されど、世界は塗り替えられない
姫路 りしゅう
第一章
体育館で校長先生や体育教師、生徒会長のくだらない話を聞き、教室に戻り通知表を受け取って高校最後の夏休みが始まった。
通知表の数字を見て阿鼻叫喚するクラスメイトを横目に誠は教室を出る。喉元過ぎれば熱さも忘却の彼方、とよく言うが、きっと今阿鼻地獄や叫喚地獄に堕ちている彼らも新学期になるころにはその地獄の業火の温度を忘れるのだろう。
さて夏休み。
高校最後の夏休み。
「あ、せんぱい!探しましたよ」
声の主のほうを見ると、予想通り一つ下の女生徒、大見亜湖だった。
「どうした、夏休みになった喜びをクラスメイトと分かち合わないなんてクラスで浮いているのか?」
「せんぱい、そういうのブーメランっていうんですよ」
うるせえ、と呟いて誠は亜湖の隣に立った。
「帰るか」
「はい!駅までご一緒したいです」
学年ごとに靴箱の位置が違うので彼らは一旦別れ、靴を履き替え再び合流する。
「そういえばさっき俺のこと探していたみたいなこと言ってなかったか?」
「あ、そうですそうなんです、今朝成績返ってくるのが憂鬱過ぎて、寄り道して裏山の空き地にいったんですよ」
誠たちの通う高校は山に面しており、その山は裏山という愛称で生徒に親しまれている。その山の中腹よりやや上、七合目くらいのところに開けた空き地があるのだが、景観がいいわけでも何かを祭っているわけでもないので人の寄り付かないデッドスペースとなっていた。一応申し訳程度のベンチがあったり、大きなクスノキが生えていたりはするのだが。
亜湖は嫌なことや憂鬱なことがあるとそこに行く習性があった。
「そこですげーおもしろいものみたんですよ!」
「そうか、それはよかったな」
「ですよね!」
誠の目にラーメン屋の看板が映る。終業式の日は半日で解散なので昼食をまだとっていないのだ。一人だったら何の躊躇もなく入店していたが、今は気の置けない関係の後輩とはいえ女の子を連れている身だ。こってりしたスープで有名なその店に連れ込むのはどうなんだ、と逡巡する。
「いや詳細聞いてくださいよ!」
「そんなことより後輩よ、腹減らないか?」
「……そんなことより?」
「ああ、だってその“すげーおもしろいもの”の詳細は飯食いながら聞けるけど、その逆はできないからな」
「でも女子高生の後輩をあのラーメン屋に連れ込むのはどうかと思いますよ……」
「え、やっぱりそうなのか」
「まああたしは一人でよくあそこ行きますけど」
女子高生が一人でこってりラーメンを食いに行くな、萌えるだろうが。
「ねえせんぱい、先に裏山の“すげーおもしろいもの”見に行きませんか? 行きましょうよー」
亜湖が誠の提案を上塗りすることはなかなかないことだったので誠は少し戸惑った。
「別にいいけど。」
「やった! あ、そう。裏山までの道中の暇つぶしにゲームしませんか? 」
「ゲーム? 」
「はい。裏山の空き地であたしが見た“すげーおもしろいもの”が何かをあてるゲームです。せんぱいは頭がいいので……そうですね、“はい”か“いいえ”で答えられる質問を五つあたしに投げることができる、というのはどうでしょうか? 」
ルールは単純にして明快だった。それは生物ですか、やそれは人間より大きいですか、などという質問を投げ、選択肢を削っていくというゲーム。どうせ裏山まで特に話したいことがあるわけでもないので彼はそれに乗ることにした。
誠は口を開く前に人差し指を立てる。
「そのゲームには乗るけど、亜湖。」
「なんです? 質問を増やす交渉ですか? でも十個も質問できたらさすがに当たると思うんですよね。」
いいや、逆だよ。誠は口元を緩ませる。
「質問は一つでいい。」
「は?」
「亜湖が空き地で見たものは、気球か? 」
数分、あるいは数秒の時が経過した。
それにしても腹が減ったな。と誠が忘れていた感情を取り戻そうとしたあたりで亜湖が口を開く。
「どうして、どうしてわかったんですか? 」
「つまり正解ということでいいんだな」
「ええ、はい。正解です、あたしが見たものは気球です。飛ぶ前の。」
