだから」と笑った。

 意外にも 彼女を強くひき止めたのはジャンヌであった。

「フローラ楽団の子たちのこと、ばかになんて出来ないわ。かわいい妹分が出ていっちゃうのよ、悲しくないわけないじゃない。嫌だわリリー、行かないでよ」

「ジャンヌさん……。いつもありがとうございました。その、何度も蹴飛ばしたりして、すみませんでした――あの、」

「そんなの全然いいのに……! どうしたの……?」

「あの、わたしたちフローラ楽団は、皆のことを本当の家族みたいに呼び合ってるんですけれど、その、ジャンヌさんのことも姉様って呼んでいいですか」

 ジャンヌの涙はこれにより、壊れてしまったかのようだった。ジャンヌは頷き、彼女を抱き締める腕に力を込めて、「もちろんよ。ぜひとも呼んで欲しいわリリー」

「ジャンヌお姉様、わたしも淋しいです。でも、わたしも胸を張って皆の前に立ちたいから」

 するとサーシャを始めとした女団員が二人をむちゃくちゃに抱き締め始めた。そうして声を上げてわんわん泣くので、男は自らの腕を目にあてて、人知れず泣き始めた。ブルーノも豪快なまでの男泣きで、上から もみくちゃになった女たちを丸ごとかかえて抱き締めた。ルイスはアーサーを一瞥して、尋ねた。

「君は行かなくていいの、アーサー」

「……おれはまだ、納得してないからなリリー」

 もう、会えなくなるの、わかってるんだろ。リリー。

 それでも、いいのかよ。

           

            ◆◇◆


 アーサーらが旅立つその日まで、リリーは劇団に身を置かせてもらうことになった。

「アーサー」

 扉を開けると、そこには黙々と支度するアーサーの姿があった。彼は彼女を突き放したり、無視したりといったことは絶対にしなかったが、彼女が話しかけてこない限りは自分から話さなくなってしまった。リリーは彼の隣に座り、黙っていた。たまには彼の準備を手伝ってやった。そんな日々を、旅立ちの一日前まで過ごしていった。


 都行きが明日に迫った日、アルダシールとブルーノが彼女を呼び止めた。

「話がある。私たちがまだ、アーサーにも黙っていることについてだ」

「俺たちは、王宮公演と同じくらい大切なことを行わなければいけないんだ。……君にしか頼めない。助けてくれ、お願いだ」

 リリーの中では、既に話を聞く前から答えなど決まっていたのだ。

「どうして急にそんな他人みたいに言うんですか。わたしが、やらないはずないじゃないですか。わたしに出来ることなら、何だってやります。……出来なくともうまくやってみせますから」


 王宮からやって来た馬車が、もう劇団の前で待っていた。劇に出る奏者のほとんどが馬車に乗り込んでいた。馬を操る御者は舌打ちして苛立ちをあらわにし、団員らに怒鳴る。

「まだですか、時間は前もってお伝えしていたはずですが」

「もう少しだけ、待ってやってください。彼らにとっては最後の逢瀬になるかもしれないんです」


 アーサーは床に座り込み、目前にいる彼女をじっと見据えた。何を思ったのか彼女は、最後になるかもしれないからと「首の包帯を巻かせてくれない?」と言い出した。彼は特に拒む理由もなかったので、彼女の好きにさせていた。

「目を閉じて」

 意図はまったくわからなかったが、リリーに任せようとアーサーは言われるままにした。「首、触ってもいい?」「いくらでもどうぞ」横暴に言って、彼はリリーの温度を感じる。そうすると、何だか意地を張るのも何だかばからしくなって、自分の気持ちを正直に伝えようと思った。

