ワールドオブザーバー2 ~観測者~
九里方 兼人
ワールドオブザーバー2 ~観測者~
プロローグ
小鳥の鳴く声が際立つような朝の住宅街。
人通りの少ない道路を小型のバンが疾走する。
狭くうねった道を法定速度を超えて走る黒い塊は、車輪を軋ませて耳障りな音を立てた。
バンの中の男達は全員黒いスーツを着てサングラスをかけている。
運転している男は焦りを露わにハンドルに食らいつき、後部では二人の男が小さな男の子を取り押さえようと揉み合っていた。
助手席に座る男は苦しそうに脇腹を押え、時折うめき声をあげている。
「……おい。あまり……揺らすな」
呻く男が運転している男に向かって言う。
「多分、もう通報されてる。急いでここを離れないと」
赤信号に差し掛かったが、運転手は他に車がいない事を確認するとそのまま突き進む。
暴れる男の子を二人掛かりで押さえつけているが、一人はその口をしっかりと押さえていた。
そのため男の子の四肢のうちどれか一つが自由になり、男達の顔に傷を作っていく。
「おい。ガムテープで口を塞げ」
溜まりかねたように一人が声を上げ、足を押さえていた男は手を離してバッグを漁った。
「むむぅ~」
男の子は押さえる大きな手の下で、むくれたように頬を膨らませていたが、自由になった足で男の手や頭を蹴りだした。
「あ。コイツ」
手からガムテープを蹴り飛ばされた男は、怒りを露わに足を掴もうとする。
「おい! いいから……」
ガムテープを早く……、と続けようとした所で手が滑り、男の子の口から離れた。
男の子は膨れっ面のように顔を赤くして頬をいっぱいに膨らませていたが、その力を一気に解放する。
パン!
と破裂音がその口から発せられた。
「なんだ!?」
突然パンクしたようにバンが制御を失い、タイヤをスリップさせる。
進行方向とは無関係に滑る車体を、ブレーキを踏み、ハンドルを回して立て直そうとするが、それをするには制限速度を超えすぎていた。
「わわっ!」
バンは大きく傾き、そのまま民家の塀に突っ込んだ。
◇◆◇
朝のラッシュを過ぎ、人混みが少し収まるものの、都心という事もあって地下鉄のホームはまだ賑やかだった。
一時間に走る列車の本数も少なくなり乗客の数もそれに比例するが、それは反対にこの辺りを縄張りにしているガラの悪い連中が数を増やす時間でもある。
彼らは我が家のようにホームを汚し、散らかし、騒ぐのだが、形式上は利用客には違いないので駅側も対応に頭を悩ませていた。
その事情を知る者は、この時間にこの駅を利用しない。
稀に迷い込む一般人も、ホームの雰囲気が変わりはじめたのを察して、早足に改札に向かう。
その賑やかになりつつあるホームに一際大きな怒声が響いた。
「おい! 人の足轢いといて知らん顔しようってのか?」
ベビーカーを押した若い女性は、一瞬誰に向けられた声か分からずに、戸惑ったように辺りを見回した。
しかし彼女の周囲にはガラの悪い男しかいない。
「え……あの。すみません」
身に覚えがない、という様子を見せるものの、萎縮したように小さく応えた。
「認めたな。今、オレを轢いたって認めたな。人身事故だよ。軽車両によるひき逃げ事故だよ。あ~痛ぇ! 轢かれたトコが痛ぇ!」
ゴロツキは大袈裟に足を押さえる。
あーあ。なんて事してくれんだよ、と周りにいた連中もベビーカーを取り囲む。
「あの……ほんとにごめんなさい。許してください」
「ま、慰謝料だな。代りのモンでもいいけどよ」
女性は泣き顔になりながら助けを求めるように周りを見回すが、もう周囲に一般人はいない。
階段の辺りにかろうじてそれらしい人がいるが、皆何も見えないという風に顔を伏せて早足に去って行く。
「あ……あ」
女性はこの子だけは……、とでも言うようにベビーカーに覆いかぶさる。
男達は下卑た笑いを浮かべながら、女性を取り囲んだ。
どん!
