愛のキューピットに無理だと言われました

渋柿塔

無理ですね

「無理ですね」

 即答だった。

「で、ですよね~」

 ソラノは、学年トップクラスの美少女──カナイさんとお付き合いしたいと申し出たのだが、愛のキューピットにあっさりと断られてしまっていた。

 愛のキューピットは白い布一枚で大事な部分を隠し、背中に翼を生やした女性で、ソラノの申し出に対してお前では無理だろと言わんばかりの表情を当の本人に向けていた。


「どうしても無理ですか?」

「無理ですね。お付き合いまでは」

「までは……ってことはそこまでの過程なら大丈夫なんですか?」

「ま、まぁ」

 訪ねる家を間違えたかなと愛のキューピットは後悔する。

「じゃあお願いします」

「え~」

「お願いします!」

 ソラノはその場で土下座をした。

 額を床に擦りつけるその姿を見ては愛のキューピットは、

「はぁ~、仕方ないですね。ほんの少しだけ接点を作ってあげましょう」

 と、嘘をついた。

「本当ですか! ありがとうございます!」

 そんなことを知らないソラノは一度頭を上げたかと思うと再び床に擦りつけるのだった。


 黒髪ロングヘアのカナイは優しそうな目つきをして校門前で挨拶運動に参加していた。

「おはようございます!」

 その姿はとても絵になる。

 カナイが一人いるだけで挨拶の返答率は百パーセントだ。

「おはようございます!」

「あ、お、おはようございます……」

 徐々に声が小さくなるソラノは頬を赤く染め、早足に二年三組の教室へと向かうのだった。


 カナイもまたソラノと同じ教室で、挨拶運動を終わらせて自席に座っていた。

(接点って何だろう。何をしてくれるんだろう)

 昨日の愛のキューピットを信じる哀れなソラノ。


 当たり前に何も起こらないで時間が過ぎ、今は四時限目の現代文、ソラノはホワイトボードの板書を適当に書き写していた。


 それからしばらくして昼休憩に入った。

 一番後ろの窓側の席に座るソラノは、一番前の真ん中に座るカナイの様子をコンビニのサンドイッチ片手に眺めている。


「カナイ、ごめん! 物理のノート取ってなかったから見せてくれない?」

「うん! いいよ」


「カナイ~、ここがわかんないよ~、教えて~」

「どれどれ」


「カナイ、この英文おかしくないかな?」

「え~とね」


「ねぇカナイ、うちらのクラスつぎ世界史の小テストあるんだよね。だからノート貸してくれない?」

「いいよいいよ」

 などなど。

 カナイの周囲には困った生徒たちが助けを求めに集まっていた。

 これはいつもの光景で、カナイは生徒たちの困りごとに嫌な顔を一つせず対応しているため、別のクラスからも頼りにされている存在なのだ。

 ソラノはそれに対して少し思うところがあった。

 それは、カナイを頼る人間の誰もが頼る行為に走るまでの過程で努力をしないことだ。

 何か困ればすぐカナイを頼ろうとする心の持ち方がソラノは嫌だった。

 この前の休憩時間なんて教室から出ようと席を立ったカナイの周囲に困りごとを抱えた生徒たちが集まったせいで、結果、休憩時間が終わってしまうなんてことも実際にあったのだ。

 それを見ていたソラノは、カナイに対し頼られることが嫌ではないのだろうかと疑問符を頭上に浮かべたことがある。

 でも、カナイは常に笑顔を絶やさない。

 そんな彼女にソラノは、勝手に心配を抱いていた。


 そう言えば、と、愛のキューピットからの援護射撃的なものがないことに気がつく。

 どうなっているのか。

 愛のキューピットも忙しいのだろう。などと思案しながら残り一つのサンドイッチを口に咥えた。


 昼休憩も終わり間近、けれど、カナイの周囲に人が減ることはない。

 そして、チャイムが鳴り響いた。

 ようやく解放されたカナイが弁当を片付ける姿をソラノは見ていた。


 午後の授業を何とか切り抜け、終わりのホームルームのあと眠たい目を擦りながらほうきを持って階段を掃除していた。

 今日は金曜日。週に一回の清掃日である。ソラノのクラスがその掃除当番だった。


 担当する階段を掃くソラノ。

 一方でカナイは教室の掃除をしながら生徒たちの困りごとにも対応していた。


 掃除が終わったら各自帰ってもいいと担任に言われていたこともあり、ソラノが掃除している階段を下りる、同級生の姿がちらほらと目に入る。

 恐らく教室組だろう。

「こっちは一人みたいなもんだからな」

 そんな愚痴を零しながらも何とか担当箇所の掃除を終え、教室に戻る。

 その途中、窓の外からは淡いオレンジ色の陽射しが差し込んでいた。

「あいつらせっかく集めたごみを踏み散らかしやがって」

 故意にしているわけではないことを知っているソラノだが、せっかく集めたごみを散らかされてしまえば、それでも腹が立つのは仕方ない。その時は面倒臭い気持ちと苛立ちが混ざった複雑な感情が渦巻いていたものだ。

