夜に切絵描く斬傷の線

 ◇


 仮想現実の中に、現実の都市が広がっている。その信じられない光景を前に、イオンは暫し待機した。

 人類の創り上げた最大の都市の、壮大な夜景――煌びやかな、闇の狭間を行き交う光の洪水は、ノスタルジアな芸術と文化と可視化された光速データ通信を思わせる。それは遍く人類の帰り着く故郷。対消滅を繰り返し、少しずつ故郷は塵に帰っていく。

 壮大過ぎる。

 一つの仮想世界として、このスケールは異常だ。

 全米屈指の高層建築物が立ち並ぶ中心市街地は面積単位の制作の労力はもちろん、サーバーの設置や管理にもコストがかかるから、誰かが無目的に制作したと考えるのは全く現実的じゃない。

 しかも……ここは第百層。

 世界全体で見れば、この百倍の規模があるのだ。


「——このゲーム、一人用なんだ?」


 後が続いて来ないので言った。では、どうすれば実現できるんだ? 何のためなら、どうしたら、片側に労力を載せた天秤は均等になる。実際にこの世界は在るのだ。一瞬、外観だけでどこにも行かれず、何も起こらない世界なのではと想像した。

 瞬間——空の彼方から無数の弾丸のように飛来したエネミーの群体が橋上へ殺到。バックステップしたすぐ目前に群れが突き刺さると、衝撃で、ブルックリンブリッジの全体が波打った。


「!」


 ヒールの先が撓む道路を水切り石のように擦っていくと、途方もない総質量を感じさせる禍々しい渦のような——黒い群れが橋と垂直にすれ違い、旋回。

 屹立する橋梁を前に群れは真ん中で分かれ、真っ二つになった半分ずつの黒渦は橋の構造体下部を彼方まで行き過ぎると、個々の集合で成る表面を羽蟲の如く揺らめかせながら、数十メートルはある獣貌四肢のある巨体を形成。再び戻って来て橋上に降りた。口吻を開き、眼球の入っていない眼窟がイオンを見下ろすと、上下にではなく四方に開く蝿のような大口が滑らかにアニメーションする。


「貴様——貴様、貴様、人間ゥゥアアァァ、グォロロロロロロ……現れたか悪魔め。己の世界にいればいいものを」


  ——喋った?


「驚いた。小鳥ちゃん、ボクのこと履修済みなんだ。どの動画で知ったの? でも。待ってね」


 眼窟も口も、その巨体は集合。実態——塊を構築する個々は鴉のような形状をしているが、光り方からして……その全ての目がイオンを見ていた。


「待てだよ。止まって? 犬だって『待て』はできるのに……」


 上空へ——急飛翔し夜空に螺旋を描きながら、巨体は遠くのビル間を駆けた。揚力の原理を疑いたくなる風衝がブルックリンブリッジを軋ませ、肢の終わりが橋面を蹴ってからさらに高度を上げる。

 豪咆が轟いた。


「悪魔、悪魔悪魔悪魔め、ェォォォオオヴヴェ人間の皮ごと、食い尽くされたくないのならッ——‼︎」


 理論上、全ての仮想は繋がっている。現代の仮想現実は、ダイブ端末が脳内に構築する——〈仮想の五感〉で、情報を体感する技術。

 で、仮想規格の情報は全てが一つのネットワーク上にあり、仮想世界は各々が一区画。故にあらゆる仮想体験は、同じネットワークの中で行われているのだ。

 群体が上昇し、降ってくる様子を橋上から見つめ、イオンは自分の感じた既視感を反芻した。どうなっているんだ? 今の姿ではなかったが、あの時。


「——我らの世界から、消え失せろォォオオオッ!」


 指向性を持った入道雲とも見違える集合体が、遥か上空彼方で散開直下してくる。突出した個体群が形成する集合の先端、無数の触腕がビルとビルの間を縫ってジグザグに、上下にもブレながら徐々にこちらへ向かってくる様子は回頭する魚雷か潜水艦のようだ。