「おれは、リリーが楽団に戻るの、本当は反対したい」

「どうして」

「だって。おれが行かないって言ったから、楽団に戻るんだろ? それって何か、無理矢理帰らせたみたいで」

「ちがうよ。わたしずっと考えてたことだから。でも、あなたから離れがたくって、ずっと、甘えていたの」

「ちがう。おれだって、ずっとここに居れば良いって」

「うん。ありがとう」

 包帯がしゅるしゅると音を立てて巻かれてゆく。この痣を見せるのも、彼女で最初で最後になるだろう。

「でもわたしはね、思ったのよ。あなたに庇護されて生きていたいわけじゃない。対等に、真っ直ぐあなたを見つめて笑えるようになりたいって思ったの。ごめんね、今までたくさん辛い思いさせたよね。わたし、自分勝手だね」

「それは全部おれの台詞だろう……! おまえが謝る事なんて何一つ存在しない。おれが悪いんだ。おまえの笑顔の意味に気づけなかったおれの、罪だ。――そんなのわかり切ってる。忘れたりしない。だから、もうこんな話はやめてくれ。最後がこんなで終わるのは嫌だ」

「うん。そうだね。――できたよ」

 アーサーは目を開けた。綺麗に巻かれていて、別段変わったところは見当たらない。

 リリーは無言でボタンを留め、オレンジ色のタイを結んだ。

「キスしようか」

「いやよお別れのキスなんて。するならもっと喜劇的なキスがしたいわ」

「じゃあ抱き締めようか」

「お別れのハグなんかじゃないからね」

 ようやく出てきたアーサーをみて、御者は彼に怒鳴り散らしたが、赤い目を見て複雑そうな顔をして、早く乗るよう促した。リリーと残された団員たちは皆各々に叫び、手を振った。アーサーが不安そうにこちらを見ていた。リリーは飛び切りの笑顔を手向けた。

「だいじょうぶよ」

 悲しみの色などどこにも見つけることができなかった。


            ◆◇◆


 リリーは畑を抜け森を抜け、ユグノーの家の前に立った。深呼吸してベルを鳴らし、彼が出てきたのを見て微笑み、

「歌を聴いてもらいたいんです」

 ユグノーは余計なことは何も口にせず頷いた。リリーは歌い始めた。こんなに安らかな気持ちで歌えたのは初めてだ。広々と、優しく、自分らしく、歌ってみせた。自然と声が出てきた。体いっぱいに自信を纏って、遠方に行ってしまった誰かを思って、歌う。

 歌い終わると、ユグノーはその皺の多い手で拍手し、笑った。素敵な笑顔だと思った。

「よくここまで乗り越えたね。マリアーヌ。貴女のアリアは素晴らしい。マリアとアリア。何よりも貴女にふさわしい」

「ありがとうユグノーさん」

 走り去っていく彼女に、彼は「自信を持って!」と声援を送った。リリーは大きく手を振った。次に行くべき所は、ひとつしかない。

「フローラ楽長、お願いです、もう一度わたしを――」

 言い終わることなく、気づけばリリーは楽長の腕の中にいた。楽長の熱い涙が頬に落ちた。ああ、自分はこんなにも大事な人に心配させてしまったのか、と申し訳なく思うと同時に、言い得ぬ喜びに身を委ねた。

「心配させて、この、ばか娘! どうして死のうって思ったんだい!? せっかく貰った命を、どうして無下にしようと思ったのさ!? ばか、ばか、辛かったならどうして相談してれなかったんだ、どうして一人で抱え込んじまったんだよ……」

「ごめんなさいフローラさん」

「もうこんなことは一切合切やめにしておくれよ。これ以上大事な人の死を私に背負わせないでおくれ」

 トマスはゆっくりと歩み寄り、リリーとフローラを抱き締めた。

「フローラはね、旦那さんを亡くしているんだよ。その人が、娘が欲しいって言っていたもんだから、この楽団には女の子が多いんだ。そうして、自分をもう一人の母親だと名乗って、君たちを家族の一員として愛してくれているんだよ」

「トマスのことも、家族だと思ってるよ。それから、ユグノーのやつもね。あいつは近々強引にでもこの楽団に入れてやる。独りで陰気に生活させてたらリリーみたいにぽっくり逝かれそうで怖いんだよ。歌い手教えさせたり、金の管理させたりとまあ仕事は山ほどあるだろうよ」

