三二、天を裂く泡

 怒号、銃声、悲鳴、雨音――。

 屋上の鉄扉がひらかれるたび、それらは膨れあがり、廊下で弾薬や弾倉を組みたてる補給兵たちの耳を苛んだ。

 校内からも、間断なく乾いた破裂音が轟いていた。

 それが銃声なのか、クレイモアの起爆音なのかは判然としなかった。


 確かなのは、そこに死や苦しみが付随していることだけだった。闇にこだまする断末魔は、恨みがましく鼓膜にこびりつくのだった。

 空の弾倉を手にとり、ハシモトは荒っぽい吐息をこぼした。


「……落ち着け」


 その手が震えているのに気付いた。

 ハシモトはもう一方の手で、震えを押さえこんだ。


 いまさら怖気づくなよ。自分自身で選んだんじゃないか。


 星空の下、思いをぶつけたのだ。

 大切な友人に。

 フクイを好きになってきた、と。

 ともに戦いたい、と。


 アサクラは、それを認めていないかもしれない。

 けれど、あの瞬間に、自分が自分の心を決めたのだ。

 つまらない恐怖心で、自分や友を裏切ってなるものか。


「……よし!」


 ハシモトは自らの頬を叩き、気合を注入した。

 そして、空の弾倉に弾を押し込んだ。

 頬に流れた汗を肩で拭って、一つ、またひとつと弾を込めていった。


「ふぅ」


 やっと三つ目が仕上がった。

 意外に力と根気のいる作業だ。

 思いの外、バネの抵抗が強い。指先がじんと痺れるくらいになって、ようやく弾倉に弾を込められるのだ。


 ダダ、ダ……ダダダダ……。


 でも、大したことじゃない。

 外で戦う兵たちに比べたら、この程度の面倒や痛みなど些細なものだ。

 彼らの背中を支える、それがぼくにできる戦いだ。


 どこかで戦っているであろう、ふたりの友の姿を想像しながら、ハシモトは作業の手を速めた。


 ――それが何度くり返されただろうか。

 次の弾と弾倉に手を伸ばしたとき、階下から悲鳴が轟いた。


「うぎゃああああああああああ!」

「……ッ!」


 決して初めてではない悲鳴に、いやに意識をかき乱された。

 全身の毛が逆立ち、肌は粟立った。


 ダダ……ダダ、ダダダダダ!


 ふいに銃声が密度を増した。


「……なんか様子おかしくないかい?」


 補給兵たちも手をとめ、闇のなかに首を伸ばした。


「うぎゃああああああああああ!」


 またぞろ響きわたる断末魔。

 そこに足音が重なるのを、ハシモトは聞いた。


「だ、誰か来てます!」

「マジか!」


 補給兵たちが中腰になり、耳をそばだてた。


 ……パ、パパ、パパパ。


 やはり、足音が近づいてきていた。

 補給兵たちは互いに顔を見合わせ、ゆっくりと立ちあがった。


「階段じゃない。もうこの階にいるよ。みんな構えて」


 リーダーの女が囁きのトーンで号令を発した。

 補給兵たちが一斉に拳銃を抜いた。

 ハシモトもあてがわれた拳銃を手にした。

 不慣れな手つきでスライドを引くと、脈が加速した。


 タ、タタタ、タタタタ、タン!


