実を虚ろに、虚を実にする——
◇
「いやいやいやいや、やっ、違うでしょー⁉︎ 引き込まれそうになったけど、そういう話じゃなかったわ————テストプレイで遊ばせてくれるっ、て言ったわよね? めちゃめちゃにしてやろうと思ったわ。何かあんたが、仮想世界であんたになってッ、この世の悪の限りを尽くせるVRゲームをつくったって言ってきたから。そんなの、世界一好き放題できそうじゃない」
VRのビーチで、チュートリアルを中断すると、恋花は目を閉じてこれまでのことをさっと思い返した。
「でも……なんであんたがッ、そのゲームの中に出てッッ⁉︎」
言いかけた恋花だったがその瞬間、大きな音がしていきなり景色が切り替わった。
聞いたのではなく音圧が震わした空気、全身に衝撃を感じて後退ると体が、スタンバイされていたゲーミング・チェアに受け止められて、そのまま収まる。
周囲をチェアごと振り返ると——天井があった。現実でも砂浜にいたはずなのに。
「それ嘘なんだよね。上手くいくか、けっこう心配だったんだけど」
「——〈VRイオン・シミュレーター〉じゃないの⁉︎」
下界に砂浜を見下ろす窓と開放的な空を背後に、VRと同じ最新の水着姿。鎖骨から胸回りを見せるコルセット&ワンピース、深く切れ込んだ胸の(※胸があれば)影になる下乳のところとストリングのコルセットで留め、大きく開いた背中側、お尻を三分の二程ハートシェイプで肌見せしている。前方にはドアのない通路がすぐそこで直角に曲がってエレベーターホールになり、タワービルの超高層階にいるのがわかった。最新の立体ヴィジョンが三分割された画面を傍に映している。
一つは『今までいたビーチと周辺の俯瞰』、もう一つは『厳密な現実の同じビーチ』が。そして三つ目の画面には、『二つのビーチの微妙な差異を辿っていくと、この場所に辿りつく』プロセスが映っていた。
「ね☆」
今の音は——? ……。
……七万人が死にかけた。意識を失調するだけだったからよかったが、昏睡のレベルがもう少し高ければ命にかかわった事件、〈ゼノリアリティ・アウト〉。
あの時。UWEで自己喪失、昏倒に陥った七万人の被害者は全員が一命をとりとめ、現在では後遺症もなく皆社会復帰している。
本当の問題はしかし、あの時何が起こったかだ。
「拡張現実——?」
現実の身体感覚に上乗せされた——〈仮想の五感〉、夕暮れの砂浜にオーバーレイヤードし、今体験していた真昼の世界は厳密な現実と連動していた。
砂浜の中で目標を追いかける間に、この場所に来ていたということは夕暮れと真昼の両方が、すり替わったことになる。途中から仮想現実に。
「ダイブ端末で現実の世界を書き換えるテストってこと⁉︎ でも——それじゃ⁉︎ まさか、あの日起きたことが、本当は全部なかったってこ……お?」
突然、再びの轟音がした。
現実を模した仮想現実から引き摺り戻した時の、風圧を伴った音。
何——と、吐きかけた言葉ごと息を飲み込む。飛び上がりそうになったゲーミング・チェアごとノックバックしながら音のした窓の方を見ると、向こう側から叩きつけられた硝子が反作用で撓み、室の空気を打つ所が見えた。
「最初は、ボクもそう思ったんだよね☆」
「⁉︎」
「全部なかったってことはないけどあの時、あの場にいた人全員……本当に意識をなくしてたんじゃなくて、ダイブ端末の信号をブーストされて、現実を正しく認識できなかったんじゃないかって」
何だ——ありえない程グロテスクな怪物が外から、窓硝子に張りついていた。人間、成人よりもやや小さい程の大きさ。
刃のような触肢の切先を窓に食い込ませ、滑らかな白い体皮がてらてらと光るキロネックス。宇宙生物のような質感と、風圧で肌が怖気立つが、空気を打った硝子を一瞬で今度は室内側から白光する電網が貫通! 全身を貫かれていった怪物は白血を噴きながら空中へ剥がれ落ちた。