 見たことがある気がしたのだ、何か。先程が随分昔のことに感じられた。時間にしてそれと遭遇してから一時間もまだ経過していないというのに。

 今とあの時では姿どころか概念が違う。

 敵の個体ごとの形状は、今の鴉ではなく——。


「そうしろって言う前に、どうして欲しいか聞いてみた? 鳥頭ちゃん。小鳥は平和のシンボルだけど、ボクの配信は首吊り死体が推しマークだよ。いっそ蝿ならシナジーあってよかったのに」


 薄い胸前で拳と掌を撃ち合わせると、空の彼方から弾丸のように飛来してきた群れの一体をイオンは受け止める。

 合掌した拳掌を引き剥がすと、粉砕――小鳥の首を圧し潰し、続け様の〈電界一閃〉。次々と、なんていう表現では生温い量と勢いで突き刺さる群体の突進を、見えない速度で幾度も空間を転移しながら、瞬く間に半分切り伏せる。


 真ん中を抜かれ半減した群れは、橋上の左右を勢いのまま行き過ぎると、幾重もの渦を描きながら遠くのビル間で倍増、飛来しながら元々と同じ一塊になった。

 攻略難易度最高レベルのフィールドならでは——〈ハイブ・メンタリティ〉特性を持つ群体エネミーは、単純なHPと防御力ではなく、天井知らずの増殖力であらゆる攻撃に耐える。個体が一匹でも残っていればすぐに群体は再構築する。

 一つの意識を群れが共有するために会話や高度な判断を行う特性もある。だが、まさか。まさかだった。現実にまで出てくるなんて。

 あの時。エレベーター内を埋め尽くすようにして現れた、『Go BACK Your Own World』——壁の中で互いに潰し合いながら、液状化して床に滲出する文字群。


「——」


 ——感覚的にわかった。今再び夜空を覆い尽くすかの如く増殖した鴉の大群はエレベーターと鏡台で今日二度襲って来た、あの文字群と同じ存在だと。

 仮想現実では時間の軸と性質が違う。

 方法はないが理論上、仮想での未来視はあり得る。イオンがこの世界に来るのを知って、そうさせないようにしていた……というより懇願していたのか。

 何だったか、確か有名な一際高いビルの背に沿って、黒渦が空へ。左右に分かれた双方の規模を元のスケールまで倍化させ、遺伝子配列を思わせる爆速の螺旋軌道で駆け上がっていく。道路が蒸発する匂いを発すとイオンの踵が地面を離れ、軽く浮遊しながら両手は閃光の方形を持った。


「グォオオオオオオ……ォォォオォ——」


 だが渦の駆け上がるビルの屋上に、何者かのシルエットがちらつく。空を覆わん群れの全個体は刹那、一匹残らず音もなく空中で静止。

 ヒットストップした——反動で空気が震撼し鴉共が力なく目を曇らす。

 モードチェンジを解除したイオンが再び橋上に着地すると、自分で生じた熱の伝播で、HPを示すライフサークルが急振動、デッドラインに少し近づいた。


「——。あなたも、ボクの有識者かな? 鳥ちゃんよりは女の子の方が、動画見てくれてると思うんだけど」


 群れなす鴉を夜空につなぎとめるかのように、その一体一体の間に極細い軌跡が奔る。

 群渦を構成する全個体を斬り裂いたのは中心の一箇所、一点から——生きていた全ての命の間を縫って、摩天楼に張り巡らされた銀色の糸。

 墜落していく渦の中心、鴉の羽が舞い散る只中に、群青色の和服を着たアバターがいた。さらさらの前髪で半分ほど隠れたその顔は、不敵な笑みを浮かべた年齢一桁程の童女で、捲れた袖から見える肌は壮絶に白く、細長くたおやかな花を想わせる首筋。

 コバルトの和傘を肩に乗せ、舞う鴉羽をクルクルと弄んでいた。


 ⁉︎ 何だ。一瞬、フィールド全体が揺れた……?


 違う——揺れたんじゃなかった。そのアバターの持つ、装備アイテムとしては規格外な、摩天楼のビルとビルの間に巡らされた銀色の糸剣。夜景の光芒に溶け込む銀糸が一斉に刃の輝きで光った!


