5-5.芽生えた危機感

 テスト三日目が終了し、あと二日間でこの期末も終わりである。本日最後の科目である数学が終わった頃には、周りの席からは『うー』とか『あー』とか呻き声らしきものが聞こえたが、俺は内心喜びに満ち溢れていた。数学嫌いの俺が、問題の大半を解いてしまったのである。ケアレスミスさえしてなければ九割は確実。普段三割四割という赤点ギリギリを歩んでいる俺にとっては、まさに驚くべき進化と言える。伊織に教える為に必死で勉強したのが良かった。このミッションを課してくれた神崎君に感謝せねばなるまい。

 テストが回収されると、伊織は早速振り向いて言う。


「どうだった?」


 テスト時は出席番号順に座らねばならないので、俺の前の席には伊織がいる。要するに、彼女が転校してきた当初の席順だ。彼女がテスト後に振り向くのは、出来が良かった証拠だ。ちなみに昨日の化学は悪かったらしく、溜息を吐いていただけだった。


「あん? そりゃお前、あのレベルなら余裕だろ。伊織は?」


 結局アブラーム・ド・モアブル殿の定理が必要とされる難問はなかった。複素数が中級レベルで、ベクトルが初級レベルの問題構成だったので、複素数を重視して勉強していたのが功を奏した。おそらく伊織も俺と同じスタイルでやっていたので、それなりに良い点数を取れていると思う。


「私もできたと思うよ」


 微笑みながら「優秀な先生の御蔭かな?」と伊織。俺は顔がにやけないように注意しながら「これからはプロフェッサー麻生と呼びなさい」等と冗談を言って笑い合っていると、後頭部にガツンと物理的な衝撃が走った。

 どうやら後方から殴られたらしく、二つ三つ公式が飛んだのは確実だ。突然の事だったので、伊織は驚きのあまり口に手を当てたまま固まっていた。


「糞が……! こんなナメた真似をしやがんのはどーせ信だろ⁉」


 殴られた箇所を押さえながら振り向くと、やはり信だった。横に彰吾もいる。


「当たりだ。よくわかったな」


 不機嫌そのものな二人だが、おそらくまた赤点越えるかどうかのラインなのだろう。


「テメー……どういうつもりだ、コラ。不意打ちなんか卑怯じゃねーか。手加減くらいしやがれ」

「うるせぇ! 卑怯なのはお前だ。何が『あのレベルなら余裕』だ……そんな事言うのは麻生じゃねー!」


 信はもう一発殴ろうと拳をこちらに振り下ろしてきたが、俺が咄嗟に拳の軌道をずらす防御法──ボクシングではパーリングと呼ばれる──で相手の右拳を左手で払うと、彼の拳は俺の後の壁へと一直線に突き刺さった。その際、ぐきょ、と変な音がした。


「ぐぅぉぁあ~~ッ!」


 信は声ならぬ声を上げ、右手を抱え込んで膝を着いた。伊織と彰吾はそれを見て爆笑している。


「な、何しやがる!」

「いや、フツーに防いだだけだろ。壁に当たったのはお前の自己責任な」

「これで勉強できなくなって赤点取ったらどうしてくれんだよ⁉」

「右手が万全でもしないだろ……」

「そうだけど!」


 やっぱりしないんじゃないか、と呆れた。


「みんなが絶望ムード漂わせてんのに楽しそうじゃない」


 笑いを堪えながら、眞下と中馬さんも現れた。テスト後には何故かこの四人が俺と伊織の席に集まってくようになっていた。以前の俺では考えられない現象だけども、なんだかそれだけで憂鬱なテスト期間も楽しく思えてくるから不思議だ。


「「どこが楽しそうなんだ⁉」」


 俺と信は同時に眞下に向かって吠えた。俺の頭にはうっすらコブができているし、信はまだ右手を抱えたままうずくまっている。それがますます周囲の笑いを誘った。いかん、これでは本当に漫才だ。


「お前等、絶対ネタ合わせしてたやろ?」


 彰吾がそろそろ疑いの目を持ち始めた。


「「違うわ!」」


 またぴったりと声があった。


「やっぱりネタやな」


 その様子を見て、彰吾はカラカラ笑いながら鞄を取りに自席へ戻った。


「くっそー……誰がこんな痛い思いしてまで漫才やるかってんだ」

「お前のは自己責任だろ。俺なんて不意打ちだぞ」

「何ぃ? まだやるか⁉」

「あー? 左手も潰すぞ、コラ」

「はいストーップ」


 再び戦いが起こりそうだったので、眞下が慌てて中に入った。


「ドロー!」


 そして俺と信の手をもって頭上へ掲げて言う。勝手に引き分けにされてしまって俺たちは不平不満を申し立てるが、それも笑いにしかならない。伊織はともかく、中馬さんまで噴き出している事態で、テスト期間中の緊張感などまるで無かった。


「あれ、ドローになったんかいな。再戦はいつや?」

「再戦か……」


 信は少し考え込み、言った。


「よぉーし、明日の日本史で勝負だ!」

「お前、どうせカンニングする気だろ」

「ば、バカな。俺の日本史の力を知らないのか? 毎回七十点は行ってるんだぜ?」


 それがカンニングの賜物なんだろうが、と心の中で突っ込んだ。高二になってから、彼は日本史を始めとする暗記系はカンニングでやり過ごしている。何故それを知っているかと言うと、彼が得意気に語っていたからだ。今更それを吐かせるつもりは無いが、呆れてものも言えない。万が一バレたら単位を落とす危険すらあるのだけれど、よくそんな危険を冒すものだ。


