ショートショート Vol2 「北国の小料理屋」

森出雲

一話完結

「また、来てくれはったんどすね」

 雪深い北国の小さな街で出会った京都弁。年に数回訪れるこの街が、とても新鮮でそれでいて懐かしい。

「寒おしたやろ? 肩まで雪が積もってる」

 ほんの数人しか座ることのできない小さな小料理屋。

 彼女は絣の着物に包まれた華奢な小さな体を、精一杯に背伸びをして、肩に積もった雪を手拭いで払ってくれている。

 結い上げた黒髪が、くすんだ色の蛍光灯に鈍く輝き、僅かに隠れた色香を放つ。

「十二月以来どすな?」

「そうか、もうそんなになるか」

 厚手のコートの前ボタンを外すと、彼女は後ろへ回り、コートを脱がせてくれる。嫋(たお)やかな、そつの無い仕草でコートを畳み腕にかける。

「早よ入って、寒い寒い」


 店の一番奥、一枚板のカウンターの端、背もたれの低い椅子に座る。小さな軋み音を立てて椅子が私を受け止めてくれる。

 小さな小鉢と箸置き、そして、黒い輪島塗の箸が目の前に置かれた。

「今日ね、アンコウの良いのが入ってるん」

 小鉢のクラゲと胡瓜の和え物を口に運びながら頷く。

「お客さん誰も来はらへんから、一人でどうしよか思ってたんえ?」

「アンコウか? そら美味そうやな」

「東のアンコウ、西のふぐって知ってはる?」

 ゆうに二合は入る徳利が湯気を立てて、猪口と共に目の前に置かれた。右手の親指と人差し指で猪口を摘まむと、微かに口元の笑みを見せ彼女は熱燗を注ぐ。

「ああ、ふぐもええが、アンコウもこの時期は特に旨いからな」

「なんや、知ってはるんどすか? 折角自慢しよかと思ってたのに」

「ほな聞くけど、アンコウの七つ道具はどうや?」

「七つ道具? なんどす?」

 辛口の地酒が口の中に広がる。後味がすっきりとして、飲むたびに新鮮な味わいがある。

「身・肝・胃・皮・卵巣・えら・ひれ、どれも格別に旨い」

「へぇ、知りまへんどした」

 小ぶりの土鍋に昆布を引き水入れる。しばらく昆布を戻して、火にかける。具には肝が一番だと言う。

「真由子、一人で辛ないか?」

「わぁ、名前で呼んでくれはった!」

「こら!」


 真っ白な帯紐で襷掛けをし、良く砥がれた包丁で野菜を切る。マナ板と包丁がテンポ良くステップを踏むように、心地よい音を奏でる。

「辛おまへん。数ヶ月に一辺でも、うちのこと思い出して来てくれはるだけで充分」

 口元に幸せそうな笑みを見せ、長めの菜箸で野菜を土鍋に放り込む。白菜・椎茸・人参。それに、ホタテと大粒の浅蜊。しかし、真由子は何度目かの酌の時、初めて小さなため息をついた。

「だんさんは、こんな遠い所まで大丈夫なんどすか?」

「……」

 土鍋から白い湯気が吹き上げると、真由子はアンコウの肝と切り分けた身を土鍋の中に入れた。蓋をして、ひと煮立ちさせる。

「ポン酢でよろしおすか?」

 白木のカウンターの向こうから真由子は手を伸ばし鍋敷きを広げる。絣の着物から覗く細く華奢な真っ白な手。何一つ手入れしていないだろう爪は、薄ピンクで短くそろえられていた。

 鍋掴みで土鍋を持ち上げ、男の前に置く。漆の盆の上に綺麗に並べられた小皿やポン酢の入った小鉢、それに小分けに薬味の並んだ皿が揃う。

「真由子、お前もどや?」

 男は、燗の酒を手酌で注ぎながら、呟いた。

「ほんま? かましまへんか?」

 真由子は花が咲くような笑顔を見せ、真っ白な割烹着の結び目を解いた。

「どうしよ? 酔っぱらったら、介抱してくれはります?」

「ははは、そら嬉しいな。酔うた真由子なんか、そうそう見られんからな」

「もう、旦さん意地悪なお人やわ」

 真由子は、脱いだ割烹着を椅子に掛け、自分の猪口を男に差し出した。

「注いでおくれやす?」

 男は、燗の酒を摘まみ、真由子の猪口に注ぐ。

 仄かに湯気が立ち上り、辛口の酒の香りが立ち上る。

 真由子は小首を傾け、小さな微笑みを男に返した。

「旦さん、おおきに」

 猪口を摘まんだ右手に、下から左手を添え、猪口の酒を一気に飲み干す。白い喉に酒が通り、僅かに上下に動く。

「ほな、ご返杯。あ、そや、誰にも邪魔されん様にお店閉めとく」

 真由子はコココッと、下駄を鳴らし、入口に急ぐ。二重になった入り口扉を開け、外側の暖簾に手をかける。

「旦さん、明日も雪かもしれまへんえ?」

 男は、カタリと音をたて椅子から降り、真由子のもとへ向かう。肩を並べ、外を見ると、細かな白い結晶が、桜の花びらが散るよりゆっくりと舞っていた。どこかの街灯に照らされ、キラキラと輝き、まるで細かな宝石の様である。


