夢芝居

小宮山 写勒

第1話

「こんばんわ」


 夕暮れ時の帰り道。私は見知らぬ人に声をかけられた。

 それは、紳士風の老人だった。


 黒いスーツ。白いシャツ。黒いネクタイを締めている。

 片手には紙袋を、もう片方の手には杖を持っている。

 白髪のオールバック。鼻の頭に丸メガネをかけていた。


「こんばんわ、お嬢さん」


 老人は帽子を傾けて、私に向かって微笑んだ。


「こ、こんばんわ」


 どぎまぎとしながらも、私は会釈を返す。


「実は、こういう物をお配りしてまして」 


 老人は紙袋から一枚の紙を取り出して、私に手渡した。


 『夢芝居 新作上映 ご来場お待ちしております』


 映画館の宣伝チラシだ。

 達筆な字で書かれた映画館の名前。

 それと、可愛らしい映画館のイラストが描かれている。


 裏を見ると、上映される作品と時間が書かれていた。


 『我が愛しい時代』


 聞いたことのないタイトルだ。

 単館上映とか、個人経営の映画館で上映される、ちょっとマニアックな作品なのかもしれない。


「明日、映画をやるんですよ。ですので、こうやって皆々様に宣伝をしておりまして。お嬢さんも、ぜひいらしてくださいませ」


「ま、まあ機会があれば」


「そうですか。では、お待ちしておりますよ」


 帽子をかぶり直すと、老人は会釈をして去って行った。


 杖と革靴の音が遠ざかっていく。

 その小さな背中を、私はなんとなく見送っていた。


「……寒っ」


 寒い中、じっとしているものじゃない。

 足先から、指先から。寒さのせいですっかり冷え切ってしまった。


 早いところ家に帰ろう。

 ブルリと体を震わせて、私はアパートに向かった。


 近道の公園を抜けて、閑静な住宅街を進んでいく。

 十字路を左に進めば、私の住む二階建てのアパートが見えてくる。

 クリーム色の外壁に、黒い瓦屋根。

 築何十年とたっているが、その年数とは裏腹に、生活には何の支障もなかった。

 

 外階段を上がって、廊下を進む。

 203号室。そこが私の部屋だ。


 鍵を開けて、部屋に入る。


 六畳のフローリング部屋と寝室がある。

 エアコンと冷蔵庫が完備され、バスルームにはちゃんと浴槽が付いている。


 家賃は五万四千円。この辺りでは、比較的お手頃な物件だ。

 

 取り壊しが数年後に決まっているから、ちょっとはお安くなっているらしい。


 コートを脱いでハンガーにかける。

 カバンをベッドに脇に投げる。

 黄色の座卓にチラシを置いて、テレビに電源を入れた。


 今日のニュースを、見慣れた顔のアナウンサーが淡々と伝えている。

 毎日毎日、似たような内容だ。


 政治家の汚職だの。

 芸能人の薬物所持だの。

 円安ドル高だの。


 退屈で、他人事のニュースのオンパレードだった。

 

 眠らないうちに、シャワーを浴びてしまおう。

 そう思って、タンスからパジャマと下着を取り出して、浴室へと向かった。


 脱衣所で服を脱ぎ、給湯器の電源を入れる。

 浴室の熱いシャワーを体に目一杯浴びる。


 髪と体を洗う。

 化粧が落ちて、私の素顔が鏡に映った。


 醜い、ブサイクな笑みが、曇った鏡に映りこんでいる。


 その顔が私のものであることは分かっていた。


 私の顔についた醜い傷も、幻覚でないことを知っていた。

 

 私の顔には傷跡がある。

 口元から頬にかけて、何かで裂いたような傷が、両頬に刻まれている。


 普段は化粧をして目立たないようにしているが、水をかければ簡単にバケの皮が剥がれてしまう。


 どうして、私の顔にこんな傷がついているのか。

 それは私にもよくわからない。


 気づいた時にはこの傷が顔についていた。

 この傷のせいで何度か嫌な目にも遭ってきた。

 でも、些細なことだ。


 嫌な記憶は、思い出さなければ、傷つくことはない。


 ノブを回して湯を止める。

 タオルで体と髪の水気を軽く取ってから、浴室を出た。


 バスタオルで体を拭いて、パジャマに着替る。

 居間に戻って、ドライヤーで髪を乾かす。


 その間に、さっきの宣伝チラシを読み返した。

 けど、すぐに興味もなくなった。


 座卓にチラシを投げて、ベッドに入り目をつむる。

 心地のいい温もりが、私を眠りの中へと誘ってくれた。

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