 でも、もう終わったことだ。気にしていても何もないことくらいはソラノだってわかっている。そこまで馬鹿ではない。


 教室の扉を開ける。

 電気は消されていて教室全体が薄暗かった。

 ソラノは自席に向かおうと教室に足を踏み入れる。

 すると、机に突っ伏して眠っているカナイの姿が真っ先に目に飛び込んできた。

 その瞬間、愛のキューピットが作り出してくれたんだと思った。

 忍び足でそっと近づき、様子を伺う。

 むにゃむにゃと咀嚼したり、ぼそぼそと呟いたりしてカナイはぐっすりと眠っていた。ただ、少しだけ頬が赤いように見えたが、ソラノは気にしていない。

 その脇、円形のお弁当箱が蓋もなしに置いてあるのを発見した。

 昼休憩で食べられなかったお弁当を、放課後残って食べていたのだろう。

「起こした方がいいよな」

 愛のキューピットが作り出してくれたチャンスを無駄にしないため、と言うのもあるが、第一に風邪を引いてしまう心配があった。

 十一月に入り、気温も低く、肌寒い日が多い中。教室で寝るには適さない。


 カナイを起こそうと彼女の肩に手を伸ばした時、

 ガタン!

 カナイは音を立てて床に倒れた。

 その衝撃で弁当箱と箸が床に散った。

「え……!」

 ソラノは開いた口が塞がらなかった。

 今何が起きたのか、どうして床にカナイさんが倒れているのか、これも愛のキューピットの仕業なのか。混乱しそうになっていた頭をぶんぶんと左右に振って、すべきことを考える。


 心臓が強く脈打ち、教室内に響く。ソラノはそれほどまでに信じられないくらいの興奮と焦りを感じていた。

 お陰で呼吸のリズムが狂い、息を止めている時間が増える。そんな彼は今、床に倒れたカナイを抱き起そうとしていたのだから、そうなるのは必然だった。

「あつ!」

 カナイの華奢な肩に手を回すと異常な熱さを感じた。

「はぁ、はぁ……はぁ」

 脱力状態のカナイは白い息を吐き、額には汗が滲み、首筋からは大粒の汗をしたたらせていた。

 ひどく辛そうな表情のカナイをお姫様の如く抱きかかえるとソラノは教室をあとにした。


 ソラノの右手がカナイの太腿に触れすべすべな肌の感触がはっきりと伝う。

 それだけじゃない。

 カナイのさらっさらな黒髪が腕に垂れ、甘すぎず、爽やかで清潔感のある落ち着いた香りが鼻腔をくすぐっていたのだ。

 ソラノの頬は自然と赤く染まり、自身の体温が上昇していることを感じていた。

「どんなシャンプー使ってんだろう」

 こんな状況でもそんなことが気になってしまう。


「すみません!」

 ソラノはカナイを抱いたまま保健室の扉を足で軽く蹴った。

 すると、中から白衣を着た茶髪ショートヘアの先生が扉を開けてくれた。

「どうしたの⁉」

 ソラノの腕の中、カナイの存在に気がつくと目を見開きそう言った。

「早くこっちへ!」

 先生は保健室の奥の白いカーテンを開けてその先の寝台を指さす。

「そっとよ、そっと」

 落ち着かないのか、先生はソラノの周囲を忙しなく動いていた。

「えっと……」

「ソラノです」

「ソラノ君ね。悪いんだけどカナイさんの鞄を持って来てくれる」

「わかりました」

 ソラノの名前は知らなくてもカナイの名前は知っている。至極当たり前な状況。カナイは成績優秀であのルックスだ。運動神経が悪いことを除けば完璧な人間。廊下を歩けば振り向かない人はいないし、カナイの存在を知らない人はこの学校内ではいないだろう。

