十四、理不尽な生き物

「大丈夫かよ、あの爺さん」

「どうだかな」

「……」


 三人は薄暗い酒屋の奥から、左右に大きく揺れながら近づいてくる脚立を見ていた。二メートルちかい高さのある巨大な代物だが、運んでいるのは、ほぼ九十度まで腰の曲がった老爺だった。


 無論、この数十分前、老爺の身を案じたハシモトが、自分に運ばせてくれと願い出ている。しかし老人の中には、少なからず年寄り扱いを嫌う者がいる。


『ひとを年寄り扱いすんな、この若造がァ!』


 ――現在ハシモトが不貞腐れながら腫れた頬を撫でているのは、そういう訳である。


「「「あ」」」


 案の定、振り子のごとく揺れる脚立が、酒瓶を並べたショーケースに衝突した。ガラスを粉々に砕き、いきおい酒瓶まで転がした。その幾つかは落ちて砕け散り、店の床を汚した。

 ところが、ひぃひぃ言いながら三人の前に脚立を置いた老爺は、悲惨な店の有様など見えていないかのように破顔する。


「奥にぃ……ええのあったわ」


 カツヤマ原住民の独特なイントネーションは、いやに穏やかで、一層三人を困惑させた。


「あーん……ありがとよ、助かるぜ」


 アサクラが脚立を受けとると、老爺はやはり荒れた店内を気にする様子もなく天井を指差した。


「屋根の上まで、上がるんやろ?」

「そのつもりだぜ」

「ほんならぁ、マットレスあるざ」

「へぇ、そんなもんまで持ってんのか」

「おん。ヨガしてるでのぉ」


 ハシモトとマスナガは顔を見合わせる。


「落ちるとあかんでぇ、敷いとけばいいざ」

「じゃあ、ありがたくそうさせてもらうぜ。マットはさすがに重いから、みんなで運ぶぞ」


 老爺の気分を害さない絶妙な気の配りようだった。ハシモトは怪訝にアサクラを一瞥した。


「こっちやざ」


 老爺のあとに続いて三人は、二階へあがった。

 マットレスが敷かれているだけの殺風景な部屋にたどり着くと、ハシモトは言い知れぬ不安に襲われた。老爺がヨガをしている姿を想像してしまったのだ。


「ほら、運ぶぞ」


 マスナガに促され、ハシモトは背筋を伸ばした。老爺が無茶をやらかす前に、三人協力してマットを運び出した。


「結構、疲れますね……」


 玄関に着くころには、額に薄らと汗がにじんでいた。一度、マットレスは置いて、そこに腰かけて小休止をとることにした。


「飲みねの」


 そこにグラスをもった老爺がやって来て、酒を注いでくれた。〈日本義ニッポンギ〉とラベリングされた日本酒だった。


「ん」


 マスナガは小さく顎をひくと、一口で豪快に飲み干したが、生憎ハシモトは酒が得意ではない。〈コック龍〉はたまたま口に合ったが、これはどうか……。

 躊躇いがちにグラスを近付け、まず香りを確かめてみた。幸い、アルコールのつんとした感じはなかった。これも青リンゴに似た優しく甘い風情があった。

 飲めるかもしれない、とグラスに揺れる水面を見下ろした。


 その時、ふいに腕を叩かれて、顔をあげると老爺が目を眇めて立っていた。


「はよしねま」


 老爺は言った。

 ハシモトは驚きのあまりグラスを落とした。それは奇跡的に、膝の間ですっぽりと収まった。しかし老爺の心ない一言に、ハシモトの心のグラスは砕けていた。

 まさか突然「死ね」と言われるとは思ってもみなかった――。


「なにショック受けてんだよ」


 そこにアサクラがやって来た。

 慰めてくれるのかと思えば、


「バカ野郎」

「いでっ」


 なぜか拳骨が飛んできた。

 ハシモトは涙目になって声を震わせた。


「だって、死ねって……っ!」


 アサクラは気怠そうに頭を掻くと、やおら顔を寄せ、こう耳打ちしてきた。


「あのなぁ。さっきのは原住民の言葉ほうげんだっつーの。早くしろって意味なんだよ」

「えっ、方言?」


 ハシモトはぱちぱちと瞬いた。


「そうだよ。いきなり死ねなんて言うわけねぇだろ」

「フクイならそれもあるかと」

「ねぇよ」


 ほっと胸をなでおろし、老爺を見ると、彼はひとり淋しげに自分用の酒を注いでいた。


 カツヤマは恐竜の都だ。

 ひょっとすると老爺には、人と会う機会などほとんどないのかもしれない。

 久しぶりに人がやって来て、嬉しかったのだろう。

「うまい」とか「おいしい」とか、そんな何気ない感想が欲しくて「早くしなさいよ」と急かしたのかもしれない――。


「んっ」


 ハシモトは些細な好悪など捨ておき、一息にグラスを呷った。


 フレッシュな風味が舌のうえを流れた。次いで、カッと辛味が駆けぬけ、口中を熱くした。

 不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ目の覚めるような心地がした。


 やがて酒が喉を流れ落ちると、枝の先っぽから果実が落ちるように、パッと酸味がはじけ後味を引きしめた。

 そのキレ味のよさに、ハシモトは思わず目を剥いて、空のグラスを見下ろした。


「……うまい」


 と思わず呟けば、それを聞いてか老爺が肩を震わせた。


「よう、言ってくれた……」


 ふり返った目が、涙で潤んでいた。

