空のエタンセル

楸 茉夕

空のエタンセル

 彼女は一人、東棟の端にある階段を上っていた。

 今日は修了式だった。殆どの部活動がオフシーズンの今、まだ日没前だというのに校舎の中に人気はない。彼女の所属する美術部も例外ではなく、美術室と美術準備室の掃除だけで解散になった。春休み中の活動は週に三回、出席は自由。彼女は何度か顔を出すつもりでいるが、次に部員が全員揃うのは始業式の日だろう。

(開いてるといいなあ)

 この階段の先には、屋上へ続く扉がある。誰かが鍵を閉め忘れるのか、ごく稀に開いていることがあるのだ。そのことに気付いたのは一年ほど前で、普段は屋上への立ち入りが禁止されているので、彼女が屋上へ出ることができたのは本当にたまたまだった。それからは気が向くと鍵が開いていないか見にくる。

「あ……」

 四階から更に上って踊り場を曲がると、階段の途中から屋上への扉の前に、古い机や椅子、ロッカーなどの備品が積み上げられ、先へ進めなくなっていた。先月はこんなふうになっていなかったので、年度末の掃除か何かで出た不要品がここへ集められたのかも知れない。

(……残念)

 がらくたの仮置き場なら他にもあるだろうにと、彼女は息をついた。

 せっかくここまできたのだから、どうにか上れないかと背伸びをしたり屈んでみたりして進めるルートを探していると、唐突に頭上から、がたん、と音がして彼女は肩を波打たせた。音のした方へ顔を向けても、扉の右側のスペースは死角になっていて、誰か、もしくは何かがいるのかはわからない。そもそも、この備品の山を乗り越えた誰かがいるというのは考え難く、彼女はぞっと肌を粟立てた。

(ちょ……ちょっと不安定に重なってたのが、何かの拍子にずれただけよ。うん、そうに決まってる)

 第一まだ明るいし、と胸中で誰にともなく言い訳をしながら、彼女はゆっくりと後退りをした。すると、また同じような音がして、彼女は竦み上がる。二回続けては偶然ではないだろう。

 このまま原因を解らないままにしておくと、ずっと怖いままになってしまうので、一度深呼吸をして声を絞り出す。

「だ、誰か……いるの?」

 一呼吸ほど置いて、返事があった。

「……星宮ほしみや?」

「え?」

 今度は音ではなくはっきりとした人の声で呼ばれ、彼女は驚いて首を巡らせた。

「こっち」

 声に導かれて見上げれば、積み重なった備品の上から見知った顔が覗いている。

「星宮……清歌さやか、だよな」

「え……、あ、ええ!? 波瀬はぜ、くん?」

 見下ろしていたのはクラスメイトの波瀬 燈夜とうやだった。モデルもかくやというスタイルと顔なので、女子人気は学年で一、二を争っており、地味な部類の清歌からしてみれば、最早違う人種の存在だ。名字が「は行」なので席が近くなったこともあったが、殆ど話したことはない。

「何やってるの、こんなとこで」

「隠れてたんだけど……いつの間にか寝てた」

「ああ……」

 微妙に乱れた髪を掻きやりながら言う燈夜へ、清歌は同情の眼差しを向けた。明日から春休みに入るので当分会えなくなるからと、一部の女子が鬼気迫る表情で燈夜を捜していた。彼女たちの追跡を振り切るのは並大抵のことではなかっただろう。

「もう校舎に殆ど人いないから大丈夫だと思うよ。こんなとこで寝てたら風邪ひいちゃう」

「ああ。星宮こそ、何やってんだこんなとこで」

「わたしは、その……」

 上手い言い訳も思いつかなかったので、清歌はここへきた理由を正直に説明した。すると、燈夜は扉と清歌を見比べる。

「そこの鍵壊れてんの、俺以外に知ってる奴がいると思わなかった」

「え、壊れてるの?」

 初めて知った清歌は目を見開く。

「でも、閉まってるときもあったよ」

「閉めてもたまに開いてるのは、壊れてるってことだろ。教師もようやく気付いたんじゃないか? 塞がれてるし」

 備品が積まれて物理的に立ち入れなくしてあるのは、不要品の仮置き場の他に、壊れた鍵を直すまで生徒の立入を防ぐ目的もあったらしい。納得して清歌は頷いた。

 燈夜は身を乗り出すと、片手を差し伸べた。

「ほら」

「……何?」

 彼の行動の意味がわからなくてきょとんとしていると、燈夜は顎で扉を示す。

「せっかくきたんだから屋上出てけば。今日、開いてるぞ」

「え……でも」

「引っ張り上げてやるから。そこ、足かけて」

「う、うん」

(……波瀬くんの追っかけに知られたら首絞められそう)