「真由子、霧氷やないか?」

「ムヒョウ? なんどす?」

「空気の中の水分が凍って結晶になるんや。山の上ではよう見られるけど、街中で見るのは初めてやな」

「旦さん、物知りやわぁ。ああ、寒、早う仕舞お」

 両手を擦りながら、真由子は暖簾を下ろし、外側のドアを閉める。真由子が振り向いた瞬間、男が真由子の華奢な体を抱きしめた。

「あっああ……」

「真由子」

 真由子は、男の懐かしい匂いに酔いながら、全身から力が抜けていくのを感じた。

「あきまへんえ旦さん、そないなことしたら、真由子、雪より早よう溶けてしまいます?」

 男の腕から、まるで小魚が指の間をすり抜けるように真由子は体を離した。

 入口の内側の格子戸を後ろ手に閉めると、再び真由子は、コココッと下駄を鳴らし、椅子に座った。そして、くるっと体を男に向け、両手を膝の上で綺麗に重ねてほほ笑んだ。

「早う旦さん、冷めてしまいます?」

 真由子と言う女性は、時として実年齢が判らなくなる。妙に女っぽくなると思えば、少女の様に可憐な仕草も見せる。笑顔をひとつ取っても、共に笑いを誘うような時やドキッとする表情を見せる時がある。男は、そんなことを考えながら、可憐に微笑む真由子を見た。

「旦さん、なに考えてはるの? 嫌やわぁ、変なこと想像してはるん?」

 小首を傾げ、優しそうに微笑む真由子。この笑顔が見たくて、遥々この北の地まで足を運んでいるのかも知れないと男は気づいた。

 男が再び椅子に座ると、真由子は嫋な仕草で、徳利を持ち上げた。

「旦さん、さっきの続きえ? さぁおひとつどうぞ」

 真由子が徳利を差し出すと、仄かに女の匂いが鼻をくすぐる。白い襟足が、無言で男を誘う。

 トクトクトクと、徳利から猪口に酒が流れ込む。上質の酒の香りと真由子の女の匂いが混ざり合って、小さな小料理屋を満たす。


 土鍋の蓋を取り真由子が、アンコウの身と肝を小鉢に取り分ける。正しい綺麗な箸の持ち方が、真由子をさらに艶やかに磨く。

「旦さん、アンコウは精が付くんどすえ

 アンコウを肴に酒を楽しむ真由子。いつの間にか、両の頬が桜色に染まり、じっと男を見つめながら微笑む時が長くなった。

 肩肘を着き、掌に細い顎を乗せる。長い睫毛が重そうに、瞼(まぶた)が動く。

「あはっ、旦さん、うち酔うたみたい」

 しな垂れ掛かる真由子を、その逞しい肩で受け止める男。カタリと真由子の下駄が鳴り、足袋の履いた小さな足から滑り落ちる。

「旦さん……」

 突然の熱い吐息と甘酸っぱい女の色香が、いとも簡単に男を狂わせる。背広の襟を掴む、白く細い指。閉じられた瞼。半開きの唇。

「ん、うぅん……」

 合わせられた唇から洩れる掠れた声。

 抱き寄せる逞しい腕に、抗(あらが)いもせず身を任せる真由子。一層、強く握られる男の襟元。

「旦さん、うち、辛ろうなんてありまへん。淋しいことも、ありまへん。けど、こうして旦さんのお側におると、蕩(とろ)けてしまうんどす。蕩けて何もげけん様になるんどす」

 真由子は、男の胸に顔を埋めて、小さく震えた。泣いているのか、それとも、涙をこらえているのか。男には、それを確かめる術が無かった。ただ、真由子の身体に腕をまわし、優しく包むだけだった。

「あかん、あかんえ、これ以上、我儘(わがまま)言うたら、罰が当たる。あ、そや、旦さん、今日のお宿は、いつものホテル? タクシー呼びましょか?」

 真由子は、顔を背けると胸元のハンカチで、目元を拭った。二度三度鼻をすすり、また、ハンカチで目頭を拭う。

「いや、タクシーはいらん」

「え? ほな、どうしはるん?」

「宿は、取ってないんや。真由子、二階の部屋、空いてるか?」

 男は、煙草に火を付け、大きく深呼吸の様に煙を吐き出す。

「うち、一人やから、いっつも空いてますけど?」

「ほな、あの部屋、貸してくれるか?」

「貸してくれやなんて、他人行儀やわ! いつでも、使うておくれやす」

「そうは、いかんな。ちゃんと、借り賃払うで」

 男は、別の椅子に置いた鞄から白い封筒を取り出した。そして、それを真由子の目の前に置く。

「なんどす? もう、お家賃頂けるんどすか?」

 真由子は白い封筒を覗き込んだ。そして、中に入っていた通帳を取り出した。男の名義の真新しい通帳。印鑑も同じ封筒に入っている。真由子は、通帳を開けた。

「なんどすか? これ」

 見たこともない桁の数字が並んでいる。

「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、ひゃくまん、六千五百万……」

「もうちょっと、あるかと思とったけど、こんだけありゃあ俺の一生分の家賃ぐらい払えるやろ?」

「一生分?」

「ああ、今日、会社辞めてきた。真由子と、のんびり小料理屋もええかと思うてな」

「旦さん、うち……」

「一緒になろか? 真由子」

 真由子の大きな瞳から、瞬く間に涙があふれた。その涙を太いゴツゴツとした指が拭う。

「待たせたな」

「ううん、待ってなんかないもん、待ってへんもん!」

 真由子は、また、男の胸に顔を埋めて泣いた。今度は、大声を上げて、わんわん泣いた。


 どこからか、入ってきた隙間風が、小さな雪の結晶を運んできた。

 そして、真由子の足元で纏(まと)わりつくように、くるっと円を描くように回ると、溶けて消えた。

 季節より、少しだけ早く、真由子に春が訪れた。



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ショートショート Vol2 「北国の小料理屋」 森出雲 @yuzuki_kurage

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