 飛びつくように手を握られ、ハシモトも戸惑いがちに握り返した。


「今日からぁ、あんたはワシの孫やでの……!」


 大袈裟だと思った。

 なのに、何故だろう。

 胸の底からどくどくと熱い感情がこみ上げてくる。

 次の瞬間には、老爺を抱きしめていた。まなじりからは、涙までこぼれた。


「うん! おじいちゃん!」


 しかし孫とまで言ったくせに、老爺はその一言を許さなかった。


「誰がジジイじゃ若造がァ!」


 理不尽がハシモトを襲った。



――



 プテラノドンのもとへ着くなり、三人はせかせかと準備をはじめた。適当な位置にマットレスを敷き、壁際に脚立を展開した。

 しかし屋根が思いの外高い。脚立のてっぺんまで登ってみても、腕をいっぱいに伸ばさなければ、指先もへりに届かない。


 とはいえ、アサクラはもうフクイに来て長い。雪国フクイの過酷な冬を、もう幾度となく乗り越えている。除雪作業で鍛えられている。その足腰の強さは、もはや人体戦車と言えるだろう。

 現にアサクラは、難なく屋根をよじ登ってみせた。


「よし、へしこくれ」


 屋根から身をのり出して、新たに脚立に立ったハシモトを見下ろした。


「は、はいぃ……どうぞぉ!」


 何故かハシモトのほうがギンギンに目を見開き緊張していた。プテラノドンに直接餌をやると言いだしたのは、こいつのはずなのに。

 アサクラは半ば呆れたが、却って気持ちが軽くなるのを感じた。

 マスナガの様子を覗きこむと、あっちといつも通りの無表情。目が合うと頷いて、拳銃のスライドを引いた。


 アサクラは、ハシモトに向きなおった。


「ヤバくなったら合図する。その時はズドンと頼むぜ」

「ま、任せてください」


 本当に任せていいのか、と思いつつもアサクラは、ショットガンを負ったハシモトが、脚立をおりていくのを見送った。


 すると一度は軽くなったはずの胸に、鉛のような不安が居座った。

 だが、やると決めたのだ。

 もう前に進むしかなかった。

 地上では仲間たちが待ってくれている。片方は一見頼りないが、やるときはやる奴だ。


「よし」


 アサクラは自らの頬を両手でたたき活を入れ、いよいよプテラノドンに向きなおった。

 とたんに互いの眼差しが交わった。


「い……っ」


 アサクラは喉を引きつらせた。

 弱っている所為か、恐竜の目は虚ろだった。だが、その奥に残る輝きは、理性を宿しながら、なお獰猛に見えた。刀の切っ先のような瞳孔が、こちらの恐怖を見透かすように、ぎゅっと縮まる。

 それでも歩み寄っていくしかない。


「へへ、暴れんなよ……?」


 毛のないつるりとした翼のすぐ側を、アサクラの足が踏みしめた。瓦がゴロと音をたて、かすかに塵芥を舞いあげた。

 それがプテラノドンを刺激した。


「ガガッ……!」


 頭のトサカを上下させ、クチバシを威圧的にパカパカと鳴らしたのだ。


 マスナガの腕が震えるのを眼下に見てとり、アサクラは小さくかぶりを振った。

 プテラノドンは警戒した様子だが、決して攻撃してきたわけではなかった。互いに、産毛一本触れてはいないのだ。


 一歩。

 さらに一歩と、アサクラは踏みだしていく。


「だいしょうぶ、大丈夫だ」


 そして、優しくプテラノドンに囁いた。

 糠水したたるへしこを上下に振った。餌に注意を向けさせる作戦だった。

 ぐりと眼球がうごいた。へしこを見た。

 ガァ、と物欲しそうな唸り声が、辺りにひびき渡った。


「イイ子だな……」


 アサクラのこめかみを汗が伝い、顎の先からこぼれ落ちた。

 プテラノドンの横顔は、もう目の前だった。


 だが、クチバシが雨樋から垂れ下がっているため、身を乗り出さなければ餌を与えることはできなかった。

 アサクラは恐るおそる腰を落としていった。


「イイもん食わせてやるからな……」


 腹ばいになると、恐竜の顔がほおに触れそうな距離にまで近づいた。

 クチバシの裂け目がこめかみの高さにあった。

 もう、いつ食われてもおかしくなかった。


 連れてってくれよ、天国じゃなくて〈オオノ〉まで……!


 アサクラは果敢に手をのばした。

 ピチピチ、と手の中でへしこが暴れた。

 クチバシに糠水がかかり、ピンクの身体が震えた。

 アサクラもぶるりと震えた。

 その手に、クチバシが、触れた。


「ガ、ガガガ……」

「よぉし」


 プテラノドンは大人しくクチバシを開いた。どうやら、アサクラを受け入れたようだった。

 舌のぬらりとした感触が、アサクラの上腕を伝った。舌の根へむけて腕を伸ばせば、ぐわんと口腔が流動した。


 今だ!


 その時、アサクラはへしこを手離した!

 吸い込まれるような力に抗い、腕をひき抜いた!

 下で「あっ」と快哉があがった。

 アサクラも喜びに胸を震わせた。

 しかし次の瞬間、それは戦慄へと変わった。


「あ?」


 突如、目の前を闇が覆い、ぬらりと長い舌が閃いたのである。

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