イライラすると選択ミスをするものである


 さて、教室を抜け出して退屈な授業をサボることに成功したのはいいことなのだけれど――やはり、親しくもない誰かと一緒に歩く時間というのは居心地のいいものではなかった。


 微妙な雰囲気の中を歩き続ける時間も短ければ我慢できたことだろうけども。

 残念なことに、一年生の教室と保健室の間には結構な距離があった。


 うまく説明できる自信はないが、位置関係を言葉にして説明すると。

 この学校の校舎は上から見るとコの字型になっていて、教室と保健室はそれぞれ平行する横線の部分に含まれていて。

 教室は三階の右端、保健室は一階の左端に存在しているのである。


 ……距離がどれくらいあるか想像してもらえるだろうか?


 少なくとも私個人からしてみれば、居心地の悪い沈黙を伴って歩き続けるには長すぎると言っていい距離だった。


「…………」


 そこまで考えてから、ふとある疑問が浮かぶ。


 保健室の位置について、私は授業をエスケープする手段によく使うので場所は把握しているけれど、黛のほうはどうなのだろう、と。


 保健委員であるのならば一応は知っていそうなものの、世の中には覚えが悪い人間もいれば方向音痴であるものもいる。


 それに、保健室など、利用する機会をわざわざ作るんでもない限りは縁のない場所であろう。


 利用しないものの場所を、はっきりと覚えていなくても不思議には思わない。


 というかこの場合は覚えてない方がありがたいくらいだったし、正直それを望んでいたりもしたのだけれど、


「じゃあ行こうか」


 黛はそう行って、先に歩き始めてしまった。


 どうやら、場所はきちんと覚えているらしかった。残念。


 ……まぁよほどのバカでもなければ覚えてるだろうから、この場合は期待した私のほうが間抜けか。


 そう考えながら内心で溜息を吐いた後で、私も歩き出す。


 教室のすぐ傍にあった階段を下りる。

 踊り場で方向転換する。

 下りる。回る。

 下りる。回る。下りる。


「…………」


 歩いている最中に、黛がこちらに話しかけてくる様子はなかった。


 ……ぼっちだからわからないけれど、こういうのが普通なのかな。


 無言の中で、そんな風に益体のないことをつらつらと考えながら、別に話す理由もないんだよなぁとも思いつつ、足は動かし続ける。


 一階についたら、左に曲がる。

 しばらく歩けば左手に昇降口が見えるようになる。

 その昇降口前を通過して、右に曲がってしばらく歩けば目的地だった。


 つまり、あと少しこの状況を我慢すれば、特に問題も起こらず、無事に休むことができるわけだが。


 それは、私が目の前に存在する不快なものを許容し続けることが出来ればの話であった。


「…………」


 先ほどからずっと、目の前には黛の背中があるわけだけども。

 その背中はこころもち普段よりも曲がっていて、力がないように見えるのだ。


 視界に入らない状態であれば、どんな人間がどこでどうなろうと知ったことではないけれど。


 たかが色恋沙汰で一喜一憂してうだうだしている人間を見て――というかもっと正確に表現するならば、そのザマを見せつけられて、そこに全く関係のない他人がイライラしないだろうか?


 ――いや、そんなわけがない。


 もしかしたら、どこぞの物好きであればいっそ微笑ましいと和むのかもしれないけれど。


 私は、それを許容できる人間ではないのである。


「……はぁ」


 とは言え、対人関係に関連する問題についてはぼっち故に経験が乏しいので、どうアプローチするのが一番波風が立たないのか、なんてことはわからない。


 確かに今の黛が視界に入ることは私を苛立たせているが、それは私個人の事情なわけだから、一方的に――どう取り繕って八つ当たりであることに変わりがないのも理解しているけれど――罵倒するような言葉をぶつけたいわけじゃない。


 ……ではこの背中にかける言葉で適当なものは何だろうか。


 しばらく考えた後で、考えるのがそもそも面倒くさいと感じたので思ったことをそのまま口にすることにした。


「自分のことで手一杯で他人を慮る余裕もないだろうに、保健委員としての仕事を振られるなんてご愁傷様よね。

 でもそれ、私には関係ないから表面に出さないで欲しいかな」


 私の言葉を聞いて、黛は急に立ち止まるとこちらを見た。

 その表情は驚きが大半を占めているが、一部には怒りの色も見えていた。


 ……我ながら、いい言葉を選びすぎたかなぁ。


 自分の発言内容を振り返ってそんなことを考えていると、


「いきなりなんだよ!」


 黛が声を荒げてそう言いながら、こちらに近づいてきた。


 ……ここまで来たら、何を言っても同じかな。


 手を伸ばせばすぐに触れられるような位置で立ち止まった黛の挙動を注意深く観察しながら、私は言葉を続けることにする。


「私の気疲れにはね、朝のあの妙な雰囲気も一役買ってるんだよ。

 覚えがあるだろう?