「! ——ああ、そういう?」


 傘を空に放り捨てた少女が長い前髪を払い、遥かブルックリンブリッジにいるイオンをタワーの屋上から一瞥。その視線は射線にして死線。

 瞳孔で光が脈打つと真一文字のエフェクトで眼光が光り、アバターの両目から突風を帯びた真空波が直撃。身体が火花を散らしながら弧状の痕を地面に均一な一閃で描く。青白い燐光を被弾し押されるや、摩天楼に張られていた糸が目の前で次々に交差して弾け、凄まじい斬撃の圧がイオンを橋上から吹き飛ばした。

 見ただけで攻撃が発動する視線。

 万魔の鴉を皆殺した銀色の糸のトリガー。前兆がなく、誰も避けられない。完全なノーモーション技。


「あなたのことなんて知らない。ボクの名前は——〈霧穢早苗〉。もう一度やろう? ボクが鬼だよ。次も、その次もボクが鬼……永遠に終わらない鬼ごっこ。何度も何度でもやろう。

 生きている限り見つけてあげる。ボクの、魔眼で斬り裂いてあげる——」


 橋上から戦光を乱反射する海面へ、真っ逆さまに落下しながら——〈ヨイノユキハナver666〉を召喚、刀身を自身の制御翼に、フラググレネードを発射し反動、空中姿勢を制御する。

 だが、その間も見られる。否応なく二度目の防戦に応じる間際、くっと首に食い込む感覚。

 空中を落下する身体がぐんと加速。全身がコンクリートのような海面に激突、VRなので窒息感や冷たさ、痛みなどはないが、凄まじい勢いでライフサークルが削られていく。着水の衝撃で立った水柱越しに、すぐ傍の海面が見られてクレーター状に海水を四散、黒い飛沫を噴き上げて、無数の斬傷を束ねた視閃が水面を跳ねさす。

 視線が射線——遮蔽であった海が割れ、線が再び通った瞬間。イオンのアバターを絞首しながら何重にも交差していた糸が、一斉銀光の斬撃になる。


『こんにちは。ここがこの世界の最終層で第百層って聞いてるんだけど、本当? 確認したくて』

「!」


 ポンッ、とウインドウがポップアップする。拘束された海中から——近くのプレイヤーを検索し、イオンはショートメッセージを送ったのだった。

 反応はない。


『視線の能力だから、目を逸らせないんだ? この層で終わりなのに、この層にはプレイヤーがいる。ね——』


 ——弱い。身動きは取れないままだが、そこで起こったのは何もかも、最初から起こるとわかっていたことだけ。

 カッ、と光撃が迸った。

 落下中に空中で最初に発射したフラグ——鏡面体の表面が剥がれて拡散し、無数の針弾が視線を遮る。


「⁉」


 初撃で、既にわかっていた。それは二段階の能力。敵の武装は、対象を斬り裂き拘束も可能な銀糸だが——その発動と制御には視線。対象を見続けることが必要となる。

 もう、見えっこない。

 拘束から連続の斬撃を立て続けに命中し、ライフサークルはほとんど消し飛ばされていったが、黒の針弾は視線に吸い込まれて遮蔽、目を眩ませた五分状況。次の視線に先手を取って、回避できない択を仕掛ける。この能力なら敵は必ず、相手を見ようとするのだから。



 ——タワービルまでやや距離があった。急ぐ必要はない。ゆっくりと歩いていき、ビルのエントランスから入って、エレベーターに乗った。



 敵は見失っている。

 屋上。上がると至近で、二発目のフラグをキャストする。


「どうして百層をクリアしないの?」

「いない——⁉」


 射出に反応——時間差で起爆する攻撃の方を相手が見る前程で逆側から懐に飛び込み、刀技スキル、〈電界一閃〉。

 敵アバターのクリティカルゾーンを往復して薙ぎ、ごっそりとサークルを削り取る。

 相手が振り向く。


「鬼さんこちら。最終層まで来られる強いプレイヤーをPKするために待ってる——って感じじゃないよね。弱すぎるから。アヴェンジャーズタワーを探してるなら、あっちだよ」


