メリークリスマス
シュレディンガーのうさぎ
第1話
「ねえ、君」
柵に手をかけて、"これから落ちる場所"を見ていた私の頭の上から誰かの声が降ってきた。
……上、から?
不思議に思ってゆっくりと顔を上げれば、自分が手をかけている柵の上に男性が立っているのが見えた。
あんなに細いところに立っていたら危ないんじゃ、と彼の姿をまじまじと見てはっとする。
彼は妙な格好をしていた。毛糸で編まれた暖かそうな赤い服に身を包み、その服の所々には綿のような白いボンボンがついていた。
まるで、絵本や街で見かけるサンタクロースのような……。
「暇ならさ、少し手伝ってくれない?」
私を見て、彼は笑った。
メリークリスマス
「手伝ってくれて助かるよ。そうだ、自己紹介がまだだったな。俺はサンタクロース。よろしく」
彼がトナカイに繋がる手綱を巧みに操りながら私の方に振り返る。私はその視線には答えず、ぼんやりと眼下に広がるジオラマのような建物を眺めた。
(本当に空を飛んでるんだ、このそり)
そりという空を飛ばないはずのものが飛んでいることに、街の誰もが興味を示さない。現代の人ならば、皆スマートフォンを取り出して写真や動画を撮り出すというのに。
どうやらこのそりは人々には見えないようだ。きっとこの世界から弾き出されているのだろう。そう、私のように。
私が何も反応をしなかったことで特に気分を害した訳でもなく、彼は続ける。
「サンタクロースとひとまとめに言っても、国ごとに違うサンタクロースが居てね。俺はこの国の担当なんだ」
「その国に合う見た目をしなきゃいけないから、結構気を使うんだよ」と彼が笑いながら続ける。
「それで、あの……。私は何のお手伝いをすればいいのですか?」
気になっていたことをそうおずおずと聞いてみれば
「もちろん、プレゼントを配る手伝いだよ」と答えが返ってきた。
「一軒一軒回ってプレゼントを置いていくのですか?」
「そんなんじゃ一晩で終わらないんじゃ」と言いかけたのを彼が遮る。
「そんなことしないよ。大まかな地域ごとに分けたうえで、空からプレゼントの種をまくんだ」
「プレゼントの種?」と私は聞き返す。
「そう。後から見せてあげる。キラキラした光の粒みたいなもの、それがプレゼントの種。それを空からまくと、それぞれの人の家に種が自分から入っていく。その種が室内に入ると発芽して、本当にプレゼントになるんだ。で、そこからは親御さんに頼む」
「効率的だろ?」と若すぎるサンタクロースは陽気に笑った。
たしかに、と私は声には出さず頷く。だから、サンタクロースなどいないと分かったあの日の夜、いつまでたっても私の部屋にサンタクロースは来ず、代わりに母がプレゼントを持ってきたのだろうか。
「でも、種をまくのも一人だと結構大変でね。だから毎年誰かに手伝ってもらうんだ。それで、今回は君に白羽の矢があたったってわけ」
「……そうなんですね」
私は相槌を打つ。
いきなり現れて『俺がサンタクロースだ』といわれても普通は信じられないし、なんだか胡散臭い話だと警戒するだろう。けれど、その時の私は彼を信じ、彼の手伝いをすることに決めていた。
一度死のうと思った身だ。こんな私が誰かの役に立てるのなら何をさせられたっていい。
私はそう思いながら手綱をひくサンタクロースの背中をぼんやりと眺めた。
日が傾き、次第に辺りが寒くなってきた。私は体操座りをして、熱を逃さないように膝を抱き小さく丸くなった。
「ついたよ」
サンタクロースの声にはっと顔を上げる。
そりは今、つい先程までいた都会の中ではなく、森の中にいた。あたりは見渡す限り針葉樹の林に包まれている。寝ていた記憶はないのに、まるでトリップでもしたかのように一瞬の出来事だった。
雪があちこちにつもっており、私がそりから降りるとさくっと小気味よい音がした。
ログハウスのような建物が鬱蒼と茂る森の中にぽつんと立っている。
白と灰色の世界の中、その建物だけがはちみつ色の温かい光をもたらしていた。
「こっちだよ」
サンタクロースが手招きをする。私は一仕事終えたように胸を張るトナカイ達を横目に彼の後を追った。
サンタクロースは私をリビングのような場所に案内した。
フローリングの床や火のついた暖炉、丸みを帯びた木のテーブルがそこにはあった。まるでおとぎ話に登場しそうな家だ。温かみだけを含んだリビングを見て、私は体だけではなく、冷えた心が少しだけ温まった気がした。
