紫煙の髪

ここしゅか

紫煙の髪

 薄い桜色の隙間から出てくる紫煙は、紡いだらいい具合に綺麗な生糸になるのではないだろうかと、女の横顔を凝視める。舞台の幕のような彼女の赤黒い髪が、一本一本、さらりと揺れた。


 女は綺麗な二重の瞼をそっと下ろしながら、煙に異国への想いを馳せているかのように、ゆっくりと紫煙を紡ぐ。彼女のその横顔を、ベッドの中でシーツにくるまりながら眺めるのが最近の日課だ。


 ベッドの平行線上の位置に、女はいる。木の椅子に座り、背もたれにゆったりともたれかかっている女は、裸の上に黒いブラウスを羽織っている。アンティークなデスクライトの、温かみのある白い光を体の半分に受け、自身の生命の音を聴くかのように、煙を綺麗に丁寧に吐いていた。彼女の口内が恋しいのかは知らないが、紫煙たちはどこか寂しそうに、この八畳間をウロウロとし始める。やがて私の鼻腔に辿り着く者もいる。そんな彼らを歓迎したいから、私はスゥ、と息を吸う。


 その息の音に気付いたのか、女はこちらをちらりと向いて、優しく笑む。


 瞬間、私は、「大人になったな」と、あやふやでちぐはぐな、この世の中でも五本の指に入るほどの、誰にでも訪れる根拠のない絵空事のようなことを思うのだ。


 自分の心臓が脈を打っているうちは、自分の思想は自分のものなので、何を思っていても誰にも咎められない。だから私は、そう思うようにしている。そっちの方が夢があって幸せなのだろうから。


 やがて彼女は、また煙を吐く。その煙は朝霧のように思えた。ひょっとすると彼女は自分の産み出す煙霧を夜霧だと思っているのかもしれない。けれどもそれは、私にとっての朝みたいなものだ。こればかりは譲れないだろう。いや、譲れないものはこれだけではない。この時間の、この空間は、誰にも渡したくないし、私と貴女だけの秘密であってほしいのだ。その程度のわがままを聞いてくれるような世の中であればいい。そんな世界じゃなくても、この八畳間は私の中での世界であってほしい。


 煙が満ちる。匂いはひどいものだが、世界に蔓延る雑多な匂いよりはマシなものだし、なによりよっぽど綺麗だ。


 彼女の長い睫毛が、長い髪が、精巧に整った横顔が、いつまでも私の夜であってほしい。

 たとえ夜で世界が洗い流されて、清潔な朝がきたとしても、私と貴女だけは、貴女の煙でずっと汚れていたい。そうあってほしい、そうあってほしくないと、嫌だ。


 ふと、自身の唇を触った。最後にそれを用いて、彼女に触れたのは、ほんの数分前だった。


 まだ、熱は残っている。


 たとえ私のそれで、貴女の唇が満たされなくても、私は貴女の熱さえ受け取ることができればいい。


 目を閉じて暗くなっても残り続ける、うっすらとした白い視界は、やがてどこか遠くへと行ってしまった。

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