1-10.きっとこれが恋に落ちた瞬間だった

気付けば図書室の閉館時刻となっていた。麻宮さんと話していると時間が過ぎるのが早く、もう六時になってしまっていたのだ。十月の午後六時はもはや夜で、辺りは薄暗く夕日の光が僅かながら西のほうから見えるだけだった。


「もう暗いし、途中まで送っていこうか」


 暗さを理由に勇気を出して誘ってみると、彼女は意外にもすんなりと頷いてくれた。

 一緒に昇降口まで行って靴に履き替えてから、グラウンドの脇を二人肩を並べて歩く。もちろん、こうして女子と一緒に帰るのは、人生で初めての事である。高鳴る心臓を抑えつつも、俺は彼女の横顔を盗み見ては、また胸を高鳴らせているのだった。

 グラウンドでは、野球部がナイター用ライトに照らされながらも練習していた。ランニング、素振り、守備練習に分かれて、十月の半ばにも関わらず、汗だくになっている。


「まだ練習してるんだねー」


 彼女が立ち止まってその練習風景を眺めていたので、俺も自然と横に立って彼等を眺めた。


「野球好きなのか?」

「別に好きって程のものじゃないけど、ああやって練習してる時って皆輝いてていいなって思うよ?」

「そうかな……」


 俺にはわからない感覚だった。輝きとは一体なんだったのだろうか。俺は輝やいていた時期があっただろうか。おそらく、なかったと思う。努力しても報われず、色んなものを諦めてきた人間……それがこの麻生真樹だからだ。

 中学の時は、空手に打ち込んでいた。けれど、結局肝心の中学最後の試合前に怪我をしてしまって、引退試合もできなかった。怪我が完治した頃には、高校受験の勉強に打ち込まなければならなかったからだ。結局、そのまま空手も辞めてしまった。

 高校に入れば変わるかもしれない──そんな幻想を抱いて、楽しい学校生活を夢見ていたが、どういうわけか人から疎んじられてしまい、結局惰性に生きている日々だ。

 輝きとは程遠い世界に俺はいた。そんな状態なことも相まってか、信以外の人間とのかかわりっも極力避けてきたし、他の人間とも関わらないようにしていた。そこは、閉鎖された世界。唯一心を開きかけた恋は、余計にその世界を閉鎖的なものにした。

 それからはただ空しく時間だけが過ぎていった。輝きって、なんなんだろう?

 今横にいる彼女は、どう見ても輝かしい世界を歩んできたようにしか思えない女の子だった。

 これだけ容姿が整っていて性格も親しみやすければ、きっとさぞモテていただろうし、男に困る事もないだろうと思う。現に、泉堂彰吾もナイトを自称しているわけで。そんな輝かしい彼女が、どうして俺の隣を歩いているのだろうか。なぜ彼女は、俺と接点を持ちたがるのだろうか。それがやっぱりわからなかった。

 そんな疑問を思い浮かべながら野球部の練習に視線を戻すと、練習していた野球部員達が俺達の存在に気付き始めた。休憩をしていた野球部がひそひそ話をしている。

(ほら、結局俺といてもこうなるんだよ)

 わかっている。どうせ、「なんで転校生とあの麻生が一緒に帰ってるんだ?」とでも話しているのだろう。今日の練習後の話題には事欠かないだろうさ。そして、明日にはさぞかし面白おかしく広がっているのだろう。本当に面倒臭い世の中だ。でも、だからこそ、俺は閉鎖した世界に帰りたがってしまうのかもしれない。


「練習の邪魔しても悪いし帰ろっか?」


 麻宮さんもそんな彼等の視線に気づいたのだろう。少しぎこちない笑みを浮かべて歩み始めたので、溜息を吐いて横に並ぶ。野球部達の視線が俺達の背中に突き刺さっていた。

 その後の帰り道では、予想通り気まずい沈黙の嵐が俺達を襲っていた。

 それも仕方がない。彼女は俺のことを知らない。どうしてただ男子生徒と一緒に帰っていただけで、好奇の目にさらされたのか、彼女は知る由もないのだ。

 彼女は今、色々な事を考えているのだろう。自分がどういう風に見られているか、そして俺がどんな奴なのか。はたまた、勘違いされてしまったのではないか、と。

 こういう時は何を話せばいいんだろう? 

