5-8.前へ進め

 信が去ってから、どれくらい時間が経ったのだろうか。もう辺りは暗くなっているので、おそらく六時は過ぎている。

 あれからずっと考えていると、ようやく、俺の頭は正常な機能を取り戻せてきた。というより、寒さにより強制的に戻ったという方が正しいかもしれない。手や足先には体温が消え去ったかのような冷たさを感じた。

 どうすればいい? いや、どうするも何も無いだろう。俺の心は決まっている。迷ってるのがバカらしいくらいだ。

 俺は今まで通り、いや、今まで以上に彼女との時を大切にしたい。例えそれがどんな結果になろうとも、受け入れよう。答えが出れば、何も迷う事は無い。俺は俺がやるべき事を成すだけだ。

 そう決断すると、俺はまずSカフェに向かった。マスターは俺の顔を見るや否や、にやりと笑って「いらっしゃい」と言った。店内は暖かく、客は常連客が数人いるだけだ。真っ直ぐカウンターに向かい、腰を下ろした。


「寒そうだね」

「うん。めちゃ寒い」


 俺は出された温かいおしぼりをカイロの様に手に押し当てた。


「コーヒーよりスープの方がいい?」

「手の掛からない方でいいよ」


 マスターはフッと笑い、暖かいスープを出してくれた。


「信には会ったみたいだね」

「御蔭様で」


 俺は早速そのスープをゆっくり啜った。熱が体中に広がっていくのを感じて、精気が蘇ってくる。


「……さっき見掛けた時よりはマシな顔になってるかな」


 マスターはコーヒーカップをキュッキュッと磨きながら、安心したという様子で少し微笑んだ。


「まあな……バカバカしい事で悩んでたと今では思うよ」

「君が悩んでる事は常にバカバカしい事じゃない?」

「ほっといてくれ。本人は必死なんだ」


 俺は少々凹みながらも、ところで、と話題を転換させた。


「ところで、何であんな夕方前に仕入れに行ってたんだ? いつもならそんな事しないだろ」

「ああ、夏と年末はやたらと混むんだ。常連さんが家族や友人を連れてきたり、またはカップルがデートのついでに寄ったりね」


 大変なんだな、と俺は何気なく言葉を返しておきながら、チャンス到来を喜んだ。


「あのさ、マスター。大変ならバイト雇う気ない?」

「へえ。これまた急にどうした?」


 マスターは面白そうにこちらを見ていた。もしかすると、考えを見抜かれているのかもしれない。それでも、俺はやるしかない。融通を利かせてくれそうな場所なんてここ以外思いつかないからだ。


「いや、テスト終わったら冬休みの終わりくらいまで雇ってくれるかな、と思ってみたり……っていうか雇って下さい」


 カウンターに頭をつけてお願いしてみた。Sカフェでは過去にバイトを雇った事は無い。マスターとしては、自分の店は自分で切り盛りしたいというのが信条らしい。そのため、今回も断られる可能性が高いが、半分ダメ元でアタックを試みている。ここが無理なら、後はティッシュ配りみたいな日雇いバイトで頑張るしかない。