 どうしようか迷ったが、ここで固辞するのもおかしなふうに思えて、清歌は右手を伸ばした。しかし、右手の親指と人差し指が緑色に染まっているのが目に入り、慌てて引っ込める。古い絵の具を始末していたときに手についてしまったのだが、洗ってもなかなか落ちず、あとは帰るだけだからと放置してしまったのが悔やまれる。

「どうした?」

「ううん、あの……美術室掃除してたら汚れちゃって、洗っても落ちなくて……」

 しどろもどろになってしまい、清歌は一人で赤面した。燈夜は、わけがわからないというふうに眉を顰める。

「それが?」

「……恥ずかしいなって」

「掃除で汚れたのに、なんで恥ずかしがるんだよ」

 早くしろとばかりに燈夜は手を上下に振る。清歌は汚れた手と燈夜の手を見比べ、思い切って彼の手を取った。言われたとおりに足をかけて伸び上がると、強く手を引かれて膝から机に上る格好になる。

「あ、わわ」

「そこのは安定してるから大丈夫だ」

 左手も燈夜に取られて清歌は無事に扉の前に着地した。ほっと息をついて燈夜を見上げる。

「ありがとう」

「……いや、別に」

 もごもごと呟いて、燈夜は手を放した。

 清歌は重い鉄扉に手をかけて押してみる。燈夜が言ったとおり、扉はすんなり開いて屋上に出ることができた。屋上の周囲は腰高の段差があるだけで、柵などは作られていない。それも生徒の屋上への立ち入りが禁止されている理由の一つだろう。

「わあ、いい天気」

 快晴とまでは行かないが、雲は少なく、青空が広がっている。学校の周囲には背の高い建物がないので空が広い。太陽は大分傾いていて、そのうち夕焼けが始まるだろう。

 あまり端まで行くと誰かに見咎められるかも知れないので、中程で足を止める。

「昼寝によさそうな天気だ」

「まだ寝るの?」

 いつの間にか近くまできていた燈夜を振り返って言えば、彼は意外そうに眉を上げた。

「春は眠いもんだろ。眠かったら寝るだろ」

「ふふ、春眠暁を覚えずだね」

 燈夜の言い方が可笑しくて、清歌は声を立てて笑った。燈夜は不本意そうに視線を逸らす。

「鍵が壊れてるって先生たちに気付かれちゃったなら、ここにこられるのは最後かもしれないね」

「……そうだな」

 清歌の言葉に気がなさそうに同意して、燈夜は首を巡らせた。

「なんにもないとこだな」

「うん。でも、わたしは好きだな」

 四階建ての校舎の屋上なので、特に何が見えるわけでもない。だが、清歌はここからの風景が好きだった。校庭とプール、学校の周囲に広がる町並み。特筆すべきものは何もない、どこにでもあるような風景。けれど、ここにしかない風景。どこがどう好きなのか理由を述べよと言われれば困る。きっと、理屈ではないのだ。

「好きなら、描いたらどうだ? 水彩画、上手いだろ」

「そんなことないけど……どうして水彩画って知ってるの?」

 清歌は油彩よりも水彩の方が好きで、美術部でもよく描いている。だが、発表される機会は文化祭や市の展覧会など年に数回だし、水彩を出すとも限らないので、燈夜が知っているのを意外に思う。

 燈夜は何故か目を泳がせ、明後日の方を向いて呟くように言った。

「たまたま……偶然、文化祭で見て」

「ああ、美術部の展示見に来てくれたんだ。ありがとう。しかも覚えててくれたなんて、嬉しいな」

 美術部に清歌より上手い部員はたくさんいるし、清歌が描くのは単に絵が好きだからで、趣味の延長のようなものだ。だが、覚えて貰えたり、褒められたりすれば、純粋に嬉しく思う。