 そんなカナイが倒れたのだ。先生だって慌てるのは当然と言えば当然だった。


「大丈夫かな……」

 心配な声色でそう呟きながら二年三組の教室に再び足を踏み入れた。

 窓から差し込む陽射しが教室に舞った埃を見せ、その下、床に転がった弁当箱と箸に視線が移る。

 屈んで弁当箱と箸を拾い机の脇にぶら下げられた学生用鞄の上、桃色の風呂敷を手に取った。

 たった十分の休憩すら許されなくて、その上、昼もろくに食べれないなんて……。

 今回のことでソラノはカナイが無理をしていると思った。同時にそれを知らせてくれたかもしれない愛のキューピットに感謝する。


△△△


 熱い、苦しい、息が……できない……。


「え? わからないの?」

「ご、ごめんなさい……」

「いがい~。頼りにしてたのに~」

 何だろう。何でこんな時に思い出してしまうんだろう。

 辛い言葉。

 本人に悪気がないのはわかってる。でも、嫌だった。もう頼ってくれないかもしれないと思うと怖かった。


 お母さんはお父さんと離婚した時から変わってしまった。

 いつも優しかったはずなのに、いつも笑顔を向けてくれていたはずだったのに、お母さんは私に「勉強をしなさい」「成績上位を目指しなさい」それだけしか言わなくなった。

 信頼されてないのかな……。

 それが不安で怖くて仕方なかった。

 誰かに必要とされていないなんて何のために生きているのか、理由があやふやになってしまう。

 だから私は必死に勉強した。

 お母さんの言葉通り、成績上位を常に保ち続けた。それは高校生になった今でも……。

 でも、一度もお母さんに褒められたことなんてない。

 学校の面談、本来なら先生がお母さんに私の通知表を見せるはずなのに、「忙しい」と一言だけ、お母さんは中学の頃から一度も面談に来てくれたことなんてない。


 ダメ、私がこんな状態だと忙しいお母さんを呼ばれてしまう……。お母さんに迷惑を掛けたくない……。


△△△


「先生、鞄持ってきました」

「ありがとう。続けて悪いんだけどカナイさんの様子を見ててくれる。先生はカナイさんの親御さんに連絡してくるから」

「任せてください」

 ソラノは胸を張ってそう答えた。

 それから先生は保健室を出て行った。


 カナイと二人きりの空間。

 カナイは今でも苦しそうだ。

 時折、咳き込むことがある。そのたびに、ソラノは丸椅子から立ち上がって様子を伺っていた。

「はぁ……はぁ、はぁ……んっ」

 額に滲んだ汗を白いタオルで拭う。

 保健室は暖房が効いているのでソラノからしたら暖かい程度なのだが、カナイは熱くて苦しいのだろう。汗は額や首筋だけでなく、制服の下からも滲みだしていた。

 それによりカナイの青色のブラジャーが透けて見える。

「っ……」

 目のやり場に困ったソラノは毛布を掛けてやろうとした。

「だ、だれぇ……そこに……いる、の?」

 すると、カナイは細く目を開け、寝言のようにそう言った。

 ソラノは思わず掛けようとしていた布団を手放す。

「カナイさん! 聞えますか!」

 少し大きな声で言った。

 カナイの耳には微かに声が聞えており、それに答えようと必死に言葉を絞り出す。

「聞こえ、ます……私……」

 続きを言おうとカナイは上半身を起こし始めた。

 ゆっくりと静かに慎重に。

「だ、大丈夫?」

「私、は、大丈夫……はぁ、はぁ」

 とは言うものの、いつもの優しそうな目つきはそこにはなく、あるのは虚ろで焦点の合わない瞳とゆらゆらと揺れる顔。とても大丈夫な人ではない。


「私は、大丈夫だから……」

 徐々に意識が鮮明になり、カナイはソラノの存在に気づく。

 ここに自分を運んで来てくれたことも何となくだが察しているカナイは心配してほしくないからこそ「大丈夫」と言い続ける。

 しかし、そんなことを全く知らないソラノは、純粋にカナイを心配していた。

「今、先生がカナイさんのお母さんに連絡を入れてくれてるから」

 ソラノのその言葉にカナイは焦る。

「え? な、なんで……」

 忙しいお母さんに迷惑を掛けてしまう。罪悪感でいっぱいになる。

 ついには涙が頬を伝う。

