荒神学園神鳴譚
嶋森智也
序章
霧と少女と転校生
住宅街の片隅に、こじんまりとした登山道が口を開けている。
付近に見えるのは、石の鳥居と背の高い
標識には白いペンキで「
鳥居をくぐって数分ほど足を進めた先。人気のない山道の途上に、一人の少年が立っていた。
紺のブレザーと揃いのスラックスに身を固め、青みがかった黒髪を軽く左右に分けている。
まっすぐに伸びた背筋。心持ち"への字"になった唇とキツめの眼光は、彼の気難しさを象徴しているかのようだ。
「あれから、もう七年か……」
彼の視線は山の頂上でも、ふもとでもなく、山道の脇へと向かっていた。
トゲのように細長い雑草を軽くかきわけ、柔らかい土の上を二~三メートルほど進む。
斜面に沿って岩肌が露出している場所まで来ると、そこに座り込んだ。
最後に見た時は、岩全体が血の痕でうっすらと黒ずんでいたはずだが、時の流れは事件の名残を完全に消し去っていた。
「七年。早いものだ。呆れるほどに早く過ぎ、おかげで無為に時間を浪費してしまった」
口から吐き出されるのは、己が怠慢への静かな怒りと反省。
拳を作り、胸を叩く。
それは自分の心に「二度と同じことを繰り返すなよ」と言い聞かせているようでもあった。
ブレザーの胸部を彩る校章は、このあたりの学校のものではない。県外の高校だ。
だが、少年は確かにこの土地で生まれ、一つ違いの妹と共に育った。
妹の名は
手のかかる妹だが、それでも少年にとっては大事な家族、だった。
そんな
残されたのはおびただしい量の血痕と、妹を守りきれなかった無力な兄。
県警の総力を挙げた捜索の甲斐もなく、人々は少女失踪の手がかりをつかむことができなった。
そして、少女の家族は悲しい記憶が残るこの地を離れ、過去に
「……だが、いつまでも足踏みしているつもりはない。だから俺は戻ってきた」
先日、少年は十七歳になった。あと一年も経てば、本格的に大人の仲間入りを果たす年齢だ。
この七年間、ずっと後悔してきた。ずっと心残りだった。
歳を重ねるごとにその想いは強くなり、とうとう無視できぬほどに膨れ上がった。
「これから卒業までの期間、あの事件を徹底的に調べ直す。何も見つからなければ、それでもいい。だが、もし犯人を突き止めることができた時は──」
仇を討つ。
命を奪うとまでは言わない。
だが、妹を害した外道に怒りの鉄拳制裁をお見舞いするくらいは、実の兄として十分に許される範囲……むしろ、なさねばならぬ責務だろう。
少年は宣誓を心に刻みつけるように目を閉じる。
(行方不明という扱いを受けてはいるが、あれはれっきとした殺人事件だ。俺は、あの日、この場で見た)
まぶたの裏をスクリーンにして、細切れの映像が次々と流れていく。それは過去の
不気味な霧に覆われた山中。
青い光。
遠ざかっていく妹の姿。
『
『お兄ちゃんも早く逃げてっ!』
叫ぶ妹。その背中に、大きな人影が迫っていく。
光を放つ白刃が、赤く染まった。
そうして謎の殺人鬼は、妹の
回想を終えた少年は、沈んだ気持ちを切り替えるため、頭を振った。
目頭に力を込めた後、立ち上がるのと同時に強く見開く。
幾分さっぱりした気分で迎えた景色は──
──七年前と同じものだった。
「……なん、だと?」
霧だ。
白い霧が、あたり一面に立ち込めていた。
先ほどまでの好天はどこへやら。文字通り降って沸いた謎のもやによって、あらゆるものがぼんやりとしたフィルターに覆われる。
木々の枝先には、青い
ふもとを走る車の音も、小鳥のさえずりも聞こえない。
振り返って確認すると、少年が登ってきた道は、ひときわ濃度の高い壁のような霧によってふさがれていた。
あの境界線を越えることはできない。少なくとも霧が晴れるまでは。
少年は七年前の経験からそのことを知っていた。
何もかもが同じ。
まるで過去にタイムスリップしたかのような錯覚を感じながら、少年は次に起こるであろう事態を予測し、静かに身構えた。
「真犯人は必ず現場に舞い戻ってくる……そういうことか!」
