語り部ステイシーと氷雪の乙女
藤咲メア
第1話 語り部と名乗る女
〜epigraph〜
男は目を丸くしました。冬の森の中で、冬毛を着込んでまん丸に膨れた野うさぎと遊ぶ風変わりな女が、あまりにも美しかったからです。
——「さいごのおとめ」
『
フィル・ヘンダーソン編
ステイシー•アボット著
*
西方の隣国との境に尾根を連ねるアエルム山脈の麓には、小さな村がある。灰色の大地を純白の絨毯が覆いかくし、生き物の熱を奪う冬はとかく皆から嫌われるが、この村の冬は一段と厳しく、容赦のないものであった。
しかし、もう極寒期は過ぎ去り、春が目の前に迫ってきたこの季節。村の住人たちは朝早くから目を覚まし、澄み渡った冬空の下、極寒期にこれでもかと積もり、とけ残ってしまった雪かきに精を出している。
村の青年・エリオットもその一人で、鼻先を赤く染めながら、自宅の前で大振りのスコップをせっせと動かしていた。
スコップで雪を掻き出しては隣の小さな雪山に放り捨てる、という単調な作業にすでに飽き飽きしていたエリオットは、一旦手を止めて、はあ、とため息を零した。すると、白く染まった息がエリオットの口から湯気のように立ち上る。
その湯気越しに見えるアエルム山脈を、エリオットはぼうっと眺めた。
あの山脈の向こうにも国があるらしいが、向こうもここと同じくらい寒いのだろうか、と見たこともない国に思いを馳せていると、「あの、すみません」とエリオットの背後から声を掛けてくる者があった。
村の者ならお互い名前を知っているので、大抵「おーい、エリオット!」と無遠慮に肩を叩いてくるのだが。
そういうわけで、エリオットが怪訝な顔をして振り返ると、そこには見知らぬ女がいた。
くるぶしまで覆う地味な色合いのワンピースの上に何枚もの防寒着を着込んでいるせいで、失礼だが雪だるまみたいに膨れている。毛糸で編んだ帽子からは、首元でくるんと内側にカールした短い銀髪が覗いていた。
普段着に防寒着用の厚手の外套を一枚羽織っただけのエリオットは、極寒期並みに着込んだ女を不思議に思いながら眉をひそめる。そんなエリオットとは対照的に、女はにこやかな笑みを浮かべた。
「私、旅の者でして。少々お尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「ええ、はあ」
はいといいえともつかぬ返事をしながら、エリオットの頭の中は別のことを考えていた。今、この女は旅の者と言った。こんな寒いだけの辺鄙な村にとって、旅人は大変珍しい存在である。それに、女は二十二歳になるエリオットと、どう見積もっても同年か少し年下ほどの年齢にしか見えない。若い女の旅人など、何重にも増して珍しい。
女はエリオットの考えをよそに、質問を重ねる。
「私、語り部として各地を旅しておりまして。それでなのですが、この村でどこか、語りを披露できるような場所があれば、教えていただけませんか」
「語り部」
馬鹿みたいに女の言葉をおうむ返ししたエリオットだったが、語り部が何なのかぐらいは知っている。
各地に伝わる古い伝承や神話、歴史を語り継いでいくことを生業とする者たちのことだ。時折パフォーマンスとして「語り」を披露し、それでお金を稼ぐこともやるらしい。
だが、その語り部を見るのはエリオットにとって生まれて初めてだった。
未知の生き物を前にした時のような、ちょっとした怯えと好奇心を交えた目をしながら、エリオットは「いやあ、それは……」と頭をかいた。
「難しいですね」
女は諦めきれないのか、エリオットへ言葉を畳み掛ける。
「人が多く集まる場所。例えば、大衆酒場のようなところで結構なのですが。そのような場所はないのですか」
「いや、それはあります。ありますよ。こんな小さな村ですけど、大衆酒場というか、食堂があるんです。けれど……」
「けれど?」
女は、にこやかな笑顔を崩さずに首をかしげる。
エリオットは言いにくそうに述べた。
「あの、ですね。この村は、そんなに裕福ではないんです。生きていくのに必要なお金はありますけど、その……語り部の語り……なんて、腹の足しにもならないものに払うお金は……」
「ないんですね」
女は、言葉を濁したエリオットの後を引き継いで、結論を自ら述べた。
「すみません」
「いえいえ、いいんです」
女は笑みを浮かべたままだ。
エリオットはだんだんその笑顔が怖くなってくる。失礼なことを言ったエリオットに対して、その穏やかな微笑みの裏で、彼女はひっそりと怒っているのではないかと。余計なことを言わなければよかったと、エリオットは後悔しはじめる。
女の方は、何かを思案した後、再びにこやかな笑顔に戻って、こんなことを言った。
「ああ、では、あなたの物語を私に売ってくれませんか」
「え」
女の言った意味がわからず、エリオットはしばし固まる。
「……売る?」
女は「はい」と頷いた。
「あなたの物語、聞かせてください。場合によりますが、代金を払いますので」
「え、代金?というか、物語って」
「あなた自身のお話を聞かせて欲しいのです。この村のことでも構いませんがね」
「いや、だから、なぜそれにあなたがお金を払う必要が出てくるんです」
全くもって意味がわからなかった。この女、どこか頭がおかしいのか、なんて失礼な考えがよぎる。
女は、あたふたと困惑するエリオットをどこか面白そうに観察しながら、「必要なんですよ」と朗らかに告げた。
「私は、物語を語る者。物語を語ることで、収入を得、それを元手に旅をしています。けれど、語り部は語ることだけが仕事ではないんです。まだ誰も知らない、もしくは、未だ語られることのない物語を集めるのも、仕事なんです。そうしないと、大切な記憶や文化、伝承、正しい歴史が、時の流れに埋もれてしまうから……」
そこで一旦言葉を切ると、女は寂しそうな顔をした。が、すぐにまた笑顔を取り戻し、
「というと聞こえはいいですが、そうやって集めた物語を、より人々の記憶に残る言葉で編み上げ、それを各地で語ることで、お金を戴くのが我々なんですよね。ですからこれはまあ、物語の仕入れですよ。我々にとって物語は商品みたいなもので、あなたのお話を聞いてお金を支払うのは、商品となる前の物語を買い入れているからなんですよ」
女は「そう考えると、おかしくはないでしょう」とエリオットへ笑いかけた。
「はあ、わかったような、わからなかったような」
歯切れの悪いエリオットの返事に、女は「ええ、特殊な職業のお話ですから、完全にわかっていただかなくても結構ですよ」と微笑む。
そんなにずっと微笑んでいて、顔の筋肉が引きつらないのだろうかと、エリオットの頭はまた余計なことを考え出す。
「そういうわけですから、あなたの物語……というとわかりにくいですね。いい直します。この村に伝わる伝承や伝説、歴史、特に知らなければ、身の上話でも聞かせてください」
「え、身の上話でもいい?そんなのでお金をもらうのは気がひけるのですが」
「お気になさらず。お金を払うか否か、つまり商品の材料として仕入れるべきかどうかは、私が決めることですので」
最初、売ってくださいと言ったくせに話が微妙に違っている。改めて、変な奴に捕まってしまったなと、エリオットは不安げな表情を浮かべた。彼女、顔は可愛らしいのに色々変だ。とにかく、ここは彼女の言う通りにして無難にやり過ごそうと決意を固める。
「えっと、僕の身の上話ですけどね。僕は、生まれてからずっとこの村で暮らしています。両親は、僕が赤ん坊の頃に馬橇の事故で亡くなってしまって、村長夫妻に面倒を見てもらっていました。成人してからは家をもらえるので、今はここで一人で暮らしています。ああでも、寂しくはないですよ。村のみんなとはしょっちゅう顔を合わせていますし。たまに村長のところに顔も出してます。村長の奥さんなんて、僕が来るといつもあれこれ心配するんですよ。ちゃんとご飯は食べているのか何とかって。母親みたいだ。……まあ、だからその、ここは寒いし、冬は嫌いですけど、みんながいますから、幸せです」
途中つっかえながらも、何とか自分の二十二年間という人生を要約し終えたエリオットは、そっと女の反応をうかがった。別にお金が欲しいわけではない。こんな、他人にとってはどうでも良い身の上話に彼女がどういう反応を示すのか気になっただけだ。
「なるほど。ありがとうございます」
特に、何の感想も言われなかった。普通の会話なら、話の風呂敷を向こうが広げそうなものだが、お礼の一言だけである。当然代金の支払いもない。
「……あの、それだけですか」
「ええ、それだけですよ」
随分とまあ素っ気なかった。
「あなたは何か私に、言いたいことでもあります?」
言いたいことなどいくらでもあった。物語が商品でその仕入れが如何のこうのという珍妙な話や、人の身の上話をせがんでおいて、いざ話したら反応がほぼないことや、そんな雪だるまのようになるまで防寒着を着込んで暑くないのかなど。だが、そのどれも喉の奥につっかえたまま出てこない。エリオットはため息をつきたい衝動を飲み込み、別のことを言った。
「あの、このあたりの伝承とか歴史が知りたいなら、村長やお年寄りに聞いたら良いと思います。僕も聞かされているので知っていますが、彼らの方が話が上手だと思うので」
エリオットが村長の家のある村の中心部を指差してやると、女は「あら、それはご親切にどうも。それでは、失礼いたします」とにこやかに謝意を述べ、エリオットの指さした方へ、雪を踏みしめよいしょよいしょと去っていった。
その後ろ姿が雪だるまが歩いているようにしか見えなくて、エリオットは思わず吹き出した。
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