未来に住む一般人が、リアルな異世界に転移したらどうなるか。
kaizi
第1話 匂い
酷い匂いがする。
今まで数十年生きてきたが、一度として嗅いだこともなかった匂いだ。
これは・・・何と表現すればよいのかわからない。
例えるなら、色々な腐敗物が混ざりあった匂いといったところだろうか。
しかし、こんな匂いでも、人は慣れるものだ。
初めてここで目覚めた時は、周囲の異常事態を把握しようと頭を働かせるより前にまずこの匂いが気になったものだ。
それなのに、今では、この匂いの中でも、平然と食事をすることができる。
慣れ・・・というのならば、この酷い食事にも大分慣れてきたらしい。
らしい・・と疑問系を使ったのは、食事の方はまだとても味合うというレベルにまでにはいたっていないからだ。
食事というよりも、ただ生きていくために、カロリーを摂取する行為という方が正しいだろう。
そこには、美味しさといった浮ついたものはほとんどない。
しかし・・・これでも・・・この世界の基準では大分まともな食事なのだから、うんざりする。
影人(かげと)は、目の前のガタついている木製のテーブルの上に並んだ硬いパンをかじりつき、今日何度目かのため息をついた。
それにしても・・なんという硬さなのだろう。
このパンをかじりつく度に、自分の歯がかけてしまうのではという心配で、食事どころではない。
たとえ、歯がかけてしまっても、体内にある医療システムが正常に作動し続けている限り、修復は可能なハズだ。
しかし、今この現状で、そんなリスクを犯したくなかった。医療システムが故障しても、ここでは修理する手段などないのだから。
目線を一瞬テーブルから周囲へと向ける。ドンヨリとした複数の暗い目が影人の方へ向けられていた。
この街・・いやこの世界の基準では都市だろうか・・での生活は大分経つ。
身につけている服は、適度に汚れた粗末な布だ。だから、影人の目からすれば、ここにいる者たちと自分の格好は大差ないように見える。
しかし、ここの住民からすれば、影人がよそ者なのは明らかなのだろう。どういう基準で、彼らが、影人を自分たちと異なる存在だと見極めているのかは不明だ。
きっととうの彼らたちにさえ正確なところはわからないだろう。
ただ言えることは、いくら外見をここの住民たちと同じにしても、結局のところ、影人は未だにこの世界ではよそ者だということだ。
いまいる場所が、多少は外部の人間の往来がある都市で幸いした。
これが、郊外の村なら、あっというまにトラブルに巻き込まれていただろう。
それにしても、ジロジロと見られながら、食べるのはどうにも落ち着かない。
ただでさえ不快な食事がいっそう不快なものへと変わる。
さっさと出ていくか・・
硬いパンを口に押し込んで、おもむろに立ち上がり、店のドアを開ける。きつい匂いがまっさきに鼻についた。
ついで、耳に入る雑多な喧騒。視界には自分と同じようなボロ布をまとったやせ細った人々が飛び込んでくる。
店の中よりもさらにうんざりとさせる光景にため息をつきながら、大通りをトボトボと歩く。
それにしても・・・どこを見ても似たような景色ばかりだ。
使い古した今にも壊れかけそうなレンガ造りの家々が大通りに面して立ち並んでいる。
人々はと言えば、落ち着きなくあたりを歩き回り、大声で喚き散らしながら、何やら粗末な物や食材を売ったり買ったりしている。
こんな街でも、ここら周辺の最大都市だというのだから、暗澹たる気持ちになってしまう。しばらく、歩いた後、大通りに接続している小路に入る。
すると、視界の景色と匂いはさらに酷くなる。
人がギリギリすれ違うことができるほどの幅の小路の地面は、ドロドロにぬかるんでいて、歩きにくいことこの上ない。
上に上にと闇雲に増築を重ねた家々が路地を取り囲むように立っているために、昼だというのに、まるで夜のように薄暗い。
おまけに、近隣の住民たちのゴミやら生活用品やらが雑然と道の端に放り込まれているため、歩行はより困難を極める。
ゴミだと思って、端にあるモノを踏んだりすると、時折ここで寝起きしている住人や元住民だったモノ〜死体〜だったりするから、目線は常に下から外すことができない。
この生活に少しは慣れたとはいえ、死体には可能なかぎり触れたくはない。
感情的な面もあるが、なにより衛生面が心配だ。
どんな疾病に感染するかわかったものではない。もっとも、既知の疾病ならば、問題ない。しかし、ここがどこか、検討がついていない以上、未知の病気も考慮に入れておいた方がいいだろう。
悪戦苦闘しながら、路地を数分進んだところに、今まで密集していた他の家々と少し
オンボロなのは他の家々と変わらないが、入り口の扉が、外部からの侵入を防ぐようにやけに頑丈そうに作られているのだ。
その扉をゴンゴンと強めに叩く。少し間をおいて、扉が少しだけ開き、男が、じっと影人を見る。
「・・入んな」
一瞬間をおいて、男は、ぶっきら棒にそう言うと、人が一人滑り込めそうなほどの幅までドアを開ける。
