殿様

 殿様は年に一度だけ目覚め、非常に腹を空かしている。八十八人の毒見役を経由して運ばれてくる料理は、初期状態掛ける一引く毒見役の食べる一口分の八十八乗にまで減衰する。おかわりはない。


 寝起きの殿様は時間が一方通行であることを思い出せずに、工事中の廊下を通ろうとするが、小姓もそれを止めない。殿様は強運だから、地雷原を歩いたってへっちゃらだとみんな知っている。なにせ犬の糞を踏んだことだって一度もないのだから。


 一年分の菌が繁殖した殿様の体は、あちこちにきのこが生えている。薬師は突き進む殿様からきのこをむしり取る。ペニシリンが発見される百年以上前のことだ。


 眠くてもお腹が減っていても、殿様は公務をおろそかしない。去年目覚めたときは米俵を円柱で近似して石高を割り出す公式を作った。もっとも、アークタンジェントのテイラー展開から円周率を計算するところは家老にも理解できなかったが。


 殿様は失われた京野菜の種子を発見し、殺人鬼のトリックを見抜き、死にかけた老人たちをなぐさめ、漢詩の口語訳を十二編仕上げて、それからやっと風呂に入る。風呂上がりに髪を結う。耳掃除はなによりの楽しみだ。


 優しそうに見えてたりもするんだろうが殿様は、いらないものはばっさりと切り捨てる冷酷さも持ち合わせる。重大な決定事項に次々と判断を下すにはそれが必須だった。中絶を合法化し、銃規制に乗り出し、死刑まで廃止したときには家臣も随分反対したが、うるさいやつはぶん殴って黙らせた。


 殿様が眠りについて一年がたった。しかし殿様はまだ目覚めない。「今日は殿様が目覚める日ではなかったよ。うっかりしていた。うるう月を計算に入れてなかったからね」と家老が言った。


 殿様が眠りについて二年がたった。殿様はもう目覚めないかもしれないと、多くの人が薄々感じ始めたのはこの時期だった。殿様のお姿を一度も拝んだことのない君たち、君たちは不幸だ。


 殿様が眠りについて三年がたった。身の丈が鯨ほどもある殿様を保管しておく費用は誰が出すのかという議論が持ち上がる。「今頃起きてこられても厄介だよ。なにせ赤ん坊殺しのくせに死刑囚は救おうって御人だからな」と言って笑うものもいた。


 そしてあるとき朝が来た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る