それを聞き満足そうに頷く誠。
「よかった、変に格好つけたから外したらどうしようかと思った」
「や、だからどうしてわかったのか教えてくださいよ」
「昼飯代でいいよ」
「あなたそれでもせんぱいか? 」
誠は人差し指を唇に当てた。彼は自分の考えを述べるとき、決まってこの姿勢をとる。
「それでは、言葉を成すといたしましょう」
「予想の起点は亜湖の言葉だ」
「あたしの言葉?」
「そう。亜湖はこう言ったな? “裏山ですげーおもしろいものをみた”と」
「そうですね、そういいました。それが? 」
「その言葉プラス、それを見るために今から裏山に行こうという提案から、見たものが動物ではないことがわかる。あとついでに動物と動物が争っていた、なんていう“行動”でないこともわかるな」
「それはそうですね、動くものだったら今から裏山には行きませんもんね」
「植物という可能性はゼロじゃないが、いまさら裏山で新しい植物を見つけたという可能性は低い。亜湖は毎日裏山に言っていた時期もあったからね」
「そうですか? 例えばサボテンとかが植木鉢ごと持ち込まれていたらあたしは“すげーおもしろいもの”って言いますよ」
サボテンごときですげーおもしろいって言えるその感性が羨ましいよ、という言葉を飲み込み誠は話を続ける。
「そう。だから次はサイズを考えてみたんだ」
「サイズ……? 」
「例えば亜湖が裏山の空き地でダイヤモンドのネックレスを見つけたとしたら、人になんて伝える? 」
「え、そうですね。裏山の空き地でネックレス見つけたよ、とかじゃないですか」
「本当にそうか? 『そのネックレスどこで見つけたの? 』に対する答えは『裏山の空き地』かもしれないが、ネックレスを見つけたことを他人に伝えるときはこういうと思うんだ。『裏山の空き地のベンチの上でネックレスを見つけた』とね。あるいはクスノキの近くで、とか。」
「……確かにものが小さいから空き地より詳細に伝えるかもしれませんね」
「だからこう予想した。クスノキのそば、だとかベンチの近く、のようにあらわせない大きさ、つまり空き地をある程度埋め尽くす大きさなんじゃないか、って。ここまで予想したらあとはもう一息だ。空き地をある程度埋める大きさなのにもかかわらず、俺の昼飯の誘いを蹴ってまで見に行こうとするもの。すなわち小屋などは除外できる。小屋などの建設物ならラーメンを食べてからでも十分見に行く時間があるからな。」
「でもせんぱい、それだと最序盤の推理だった、動物などの自ら動くものを除外したのが間違いってことになりません? 」
「なりません。現時点で、それそのものが自由意思を持ち動きまわる物と、固定され、そう簡単に動かすことのできないものが除外されたわけだ。すると例えばこういうものは残る。鎖につながれた人間、とかね。サイズの問題があるからもちろん除外したけど。」
というか鎖でつながれた人間が裏山にいたら考える間もなく秒で通報である。
それそのものは自由意志を持っておらず動くことはないが、第三者の介入によって動いてしまうもの。亜湖の見たものはこのジャンルである可能性が高いと誠は踏んだのだった。
「そこから現実的なものだけ考えると“乗り物”といったジャンルが浮かび上がってくると思わないか? そこまでいけばゴールだ。運んだ経路は二パターン。下か上、すなわち陸路か空路だな。空き地まで道を登って運んできたか、ヘリコプターなどが直接着陸したか、だ。まず後者だが、それほどの大きさのものが校舎の裏山に着陸していたらさすがにもっと騒ぎになっていると思ったんだ。だからその可能性は消して、陸路を運んだパターンのみ想定した。その中でもあの狭い登山道を運ぶのが難しそうな大きさの乗り物、例えば自動車や電車などと、自転車や人力車などの別に“すげー”面白くはない乗り物を除外して、最後にクイズ形式にして出題したということは、俺が知っているものに限定されるという思考を足すと―」
「気球、の線が濃厚ってことですか……」
