ゼノリアリティ


『——〈イオン・クラウド〉の影響力は、日に日に漸減している。そもそも、クラウドのコアは最初から君ではないからね。君はクラウドが表立った活動をするための広告塔になり、代わりにクラウドのもたらす利益をしたたかに享受していた。意図的にそうしたかはともかく事実は。なので、僕らが君のためにこういったことをするはずがない。五〇:五〇の関係だからね』


 ——周囲は、台風のような豪雨に見舞われていた。

 地上との距離がやけに近い気がする雲に覆われた空は、懸命に呼吸する肺に息継ぎさせてくれず、雨合羽を着た肌へ散弾のようにぶつかってくる雨滴に視界を揺さぶられながら滑り込むと、エントランスで吸い込む空気は真夏とは思えないほど冷え込んでいる。

 勝利した神々の凱旋門を思わせる生き生きとした彫刻は現代に翻訳されたドリス式で、二階の高さにある入口には裸体のギリシャの神々が整列してレリーフされていた。

 吹き抜けのためイミテーションになった一階中央には噴水があって水が張り、薄明かりの水面が鏡のように天井のモザイク画と、壁に沿った建物の内側を映している——底は硝子で、噴水の映し絵に透けて見下ろす地下一階の床面はラビュリントスのような暗い静けさに打ち沈んでいた。


 中に入って雨合羽を脱ぎ捨てると、陽に燦々と照らされて肌も散る汗も健康的なチアガール風の(今この場では浮きに浮きまくった)白いチョーカー・スリップとミニスカートを絞首死体のグラフィティが覆い隠す。

 自分周囲へ展開したホログラムによってイオリアフレインの格好になると、流石にあの雨中では使えないドローンをテイクオフ——。


 もし現実をゲームにすることができたら、それはどんな方法でしているんだ?


 方法がわかれば誰にでも同じことができるはずだが。誰にも言えない、ある秘密の感情がイオンの胸中で高鳴り出していた。こんな体験は全くの初めてだった。



「それッ……こっちはVRアイドルで、実在なんてしてなくて? そっちは何のための集団よ。こっちは虚無虚無ってわけ。なのに——そっちにはちゃんと実体あるでしょ」


 自動運転のバンは、夜空に溶け込むことをよしとしないかのようにライトアップされて佇む荘厳なビル——深夜に詰めかけたマスコミの狭間から見えるそのシルエットから段々遠ざかっていく。警察当局が懸命に敷こうとしている規制線に合わせて車列全体がバックしていた。

 その時だった。線の向こうへ急に誰か、群衆から一人が飛び込み、規制線の空気が凍りつく。絶対に起きてはいけないことが起こったかのように。


『単なる、つながりだよ。言うなれば遺伝子の集合体だ。よりよい存在になることを目指して進化を繰り返し、やがて最高の形になる——そして』

「——?」


 線を超えていった男は尻餅をつくと、亡霊を見たような叫びを上げた。だが、周囲の機動隊やマスコミの人間達は一瞬ビクッとしただけで、崩れ落ちた彼を助けようとしない。

 そうすると、どんなことが起こるか既にわかっているのだ。全員がまるで麻酔された麻痺状態で、手術医が来るのを遠巻きに恐れているようだった。自分なら大丈夫だろうと——思って線を超えていった彼がどうなるかは予めわかっていて、彼は操られたような顔で一人で線に帰ってくると、錯乱していて、顔を押さえる。

 その両手が震えていた。


『——人間は、ネットワークを創るために進化してきた。僕らはそう考えている。今、人の創造によって仮想世界が生まれた。現実が仮想現実になった。残るは最後の一歩だけだよ』

「最後の一歩……?」


 人が創った、人が神である仮想世界が仮想現実でなく現実になったら? つまりそういうことなのだろう。ゆるやかにそちらへ向かうつながり。

 ばん、と車のフロントガラスにさっきの男が張りつき大映しになると——自動運転仕様でミラーガラス、こっちは見えないのにも関わらず身が竦む。この車に一直線でいきなり走ってきたのだった。

 揺れる。男は肘から掌までを何度もフロントガラスへ打ちつけてきた……。


「み、水……」

「うわぁッ」



「いっ、いい——〈イオリアフレイン〉……‼」



 あー、と息が漏れた。バンの側面にグラフィティが塗装されているから。自動運転システムが警報を鳴らすと、いかにも不承不承な感じの機動隊に男は勢いよく引き剥がされていったが、彼が呟いた瞬間記者会見のようなフラッシュが焚かれた。