すぐに、台座から飛び立って電撃を放ったドローンが元通りの位置に駐機する。
「でも——落ちついてほしいんだけど」
人間が感じるリアリティとは、事実ではなく感想だ。
どこからどこまでが現実か。
その線引きをしようとしても、現実だと思っていることが実は現実ではないかもしれない……一方、真実を推測することはできた。現実が現実でないかもしれないとしても、この世界が仮想現実であることは論理的に否定できる。
わざとらしく動いたイオンの視線を追って見れば——骨格のみをワイヤーフレームで描画されたメビウスリング状の立体映像、〈裏側のブラックラウンド〉が無音で空中に浮かんでいた。
真夏のビーチが周囲に戻る。
「ああ〜ん、ホログラムね‼︎ ホログラム……これ、何ッ? 今までの全部そうね。そういうことにしとくわ」
真実は? ほとんど一瞬にして意識を失った七万人の共通点は会場にいたこと。UWEというイベントの性質上、皆が仮想端末を持っていたこと。
なら——。
『あの瞬間、七万人が同時に仮想世界へダイブさせられたのではないか?』
『その仮想世界とは現実の何倍も速く時間が進む、加速した世界なのではないか?』
『加速した世界からは自らの意志では脱出できなかったのではないか?』
——ここまではいい。
だが。
「落ちついて聞いてほしいんだけど。あれ以来、ザコ敵が出るようになっちゃって——現実に」
……。
「……」
◇
二ヶ月経った。裏VR世界には、あれ以来行く手段がない。考えられない失敗をしてしまったという思いと、それを疑う気持ちが同じくらいだった。
——〈ブラックラウンド〉のデータを消去してしまった。あの世界が、裏側のブラックラウンドだとしたら既に丸ごと消滅したに違いない。
けれど、ああなる事は本当に、誰にも予測できなかったのか?
「だから、コアーズがいる☆」
時間が停まったかのような静寂。
「は?」
「——〈コアーズ10041〉。仮想ネットワークの上の各領域は、対応するコアーズで管理されてて」
つまり、『あの世界は、本当は消滅してなどいないのではないか?』、だ。
「そもそも仮想世界って、仮想ネットワークの一区画だから、最初から場所自体はあるんだよ。空白の状態から変更してくんだけど、コアーズには履歴が残ってるし、今、その領域に何があるかわかる」
「敵が出るって⁉︎」
「大丈夫、平気だから。全部倒すから心配しないで。でも見たよね……っ。あんな感じのが何体も出てきて、ボクの持ってるキューブを狙って襲ってくるけど、キューブはボクにしか見えなくて」
「キューブってなにッ⁉︎」
「だから、それを調べるためにー……♡」
——〈コアーズ10041〉。ブラックラウンドは後付けの名前であり、コアーズのナンバーこそが、他のあらゆる仮想現実と地続きになったあの世界の呼称。
七万人の脳が限界になる程の高負荷。数時間分の出来事をたった一秒間に体感できる仮想世界。
この事件の始点。
現代では、仮想世界を消去することができない。痕跡を消すために足場すらない世界にしたとしても、変更履歴も過去の形も残る。管理アプリケーションである——〈コアーズ〉、いわば世界の鍵に。
「——何でッ、あたしも行く流れなのよ⁉︎」
「任せて。お金、だよね?」
「金全然関係ないわよ⁉︎‼︎⁉︎‼︎」
「お金が必要なんだよね……わかるよ。世の中、お金だから。あのボク、貢ぐタイプだから……お金じゃないって言われたら、すごいことし出しちゃうけど。だから——二人で協力してお金をどうにかしようっていうことだよね。なら、いい考えがあって」
イオンは神妙に俯いて、真剣そのものな顔をして言った。
「……。待って⁉︎ 良い予感が全然しない! 協力じゃなくて共犯でしょー‼︎ あ、あたしわかるんだから!」
◇
「——わかる、って言ってたよね? 恋花ちゃん」
少し小さかったハートシェイプのワンピース水着の肩紐を下ろして。上からラップタオルを羽織って——。