「もちろん、昨晩遅くにヘリコプターが空路で運ばれていた場合は騒ぎになっていなくてもおかしくないしほかにもいろいろ突っ込みどころはあるが、この可能性が一番高いって踏んだからちょっと格好つけさせてもらった」
「……」
格好良かったですよ、と亜湖は誠には拾えない音量で呟いた。
「……」
もちろん誠の耳には届いていたので、二人の間に微妙な空気が流れた。
聞こえるように言ってくれていたらギャグパートとして処理するなりしていたのだが。
「おお、本当に気球だ、本物見たの初めてだ……」
間近で見る気球の迫力は本物で、誠は息をのんだ。
「ね、すげーおもしろいもの、だったでしょ」
興奮した亜湖の口からは敬語が削げ落ちている。
しばらく眺めていた二人だったが、いくら初めて見るものでも五分も眺めれば飽きが来る。ましてや飛行原理までしっかり知っている乗り物である。鑑賞時間が五分も持つわけがなかった。誠は退屈を感じ、そういえば今後輩女子と誰もいない空間に二人きりなんだな、などというくだらないことを考える。
「ねえ、せんぱい」
その考えを読んだかのように艶めかしい声で誠を呼ぶ亜湖。
「考えがあるんですけど」
「ああ、俺も同じことを考えていると思う」
「えへ、奇遇ですね、じゃあせーので言いませんか? 」
「いいよ」
せーの、と二人は息を合わせる。
「気球飛ばしませんか? 」
「いやらしいことしないか? 」
「……」
「……」
「あの、せんぱい。」
「……」
気まずそうに目を伏せる誠。
「さっき、あたしの何気ない一言からすげーおもしろいものの正体が気球だって答えにたどり着いたじゃないですか」
「……」
「今あたしが考えていることを当てるのって、明らかにその時よりも問題の難易度低いと思うんですけど! 言葉を成すといたしましょう、みたいなあれやってくださいよ! 格好いいと思ったあたしが馬鹿みたいじゃないですか」
「……うん」
「あとあたしせんぱいにならなにされてもいいとはいえ野外はちょっとまだ無理です」
「……うん? 」
「じゃあ高校生がホテルとかに行くのか! と言われましてもそんなお金はないのはもちろんわかっています。あ、これは別にホテル代は男が全部出せ、とかそういうことを言っているわけじゃないんですけどね? 」
なにかはじまった。
「そう、高校生がホテルに行くほどのお金をもっていないことは承知なんです。だから割り勘って言われても言われることには文句ないんですけど、あたしのお小遣いじゃたとえ半分だったとしても高校生の欲望を解消できるほどの回数は賄えないわけでして。でもだからって野外というものに踏み切る勇気もないわけですよ。要するに理想は親が出張とかで家に確定で人が来ないときに、っていうケースですよね。ね?せんぱい。」
「……」
「せんぱい? 」
「亜湖。」
誠は真剣な目で亜湖を見つめる。それに応えるかのように彼女は静かに目を閉じる。
「……」
「……亜湖、気球に乗ろう? 」
「せんぱいのチキン!臆病鶏!七面鳥!こんなに後輩がアプローチしているというのに」
「そういうのやめようぜ。俺は付き合ってない二人がそういうことを軽々しくするのは反対派なんだよ。」
「えー、まあ付き合うとかそういうのは面倒なんでじゃあいいです。気が向いたらそっち方面でも構ってくださいね」
「あいあい。ほら、気球乗るぞ」
亜湖を気球の方に導くが、彼女は突然足を止めて不安そうな顔をした。
「提案しておいていうのも絶対違いますけど、誰のかわからない気球に勝手に乗っていいんですかね。そもそもせんぱい、気球の乗り方わかるんですか? 」
「むしろわからないのか」
気球が空を飛ぶ仕組みは至極単純である。上の球の内部の空気を暖めているのだ。空気は暖めると膨張する。上の球に入っていた空気が暖められると一部が膨張により押し出され外に排出される。このあふれた分だけ気球の重さが軽くなるので空に浮かぶという仕組みなのだ。ちなみに降りたいときは空気を冷やすことで対応する。
「へぇ、言われてみれば簡単な仕組みですね、してせんぱい、暖めるための何かは持っているんですか? 」
「ん、ああ、ライターがある」
