5-7.親友

 学校を出てから、こんな時ってどこに行けばいいんだろうとふと思う。

 予備校、Sカフェ、家……普段行く場所を考えてみるが、俺の行動範囲の狭さが浮き彫りになっている。さぞひどい顔をしているだろうと思うので、まだ家には帰りたくない。こんな状態で親に会ったら変な心配をされてしまいそうだ。でも、マスターにも会いたくない。彼はきっと心配してくれるだろうけど、こんな情けない俺を見せたくなかった。今は本当に誰とも会いたくない。

 繁華街をふらふら歩きながら最終的に選んだ場所は……どこにでもある公園だ。Sカフェから近いとこにあるが、普段なら絶対使わない道なので、知り合いに会う事もおそらく無い。

 公園に人の姿は無かった。やはりこんな寒空の下で遊ぶ無謀な少年少女はいないらしい。


「少年少女、か」


 少年少女と呼ばれる頃から伊織と彰吾は知り合っていたのだと思うと、苦い笑みが漏れてくる。

 自販機でホットコーヒーを買うと、ベンチに腰を下ろした。

 実際のところ、どうなのだろう? 伊織は本当に彰吾の事を幼なじみ程度にしか思ってないのだろうか。あまりに近過ぎて、互いを大切に想う気持ちに気付いてないだけなのではないだろうか。恋や愛を意識しなくなっただけではないのだろうか。

 少なくとも、彰吾に助けてもらった当初、伊織は彼に好意を抱いていたと思う。彼女がそう言ったわけではないが、彼女の瞳を見ていればそれくらいわかる。その気持ちを忘れたわけではあるまい。ただ、日常の中に熔け入ってしまった……それだけの話なのではないか。

 男女の恋の炎は、長く保てて三年と言われている。三年を過ぎると、恋は愛しさと安らぎへと変わると心理学の本で読んだ事がある。長年付き合っている恋人同士からドキドキ感がなくなるのは、自衛本能だ。そんなドキドキ感を十年も二十年も持っていたら、人は疲れ過ぎてしまうらしい。結婚何年目かの夫婦が、付き合っていた頃のような情熱を感じなくなるのはその為である。

 まさしく彼らはその状況になってるのではないか? 恋を越えた愛しさと安らぎの状態。

 ──敵わない。今からしゃしゃり俺が間に入ったくらいでそれが消せるとは思えない。

 それなら、諦められるのだろうか。こんなにも伊織の事しか考えていないのに。毎日顔を合わせるのに。

 それを考えてみると、きっとそれも無理だと思う。俺は、もう彼女以上に人を好きになれる気がしない。恋してる奴なら誰だってそう思うという反論もあるだろう。しかし、それとは何か違う。例によって正確な論証はできないけれど、不思議と言い切れる。この恋を失ったなら、俺はもう二度と燃える恋はできないだろう。

 では、どうすればいいのだろうか?

 それがわからない。自分を殺して、このまま仲の良い友達面して、又は同じバンドのメンバーとして付き合っていくのがいいのか。そして、彼らの未来を祝福してやるのが一番いいのか。


「わかんねぇよ……!」


 俺は寒さでぬるくなった缶コーヒーを地面に叩きつけた。乾いた砂に、焦げ茶色の液体が広まって行った。すると、前から声が聞こえた。


「あーあ、もったいねえの」


 驚いて見上げると……そこには、穂谷信の姿があった。


「よう。久しぶりだな」


 信は屈託の無い笑顔を見せた。


「ほんの一時間くらい前に会った気がするんだけど」

「まぁ、そんな細かいとこ気にすんなよ。横座るぜ?」


 彼は俺が返事する前に既に座っていた。


「何でここがわかった? こんな公園、俺も来たこと無いのに」


 まだここに着てそれほど時間が経っていないのに、すぐ見つけられてしまったのはちょっとショックだった。それに、何故彼がこんなところを探す気になったのかも気になる。


「仕入れに外に出てたマスターが目撃してたぜ。麻生が死にそうな顔でこっちの方に行ったってな」

「なるほど……」


 自然と大きな溜息が出てしまった。ご近所の目撃情報は有力らしい。警察が地道にその情報を集める気持ちが少し理解できた。


「……二人は?」

「麻宮は眞下が心配して途中まで送ってったよ。ちょっと動揺してたからな」

「動揺、ね」


 一番動揺してたのは俺じゃないかと思う。信と会ってから冷静さが戻ってきたが、今にしてみればひどい失態だ。あんな去り方をすれば、誰だって心配するに決まっている。


「で、お前は一体何に動揺したんだ? 俺が聞いた限りでは、別にただの思い出話に過ぎなかったと思うけど?」


 信は枯木の枝を拾い、手元で弄びながら訊いてきた。


「……時間に怯えた」

「時間に?」


 俺はさっき一人で考えていた事を彼に話してみた。俺と伊織の時間と、彰吾と伊織の時間──たった二か月と十年弱の差。長いようでも、俺と伊織は所詮たった二か月の付き合いでしかない。その差はどうやっても埋める事ができない。彼女についてよく知らない自分の事、それを訊く勇気も無い事、彼女との距離の遠さ、時間により恋から愛へ変わる法則、俺と伊織の関係はあまりに浅く儚い事、彰吾に対する嫉妬とそんな自分への怒り、諦めようと思っても諦められない気持ち……そして、彼女がいない生活を想像した時の恐怖。