 仮想現実が現実になった——とはいえまだ厳密な唯一の現実ではない現代の象徴の一つ、首吊り死体のシルエットは依然として煌々と輝いている。生まれてきた自らの偉業を誇示するかのように。



「知ってたよ。何もしないでも、全部ボクのせいになるから——」


 クソがッ! と通話を切ったイオンは片手を振り、イマジナリーキューブが床に叩きつけられた。幾何学的な軌道でバウンドを繰り返し、それは何度でも手中に戻ってくる。

 跳ねる音が長く残響した。高層階のフロアは人気がない。二階のエントランスには人がいたが何事も起こっていないかのようだった。

 配信映像を見ると、晴れて澄みきった夜空にサーチライトとビルのライトアップされた遠景。

 

 だが、ビル内から見た窓の外は件の滝のようなでは足りないほどの豪風雨。つまり、現実では雨など降っていないのだ。ビルに一定距離以上近づくと——現実によく似た仮想現実にダイブさせられる。雨滴の感触は本物だった。

 最初見た空撮が、妙に危なく揺れていたのを思い出す。

 ビル側からは異常を一切知覚できないだけでなく、軽い催眠状態にあるみたいだった。この建物に今いる人間の全員が——エントランスで数人に話しかけても何の反応も返らなければ、歩きながらドローンを飛ばしているのにノーリアクション。

 多分ここだと思ったドアを蹴って踏み込んで吹き飛ばすと、その通路突き当たりの空間が最深部。


「!」


 そこにあった専用エレベーターに乗ると、夜景の中を身体がゆっくり上昇していき、ビルの最上階に着く。

 左右に扉が開けば——見慣れない肥満した男が地面に倒れているのだった。適温へ加湿された空気の含む細かな飛沫が歩く震動で弾け、四散する。仕切りのない広い展望空間で見上げると頭上、天井が三階分程高くなっていて、そこから壁へ一直線に穿たれた窓から半球のような地表が見えた。


「——ひィ⁉」


 イオンが思い切り振り被ってキューブを男の顔面に投げつけると、命中の寸前で確かな手応えと一緒にそれは手の中に帰ってきた。一瞬男が怯えから困惑した顔になる。何が起こったかわからない風だったが、萎縮した感じ。階の意匠はといえば、錦鯉の泳ぐ池園があった。

 キューブはこの男にも見えていない。

 大股に歩いて颯爽と彼に近づくと目前の床に踵を叩きつける。橙色のエフェクトが奔り、地片が方々へ散った。


「わぁー、いい眺めだねー! 地上があんなに遠くにあるよ——未知のVR技術でビルジャックして。ボクのグラフィティまで貼って。それ、完璧にやってるよね。今からでも入れる保険って知ってる……?

 用があるならDM送ればいいのにーとか、どの階のどの部屋にいるか教えてくれなかったのは何でッ、とか余計に苦労した恨みもあるけど。地下全部見たよ、それっぽかったから」


 発狂、息を飲んで逃げようとする彼の鼻先を何度も蹴り飛ばすフリをすると、衝撃波で壁が崩れ、遥か高くにある天井が揺れる。机に自分からぶつかっていって本物の血を鼻腔から吹いた肥満男は一度地面に滑り落ちてから、傍に転がっていた豪奢な倚子を支えにして震え立ち上がった。


「DMを解放しているのか……?」

「SNSのアカウントは全部凍結中だよ。それで何。ボクに用があってこんなことしたんだよね。間違いがないように言っとくけどボクが本物ね。

 隣のこっちのホログラムは、ボクのお誕生日記念グッズ——〈ボクとパパ活してくれますか……? 処女のつくったVRえっちシミュレーター♡〉の、ユーザーナンバー21431さん専用、VRイオンちゃん。

 幼馴染設定、ちょっとだけツンデレ、犬耳尻尾、腹パンをするのが大好きのカスタムがされてるよ。あなたのだから見慣れてるよね?」


 ブラックラースインクリーターのブーストを切ると、普通に机に座っていたイオンを見つめて二度震え彼は目を見開いた。それきり白い石像のように硬直する。池で錦鯉が跳ねた——。


「いや⁉ 違うッ、まさか……君が、君は実在しているのか! 噓だっ。ばかなぁぁ、そッそれなら何故どうしてっ」


 何故?

 今、そう言ったが、何が何故だ。真顔である。彼は真剣のようだ。こっちのセリフだと思って当惑するが、得体の知れない手応えを感じる。


「え」

「——話が違うッ、これでは何が起こってるんだ」


【続く】

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