2-6.傷つけたくない人の順位

 時刻は夜の七時を過ぎていた。冷蔵庫に何も食べ物がなかったので、夕飯をどうしようか迷ったが、結局Sカフェに行く事にした。

 ゆっくりぼんやり月夜を歩く。最近麻宮さんと帰る事は少なくなっていた。別に避けているというわけではなくて、何となくタイミングが合わないのだ。ただ、こんな月夜の夜を歩いていると、隣に彼女がいたら幸せだろうな、などと空想に耽ってしまう。

 麻宮さんは、俺のことをどう思っているのだろうか。まだ出会ったばかりで、彼女のことはまだよくわからない点も多い。でも、いつも話し掛けてくれるし、お昼はお弁当まで作ってきてくれるわけで……少なからず、友達程度には思ってくれているのだろうか。

 女の子からこれほど親し気に接してもらった事がないので、俺としては困惑してしまう事も多い。どうして彼女は俺なんかにそこまでしてくれるのだろうか、という疑念もわいてしまう。ただ、もちろん嬉しくないわけではなくて……というより凄く嬉しいのだけれど、それ以上を望んでしまいそうになるのが怖いのだ。彼女をもっと好きになっていいのだろうか、と。

 そんな事をもやもや考えてカフェに入ると、何と彰吾がひとりでいた。信はいない様子だった。珍しい。彼は俺に気付くと、「おう、麻生やないか」とにっこりと手を上げてくれた。


「いらっしゃい。晩飯でも食いにきたのかい?」

「ああ。安くて腹が膨らむメニューで」

「何だそりゃ。トマトソースのパスタで良い?」


 俺は頷きながら彰吾の横のカウンター席に座る。


「珍しいじゃないか。麻宮さんをストーキングした帰りか?」

「ちゃうわ! しばくぞ」

「だってお前ん家こっから結構遠いんだろ?」

「そんなに遠ないで。チャリやったらそんなかからへん」


 そうか。歩きなら遠いけど自転車を使ったらそうでもないかもしれない。俺は小学時代以来自転車とは縁がない生活をしているので、忘れがちな交通手段である。


「それにしてもやなぁ麻生。ちょうど今マスターにも相談しよかと思ってたんやけど、信と何があったんや? お前らが仲悪ぅなったせいで俺等ごっつ困ってるんやけど」

「うん? 珍しいね、信と喧嘩してるの?」


 彰吾の言葉にマスターが反応した。


「別に喧嘩してるわけじゃないけど……何つーか、俺もよくわかんねぇんだよ」


 出された水を飲みながら、正直に答えた。


「そんな事あるかいな。絶対何かあるやろ? 伊織かて心配してるんやし、お前が空元気出しとるんなんかバレバレや」

「なるほど、それで信が昨日ここにきた時はあんなに暗かったんだな」


 マスターがパスタを鍋に入れて早速訊いてくる。それと同時にトマトソースを作る為にフライパンに油を垂らす。


「信の奴、何か言ってた?」

「いや、何も。何か言いたそうだったけど、結局何も言わなかったよ」

「そっか……」

「原因もわからへんのか?」

「原因は多分……」


 そう切り出して、俺は観念して信との間で起こった事を二人に説明した。信を振った女の子と仲良くなってしまって、そこから関係がおかしくなった事、でも俺にはそういった意図は何もなくて、本来であれば信が怒る必要もない事まで、わかっている範囲で洗い浚い話した。このまま黙っていても良くなりそうな兆候が全く見えず、それならもう話してしまった方が良いだろうと判断したのだ。麻宮さんだけでなく彰吾にまで心配をかけてしまっているのなら、尚更だ。


「なんだ……信の奴、まだ吹っ切れてないのか」


 説明を聞いて、マスターは少し呆れた表情をして呟いた。


「知ってたのか?」

「知ってたもなにも、その眼鏡の子に振られたというのは初めて店に来た時にいきなり話を聞かされたんだよ」


 出会っていきなり失恋相談か。俺にはできないな。信らしいと言えば、信らしい。


「……まぁ、アレだ。こればっかりは信の問題であって、真樹にはどうしようもない事だよ。例え自分を振った女が友達と付き合おうとも、惚れた女が幸せなら我慢しないと。もし、信がそれで真樹を嫌うというなら、二人は所詮その程度の仲だったという事じゃないかな」

「そんな……俺は別に中馬さんとは何もないのに」

「君にその気がなくとも、相手の女の子は果たしてそうなのかな?」

「は? 中馬さんが俺を?」


 それもまた有り得ない話だと思えた。彼女が俺を好きになる理由が解らない。今まで接した事もなければ、俺が嫌われていた事も中馬さんは知ってるはずだ。今更俺と付き合っても自分の株が下がるだけで、メリットが何一つない。


「確かに自分を振った女の子が友達にアプローチをかけてたら凹むのも事実だよ。でも、それを乗り越えられるかどうかは信次第という事さ」

「それは、確かにそうだけれども……」


 果たして俺にできる事は本当にないのか。かと言って、中馬さんとの交友関係を断つというのも変だし、それは道徳的にどうかと思う。

 よくある話だが『あなたは好きだけど、あなたの友達の◯◯君が嫌いだから、その人と関係絶って欲しい』と言う女の子は最低であるし、又それを承諾する男はもっと最低である。麻宮さんではないが、自分の友達は自分で選ぶものであって人に指図されるものではないし、誰々と仲良くする為にこっちを切る、というものでもないのだ。仮に俺が中馬さんとの関係を絶ったとしても信は嫌がるだろう。


