1-9.図書室への誘い

 授業中は特段変わった事はなかった。まだ麻宮さん達は教科書が届いていないらしく、この日は隣の席の女生徒から教科書を見せてもらっている。隣の席の子とメモ書きで会話をしているようで、彼女は時折笑みを見せていた。

 変わった事と言えば、そのメモ書きを見てくすくす笑っている麻宮さんの横顔を見ているだけで、何だかあたたかい気持ちになったくらいだろうか。

 休み時間などは、転校生見たさに他クラスから教室を覗きに来る人が多かったが、それも昼休みが終わった頃には落ち着いていた。一方の俺はというと、後ろの席にいるにも関わらず、麻宮さんと会話する機会は無し。そのまま授業は終わってしまい、下校時刻を迎えていた。

 これが現実だ。今朝は運よく話せただけで、実際はそう話す機会や用事があるわけでもない。変な夢を見ない方がいいな、と改めて自戒した。夢を見ても、痛い想いをするだけだ。俺はそれを初夏に学んだではないか。

 昨日は勉強をサボってしまったし、今日は予備校の自習室にでも寄っていこうか──そんな事をぼんやりと考えて荷物を鞄に詰めていると、変化が起きた。


「ねえ、麻生君。今日って時間ある?」


 前の席の麻宮さんがいきなり振り返って、話しかけてきたのだ。彼女は笑顔を見せているが、どこかその笑顔が緊張しているようにも見えた。


「え? まあ、忙しくはないけど……」


 麻宮さんに話しかけられると思っていなかったので、反射的にそう言ってしまった。ほんのついさっきまで夢を見ないで勉強しようと考えていたくせに……全く、どれだけ意思が弱いのだろうか、俺は。


「予定がなかったらでいいけど、図書室の場所教えてくれない?」

「図書室?」


 転校二日目で図書室とは、意外な場所のチョイスだった。もちろん、俺個人としては何ら問題は無い。

 それにしても、どうしてわざわざ俺に訊くのだろうか。あまり俺に話し掛けると、自意識過剰かつ妄想癖のある外国語科の女子達に勘違いされる危険性がある。麻宮さんが俺に気があるんじゃないか、とか、俺が麻宮さんに気があるんじゃないか、とか……噂好きの彼女達の恰好の餌食になってしまう。俺はもう慣れてしまっているので構わないけれど、そういった誤解で麻宮さんに嫌な思いをして欲しくなかった。それに、俺には白河莉緒の一件もあるわけで、あまり目立った事もしたくない。


「なんで?」

「えっと……やっぱり図書室には一度行っておきたいなって」


 どうして俺なんだ、という意図で訊いたのだが、意味が通じなかったらしい。若干返事の歯切れが悪かったが、もしかすると、彼女なりのこだわりがあるのかもしれない。意外にも文学少女なのだろうか。

 誤解を生みかねないという事に関しては、一抹の不安はある。ただ、俺も彼女と過ごせるのは嬉しい。というか、過ごしたいと本能的で思っていた。それに、ただの道案内なので、昨日の延長でお願いしているだけかもしれない。


「別に暇だし構わな──」

「あっ、伊織! ボウリング行かへん? 俺等の転校祝いやて。穂谷がクラスの女子も誘ってる言うし」


 ちょうど交渉成立というところで泉堂が俺達の間に入ってきた。何て間の悪い。


「え、ボウリング? えっと……ちょっと今日は用事があるから、遠慮しとく」


 ちらっとだけ麻宮さんが俺を見てそう答えた。彼女にとってどうやらクラスに馴染むよりも図書室が優先らしい。という事は、俺も適当な嘘を考えといた方がいいだろうか。


「時間かかるんか?」

「うん、多分」

「そらしゃーないなぁ。ほな穂谷にそう伝えとくわ。麻生は?」


 泉堂がこちらを見て訊いてきた。


「あー、いいや。ボウリングは苦手なんだ」


 咄嗟に思いついて言葉を言って断る。別に苦手というわけではないが、適当に合わせるしかあるまい。実際に好きでもないし、もう一年以上やっていないので、スコアにも自信がない。


「なんや、麻生もかいな。付き合い悪いな」

「悪いな。今度は付き合うよ」


 苦笑で返すと、泉堂は諦めた様子で信と一緒に教室から出ていった。


「……ごめんね、嘘吐かせちゃって」


泉堂の背中を見送ってから、麻宮さんは申し訳なさそうに言ってくる。上目遣いでそう言われると、どんな嘘でも吐いてしまいそうになるから怖い。


「別にいいよ。ボウリングは本当に好きじゃないんだ」

「どうして?」

「次の日腕が筋肉痛になるくらいやりまくったトラウマがあるから」


 真面目に答えたのだが、彼女はそれを聞いてくすっと笑った。


「……俺をアホだと思っただろ」

「違うよ。私も同じ経験があったから、ちょっと可笑しかったの」


 そう言って柔らかく微笑んだ。こんな可愛い子と、こんな風に日常会話ができる日が俺の高校生活にあるとは思っていなかったので、本当に信じられない。

 何だか、彼女が転校してきて俺の周りの空気が少し変わった気がする。


「んじゃ、そろそろ行くか」

「うん。宜しくお願いします」


 優しく微笑まれた上に、丁寧にお願いされてしまった。ちくしょう、可愛い。

 教室に残っている奴等の視線も痛くなってきたのもあって、俺達は図書室へと向かう事にした。少し気にかかった事なのだが、その視線を送ってきている奴等の中には、白河梨緒のものも含まれていた。