 さっきまで自然と話題が浮かんでいたのに、今は全く浮かんでこない。いや、実際にはどんな話題もこの空気には不適切なのだと思うけれど。

 こういう時に信の事を羨ましく思う。あいつなら、空気なんて気にせず陽気な会話で空気そのものを変えてしまうだろう。空気を読まなすぎて腹が立つ時があるが、信は敢えて空気を読まずに、空気を一変させる時がある。それがあいつの魅力なのだ。

 どうしたものかと溜息を吐いていると、麻宮さんが恐る恐る口を開いた。


「私達、勘違いされちゃったかな……?」

「どうかな」


 再びまた沈黙。イライラしていて、つい不愛想な返答をしてしまった。ちくしょう、もっと気の利いた言葉が言えないのかよ。


「ごめんね? せっかく気を利かせて一緒に帰ってくれてるのに」

「何で麻宮さんが謝るんだよ。謝るのは俺の方だろ。彼女とかって思われたら最悪だと思うし」

「そ、そんな事……あっ」


 彼女は慌てて自分の口を押さえて、顔を赤らめて俯いた。

 そんな事無いって今言おうとしたのか? ……やめてくれ。そういう勘違いさせる事を言わないでくれ。勘違いで期待して、傷つくのはもうこりごりなんだ。女ってやつはどうしてそういう態度を取るんだよ。こっちは勘違いから生まれた恋に痛い思いをするのは二度と御免だというのに。


「違う違う。そういう意味じゃなくてさ……今だから言うけど、俺って結構嫌われてるみたいだからさ。付き合ってるなんて噂されたら、麻宮さんに迷惑かかるかも知れないし」

「え? どうして?」

「さあ? 知らない間に色々な噂が流れてて、麻生って奴は不良で最悪だみたいな風になってるんだよ。ほら、俺ってクラスの女子ともほとんど話してないだろ?」


 なるべく重い雰囲気にならないように、軽い口調で話すよう心掛ける。麻宮さんは、何も言わずに俺の話を聞いていた。


「だから……麻宮さんも俺とあまり話さない方がいいよ。今日はこうして一緒に帰ってるけど、せっかく皆と仲良くなれたのに、俺のせいで嫌われたりしたらそれこそ最悪だろ」


 結局これでまた閉鎖世界への逆戻りだな、と俺は心の中で大きな溜息を吐いた。

 僅かながらに見えた輝きも、自分から手放して、扉を閉める。それが俺という生き方なのかもしれない。

 でも、彼女の為にも話しておいた方がいいと思った。まだ知り合って二日目だが、彼女がとても良い子なのはよくわかった。空気を読める子だから、きっと俺が教室内でほとんど人と話していないのも、彼女は気付いていると思う。それでも何故か俺を気にかけてくれている意図はわからない。でも、こんな可愛くて良い子が俺のせいで傷つくなんてあってはならない。嫌われるのは覚悟の上だったが、それでも、彼女が嫌われるよりはマシだと思えた。俺は何も変わらない。自分の世界に帰るだけだ。

 しかし、彼女からは先程の恥ずかしそうな表情は消えて、どこか厳しい……そして、その表情は悲しそうなものへと変わっていた。


「麻生君」


 彼女は急に立ち止まって、少し怒っている表情で俺の名を呼んだ。その声色に、驚いて彼女を見た。


「どうして私が周りに左右されて、友達を決めなくちゃいけないの? 私ってそんな人間に見える?」


 怒ってはいるけども、どこか寂しそうな眼差しだった。その時、軽率にも彼女にこんな事を言ってしまった自分をひたすら怨んだ。俺は今、彼女を傷つけてしまったのだ。まだ会って日は浅いが、彼女がそんな人間で無い事くらいはわかっていた。

 そう……彼女に傷付いて欲しくないという気持ちは俺の本音ではあるが、それだけではない。自分がまた傷付きたくなくて、彼女を遠ざけようとしていたのだ。麻宮さんは俺のそんな本音に気付いて、怒っているのかもしれない。


「もしそれで本当に皆に嫌われたとしても、私はそれでもいいよ? 人を噂だけで判断するような人達と無理して仲良くしたって楽しくないし……それに、私は麻生君ともっとお話したいって、思ってるから」


