5-13.彰吾の告白
伊織が誘いを受け入れてくれたおかげで俺は更なる頑張りを見せたが、イブの前日、すなわち二十三日を遂に迎えた日には、もはや体はガタガタだった。しかし、まだ精神を削らなければならない事が一つある。
それは――給料前借り。おそらく今の時点で最低でも二万円相当分は働いているはずだ。問題はどうやって切り出すか、だ。もし下手な言い方をして許可してもらえなかったら、それこそ俺の努力が無駄になる。
土下座の覚悟をして、文章構造を練りながらテーブルを拭いていると、マスターから不意に呼ばれた。
カウンターの方を見ると、ちょっと来い、というように手招きをしている。何かミスをしたのかと怯えながらそちらに行くと、彼は茶封筒をポンとカウンターに出した。
「……へ?」
中を見てみると、何とそこには二万二百五十円と、俺が今日まで働いた給料が入っていた。
「明日までに必要でしょ? 僕が見抜けないとでも思った?」
ポカンと呆けていると、クックッと笑いながらマスターは仰った。
「え……何でわかったの?」
「最初からわかってたよ。さっ、今日はもう上がりだろ? 早く買いに行かないと店が閉まっちゃうよ」
俺は時計を見た。午後五時……確かあの店は七時閉店だ。
「でも、まだ皿洗い残ってるし」
「ばか。そんなそわそわした気持ちで食器洗われて割られたらこっちはたまんないよ。いいから、もう行ってきな」
それも一理あると思い、マスターの厚意に甘えさせてもらう事にした。
「ありがとうございます」
頭を下げて、心からの御礼を言う。
「わかったからさっさと行きなって。面と向かって言われたら恥ずかしいでしょ」
約束通り冬休み中はちゃんと働いてもらうからね、とマスターは付け足し、奥へと入って行った。珍しくポーカーフェイスが崩れたマスターを喉の奥で笑い、カフェを後にした。
さっきの話しぶりからすると、マスターは俺がバイトを志願した時からわかっていたのかもしれない。だから、バイトを採らない主義の彼も俺を採用してくれたのだろう。マスターに直接訊いてもどうせはぐらかされて答えてくれやしないだろうから、あくまでも憶測でしかないのだけれど、マスターはそういう人間だ。それは俺が一番知っている。
雑貨店に着くなり、あの店長さんは『彼女を幸せにしてあげて下さいね』と笑顔で言い(俺はまた顔から火を吹き出したが)、クリスタルフォトフレームを渡してくれた。袋の中を見てみると、ちゃんと可愛くラッピングまでしてくれてある。
「ぶつけたりしないで下さいね。一応、割れないようにはしておきましたけど」
俺は礼を言い、明日、この箱のリボンを解いた時に伊織がどんな顔で喜ぶか想像して胸を高鳴らせた。伊織がイブのデートを承諾してくれた時も俺は大空に飛び立ちたいくらい浮かれてしまったが、今はその時以上だ。
しかし、その浮かれがミスを生んだ。
いつもなら通らない公園を、少し近道だからという理由で通ってしまったのだ。まだ六時半を過ぎたばかりだというのに、深夜のような寒さと静けさに満ちた公園は、俺の歩みを速めた。
もう出口というところで──二人の男女が視界に入った。俺は息を詰まらせて、思わず立ち止まった。その二人とは、何と伊織と彰吾だったのだ。
こんな時間に人目がない場所で、男女が会う──そんな理由なんて、限られている。
この話は、絶対に聞いてはいけない。それは本能でわかっていた。
しかし、俺の意志とは裏腹に、近くの木の裏に隠れて耳を澄ませていた。自分でも何でこんな事をしているのかわからない。きっと良い事なんて何もないのは、わかっているはずなのに。
「いきなりどうしたの? わざわざこんなとこに呼び出さなくても、家に来ればいいのに」
伊織が風で髪が顔にかからないように手で押さえて言った。その、一発目の言葉で俺は衝撃を受けた。
家に来ればだなんて、俺は一度も言われた事はない。それは、やはり幼い頃から一緒だから何かされるという心配も無いし、両親とも顔見知りだからかもしれないけれど、それでも俺はショックだった。
「いや、ちょっと話聞いて欲しいだけなんや」
「話なら電話ですればいいのにー」
くすっと笑う伊織。しかし、今はその笑顔を愛しくは思わなかった。俺の中で嫉妬の黒炎が腹の中を駆けずり回っていた。自分以外に向けられている彼女の笑顔なんて、見たくなかった。