「それいいね。部活で風景画を描くってことなら、屋上に出るのも許可貰えるかも。ラストチャンスかな」

 来年度は大学受験で、清歌たちは夏の展覧会を最後に引退する。ここからの風景を描くとしたら、最初で最後のチャンスだろう。

「描けたら……俺にくれないか」

「え?」

 聞き取れなかったのではなく、己の耳が信じられなくて清歌は聞き返した。だが、燈夜は今の言葉を打ち消すようにかぶりを振る。

「……いや、なんでもない」

 取り消されてしまいそうになって、清歌は慌てて片手と首を振った。今のは聞き間違いでも何でもなかったらしい。

「ううん、うん、描く! 描くよ! わたしのでよければ、何枚でも」

 勢い込んで言えば、燈夜はぽかんと清歌を見た後、淡く笑った。

「楽しみにしてる」

「―――…」

 思わず呆けてしまい、そんな自分に気付いて、誤魔化すために清歌は何度も首肯した。それを見た燈夜が、今度は吹き出す。

「そんなにしたら首とれるぞ」

「だ、大丈夫だよ。―――そろそろ戻ろっか、先生に見つかっちゃうと面倒だし」

 言い置いて踵を返し、清歌は校舎へ繋がる扉へ向かう。

(あー、びっくりした。波瀬くんて、本当にかっこいい……)

 燈夜が所謂イケメンであることは誰にも異論はないだろう。清歌もそう思っている。だが、今のように、燈夜を一個人として意識したことはなかった。いつも女子に囲まれているし、テレビの向こう側のアイドルのような、壁を一枚隔てた場所の住人を見ている感覚だった。当たり前だがそんなことはなく、清歌が勝手にそう思っていただけだ。

(……絵、頑張ろう)

 この動悸は早足で歩いているからだと言い聞かせ、清歌は屋上を後にした。



     *     *     *



 綺麗な絵だと思った。

(……星宮清歌……たしか、同じクラスの)

 絵の横にあった作者名を読んで、首をかしげる。

 文化祭は多くの来客で賑わっていが、美術館で騒ぐ者がいないように、美術作品を前にすると人は厳粛な気分になるらしい。美術部の展示がある一角は、人がいるのに不思議に静かだ。

 そのときは美術部展示の見物客が少なかったこともあり、申し訳ないが避難させて貰った。美術室に足を向けたのは本当にたまたまで、行事の度に燈夜を追い回す女子たちから逃げ回って行き着いた。疲弊して愚痴ると、男子にはモテ自慢か死ねと言われるが、別にモテているわけではないと燈夜は思う。彼女たちが好きなのは彼女たち自身だけで、燈夜のことはアクセサリー程度にしか考えていない。

 燈夜を追う女子が睨むので他の女子には遠巻きにされ、男子にはやっかまれ、燈夜には友人が少ない。その友人たちも逃亡の手助けはしてくれず―――女子を怒らせると怖いからだ―――逃げ込んだ場所で、その絵に出会った。

 燈夜が目を留めた絵は、おそらく五月頃の中庭の風景だろう、描かれた花壇には花が咲きそろっている。金属とコンクリートばかりの薄暗い学校の中で、そこだけ何かに祝福されて光が降っているような光景だった。美術に明るくない燈夜にはその絵が水彩画であることくらいしかわからなかったが、他のどんな大きな絵画や彫刻よりも印象に残った。

 星宮清歌という名前には覚えがある。挨拶、それも数回程度しか話したことのない女子生徒だが、珍しい名字なので覚えていた。顔はぼんやりとしか思い出せなかったが。

 後日、改めて教室で姿を捜すと、小柄で華奢、染色やパーマとは無縁そうなストレートのセミロングという、ある意味想像どおりの女の子だった。よくも悪くも目立つタイプではない。なんでもない中庭の風景が、彼女にはあの絵のように見えているのかと思うと、少しだけ羨ましかった。