 ――というかあれは、君が原因なんだろう?

 多分みんなわかっているよ、そこまではね。

 ただ、そうなった経緯はわからない。

「うだうだ言う時間も勿体無いから、要点だけを言おう。

 クラスの人間が気にしているのは一点で。

 なぜ赤神と腰越の二人がああなったのかということだ。

「それを理解するために必要なことはひとつ。

 それは、君がどういう振る舞いをしたのかを含めた、経緯の説明だろう。

「でも、クラスの人間の殆どが本当に求めているのはね。多分だけど、君たち三人が昨日までと同様の関係に戻ってくれることだと思うよ。

 ……今の状態が続けば、それはそれで慣れるのだとも思うけれどね」


「何が言いたいんだ」


 わからないかな? そう思って黛と目を合わせる。


 ――わからないんだろうなぁ。


 目を見てそう感じたから、更に言葉を重ねることにした。


「私が言いたいことは言った。

 でもまぁ、そうだな。さらに付け加えるなら、いかにも不幸を我慢してますと言いたげな背中がずっと視界に入って不快でね。イライラしてたんだよ。

 だからつい、口から思ったことが漏れた。それだけだ。悪いね。

 ――ああ、関係ない誰かとそこから君が何をどうするのかについて、私個人は興味を持っていないから。好きにしたらいいと思うよ。

 ……さて、付き添いはここまででいい。

 ありがとう、黛。君は教室に戻るといい」


 ――ああ、すっきりした。


 私は言いたいことをちゃんと言えたという、ちょっとした達成感を味わいながら歩きだす。


 黛は動かなかった。

 だから、動かない黛の肩をぽんと叩いた後でその横を通り過ぎた。


「……?」


 しかし、その足はぐんと引き寄せられるような力で止めさせられた。


 見れば、私の手首を黛の片手が掴んで止めている。


「あれだけ言われて、はいそうですかと行かせると思うのか」


 私は黛の顔を見る前に、掴まれた手首を確認する。


 ――どうやら上から掴んでいるらしい。


「……単純に、私は保健室に行く理由があり、君にはない。

 付き添うだけだからね。

 教室に帰らないならサボりになるよ。それでもいいのかな?」


「君はこのままだと保健室には行けないだろ?」


「そうでもない」


 私は掴まれたほうの手をぴんと伸ばして、地面のほうに思い切り振った。

 たったそれだけの動きで、この拘束は外れる。


「え?」


 相手が驚いている隙に、後方に三歩距離をとった。


 ふう、と息を吐いていると、黛がこちらに視線だけをよこした。

 なので言う。


「私は別に君たちの関係がどうなっていようとも、驚きこそすれ、悲しむことはない。

 なぜなら、私にとってはどうでもいいことだからだ。

「だと言うのに、私がわざわざこんな話をしてしまったのは、単純に君の気遣いが足りなかったからさ。

 ……全員が全員、君や君の周囲に興味があるわけじゃないんだぜ。

 辛いことがあったくらいで関係ない人間にまでわかる態度をとるんじゃねえよって話だよ。

「あと、あの二人がああなったのは君のせいだ。

 事情を知らない人間から見ても、それは明らかだ。

 何割が君のせいなのかまではわからないけど、筆頭は君だろう。

「だから、どうするかは自分でちゃんと考えた方がいいと思うよ。

 禍根を残すと後々面倒だぜ。女ってそういうところ怖いからね。

 ――では、さようなら」


 言って、私は一目散にその場から逃げ出した。


 我ながら余計なことまで言ってしまったかな、と思ったものの。

 友人の多そうな彼のことだ、いずれ誰かが言っただろうことを言っただけさと自分を納得させて、保健室に飛び込んだ。


 そして、飛び込んだと同時に、保健室の中から私に声がかかった。


「おいおい、随分と元気な病人だなぁ」


 この保健室の保険医は、天井氏という方だった。

 規律に対する考え方が少しゆるめで、サボりと判っても追い返したりはしないし、ある程度話を聞いてくれたりもする。


 どちらかというと、保健室で過ごすことを目的とした人間に対して優しいというべきかもしれないが、どちらにしても生徒としてはありがたい存在であることに変わりはなかった。

 

 なので、私はこうお願いした。


「授業終わるまでベッド貸して、先生。あと誰かが私に面会を求めても断って」

「匿えって言ってる? ……別にいいけどさ」

「ありがとう、先生」

「保険医は先生じゃないよ」


 なんて言葉を背後に聞きながら、私は保健室のベッドのうち、空いているほうに潜り込んだ。


「今度ジュースでも、お礼に持ってくるわ」

「子どもに奢ってもらうほど落ちぶれてないから。気にすんな」


 そんな内容で返ってきた天井氏の言葉にベッドの中でふっと笑った後で、私は瞼を閉じることにした。





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