「その前に、これ渡しとくわ。クリスマスプレゼントな」
彰吾はポケットからラッピングされた長細い箱を取り出した。
「プレゼント? クリスマスは明後日だよ?」
「まぁええやん。急がば回れって言うやろ?」
「意味、違うと思うんだけど……」
そこで二人は少し笑ったが、それを見るだけで俺は気が狂いそうになった。二人の築いてきた時間が、そんな何でもないところに垣間見えた気がするのだった。
今思えば、この二人が二人だけで話してるのを、今まで見たことがなかった。大体俺か信か眞下か、その他に誰かいた。この二人が、二人だけで話すと……俺はこうも自信が持てなくなってしまうのか。二人の距離がとても近く感じた。俺なんかより、ずっと……。
「あっ、じゃあ私もプレゼント取ってくるよ」
「いや、待ってくれ。それはまた今度でええからさ……」
「え? どうして?」
「……それ、開けてみてくれや」
彰吾の真剣な眼差しから、伊織も何かを感じ取ったのだろう。笑顔が一瞬だけ崩れた。それでも平然を装うとしているのか、伊織はいつもより少し演技がかって首を傾げた後、もう一度笑顔を作った。
「えー、何かな……?」
伊織は小さなリボンを解き、そして長細い箱を開けた。伊織の表情が喜びというより、驚いたものとなる。この位置からでは、そのプレゼントが何なのか解らない。
「彰吾、これって……」
「ほんまは指輪にしよ思ったんやけど、サイズがわからんかったんや。ネックレスで我慢したってや」
「ちょっと待って、彰吾……これってティファニーでしょ? こんな高価なもの、受け取れないよ」
彼女の声を聞いて、またしてもショックを受けた。ティファニーは高級ブランドのアクセサリーだ。高級ブランドのアクセサリーの事なんて知らないけれど、きっと俺が送るものよりも高価で、またクリスマスに合っているものだった。
俺も高級アクセサリーについては候補のひとつとして考えた。しかし、俺達は付き合ってるわけでもないし、ちょっと働いた程度で買えるものでもなかった。それに、高校生が宝石の類いをプレゼントするのもどうかと思って取り消したのだ。
「そんなん言わんといてくれや。これが今の俺の精一杯の気持ちやねん」
「でも、そんな事言われたって……私のプレゼントなんて、全然大した事無いし、悪いよ」
伊織は彰吾に返そうとしたが、彼はぐいと押し返した。彰吾は震えていた。
「何が悪いねん……?」
「だ、だって」
「ずっと昔から惚れとった女にプレゼントくれてやって何が悪いんや⁉」
彼の声は、公園中に聞こえ渡った。俺はそれを聞いた時、何だか脱力して倒れてしまいそうになった。フォトフレームの重みも感じない。伊織も突然の告白に、呆然としていた。
「なぁ、伊織! 俺ずっと好きやってん! 伊織を助けたあの日から、ずっとや!」
伊織の肩を揺さ振り、彰吾は彼女に必死に訴え続けた。
「あの時、友達できるまで守ったるって言うた。けど、ほんまはずっと守りたい。お前がばあちゃんになっても、ずっと守りたいねん!」
それは、見ている俺も心が痛む程、強い気持ちだった。果たして俺は伊織をこれ程愛しているだろうか。そこまで強い気持ちだったのだろうか。どんどん自分の中から自信が抜けていくのがわかった。
「言葉とか全然上手くまとまらへんけど、とにかく言いたいのは……」
俺は残っている意識を総動員して耳を塞ごうとした。しかし、遅かった。
「愛してるんや、伊織。将来、絶対お前を幸せにしてみせるから……せやから、俺と付き合ってくれ!」
彰吾は伊織を抱き締め、そう叫んだ。彼の言葉は一文字一文字、俺の頭の中に刻み込まれた。それはきっと伊織も同じだろう。俺はずるずると木に凭れかかって座り込んでしまった。まるで糸の切れた操り人形の様に、体は力を無くした。
それからどれだけ時が経っただろう。彼等は動かなかった。彰吾は伊織を抱き締めたままで、伊織の腕は脱力したままだった。彼の背中に腕を回そうとしなかったのが救いだったが、彼女の右手の中には彼からもらった箱が握られていた。
俺は呆然と、自分が生きてるのか死んでるのかすらわからない状態で、そんな二人を遠巻きに見ていた。このまま気を失って死んでしまうんじゃないかと思ったその時、伊織がゆっくり首を横に振るのが見えた。
「…………めん、…………彰吾」