ビーチの終わりの角から始まる繁華街、ATMコーナーに向かうと、交差点にある街頭テレビで夕方のニュースが映っていた。
その時点で、何かがおかしな感じがした。
「本当にわかるかな。ちょうど試してることがあって」
何とも言えない無感情で読み上げられているのは最近連続しているというATM強盗未遂のニュースで、アナウンサーが目を伏せてタブレットをタッチするや、有名動画配信者が原因不明の意識障害を突然起こしたという速報に切り替わったが。
「はッ——? は?? はい?」
テレビへ目を逸らすのをやめると、いよいよ異様な光景があった。
銀行の端末機械が殺風景に並んでいるだけのコーナーは、硝子越しに道路から中がよく見える。
耳を舐めるような声が囁き笑いし、時間の止まったような現実を指差すまで、しかし、その景色に焦点が合わなかった。半開きになった一台の機械——。
金を入れる札口に工具が挿入され、火花を吹く機械下部の前蓋にひしゃげた、棒でこじあけようとした跡があった。その台は当然、使用不可能だが残りの四台を何事もなかったかのように周囲の人間が使用していたことだった。真に異様なのは。
機械の一台が壊されて、目前で強盗されているのに誰も気にしない様子で、使用停止の札でも置いてあるだけな感じで無視している。違和感が外科的に切除され、普段通りの光景だけが見えているように。
誰一人として驚愕するどころか見ようともしない。
「見て? 〈ブースター〉っていうんだけど——」
ツンっと先っぽが直に触れる感覚、肩紐を落とした半裸の水着姿で肌を密着させて言うと、胸の……ふくらみとは言えずプニッとするだけの微かな肋骨の感触をわざとらしく押しつけながら、イオンは不敵に微笑してウインクした。
足をより長く、シルエットをよく見せてくれるクリスヴァンアッシュのサンダルは足首に片方白いリボンをあしらい、肩掛けしたポップなブラックレザーの鞄は、フェンディでカスタマイズした一点ものだ。
「フェンディ……ッ」
「——相手が誰でもむりやり仮想世界にログインさせられる端末を研究してて。新品を最適化するには一時間いるけど、端末の脆弱性をついてみんなが持ってるのをジャックすれば、ゲームが起動できるようになるから。後は出られなくするために信号を外部からブーストして」
「! さっき、あたしがしてたのもそういうッ」
いや、何を言ってるんだ——?
今何をしかけてるんだ。
「って、待って待って待って待ってッ!」
「見て。VRならいいんだけど、現実では腕の力が足りなくて……でも銀行の機械をVRでこじあけるのは無理だし。でも、これ二人で一気にいけば」
「無理ッ無理ッ、無理無理‼︎ 犯罪よ⁉︎ ゲームじゃないのッ」
「思いついたことが本当に実現できるか——とか。自分が今のままでいいのか——っ、とか。ボクも、そんな感じで悩むことあるよ。でも悩むたび自分に言い聞かせてるんだ。絶対にできるよ? って」
体を離すと、粒子の細かい肌を滴る汗が空気を濡らして靄と光り、イオンは両手を背中に回した。いじらしく身体を左右に振ると、抱いて、擦れてすっかり露出した胸の先端が揺れて一雫——地面に水滴が落ちる。揺らしても水着の紐しか揺れない、悲しいくらい無乳だった。
盛ってない。それでわかった。現実だと。
は⁉︎
「どんなときでも自分ならできる。どんなことだってきっとできる——って思えたら、もう十分頑張った証拠。実現できるよ? やろう。
何もしなければ真面目に見えるし褒められるけど、大切なのはどう思われるかじゃない。いい格好しようとするんじゃなくて……やりたいことをできるようになるために今、頑張ろう?」
陽キャが友人をなぐさめるように、今度はふわっと抱きついていきエモいハグをきめた。
回避不能な間合い調整、地面にヒールが擦った跡が残り、すぐに消える火花を散らしながら、イオンは耳元にキュートな息をかけながら告げた。