 俺は洗いざらい話した。信は黙って話を聞いてくれていた。


「白河の『調子に乗るな』っていうセリフ、ある意味当たってたよ。ほんと調子に乗ってた」


 俺は自嘲の笑みを浮かべながら続けた。


「心のどっかでさ、たぶん彰吾には負けないと思ってたんだよ、俺。俺の方が伊織の近くにいて、負ける要素が無いって。今だからわかるんだけど、深層心理ではそう考えてた。でも……」


 よく考えてみたら、全く勝てる要素がなかった。俺は伊織の事を何も知らないし、時間も浅い。

 理由を挙げれば挙げるほど虚しくなってくる。俺は伊織の何を知ってるんだ? 文化祭のときに見たあの涙は? 俺は何もそれについて答えられない。見当すらつかないのだ。でも、きっと彰吾は知っている。だから彼は『俺の選択はずっと前から決まっている』と言い切れたのだと思う。


「俺は伊織の親に認められてるわけでもなければ、イジメから救った救世主でも無いわけで……俺が一体伊織の何なんだって、そこでやっと気付いたんだ。自分が相当自惚れてた事に」


 俺は溜息を吐いて空を見上げた。さっきまで晴れていたのに、今は曇り空が広がっていて、それが余計に体感温度を低く感じさせた。天に向かって吐いた息は白くなって、再び消える。


「……気持ちってさ」


 俺の話が終わったのを確認すると、信は唐突に話し出した。


「時間の長さだけで決まんのかよ」


 信の言葉は静かだったが、怒りを感じさせた。


「なあ、麻生。答えろよ。時間の長さだけで、信頼や気持ちを得る事ができるかって訊いてんだよ」


 俺は答えられなかった。俺には幼馴染と言えるような人間も、長い付き合いの人間はいない。


「例えばだ。お前と知り合ったのは中二の頃だが、今うちの高校の一組には幼稚園からずっと一緒だった友達がいる。もちろん、昔は一緒に遊んだりもしたし、今だってたまに喋る。だけど、あいつには悪いが、俺はあいつより付き合いの短いお前の方を信頼してる」

「それは……どうも」


 何だか真剣な顔をしてそんな事を言われても対応に困る。信は何が言いたいのだろうか。


「理由なんて簡単だ。お前と過ごした時間の方が楽しかったし、濃密だった。それだけだ。他になんかいるか?」

「いや……」

「他の例も挙げると、眞下だ。お前等が親しくなったのはつい最近だが、あいつはお前に好意を抱いている」


 恋愛感情とはまた違うんだろうけど、と信は付け足した。


「な、何でそんな事わかんだよ?」

「瞳だよ、瞳。俺くらいの達人になりゃ瞳を見ればわかるんだ」


 眞下とちゃんと話したのは、ほんの数日前の日曜日だ。それまでも一応日常会話程度ならしていたが、一対一で話したのはあれが初めて。だからこそ『こんな面白い奴と高校入ってから同じクラスでありながら今まで仲良くなってなかったなんて、もったいない』って思ったわけで……。

 自分で考えてみて、ようやくわかった。俺もあの時、たった数十分話しただけで、眞下に好意を抱いていたのだ。それは恋愛感情とは程遠いものではあるものの、話してて楽しかった。それだけで十分だったのだ。


「まだ例が足りねーか? いくらでもあるぞ」

「いや、いいって。もう解ったから……」


 俺は止めようとしたが、彼は畳み掛ける様にして続けた。


「要するにだ、過ごした時間が長いから有利とかって事は無いんだよ。いくら長く一緒にいても、自分と相性が悪かったりつまんなかったりしたら、例え十年二十年の月日を一緒に過ごしたとしても、内容はスカスカなんだよ。それよりも、自分が心底惚れた奴と一日でも一時間でも一緒に居た方が遥かに濃密で価値があるんだよ。お前、何を今更子供みたいな事を言ってるんだ? お前の頭は英語や数学の為だけにくっついてんのか? さっき自分で『麻宮と知り合ってまだ二か月しか経ってないって今気付いた。彰吾とは比べものにならない』って感じの事言ったよな? それは、たった二か月しか経ってないにも関わらず、その何倍も価値があって満たされた二か月だったからこそ二か月と思わなかったんじゃないか? 自分でわかってるじゃねーかよ!」


 最後の方では感情が高ぶり、かなり声を荒げていた。信はそんな自分に気付き、息を落ち着かせる為に少し間を置いた。


「……ま、確かにお前の言う通り時間が経つにつれて恋が愛になるってのもあるだろうさ。ただ、それは麻宮がお前に見せた態度や気持ちを思い出してから判断しろよ」

「伊織の俺に見せた態度……」


 一緒にご飯を食べた事、ほぼ毎日一緒に帰るようになった事、信と喧嘩している時に慰めてくれた事、花火大会で初めて手を繋いだ事、名前で呼び合うようになった事、体育倉庫で髪を撫でたら『安心する』と言ってくれた事、屋上で彼女を抱きしめた事、お化け屋敷で感じた彼女の温もり……伊織との濃密すぎる時間が脳裏に一瞬で蘇った。


「判断したら、そっからはお前の自由だ。時間の量に怯えて逃げるもよし、麻宮への想いを貫くもよし……自分の好きにしろよ。麻宮と付き合ってようとなかろうと、お前が俺のダチってのは変わり無いんだしな」


 信はそう言って、俺に背を向けて歩き出した。公園の入口辺りで、背中を向けたまま手を振った。そのまま彼はこちらを振り向く事なく、家の方向へと歩を向けた。

 俺はまるで地面に根が張り付いたかの様に動けなかった。頭の中で、信の言葉と伊織とのこれまでの想い出が、入り混じってグルグル回っていた。

 俺はどうすべきなのだろうか。

 そんな事、今更考えなくてもわかっているくせに。

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