「あれ? せんぱい校則破ってタバコ吸ったりするような人種でしたっけ」
もしそうだとしたら校則どころか法律を破っていることになる。
「いや、今日はたまたまだよ。タバコは吸わないし、一応火気の持ち込みも校則で禁止だからな」
「……」
それを聞いて亜湖は何かに気が付いたような顔をした。
「もしかして、せんぱい」
心なしか誠を責めるような目つきをしている。それを見た誠はすべてを諦めたような顔をして両手を挙げた。
「……今朝の時点で空き地に気球があること確認済みだったんですね。だからさっきもあんな無茶な勝ち方ができたんだ。え? ただのインチキじゃないですか。インチキするし後輩にアプローチされてもなにもしないチキンだし、もういわばインチキンのせんぱいって生きている価値ありますか? え? 」
「……」
無言で俯く誠。
それを見て人差し指を立てる亜湖。
そのまま人差し指を自分の唇に当ててこう言った。
「それでは、言葉を成すといたしましょう」
「……」
「ねえせんぱい、なんだったんですかこれ。ねえねえせんぱい」
「……」
「しかも、自分のミスでインチキがばれるって……」
嘲るような笑みを浮かべ誠をあおる亜湖。その光景を人は地獄と呼んだ。
「ねえせんぱい、今どんな気持ちですか? 」
「……」
「言葉を……ふふ、成すと……」
「あーーーーーーーやめろ! やめて、やめてください!」
半泣きだった。
「……反省しましたか? 」
「はい。反省しています」
「反省すると、いたしますか? 」
「……」
泣きそうな顔をする誠。自分で格好いいと思っていたキメ台詞をパロディとして用いられることは高校三年生の男の子にとっては耐え難い屈辱であった。
「ま、反省したなら許しますよ。でもせんぱい。あたし本当にかっこいいと思っていたんですから、次はインチキだとしても最後まであたしを騙し切ってくださいね」
そう言い唇に当てていた人差し指を誠の唇に当て、気球に向かって駆け出した。
「せんぱい、ほら早くライター! ここですよね、ここが火つけるところですね? 」
唇に残った人差し指の感触が消えず呆然としている誠にむかって手招きする亜湖。それを見て我に返った誠は慌ててライターを片手に気球へと向かった。
「ここだな。ここに火をつければ飛ぶ」
「つけましょ!あたし空飛んでみたいです!」
「……多分犯罪だぞこれ」
「大丈夫ですよ、あたしたち未成年だし。興味本位で火をつけたって言えばそんな重罪にはならないでしょう。気球って別に免許がいる類のものでもないですよね」
学年トップの学力とはいえ一般の高校生が知る由もないが、気球を乗るのに免許は不要などということはなく、当然資格の類は当然必要である。熱気球操縦士技能証といういわゆるパイロット資格だ。
ただ、熱気球操縦士技能証のことは知らなかった誠でも、好奇心に支配された亜湖を止めるすべはないことは知っていた。説得を諦め―誠も正直空を飛んでみたかったのだ―ガスバーナーに火をつけた。
しばらくたち、気球がついに地面を飛び立とうとする。
その時。
「こらーーーーーーーーー!」
空き地の入り口から二人をとがめる声とともに一人の若い女性が走ってきた。
「やっべ」
誠と亜湖の声がシンクロする。
このあとの二人の行動がシンクロしなかったせいで誠は一週間の冒険に巻き込まれることとなった。
叱られ焦った誠は気球の火を消そうとした。テンパっているのでなぜか手で仰いでいる。
叱られ焦った亜湖は気球から降りた。テンパっているので膝を擦りむいた。
「え?」
お互いの行動の不一致に気付いた時にはもう遅かった。
ふわり、と浮かび上がる気球。
「せんぱい!」
「亜湖!」
伸ばした二人の手は、結ばれなかった。
「あーもう。なんで勝手に乗り込んじゃったの?」
「……え?」
地面から数メートル浮いた気球に、先ほどのお叱りの声の主の女性が乗っていた。きっと亜湖に手を伸ばしていた時に飛び乗っていたのだろう。
「ねえ、少年。少年の名前はなんていうの? 」
「え、あ、ああ。樋波です。樋波誠」