影人は無言でうなずき、その扉にスルリと体を入れる。
部屋に入るなり、男は、クンクンと影人の匂いを嗅いでくる。
「おいおいまさか・・・今日もシラフなのか!あんた本当真面目な男だな・・」
「・・・仕事をする前に、酒を飲むのが常識なのか・・」
「・・・まあ常識って訳じゃねえけど、路銀を持った男のすることなんてしれているだろう?大抵酒か女かと相場が決まっている。教会の奴らだって、祭儀の最中以外はたいてい酒をあおっているんだから。ましてや・・あんた用心棒なんて商売やってるんだろう」
「・・・用心棒をやっているやつも色々いるんだよ・・」
影人が不機嫌そうにしているのを見ると、男は両手を掲げて、やれやれとかぶりをふる。
「俺は褒めてるんだぜ?実際、あんたみたいな男を雇えて幸運だよ。今まで雇った連中は大勢いるが、たいていは飲んだくれの役立たたずばかりだ。稀に腕が立つ奴がいても、やっぱり飲んだくれでろくに仕事になんて来やしない。」
「・・・あんたの苦労はよくわかったから、さっさと仕事にとりかかろう。」
「愚痴っていても金にならねえしな・・・まあ・今日周るところの奴らは、借りている額も少ないし、ぶっそうな輩はいないから、まず問題は起きないだろうけどな。」
「・・・そう願うよ・・」
男は、テーブルの上に置いてあったズタ袋をひったくると、影人が入ってきた入り口を開けて、外へと出た。
今度は男の後をついていくことになったため、路地を歩くのは幾分かマシになった。ここの住民だけあって、男はこの路地を歩くのに慣れている。
影人は男の背中を見ながら、この男と初めて会った日のことを思い出していた。
この世界に来て、まだ数日しか経っていないころだった。
いつものように、この都市を用心深く、歩き、あたりを観察していたら、目の前で、男同士の言い争い、転じて取っ組み合いがちょうど繰り広げられていた。
別に珍しいことではない。
むしろ殴り合い程度の小競り合いは、ここでは、日常茶飯事といってもよい。
あたりにいる人々は遠巻きに興味本位にその様子を見ながら、自分に火の粉が飛ばないように抜け目なく距離をとっていた。
影人もこの頃になると、最低限ではあるが、この都市の最低限のルールを把握していた。
つまり、基本的にトラブルは自主解決しなければならないということを。
警察のような機関は一応あるにはあるらしいが、相当のトラブル、例えば大通りで双方が刃物を取り出して、斬りつけ合うなんてことが起きない限りは、出てこない。
実際のところ、そんな大きなトラブルは表立っては滅多に起きない。だいだい刃物のような値が張る者を持っている住民はあまりいない。
それでも、殺人のたぐいは裏ではかなりあるらしい。しかし、そういうケースは、たいてい夜中に起きるし、被害者は、文字通り消える。
そこらの川に放り投げられて、数日後にどこかの下流で発見される。
消える時は、多くの場合、世帯ごと消えるから、探そうという人間もいない。当然、死体が誰なのかを気にする輩は誰もいない訳だ。
一方で、こんな風に、目に見えるトラブルはたいてい大したことがないものがほとんどだ。
影人もいつもは、他の住民と同じように、傍観者に徹しているが、その日は違った。ある理由から、ケンカを仲裁することにしたのだ。
しばらく二人の様子を見ていた影人は、小さく「よし」とつぶやき、行動を起こすことを決意する。
背後から、ゆっくりと近づき、いきり立ちいまにも殴り合いになりそうな二人の男の間に強引に体を割り入れた。
予想していた通り、二人の体は影人の力で驚くほど簡単に左右に引き離すことができた。
だが、二人の男にとっては、影人の行動は、想定外の出来事だったようだ。それはそうだろう。
わざわざ私闘に介入してくる好き者など滅多にいないのだから。
男たちは、いつのまにか離れているお互いの顔を数秒、呆然と見た後、斜め前にいる影人の方を視界に入れる。
すると、双方の目がさきほどよりさらに大きく見開かれた。
つかみ合っている自分たちふたりをあっさりと引き離したのだ。
どれだけの巨漢な男かと思えば、その相手は、自分たちより明らかに小柄で貧弱な肉体しか持たない男だったのだから、驚くのも無理はない。
当の影人は、自分の方を見てぽかんとしている男二人を注意深く観察していた。
もし自然な心臓が残っていたなら、きっとバカみたいに鳴りっぱなしだっただろう。
想定通りではあったが、それでもやはり全身が浮足立つのは避けられない。
感情を制御できる機能が失われていることを、今ほど恨めしく思ったことはない。
しかし、精神面以外の物理的な側面については、通常どおり機能しているようだ。
このケンカに介入した理由は、まさにその機能を確認するためだった。
そして、もうひとつの目的は、とある仮説の確認をすることだ。その確認は、もうあと数十秒ほどしたら、わかるだろう・・
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