と最初に因縁をつけたゴロツキに何かがぶつかる。
押し退けられる形になったゴロツキは一瞬何が起こったのか分からず唖然としたが、すぐに我に返って声を上げた。
「おい! 待てコラ!」
怒声の先にいる人影は足を止める。
その人影はあまりに場違いで、あまりに状況に不釣り合いで、およそ今の場に居合わせるに相応しくない雰囲気の、あまりに普通の男だった。
薄汚れたコートを着て、顎に少しの髭を生やし、やや無造作に伸ばした髪。四角い、ありふれた普通のメガネをかけている。
年は30才くらいに見えるが、もっと若い男が老けて見えると言えばそうでもあるし、もっと年とった男が若く見えると言えばそうとも思えた。
小汚くも見えるが古着だというだけでそれほど汚れてもいない、かといって普通に仕事をしているサラリーマンにも見えない。
何というか、一口で言うならば捉え処がない。
何者であるのか認識するのに時間がかかりそうだが、何者かを知った所でどうでもいいような気がして考えるのも面倒くさいような。
あえて言うなら「どうでもいい男」がそこにいた。
あまりにどうでもよくて、誰も気に留めなかったかのように今まで気が付く事もなかった。
そのコートの男は、「僕の事でしょうか」と言わんばかりに少し振り返る。
メガネに光が反射してどんな目つきなのかは分からない。それが一層男を捉え処のないものにしていた。
「人にぶつかっといて挨拶も無しか? おい」
男は指でメガネを押し上げる。
「こんにちは」
と言うと踵を返して立ち去ろうとする。
「おい待てやコラ!」
男達はベビーカーの女性の事など忘れたように男を取り囲んだ。
「いい度胸してんじゃねぇか。え? オッサン」
「それはありがとう。意気地なしだと言われた事はあるけど、度胸があると褒められたのは初めてだよ」
「ふざけてんのか?」
「僕は通信簿の評価に真面目と書かれなかった事がないのが、ささやかな自慢なのだがね」
ほっ、とゴロツキどもは呆れたような嘆息の声を上げる。
「面白れぇじゃねえか」
「いやいや、君らほどではないよ。まるで昭和のヤクザ映画か、80年代のアメリカ映画のような因縁の付け方だ。てっきり芝居の練習をしているのかと思ったよ」
ホームのそこかしこに散らばっていた男達も、何をやっているのかと周辺に集まってくる。
「映画ならこういう場面で、ヒーローが現れるじゃないか。何かそれみたいだと思ってね」
「ああ? じゃあ何か? お前がそのヒーローか?」
ゴロツキはコートの男を威圧するように詰め寄る。
「ご明察。正にその通りだよ」
と男はポーズを決めるように指をさした。
ゴロツキは一瞬固まったが、すぐに大笑いする。
周りの男達もつられるように笑い出す。
◇
ベビーカーの女性は、どうしていいか分からずオロオロしていたが、そっと恐縮するようにその場から離れる。
だが、もう誰も女性に興味を示していないようだった。
女性は集団から離れるにつれ歩く速度を上げ、階段横のエスカレーターに差し掛かる。
改札から、同じような恰好をした男達が次々と降りてきた。
どうやら、連中は面白い見世物があると周辺の仲間に召集をかけたようだ。
女性はエスカレーターにベビーカーを乗せると後ろを振り返る。
感謝しながらも、警察に通報すれば後でどんな報復をされるか分からない。
心を痛めながら、どうか無事で、と祈る事しかできなかった。
◇
「それで? どうしてくれるんだ?」
ゴロツキは腰に手を当てて、周りが見えていないのか? と言わんばかりに周囲を見回す。
コートの男もそれに合わせるように視線を巡らせた。