「そっか、誠くん。いい名前だね、言葉を成すと書いて誠。誠実の誠。うん、いい名前だ」
そのコメントに少しだけ赤面する誠。
「で、誠実の誠くん。お姉さんは少し戸惑っています」
「はい。」
「なんで乗ったの? 」
「……」
当然の疑問だった。
「乗りたかったからです」
あまりにも当然の疑問だったので誠も正直に答えた。
「そっか、乗りたかったか」
あまりにも正直な答えだったので彼女も納得した。
二人の間に無言の時間が流れる。正直、亜湖に手を伸ばした瞬間だったらそのまま気球から飛び降りれば無傷で地上に戻れるくらいの距離感だったが、この数秒のやり取りの間で男子高校生が飛び降りるのをためらう程度には高度が増していた。
「お姉さんはなんていうんですか? 」
無言の時間に耐えられなくなった誠が口を開く。客観的にみてもその女性は美しい見た目をしているので、気球という狭い空間にたった二人。健全な男子高校生が気まずさに耐えられるわけがなかった。
「なにが? 」
「あ、すいません、名前です。お姉さんの名前を教えていただきたいなって」
「あー、あたし? あたしはそら。気軽にそらさんって呼んでくれて構わないよ」
本当は苗字にさん付けをしたかった誠だったが、教えてもらえなかったので仕方がない。おとなしくそらさんと呼ぶことに決めた。
「まず、勝手に気球で空を飛ぼうとして本当にすいませんでした」
誠は素直に頭を下げた。
「……ま、いいよ、いいでしょう。高校生だもんね。気球が転がっていたら乗りたくなるよね。仕方ないよ。」
運ぶときに目立つと厄介だからという理由で夜中に空き地に運び入れ、とある事情で半日放置したことを少し悔いるそらだった。
「この気球はそらさんの、ということですけど、なんのために今飛んでいるんですか? 」
次の疑問を投げる誠。本当は何のために今空を飛んでいるんですか? と聞きたかった少年だったが、初対面の年上女性の名前を駄洒落に使ってしまう罪悪感に負けてしまった。
「うーん、そうだね……少年さ、今親御さんと連絡つく? 」
そらは少し考えこむような素振りを見せ、質問を投げかけた。
「え、あ、はい。つきますよ。財布とかは全部鞄なので空き地に置いてきちゃいましたが携帯だけはポケットに入れていたので。」
「そっか。もう一つ質問なんだけど、少年、今週何か外せない大切な予定ある? 」
「うーん。受験生なので勉強をするべきなんだとは思いますがそれ以外の予定はないですよ。そらさんは何かあるんですか? 」
「あたし? そうだね、一週間後テスト期間なんだよね。今朝も勉強していたの」
そのせいで部外者に気球を乗っ取られる羽目になったのだ。
「一週間後にテスト? 」
「そう。あたし大学生だから。国立の大学って七月の最終週から春学期の期末テストが始まるんだよね。それじゃあ最後の質問ね」
いままでの緩い笑みを消したそらの顔を見て誠も顔が引きしまる。
「あたしと一週間、旅行に行かない? 」
「いく‼」
可愛い年下にはつれない態度をとっていた誠も美人の年上には正直だった。心なしか精神年齢も幼くなっている。いつもの誠なら、一週間後テストなのに旅行に行って大丈夫なのかとそらに問うていただろう。ちなみにその答えは大丈夫、である。大学生のテスト勉強は当日の朝二時から一夜漬けという形ではじまるのだ。
「うん、わかった。じゃあ親御さんに勉強合宿に行くから一週間帰らないって連絡して。あとさっきの後輩? の女の子、あこちゃんにもなんかうまいこと言って心配させないように言える? 」
「りょうかいです!」
まず誠は光の速さで母親に電話をかける。何事もなく一週間家に帰らない了承を得た。普段の成績が優秀なため樋波母親はわりと放任主義なのである。そのあと彼は亜湖に電話をかけ、しばらく美人とフライトを楽しんでいるからせいぜい嫉妬しておけという旨の話をし、電話口で罵倒を受けた。
「許可下りました、行きましょう。どこに行くんですか? 」
「ん、異世界。」
「……は? 」
美人のお姉さんから突然放たれたライトノベルの世界のような語感に誠は戸惑う。異世界、だって?