何を言ってるのか、ここからではよく聞き取れなかった。彰吾はその言葉を聞くと、彼女を抱きしめていた力を抜いた。二人の間に、隙間ができる。
彼の体に隠れて見えなかったが、今伊織は泣いているようだった。わずかながら彼女の嗚咽を堪える声が聞こえた。
「なんでや……?」
「…………」
「……やっぱり麻生が好きなんか?」
彼女は頷かなかった。ただ泣きじゃくり、「ごめん」と言いながら、大粒の涙を零していた。
「あいつの……あいつのどこがええねん⁉」
さっきとは違った、怒りに満ちた声が今度は響き渡った。
「麻生がお前の何を知ってるんや⁉ お前の悲しみも、苦しみも、何も知らんのやぞ⁉」
俺に追い撃ちをかける彰吾の言葉は止まる事を知らなかった。
「お前がどんな気持ちでこっちに来たとか、どれだけ辛い思いしたとか、寂しい思いしてるとか、そんなん何も知らんねんぞ⁉ ただ伊織が可愛いからって、外見だけで惚れてるだけやねんで⁉」
伊織はイヤイヤするように、弱々しく首を振った。
「お前の重みに耐えきれんと結局逃げ出すんや! お前の事なんか考えてない……所詮自分の欲望の為や!」
違う、と俺は叫びそうになった。しかし、伊織がその言葉を代わりに言ってくれた。
「真樹……くんは、そんな人、じゃない……よ……」
泣き咽びながら、彼女は言葉を紡いだ。
「そうなんか? その割に、あいつどの女にもえぇ顔しとるで」
その言葉に伊織はびくっと震えて、とても傷ついた表情をして、彰吾を見上げた。彼は力無い笑いを見せながら続けた。
「中馬に、あとは白河やったか? 何や噂によると告白したらしいやん。お前が重たくなると、結局はそうやって作った予備の女に逃げるんやて」
違う、違う、違う! そのどれもが違う! 俺は心の中で叫んだ。伊織の傷ついた表情をもう見たくなかった。そして、そんな伊織を見た彰吾は、また怒気に覆われた表情となる。
「お前にそんな顔させとるあいつに、お前が救えるわけないやんけ!」
その言葉は、俺の停止しかけた脳味噌に再び痛恨の一撃を与えた。
──俺じゃダメなのか?
そこで飛び出して言ってやりたかった。
『俺が伊織を守るんだよ!』
そう叫びたかった。
だけれど、俺の体は全く命令通り動いてはくれなかった。伊織も泣き崩れるようにして、しゃがみ込んだ。息を止めてのどを詰まらせて咳込み、また泣き咽せた。彰吾はそんな伊織を痛々しい視線で見つめていた。
何で、俺は飛びださないのだろうか。
伊織が泣いている。そばに行って抱き締めたいのに、俺の体は動いてはくれなかった。彰吾の言う事が正しいと思ったからなのだろうか? 伊織のその過去を聞く勇気が無いからだろうか?
わからない。ただ、俺は呆然とその光景を見ているしかなかった。しばらく彰吾も立ち尽くしていたが、彼もしゃがみ、伊織の震える肩に手をかけた。
「……スマン、言い過ぎた。麻生も悪い奴やない。友達としては俺も好きや。せやけど……あいつにお前を渡すってなると、また話は別や」
彼の言葉に、伊織は何も答えなかった。
「さ、帰ろか。家まで送るわ。こんなとこにいつまでもおっても風邪引くだけやで」
彰吾は引っ張る様にして伊織を立たせて、そのまま公園の出口へと消えた。
俺は彼等が見えなくなったのを確認すると、重い溜息を吐いてから、ゆっくり立ち上がって土埃を払った。それから、彼らと鉢合わせしないように少し遠回りして帰った。
家に帰って自分の部屋に入っても、もう何も考えられなかった。プレゼントを置いて、コートも脱がずにベッドに倒れ込んだ。
俺は伊織を助けられないのだろうか? 俺が伊織の事を知らないから? あいつの過去を何も知らないから?
何度もスマホを確認した。伊織から連絡はない。
『明日は大丈夫?』
そう何度もLIMEを送ろうかと思ったが、『やっぱり無理』と断られるのが怖くて、何も送れなかった。
その日の夜は、結局ほとんど眠れなかった。
このクリスマスイブは人生で一番幸せになる日だと思っていた。
『麻生がお前の何を知ってるんや⁉ お前の悲しみも、苦しみも、何も知らんのやぞ⁉』
俺の頭の中では彰吾のセリフが何度もリフレインしていた。まるで俺を責め立てる刃のように、何度も胸にその言葉が突き刺さった。
そうしているうちに夜は更け、そして明けた。
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