輪郭もおぼろな山道の奥に、射るような視線を送る。
完全にあてずっぽうだ。周囲に人の気配など感じない。
(だがまあ、こういうハッタリは出し得だからな)
誰もいなければ自分が恥ずかしい思いをするだけで済む。運良く誰かが引っかかれば丸儲けだ。
しかし、返ってきたのは無音の静寂でも、ましてや殺人鬼の足音でもなかった。
「──ッ! ────ッ!」
遠くの方から、誰かの叫び声が聞こえてきた。
音域からして若い女性。
悲鳴とも怒号ともつかぬ声。ただ、強い感情が込められていること、そして彼女が切羽詰まった危機に瀕していることだけは間違いない。
一瞬、過去の惨劇が脳裏を駆け巡った。
あの時感じた恐怖が、少年の足を縛りつける。
「……馬鹿か、俺は。こんなことで怖気づくぐらいなら、もとより仇討ちなど考えるな……!」
決意のギアをフル回転させ、恐怖のぬかるみから脱出。もう一度、かすかな声に耳を澄ませる。
「音の出所は……北西の登山口か」
少年は東の登山口からここまで歩いてきた。耳成山の北西部にたどり着くための最短ルートは、頂上行きの山道を右に逸れた、北回りの迂回路だ。
丸太組みの階段を十段ほど登ると、山の形に沿って緩やかにカーブを描く遊歩道に出た。
ところどころに突き出た小さな岩の間を跳ねるように駆け抜ける。急ぎはするが、焦りは無い。
「──ッ! ──ッ!!」
また声が聞こえた。
恐れではない、勇ましい声。同時に硬いものが激突し合う音も。
「健闘しているじゃないか、どこかの誰かさんは」
ここから音の発信源まで、直線距離にしておおよそ二百メートル。山の木々が緩衝帯となるため、たいていの音は人の耳に届くことはない。
しかし、少年にはしっかりと聞こえていた。
彼の耳は生まれつき物音を聴き取る力に長けていたが、その特性がより
それがどういった因果関係を持つのか、少年には分からない。
ただ、この力は役に立つ。いざという時、心強い助けとなってくれる。
(まさか、帰郷早々そんな機会に恵まれるとは思ってもいなかったがな……)
口元から漏れる苦笑は、高揚の気配をも含んでいた。
霧と青い光と襲撃。
あの怪事件を構成する謎のピースが、さっそく向こうから転がり込んできたのだ。このチャンスを逃す手はない。
遊歩道の終点が見えてきた。分岐路を右折し、下り段差を三段飛ばしで降りていく。
登山口まであと少し。
もはや音だけではない。霧越しにうっすらと見えたのは、三つの人影。二つと一つだ。
「しゃっ!」
と奇怪な掛け声。二つの影が敵対する一つ……少女らしき細身の影に飛びかかる。
「はあっ!」
負けじと少女も叫ぶ。交差するシルエット。
鈍い音が生じて、影の一つが倒れて消えた。
これで一対一。
しかし、少女の呼吸からは極度の疲労が感じ取れる。次の攻撃をしのぐことは難しいだろう。
「だが、間もなく二対一になる」
少年はさらに速度を上げて、つづら折りの下り坂を直線軌道でショートカット。
山道の終点には、簡素な瓦屋根をいただく古井戸があった。
井戸の横を抜けるとセメント敷きの小幅な道が、ふもとの公道へと至る十数メートル間を繋いでいる。
ここにも霧の壁があった。山と公道の境目にそびえ立ち、外の景色を遮断している。
壁の傍にいたのは、セーラー服の少女。
彼女は霧の壁に背中を預けながら、白い怪人と対峙していた。
「何だ、こいつは……」
思わず声に出し、疑問が足を止めた。
白装束の男。
時代劇の切腹衣装にも、病院の患者服にも似た
男と言ったが、外見情報から性別を判断することは不可能に等しい。
怪人は古井戸の手前に立ち、中腰に構えていた。右手には古びた手斧。
対する少女は無手。しかし、周囲にはきらめきを放つ何かが二つ、彼女を守るように浮かんでいた。
「……あ」
ふと、少女が怪人から視線を外す。こちらと目が合い、驚きに目を見張った。
次に反応したのは怪人。獣じみた挙動で振り返ると、首を真横に傾けてこちらを見た。
白布の隙間に光る瞳から、匂い立つような殺意が流れ出していた。