 麻宮さんは俺を見据えて、はっきりと彼女の意思を述べた。俺と仲良くする為に、孤立してもいいと彼女は言ってくれているのだ。

 どうして、俺なんかに……そんな優しい言葉をかけてくれるのだろうか。


「もちろん、麻生君が嫌じゃなければの話だけど、ね?」


 優しい微笑みと、慈愛に満ちた優しさ。それだけで人の傷を全て癒してしまうような暖かさが、そこにはあった。


「嫌なわけ、ないだろ」


 どうして彼女が俺に対してここまで言ってくれるのか、その理由は全くわからない。それでも、その言葉が嬉しくて、目頭が熱くなっていた。油断すると涙がこぼれてしまいそうになる。

 それくらい今彼女が言ってくれた言葉は、俺にとって嬉しい言葉で。そんな言葉を言ってくれた人は生まれて初めてで、そしてこれはきっと、俺が誰かから言って欲しかった言葉なのだ。俺は今、本当に女神や天使と言った類いの人の前にいるのかもしれない。

 本当は恐かったのだ。裏切られ、嫌われるのが。どうせいつか、白河梨緒が俺を嫌うように麻宮さんも嫌うのなら、早めに嫌われてしまえと思っていた。その方が傷は浅くて済む、と。麻宮さんは、きっとそんな俺の弱い心を見抜いていたのだ。


「物好きなんだな……」

「かもね?」


 照れ隠しに毒を吐く俺に、彼女は変わらず優しく微笑んでいた。

 この瞬間……きっと世界が変わった。新しい世界に踏み込めたような、そんな感覚。いや、違う──閉鎖した世界から、彼女が引っ張り出してくれたのだ。


「……あっ、タコ焼き屋さんだ」


 麻宮さんはそんな俺の気も知らないで、個人経営の持ち帰り専門のタコ焼き屋さんを指差していた。よく信にたかられた店である。うちの高校の通学路にあるので、学校帰りの買い食いにも最適だ。


「買ってきていい?」

「奢るよ。何か欲しい種類ある?」


 信に奢るのは嫌だが、麻宮さんになら何度でも奢る。男とはそんな現金な生き物なのだ。


「え? そんな気遣わなくていいよ。まだ知り合ったばかりなのに、何だか悪いし」

「まだ知り合ったばかりなのに元気付けてくれたんだから、何かお礼させてくれよ」


 少し照れてしまって、視線を彼女からずらした。


「う~ん……そこまで言うなら、お願いしようかな」


 こちらの気持ちを察してくれたのか、彼女は少し頬を染めて承諾してくれた。少しドキドキしながらもタコ焼きを一箱買って、彼女に渡す。

 彼女は子供のようにはしゃぎながらタコ焼きを頬張ると、「おいしっ」と天真爛漫な笑顔を向けてくれた。その笑顔があまりに眩しくて、心がきゅっと締め付けられた。

 ああ、もうこれはダメだな。自分で気付いてしまった。俺はきっと、彼女に恋をしてしまっているのだろう、と。

 そんな事を実感していた時……彼女は、爪楊枝でたこ焼きを刺して、唐突にそれを俺の口元に差し出した。


「え?」

「麻生君も食べてみて? とってもおいしいから」


 無邪気な彼女の表情からは何も読み取れない。

 いや、それはやばいって。色々と。主に、俺のメンタル的な意味で。彼女はもしかして天然が入っているのか、その『あーん』的な意味をわかっていないのだ。恥ずかしい気持ちを抑えながらも、彼女の持った爪楊枝から、たこ焼きを頬張った。


「ね、おいしいでしょ?」


 無言ではふはふしながら頷いた。実際は恥ずかしくて、その笑顔が可愛くて、味なんてわからなかった。

 恋人同士に見えるんじゃないか、これは。俺は胸の高鳴りを抑えながら彼女と肩を並べて、幸せな時間を過ごした。

 何の変哲もなかった生活が変わり始めていた。今までの高校生活ではこうやって女の子と帰る事もなかった。俺はどちらかと言うと、男女が二人仲良く下校している様子を、信と恨めしげに横目で見ていた人間だった。四か月前の失恋から、生きる事そのものが惰性になっていた。だが、一人の女の子が転校してきた事によって、たった二日でそんなくだらない生活が変わってしまったのだ。

 しかし、きっと変わるのはそれだけではない。彼女の笑顔を見ていて、何となくそんな気がした。

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