「そこに座っていて。……コーヒーは飲める?」
「はい」と私は頷いた。
「よかった。じゃあ、ちょっと待っててね」
サンタクロースは頭の帽子をとると近くにあった帽子掛けにひょいとのせた。そして暖炉の近くにある扉から出ていった。
残された私はキョロキョロとあちこちを見回す。
(これがサンタクロースの家……)
空を飛ぶそりに乗ってサンタクロースの家に来るなんて、まるで夢でも見ているかのようだ。けれど頬をつねったら痛みをきちんと感じるから、これは夢ではないらしい。
静かな室内は、壁掛け時計のコチコチとした秒針の音しか聞こえない。そこに時折私が鼻をすする音が交じる。
お喋りなサンタクロースがいなくなったせいで、この部屋はまたもや世界から切り離されているような感じがした。ここには自分以外誰もいないような気がして、私は体を震わせた。
(……私、何やってるんだろう)
少し冷静になってそう考える。本当だったら今頃この場所に、いや、この世界に私はいなかったはずだ。それなのに、今私はサンタクロースを名乗る男性の家で一人机に座っている。
ぼんやりと机においてあるスノーボールを見ていると、扉が開いてサンタクロースが帰ってきた。
「お待たせ」
彼は持ってきたコーヒーケトルとマグカップ二つを暖炉の斜め左上にあるカウンターに乗せる。
ふわりとコーヒーの匂いが部屋中に広がった。
「コーヒー、お好きなんですか?」
そう尋ねると「まあね」とサンタクロースが返す。
「ほら、クリスマスは一晩中ずっと仕事だろ?だから途中で眠くならないようにコーヒーを用意しておくんだ」
とぽぽと音を立てて湯気を上げながらコーヒーがマグカップに注ぎ込まれる。私はその様子を座ったまま眺める。
サンタクロースはコーヒーを二つのマグカップに注ぎ終えると、それらを机の方に持ってきた。
とん、と音を立てて私の前にほかほかと湯気をあげたコーヒーが置かれる。
私はお礼を言ってマグカップに手を当てた。冷えた手にじんわりと温かさが伝わってくる。
サンタクロースは私の向かいにゆっくりと腰掛けた。そして取っ手に手をかけ、コーヒーを一口すする。
「うん、美味しく出来た」
満足そうに彼は目を瞑り、香りを楽しむ。
私も両手で抱え、マグカップを口に運ぶ。傾けると温かい液体が喉の奥を滑り落ちた。
サンタクロースと二人でコーヒーを飲んでいる自分のことが私は不思議でたまらなかった。相手がサンタクロースと言えども、父親以外の男性とこんなふうに一つの部屋で食事をすることなんて今までなかったので、なんだかドキドキしてしまう。
(……そうだよな。いつも一人ぼっちだったもんなあ)
ぎゅっとマグカップを握る。
マグカップに触れる手のひらは温かいのに、心の芯はとても冷たい。まるで固い氷に包まれているかのようだ。
「……」
私は黙ってコーヒーを啜っているサンタクロースを見た。
彼の肌は雪のように白くて、こんな暖かい部屋では今にも溶けてしまいそうな気がした。亜麻色の髪は、彼の笑顔のようにやわらかそうだった。
彼は眠たげな瞳をした私と同じくらいの年齢の青年だった。その整った顔からは彼が聡明であることが伺えた。
じっと見ていたのが分かったのだろうか。サンタクロースがマグカップを傾けたまま目だけをこちらに向けた。
視線がかち合って黙っているのも恥ずかしく、私は何かを喋ろうと口を開いた。
「あの、サンタクロースって、おじいさんのイメージだったんですけど……」
そう言うと「よく言われるよ」と彼が苦笑した。
「本当は親父がサンタクロースの仕事をしていたんだけど、嫌になってさっさと辞めちゃってね。俺が跡を継がざるを得なくなっちゃったんだ」
「そうなんですか……」
サンタクロースの世界もなかなか難しいのだな、と私は考える。
「他に何か聞きたいことはある?」
マグカップに口をつけながらサンタクロースが尋ねる。
「あ、えーっと……クリスマスの日以外は何をしているんですか?」
そう尋ねてからまるで合コンの時のような質問をしてしまったと、そんなことを聞いた自分が恥ずかしくなった。しかし、サンタクロースはその質問に困惑することも笑うこともなかった。
マグカップを置くと悠然と口を開く。
「君達と同じような生活をしてるよ。どこかに遊びに行ったり、レストランで食事をしたり。……まあ、結構規則は厳しいから、あんまり羽目は外せないんだけどね」