「礼を言っておこうか。どちらに加勢すればいいのか、これではっきりした」
外面だけでも余裕を保つ。ありったけの意地とプライドが、沸き起こる動揺を握り潰した。
意志は決まった。覚悟なら、とうの昔に。
怪人が動く。膝を深く折り曲げ、バッタのように跳んだ。
標的は、少年だった。
「逃げて!」
「その手の忠告には断固として反抗することにしている」
少女の警告を無視して一歩。怪人が空中で斧を振りかぶる。
さらに一歩。続けて、敵の視界をさえぎるように制鞄を放り上げた。
低い唸り声をあげて、怪人が左手を振り払う。
叩き落された制鞄がけたたましい音と共に中身をまき散らした。
しかし、その隙に少年は四歩分進んでいた。怪人が斧を振り下ろすより前に、先手を取れる位置に。
「動きは速いが、知能は低いか。野犬と変わらんな」
拳を広げ、平手を突き出す。
着地間近の相手の腹を、"力"を込めて押しやった。
「かはっ──!」
直後。怪人の姿がブレたかと思うと、その体がわずかに吹き飛ばされた。
仰向けに倒れ、四肢を小刻みに引きつらせる。軽度のショック状態だ。
生物相手に
(どうにか"揺らす"ことができたか。ぶっつけ本番にしては上出来だ)
この力は、触れたものに振動を与えることができる。
今の平手はその応用だ。内部組織を揺らして、その衝撃で相手を行動不能にした。
原理は一切不明。妹の死後、しばらくしてから使えるようになった。
(まあ、細かいことを気にしても仕方が無い。重要なのは、この場を無事に切り抜けたという事実だ)
少年は腕を下ろすと、怪人の様子を観察する。起き上がってくる気配は無い。
ただ、意識はまだ残っているのか、その目はこちらをじっと捉えたまま離さない。敵意がより明確になったような、そんな気さえしてくる。
「加減はしたが、痛みでしばらくは動けまい。観念するんだな変質者」
その時。
「あ、ら……がみ」
声が聞こえた。
低くしわがれ、乾いたつぶやき。怪人の口元が笑みの形を作る。
そして。
「なにっ──!?」
怪人が半身を起こした。
地面に投げ出されていた左手が突如として動き出し、少年の足首を掴む。斧持つ右手は獲物の脇腹に狙いを定めていた。
(効果が無い!? いや、回復が早いのか? 何にせよこれは──)
まずい。
脳神経がけたたましく警鐘を鳴らす。だが、肉体の反応が追いつかない。
弧を描いて加速する手斧。その背後で、動きがあった。
「
抑揚の少ない、吐息のような叫び。少女の声だ。
片手を水平に払い、従僕たちに指示を飛ばす。
従僕とはすなわち、彼女の周囲に浮遊する二つの物体──手斧だった。
それらは意志を持つかのように動き出し、主の言葉そのままに射出。
決着は一瞬だった。
「──ッ!?」
怪人の動きが止まった。
少女の攻撃は標的の首元から肩甲骨のあたりに命中し、大きく肉を抉られた怪人が地面に横たわる。
今度こそ、間違いなく、死亡していた。
不思議なことに、出血はほとんど見られなかった。
「……………………」
少年は、しばし呆然とその光景を見つめていた。
人間離れした力を持つ怪人。そして、これまた超常的な力で自分を助けた少女。
あの事件以来、不可思議な現象には慣れていると思っていた。だが、その認識は今日で撤回する必要がありそうだ。
この世界にはまだまだ私たちの知らない神秘が隠されている──どこかのテレビ番組で聞いたようなフレーズが、頭の中でリフレインしていた。
「……大丈夫? 怪我は無い?」
顔を上げると、少女がこちらに駆け寄ってくるところだった。
近くに来たことで、少女の姿がよりはっきりと見えるようになる。
黒に近い朱色のセーラー服と、胸の前でネクタイのように垂れている赤いスカーフ。スカート丈は短いが、下には黒いタイツを着用している。
髪は肩まで届く黒のセミロング。前髪の左側を三角形のヘアピンで留めている。
女性にしては高めの背丈と、きりっとした目鼻立ちに加え、金色の光を