 気がつけば静かに泣いていた。

 胸の奥がじんじんとうずき、涙が止まらない。止めようとしてもさらに涙が込み上げてきた。

「か、カナイさん……」

 カナイがなぜ泣いているのかわからないソラノは安心させようと口を開く。

「お母さんが迎えに来てくれるからさ」

「……っ……!」

 お母さんに迷惑を掛けたくないカナイにとってその言葉は嫌だった。聞きたくない事実だった。

 カナイは寝台から降り、立ち上がろうとする。

 よろめく足を何とか踏ん張らせ、壁に手を添える。

「危ないって」

「大丈夫だから……」

 異様に必死なカナイを見てソラノは違和感を感じたが、彼女の心配が先だっていたためそこまで考えなかった。

 それよりも、カナイのふらつきが気になり近づいていた。

「お母さんが来るまで横になってた方がいいって」

「お母さん……」

「そう、来るまでね」

「ほっといてよ!」

「……っ!」

 突然、カナイが声を張り上げた。

 今まで聞いたことのない声だった。

 カナイは自身の声に驚き、得体の知れないものの恐怖すら感じていた。

 ソラノが心配してくれていることを頭ではわかっていた、なのに体が言うことを聞かなかったのだ。

 やはりそれは、カナイの心を縛りつけている〝お母さん〞の存在があったからだろう。

「ご、ごめんなさい……ごめんなさい」

 ふらつきながらもカナイは必死に謝る。

「あ、うん……」

 いつも見ている完璧な姿はそこにはない。あるのは弱々しく、今にでも砂となって消えてしまいそうなカナイの姿だ。

「本当に……ごめ、ん……なさい……」

 消え入りそうな声でそう言うと壁から手が離れ、倒れる体をソラノの胸が支える。

 カナイは目を閉じていて息苦しい表情をしていた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 生温かな息がソラノの胸を優しく撫でる。

 それから、ソラノはカナイの肩をしっかりと掴むと胸から離し、寝台の上に寝かせようとカナイをここまで連れて来たのと同じ体勢で抱きかかえた。


 ガラッと保健室の扉が開く。

 先生によってカーテンが開けられ、ソラノがカナイをお姫様抱っこしている状況が先生の目に飛び込んだ。

「ソラノ君、これは……」

 先生は状況を察せないままソラノを見つめる。

 ソラノは、カナイをゆっくりと寝台の上に寝かせたあと、先生に経緯を説明した。


「そうだったの……なぜかしら」

「それはわかりません。でも、何かに怯えているようにずっと大丈夫って言い続けてて」

 ソラノはカナイが声を張り上げたことを先生に話していない。そもそもどう説明すればいいのかわからなかったのだ。

 どうして声を張り上げたのか、どうして大丈夫と言い続け自力で帰ろうとしたのか。考えても何も出てこない。

 もう直接本人に聞くしかないだろう。

 大好きな人が目の前で苦しみ、何かに怯え、それを見ているのに何もしてやれず、何もわかってやれない。ソラノ自身、無力さを痛感していた。

「疲労が溜まっているのかもしれない」

 先生は言いながら白衣を脱ぎ、紺色のコートを羽織って、机の上の電話機を操作する。

「もしもし、タクシーお願いします」

 続けて学校の住所、氏名、電話番号を一通り伝えた。

「どうしたんですか?」

「それがね、お母さんとの連絡がつかなくて。だからタクシーで送るわ。そこでなんだけど、ソラノ君、時間ある?」

 先生のその問いの意味を察したソラノは、

「あります!」

 と、食い気味に返事をした。

「ありがとう。タクシーが来たらカナイさんをよろしくね」

「はい!」


 タクシーが来たのは十分後だった。

 ソラノはカナイを抱え、後部座席にそっと乗せ、その隣にソラノも乗った。

 先生は助手席に乗り、カナイの住所を女性の運転手に教えていた。


 やがて、タクシーはカナイの家の前に停車。

 ここまでの道のりでソラノは自分の家から近い位置にカナイの家があることに気がついた。それが一番の驚きだったかもしれない。なんなら、登校中に出会っていた可能性だって考えられるほどだった。