「あ、あんまり耳馴染みない? 今の高校生は漫画とかアニメ見ないのかな。簡単に言うと、ここではない不思議な世界。」
「いや、大丈夫です、異世界はわかります……」
不慮の事故で死に、現代日本ではない異世界に転生して様々な出来事に巻き込まれる創作ならいくつか触れているのでその単語はむしろ馴染み深いものだった。誠が聞き返したのはその単語がおおよそそういうサブカルチャーに触れていなさそうなそらの口から飛び出たためである。
「あたしね、ちょっとした特殊能力があるんだ」
「とくしゅのうりょく?」
「高校生にわかりやすい単語で言い換えると、そうだね、超能力だとか異能って意味」
「……そうなんですか」
頷きながら誠は命の危険を感じ始めていた。
すでに二人の位置は高校の校舎が見下ろせる程度の高度まで上昇している。
落ちたらさすがに命はない。そんな上空に乗り合わせた女が少々電波気味なのである。命の危険を感じても仕方なかった。
「どんな異能か気にならない?」
「気にはなりますよ。本当に異能があるというのならね」
「あ、信用してくれないんだ。信用してくれないのなら信用してくれないで全然構わないんだけどさ。あたし今から自分の異能で見つけた異世界への扉から向こうの世界に行くんだ。要するにもうすぐあたしこの気球から消えるから、お姉さんのことを信じない誠くんはこの後一人でフライトすることになるんだけど、操縦とか頑張ってね」
早口で告げられたファンタジックな単語の羅列に目を回しながらも誠はそらの言いたいことをまとめた。
そらの持つ異能は異世界への扉を見つけるというもの。
その能力で、上空に異世界への扉を見つけたらしく、今からこの気球でそこへ向かい、扉から向こうの世界に行くとのこと。
そらが異世界に転移したら必然気球に残るのが誠一人となる。その場合一人で気球を操縦しなければならない。また、着陸した後のことも考えなくてはならない。気球から男子高校生が一人で降りてきたら、さすがに補導されるだろう。
「……信じます。」
「あ、信じてくれるの? それはありがたいけど、本当にこんな電波的な話信じてくれるの? なんで信じることにしたのかお姉さんに教えてみてよ」
誠は人差し指を唇に当てる。
「……それでは」
言葉を成すと致しましょう。恥ずかしかったので後半部分は心の中で告げた。
昔何かの小説で読んだ、推理を公開するパートの前にはキメ台詞を挟まなければならないという探偵の鉄則を律義に守り続けている誠だった。
「もしこのまま何事もなくフライトを終えてどこかに着陸するのなら、異世界に旅行に行く話なんて必要ないですよね。これが俺しか巻き込んでいないのなら退屈しのぎの雑談の延長ってことで納得できるんですけど、親や亜湖に電話をかけさせたのはそらさんです。もし気球を盗もうとした高校生をからかうつもりで異世界の話を振ったのだとしたら、俺の親を巻き込む理屈は微妙なところです。国立大学に通っている女性がそんなことするとは思えません」
「なるほどね。続けて」
「となると可能性は二つですね」
「そうだね、二つだ。二つ目の可能性をどうやって消したのか気になるな」
「慌てないで一つ一つ話させてください。一つ目が、今まで言った内容が本当に真実だという可能性。これなら本当に異世界に行くということで親や亜湖を巻き込んだことも頷けます。そして二つ目の可能性ですが、そらさんがこのまま飛び降りて自殺するという可能性です。異世界というのはもしかして死後の世界のことだったりしてね、って感じですかね」
「そうだね」
「この場合母親を巻き込んだ理由はもっと単純です。俺の旅行先が死後の世界、もしくは知らない土地の交番になるからです。でもまあ一緒に飛び降りたら、お互い死んでいるので親への連絡とかはもはやどうでもいいです。問題は、後者のそらさんだけ飛び降りて俺が生き残ってしまった場合。俺は今身分を証明できるものがなく、気球の操縦もできません。この気球がいつ、何県に流れ着くかは誰にも予想ができません。例えば夜中に山奥に不時着してしまったりしたらもといた市に帰れるのがいつになるかまるで予想がつきませんよね。その上、この気球から女性が飛び降り自殺をしています。身分証を持っていない自分が何日どこに拘束されるか誰もわかりません。だから親に帰らない連絡をいれさせた。こう考えると少し無理はありますが筋は通ります」
「少年はその可能性をどうやって消したんだい? 」
「これに関しては希望的観測が大きいですね。夜中に山奥に不時着したら俺も死んでしまう可能性も高いけど、関係ない人を命の危険に巻き込むような人とは思えない、思いたくない。みたいな。」
「それだけ? 自殺する女の人がそんな他人の都合なんて考えると思う? 」
「あとは、そらさん一週間後の予定がすっと出てきたじゃないですか。これから死ぬ人が一週間後のテストの話を憂鬱そうに語るかな? いやそんなことはないだろう、という考えでした。以上から、飛び降りる説を消し、与太話説も消えているので異世界説という突拍子もないそらさんの話を信じることにしました。」
一緒に異世界に行きましょう。そう告げる誠の目は虫取りに心を躍らせる少年のように輝いていた。
そう。もっともらしい理論でグダグダと話していたが、要するに誠は信じたいのだ。異世界という単語を。
「うん、いい感じだ。君ならあたしのパートナーとして戦ってくれそうだね。」
「戦う? 」
「こっちの話。じゃ、誠くん。あたしのことを全面的に信用してくれたって認識でいいのかな? 」
「はい!」
そ。と呟きそらは誠を抱きかかえた。心地いい香りと温かさに体を包まれ、困惑し、赤面する誠。
「じゃ、信じてね」
そしてそのまま―
―気球から飛び降りた。
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