微速後退

■フェンデリオル側、中翼本隊・指揮官エルスト・ターナー――


 

 私、ルストは望遠鏡を手にして前方を見つめていた。

 ワイゼム大佐の部下の方が貸し出してくれたのだ。象の傍らから声がする。ワイゼム大佐だ。

 

「いかがですか?」


 その問いに私は満足げに答える。

 

「食いつきました。中翼と右左翼前衛の演技に勢いづいたようです」

「では?」


 私は望遠鏡を顔から離しながら言葉を続ける。


「今頃、全軍突撃を指示していることでしょう」


 してやったり。敵は食らいついたのだ、大きな釣り針に。私は大佐に問うた。

 

「我がフェンデリオルの軍と違い、トルネデアスには通信師が存在しません。旧態然とした伝令に頼っています。それがどのような問題を引き起こすか分かりますか?」


 私は静かに笑みを浮かべながらワイゼム大佐を見つめた。私の問いを思案していた大佐だったが、さすがに上士官クラスを極めているだけはあった。


「一度発した指令を、途中で取り消すことができません」

「そのとおりです。体躯の巨大な駄馬は猛進し始めたならば壁にぶつかるまで走り続けるのみです」


 そして、私は傍らの通信師の少女へと告げた。

 

「中翼部隊全体へ指令打伝!」

「はい!」

「全速後退! ただし斜め後方左右へ、中翼で左右に分かれるように!」

「了解! 打伝します!」


 通信師の少女が中翼部隊の部隊長のギダルム準1級と、正規軍人のエルセイ少佐とについている二人の通信使へと打伝する。さらに――

 

「大佐! 中翼部隊、後退の誘導をお願いします! 左右に割れた後に左翼後衛に指示を出した後に、再び前進させるのでその際にも全体の動きの統率を頼みます」

 

 中翼を左右に分ける――その指示に驚いていた大佐だったが、我が中翼部隊の後方には何が控えているのか? に気づいた時――

 

「なるほど――そう言うことですか!」


 私の意図の全てに気づいて速やかに行動を開始した。


「承知しました! 全体誘導はお任せください! しかし、ルスト指揮官はどうなさるのですか?」

「私とこの象は敵軍をおびき寄せる餌ですこのまま後方へとまっすぐ下がり続けます」


 しかしそれでは単独になる。ワイゼム大佐はそのことに既に気づいていた。周囲の正規軍人の10人ほどに指示を下す。


「お前たちは指揮官の護衛となれ、その重要度は分かるな?」

「はっ!」

「では頼むぞ」


 そして指示を受けた正規軍人たちが、象の周囲へと守りを固める。

 私は象の背の上からワイゼム大佐へと言葉を述べた。


「ご武運を!」

「はっ!」


 そう言葉を残して彼もまた周囲の部下たちを率いていく。私はホアンに問うた。

 

『ホアン、象を後方へと下がらせること出来る? 後ろを向けずに?』


 動物で後ろへと下がることが出来る生き物は少ないと言う。象のように視界の効きにくい巨体の場合なおさらだろう。だが彼の使役する象のカンドゥラは違った。

 

『出来るよ。カンドゥラは頭がいいから!』


 そう言いながら手にした柳の枝の棒を振るいながら命じる。

 

『カンドゥラ! 後ろに下がれ!! 』


 ホアンの声が響いたとき――


――ヴォォォォォッ――


 象のカンドゥラは鼻全体をラッパのように響かせ音を鳴らして意思表示をする。


『そうだ! その調子!』


 ホアンの声と彼が振るう柳の枝の棒の動きとで判断しているのだろう、象のカンドゥラは迷うことなく後ろへと下がり始めた。それでも慎重を期しているのか、すり足で動いている。

 私たちの周囲では中翼部隊に属していた正規軍人や職業傭兵の人々が私からの指示を受けて動き始めていた。中翼全体が後ろへと下がり、左右へと徐々に徐々に割れていく。

 象のカンドゥラも後ろへ下がる動作に慣れはじめたのか後方移動の速度が上がっているのが分かる。象の背中の上から後ろを確認すれば5人ほどの正規軍人の方たちがカンドゥラが下がるのに邪魔が入らないようにと周囲警戒をしてくれていた。


「ご苦労様です」


 背の上から声をかければ職業軍人の兵士の方たちはうなずいて返してくれた。

 

――全速後退、ただし斜め後方へと左右に割れる――


 その指示が中翼全体へと広がったとき戦局は一気に我がフェンデリオルの方へと動き始めたのだ。

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