「ここで間違いないですか?」

 運転手の問いに先生は窓の外から家の表札を見て言う。

「大丈夫です」

「はい、2800円になります」

「領収書をください」

 そう言って、財布の中からお金を取り出し運転手に手渡した。

「は~い、ありがとうございます」

 運転手にそう言われ、タクシーから降りる。


 タクシーが見えなくなった頃、先生はカナイの鞄から鍵を取り出した。

 ソラノはカナイをお姫様のように抱きかかえているため、家の扉に鍵を差し込むのは先生だ。

 先生が鍵穴に鍵を差し込むのを見てソラノに緊張が走る。

 まさかこんな形で好きな人の家に来ることになるとは思っていなかったのだ。

 男の自分が入ってもいいのだろうか。今さらそんな考えが浮かび、カナイの表情を伺った。

 カナイは変わらず苦しそうで汗がぽたぽたと滴っていた。

 タクシーの中、タオルで何度か汗を拭ったのだが、量が尋常ではない。風邪を引くとこうなるのかと客観的に見て驚いた。


 カナイの家にお邪魔してからは、二階の扉に貼られた『カナイ』と言う札を見つけ、カナイの部屋だと判断した先生はゆっくりと扉を開けた。

 部屋の中は、本棚、小さな机、寝台、ハート型のクッションのみでこれと言って目立つものが見当たらず、男の部屋かと見間違うくらいに簡素なものだった。


 寝台の上にカナイを寝かせる。

 それからは意識が戻るまでひたすら待つことしかできない。

 その間、先生は冷たいタオルでカナイの額を冷やしてくれていた。

 枕の隣、ハート型のクッションが少し傾く。

「んん……」

 カナイが意識を取り戻しつつあった。

 やがて、

「ここは……」

 虚ろながらも目を開けた。

「お母さん!」

 すると突然、そう叫んだ。

 ソラノと先生はびくりと肩を揺らす。

「どうしたの?」

 すかさず先生は優しくそう訊く。

「す、すみません……あの、お母さんがいるんですか?」

 カナイは、ハート型のクッションを見てここが家だと察したため、お母さんが連れて帰って来たのだと思っている。

「いや、タクシーで送ったのよ」

「そうですか……」

 少し顔色が良くなった気がした。

「すみません。ご迷惑をお掛けしました」

 消え入りそうな声で謝るカナイに先生は首を左右に振って否定した。

「いいのよ。それじゃあ私たちは帰るからね。明日は学校を休みなさい」

「はい……」

 先生は立ち上がり部屋を出て行った。

 ソラノもそれに続こうと歩いていた時、カナイはソラノを呼び止めた。ソラノは初めての女の子の部屋とあって緊張していたのでぎこちなく振り返った。額には汗が滲んでいる。

「ありがとう……」

 そっと微笑む。

「あ、うん。全然いいよ!」

 ソラノは動揺を隠しきれず、あたふたとしながらそう言った。

 それから、少し落ち着きを取り戻したソラノはカナイにそっと微笑み返したのだった。


 無遅刻無欠席のカナイが初めて休んだ日。

 二年三組の教室は異様なほどに静かだった。それはカナイを頼って来る生徒たちがいないから当たり前のことであった。


 下校中、ソラノは空を見上げていた。

 今頃のカナイの容体を想像し、無理をしていないだろうかと心配する。

 それにしても今日の授業は一段とつまらなかった。カナイがいない分、カナイを眺めることができないので空虚な時間を過ごしていたソラノである。

 そんなソラノは気がつけばカナイの家に行き着く道を歩いていた。

「ごほっ、ごほっ……っくっ」

 後方から誰かの咳払いが聞える。

 苦しそうなそれは徐々にソラノの耳に近づいてゆく。

 それが少し気になり後ろを振り向くと、そこにはコンビニの袋をぶら下げたカナイの姿があった。

 愛のキューピットがここまでしてくれるとは。

「カナイさん!」

 思わず声を掛ける。

 俯き気味だったカナイはソラノの声で前を向く。

「あ……えっと……」

「ソラノです。二年三組の」

 頭を掻きながら照れくさそうに言った。

「カナイです。私も二年三組です」

「はは、カナイさん有名だから知ってますよ」

 同じクラスなのに、俺の存在ってどれだけ薄いんだよ……。

 まぁ仕方ないか。と、気持ちを切り替え、カナイが持っているコンビニの袋を見やる。

「大丈夫なの」

「え? あ、うん。お母さんは仕事に行ってるから。これくらいは」

 どこか寂しそうに微笑むカナイ。

 コンビニの袋の中にはスポーツドリンクと栄養ドリンクが入っている。ソラノの目からもそれは見えていた。

「私、行くね」

 儚げな雰囲気を纏い、ソラノの脇を通る。

「待って!」

 愛のキューピットが作ってくれたチャンスを無駄にしないために。ソラノはそんな建前を心中で呟いた。カナイと別れたくないと言う本音に目を向けることなく。