 そしてリリーは、フローラと向き合った。

「お願いがあります」

「なんだい」

「やりたいことがあるの。一生に一回の我が侭です、母さま」

 フローラは白い歯を見せ、彼女に慈しみの愛にあふれた眼差しを贈った。

「一回と言わないで、十でも百でも千でも、我が侭を言いなよ、リリー。その資格があんたにもちゃあんとあるからさ」


            ◆◇◆


 三日三晩、馬車に揺られてたどり着いた都はルテジエンの街とは比べものにならない程の人口だった。道一面を埋め尽くすように多種多様な店が広げられており、御者が怒鳴って道を空けさせる。団員たちはその騒々しい都市の様子にすっかり心を奪われていた。リリーと別れてから始終伏せて寝ている彼を、ルイスは困ったように揺り起こした。「見てごらん。人がいっぱいで凄いよ」

「……いい」

「まだ泣いてるの? まったくだらしないな。あんまり格好悪いとリリーちゃんも愛想尽かしちゃうよ」

「泣いてねえよ」

「心配なの」

「心配じゃない理由がない。……でも、リリーなら大丈夫な気もする」

「大丈夫だって! 君が居なくても彼女は立派にやるよ――ってあいた!」

 ルイスを殴りつけ、アーサーはもう一度目を閉じて眠った。

「本当は行かないでって言って欲しかったくせに」


            ◆◇◆


 王宮の中には広大な緑の庭が設けられており、色鮮やかな花が咲き、そろって風に揺れていた。華麗な宮殿は、中も今まで見たことのないほど広く、綺麗に編み込まれた絨毯が大理石の上に敷かれ、その上をどうやって歩けば良いのかということだけでも大騒ぎになり、王に仕える従者に冷たい目で見られた。

 ここには、アルテ劇団の代表としてアーサー、ジャンヌ、ルイス、アルダシールが訪れていた。

「こちらが客室になります。王のお呼びがかかりましたら、速やかに劇が始められるよう準備をしておいてください」

「わかりました」

 皆すぐさま持ってきた衣装に着替え始め、劇の最終確認をする。即興を入れる間、台詞、流れ。以前のような急な物語の展開は危険すぎる。あくまで念には念を。

 そんな中、一人の訪問者が現れた。アルダシールは「ついに来たか」と独りごちた。ジャンヌは眉を寄せる。

「皆、一旦部屋から出るぞ。アーサー、お前は残れ」

 そうして、訳の分からぬまま扉の向こうの人物と入れ違いに劇団の団員らは外へと出て行った。

 中へ入ってきたのは仮面を被った人間だった。アーサーは目を見張る。漆黒の仮面。その仮面は他でもない、アルルカンのもの。

「おれと、同じ……」

「そうだよアーサー。お前と同じアルルカンだ」

「何で、なんでおれの名前――、というか何で皆、出て行ってお前が、」

「もう、わからないかもしれないが」

 男は仮面を外した。そこに現れたのは、右目をつぶした中年の男の顔であった。一目見て、彼はその人物が誰なのかを直感する。心臓が煩くどくんどくんと脈打つ。感覚的に危険を察知して全身へ逃亡するよう信号を送るが、校長句した体はだらだらと滝のような汗を発するばかりで。

「あ、あんたは――」

「ウィル=クロムウェル。我が子に手を掛けた狂人だよ」

 アーサー=クロムウェル。今はもう、その名では名乗ってくれてないだろうけれど。



 アルテ劇団には副団長が二人、そして不在の団長が一人いる。アルダシールは言った。

「その団長は、自らの子を殺そうとした罪を償うため、自分の身は潜ませて、私たちに立ち上げた劇団を託し、今は王宮に身を置き、劇団が発展する機会を生み出そうと努めてきた。そしてそれがついに功を奏した。王自らが我らが劇団を訪問なさったんだ。君も少しは知っていると思う。君がピエロッタを演じてくれた時の公演がその運命の日だったんだ。