 それ以来、なんとなく意識が向くようになって、いつの間にか目で追うようになっていた。そして、色々と気付くことになった。友人との会話は聞き役に回ることが多いとか、ころころとよく笑うとか、そのくせ涙もろくて本を読んでよく涙ぐんでいるとか、意外と負けず嫌いで本気になると髪を束ねるとか、その所作がやたら整っているとか、弁当を食べるときの箸使いが綺麗だとか、本当に美味しそうに食べるとか―――色々と。

 切欠をつかめず、結局話せぬまま2学年が終わった。

 燈夜は四月に転校する。

 父親の仕事の都合で急に決まったもので、燈夜だけが下宿か何かして残るという話も出たが、大学で遠方に行かもしれないのだから今のうちは家族揃ってという、母親の希望で一緒に行くことになった。

 担任に頼んでクラスでは言わないで貰ったので、親しい友人たちしか知らないことだ。

 清歌とこのまま離れてしまうのを残念に思っていたので、彼女が階段下に現れた時はとても驚いた。



 例によって女子の一団から逃げ、備品の間に座り込んでうとうととしていたのだが、ふと人の気配を感じた。身動ぎし、爪先が椅子の脚を蹴飛ばしてしまう。その音に驚いたのか、微かな衣擦れの音がした。

「だ、誰か……いるの?」

 聞き覚えのある声に目を見開き、燈夜は立ち上がって踊り場を覗き込んだ。そこにいたのは予想通りの人物で、咄嗟に声をかける。

「……星宮?」

「え?」

 怯えた様子で周囲を伺っていた彼女は、驚いた様子で振り返った。燈夜は改めて名を呼ぶ。

「星宮……清歌、だよな」

「え……、あ、ええ!? 波瀬、くん?」

 驚きの声を上げた清歌は、燈夜に向き直って首をかしげた。

「何やってるの、こんなとこで」

「隠れてたんだけど……いつの間にか寝てた」

「ああ……」

 燈夜がいつも逃げ回っているのは知っているのだろう、清歌は可哀想なものを見ような表情になった。そして、片手で背後を示す。

「もう校舎に殆ど人いないから大丈夫だと思うよ。こんなとこで寝てたら風邪ひいちゃう」

 たしかに、もう追いかけてはこないだろうと燈夜は頷く。

「ああ。星宮こそ、何やってんだこんなとこで」

「わたしは、その……」

 興味本位で訪ねたのだが、何故か清歌は戸惑った様子で、屋上へ出たいのだと言った。ここの扉の鍵が壊れているのを知っている生徒が他にいると思わなかったので、燈夜は内心驚きながら扉と清歌を交互に見た。

「そこの鍵壊れてんの、俺以外に知ってる奴がいると思わなかった」

「え、壊れてるの? でも、閉まってるときもあったよ」

「閉めてもたまに開いてるのは、壊れてるってことだろ。教師もようやく気付いたんじゃないか? 塞がれてるし」

 備品が積まれて物理的に立ち入れなくしてあるのは、壊れた鍵を直すまでの応急処置だろう。よくここに隠れていた燈夜としては、やっと気付いたか、くらいの感覚だ。

 わざわざ修了式の日に一人で上ってくるくらいだ、清歌は屋上がよほど好きなのだろう。備品程度で諦めることはないと、燈夜は手を伸ばした。

「ほら」

「……何?」

「せっかくきたんだから屋上出てけば。今日、開いてるぞ」

「え……でも」

「引っ張り上げてやるから。そこ、足かけて」

 清歌は迷っていたようだったが、やがて意を決したように燈夜の手を取ろうとした。しかし、すぐに引っ込めてしまう。

「どうした?」

「ううん、あの……部室掃除してたら汚れちゃって、洗っても落ちなくて……」

 しどろもどろに言う清歌の目元が上気して、燈夜はそれに目を奪われそうになった。だが、努めて平静を装って問い返す。

「それが?」

「……恥ずかしいなって」

「掃除で汚れたのに、なんで恥ずかしがるんだよ」

 たしかに清歌の手は緑色に汚れていたが、絵の具で遊んでいたわけでもあるまいし、恥じる意味がわからず燈夜は手を振って清歌を促す。すると彼女は、おずおずと燈夜の手を握った。