 その場に立ち止まり後ろを振り向くカナイは、綺麗に整えられた眉を八の字に、困ったような表情をソラノに向けた。

 ソラノはもう引き返せないと覚悟を決め言葉を紡ごうと頭の中の単語をごちゃごちゃとかき混ぜ、

「もしよかったらノート写す? 今日の授業かなり進んだからさ」

 やっとの思いでそう言った。

 言ったあと、断られたら終わりだなんてことを考えながら内心そわそわとカナイの返答を待つ。

 カナイは人当たりの良い顔を浮かべ、

「うん。ありがとう」

 と言った。

 断られたのかそうでないのか曖昧な返答にソラノは困惑する。

「お言葉に甘えるね」

 ソラノの表情から察したのかそう付け足した。

 それを聞いて肩の荷が降りたような安堵感を感じたソラノだった。


 そして、二度目のお宅訪問。

 カナイに案内され部屋の入り口を通る。

 カーペットの上に座る二人。その間には小さな机が置いてある。

 ソラノは机の上に今日写したノートを五冊取り出した。普段は板書を適当な字で書き写していたソラノだが、カナイがソラノのノートを開くとそこには綺麗な字が並んでいた。

 カナイが復帰したらノートが必要になるだろうとソラノなりに考えていたのだ。

「じゃあ、写すね」

 カナイはそう言うとソラノの字より綺麗な字で書き写す。


 それからしばらく、五冊目を書き写している最中にカナイがボソリと呟く。

「こうして頼ったこと初めてかも……」

 その声は、書く音が鮮明に聞える部屋の中では大きい方で、もちろんソラノの耳に届いていた。

「そうなんだ」

 ソラノは無意識にそう言った。

「え? あ……」

 聞えてたんだ。と驚くカナイ。そんな彼女を見てソラノは首を傾げ、口を開く。

「どうしたの?」

 それにカナイは首を左右に振った。

「なんでもないよ」

「ん?」

 何かを誤魔化されたソラノはそのことに気づいている。しかし、それを問い詰めることはできない。

 だからこそ、カナイが倒れたあの日に見た弁当箱を思い出し、

「カナイさん。もしかしてお昼食べれてない?」

 と、遠まわしに訊く。

「ひ、昼は食べたよ」

 しかし、遠まわしに返される。

「今日の?」

「うん……」

「そっか……学校では?」

「…………」

 ソラノがそう言うと、カナイの手が止まり、そして黙った。

 俯いて目を合わせようとしない。

 そんなカナイの様子を見て、確信する。

「やっぱり。弁当食べれてないんだ」

 ソラノのその言葉にカナイは観念したのか小さく頷いた。

「でも、皆、私を頼ってくれるから。嬉しくて、つい」

 静かに微笑む。

 なぜだろう。ソラノはカナイの微笑む姿を見て胸が締め付けられる感覚があった。

「利用されてるだけじゃない?」

 気がつけば思っていたことを言ってしまっていた。

「え?」

「だって、カナイさんがお弁当を食べれてないことを誰も指摘しないなんてそれってどうでもいいってことでしょ」

 ソラノのその言葉は、カナイの心に深く突き刺さる。

 とたん、カナイは溢れんばかりの涙を流した。

「カナイさん⁉」

 ソラノの声が響いて聞える。

 カナイはわかっていた。ただその事実を視界に入れていなかっただけなのだ。こうしてはっきりと言われて心のどこかで嬉しかったのだ。

 カナイの涙は嬉しさに満ちていた。

「ごめんなさい……嬉しくて……」

 感情のコントロールが効かないカナイ。

「カナイさん……」

 これで二度目だ。カナイを泣かしてしまったのは。

 けれど、嬉しいと言われたソラノは高まる気持ちを感じ、やがてそれに勇気を貰い、強く拳を握ると思いを伝えるため口を開く。

「好きです」

「……!」

「ずっと前から好きでした。僕と付き合ってください!」

 心を込めて紡がれた言葉はカナイに確かに伝わっていた。

 こんなことは初めてでソラノを直視できなかったカナイだったが、彼からの真っ直ぐな視線を感じ、それに応えたえたいとカナイも前を向く。

 そして、

「……わた、で、私でよければ……ぐすっ、お願いします……っ」

 溢れる涙を拭うことなくそう言い切った。


 それからソラノとカナイは恋人同士になった。


 学校でカナイを気遣うソラノ。

 カナイの部屋で勉強を教えてもらうソラノ。

 二人の関係は持ちつ持たれつ。


 これからも末永くお幸せにとはどこぞのキューピットの言葉である。


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愛のキューピットに無理だと言われました 渋柿塔 @sibugakimakoto

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