 足音が間近に迫ってくる。


「ハァ……! ハァ……!」


 獣じみた喘ぎまで。

 ハシモトはごくりと生唾を呑みこんだ。

 その時、廊下に五つの人影が現れた。


「来たッ……!」


 ハシモトはとっさに引金に指をかけた。


「撃つな!」


 ところが、リーダーの女がそれを手で制した。

 ハシモトは弾かれたように銃口を上向け、グリップを逆の手に持ち替えた。


「敵じゃないわ」


 五人のうち一人が、手にしたアサルトライフルを掲げた。

 リーダーの女も拳銃を掲げると、五人が駆け寄ってきた。

 そのうちふたりに見覚えがあった。

 一方は黄色バンダナを巻いた少年。

 もう一方は、リクルートスーツを着た若者だったのだ。


「マスナガさん!」


 ハシモトはたまらず名を叫んだ。


「ブジュウウウウウウウウウ!」


 その声を、カニ人間の悍ましい絶叫がかき消した。

 ハシモトは跳びあがり、辺りを見回した。それらしい姿がないのを認めてから、縋るようにマスナガを見た。


「い、いまの校内から……?」


 マスナガは、おもむろに頷いた。


「カニ人間が複数で仕かけてきたんだ。俺たちの担当していた防衛ポイントは放棄するしかなかった。一緒に来た三人が言うには、隠し階段のほうもやられたらしい」


 なおも階下に轟くのは、カニ人間の咆哮ばかりだった。

 時折、断末魔も混じるが、戦闘の気配はほぼ感じられなかった。

 何も言えず立ち尽くすハシモトに代わり、女リーダーが訊ねた。


「戦力は、ここにいるあなたたちで全て?」

「別のルートから逃れた連中もいるはずだ。まだ機能している防衛ポイントもあるかもしれない。だが、奴らがここへ来るのは時間の問題だ」

「じゃあ、私たちは負けた……?」


 マスナガは一瞬口をつぐんだが、ややあって首を横に振った。


「敵の戦力は確実に減ったと思う。少なくともカニ人間以外のいきおいは、かなり衰えた」

「だが戦力を分断しなければ、カニ人間に集中できん……」


 そう言葉を継いだのは、マスナガとともに逃げてきたうちの一人だった。

 カニ人間の脅威は誰もが知るところだ。

 兵士たちは腕を組み唸った。

 すると補給兵の中から、突然、一人の老兵が進みでた。


「分断は、ある程度なら可能かもしれんぞ。他のルートにまで気は回らんが、少なくともこのルートなら多少は」


 老兵は傍らの階段を一瞥してから、廊下の隅に並べられた箱に目をやった。それは屋上へ物資を届けるついでに、狙撃手の邪魔にならぬよう回収していた使用済みの薬莢だった。


「ここにあるだけでも、かなりの量じゃ。これを階段に放てば、チンピラどもの勢いくらい削げるじゃろ」


 老兵の案を聞いたハシモトは、ふいに声を上げた。


「それ、カニ人間の動きも制限できるかもしれません!」

「なに?」

「以前、カニ人間と戦ったとき、床にパチンコ玉をばら撒いたことがあったんです」

「そうか、あの時」


 マスナガも、パチンコ店での攻防を思い出したようだった。


「カニ人間は肉の橋ができるまで、ろくに動こうとしなかった。あいつらも、単純なトラップで足許を掬われるのか」

「期待はできるってことかしら?」

「おそらく」


 女リーダーは満足気にうなずいたが、すぐ険しい顔つきに戻った。


「連中が他のルートから来た場合は?」

「そこまで気は回らんと言ったはずじゃぞ。賭けるしかない」

「最悪、屋上まで退避ってことか?」


 バンダナが訊ねると、老兵は苦渋の様相で顎をひいた。


「でも、内部のいきおいが衰えてるなら、外もかなりの戦力を減らせたってことにはなりませんか?」


 ハシモトはそう言って、屋上へつづく鉄扉を見上げた。


 ……ダダダダダダダダダ。


 上の戦闘が終わった気配はないが、敵の残存戦力は如何ほどか――。


「なんとも言えないけど、じきにここは戦場になる。それだけは確実よ。新入りのあなた、ここは一旦離れて空薬莢を回収してきてくれない?」

「喜んで!」

「ついでに屋上の様子を確認してきてちょうだい」

「では、ワシも行こう。老いぼれの腕では同志の背中に風穴を開けかねんからな」

「頼んだわ」


 ハシモトはマスナガと軽く拳を打ち合わせると、老兵とともに駆け出した。

 一足飛びに階段をのぼっていった。

 踊り場に立つと、扉越しにも激しい戦闘の音が聞こえてきた。

 老兵と顔を見合わせ、どちらからともなく頷いた。


「んん……!」


 ハシモトは扉を押し開けた。

 ゴッと雨風が吹きつけてきた。

 腕で目許を覆い、負けじと一歩まえに出た。


 ダダダッ。


 短い銃声が頬を叩いた。


 やっぱり敵はもう残り少ない……?


 にわかに期待を膨らませ、顔を上げたその時だった。


「ブジュウウウウウウウウウ!」


 天を衝くように泡が噴きあがったのだ。

 そして、身をのり出した兵士の背中が、千切れた首とともに屋上から消えていった。


 悲鳴さえなかった。

 老兵もハシモトすらも、一言も発さず、その場に立ち尽くした。

 千々に裂けた雨除けの幌だけが、菜園の支柱に絡まってバタバタと音をたてた。


「クソ……ォ!」


 やっと悪態が聞こえた。

 骸、四肢、血痕の散らばった屋上で、数少ない影が動いていた。


「ブジュジュ……」


 屋上のへりからカニのハサミが現れれば、


 ダダダッ! ダダダッ! ダダダッ!


 彼らは即座に引金をひいた。


「ブジュウウウウウウウウウ!」


 しかしその直後、別方向から泡が噴きあがったのだ。


「ブジュウウウウウウウウウ!」


 たちどころにもう一射が天を裂き、泡と泡が交差した。


「うぎゃあああああああああ!」


 狙撃手のけたたましい悲鳴が雨音を穿った。


 ぼとっ。

 ハシモトの眼前にアサルトライフルを掴んだままの腕が落ちてきた。


「ひ……ッ!」


 後退るハシモトの背後で、鉄扉が閉まる。

 その寸前、鉄扉の向こうからも、くぐもった怒号が聞こえてきた。


「クソ、来やがった! 撃ち落とせェ!」


 全身から血の気が引いていった。

 打ち付ける雨が冷たかった。

 音が遠ざかり、視野も狭まっていった。

 にもかかわらず、ハシモトの目はそれを捉えた。


「……ブジュ」


 ついに屋上にまで這いあがってきた、カニ人間を。

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