超えてはいけないラインなど最初から周回遅れだ、と。
「忘れてるかもしれないけど——ボクは、VRアイドルだよ? 現実にいるわけじゃないから何したってへーきへーき……♡」
名凪イオンは実在しない——。
ゴッ、と蝶番のヒンジが弾け飛んだ。重い蓋が徐々に動いていき、二人がかりでやっと開けたスリットから分厚い紙幣の束が見える。
せーのッ‼︎
息を合わせ、梃子の原理で体重一気にかけてスリットをじわじわと大きく……。
白昼堂々行われる犯行も、誰もその様子に気がつかない。ダイブ端末を常日頃から持つようになった現代の——周囲の人々は今、現実そっくりな仮想世界に強制ダイブしていて、それを真実だと思い込んでいる。
真実はどうあれ、現実はこうなっているのだ。
「でも、これって……! ふぅ、あとちょっと」
「なに……? このヒンジを弾け飛ばさないと」
「ここまで来ると、あんた現実にいない方がいいんじゃ……」
「! ——」
ドザッ、と背後で音がした。
振り返ると警備員が呆然とこちらを見つめている。さらに——デカい犬を連れた老婆がよろよろとコーナーに入ってきた。警備員も、全員の目がそっちを見た。三者三様な現実逃避の視線が降り注ぐ中、老婆はスマートフォンを出して画面を何度も確認すると、ATMを操作しだした。
ガコッ、とこちらの機械では開きっ放しな札入れ口が開く。
飼い主を必死で静止しているのか、毛並みのいいブラッドハウンド犬が懇願するように吠えまくっていた。
「……イオンさーん? あのおじさんは効いてないみたいだけどぉ、これ端末を持ってないってことッ」
「待ってね……? うん。それはそうだけど」
ガバガバの口にとんでもない量の紙幣がキャストされた。
口が閉じる。ごちそうさまでしたと言わんばかりに。
「——イオンッ!」
犬はそそくさと一匹でコーナーを出ていき、『あ、もう僕にできることないんで』と、お座りした。警報が鳴り出すと表で乗用車が止まった。自動的に警備会社へ通報が行ったようだ。ブースターモードだったドローン——〈ブラックラースインクリーター〉が撮影モードに移行し、カメラアイが起動。
「おじさん、いい⁉︎ そっちの台も別のババアがやったの‼︎ やば、もう来た……」
「配信用の声つくるから待って! ——ババアを詐欺から救ったよ‼︎ お金返しといたから犯人は捕まえといて」
「知らない。——」
「……ってボクじゃないよ⁉︎」
「——あたしわかんないです。知らないです。友達で? え、イオンちゃん悪いことしたんですか」
翌日。一旦分かれて夜に合流すると、冷房の効いた駅構内に現れた今日の私服はオフ日のチアガールさん。
臍よりやや上程の着丈で、肩と腋回りの肌を露わにしたチョーカースリップ。純白プリーツのミニスカにサンバイザーをつけて。髪の後ろ半分をポニテに結び、クロムハーツの眼鏡を着けたイオンが恋花を見た。
今日も黒ツインテの恋花はノースリーブでボタニカル柄な白ワンピース、胸から上がダーク系なシースルーの布地に切り替わる凝ったデザインで、小さいけれどちゃんと膨らんだ胸の形が、すれすれまで透けている。
地下鉄に乗り、ドアの前に並んでいるときにイオンは聞かれた。
「……昨日あったことって、どこまでが現実だったわけッ?」
「——」
その時、ちょうど開いたドアから見知らぬ雑多な駅のホームへ、透明なキューブが転がる。一度バウンドした方形は意志なくそこに置き去りとなった。
「二ヶ月くらい、ボクもずっと考えてるんだよね——それ」
「何の話よッ」
ガシュンーッ、とギロチンのような音で地下鉄のドアが閉じる。するとイオンが手を開き、その中に——〈イマジナリキューブ〉は戻ってきた。
キューブはイオンにしか見えない。
【続く】
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