「あ、わわ」

「そこのは安定してるから大丈夫だ」

 清歌が踏み切るのに合わせて引っ張り上げ、もう片方の手も取って備品の山のこちら側に引き寄せる。着地してほっと安堵したように息をつき、清歌は燈夜を見上げて微笑んだ。

「ありがとう」

 真正面からお礼を言われることなど滅多にないので、燈夜は戸惑う。清歌の笑顔に嬉しくなってしまった自分にも。

「……いや、別に」

 ぼそぼそと言い、握ったままの清歌の手を放すと、彼女は鉄扉を開いて外へ出て行った。

「わあ、いい天気」

 伸びでもしそうな声音に小さく笑いながら、燈夜も屋上へ出た。空はよく晴れて、日没にはまだ時間がある。三寒四温の季節だが、幸い今日は暖かい。

「昼寝によさそうな天気だ」

「まだ寝るの?」

「春は眠いもんだろ。眠かったら寝るだろ」

「ふふ、春眠暁を覚えずだね」

 笑われると思わなかったので、燈夜は無言で肩を竦める。

「鍵が壊れてるって先生たちに気付かれちゃったなら、ここにこられるのは最後かもしれないね」

「……そうだな」

 清歌の口から最後と聞いて、燈夜は不意に胸の奥を絞られるような気がした。燈夜にとっては本当に最後だ。ここから町を見下ろすことは、多分二度とない。

 さざめいた胸中を誤魔化すために首を巡らせるが、通気ダクトとエアコンの室外機以外には何もない、殺風景な場所だ。四階しか高さがないので、遠くまで見霽かすことはできない。

「なんにもないとこだな」

「うん。でも、わたしは好きだな」

「好きなら、描いたらどうだ? 水彩画、上手いだろ」

「そんなことないけど……どうして水彩画って知ってるの?」

 口を滑らせたと思ったのは、清歌が不思議そうな顔をしてからだ。燈夜は言い訳を探して目を泳がせる。

「たまたま……偶然、文化祭で見て」

「ああ、美術部の展示見に来てくれたんだ。ありがとう。しかも覚えててくれたなんて、嬉しいな」

 たまたまというのは嘘ではない。その絵が今でも心に残っているというのは、照れが勝って口に出せなかった。

「それいいね。部活で風景画を描くってことなら、屋上に出るのも許可貰えるかも。ラストチャンスかな」

 清歌の言葉で、燈夜は自分の抱えているものの正体に気付いた。

 これは、郷愁と呼ばれる類のものだろう。都会と田舎の中間、特別便利でもないが不便でもない町。どこにでもあり、ここにしかない風景。今まで、考えたこともなかった。

(最後……)

 どうやら自分は、十七年育ったこの町を離れるのが寂しいらしい。

「描けたら……俺にくれないか」

 言ってしまってから、何を言っているのだろうと自分でも思った。まともに話したのは今日が初めての相手に、それも四月にはいなくなってしまう相手にこんなことを言われても困るだろう。

「え?」

 案の定、清歌はきょとんと燈夜を見上げた。

「……いや、なんでもない」

 燈夜の感情は彼女には関係ないものだ。忘れて欲しいと思ったが、清歌は勢い込んで言う。

「ううん、うん、描く! 描くよ! わたしのでよければ、何枚でも」

 清歌の返事が嬉しくて、燈夜は笑んだ。彼女ならきっと、この景色を画用紙に美しく切り取る。あの、光降る中庭のように。

「楽しみにしてる」

「―――…」

 清歌は一瞬真顔になり、しかしすぐに何度も強く頷いた。その様子がおかしくて、燈夜は吹き出す。

「そんなにしたら首とれるぞ」

「だ、大丈夫だよ。―――そろそろ戻ろっか、先生に見つかっちゃうと面倒だし」

 満足したのか、清歌は校舎へ続く扉へと戻って行く。今のうちに連絡先を交換した方がいいのだろうかと、燈夜はブレザーのポケットを探るが、スマホは入っていなかった。鞄に入れっぱなしにしたらしい。

(まあいいか。引っ越しまでにはまだあるし)

 清歌の家は知らない。もう授業はないから、美術部の活動のある日を狙うかと考えていると楽しくなってきて、燈夜は清歌を追いかけた。備品の山を越えるのに、もう一度手を貸さなければならない。




 了

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空のエタンセル 楸 茉夕 @nell_nell

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