 彼は自分がしたことをこれ以上なく後悔し、父親とは二度と名乗れないかもしれないけれど、何とか自分の過ちを償おうとアーサーを見守り続けてきた。

 ……親子というのは本当に似るものなんだな。彼らは同じ過ちを繰り返して。――。

 そして、彼はついに自分の正体をあらわにし、心から謝罪しようと思ったんだ。どんなに罵られても彼は受け入れると言っている。それが定めだと。

 もし父親が王宮にいると知ったら、アーサーは君のお蔭で大きく変わったとしても、他でもない君に言われたとしても、おそらく彼とは会わないと言うだろう。でも。彼の今までの頑張りは本物なんだ。命が危うくなることだって日常茶飯事で、傷だらけになって帰ってきたことも一度や二度じゃない……私はちゃんと向き合って欲しい。もう、親子と呼ぶことはできなくなっても。その手助けを、彼の心の支えになってやってほしいんだ、リリー」


 ――あなたは、今、お父さまと会うことができたのでしょうか。

 きっと辛い事だと思う。一人で立ち向かわせるなんて惨いって思うかな。……でも、わたしが居たら、きっと向き合うことをやめてしまうと思うの。

 わたしは一度、あなたから逃げてしまったけれど、ちゃんと戻って来れたよ、アーサー。だから、どうか。


            ◆◇◆


 アーサーは喚いた。ありったけの拒絶を彼にぶつけた。その名で呼ぶな。おれを殺しそうとしたのによくもまあ、のこのこと姿を見せることができたな。お前のせいでおれは、おれは人を信じられなくなって――。

「大事な人を、殺したんだぞ……」

 アーサーは崩れた。彼のトラウマの核を突いたのだ。冷静でいられるはずもない。ここから、こいつから植え付けられた傷の、痣から全て始まったのだ。恐ろしい。恐怖に心が塗りつぶされる。

「出て行け……今すぐここから出て行けッ!」

 彼はおとなしくそこから出て行った。一人になった空間の中で、彼は無茶苦茶に叫んだ。そうしてしばらく経って、小さく丸まって震えた。誰も帰ってこなかった。何だ、皆知っていたのか。じゃあ、リリーも? 知っていたのか。皆おれを騙したのか、裏切ったのか。底知れない怒りが沸々と込み上がってくる。どうして今、あいつが目の前に現れるんだ。もう少しで、おれはおれらしくなれたのに。理想には程遠いけれど、アルルカンに縋ったりしない、おれになれたのに。全部台無しだ。どうして……。


 部屋から出てきたカルロに、扉の前で待っていたアルダシールがそっと声を掛けた。

「他の皆には全て説明した。今頃、ブルーノの方も、皆に説明してると思う。庭園に行かせて劇の最終練習をさせてる。……それで王は、まだ待ってくれているのか」

「ああ」


 リリーと出会ってすぐ、慌ただしい様子で王宮に帰ってきたシャルルは、一目散にカルロのもとへ急ぎ、彼の過去を尋ねた。

「僕は国王として、君たち国民を救っていかねばならない。いや、救おうと思う。だから、まずは身近の人々の苦しみから取り除いていきたいと思うんだ。君の話を聞かせて。君はきっと、何か隠しているよね? 一緒にいたんだ、それくらいわかるよ。ねえ、話して。僕に出来ることなら何でもするから、何でも話してよ。君は今まで僕を助けてくれたんだ、――今度は僕が助ける番だ。そうだろ、カルロ?」

 そうして彼は今までのことを隠すことなくすべて打ち明けた。王はカルロが王族に身を寄せた理由のくだりではさっと表情を曇らせたが、それ以外は熱心に相槌を打ち、そうして頷いた。