「へえ、そうなんですか?」と私は目を丸くする。
「クリスマスにしか仕事がないからね。他の日はおもちゃ屋とかデパートで情報収集してるよ。今の人達はどんなものが欲しいのかな、と思って」
「後、副業もしてるんだ」とこともなげに言われ、私はびっくりしてしまった。
「え?そうなんですか?」
「うん」とサンタクロースが私の反応を見て楽しそうに笑う。
「今年の夏は副業の方の仕事の同僚と海にも行ったんだよ」
「へー……」
サンタクロースであることを除けば普通の人と変わらないんだな、と私はすっかり驚いてしまっていた。しかも、彼はけっこう外向的な性格らしい。
「でも、出来るだけ日焼けはしないようにしてるんだ。小麦色のサンタクロースなんて嫌だろ?」
確かに、と私は頷く。サンタクロースは肩をすくめて続ける。
「オーストラリアのサンタクロースなら小麦色でもいいんだけど」
彼の発言に私は思わず笑みをこぼしてしまった。それを見て彼も微笑む。
「君は普段は何をしているの?」
尋ねられて私は返答に困る。
「えーっと、家で読書をしたりとか……絵を書いたりとか、してます」
それを聞いてサンタクロースは目を丸くした。
「へえ、絵を書くんだ?」
「はい」と興味津々な視線から逃れるように私は目線を落とす。
「上手ではありませんけど……」
「ふうん、そうなの?是非見せてほしいな」
サンタクロースがそう言ってマグカップを口元から離した。
「そんな、私の絵なんて……」
とても人に見せられるようなものではない。
昔から絵を書くのが好きで、色々と書いていたけれど、全く上手くならなかった。同じく絵を書くのが好きな友達のほうが私よりずっと上手だった。昔は一緒に皆の前で絵を書いていたけれど、段々比べられるのが嫌になって、私は人前で絵を書くのをやめた。
サンタクロースの視線が私に注がれているのがわかる。なんだか気まずくて、私は(絵のことなんて言わなければよかった)と後悔しながらマグカップを握り直した。
不意にサンタクロースが立ち上がり、マグカップを置いて机から離れた。
不思議に思って目で後を追っていると、机の引き出しから小さな紙と鉛筆を持って帰ってきた。
「これに書いてみてくれない?」
「え?」
私は驚いたように彼の顔を見る。彼は好奇心に満ちた瞳をして私に紙と鉛筆を差し出した。
断るわけにもいかず、私はそれらを手に取る。そしてサンタクロースの視線を受けながらぎこちなく絵を書き始めた。
私が好きな猫の絵を書く。なんとも顔の形や体のバランスが悪い猫が書かれていくのを、サンタクロースが興味津々で眺める。
「……書け、ました」
そう言うとサンタクロースが紙を手に取り、彼の方に向けた。何を言われるかとドキドキしていると、彼は目を細めた。
「可愛い絵だね。見ていると優しい気持ちになれる。俺好きだなあ、君の絵」
そう言われ、お世辞でも私は嬉しくて頬を赤く染めてしまった。
「ありがとうございます……」
そう蚊の鳴くような声でお礼を言うと「どういたしまして」とサンタクロースが返した。
「去年も、誰かに手伝ってもらったんですか?」
「まあね」とサンタクロースが私の絵を見ながら頷く。
「去年は単身赴任のサラリーマンに。一昨年は確か勉強に疲れた女子高生だったかな?」
思い出すように天井を見ながらサンタクロースが言う。
「……今年は、どうして私を選んだんですか?」
そう聞いてみると、頬杖をついて彼が私を見た。そして微かに笑う。
「クリスマスなのに、君がとても寂しそうだったから」
「……」
私はぎゅっと口をつむってサンタクロースを見た。
「だから、君に頼んだんだ」
そう言って彼はコーヒーを口に運んだ。
もうすっかりコーヒーは冷めてしまっていた。
いつもなら居心地の悪い会話と沈黙のせいですぐにコーヒーを飲み干してしまうというのに、今の私のコーヒーは半分も減っていない。サンタクロースとの会話がすっかり盛り上がってしまって、コーヒーを飲むのをすっかり忘れてしまっていたのだ。
彼はとても話をするのが上手で、私はすっかり彼と打ち解けてしまっていた。まるでずっと前から知り合いだったかのようだ。
サンタクロースは一通り飼っているトナカイのことについて話し終えたあと、一息ついてからなんだか照れたようにはにかんだ。