 しかし、人生とは心を入れ替えれば奇跡はおこるらしい。予想外の返答が返ってきたのだ。


「バイト? まぁ構わないけど……殆ど雑用になると思うよ。料理系統をバイトに任せるわけにはいかないからね」


 俺はまず耳を疑った。一人では厳しいほど忙しいのか、ある程度俺を認めてくれたから承諾してくれたからなのか……どちらにせよ嬉しい話である。


「喜んでお仕えさせて頂きます!」


 俺はもう一度カウンターに額を叩きつけて感謝の意を示した。マスターは苦笑していたが、俺の狙いなんて浅はかだ。

 イブの前日に給料前借りをお願いできそうなバイトはここしか無い。前借りさせてくれと切り出すのにまた緊張を要するが、それはまたその時だ。

 そのあと、俺はマスターから業務の説明ややってほしい事、注意すべき事などを簡単に説明を受けた。客として足を運んでいたので、おおよそのことはわかっているつもりだ。

 ちょうど人が少なかった事もあって、先に研修というか、軽いレクチャーも受けられた。

 とりあえずイブに勝負をかけるスタートラインに立てた。これは俺にとって大きな進歩だった。

 ──いや、まだだ。まだ一番大切な事が残っている。俺は前に進めたが、根本的な事は何も解決していないのだ。


 翌日、俺はいつもより早く家を出発し、通学路の途中にあるコンビニで伊織を待っていた。

 最近は何となくお互い家を出る時間がわかってきたので、途中で合流する事が自然になっていた。こんな風にコンビニで彼女を待つのは随分久しぶりだ。

 ただ、今日は彼女を待ちたかった。普段より十五分早く出た理由はそれだけである。おそらく彼女はいつも通りの時間に家を出るだろうから、俺のこの十五分は明らかに無駄だ。だが、俺にとっては待つ事に意味がある。ただ、彼女を待ちたかったのだ。もっとも、他の誰が見ても無意味な時間なのだろうけど。

 俺は寒さと緊張に耐えながら彼女を待った。すると、十五分後──やはり伊織はいつもと同じくらいの時間に曲がり角からひょっこり姿を見せた。遠目で見ても元気が無さそうで、何度か溜息を吐いていた。テスト勉強が上手くいかなかった、という感じではあるまい。

 そして、伊織はいつも俺と合流するY字路で立ち止まり、俺の家の方面を見た。しかし、そこにはもちろん俺の姿はなく、彼女は再び白い溜息を吐いて一人で歩み始めた。なんだか見ていて可哀想になるくらいしょんぼりしている。

 でも、彼女には申し訳ないけども、それを見て少し嬉しくなった。彼女の中では、俺がそこそこ大きい人物になれているのだと自信を持てたからだ。

 距離は結構近づいているのだが、彼女の視線は地面に向けられているので、俺に気付く気配はなかった。俺はゆっくり前方斜め左から近づいていくが、あと数メートルというところまで近づいても、まだ気付かない。


「おはよ!」


 少し大きめの声で言ってやると、彼女はビクッと体を震わせ、咄嗟にこちらを見上げた。


「え、真樹君⁉ あっ、えっと……おはよ!」


 俺だと確認すると、その表情が驚きから安堵に変わっていく様を見ると、本当に愛しく感じる。さっき俺を探してるのを見た時なんて抱きしめたくなってしまった程だが、何とか自制心でその欲求を抑え込んだ。

 それだけ昨日から彼女は不安だったのだろう。確かに伊織からしてみれば、俺の行動は全く理解できなかったはずだ。彼女の事だから、きっと何が悪かったのか、傷つけてしまったんじゃないか、とぐるぐる悩んでいたに違いない。今更ながら、罪悪感が芽生えた。


「昨日はごめんな。何か心配かけちゃったみたいでさ」

「ううん、そんな……別に謝らなくていいよ」


 俺達は何だか気恥ずかしくなり、どちらともなく歩き出した。


「どうして今日は早く出てたの? 真樹君に待っててもらうのって何だか久しぶりな気がする」

「え? 何となくだよ」


 会いたくて居ても立ってもいられなかった、なんて恥ずかしくて言えるはずがない。


「ふぅん、何となくなんだ?」


 伊織は攻め所と見たらしく悪戯な笑みを見せてこちらの顔を覗き込んでくる。


「そ、何となく。伊織こそ誰かさんの家の方見て溜息吐いてたみたいだけど、どうかした?」

「え⁉ やだ、見てたの?」


 案外早くにボロが出た。伊織は顔を少し赤く染め、恥ずかしそうにこちらを見上げていた。

 その言葉を待ってましたと言わんばかりに、俺は勝ち誇った笑みを見せてやる。伊織はそこで自分のミスに気付き、コホンと咳払いをして言い直した。


「……じゃなくて、『何となく』だよ」

「そっか。じゃあ仕方ないな」


 俺は笑って、伊織と肩を並べて歩き出す。

 何のわだかまりもなく、俺達の時は再び動き出した。時間の長さなんて関係無い事を確信させてくれたひと時だった。不安なんて俺達には似合わない。同時にそう思った。

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