イスカリオテ

唯ノ芥

プロローグ


 「わたしは去って行き…また、あなたがたのところに戻る」とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたがもしわたしを愛しているのなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはず…父はわたしよりも偉大な方なのだから──ヨハネによる福音書 第14章28節


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 現代のフランスにおける北部ノルマンディーのセーヌ川沿岸──そこには654年に開かれたジュミエージュ修道院が、大きく蛇行する河川が海に至るのを見据えるかのように鎮座している。その外観は暁光に照らされて、ロマネスクとゴシックが見事に融合した建築の陰影を朝靄の中で厳かに結晶させていた。


 1437年 ジュミエージュ修道院の修道院としての機能は先の『百年戦争』が終わりを迎えつつある中で(辛うじて残されていたが、1431年 ジャンヌダルクが火刑の後にセーヌ川に投げ棄てられて以降はジャンヌの怨霊が出ると噂されて、人々は徐々に寄り付かなくなっていた)完全に無くなっていた。


 修道院付近の農村では、ジャンヌの怨霊のせいかどうかは定かではないが、この3年の間に3ヶ月に1人の割合で忽然と村人が姿を消した。それ故に修道院に鎮魂と浄化を依頼していたが、神隠しのおさまらないまま2年も経つと修道院への信用は薄れはじめ、人々は次第に『修道院が人攫いをして貧しい農家から泣けなしの金品を搾取しているのだ』と唱えるようになった。

 

 パストゥール(司祭)は清貧であることを心掛けていたので、元々神への貢ぎ物を受け取ることを良しとはしていなかった。ただひたむきに信仰することが魂の救いに繋がるという想いがあった。

 しかし、出したモノを引っ込めることは出来ないのが田舎の性分で……農民達の熱と圧とに負けて神への供物を代行として受け取り、修道院の一部改修の工賃として支払ってしまったのだった。


 それは農民達が神を絢爛に祀れば助かるという藁にもすがる想いのもとに促したことでもあったし、パストゥールも神の威光が強くなればきっと事態は好転するという考えのもと行われたものであった。

 だが、ほどなくパストゥールはそんな考えが錯覚であることを思い知ることとなる。結果の出ない投資はどんな時代においても人々の心を疲弊させて懐疑的にさせ、終いには桶の水が溢れるように止めどなく憤りが湧き出ては流されていくのである。


 事態を収拾できないままさらに1年が過ぎた──パストゥールは農民を説き伏せて供物なしでの祈りを献身的に行ったが、やはり姿を消す者は後を絶たなかった。


 もはや農民達は神の存在を疑いはじめた。


 『いくら祈りを捧げて暮らそうとも神は我々を助けない。そもそも我々が祈っているのは神ではなく、悪魔だったのだ。我々の血と汗は全て悪魔に捧げられ、ジュミエージュを飾っただけだ。悪魔を赦すな!悪魔を狩れ!』


 そして昨夜、とうとう修道院に唯一残っていたスール(修道女)とパストゥールの2人も十数名の農民達に烈しく罵倒されるや否や、鋤やら鍬やらで身体を深く傷つけられた。


 2人とも致命傷に近い傷を負わされた挙句、スールに至っては声にならない許しを乞いながら、猛った農夫達に代わる代わる…幾度も幾度も犯されたのだった。


 その様子を瀕死の状態で床から見上げながら──パストゥールは




本当はこの世に神などいないことを悟った。



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