第5話

(その5)



 ――狼か?


 耳を澄ませば、乱れぬ息が聞こえる。


 ――人か?


 ミライはシリィを後ろに押し込むと声を放った。


「誰だ?」

 シリィも険しい山野に生きる娘の表情へ戻り、瞬時に身構えて懐から小さな短刀を取り出した。

 ミライの問いかけに、音が止まった。呼吸をする音が聞こえる。


 ――狼ではないな


 確かに扉の前で誰かが立っている。


(ローか・・?)


 いや・・、違うな。


 足音は俊敏性を持っているようだ。

 瞬時にミライの問いかけに止ったことでそれが分かる。


 ――それも若い男


「具師、ミライ殿はこちらですか?」

 果たしてそれはミライの予想通り、若い男の声だった。

 だが自分の名を呼ぶとは思ってはいなかった。それよりも自分がここにいることは砦の兵以外は誰も知らぬ筈だった。しかし、この来訪者は誰も知らぬことを知っていて、ここを訪ねてきている。

 ミライはシリィに目で合図を送る。

 それに頷き、扉側の壁に背を当てて、扉を後ろ手に握る。

 目配せして小さく頷くと、ミライは懐の奥に手をやって何かを握りしめた、それは細く釘のような礫だった。


 ――扉を開けた瞬間、不審者で在ればそれを投げて、相手が倒れたところをシリィが止めを刺す。


 それを二人は一瞬で決めた。

 山岳に生きる者たちの獣を狩る阿吽の呼吸と言えるものかもしれない。


 扉を勢いよく後ろ手でシリィが開ける。

 ミライは低く身を構えて、相手の顔を確認した。


 月明かりに浮かぶ相貌が見えた。

 それは白く美しい若者だった。

 流れるような一重の瞼は薄く閉じられており、見にまとっている服は金刺繍がされていて、何処かの貴族のようだ。

  この時の判断は簡単だ。


 彼を

 ――知っているのか?

 ――知らないのか?

 

 その判断の早さこそが山岳に生きる民の本能だった。


 夜に見知らぬものが訪ねてくれば、そこで館の主に殺されても仕方がないことだ。夜の不審者は山岳の民には招かざる客人なのだから。

 

 ミライの釘のような礫は、勢いよく音も立てず放たれた。


 ――しかし、それは若者の前で金属音と共に床に落ちた。


「ミライ!!」

 思いもしない相手の防御にシリィが若者の前へ飛び出そうとするのを、ミライが声で押さえる。

「待て!!シリィ」

 低い体勢で再び懐の奥の礫を握る。

 若者はそんなミライの姿を静かに見つめている。


 ミライの釘のような細い礫は確かに相手の目を狙い放たれた。しかし、この若者はそれを何かで叩き落としたのだ。


 ――それは何か?


 ミライは左目を薄く閉じて右目でゆっくり目を開いて探す。動く視線の先に光るものが見えた。それは長く弧を描いてゆくやがて若者の手の中に吸い込まれていく。


(長剣・・)

 ミライは視線を若者に向けた。

 月明かりが注ぐ部屋とは言え、小さな釘の礫を一瞬で弾き落とす。

 恐ろしい剣技と言えた。


 それは同時に自分たちには及びもつかぬ力量を持っていることを分からしめた。次に自分が同じように礫を放ったとしても、それを一刀で叩き落せば返す刃で自分達を襲うことは造作もないことだろう。

 さっきは相手の不意を突いた分だけ、相手の動作が遅れたのだとミライは思った。


 ――僕達を殺すのは造作もないことだ。


 相手の力量が分かれば、後は冷静にどのように生き残るかを考えるだけだ。

 ミライは若者の相貌を見る。

 薄く閉じられた瞳は、動くことなく自分を見ている。いや、もしかすれば扉の影に隠れているシリィも捕捉しているかもしれない。全てが自分の刃の届く範囲でそれらは冷静に分析されて次の一手をいとも簡単に繰り出されるのだ。


(逃げられないな)

 観念してミライは息を吐くと、手をゆっくりと前に出した。

 せめてもの交戦の意思がないことの表れだった。

(しかし・・油断は出来ない)

 ミライの動きに若者の表情が動いて、言葉を発した。

「あなたが具師、ミライ殿ですか?」

 その口調に敵意はなく、むしろ丁寧でミライに対して深い尊敬の念が感じられた。

「そうだ、アイマールの具師、ミライだ」

 黒髪を動かし、薄く閉じた左目を開けて立ち上がった。その左目に若者の相貌が映る。ミライは強い意志を手繰り寄せるように左目に手を当てる。その手が動いて何かを表そうとするその刹那、突然、シリィが飛び出して若者を襲う。

 それを若者が間一髪躱すと、身体を低くして刀を払おうとした。

「止せ!!」

 ミライの声が飛ぶ。


 しかし、その声が若者の鼓膜に届く前に鋭利な刃はシリィの胴を薙ぎ払った。


 ――が、それはピタリと止った。


 短刀を振りかざしたままで立ち止まるシリィの表情が強張っていた。だが彼女は切られていなかった。

 月明かりに照らし出された互いの表情が感情を浮かび上がらせる。

 ミライは駆け寄り、シリィを抱いて引き寄せた。

 若者は片膝をついて、刀を横に薙ぎ払う動作のままシリィを見つめていた。

 そして言ったのだった。


「母上・・」

 若者は目を見開いて、呆然としていた。

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