「君をその子供さんと話し合う場所を作ってあげるよ」

 でもひとつだけ訊かせて。王は言った。「僕に近づいたのは、利用するためなの?」

 甘いな、と思った。こんな風に問えば、その場しのぎの嘘をつくことだって可能じゃないか。いや、違う。王は信じているのだ。カルロは正直に答えた。

「最初は、そのつもりだった。けれど。お前と親しくなるにつれ、お前のことが大事になっていった」

「……その息子さんと同じくらいに?」

「お前が許してくれるのなら、俺はお前の父親だと名乗りたいくらいだ。父親失格の烙印が押された俺だがな」

「……この上ない言葉だよ。カルロ、大丈夫。息子さんだってわかってくれるよ。息子の僕が、保証するから」



 扉の向こうから、アーサーの悲痛な叫びが漏れる。

「やっぱり俺は黙っていた方がよかったんじゃ――」

「お前、シャルル王にここまで背中押されてきたんだろ。どんなに苦しくてもふんばれ」

「……お前みたいに凜々しく生きたかった」

「今からがんばれ」

 

一方、アーサーは胸元を引きちぎるように開けて、包帯を掻き毟るように解いていった。この一生消えることのない痣を見てみろ。そうすれば、ずっと胸の内に封じていた憎悪が、あふれんばかりの憎悪が、そう思って鏡を見た。

「え……」

 そこには、あの醜い浅黒の痣はどこにもなかった。思わず口の端から笑い声が漏れる。最初は、わずかばかりの可笑しさが、滑稽なまでにふくらんでいき、気づけば大声で笑い出していた。なんだこれ。リリーがしたのか、こんなこと。

「なんだよ、これ……!」

 アーサーの首には真っ赤なハートが浮かび上がっていた。赤く染色された粉が人の手形を覆い隠すように塗られていた。包帯の裏には赤い粉が付着している。リリーだ。あの時目を瞑らせたのはこの為だったのだ。

「ばかだあいつ、こんなことでおれが、おれが……」

 そっと指でなぞる。指に赤の粉がついた。赤。その時何故か、その不細工にゆがんだハートが、目に見えないはずの愛の形のように思えてきて。さらに笑いがこみ上げてくる。

「参ったよ。リリーには一生敵う気しないな」

 そうして、鏡の前で飛び切りに笑ってみせる。「いいよ。向き合ってやるよ。それがお望みなんだろ、リリー。おれの女神様は我が侭だなぁ……」

 そうしてアーサーは扉を勢いよく開けた。そこには目を丸くする父親の姿が居た。ずっと彼を待っていたのだろう。少し、笑った。

 今気づいたが、彼の右目がつぶれていた。記憶の中の彼はちゃんと両目とも開いていたはずだったが。

「もしかして罪滅ぼしにつぶしたの、目」

 アーサーは包帯を結び直しながら、不敵に笑った。

「おれもあんたとそっくり同じ罪を犯してしまってさ、まあ一生背負うつもりなんだけど……。でも、その唯一の女神みたいな子がおまえと向き合えって、そう言うから、従順になって従ってやった。――何だかもうよくなった。恨むとか、憎むとか、そいつはおれに向けて一言も、口にしなかった。だからおれも、そういうのは止めにする。まだ親とは思えないけれど、今はこれで勘弁してほしい。……カルロさん、で合ってる? 何となく、あんたの名前な気がしてさ。もしそうなら今までありがとう」

 そうしてアルダシールの名前を呼んだ。

「アルダシールさん。皆を呼んでくれ。王様をお待たせしたみたいだ。早く公演して、それで、帰ろう。おれやっぱり、リリーがいないと駄目みたいだ」

 アルダシールは彼を呼び止めた。

「仮面はどうしたんだ」

「いらない」

 彼は笑った。

「もう、いらない」


            ◆◇◆


 フローラ楽団の会場前で馬車を止めてもらうと、アーサーはそこから飛び降りてリリーに会いに行った。結局王様にごねられて三ヶ月ほど滞在してしまったが、そのお蔭で政治にも意欲的になってもらえたみたいだし、半年に一度都へ劇を見せに行くという条件で再びこの街へ帰って来られたわけだし、まあ仕方ないとアーサーは息をついた。