「こんなふうに誰かとゆっくり自分のことについて話すことなんて今までなくてさ」
サンタクロースがそう言ってからコーヒーを口に含む。
「だからなんというか、今のこの状態は変な感じがするというか、なんというか……」
饒舌なサンタクロースが珍しく歯切れの悪い言い方をした。
「別に居心地が悪いわけではないんだけど。なんだか……恥ずかしいな」
そう言ってぽりぽりと頬をかく。私もなんだか嬉しいような恥ずかしいような気分になって、身じろぎして椅子に座り直した。
コーヒーを飲み干したサンタクロースがちらりと壁に掛かった時計を見る。
「ちょっと遅くなっちゃったな」
「すみません、色々と尋ねてしまって……」
そう謝るとサンタクロースは
「いいよ。俺も楽しかったし」と微笑んだ。
「さて、じゃあ準備をしようかな。君はまだここでゆっくりしていていいよ」
私がお礼を言うと彼はゆっくりと立ち上がった。そしてマグカップを持ったまままた扉の向こうに消えていってしまった。
私は一人残ったコーヒーを飲む。冷めてしまっていても、そのコーヒーはどこか温かみを含んでいるように感じられた。
(サンタクロースさんって、優しいんだな……)
私は口に入っていたコーヒーを飲み込む。再び辺りは静まり返り、窓の外には雪が積もっているのが見える。
サンタクロースの家で一人で飲むコーヒーは、なんだかいつもより甘く感じられた。
サンタクロースは大きな水筒をどこからか持ってくるとカウンターの上に置いた。そしてコーヒーケトルを取り上げる。
私はマグカップを傾けてコーヒーを飲み干すと、机に優しく置いた。
「ごちそうさまでした」
そう手を合わせてからマグカップを持って立ち上がる。
「お代わりはいい?」
サンタクロースがコーヒーを水筒に流し入れながら尋ねた。
「はい、もうお腹いっぱいで。美味しかったです」
それを聞いてサンタクロースが満足げな顔をしながら私の方に手を伸ばした。
彼にマグカップを手渡す。しかし、うまく受け渡しがいかなかったようで、手から離れたマグカップが床に落ち、音を立てて割れた。
それを見て私の顔の血の気が引く。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて拾おうとする私を制止してサンタクロースが屈んだ。
「ごめんなさい!」
慎重にマグカップの破片を拾っていくサンタクロースに私は必死に謝る。頭を下げるとあのときの光景がフラッシュバックする。
『なんでこんなこともできないの?』
『少しは学習しろよ』
怖い。また怒られる。なんで私ってこうなんだろう?
ぎゅっと拳を握り、唇を噛む。視界が潤む。
情けない。まともに何も出来ない自分が情けなくて仕方ない。
「大丈夫だよ。マグカップの替えはいくらでもあるしね」
白い手袋をした手のひらに破片を乗せて、彼が立ち上がった。そして私を見て優しく笑う。
「だからそんな顔をしないで」
そう言われ、私ははっとしてごしごしと目を擦った。
「……すみません」
コーヒーを作ってもらった挙げ句、マグカップを割ってしまうなんて、本当に自分は使えない人間だとつくづく思う。優しく接してくれているサンタクロースにあわせる顔がない。
サンタクロースの視線を感じながら私は口を開く。
「……私って、誰よりも劣っているんです」
言葉が少し震える。
「勉強も、仕事も、絵も何もかもです。何をやっても上手くできない、人の役に立てない。だから、こんな私が生きていたって意味がないと思って、あの時は屋上に……」
自分で言っているうちに涙が出てきた。慌てて手の甲で涙を拭う。サンタクロースは黙って私のことをじっと見つめている。
「……そんなことない」
不意にサンタクロースが口を開いた。
「君はいつも頑張っているよ。そして、そんな君から力をもらっている人がいるのを、俺は知ってる」
そう言われて私は目を見開いた。そして顔を上げてサンタクロースの顔を見る。
サンタクロースは優しげな笑みを浮かべていた。こんな笑みを向けられるのは、一体いつぶりだろうか。
「……そうだ、プレゼントの種を見せてあげる」
思いついたようにサンタクロースが言った。そして踵を返す。
「ついておいで」
手招きをされて、私は頷いた。そして彼の後ろをついていった。
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