第10話
※4
銀座の裏通りにある瀟洒な洋式ビルは、一階と二階が吹き抜けになったドレスメゾンだ。
二階の奥に案内されたカイリは、まるで邸宅のような豪華なつくりのVIPルームに目を丸くした。
真っ赤なじゅうたん。ロココスタイルの調度品を置いても狭く感じないのは、それぐらい広い部屋だからだ。
普通の邸宅と違うところは、壁一面が鏡になっていることと丸いステージのようなお立ち台があるところだろう。
鏡の向かいにある入り口とは別の扉をぼんやりと眺めていたカイリの前に、コーヒーカップが置かれた。金の縁取りのある、きれいなデザインだ。
「あ、どうも」
部屋の隅には、ウェディングドレスを着たトルソーが立っている。
そのドレスに近づいて、レースを指先でなぞっていたリタが振り返った。ヴィヴィに呼び寄せられ、エメラルドグリーンのワンピースをひるがえして戻ってくる。はっきりとしたトロピカルな色は、褐色の肌をいっそう美しく見せた。
「お連れさまがお越しです。お通ししてよろしいでしょうか」
静かなノックのあとドアが開いて、従業員が顔を見せた。
「はい。お願いします」
カイリが答えると、ドアが一度閉まって、またすぐにノックと共に開いた。
「どうぞ、お入りください」
開いたドアから顔を見せたのは、カイリからの電話で呼び出された笹田だ。
取材用のカジュアルな服装は、社内ではじゅうぶんにおしゃれなのに、高級メゾンではやはり場違いに見える。おそるおそる入ってくる笹田もわかっているのだろう。電話ではセレブがドレスを用意する現場を取材できることに喜び勇んでいたのに、いまはすっかり雰囲気に飲まれていた。
これでセレブだらけの豪華なパーティーに潜入取材なんてできるだろうか。
「笹やん」
カイリに気づくと、泣きそうな顔になった後、
「私、やっぱりパーティーに参加なんて無理です」
かっと目を見開いて大股に近づいてきた。
「そりゃ、レンタルドレスのお金は経費ですけど、パーティーの質に合わせたら半端ないんです。今から取材枠に変えてください」
「それは無理やろ。取材枠は人数が決まってて、融通が利くんは招待客だけや」
ソファに腰掛けたまま、カイリは笑って笹田を見上げた。
「それより、招待してくれた人もおるんやから、挨拶、先にな」
視線を向けた先に気づいた笹田は飛び上がらんばかりになって頭を下げた。
「失礼しました。今日はありがとうございます。カレイドスコープの笹田と申します」
「名刺は、カイリに預けておいてくださる?」
一人掛けのイスに座り、そばに寄り添うリタの腰を抱き寄せたまま、ヴィヴィは艶然と微笑んだ。
「ビアトリス・バルテルミーさん」
カイリが紹介すると、
「存じ上げてます」
笹田はもう一度、深く頭を下げた。
「世界的に有名な実業家でいらっしゃるの。カイリさんは知らなかったんでしょう」
「あー。うん」
素直にうなずくと、笹田ががっくりと肩を落とした。
「そうだろうと思った。リタさんはバルテルミーさんのお知り合いだったんですね。招待客のチケットを融通してもらえた理由がよくわかりました」
「まぁ、まぁ」
「カイリさん。今日の取材は記事にしてもいいのかな」
「ついさっき、潜入が嫌やって言ってなかったか」
「ドレスなんて着たことないんですから。結婚もまだなのに」
「そういうもんなん?」
「日本の一般的な女性はそうですよ」
「ふぅん」
としか、答えようがなかった。何故なら、笹田を待ち受けている運命をすでに知っているからだ。
「記事にしてくださって結構よ」
リタと仲良く何事かをフランス語で話していたヴィヴィが微笑んだ。
「ただ、残念ですけど、私たちのドレスはもう決まっているの。身につけるものはひとつのメゾンでと決めているので」
「そうですよね。もうパーティーまで三日ですし」
「最終のサイズ直しも向こうで済ませましたから。今日はリタの願いで、あなたのために」
「え?」
「ワタシ、エラブ。ニアウモノ」
リタがニコニコして笹田に言った。
「え?」
魂の抜けた目をして、カイリを振り返る。小さくうなずいて見せる。
「そういうことやって。そやからな、自分のドレス選び、取材しとき。写真は何枚か、俺が撮っとくし、署名なしで使ってええから」
「待ってください。ここのドレスの値段、知ってますか。編集部で払いきれませんよ」
「セミオーダーだから、それほどではないわ。今からフルオーダーするのはさすがに無理なの」
ヴィヴィが口を挟んだ。
「それに、リタの希望ですることだから、費用はこちらが持つわ」
さらりと続ける。カイリは初めから承知していたが、笹田は後ずさった。
「い、いえ。それは……」
「素直に受けときや」
笹田の目が、他人事だと思ってと責めている。カイリは苦笑しながら、
「他人事やもん」
と返した。
「チケットも融通してもらってるし、怜には取材用のパスも用意してもらってるやろ。べつに金を取られるんでもないし、喜んで受けとくんがお互いに気持ちええんちゃうか」
「でも……」
「いいよ、ヴィヴィ。もうOKが出たも同然や。これは日本人の美徳やから」
遠慮という名の奥ゆかしさだ。カイリは視線で笹田を黙らせた。
「じゃ、じゃあ、お願いします」
「OK?」
リタがカイリに確認して、うなずきを見ると手を叩いて喜んだ。
「もういくつか、彼女が選んでいるのよ。まずは形を選びましょう。カイリさんはここにいらしてね。私たちは向こうに」
ヴィヴィが立ち上がるより早く、リタが笹田の腕を引いた。
三人は出入り口とは違う扉に消えた。
それから、カイリは2杯のコーヒーを飲んだ。気を回した従業員が持ってきた男性雑誌を見て、みんな一緒なんだなと思いながら三冊目を読み終わったところで笹田が出てきた。 長い髪はラフに頭上でまとめられ、口紅を引かれただけで別人のように印象が変わる。
その上、普段は目にすることのないドレス姿だ。胸の下で切り替えがあり、そこからストンとスカートが足首まで伸びている。
ギリシャの女神のような雰囲気は、いつも体形を気にしている笹田が納得しそうなデザインだった。
「ええやん」
カイリは聞かれるまでもなく声をかけた。着慣れないドレスにどぎまぎと落ち着かない笹田は照れ笑いを浮かべて、猫背になった姿勢をリタの手のひらに直された。
「色は?」
ヴィヴィに聞かれて、
「それぐらいの方がええやろ」
カイリは答えた。淡いラグーンブルーのグラデーションだ。形がシンプルな分、色にこだわっているらしい。いかにも上質な生地であることを証明しているように発色がいい。
「胸の切り替えのレースにパターンはあるの?」
カイリの言葉にうなずいたヴィヴィが、リタとフランス語で話してから従業員に向かって言った。
「それから、ネックに同素材のリボンがあるといいわね。ストールにもなるような長いもの。恥ずかしくなったら、それで胸元を隠せるわ」
落ち着かない笹田に、ヴィヴィが顔を覗き込むようにして言った。リタは二人のそばを離れて、上機嫌にカイリのそばへやってくると、
「カノジョ、キレイね」
囁いた。その声のトーンがうっとりと湿っているように感じられて、
「あかんで。素人さんや」
カイリは日本語が通じないと知りながら言った。リタはふふっと笑う。
ひんやりと冷たい指が首に回る。背中から抱きつかれる腕の力は柔らかく、カイリはふいに複雑な気持ちになった。
リタが奔放にならざるを得ないのがわかる気がした。
冷たく心地のいい肌は、すぐにカイリの体温でぬるみ、今度はじんわりと暖かくなる。
確かに、この肌をベッドの上で撫で回したら、どんな感じだろうと人に想像させるものがある。普段は隠されている人の心のなかの劣情を、ゆっくりと引きずり出す魔性だ。