 振り向く……ために身を攀じる時。

 先の一撃は敵が見たのとほぼ同時の一手。

 それで倒しきれなくても、次も同時に動き出せる。


「自分が相手を見るために、見られる場所にずっといたんじゃ——〈執行する。それと、『ボク』は、ボクのだよ⁉︎‼︎」


 久方ぶりに使う武装だった。召喚——このアバターが所有する中で最も巨大で最も重装なそれの外見は、無垢白色の石像でしかない。

 白き滑石に彫った等身大の女神像。

 視線を阻む盾にしながら体当たり、囮のフラグの爆発中へ敵を圧し込んでいき、そのまま一気にビル屋上を躍り出ながら勢い地上へ、像で殴って叩きつける。

 共に垂直落下しながら、打撃した後隙に敵が見ようとするが、許さず一旦バレルロール——〈ヨイノユキハナver666〉を再召喚し空気を受けて回転すると、見られて、撃たれた真空波を避ける。

 鴉の羽を風に撒き、ビル壁を蹴圧で発破し空中、真横から敵に再度迫りつつ、近づいて来る地面から自分諸共逃がさない。白の女神の石彫像は最初に放った一撃によってモード・スイッチ——まず中心から真っ二つに、次にそこからX字型に開く。

 像の体内へと施された仕掛けは、幾重にも連なる回転式の電磁刃。



「臓物よ唸れ。――――クラマー・キューブ〉!」



 ——自然落下の数倍の速度で叩きつけた地面はイオンが元いたブルックリン・ブリッジの舗装路、反作用で身体がバウンドすることさえ許さず敵アバターを押さえつけ、火花を上げて道を擦りながら、女神像の回転刃を当て続ける。

 何千もの祈りの祝祷が反逆した負の祝福は、この刃で傷つけられた相手の再生を許さない……という触れ込みだ。

 だが像の下から突如として漆黒の、微細な粒子を飛膜にしたような翼が鋭く四方に展開された!


「話が違うッ……許サナイ‼」

「! ――」


 真一文字のエフェクトで像が罅割れ、圧し退けられる。

 異能とギミックの鍔迫り合い。

 しかしイオンは別に、その戦いには負けてよかった。


「〈集束しろ。穿て。一条の光となって吠えろ——イラストリアカノン〉」


 クラマー・キューブを翼の力が砕け散らすも、それで視界に入るのは、目も眩む蒼色の剣光。

 ブラックラウンド・コロシアムでは、倒した敵の装備、所持品、スキルは全て勝者が回収できる。今日得たネザーフィアの華美な細剣をイオンは既に抜剣していた。


「⁉ うあ——ッ、ッッ」


 パワーウェイブが縦横無尽に疾走、蒼い無差別破壊フィールド——ライフサークルは既に尽きかけていた。

 もう一度見られたら終わりだが、視線は光を超えられない。一秒間に一%ずつ命を削るこのフィールドが敵を削り殺すまで、二度と見られることはないのだ。

 これがランク一位。


「——」


 多層構造の円卓、ブラックラウンドのプレデターテーブル。

 うん? しかし、唐突に手応えがなくなった。粒子の剥がれるチリチリという音が不意に止み、黒い翼の残滓が立ち消える。消えた——と同時に、敵が消滅させた鴉の群体が一斉に光となる。

 するとその光で、それまで見えていなかったモノに気がついてイオンは止まった。あれは何だ? 現実のニューヨークには決して存在しないはず。


 ◇


「あいつあんなに強いの⁉︎ あああ、相手消えた……けど——? 何っ⁉」


 ——第九九層。

 荒廃した硝子の降り積もる砂漠。自分を守る水球の中で、シェアリングした視界を見ていた恋花は突然の出来事に息を飲んだ。

 傍で見ていた宇宙柄のローブがはためき、急に思いがけない動きをした。

 ゆるやかに振られた手の中から、四角形の回転体が投げ出される。ある程度飛ぶとそれは中心から十字に亀裂し展開——やや高い所まで飛翔し一点で停止すると、狭範囲のフィールドを形成する。


「⁉」


 瞬間——そこに現れた存在があった。



【続く】

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