積極性と消極性のアンバランス。それが少女に対する第一印象だった。
「見たところ血も出てないし、ギリギリ間に合ったはず、だと思うんだけど」
反応が無いので不安になったのだろう。こちらの様子をうかがうように尋ねてくる。
「いや、問題無い。助けてくれてありがとう」
少年は慌てて言葉を返し、それからすぐに渋い顔で、
「それと……すまなかった。俺が油断したせいで、君の手を汚させるような結果になってしまった」
動きを止めた怪人に視線を落とす。
やるかやられるかの状況だったとはいえ、殺しは殺し。心情的にも軽いものではない。
少年は自分の軽率な行動を悔い、再度少女に顔を向けて、
「……ん? 何やら、ずいぶんと冷静に受け止めているようだが」
「慣れてるから。どうせ彼らに説得は通じないし、どれだけ痛めつけても絶対に諦めない。……それに、彼らが同じ人間だとは思えない」
「……どういうことだ?」
「これ。見て」
少女は問いに答えず、怪人の死体を指差した。
異変はすぐに表れた。
炭酸が弾けるような音。それは死体の表面から、そして内部からも聞こえてくる。
「体が、溶けていく……」
「溶けるというより、崩れるって感じかな。いつもこうして消えてなくなる。跡形もなく」
「何がどうなってる……」
「私にも分からない」
二人の目の前で、一人の人間が消えていく。少女の口を借りれば、人間ですら無い何者かが。
後には薄い染みと、体を覆っていた白布。そして手斧だけが残された。
少女は黙とうを捧げると、白布を綺麗にたたみ、山の斜面を数メートルほど登っていった。
地面に小さなくぼみを作り、白布を丁重に運び入れる。表情は真剣そのものだった。
「『人間だとは思えない』などと言っておきながら……優しいな」
見れば、あたりには同じような白布の抜け殻があと二つ。少女が使っていた手斧は、どうやら彼らの得物だったようだ。
少年は少し考えた後、この奇妙な埋葬を手伝うことにした。
手斧をまとめて持っていくと、少女は口元をかすかに緩めて笑った。
そうして全ての作業を終えた二人は、古井戸の前に戻ってきた。
「色々と順番が前後したけど、まずは、えっと、助けに来てくれてありがとう」
「こちらも助けてもらった分でイーブンだ。むしろ貴重な体験ができて幸運だった」
「危うく死にそうになったのに?」
「真実の探求にリスクはつきものだ」
「その台詞、何だか
「その
その時、風に乗って鐘のような電子音が聞こえてきた。
一定のテンポで響く鐘の音は、学生にはお馴染みの間延びした旋律を刻む。学校のチャイムだ。
「チャイムが聞こえる……ということは、つまり」
南向きの強風が顔を打つ。少年は反射的に顔を覆った。
次に目を開けた時、既に霧は晴れていた。
見上げた先には薄雲もまばらな九月の高い空。
今度はふもとの公道に目を向ける。少女と同じタイプの制服を着た学生たちが、向かい側の大きな門に吸い込まれていくのが見えた。
門の横には「私立
学生たちは道いっぱいに広がって、のんきにおしゃべりを続けている。
ほんの十数メートル先で血なまぐさい戦いが行われていたことなど、誰一人として気付いてはいなかった。
「霧、消えたね」
「ああ……。本音を言うと、何が何やらだ」
「私も。だから、まずは簡単なところから始めよう?」
「ほう。たとえば?」
「自己紹介、とか」
そう言われて、少年は顔をしかめた。今の今まで忘れていたのだ。
「私は
少年のブレザーをまじまじと見つめ、望美が問う。
彼の答えは、真逆のものだった。
「四組か。それならクラスメートということになるな」
「えっ? でも、その制服って……」
困惑する望美に、少年は意味ありげな笑みを見せた。
ポケットから取り出したのは小さなバッジ。三つの山を重ねたようなデザインは、
指先で一揉みしてから、ブレザーの襟に留めた。
そして宣言する。
「
少年の戦いは、ここから始まる。
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