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今日は出勤日。
朝六時半に昇り龍柄のダボシャツとグレーの超々ロングで身を包み、定員数いっぱいのハイエースに乗り込む。
俺はクッション性ゼロの後部座席に腰掛けていた〔宵越しの金は持たねぇ〕を信条とした仲間内に江戸っ子気質からきた『エド』と呼ばれる石沢盛夫の横に場所を取った。
この人はあらゆる博打に明け暮れるもんだから直ぐに金が無くなり、仕舞いには給料を前借りし更にブチ込んでしまうのだから或る意味見上げた男だ。
小一時間揺られて隣県の現場に到着すると、道すがらで立ち寄ったコンビニで買ったパンを食した後にまったりと始業時間まで時間つぶしをする。
定時にラジオ体操が場内に流れ出す。
となればそれに合わせて各々が安全帯を締めヘルメットを被り業者ごとに整列して体をほぐし、現場監督と会い向かいに行われる朝礼が始まる。
それが済むと最後に作業員同士が向かい合い指差し呼称を終えるや否や皆こぞって休憩所の前に据えられた灰皿に直行して煙草に火をつける。
俺がここ数年慣れ親しんだ短髪で生活しているのは、仕事でも移動でもメットを被るからだ。
過去に一度アイパーをあてたが、明らかに老けて見えたから辞めた。
ま、この頭は水を浴びてもサッと乾くし、ヘアスタイルも気にならないから横着な自分の性に合ってる。
一服を終えた俺等はロングスパンエレベーターに乗ると建設中の建物五階フロアに上がり、墨出し後の敷桟打ちも終えた鉄筋工が壁筋を組み上げているグレーからクリーム色になりかけているマンションの床部分に降り立つ。
本日の担当作業である解体工が荷上げしてくれた英字と数字を組み合わせた番割がされた型枠を整理し間配りをしていると、一つ隣の勝俣茂和が担当する部屋スペースから話声が聞こえてきた。
「チョットお邪魔します」
「おい、設備屋さん。スラブ上げの度に酒の一つでも持ってこなけりゃコンクリート打設前に床スリーブ外しちまうぞ」
この〔シゲ爺〕と呼ばれるベテラン大工の軽い脅し文句に、周辺の他業種を含めた数名の笑い声がした。
律儀に挨拶をしてその場に足を踏み入れる設備屋とは配管工で、スラブと呼ばれるコンクリートの床に事前に貫通する穴をあける手筈としてスリーブという床の厚みに合わせてカットした筒状の物をコンクリートを流し込む前に所定の位置にセットしておく作業がガス・水道配管工にはある。
設備屋は養生が外れていて雨が降るとそこから下層階に水が流れ落ちていってしまう危険と、それ自体が潰されていないか確認のために上がって来た様子だ。
昔は通例で床を組み立てる工程になると、設備屋が大工と鉄筋屋にその都度貢ぎ物を差し入れる制度が暗黙の了解で行われていたらしい。
この貢ぎ物を怠ると、スリーブを壊すなり外すなりの嫌がらせが行われ、後日に床に穴あけするコア抜き工事代の出費を設備屋が被らないといけない事態になる。
ただし、ユニットバスを据える場所、段差スラブといわれる所は、スラブを形成するコンクリート打設時点から四角く窪ませて設けられる為に、そこを壊すと雨水がたまる。
だからそこにあるスリーブはゆくゆく作業に支障をきたすので型枠大工は絶対に破壊しない。
しかし、鉄筋屋はスラブ配筋の邪魔になれば貢ぎ物を貰っていようがなかろうが平気で壊すなり外すなりをするから設備屋と電気屋は打設日前日になると大忙しだ。
壁配筋の向こうに見える苦笑いを浮かべる配管業者が今なおこの儀式を遂行してるか知る由もないが、この悪しき慣例が現在も続いているのだとしたらこの建物のフロアの数だけ請負金額から差っ引く支出を強いられる。
学が無いと労働先の選択肢は狭められ、こんな歪な社会でしか生きる事を許されない。
流石に勉学に励まなかった自分を恨み、気分がガタ落ちしている俺の視野に見覚えのある顔が横切った。
(ん?あいつは何時ぞやにボコった野郎だ。
こんな所でキツネ目に出逢うとは……世間は広いようで狭い。
あの腰道具から察すれば奴は電気屋で、壁筋の中にエフレックス管を仕込む作業の助手だろう)
そう思いながら奴を目で追っていると、その視線を感知したらしくこちらを向く。
即座にガンをくれて来たが、数秒間無表情で俺を見た後、一瞬で顔を強張らせ、瞬時に顔を背け、目を逸らす間際の眼球は生気が抜けた様に見え、目的地に歩み寄る仕草には小刻みな震えが混ざっている様に見えた。
(ま、あれだけの事されたんだからそうなるわな)
画面を通じてでもなく、人伝に聞いたでもない、己の身で直接感じた恐怖は人並み程度の精神力ではそう簡単に拭い去れない。
それが出来るのは脳のどこかしらの感覚が欠落している類の、いわば“イっちゃってる”ヤツだろう。
世間一般で言う暴行は、一方的に受ける側になると恐れが増幅するが、与える側に回ると快楽が一気に加速し拡大して押し寄せて来る。