「まぁ、いいよ。負けたらラーメン奢りな」

「おっ、よくぞビビって逃げ出さなかったな、麻生。その男気だけは買ってやるぜ」


 よく言う。信は何かまだ続けようとしたが、その動作の最中に机で痛めた手を打ってまたうずくまっている。


「だ、大丈夫?」


 中馬さんが苦笑しつつ心配していた。まさか中馬さんから心配してもらえるとは思ってなかった信は、一瞬硬直して──


「い、痛たたッ! これは中馬さんの手当が無いとこのまま骨折か腱鞘炎に……」


 意味がわからない事を言い出した。打撲が自発的に骨折や腱鞘炎になるわけがない。対応の仕方が解らないらしく、中馬さんが困った顔を俺に向けた。


「大丈夫なんだってさ」


 俺は喉の奥で笑いながらそう言ってやった。「そうなの?」と中馬さんは少し疑問を感じながらも彼から視線を離す。


「あ、麻生~ッ! 何て事してくれやがるんだ、お前だけは絶対倒す!」

「日本史でか?」

「日本史でだ!」


 日本史で倒されたところで痛くもないわけだけども、カンニングに負けると色々癪なので、俺は正攻法で挑むつもりだ。


「何か盛り上がってるとこ悪いけど、先帰るな。今からバイトあるねん」


 彰吾は時計を見て言った。彼がバイトなんて初めて聞いた。


「え? バイト、今日もあるの?」


 俺は初耳だったが、伊織には伝えていたらしく、彰吾のバイト発言に反応した。


「そや。テスト期間で昼までで終わるんやったらランチも入ってくれって店長に言われてな。ほな、また明日な」


 彰吾は手だけ振って、足早に教室を出た。


「……あたしも帰るね。明日は苦手な古文あるし」


 彰吾に続くように、その足で中馬さんも教室から出ていく。帰る間際に「じゃあね」と手を振り……少しだけ俺に微笑んだので、俺も微笑み返した。どこかこんな自分を咎めたくなる。

 それにしても、彰吾の奴、テスト期間中もバイトとは余裕だな。ちなみに赤点を取ると、うちの校則ではバイトが禁止になる。割とこの時期にバイトは勇気がいる決断だ。


「彰吾んとこの中華屋、美味いよな。あそこの麻婆定食好きだぜ」


 ようやく手の痛みが引いてきたらしく、信はプラプラと右手首を回して言った。


「美味しいよね。私も何回か行ったけど、ハマっちゃった」

「辛さが絶妙なんだよな」

「わかるわかるー。辛いんだけど食べたくなるっていうか」

「今度みんなで行こうぜ」

「うん!」


 伊織と信が彰吾のバイト先の感想を口々に言っていた。

 伊織は知っていて当然だと思っていたが、どうやら信も彰吾のバイト先に行ったことがあるらしい。俺はバイトしていた事すら初耳だったというのに……やはり彰吾に避けられてるのだろうか?


「そうなんだ。彰吾のやつ、いつからバイトしてたの?」


 ちょっとだけ疎外感に苛まれながらも、訊いてみた。


「転校して割とすぐだったと思うよ? 十二月にお金が要るんだって」


 何に使うのかは知らないけど、と伊織は付け加えた。その言葉に、その場にいた俺達三人はピクッと反応した。俺の場合、焦燥感もプラスされている。伊織は気付いていないのだろうが、おそらくそれは彼女へのクリスマスプレゼントだ。ちらっと眞下と信が俺を見る。お前は金あるのか、という意味だろう。

 頭の中で自分の資金を計算してみる。貯金は確かこの前の美容院代で尽きた。今現在財布の中にあるのが二千、部屋に保管してあるのが四千円……そこで気付いた。

 ──今、たったの六千円しか無いんじゃないか⁉

 これはまずい。美容院や参考書なんかに金を費やすんじゃなかった。この前参考書代を貰ったばかりだから親に貰うのは無理だし、金の入手口が無い。

 今からバイトをしたのではクリスマス前に給料を貰えない。文化祭やらバンドやらテストの事ですっかりクリスマスの事なんて忘れていて、かなりまずい状況に陥っている。

 俺の表情から事態を読み取ったらしく、信と眞下は嘲笑を見せた。


「どうしたの? 何か顔色悪いよ?」


 気がつけば、伊織が心配そうに覗き込んでいた。


「え、いや、その……さっきの数学の三番の問題で、もしかしたら途中式の計算間違えたかもしれないって今うっすら思ったり思わなかったり……」


 苦し紛れな言い訳をしていると、信と眞下は噴かない様に必死に笑いを我慢しているようだった。くそが、こいつ等……!


「あっ、やっぱり真樹君でもそんなミスあるんだ? 実は私もちょっと自信無いとこあって、心配だったりして」


 ぺろっと舌を出す伊織を見て、改めて思う。俺の味方は本当に君だけだ、と。彼女の返答を聞いて、心からそう思った。

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