「ほどよく集まったね。君一人では僕に勝つ事はできないから当然の対応だろうね。もう少し待った方がいいかい?」
ゴロツキは片方の眉を上げて男を見る。
そして手を高く上げて、ヒラヒラと振り、周囲に場所を空けるよう促した。
ゴロツキとコートの男、二人を残して小さなリングが出来上がる。
「オレと一対一のタイマンだ」
ゴロツキは上着を脱いで後ろに投げる。
「止めた方がいい。これでも僕はウヲジという武術の使い手なんだ」
「なんだそりゃ。聞いた事ねぇぞ」
「もし君が僕に勝つ可能性があるとするのなら、それは僕が怒る前に速やかに叩きのめしてしまう事だ」
「ああん? キレりゃオレに勝てるってのか?」
「そうだ」
コートの男は力強く答える。
「んじゃ、キレてみろや。二、三発殴りゃキレんのか?」
「残念ながら、暴行を受けると返って冷めてしまうタチでね。なに簡単だよ。僕の悪口を言えばいいんだ」
ああ? と訝し気な顔になる。
「僕には言われると溜まらなくイヤなNGワードがあってね。それを言われると我を忘れて殺戮兵器になってしまうんだよ。そうなったら誰にも手を付けられない。ここにいる全員でもとても手に負えるもんじゃない」
ゴロツキ達は一斉に不信感を露わにする。
「コイツ、頭おかしいんじゃねぇのか?」
「なら勉強で勝負するかい? 僕はそれでも構わない」
いいからやっちまえよ、と周りからも声が上がる。
「そうだ。それがいい。僕がキレる前にケリをつけてしまうのが君達にとって一番いい。キレる前なら僕なんか簡単に倒されてしまうだろうからね」
ゴロツキは、はやし立てる外野を手を上げて制する。
「で? そのNGワードってのは何だ?」
言ってやるから早く教えろと言わんばかりに詰め寄る。
「そんな事自分で言えるわけないだろう。自分が最も嫌っている言葉だ。でも大丈夫。僕を見て思った事を言えばいいんだよ」
ん? とゴロツキは少し考える。
「ヘナチョコ」
「さっきは度胸があると言われたけどね」
「じゃあ頭おかしい、だ」
「それはさっきも聞いたよ」
ゴロツキ達は露骨に面倒くせぇな、という顔付きになる。
「まさかこれで終わりってわけじゃないだろうね? 人を罵倒し、蔑む事なら得意分野のはずだろう?」
男はあからさまな驚きと失望が入り混じった顔になる。
しかしゴロツキ達は普段相手にしている奴らとは真逆と言っていい男に対する形容を、すぐには思いつかない様子だった。
「アホ!」
「関西人なら日常的に使っているよ」
ゴロツキが腰に手をあてて思案顔をすると外野から声が上がる。
「ハゲ!」
「いやハゲてはいないと思うよ」
男は髪をかきあげる。
「デブ!」
「痩せ型に分類されると思うよ僕は」
「ヤセ!」
「いや別に気にしてないし」
「変態!」
「それは褒め言葉だ」
「オッサン!」
「そのままだと思うよ」
「メガネ!」
「そのくらい誰でもしてるだろう」
これを切っ掛けに外野の声は一斉に重なり合い、誰が何を言っているのか分からないくらいの大合唱になる。
ゴロツキはもういいもういいと言うように頭の上で手を振って黙らせ、拳を握り締める。
そしてそのまま男の顔面に叩きつけようとしたが、男は手を挙げてそれを制した。
「いや、いい所までいっているよ。もう消去法だ。あと少しで辿り着く。ここで止めたらもったいない」
ゴロツキは構えたまま訝しげに眉を歪める。
男はメガネを上げながら囁くように言った。
「僕がキレた所を見たいんじゃなかったのか?」
ゴロツキは暫く思案したが、腰に手を当て次に言うべき答えを探した。
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