 何でこっち見てくるんだか。相変わらず白河の表情からは何も読み取れなかった。


 図書室は、うちの学校の特別棟の三階にある。外国語科の教室がある二号館の二階からは、渡り廊下を歩いて特別棟に行ってから、階段を登る必要があった。

 図書室に向かっている途中、何人かの人から物珍しそうに見られた。おそらく、あの一匹狼の麻生真樹が女の子と歩いている事が珍しいのだろう。しかもその付き添い相手が噂の転校生だ。俺だって信じられないのだから、そこに関しては完全に同意である。

 麻宮さんは、そんな周囲の視線を全く気に留める事なく、他愛ない話をしていた。今は荷ほどきが全然追い付かない、というどうでもいい話を楽しそうに話している。

 彼女はこの視線に悪意を感じないのだろうか。それとも、見られる事に慣れているから気にならないのだろうか。というか、どうしてわざわざ俺を選んで案内させるのだろう。はっきり言って疑問だらけだったが、彼女の表情や言動からは何も読み取れなかった。

 図書室の前に着いて中をちらっと覗くと、テストも終わったばかりなのでほとんど人がいないようだった。


「はい、到着。ここが図書室」

「あ、そうなんだ。ありがとう」

「じゃあ、俺はここで──」

「あ、待って」


 そう言って踵を返そうとすると、麻宮さんから呼び止められた。咄嗟に呼び止めたようで、顔がどこか緊張しているようにも見えた。


「え、何?」


 そんな風に緊張されてしまうと、俺も緊張してくる。何で俺に

そんなに構うのだろうか。


「えっと、その……」


 何か言いたそうに、言葉を濁してもじもじしている。


「あー、もしかして一人で入るのは緊張する、とか?」


 何となく思いついた事を訊いてみると、恥ずかしそうに彼女は頷いた。どうやら俺にも一緒についてきてほしいそうだ。

 確かに、転校したばかりでいきなり独りで図書室に入るのは、緊張すると言えば緊張するのかもしれない。これまた嬉しい申し出なので、俺には断る理由もなかった。 

 図書室に入ると、麻宮さんはスクールバッグを机に置いてさっそく本棚を見て回り始めた。特に用事もないので、なんとなしに彼女について回る。


「本、結構たくさんあるんだね」

「そうなのか? 他の学校の図書室は知らないから、比べようが無いんだけど」

「私も他の学校の図書室って初めて。前の学校が少なかったのかな?」


 彼女とこうして話している間に、俺の予定は決まりつつあった。彼女ともっと話したい、と俺は考えていたのだ。勉強はまた別の機会にすればいい。勉強はいつでもできるけれど、彼女と話せるのは、今だけかもしれないのだ。


「麻生君、本当に予定ないの? 無理して付き合ってない?」


 そんな俺の表情を見てか、彼女はやや申し訳無さそうに訊いてきた。

 彼女はエスパーか何かか? ちょうど思っていた事を言い当てられると、少しびっくりしてしまう。俺って案外分かりやすく顔に出てしまっているのだろうか。


「ないって。自分の予定を潰してまで図書室に案内する程物好きじゃねーし」


 少し嘘が混じっているが、それは照れ隠しだ。


「ひっどーい。そんな言い方しなくっても……」

「ん? じゃあ予定あったけど無理して付き合ったって言った方が良かった?」

「そ、それは……」


 困った顔になって、返答に詰まる。その様も愛しいが、あまりやり過ぎると嫌われるのでこれくらいにしておいた方が良さそうだ。


「ジョークだよ。俺も暇だし、麻宮さんの役に立ちたかっただけ」

「ねえ……もしかして麻生君、私の事からかってない?」

「お、やっと気付いたか」

「もうっ!」


 笑って言ってやると、彼女は持っていた本で俺をぶつ真似をする。しかも割も分厚い本。


「あ、嘘だって! 許して!」

「許してって言ってる時点で矛盾してるの!」


 言って、お互いに笑い合う。

 その時、ほんの少しだけ違和感を覚えた。違和感というか、これが本当に会って二日目の仲なのだろうかと、過去に自分が感じた事が無いような親しみ易さに、暖かさと安心感を覚えたのだ。一言で言うと、話しやすい。お互いに警戒心がまるでなかった。昔から知り合いだったような、そんな錯覚に陥ってしまう。


「なんだか不思議だね……麻生君と話してると、初めて会った人じゃないみたいで、凄く楽しい」


 麻宮さんも、ちょうど似たような事を感じていたようだ。


「俺も同じ事思ってた」


 そういうと、なんだかお互い照れ臭くなったのか、恥ずかしそうに笑みを交わす。

 彼女は少しだけ頬を染めているように見えたが、きっと夕陽のせいだ。そう自分に言い聞かせて、勘違いに高鳴る胸を抑えつけた。俺の頬が熱いのも、きっと夕陽のせいだ。そうに違いない。

 その後、俺達は閉館時間まで喋りながら本を読み、互いが薦めた本を何冊か借りてから一緒に帰宅する事にした。まさか俺の高校生活にこんな充実した時間が存在するとは、夢にも思わなかった。

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