ぼんやりとリタにからだを預けていたカイリは、出入り口のドアを叩く音で我に返った。
リタの腕をほどくこともせずに顔を向けると、誰の案内も受けずに顔を出したのは小百合だった。
「カイリさま。お約束のお時間ですわ。よろしいですか?」
リタとカイリの仲のよさに、目を細めるように微笑みながら、まずはカイリに確認を入れ、それからヴィヴィとリタに尋ねる。二人の承諾が出て、カイリはするりとほどけたリタの腕を名残惜しく思いながら立ち上がった。
「カイリさん、行っちゃうんですか!?」
泣きが入るのは笹田だ。
「なにも取って食われたりせぇへんから安心しとき」
心の中で、たぶんな、とつぶやきながら、
「編集長からは一日、接待ってことで了承もらってるし。この後、エステらしいから。ディナーも付き合ってや。頼んだで」
「え、えぇっ!」
のけぞって目を白黒させる笹田の肩を、ヴィヴィは力強く抱き寄せた。
「私は日本語が出来ますから、通訳も必要ないわ。これから三日間で、パーティーに出ても恥ずかしくないようにしなくては。ね?」
有無を言わせない美貌に微笑まれて 笹田は蛇ににらまれた蛙のように身をすくめる。
その姿に、もしかしたら二人にぺろりといかれてしまうかもな、とカイリは不安になりながらドレスメゾンを後にした。
小百合の運転する外車に乗り込み、連れてこられたのは青山の一角。静かな裏通りにある、一軒の住宅だった。
小百合はガレージに車を止めると、カイリを促して玄関に回る。鉄の門を開いて、階段を上がり、緑のアーチを抜けた。玄関先には小さな看板が立っている。
毛筆の遊び文字で『佐々木』と書かれていた。
「喫茶店?」
にしては、クローズドな雰囲気だ。カイリは玄関の手前を右に折れると、美しい芝生の庭に出られるのかとぼんやり考えながら後を追う。
先に来ているはずのサトルは中にいるのだろう。
小百合は呼び鈴を鳴らしてから、応答が聞こえる前にドアを開いた。タイル張りの室内は土足のままで入るのだろう。
ますます喫茶店だと思ったカイリは、すりガラスのドアの向こうに足を踏み入れた瞬間、違うと悟った。
緑が美しい庭に面して一面のガラス戸がはめられた室内は、吹き抜けのリビングだ。タイルがひんやりと涼しく、藤のソファセットが置かれた向こうに庭に向かって大きな姿見の鏡が据えられている。その隣に三つのトルソーが並んでいた。
先ほどまで見ていたウェディングドレスとはまったく違って、種類の違う紳士服が整然と立っている。
「遅かったな」
サトルは庭から現れた。
紺色の柔らかな綿パンツに生成り色の長袖シャツのそでを肘までまくり上げている。長い髪はいつものようにひとつに結び、肩で遊ばせている。リゾートカジュアルは夏日のような陽気の日には涼しげだ。
「律儀に付き合ってきたのか。女の洋服選びは時間がかかっただろう」
カイリに近づいてきて、手のひらで頬に触れた。
朝に別れたばかりなのに、もう何日も会っていなかったような触り方をされて、カイリはくすぐったくなる。身をよじって離れようとすると笑われた。
「コーヒーを二杯飲んで、雑誌を三冊読んだ」
「早い方だったな」
「そうか? で、ここは?」
「テーラーだよ。おまえもパーティー用の服がいるだろうと思って」
「レンタルするから、ええねん。って、言っても許してもらわれへんねやろうな」
あきらめてため息をつく。
トルソーを見たときから 思っていた。どこかで覚えのある体つき。
たぶん、毎日、鏡で見ている。
「カイリさまの寸法に合わせて作らせたトルソーです」
小百合が微笑んだ。カイリの想像はビンゴだ。
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