「なんや麻生の周りはドロドロしてて楽しそうやん」

「ほっとけ」


 今まで女性方と何もなかったのに、何故いきなりこうなってしまうのかがわからないし、納得もできない。


「不服そうだけど、真樹。一つだけ言っておくけど……」


 マスターが作り終えたトマトソースのパスタを盛り付けて俺の前に出して言った。


「モテるのはモテないより良い。ただそれはモテて女に囲まれウハウハだから良いという意味じゃないよ。色んな意味で人生経験が積めるから。でも、気をつけて欲しい事は、女の子を『できるだけ傷つけないようにする』という事と、『傷つけざるを得ない時は躊躇わずに傷つけろ』という事さ」

「何だそれ、おもっきり矛盾してるじゃねーか」


 そもそも俺はモテてない、とマスターに言い返そうとするが、その隙も与えず彼は言葉を紡いだ。


「君は優しい奴だから前者の意味は解るだろうし、それを実行して生きてると思う。きっとみんなを満足させようと必死に頑張るけど、それではいつか君から離れていってしまうんだ」

「……と言うと? いまいちよく意味がわかんないんだけど」


 物分かりの悪い奴だな、とマスターは溜息を吐いて続けた。


「要するに、だ。傷つけたくない人の順位をつけた方が良いかもしれないという事だよ。全てを丸く収めるのは難しい。どちらか、或は誰かを傷つけなければ他の誰かが傷つくという事態だっていつか起こる。丸く収めようとすれば逆に事態が悪化する場合もあるってこと。そういった時に、誰が真樹にとって『一番大切か』という定義を作っておくと良いんじゃない? もちろん、これが正しい方法ではないかもしれないけど。人それぞれさ。ただ……こうしておくと後々後悔する率は低くなるよ」

「………………」


 マスターの言っている事は非常に難しい。もちろん、言っている事は簡単だが、色々な要素を考えてみると、なかなか実現できそうにない。


「別に今すぐ決めなくていい。一人一人を見てゆっくり判断すればいいさ。君は芸能人でも何でもないんだ。誰かに独り占めされても良いんじゃないか?」

「……俺は選べる立場じゃないよ」


 とりあえずそうとだけ答えて、パスタを口に運ぶ。今は答えが出そうにない。

 相変わらずだな、と苦笑するマスターと、難しい表情をしてコップに入っている水を眺める彰吾。

 暫くの間、沈黙が俺達の間を包んだ。店内では、俺のフォークとお皿が擦れる音だけが響いていた。


「お前はどうかは知らんけど」


 彰吾がコップに視線を向けたまま言った。


「俺の選択はずっと決まってんで。ずっと昔から、何年も前からや」


 そして、コップの水を勢いよく飲んで、立ち上がる。


「その為にわざわざ俺はこんなとこまで来てるんやからな」


 ほなおあいそで、と彰吾は財布から八百円を出して、カフェの出入口に向かっていく。何も言えずにその背中を見ていると、彰吾がくるりと振り向いた。


「まあ、とりあえず麻生ははよ信と仲直りせえや」


 彰吾は力なく笑って「ほなまた明日」と言ってからカフェを後にした。俺はただ、彼が出ていった扉を眺めていた。

 今のは、麻宮さんの事を言っているのだろうか。そう考えるなら、彰吾は麻宮さんが転校するから自分も転校したという事になる。もし、そうだったなら……彰吾はどれほどの想いを麻宮さんに持っているのだろうか。

 俺の持っている想いは、彰吾のそれと比べて、どうなのだろうか。


「……別の方でも一波乱ありそうだね、真樹は」


 マスターは小さく溜め息を吐いて、彰吾が使っていた食器を流しに移して洗い始める。


「そういう波乱が起こった時の為に、さっき言ってた事をちゃんと決めてないと、大切なものを失うよって事さ」


 僕はもうこれ以上言わないけどね、とマスターは付け足して、閉店作業に入り始めた。時計を見てみると、閉店まで残り一〇分だったので、慌ててパスタをかき込む。

 食べながらも、俺はさっきマスターに言われた事を考えていた。

 誰が一番大切で、誰を傷つけても良いか……果たしてそんな事を俺に決める権利なんかあるのだろうか。例えば、AとBという人物がいる。俺はAが大好きでBも結構好き。そしてAB二人共が俺に好意を抱いているという贅沢な設定だ。

 しかし、とある問題が起きたとして、どちらかを選ばなければならない場合があったとしても、俺にはAを選ぶ権利はあったとしてもBを傷つける権利はないのではないだろうか。そんなの俺のエゴでしかないように思う。

 ──今考えるのはやめよう。

 考えても埒が明かないのは明白だ。そして、これを考えるにつれて嫌な予感がしないでもなかった。俺の予感はロクでもない代物で、悪い予感ばかり当たる。

 その悪い予感を振り払うかのように、パスタを水で流し込んだ。

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