それが数人がかりとなれば、その数の分だけを一手に引き受ける事となり、心に刻まれる恐怖は絶大になる。
そこまで解っていても奴に対して申し訳なさが湧いてこないってコトは自分もきっとイっちゃてるヤツなんだろう。
俺が自ら足を踏み入れどっぷり浸かったこの世界にルールもへったくれもねぇ。
ヤらなきゃヤられる羽目になる以上、勝つために徹底的に相手の心を折ってやる手段を選ぶしか生き残る術はなく、そうして初めて完全勝利が成立する。
いつの日かを境に自身の存在証明はこの世界でしか出来ないと信じ込んだからにはしっぺ返しを恐れて振る舞う選択を選ぶ訳にはいかないと又改めて肝に銘じた時に親方の「一服にすんぞぉ」が聞こえた。
その間の作業が苦にならない陽気のまだ休憩時間まで数分以上ある現場には、どこかの職人の持つラジオから都の西部に体重がリンゴ三個分という赤い大きなリボンを付けたキャラクターがメインの観光施設が年末に開園すると流れていた。
手袋を脱ぎ腰袋に入れ安全帯を外して平積みにされた型枠の上に置いている最中にシゲ爺は灰皿に向かって歩いて行き、その他はロングスパンを目指していく。
ヘルメット姿のおっさんがさながら満員電車の如くパンパンに詰まったエレベーターに乗り込むのを
一階に辿り着き、2LDKの各玄関にスチール製のドア枠が溶接され、その空間を覗くと突き当たりには掃き出し窓のサッシ枠だけが立てかけられた部屋の中を、
(ここを寝床にする人種と自分とは住む世界が違うんだろうな)
と脳内で語りながら通り見て廊下を歩き抜ける。
目的地に着くと折り畳み財布から百円玉をつまみ出し、炭酸飲料を選択して受け取り口に手を突っ込む。
取り出したその場で栓を開け、ほぼ半分を流し込みゲップを一発かましてから寅壱超ロングの裾を少し擦りながら歩き出しプレハブ小屋で設置された休憩所を目指す。
体温が下がり始めたのを認識しつつ引き戸に手をかけ、砂をかんだまま横にずらした途端に室内の冷気が全身にぶつかって来た。
型枠大工御一行様が陣取ったエリアにある所定の位置のパイプ椅子に腰掛け、長テーブル上に飲みかけの缶を乗せ視界に入った朝礼前に注文した仕出し弁当のメニューを眺める。
タバコを咥え火をつけ、唐揚げ弁当よりミックスフライの方がよかったかな、と後悔している席の上手に居る親方はウィスキーの角瓶ほどのデカさな携帯で誰かと連絡を取り合ってる様だ。
手持無沙汰の俺は左腿に右踵を乗せて組んだ他の箇所より汚れている足元をいじくりながら見つめ物思いにふける。
(この裾は地下足袋で作業出来る現場では誤魔化せるが、安全靴が必須の場所では間違いなく他人より多めに引きずってるな。
自分の身長は中学校の三年間で30㎝以上伸びた筈なのに平均を遥かに下回っていやがる。
これは喫煙のせいだけでじゃない、明らかに遺伝だ。
この背丈は何かにつけて不利にしか働かない。この仕事でもそうさ。
高い位置の型枠がコンクリートの圧力で破壊されないように締め付けておくホームタイに単管を固定する作業は他の人よりチョットだけ背伸びの姿勢になって力がまともに伝わらないし……)
「よう、知ってっか、コレ」
脳内で恨み節を炸裂させている最中にうちのボロアパートの真上に住む朝倉昇が赤鉛筆片手に喋りかけて来た。
この男は年齢が四十手前でウチの会社に二十年近く居るにも拘らず、未だに雑用係しか出来ないくせして身長が無駄に高いことから仲間内が陰で〈でくの坊〉と呼んでる表向きでは〔朝やん〕と呼ばれる先パイ。
俺が「何すか」とジュースを飲みながら愛想なしで反応すると、もう片方の手に持っていた新規入場者教育の用紙を裏返して《間歩友達》と書いた。
さほど興味も湧かない問題を「なんすか、これ」と受け流すように返答するが、朝やんさんは不敵な笑みをもらした。
「これはな、⦅マブダチ⦆の語源だよ。マブは元々、鉱山の坑道を意味する
紙の上に円や線を織り交ぜながら講釈を垂れたこの先パイはご満悦な笑顔で俺を見ているが、この人はこっちにしてみれば知った所で何の足しにもならないうんちくを何処からか仕入れると、後輩をとっ捕まえてひけらかすのが趣味の人間。
聞くだけなら何の害もないが、結構気温の高い中で忙しく動き回った肉体労働後の貴重な疲労回復タイムをこれで潰されるのは返って疲れが増す。
案の定、苦痛を伴う話をただただ聞かされた大事な休憩時間は親方の、
「よし、作業に戻るぞ」の言葉で無情にも終了し、俺は先に席を立った朝やんさんの後ろ姿に殺気に近いガンを飛ばすのと、
(どうせ持て余してる図体なんだからあの人と体だけ入れ替わんねぇかな)
と100パー有り得ない懇願を念じながら作業場へ向かった。
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