 リリーには既に手紙で帰ってくる日を伝えておいた。返事には『楽団のところまで来て』とのみ書いてあった。


 楽団の会場の扉はぴたりと閉ざされており、そこにリリーの姿はなかった。

 不思議に思って周りを見渡すと、アニスとエウリカといった女が不服そうに近寄ってきて、「大遅刻! 本当最低な男ね……こんなののどこがいいんだか」「わたしたちまだあんたを許したわけじゃないんだからね!」と口々に文句を垂れて、彼の腕に手を差し込み、さながら連行するように会場の扉の方へと走った。

 待ってましたとばかりにネムは扉をわずかに開けて、彼の体を滑り込ませた。アニスはチケットを握らせ「真ん中の列の、真ん中の席です。高級席よ」と告げ、エウリカはハンカチを握らせ、「お客様のご迷惑にならないように。きっと感動して見てられないでしょうから」と耳打ちした。


            ◇◆◇


 中はしん、と静まり返っていた。舞台の方から声がする。そこには何人かの女性が台詞を口にしている姿があった。歌ではない。まるで劇のような台詞回し。楽器は見当たらない。しかし舞台で繰り広げられている場面に合った音楽が流れている。アーサーは女たちに指示された場所へと足音を忍ばせて歩いて行く。「すみません」不快そうに眉を顰められ、アーサーはしきりに頭を下げた。訳がわからない。ようやくたどり着いた場所に座り、顔を上げた。

 すると。舞台の上には、小柄な少女の姿があった。彼女は最初、真っ黒の仮面を被っていた。が、すぐにその仮面を取って、笑顔を浮かべた。見慣れた少女の笑顔。

「リ、リー……?」

 彼女は舞台にいた女たちに言い詰め寄られ、それを飄々とした様子で言い返し、けたけたと笑う。そうして、ゆっくりと息を整え、彼女は舞台の前へと歩いて行った。堂々としている。何より、その表情が遠くからでもわかるほどに輝いていた。嬉しそうに、楽しそうに。

 音楽がぴたりと止んだ。彼女以外の登場人物は退場する。

 リリーは口を開けた。そして歌を歌ったのだ。


 主旋律すらない、彼女の歌声のみがそこにあり、会場に染み渡るように寄り添うように神秘的に響いていく、彼女のアリア。他の音につられるならば、無ければよいのだ。歌だけでは忍びないのなら、自分の得意を詰め込めばいいのだ。後にこれはオペラという形になっていくとかそうでないとか。……まあ、今はいいだろう。

 彼女の言った〝対等に立つ〟という意味が、ようやくわかった気がした。

 そして、自分が愛した歌が、戻ってきたことに彼は何よりの喜びを感じた。――これだ。これに感動したのだ。彼女のすべてが込められた、この歌に魅了されたのだ。

 静かに涙が伝った。それをエウリカが渡したハンカチで拭っていたが、次第に間に合わなくなって、堪えきれるはずもなく、そのまま泣き出しました。

 あまりの急なことに隣の客は驚いて「大丈夫ですか」と声を掛けてくれたので、こみ上がってくる嗚咽を必死に押し殺そうと唇を噛み締めて何とか答えた。 けれども、うまくゆかず声は漏れてしまう。

 自分を煩わしそうに見ているのはわかったが、涙を止めることはできない。

「……っ、あの、すみません。うるさくして」

ようやく声が出て、謝ることができた。客は心配そうにこちらを覗いた。

「大丈夫ですか?」

「はい。……つい、こらえきれなくて」

「そんなにいいですか、彼女の歌は」

 そう問いかけられ、アーサーは答えた。

「はい」

彼はそっと囁きました。

「おれはこの日を、決して、忘れないでしょう」


 舞台が終わり、幕が下りた。人々は誰からともなく立ち上がり、熱い拍手を贈った。アーサーも立ち上がって、誰よりも大きな拍手を贈った。

 すると下りたはずの厚い幕が浮き、ちいさな少女の顔がそこから覗いた。アーサーはすぐさま席を離れて少女のもとへと走った。

 そうして二人、かたく身を寄せて、抱き締め合った。


 そんな熱い抱擁を交わす若い二人に向けて、その場にいた人々は、更なる大きな拍手を贈ったのであった。



            了  


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道化師のアリア 夢を見ていた @orangebbk

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