IFの獣
くねくね
第1話 進化の果実
墨を流したように色彩の無い風景が眼下に広がっている。
ここは、この街で一番の高層ビル。その屋上の淵に、男が立っている。
安全のために張られたフェンスの外側、今にもその足元の闇に吸い込まれそうな位
置。
いや、実際に飛び降りるつもりなのだ。
強烈な風が体を煽るが、男はその場を動かない。ただ、眼下の闇と、もはや現実感を伴わない自らの暮らす街を見詰める。
もし、その場に他の人が居たなら、思わず見とれてしまうような、絵画の計算しつ
くされたかの如き美しさが、男にはあった。
男性的な整った身体を飾る、落ち着いたダークスーツ。意思に満ちた黒い瞳。絹糸
と見まごうばかりのプラチナブロンドをオールバックにしている。憂いを秘めた表情
はまるで、ギリシア彫刻の神々のような気品がある。
彼の名前は神貫冬也(かんぬき・とうや)。
わずか一週間前に、唯一の肉親である妹を同じビルからの飛び降り自殺で亡くしている。
この世に絶望した。
陳腐な台詞だが、まさにその通りだ。他に代替するものの無い、もっとも大切なものを失ったのだ。生きる意味など無い。
恐怖など感じない。あるのはただの無為。
嗚呼、と冬也は思わず吐息を漏らす。下ばかり見ていたため今まで気づかなかった
が、今夜はやけに月が綺麗だ。
冬也はずっと、月が綺麗な晩といえば、儚げな幽玄さで浮かぶ月を想像していた。
だが、今夜はどうだろう、月がやけに近く、いやにぎらぎらと赤く輝いている。
なんて、獰猛な美しさ。
まるで戦火のような、禁忌にして本質を抉るような美しさだ。
この世に未練も無い。
自分が死んで哀しむような人間は居まい。せいぜいが新聞の片隅に小さく記事にな
るぐらいだ。そうして人々の記憶からも消え去り、ひっそりと消えていくのが自分に
はお似合いだろう。
ふ、と自嘲気味の笑みが自然に浮かぶ。
星を散りばめた空へと足を踏み出す。
下に落ちるように、ではなく、あの赤い月に向かうようにしよう。もしかしたらあ
そこまで行けるかもしれない。そんなバカなことを思いながら。
「無為に死ぬぐらいなら―――人間を止める気はありませんか」
その瞬間、低い声が、冬也の耳に飛び込む。
冬也は在り得ないものを見る。
己が目前、つまり空中に、巨大な眼窩が出現していた。
何の生物の瞳だかも判らない、異様な眼。その眼の周りには奇怪な文字が浮かび、
絵本の魔方陣のような形を作っている。
そんなモノが、瞬きを繰り返しながら、意思を持って自分に語りかけている。
「貴方なら、充分に『宴』への参加資格を有しているでしょう。―――人間を、捨ててみませんか。そうさえすれば、どんな望みでも叶えてあげましょう」
声の主はどう見ても発声器官を有しているようには見えない。しかし、確実にその
声は冬也の耳に声として入り、脳以外のところで理解されていた。
死を隣に座らせている冬也にとって、その声はおろか眼前の化け物でさえも不気味
とすら思わなかった。
非現実を恐れないほどに、彼の精神は疲弊していたのだ。
その声を無視して飛び降りることも容易に出来ただろう。
だが、足は止まっていた。理由は分からない。ただ、身体が無視を良しとしなかったのだ。その声を聞くことが自分の宿命とすら思えた。
「果実を食らい、獣となりなさい。貴方が最後の一匹に成れようものなら、貴方はその絶望から救われるでしょう」
それきり声は聞こえなくなる。代わりに、屋上には毒々しい色をした果実が転がっていた―――――。
/
用意された可能性は六つ。
獣たちは互いに喰らいあい、己が欲望を叶えんと、他の獣たちを殺戮しあう。
それこそが、死から逃れる唯一無二の方法。
それこそが、進化という名の、檻。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます